2019年4月12日金曜日
奇跡の果実(24)おじいちゃんからのメッセージ
>2018年9月某日
時間も空間も超えて、おじいちゃんは私にメッセージを送ってきた。
「うっそーーー((((;゚Д゚)))))))、何で携帯割れた?えっ!?嘘でしょ?」
東京駅前の大丸デパート内の化粧室の個人専用鏡台のような鏡とイスのセットの前で私は呆然とした。
銀座ランチの予定はぶっ飛んだ。
イスの高さ、50センチないし60センチ程度の高さからゆっくりと携帯が手から滑り落ちて、オモテ面を下にして落下した。
本当にゆっくりと滑って落ちただけなのに、まさかすごいバリバリに画面が割れるなんて、想像を絶する状態になっていた。
これがおじいちゃんが時間も空間も超えて私に送ってきた最初の合図だった。
おじいちゃんはその日、私用で山に入った。
家の近くの山で、それこそ何十年と慣れ親しんできただろう山に、これまでと変わらない朝を迎えてこれまでと同じ流れで山に入ったと思う。
本人さえもその時を迎えるまで、まさか自分がそこで最期となるなんて思ってもいなかったと思う。
おじいちゃんは用事さえ終われば普通に家族の元に帰る気でいたし、お昼には家に戻って食べ慣れた味のお昼ごはんを食べる気でいたと思う。
人は死ぬ間際、25メートルプールの水を一瞬で沸騰させるぐらいのエネルギーを発するらしい。
その最期の時、それだけの熱量を出して伝えたいメッセージを伝えてくる、終末医療に関わっている女性からその話を聞いた。
ヒーラーのOさんいわく、人は死ぬと色んな制限が解除されて、物事が丸見えになるらしい。
それは何冊か読んだ本にも書いてあったから、私もその原理には納得している。
だから、おじいちゃんはあの時瞬時に私を選んでサインを送ってきたんだと思う。
自分の体がその後なかなか見つからないこともすでに知っていたのかどうかは知らない。
だけど、あの瞬間に想いを託すかのように私の携帯をわざと落としたのは、おじいちゃんだった。
>2019年1月7日
Oさんと知り合ってから初めて電話をした。
私たちは、直接顔を合わせたりLINEやメールをしたりしていても、ただの一度も電話をしたことがなかった。
色んな流れで電話をすることになったその日、おじいちゃんはずっとその瞬間を待ち侘びていたと思う。
おじいちゃんにとってもたった一度きりのチャンスだった。
Oさん、私と繋がって、そしておじいちゃんが一番繋がりたいご家族と繋がるための、最初で最後のチャンス。
もちろん、私とOさんはそんなことを予期してその電話をお互いに計画したわけじゃなかった。
もはや、Oさんと私、生きている人間側の頭で考えた計画なんかとっくに超えて、おじいちゃん側の願いが一番優先されたような感じになった。
その時に、私の携帯の謎も解けた。
おじいちゃんの方から、私に合図を送るため携帯をわざと滑らせて落としたことを教えてもらった。
11月にご家族のAさんに会った際、おじいちゃんが山で行方不明になった日とおおよその時間帯を聞いた時に、私の携帯も同じ日の同じような時間に割れてすごい偶然だなとは思った。
まさかそれがご本人から来たサインだなんて、Oさんが霊視でおじいちゃんの通訳をしてくれなかったら、私は一生知ることがなかった。
そんな風にしておじいちゃんの霊魂と繋がった後から、私はおじいちゃんから色んなことを教えてもらった。
>2019年4月11日
まさかおじいちゃんと出会ったことで、その後60もの記事をブログに延々とアップすることになるなんてその時は思ってもみなかった。
今回『おじいちゃんからのメッセージ』と題してこれから紹介する言葉は、実際はおじいちゃんが私に言葉として直接言ってきたことじゃない。
でもかと言って私の言葉とも違う。
おじいちゃんが登場したことで、明らかに私の生きている世界の磁場みたいなのが変わった。
これまでは見えなかった見えない部分の繋がりが見えたりとか、「真理」と呼べばいいんだろうか、生きていく上で大切なメッセージを色んな形で受け取るようになった。
2月2日に『奇跡の果実⑧覚醒』を書いてアップした辺りから、より一層メッセージ性の高い言葉が来るようになった。
その翌日から私は、「これ、おじいちゃんからのメッセージだな」と感じたものは、ノートにメモするようになった。
冒頭の写真はそのメモで、その時から「これは『奇跡の果実』の終わりにまとめて紹介しよう!」と決めていた。
一応説明すると、私はおじいちゃんからのメッセージと感じるものだけをそこに残した。
10冊近く常にノートを稼働させてる私からすると、メッセージの出所がそれぞれ違っていて、それぞれジャンル分けしてノートに書いている。
占星術系のメッセージ、心のケアのメッセージ、言葉の伝え方のメッセージ、現実の仕組みのメッセージ…etc、という具合に分けてるから、言葉では説明できないけれども、私の中では明確に「これはおじいちゃんから来た」という感覚を持ったものだけノートに残した。
おじいちゃんからのメッセージには難しい言葉は基本ないし、なんならど出発の言葉は「命」だから、私がこうして電子媒体を使って言葉に起こすと、何ともちゃっちい感じがしなくもない( ̄∀ ̄;)。
私が書くと途端に言葉のエネルギー値が下がる気がするのは気のせいだろうか…( ̄∀ ̄;)。
だから、活字体で第三者がおじいちゃんのメッセージを見た時のエネルギーは、もうどんな風なのかは想像がつかない。
