2018年9月20日木曜日

携帯電話の話

母の妹であるおばさんを訪ねた時の話。

おばさんは携帯電話を持っていない。

今シニア層でさえも持っている中で、持たないことを選択している。

理に適った話で、おばさんは学校給食のパートさんを長年しているけれど、普段携帯電話は要らない。

用事は全て家電(いえでん)で事足りる。

仕事の緊急連絡網があれば、家電で何とかなる。

天災や事故で遅刻したのは、過去に一度、市の研修の時に電車がストップした時だけと言っていた。

同じ電車に同じ研修に行く人を見つけて、その人が電話を入れてたから、主催者も少なくとも電車ストップしてるのはわかるだろうと予想して、実際に連絡を入れる手段がなくてもその時も何とかなった、と話してた。

携帯電話を所持してるのが当たり前の今、持たない選択をして、持たなくても大丈夫と本当に知っているって凄いな!と思った。

ところが、みんながみんなそんな考え方とはいかないから、職場の中には携帯電話を持っていないことを悪く言う人もいるらしい。

毎回適当に話して適当に交わしてるらしいけれど、それ聞いて、携帯電話がないのが「悪」ってどんな世界なのかと思った。

確かに連絡取らなければいけない時は多少の不便はある。

だけど、毎日定時に仕事に来て決まった仕事を決まった場所でこなしてそして帰るおばさんの仕事スタイルに、緊急を要することはほとんどない。

あの言い方だと、多分一度も緊急連絡網さえ必要はなかったんだと思う。

今余命1年を切ったとされる義理のお父さんが施設に最近入所したけれど、そのことに関しても息子である旦那さんが基本的な窓口になってるから、そこまで困ってはないらしい。

でも旦那さんの携帯が繋がらないと家にかかってくるから、そういう時は今度おばさんが旦那さんの携帯の留守電に伝言を残して、それでうまくやってるとのこと。

余計な煩わしさから解放されてる感じさえ感じて、私もむしろそうできるならそうしたいぐらいだった。

逆に今回聞かれた。

私の携帯、iPhoneに留守電機能が付いているかどうかを。

旦那さんであるおじさんが、今のガラケーからスマホにそろそろ機種変をするらしい。

スマホにした時、留守電機能が付いているのかを聞かれた。

私は自分の携帯電話でそもそも留守電が必要なことがないから、機能としてあるのかどうかもわからないこと、もし必要になればドコモとサービス契約できる気がするとは言った。