だけどなるべく忠実に来たままのメッセージをここに書いて発信したいと考えている。
おじいちゃんの霊魂とやり取りしていた時はそれどころじゃなかったから聞けなかったけれど、おじいちゃんとしても私がそのまま書いて出すこと、そして出すことで1人でも多くのご縁のある人の目に触れることを望んでいると思う。
ここから先はおじいちゃんからのメッセージを紹介していく。
すでに『奇跡の果実』のどこかに書いたことも含まれている。
先に来たままのメッセージを一覧で紹介して、その後必要な部分は補足で説明をしようと考えてる。
もちろん、他の記事でもいつも書いていること同様、それぞれの読み手の方が読んだ時に感じた印象やメッセージが一番大切なメッセージだから、私の補足の部分は良いところや好きなところだけ持っていってもらえたらいいなぁと思っている。
この記事が、一応おじいちゃんが登場する最後の記事になる。
『奇跡の果実』としておじいちゃんが登場するのはこれが最後。
そして、もう1つだけ、次回本当の『奇跡の果実』の集大成として、私がこの一連のことを通じて見た色んな人たちの人生模様を書いて終わりにする。
おじいちゃんが1つだけおじいちゃんの言葉で伝えてくれたメッセージがある。
それはご家族向けのもので勝手には使えないから、その内容を表すものを次の回の文に取り入れて書こうと思っている。
書く順番は、おじいちゃんの話で始まったからおじいちゃんの話で終わりにするのが筋かなとも思ったけれども、あえておじいちゃんのメッセージを先にして、そして最後大トリに他の人たちの人生模様にしようと決めた。
それは、「終わる」「始まる」という順番を見た時に、おじいちゃんのことは終わりにする事で、そして今生きている人たちの物語はずっと続いているわけで、そちらが「始まる」に相応しい内容だと感じたから、だからその順番にした。
そして、他の人たちのストーリーこそ、この『奇跡の果実』をそっくりそのまま表したものだと感じるから、これこそが言葉通りの「奇跡という名の果実」として実った最後のものになっている。
しかも☆*:.。.٩((*⁰▿⁰*))۶.。.:*☆。
他の人のストーリーを使うために、今前にもらったLINE中の言葉を使ってもいいかどうかを聞いた友達がいて、返信が来たら、とても素敵な情報を分けてもらった!
今日4月11日は「天赦日」(てんしゃにち・てんしゃび)と呼ばれる、年に5回ないし6回しかない開運日で、私がささっと調べたところ、良いものが広がっていくすえひろがりなイメージを持った。
おじいちゃんのメッセージをアップする日がそういう良縁日みたいな日で、もうピッタリだなと思った。
おじいちゃんが伝えてくれたメッセージは、絶対に必要な人の元へ届くと思っているから、だからそれが日和的にもそういう良い流れの日だというのが本当に嬉しい。
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【最後に公開すること】ー2月11日
〜『奇跡の果実』に託した想い〜
☆綺麗事だけではなく、リアルな気持ちを書くこと
綺麗事だけでは済まされなかったこともたくさんある。
そうしたすべてが「生きる」ことそのものだから、綺麗事では済まされなかった出来事や気持ちも、できるだけ書くようにした。
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↑上に書いたのは、2月11日に突然思い立って携帯メモに入れたものだった。
『奇跡の果実』の中には、色んなことを書いている。
赤裸々すぎる部分もかなりあった。
だけど、私はあえてそういう綺麗事ではないものも含めた。
なぜなら、それこそが「生きる」ことで生きとし生けるものすべての共通項だと思ったから。
そして、私自身は、マイナスな出来事の時こそ、その人その人の生きる力や知恵が発揮されると思っている。
そもそも、「おじいちゃん」などとご本人了解の上でそのように呼んでいるけれども、この『奇跡の果実』のスタートは、「死」で始まっている。
これこそどうにも変えようのない不動の事実で、避けることのできない現実になっている。
それがスタートだからこそ、私は綺麗事ではなくリアルなことをそのまま書きたい、そう思った。
厭味嫌われるものに蓋をするのではなく、表に出して、きちんと陽の光に当てる、どんなことがあってもその裏側にはきちんと大切なメッセージがあるということをそのまま表現したい、そういう気持ちでずっと書いてた。
本当なら生きているうちに伝えられたらベストだっただろうメッセージを、こんな風に第三者を通じて出ることになってしまったけれども、それこそがおじいちゃんが望んでいることのような気がした。
おじいちゃんが私を選んだ理由は、何もOさんと家族を繋げられるのが私しかいないという理由だけではなかった気がする。
この隅から隅まで見てそこから言葉を紡いで発信する、その私の性格も見越しての私だったのかな…と今は思う。
私が体験して、それを言葉に起こして、そして次の誰かに引き継いでいく、その一連の流れ、人との繋がりを強く望まれていたのかな…と思う。
これは私からの勝手な願いだけど、これに縁あって読んでくれる方たちの心に、何か1つでもその言葉から連想するプラスのメッセージや私が気付いていない心に響くメッセージ、そういうものがふわっと心に浮かんだらいいなぁと思っている。
【おじいちゃんからのメッセージ・序章】
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・本来はメッセージは生きている時にしか伝えられないこと
・相手が良くなるもののみにフォーカスする
(相手を下げるものは渡さない)
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今回はとてもイレギュラーな形で、死者と生きている私とが繋がった。
本当だったら、死んでしまったら生きている人と言葉を交わすことはできない。
ただ今回は、おじいちゃんにとっても、私にとっても、この一連のことに関わったすべての人にとっても、この今の形が一番良いと判断されたからこうなってるだけで、本当ならありえない。
Oさんは、おじいちゃんの霊視から得た情報が間違っていたと知った後、霊視の手法そのものを変えてやり直した。
何度も何度もやり直して、それでも絶対変わらないものだけを、私がご家族に説明する前に教えてくれた。
Oさんが自分の霊視のやり方を変えた後、何度もおじいちゃんとコンタクトを取った際、実はおじいちゃん自身はすごい弱っていたと言っていた。
そして、おじいちゃんのエネルギーを読み取ると、【懇願・切望】していると、何度も何度も試みても、懇願・切望のエネルギーがとてつもなく強いと言われていた。
弱々しい中でも「お願いだから!」とOさんに必死で訴えていたとのこと。
おじいちゃんが頼れるのはもうOさんだけで、そしてそのOさんから私、私から家族へという手段しか繋がるためには残されていなくて、それに本気で賭けていることは私もわかった。
私は霊視が一切できないし、Oさんから聞いたことでしか判断できないけれどもOさんいわく、おじいちゃんは言うべきことを生前に言わなかったことをとても後悔していたようだった。
家族に伝えたい言葉を何も言わずして、ある日最後の日を突然迎えることになってしまった。
人は死に方も決めて生まれてくる、とはスピリチュアル界ではよく言われるけれど、そんな言葉で簡単には片付けられないと思う。
生きている時に、「今これを伝えないと後悔する」と思って誰かに何かを伝えることは、そんなに回数としては多くないと思う。
今書いてて気が付いた。
私がどうして「自分を知る」だの「ネガティブな自分と対話する」だの「自分と向き合う」だのと、とにかく自分、自分、自分、自分…と『奇跡の果実』の後半シリーズでは【自分】を連呼したのか。
これ全部おじいちゃんの話と繋がっていたことに今気付いた。
Oさんとおじいちゃんのことについて電話で打ち合わせをした何回目かの時に、こんな話があった。←たった今思い出した。
たった1つだけ、おじいちゃんは本当に大真面目に家族に向けたメッセージを言い放った。
それは【人との繋がり】について、おじいちゃんが説いた話だった。
おじいちゃんがご家族に向けて真剣に語った内容は、【人との繋がり】についてだった。
ただ細かい言葉に関しては、何でそんな言葉なのか、何でそんな説明なのかは、最初Oさんから聞いた時、Oさんもだし私もだけどわからなかった。
おじいちゃんのメッセージの意味が本当にわかったのは、ご家族のAさんに会った時だった。
Aさんが話してくれた内容とおじいちゃんが家族に向けて放ったメッセージが見事に重なった。
だからああいう言葉での【人との繋がり】を説明したんだと知った。
Oさんにもその後そのままAさんから聞いた話と私が感じたことを伝えた時に、聞いてみた。
おじいちゃんが家族向けに言ったメッセージは、おじいちゃん自身生きている時に気付いていたのかどうかを。
Oさんは霊視した後に言った。
「おじいちゃん、死んでからそれに気付いたみたいですね。生きている時はわからなかった、気付かなかったそうです」
そして、気付かないゆえに言葉にして伝えることもできなかったことをおじいちゃんはとても後悔していた。
今私の中で繋がったのはこうだった。
おじいちゃんがなぜそんな大切なメッセージに生前気付けなかったかと言うと、それは自分と向き合ってこなかった、そこに原因がある。
もちろん外から言われたことを忠実に守る社会的背景や時代背景、地域的な背景もあったと思う。
そして男たるや堂々としなくてはいけないとか、女々しいことを言うんじゃない!みたいな、感情や気持ちを押し殺す風潮の強い時代を生きた人でもあった。
だから、とても大切なことでありながら生前には気付くことができなかった、そんな風に想像している。
おじいちゃんが最後家族に宛てたメッセージは、これは自分を見て自分が大切にしたいものが何かを知らなければ、絶対に口にできない言葉だった。
死んだ今は人間社会のような枠組みがないからさらりと言えても、生前は当然社会の中で生きていたわけで、そうした言葉を言うどころか発想することさえももしかしたらなかったのかもしれない。
だから、おじいちゃんはそれを伝えないまま人生が終わってしまったことをとても悔いていた。
だから【生きているうちにしか伝えられない】というのは、一度じゃない、何度も何度も私のところにメッセージとしてやってきた。
そしてそこから派生した【自分を知る】一連のLessonの話だったんだと、今ようやく繋がった。
そして、ペンジュラムがとにかく毎回それをアップすることを絶対だと言ったその意味も今わかった。