お義父さんの施設入所によって、若干電話の緊急度が上がったから、夫婦でそこを検討してるらしかった。

本当に必要なことに対して必要なやり方をシンプルに採用しているのが、私から見てその潔さが羨ましくもあった。

20代の頃、おばさんの家には年に1〜2回泊まらせてもらっていた。

最近は知らないけれども、当時おばさんは年に1回は結婚式に呼ばれていた。

学校関係者がどこまで人を招待するのかは知らないけれど、給食のパートであるおばさんは何だかんだと若い先生たちと仲良しで、その先生たち数人から招待を受けていた。

当時も携帯電話なんて持っていなかったけれども、周りの人たちと上手くやっていたんだと思う。

ちなみにこのおばさんは本当に凄くて、今母とおばさんの実家には、去年の秋に亡くなった長兄であるお兄さんの奥さんしか住んでいない。

田舎の築100年越えの大きな家に、目がほとんど見えなくなってしまったおばさんが1人で住んでいる。

50〜60人の弔問客を収容できるほどの家の大きさに1人で住んでいるおばさん。

目が見えなくても掃除もきちんとしているし、家で自分のことをする分には何ともないらしい。

家の周りの畑仕事も毎日精を出しているから凄い。

母の妹である方のおばさんは、お義姉さんを月に1回ぐらいのペースで訪ねている。

ふらっと遊びに行って、お義姉さんの作ったご飯を一緒に食べたり、お茶を飲んだりしてくるらしい。

ちなみにうちの母親は距離が遠いこともあってそんなことはしない。

仮に同じぐらいの距離でもそんな風にはできなかったと私は勝手に思ってる。

お義姉さんを訪ねる、それも長兄が生きていた頃と変わらずに訪ねるというのは凄い。

しかもおばさんは義務でやっていない。

自分の好きでやっている。

だからお義姉さんもすんなりと受け入れているんだと思う。

おばさんを見て凄いなと感じる。

人のためとか考える前に動ける人だと感じる。

自分の姪っ子たち(私にしたらいとこたち)の子どもの面倒も頼まれればいつも快く引き受けてる。

いとこの子どもの1人は最重度の障害を持っている。

私も3、4回会ったけれど、面倒を見るのは少しだけ技術がいる。

ごはんを食べさせたり身の回りの世話をするのにおばさんは慣れていて、すごくスムーズにやっていた。

なんなら、おばさん独自のやり方さえも確立していた。

私もできないわけじゃないけれど、もたついていて、その子も私の不慣れ加減にやりにくさを覚えているだろうなぁというのは否めない。

私はおばさんの外の顔を見てなくて内に見せる顔しか知らないけれど、携帯電話を持ってなくても人としてものすごく真っ当なことをごく自然にしている人だと思う。

一族全員、すごく真面目な性格だから、連絡をしなければいけない時は絶対的にきちんとしている。

ないならないで、やれる方法をきちんと確立しているし、そしてそんな機械ではない本物の繋がりの人間関係をさらりと作っている。

おばさんの不携帯の携帯電話の話や、お義姉さんとの交流について聞くためにおばさんを訪ねたわけではなかったけれど、結果的にそういう話をおばさんから聞けた。

今回の携帯電話の話が人生の中でした携帯電話の話の中で一番良かった。

私が携帯電話デビューしたのは社会人になってからだった。

日本に帰ってきた時に、みんなが持って当たり前みたいになっていて、それで私も契約した。

だけどそもそも電化製品にも携帯電話にも興味のなかった私は、当時から携帯電話の機能や新機種なんかの話に全くついていけなかった。

友達はそういう話をしない人たちばっかりだったから助かっていたけれど、世間はそうでもなくて、私はそれらの話の何が面白いのか全く理解できなかった。

iPhoneにした時も同様のことが起きたけれど、その時も私はiPhoneに興味がなくて、全く周りの人たちと話が合わなくて、必殺適当に相槌を打つ技でしのいでた。

そんな私が、まさかこのタイミングで、しかも所持率がものすごく上がったこの時代になってから、携帯電話を持たない生活の話を聞けたのは、めちゃくちゃラッキーだった。

そして、機能やら新作やら全く理解できずに毎回その手の話はつまんないと思っていた私が、初めて携帯電話の話に引き込まれた。