ダラダラと自分のことばかりを赤裸々に書くのも、そしてそんなものを人様に読ませるのも正直どうかと思っていた。
だけど、ペンジュラムは絶対のYESしか出さなかったから、自分の話とおじいちゃん関連の話とがいつまで経っても私の中で繋がらなかった。
でも今気付いた。
Lessonなんかはほとんど私の話だったけれども、あれはおじいちゃんが私に伝えたかったメッセージでもあったんだなと。
そして私のところで終わらせず、こうしたブログという媒体を使ってでも外に発信したのは、おじいちゃんが1人でも多くの人に伝わったらいい、そういう想いに駆られていたんだと思う。
生きているうちにしか伝えられないよ、ということを伝えるためにあの手この手で書かれたLessonだったんだと今わかった。
そしてもう1つ
・相手が良くなるもののみにフォーカスする
(相手を下げるものは渡さない)
というのも、書いている時にずっと来ていたメッセージだった。
伝えるのは確かに自由かもしれないけれど、仮にこのブログを読んでもらおうと思ったら相手の時間をもらうことになる。
相手の命の時間をもらうわけだから、不特定な方たちとは言え、相手の命の時間には変わりない。
ブログだけに限った話ではないけれども、相手に何かを渡す時は、相手が良くなることにフォーカスすることの大切さも色んな形で知らされていた。
相手を落としたり陥れたりなんてのは言語道断で、自分側の意図を正しい方向に持つというのは、書いている間中何回も何回もやってきた。
もちろんそれはおじいちゃんの意図でもあると思う。
そうしたことを踏まえて、おじいちゃんからもたらされたメッセージをこれから紹介したい。
【おじいちゃんからのメッセージ】
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・命
・生きる
・自分の人生を生きなさい
悔いのないように生きなさい
・交歓ー喜びを交わらせること
・すべての経験が必要で起こっている
たとえ辛く悲しいものであっても
・どんなことにも学びがある
・物事が起きる理由
→大切なところを明らかにするため
・全てはつながっている
すべてのことは繋がり合っている
・自分のプロセスを大切にする
・何をしていても許される
・自分を変えるんじゃなくて自分を知っていくこと
・変わることではなく受け入れること
かっこ悪い自分も含めてそのままの自分をそのまんま丸ごと受け止めてしまう
・生きていたらどんな可能性もあること
可能性にかけて、自分のために選択肢を用意できるのが生きている者の特権
・心の優先順位
・泣く力も笑う力もある
・前進する自分の力
・弱点が武器になる
・自分の魅力的なパーツを使う
・色んな可能性に心を開くこと
=ジャッジしない、決めつけない心のあり方
・知らない=知らなくて良いこと
できない=別の何かができる、別の可能性を示している
・人に頼ること、1人で抱え込まないこと
・自分が信じたいものを信じる
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【命・生きる】
・命
・生きる
・自分の人生を生きなさい
悔いのないように生きなさい
・交歓ー喜びを交わらせること
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上の4つは、生きることのすべてを表していると感じる。
「命」と「生きる」に関しては、とても言葉では言い表せないから、各自の読み手の方がそれぞれに想像を膨らませて心の中で咀嚼してもらえたらいいなと思う。
ちなみに私の方に来たメッセージも
「命」
「生きる」
だけで、細かな説明はなかったから、後は自分で感じて考えろということなんだと解釈した。
下2つは、自分の命に対してできることを一言で言うと…、みたいな教えのように見える。
後悔なく自分の人生を生きること、そして生きる時に喜びを交わらせることの大切さを説かれたように感じる。
【人生で物事が起こる意味】
・すべての経験が必要で起こっている
たとえ辛く悲しいものであっても
・どんなことにも学びがある
・物事が起きる理由
→大切なところを明らかにするため
・全てはつながっている
すべてのことは繋がり合っている
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物事が起きる理由
→大切なところを明らかにするため
これが今回の一連のことを通じて、特に痛感したことだった。
特に起こって欲しくないこと、起こったことで自分や周りがすごく息苦しくなってしまうようなこと、そういう時こそ、物事が起こってしまうプラスの理由がわかると気持ちが少しは楽になれる。
例えば、おじいちゃんが山で行方不明になったりとか、探しても探しても見つからないこととか、そんなのは起こらない方がいいに決まってる。
おじいちゃんだって好きで行方不明になったわけではないし、私も好きこのんでペンジュラムでの捜索失敗になったわけじゃない。
でも、色んなことが思い通りではない中で、それでも起こることで明らかになることがある。
一言で言えば、そこに関わる人1人1人にとって学びがあるし、そこから何かを気付くことも大切なプロセスになる。
携帯の画面が割れた日=おじいちゃんが行方不明になった日から半年近くが経過した。
この間に見たすべてのことは1つ1つ繋がっていた。
全く関係のないこととか、全く関係のない人たちとか、そうしたものがきれいに繋がっていた。
それぞれの人がそれぞれの人生を生きるにあたって、普段は認識できる部分の繋がりしか見えない。
だけど、今回おじいちゃんが登場したことで、私は普段は水面下にある部分の繋がりを見ることができた。
『全てはつながっている、すべてのことは繋がり合っている』
それが本当の本当にわかった。
渦中は苦しくても辛くても、実はそれがプロセスとしては正解なんだと気付かされたことがたくさんあった。
すべてのことは繋がり合っている、の部分に関しては、次回最終回の『奇跡の果実』で表現する予定。
【自分のプロセス】
・自分のプロセスを大切にする
・何をしていても許される
・自分を変えるんじゃなくて自分を知っていくこと
・変わることではなく受け入れること
かっこ悪い自分も含めてそのままの自分をそのまんま丸ごと受け止めてしまう
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自分にとって都合の悪いことが起こるたびに、私なんかは「うわぁまた来た( ̄ཀ ̄;;)」とネガティブな方にすぐ気持ちは向かうし、何でこんなことが起こった?と色々何かに文句や不満を言いたくなる。
けれど、年と経験を重ねるにつれ、本当はどれもこれも必要で起こっていることなんだと知るようになってきた。
しかも、一見とっても悪そうに見えることでも、それが自分にとって必要があって起こっていることも徐々にわかるようになってきた。
一見悪そうでも、その後にもっと大切なものや人に出会う仕組みが少しずつわかってきた。
今回のおじいちゃんの件だって、もし私が11月におじいちゃんをペンジュラムで見つけて欲しいと頼まれて見つけ出せたとするなら、それが最善だったことは間違いない。
でも代わりに、この『奇跡の果実』に書いたことは1つも起こらなかったし、そして文章として紡がれることもなかったし、さらには色々起こった奇跡的なものは何一つ今ないことになっていた。
「何をしていても許される」というのは、本当の本当に何かしらやらかしても、それでも大丈夫で必要なことなんだとわかったから言えるようになった。
ふと今出てきた。
これは私のこととは違うけれど、私がペンジュラムでおじいちゃんを見つけられず、その後Oさんがおじいちゃんの霊魂に気付いて霊視をしたおかげで、全く関係のない第三者の方の人生に転機をもたらすことになった。
家族内の分裂によりお父さんの最期に遇えなかっただけではなく、孤独死した関係で遺体にも会えずじまいだった私の知らない女性が、Oさんと繋がれることになった。
そして、Oさんから直接お父さんの霊魂と繋がってもらい、生前に聞きたかったことを聞けたと、間に入って色々してくれた名古屋のSさんから聞いた。
(『奇跡の果実(16)空飛ぶ種』に詳細あり)
こんなことが起こると、私の失敗は必要なことのようにも見える。
なんなら、Oさんの霊視力がグレードアップする機会にも繋がっていった。
だから、失敗に見えることでも、失敗しなければ繋がらない別の大切なものたちもあるわけで、そういう流れが見え出すと、それも必要があって起こっていたように思う。
「失敗が許される」という言い方が良いのかわからないけれど、失敗がもっと大切なものを繋げることもあるということを本気で学んだ。
そして、今回の失敗をしたことで、私がもう1つ学んだのは、自分を変えることではなく自分を知ることと受け入れることだった。
これまでなら、失敗をすると「何か直さなきゃ」と思っていた。
だけど、直すことがもしあるとするなら、【「何か直さなきゃ」と思う私の考え方】の方だということ。
直せることと直せないことがある。
個人の能力や資質は、直すことじゃない。
自分にできることとできないこと、それぞれを謙虚に受け止めること、それが私がすることだと知った。
【生きていることの可能性】
・生きていたらどんな可能性もあること
可能性にかけて、自分のために選択肢を用意できるのが生きている者の特権
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これはこの1週間くらいで突然出てきた可能性だった。
チャンスが舞い込んだとかいうのではなく、自分の中で自分にチャンスを作ってもいいのかな…という心境の変化が生まれた。
先の可能性はわからないけれど、自分にこれまで禁じていたことを一度解除してみようかと計画した。
それは自分のために自分がしたいことなんだと今回わかった。
誰かや何かのためにするんじゃなくて、自分が自分のためにしたいこと。
可能性は限りなくゼロに近くても、私は自分にずっと禁止していたことを今回はやりたくなった。
そして、それって生きているからできることでもあると気付いた。
死んだらできなくなっちゃうから、結果は限りなくゼロのものでも、結果のためにやるというより、自分が欲しい結果を生み出すかもしれない可能性のために選択肢を自分に用意してそれを選んでもいいのかな…と思った。
それはずっとしてはいけないことだと思っていたから、避けていた。
でも、本当はそれは欲しいことなんだと気付いて、そのために何もしないって変だと思った。
ダメでもその時はまた自分をケアできるぐらいに自分を大切にする力は身についた。