2018年9月19日水曜日

小さな真実の声

今しか書けない、そう思ってこれから書く。

これから書くことは、勢いがないと書けない。

考え出したら、多分私は書かなくなる。

だから、書く気持ちがあるうちに書いてしまう。



小さな実験もそうだし、これまでの色んな振り返りもそうだけれど、多分勘違いじゃない本当のことに気付いた。

小さな実験はとにかく振り返りタイムがふんだんにある。

振り返りは楽しいからいくらでもやれる。

その無限に広がる振り返りの中で、気付いたこと。

うっすらと気付いてはいたけれど、これまでは怖くて全否定の方に力を注いでた。

いや、だって、今の状況だけ見たら、否定する方が普通だし、否定してる方が怖さはじめ色んな負のものに向き合わなくて済むから、そういうことにしておいた方がいい。

だけど、実は違ってたのかな…と。

海見ながらメモもした。

ある夏の日のこと、あれは気遣いではなくて、「気にかけてもらってた」んじゃないかと思った。

気遣いと気にかけてもらうことは違う。

気遣いは、気配りとか配慮とかそういう言葉のニュアンスに近い。

どちらかと言えば、意図して気を配るみたいな感じ。

それに対して「気にかける」は、自然と気が向いてしまう、自分でも気付いたら気になってた、みたいな。

これまではその時のことを「気遣い」的な行為だと思ってた。

でも、よくよく考えると、気にかけてたから出てきた行為(こうい)の方なのかもしれないと思った。

行為イコール好意なら尚のこと嬉しいけれど。

不器用呼ばわりして非常に失礼だとは思うけれど、でもどう見てもキレッキレの超気がきく男子みたいなことは基本しない人だと思う。

この話をSさんとした時、Sさんもそう言えば言ってたなぁと思い出した。

「えー⁉︎そんなことするタイプに見えない!そんな気の利く方じゃないと思うけれど」

私も今さら「不器用」を連呼してたら、その不器用な人がしたには崖から飛び降りるぐらいのすごい勇気が必要な行為だったんじゃないかと思った。

そして、気を使ってもらったと言うよりも、気にかけてもらってたんじゃないかな…と今さらだけど思った。

実はそう思う方が他のことたちにも説明がついたりする。

これもたまたまかもだし、むしろそれが個人のしっくり感ゆえのことでしかないかもしれないけれど。

ある時、その人がいなかった時、私は他の人に呼ばれて、振り返ってその呼んだ人を見た時があった。

何が驚いたって、私がいつも作業する場所からその人の席というのは、何1つ視界を遮るものがなくて丸見えだったこと。

丸見えというのは、その人の席から私の作業席が丸見えだったということ。

私はその人にいつも背中を向けて座るからその時まで全然気付かなかったけれど、もしかして普通に丸見えだった⁉︎と思ったら急に恥ずかしくなった。

っていうか、「見えてるかも」とか思ってること自体も恥ずかしかった。

その時からかその前からかは忘れたけれど、その人のパソコンのスクリーンの高さがやたらと低いのは知ってた。

多分マックスで低くしてたと思う。

スクリーンの高さは個人の自由だからそんなこと私がとやかく思うこともなかったけれど、その低さがいつも気になって気になって仕方なかった。

その人と向かい合う形でいかないと、取りにいけないものや置きにいけないものがかなりあった。

そうした用事を足す時、私はいつもどこを見て歩いていいのかわからなかった。

真っ正面を見て歩けばいいだけのことかもしれなかったけれど、間違ってうっかり目とか合ったらバレちゃうと思って、私の目はいつもあちこち違うところを見ていた。

本心は真っ直ぐ前を向いてその人のことをガッツリと見たかったけれど、それに気付かれたらやりにくくなると思って、興味なんかありませんというフリをずっとしていた。

そのスクリーンの低さのおかげで、多分その人側からはスクリーンの向こう側の景色も普通に見えたと思う。

だからそのスクリーンの向こう側を私が歩いていれば、そのままスクリーン越しに私が見えててもおかしくないと思う。

あと、単純に恥ずかしかったのもある。