自分のために、自分が望んでいることに近付くために、これまでとは違う選択をしても良いんだな…、そう思えるようになってきた。
これが『奇跡の果実』で得た、今のところ最後のメッセージになっている。
【生きているからこそできる】、それに気付かせてくれたのはおじいちゃんだった。
【自分の力ー自分力】
・心の優先順位
・泣く力も笑う力もある
・前進する自分の力
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↑今回の一連の流れで、自分の力に気付くことが多かった。
【心の優先順位】というのは、自分が何を、より他のことよりも大事にしているかだった。
例えば、何か人間関係で不具合があった時。
ケースバイケースだけど、謝罪が欲しいとは限らず、そっとしておいてくれるのが何よりも良いこともある。
そうした自分だけの心の優先順位にはっきりと気付くことが今回できた。
おじいちゃんの件で色々すったもんだしていた時にも、私には泣く力も笑う力も、そして前進しようとする自分の力も知った。
そうした自分に備わった力にも色々気付けた。
偉そうな言葉にならないといいなぁと思いながら書くと。
これは私だけが持っている力じゃなくて、生きている人みんなが持っている力だよ、みんなそれぞれが自分力あるよ、とおじいちゃんは言いたいのだと思う。
【弱点=魅力的なパーツ】
・弱点が武器になる
・自分の魅力的なパーツを使う
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吉本ばななさんのエッセイ『人生の旅をゆく
3』をポツポツと読み続けている。
17歳の頃のばななさんの心模様が描かれていた。
読みながら自分の中学時代を思い出した。
私は3年間を通じてクラスに居場所のない子だった。
最初からないわけではないけれど、気付くと仲間外れにされていて、そして他のグループに行こうとしても入れてもらえずそこでも外されて、そしていつの間にかどこにも入れず一人でぽつんといる、そんな風だった。
そこにプラスして男子たちからはバイキン扱いされ、席替えの度に私と席が隣りになってしまった男子はみんなすごい奇声を上げこの世の終わりみたいな顔をして、周りに大きな声で私と隣りになった不幸を触れ回っていた。
今思えばみんながみんなそうだったのではないと思うけれど、もしそこでみんなとは違う反応をすると今度は自分のところに矢が飛んでくる。
それを避けたくてそうせざるを得ない状況だった、そんな風に分析している。
女子たちもそこに便乗するようになった。
中学では言葉と態度の暴力が1日中つきまとっていて、授業の時間以外は針のむしろだった。
休み時間は1人で本を読み、給食の時間は仲間外れにされたグループのはじっこに寄せてもらって食べ、食べても何を食べたかなんて全く記憶がなく、早くその時間が終わることを祈り、掃除の時間は静かに掃除をしていた。
授業でもグループで取り組むタイプのものがあると本当に困った。
どこに入ったらいいのかいつも分からなかった。
どこかには入っていたけれど、どうやって入れたのか、先生が配慮してくれたのか、そうした細かいことは全部忘れた。
卒業前にお互いにカードを書き合うことが当時は流行っていた。
何人かの女の子たちから「いじめてごめんね」と書かれてきた。
居場所もなく、誰かといなきゃいけないと頑なに信じていた私は自分の人間的な力、それは友達を作るとか、グループになんとなく入って日常を過ごすとか、そうした色々なことができなさすぎて、自分はどうしたら普通の生活が送れるんだろう…と真面目に考えた。
それがどういうわけか高校からは人間関係が劇的に良くなっていった。
そして、年齢を重ねれば重ねるほど、私は本当の人間関係にどんどん恵まれるようになった。
ただ、癖なんだろうなぁと思うけれど、私はやたらと人間観察をする。
それは、1対1の時よりも、ある一定数の人間がいる中でそれぞれの人たちの居場所や振る舞い方を見ている。
自分に余裕と好意がある時は、ちょっと気になる人(=居場所がなさそうにしている人)がいると老若男女問わず話しかけたりすることもある。
昔の私みたいな人がいると気になってしまう。
そして、そういう人たちの大半は人の良い人が多い。
たまに悪い空気を出していてぽつねんとしている人がいるけれど、私も苦手なら無視する。
この不思議な観察力は子どもの頃からの長い現場訓練により、異常なほどに力が伸びた。
おかげで、今の自分に役立っている。
↑上の部分は、1月28日に書いた。
まだ『奇跡の果実』を書いて数日目の頃。
その後に【自分の魅力的なパーツを使う】という言葉に出会った。
今でもハマっているカードリーディングの方の動画の中で出てきた言葉だった。
(※『奇跡の果実』シリーズが終わったら、このカードリーダーの方はきちんと記事にして紹介する計画を立ててる)
弱点=武器
弱点=魅力的なパーツ
になる。
今だって発展途上な自分はいるし、箸にも棒にもかからないような決定的なダメポイントも探せばいくらでもある。
でもそれは武器にもなれば魅力的なパーツにもなる。
弱点は見方を変えれば、この上ない長所や魅力的なパーツに変わる。
たとえば、私はさりげなくこの『奇跡の果実』の後半に入ってからの1つ1つの文章の長さをとても気にしていた。
(シリーズ終わったら、本当に自分が書きたい長さに戻す!!!)