近寄りたいくせして、恥ずかしくて、いつも重なりそうな時もわざとタイミングをずらして近くにならないようにしていた。

結局のところ、何にもなってないのが今の現実だけれど、もしかして気にかけてもらえてた方が実は真実だったのかもしれないなぁ…と最近ちょいちょい思うようになった。

その視点から物事を眺めた方が、色々辻褄が合うこともある。

「たまたま」とするには、あまりにも出来過ぎたことが色々あった。

色々の9割9分は人知を超えたところで勝手に起こる感じだった。

そして、それとは別に、その人のとてもわかりにくい表現も実は違う意味だったんじゃないのかな…と思うようになった。

気を使ったんじゃなくて、気にかけてたのかもしれない…というような感じで。

もちろんそんなのは私の想像の域でしかないけれども、そうやって考える方が自然というか、無理な感じや抵抗して事実が捻じ曲がった感じがなくなる。

本当の意図は知らない。

けれど、私の苗字とその人の趣味とが重なった偶然があるからと言って、仕事中に個人のラインをするなんて、本当にそれだけのことだったの?と思ってしまう。

何の関係もない人のことなら、もう私の世界からその人と重なる何かを日々目の当たりにするなんて、あり得ないと思う。

目の前からいなくなった後も、1年間絶え間なく色んなことを目にしてきた。

ここ最近また増えてる。

ふと、もしかしたら、私側も何かしらその人にまつわるものを見かけたり耳にしたりするように、その人側にも似たような現象が起きてるんじゃないかと思うようにもなった。

だいたいそもそも、ほぼ毎日たまたまその人の名前とかその人の何かと関係しているものを見る、それが1年間ほぼほぼ毎日起こるというのは、たまたまとは言えない気がする。

私が意図したり見つけようとしてそうなってるわけじゃない。

自然とそういうものが勝手に運ばれてくる。

さすがにここまでくると「気のせい」と思う方がかなり無理がある。

想像もしていないことが水面下で動いてる、と考える方が自然に感じたりもする。

そしてそれが私側の方だけに起こってるのではなく、相手側にも何かしら反応が出ているのかもしれない。

そんなの確かめようがないけれども、いつか本当に確認できる日が来るのなら、それは確認したい。

色々書いたけれども、私はあの特別な行為は「気遣い」ではなく「気にかけてもらってた」かもしれないと思った時、嬉しくなった。

それを書こうと思ったのに、多分今文章が半分寝ている。

元々勢いで書こうとしてたものだから、このままアップしてしまおう。

明日の朝起きた後、変な表現があったらその時に直せばいい。

10年後の方が似合う服

海見ながら、カモメの鳴き声聞きながら、時々波音に耳を澄ませながら、ゆっくりのんびりと時間を過ごしている。

今日快晴と知り、急遽海に行くことにした。

私は前回?前々回?に海が見えて人のいない絶好の日陰スポットを見つけたから、今日もそこを目指した。

ノート、日記帳、本、アイスコーヒー、おやつ、寒くなった時用のカーディガンを持って出かけた。

カーディガン大活躍で、今着ながらこれを書いてる。

本当に自由気ままに過ごしている。


家で支度をしていた時、ジーパンを洗ったことに気付いた。

ジーパンがないから、ロングスカートを履くことにした。

夏色のスカートは、凪風に吹かれてふわふわしている。

履いてきて良かった。

ちなみに今日一番の萌えポイントは上に着ている服の方だった。

ジーパンからスカートに変更したのはいいけれど、上に着る適当な服がないことに気付いた。

別のTシャツを着ていこうとしたけれど、色合いがおかしくてやめた。

そんな時、ふと一枚のシャツと目が合った。

10年前、29歳の時にメキシコで一目惚れして買ってきた、刺繍の入ったシャツだった。

スカートともよく合っていて、それにしようと決めた。

そのシャツは一点物で、どうやら洋裁作家さんが自分でデザインして作ったものらしかった。

刺繍のデザインといい色合いといい気に入って買ったものだった。

去年の夏はたしか一度も着ておらず、今年も全く袖を通してなかったけれど、ふと今着たくなって着てみた。

鏡の前に立って驚いた。

10年前に買った服が過去最高に似合っている!

今の年齢の自分だからこそ、余計と服のデザインが際立った。

色も今の自分の方が似合っている。

10年後の方が似合う服なんてあるんだなと初めて知った。

作りもしっかりしているから、これから先もあと数年は楽しめそう。

頻繁に着ないから、生地も傷まない。

しかも形もデザインもそもそも流行とは無縁なものだから、流行り廃りもない。

服も相当数、断捨離したけれど、この服は最後までどうしても捨てられなかった。

気に入っていたこともあったし、思い出もあるから、余計と踏ん切りがつかず、引越しの度に一緒に運んだ一枚だった。

まさか10年後の自分にこんなプレゼントをしてくれる服だとは今日の今日まで知らなかった。

そして、29歳よりも39歳の自分の方が楽しめて、似合う服があって、服も自分も魅力が増すというのは、すごい素敵な体験だと断言できる。

2018年9月18日火曜日

実験の実り絶賛収穫中

『時代の流れ 2018夏ー秋』を書いている時に、小さな実験のことがものすごくはっきりと頭の中に浮かんだ。

きつい中で自分が手にしているものの凄さを感じていた。



中年の危機なのか、時代の流れなのか、それとも単に人生のターニングポイント的なところなのか、今の私の状況が何に該当してるのかは知らない。

何でもいいけれど、自分と向き合うことのしんどさと言ったらない。

しんどくても、もう誤魔化せないところまで来てしまっているから、今さら逃げるわけにもいかない。

逃げたとしてもまたいつかは向き合わなきゃいけないことには変わりないと思っている。

向き合うのはいつかの自分のためだし、過去の自分への労わりでもあるから、それ自体は良いと信じている。

ただ、不安も恐怖も半端ない。

心が休まらない時間の方が圧倒的に多い。

そんな中、私は自分が始めた小さな実験はとても良かったと実感している。

小さな実験は、確実に私の気持ちを緩ませてくれるだけじゃなく、楽しませてくれる。

その人との時間を思い出して、小さなやりとりを何回でも反芻する。

その瞬間、私の心の中に平和が訪れる。

実験開始直前まで暴風雨どころか台風到来並みの荒れた心模様でも、実験を始めると途端に穏やかな気持ちが訪れる。

ダブルレインボーですかと言わんばかりに、心に虹が出るような明るさが即座に差す。

本人不在でもそのパワーの大きさたるや計り知れない。

2回目の実験の昨日、あえて無視された時のシーンを思い返した。

今はどんな風に映るのか興味があった。

今目の前で体験するわけじゃないし、当時の超絶ショックだった気持ちは何回か掘り起こして自分なりに癒したから、今はまた違う風景になるかもしれないと思った。

しかもそういう部分もあってのその人だと捉えるなら、余計と邪険にしたくはなかった。

きちんとその部分も居場所を作ってみよう!と本当に実験のごとく試した。

ミラクルだった。

私は今でも当時のシーンを再現できるほど、きっちりと記憶している。

その人がしたこともそっくりに模倣できるし、当時の私がどんな気持ちになったかもきっちり説明できる。

私はどちらの役もこなせるぐらいの名役者になっている(笑)。

私が来ると察知して、キーボードを叩くスピードも強さもアップしたのはわかったし(本人はどこまで自覚してたかはわからない)、私が仕事の用事で話しかけてるのに絶対に目を合わせず、一言「はい」って言えばいいだけなのにそれさえも言わなかったと記憶している。

キーボードを叩く音の大きさと速さが、絶対に私を近寄らせようとしない、無言だけど最強で最恐のバリアを張られてるみたいだった。

私が近づくにつれどんどん速くなるタイピングに、そこまでしなきゃいけないぐらいに私のこと嫌なんだと思った。

自分が無理やり普段と変わらない声と話し方で用件をやっとやっと言っていたことも、心の中は半袖の季節なのに一瞬にして大寒波到来の猛吹雪だったことも覚えている。

心はそれ以上ショックを受けないように一瞬で機能停止をしようとしてたし、だけどショック過ぎて本当はわぁわぁ泣きたいぐらいなのに平気なフリしてもっと心が死にそうになったこともよく覚えてる。