自分でも書いてて超長すぎると思っているし、もう少しなんとか工夫できないのかとも思っている。
これもある視点からすれば、「長すぎて読みにくい」文章になる。
だけど、別の視点に立つと、これだけ長い文章を書けるだけの集中力があるということ!!!←超絶ポジティブ( ̄∀ ̄;)。
文章をきれいにまとめてそして心に届く言葉を紡げる人たちが私は羨ましくて仕方ない。
そんな文章に触れるたびに「自分の文章の長さといい、まとまりの無さといい…( ̄ー ̄ ;)」とよく思う。
それはそれとして、もしかしたら他の人から見たら「あんなに長い文章を書けるだなんて天才的!」と思われてるかもしれない( ̄∀ ̄;)。
それとか「よくそんなに書くネタがあるね!」とか思われてるかもしれないし。
おかげさまでネタだけは尽きることなくここまで来れた。
色んなことを観察する癖のおかげで、ネタだけは事欠くことがない。
それも魅力的なパーツにしたらいい!
でも本当に実際のところ、この飽くなき観察力が功を奏して、ここまでのネタやメッセージをキャッチしたわけだから、やっぱり「魅力的なパーツ」で間違いないv( ̄∀ ̄)v。
【色メガネを外す】
・色んな可能性に心を開くこと
=ジャッジしない、決めつけない心のあり方
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私は今回のことが起こるまで、自分が人生の中で死者の魂と繋がるなんて一度も考えたことがなかった。
そういうことをする人がいるのは知っていたけれども、自分の身にも起こるとは思っていなかった。
私がそのことに対してすっと入っていけたのは、周りの人たちのおかげはもちろんだけど、自分自身も自分の固定概念を外すことをたくさんしたおかげだと思っている。
死者の魂や死者とのコミュニケーションに関して、確固とした固定概念がなかったのと、そうしたこともあってもおかしくないよね?と思う心とがあったから、私は何の疑いもなく今回おじいちゃんとやりとりできた。
死者の魂とコミュニケーションを取るなんてあまりにも突飛な発想だから、そういうぶっ飛んだレベルではなく、もっと一般的なレベルの誰にもありそうな固定概念を外した例を1つ紹介したい。
私は子どもの頃から「面倒くさい」が口癖のようなところがあって、面倒くさいからやらないなんてことはこれまでもたくさんあった。
でも「面倒くさい」は結構な割合で地雷ワードになって周りのひんしゅくを買うことがあるから、私の中では心で思っても言わないように気をつけてきた。
「面倒くさい」ってあまり言ってはいけない言葉だと思ったのと、実際にもし周りに「面倒くさい」が口癖の人がいるとたしかに私もテンションが下がったり気分が悪くなったりもするから、長いこと「面倒くさい=悪いイメージ」があった。
面倒くさいって言うのはもちろん、面倒くさいと思って何かをしないのは良くないのかもしれない…なんて思っていた。
もし同じ「やらない」でも「気が乗らないからやらない」は良くても、「面倒くさいからやらない」は理由としてダメな感じがしていた。
そうした背景には、子どもの頃「面倒くさい」と言ってやらないでいると、母から注意されたり叱られたりすることが多々あったことも関係している。
ちなみに20代の頃、職場内でポロッと口から出てしまって、それで難色を示されたこともあった記憶がある 苦笑。
それが変わり出したのは30代に入ってからだった。
面倒くさいと思って手を付けずにいたとか、すぐ動かずにいたおかげで、「面倒くさい」が色んなストッパーになって余計なことをせずに済んだ経験が色々出てきた。
それで危険や余計なトラブルを回避することになっていたことも多々あった。
「あれ?面倒くさいって悪いことじゃなくて、むしろ「面倒くさい」が何かしらの危険センサーのような役割を果たしてくれてる!?」と思うようになった。
そういう経験が増えると、長いこと固定概念としてあった「面倒くさい=悪いもの」がくつがえされた。
それは私を危険から守ってくれる大切な感情なんだという認識に変わっていった。
そんな風にして、他にも様々な固定概念を外しまくった先に、おじいちゃんの霊魂が登場してきた。
昔のアンチスピチュアルな私では当然太刀打ちなどできなかったし、「そんなバカなことあるわけない」と一蹴して終わっていたと思う。
良い悪いの二択で判断したり、これはこういうもの!と決めつけたりすると、途端に世界が狭くなって、色んな可能性に対しても心を閉ざしてしまう可能性が高い。
おじいちゃんが私の人生に登場したことで、色々な可能性に対して心を開くことの大切さと豊かさを知った。
どんなこともありだと思う姿勢でいるのか、そういうことはないと思う姿勢でいるのかで、見える景色も生きる世界も変わってくる。
ジャッジしない・決めつけない心のあり方が、色んな可能性に自分を導いてくれることにもおじいちゃんから気付かせてもらった。
【自分の才能】
・知らない=知らなくて良いこと
できない=別の何かができる、別の可能性を示している
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才能に関しては、『奇跡の果実』の
・Lesson 12『才能・資質に気付くプロセス』