私はあえて、その時のことを2回目の小さな実験に使った。

実験中、不思議な感覚になった。

たしかにそのシーンで、現実に起こった様子をそのまま心の中でも見ていた。

だけど、私の気持ちとか余計な脚色は抜けていて、本当にシーンだけが出てきた。

その人の意図もわからなければ、どういう気持ちでいたのかは全くわからない。

でも、その人はその人そのものだったし、あぁそういう部分もあってのその人だと感じた。

私とはまた別の意味で本当に不器用な人なんだと思う。

だけど、私はその人のそういうところを否定する気にはならなかった。

それも含めてその人で、その不器用なところもその人の個性の1つなんだと感じた。

マニアックな手法だけど、過去の痛みを癒すために、あえてその状況を自分の中で自分の好きな形に変えて記憶に残す心理的手法がある。

例えばその時なら、その人がいつもの柔らかい感じの穏やかな表情で対応してくれるイメージにすり替える方法がある。

だけど私は実験中それをしたくなくて、もうそのままをじっと見ていた。

事実を自分の都合のいいように変えるんじゃなく、もうどんなに戻りたくても戻れないその時をそっくりそのまま形状記憶したかった。

その人のそのままの姿を私は覚えておきたかった。

どんなに見てももう嫌な気持ちにはならなかった。

その時のショックや痛みよりも、今はもう会えないことの方がうんと痛くて哀しいから、そうやって記憶の中だけでもその人に会いに行けるのは特別だった。

その時のことも、その時のその人も、両方をそっと包むような気持ちになっていた。

2回目の実験も、心の中は温かくなった。

当初は決して笑えなかったし、あんなの二度と体験したくないと思ったし、本気で嫌だった。

だけど、色んなことを経ていく中で、私はそれをそのまま受け止めるスペースや心の準備がいつの間にかできたらしい。

私が成長したり乗り越えたのとは違うと思う。

その人だから私はそうしたいんだと思う。

その人のそのままの姿をただただ見届ける、自分の中の記憶にそのまま残す、そうしたいんだとわかった。

そして、変に良い風に記憶を書き換えなかった分、逆に温かい気持ちになれた。

その人を否定せずに真っ直ぐそのまま見ていることが、逆に本物のような気がした。

そこまでの気持ちになっていたから、心の中はとても穏やかで、その穏やかな状態のまま胸に手を当てた。

祈るような気持ちでその温かくて穏やかなものが相手に届くように…と手と手を重ねた。



2回目の小さな実験も大成功だった。

しかも、あえてきついシーンで試したから、余計とその効果を強く感じた。

自分のことになるとなかなか自分を大切にできていない私だけれど(これでもかなり良くなった)、その人を大切だと感じる自分を見て、自分のことも同じように思いやれるかも!と可能性を見出せる。

私は自分の嫌だと思うところを受け入れるよりも、その人が見せた部分で受け入れ難かったことを受け入れていくことの方が何倍も簡単だと知った。

そこでしていることを何とか自分のことにも応用できないかと悪戦苦闘している。

そうやって、その人の存在は、私にとってなくてはならないもので、私に色んなことを教えてくれる。

自分と向き合うのは、やっぱりしんどい。

否定したい自分なんかはさらにキツさを増す。

でもそんな中において、その人は相変わらずあれこれ活躍してくれてる。

私に元気玉くれて、温かい気持ちをこれでもかというぐらいにプレゼントしてくれる。

この小さな実験は、まだまだたくさん面白いものを見せてくれそうだし、何よりもその人のことで具体的なエピソードを思い出すと自分の中がものすごく満たされるとわかったから、飽きるまで続けようと思う。

そしてせめてもの感謝じゃないけれど、この温かい気持ちにさせてもらえることへのお礼として、温かくなった気持ちをそのまま送り返すことをしばらく続けてみようと思っている。

私の気持ちを差し出すというんじゃなくて(そんなのそれこそ重たいと思う)、その人からもらったものをそっくりそのまま返すイメージ。

欲を言えば、それがその人の元に届いてくれたら嬉しい。

ということで、今日も寝る前にまた小さな実験を行う。

これ寝る前のその日1日のご褒美に匹敵するぐらい、素敵な時間だったりもする。

2018年9月17日月曜日

時代の流れ 2018夏ー秋

足裏からその人の潜在意識や性格、気持ちを読み解けるマッサージ師さんに久しぶりにお会いして、その時に伺ったこと。

今回はフラメンコを観に行って、その時に席が私たちとお隣りになったから、その時に聞いてきた。

共通の知人の方の発表会で、それで席がお隣りになれた。

私の中のサンプリングが少なすぎてわからなかったから、それを確かめるべく聞いてきた。

以下、聞いたこと。


・今年の夏、7月から8月、特に8月に心の不調を訴える方がものすごく多かったこと

・不調の傾向として、出来事や人間関係が原因と言うよりも、自分自身の内面と向き合わざるを得ないことが主な原因
(マッサージ師さん自身もプライベートはそうだったと仰ってた)

・これまで過去20年の仕事の中で、今年の夏が過去一番キツくその症状が表れている人が多いこと&訴える人の数も多かったこと


それらを踏まえて、マッサージ師さんの分析。

・いよいよ時代が変わってきていて、これまでの自分では通用しなくなっていること

・その変化に合わせて、自分の内面を否が応でも見なければいけなくなっていること

・天体が逆行していることも関係していた、とお客さんから話を聞いてお客さんに出ている症状に関係していると感じたこと

【ホロスコープマニアからの補足】
今年の夏、確かに主要10天体と言っても太陽と月は逆行しないから、主要8天体中6天体が同時に逆行していた。

逆行天体の数はゼロの時もあれば、2つや3つ逆行することは往々にしてある、その中で5つ以上逆行していたのならそれはかなり多いことになる。

天体が逆行している時というのは、過去にさかのぼって自分のことを見つめ直したり、自分の価値観を見直したり、はたまた過去に置いてきた心の忘れ物を取りに行ったりする。

だからそういう意味でも今年の夏は、自分の中の見直しが天体的なエネルギーからもそれを後押しされる流れがあった。

そこにプラスして、7月から8月にかけて計3回の日食と月食があったから、それも上に書いたようなこと全てに対して大きく影響している。

(↑超できる星読みマスターみたい♡…どこまでも自画自賛)