・Lesson 13『才能や資質の特徴』
に詳細を書いたから、ここでは説明を省略。
一言付け足すなら、おじいちゃんが登場してくれたことがきっかけで、私はもっともっと自分の才能や資質に気付けるようになった。
だから、おじいちゃんとの出会いはそういう意味でも大切だったと感じている。
【頼る力】
・人に頼ること、1人で抱え込まないこと
・できないことは情でやらず、できる人に繋げるのが自分の役目
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上の才能や資質の話とも連動するけれど、何でもかんでも自分1人で抱え込むのが良いわけじゃないことも学んだ。
霊視のできない私がおじいちゃんと言葉を交わすのは絶対にできないわけで、そういうものはさっさとできる人を頼ってお願いすることが正解。
自分はできなくて良くて、でも代わりにできないって言えることや、できないからこそできる人に頼ることが大事なんだと気付いた。
【自分が信じたいものを信じる】
自分が好きなもの、信じたいものを信じて大丈夫ということ。
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色々書いたけれど、このブログだって大ざっぱに言えば、私が信じているものを書いているに過ぎない。
それが本当に合っているのかとか正しいのかなんてのはわからない。
だけど、少なくとも、自分が好きなもの、自分が信じたいものを信じて大丈夫だということがわかった。
私はおじいちゃんの霊魂が私の部屋にいて気付いてくれるまで待っていたことも信じているし、おじいちゃんが他の誰でもない私を選んでくれた気持ちも信じている。
自分が信じているものをそのまま素直に受け取っていいんだ、とおじいちゃんとのことを
通じて感覚として得た。
だから、ここまで書いたことに関しても、これを読んでくれてる方の感覚で好きなところや共感できるところを持っていってもらったり、反対に「それおかしくない?」みたいなのがあればそのおかしくない?という感覚が何より大事だと私は思っている。
〜最後に〜
オギャーとそれぞれの人がそれぞれのタイミングで生まれる。
真っ新で真っ裸の状態で生まれる。
それから色んな服を着るように、色んな価値観や趣味嗜好を身につけて大きくなっていく。
そんな人たちがある日何かの繋がりで出会う。
昨日までは全くの他人同士だったのに、その日を境に知り合いになる。
価値観も趣味嗜好もそれまで歩んできた道も全く違うのに、出会う。
私は「出会い」には2種類あると思っている。
1つは物理的に「出会う」ということ。
それは職場が一緒になったり、クラスが一緒になったり、何かの会に一緒に居合わせたり…というレベル。
もう1つは「心と心が『出会う』」ということ。
色んな場所、色んな場面で、多かれ少なかれ人と出会う。
だけど、その中で本当に縁が出てくる人はごく一部の人。
縁が出てくる人と出てこない人との差は、心と心が出会ったかどうかだと私は思う。
それが気が合うということだったり愛し合うということだったりすると思う。
親子や兄弟みたいな宿命的な関係はさておいて、赤の他人となれば、心と心が通わなければ関係は発展しない。
たとえそれが一生に一度しか出会えない相手でも、その時に強烈に心が惹きつけられれば、それは心が出会ったと呼んでいいと思う。
おじいちゃんと私は、おじいちゃんが生きていた時には全く知らない赤の他人同士だった
それがひょんなことから繋がって(ひょんなことと言うより、宿命的な繋がりに近い気が最近はしている)、こうして今ここに至っている。
何せ2019年、私が新しく出会った人第一号がおじいちゃんだからv( ̄∀ ̄)v。
そして今のところ、新たに出会った人は他にいない。
残念ながら、私はおじいちゃんと言葉を交わす術を持っていないから、今後よほどの必要に迫られない限り、おじいちゃんと言葉を交わすことはないと思う。
ここに書いたことが、おじいちゃんからもらったメッセージのすべてで、そして多分ラストメッセージだと思う。
すごく特別な体験をさせてもらったし、こんなこと二度とは人生で起こらないと思う。(色々ヘビーだから、多発的に起こられても困る…苦笑)
でもこんな特殊なケースは本当にやっぱり特殊で、おじいちゃんが本当に伝えてくれた1番のことはこっちかな…と思うのは。
【生きているうちにしか大切な人には何かを伝えられない】
【どんなに伝えたいメッセージがあっても、生きている間しかお互いに言葉を交わせない】
これに尽きると思う。
命があって生きられる。
生きられるから大切な人に何かを伝えられる。
何かを伝えられるから相手にも何かが伝わる(かもしれない)。
本物の【人との繋がり】を作っていけよ、それが何より大事だからな、っておじいちゃんが今も言ってる気がする。
そして照れながら「愛だよ、愛!」って付け加えてる気がする。
2019年1月7日。
おじいちゃんはずっと気付いてもらえるまで私の名前を呼び続けた。
「ふみこ、ふみこ」と。
そして私の名前を呼ぶ度に、
「ふみこ愛してる」と。
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