自画自賛なところはさておき、それらを踏まえてマッサージ師さんから教えてもらった大切なこと。

以下に書くことは、私がこの1ヶ月弱心理系の読み物を読み漁って収集してた情報と一致してたから、マッサージ師さん個人の意見と言うよりも、完全に時代の流れ的なものだと感じる。

最後にまた私の星読みマスター気取りの情報をシェアする予定。

以下、マッサージ師さんからのメッセージ(「☆〜☆」がマッサージ師さんが言われたことで、それ以外のダラダラと長い部分は私の補足と心のボヤキ)。


☆今が「ベスト」であるということ☆

ここからは私の解釈。

「今がベスト」と言われて、「えー⁉︎嘘でしょ?」となる人が必ずいると思う。

こんなに辛いのに?こんなに苦しいのに?こんなに上手くいってないのに?って。

私がそうだから、それで必死こいて情報を探したというのもある(爆)。

こんな状況でベストなんて嫌なんだけど!と心は感じていても、これが人生長い目で見た時には必ずベストな状況だということ。

先に書いた自分自身の見直しという意味も含めて、今はどうしても個人の毒出しのような心のクリーニングが必要になる。

その理由は後から星の話と絡ませて書くけれど、その毒出しを経ることで体験する個人の変化という意味で、「今がベスト」と解釈できると思っている。
(書いててますますわかりにくいと思ったから、後からその説明を!)


☆自分で「選べる」ということ☆

例を挙げた方がわかりやすいから例を。

例えばこれからお昼ごはんの時間だとする。

まずは、「食べる」「食べない」という選択肢がある。

食べる場合、「作って食べる」「誰かに作ってもらう」「買って食べる」「お店で食べる」という選択肢がある。

わかりやすく、コンビニで買って食べる場合、「おにぎり」「パン」「惣菜」「弁当」など、これまた選択肢が色々ある。

その中で何かしらを選ぶ。

無意識のうちに何かしらを選ぶかもしれないし、意識的に何かしらを選ぶかもしれない。

どちらの場合も、『自分で選んでいる』というのが大事。

これを踏まえて、おそらくマッサージ師さんが言わんとしてたことはこちらなんだろうなぁというのを紹介。

具体的な説明はなかったけれど、心が苦しい時に、私がかなり使っている技で、多分こちらを指している。

その「心が苦しいー!」ってなってる時、実は誰しもがそれに対して選択肢がある。

選択肢を絶対的に持っている。

苦しい時は苦しいからつい忘れがちだけれど、実はみんな選択肢をきちんと持っている。

これめちゃくちゃ大事で、選択肢があることに気付いて腑に落ち始めると、だいぶ苦しい気持ちとの付き合い方が上手くなる(あくまで自分比)。

「心が苦しいー!何とかしてー!」となっている時。

まず、原因がはっきりしていても、原因は脇に置いて、その苦しい気持ちだけに注目。

これが人間関係ややりたくもない仕事から生まれる感情の場合、どうしてもそちらを何とかしたくなるけれど、そこはぐっと我慢してとりあえず放置。

選択肢の話に戻る。

「心が苦しい」となったら、以下が単純に持っている選択肢の一例。

・苦しいのは嫌だからとりあえずそこから逃げる
・苦しいけれど、その自分の気持ちに寄り添う
・気持ちを楽にするために気分転換をする
(ちょっと外気に触れるでもお茶飲むでもタバコ吸うでも何でもOK)
・誰かに連絡を取って話を聞いてもらう
・苦しいまま時間を過ごすのではなく、やりたいことに時間を使う

心が苦しくても、それとどう向き合うかは自分で選べる。

さらにもう少し突っ込んで話をすると、例えば上の中で「自分の気持ちに寄り添う」ことを選んだとする。

「寄り添い方」は色々あって、「うん、うん、辛いよね!」と自分で自分に思ってあげたり、苦しい気持ちをひたすら紙に書いて吐き出したり、苦しい気持ちをそのまま極限まで感じたり、はたまた苦しくなっている自分を客観視したりと、これまた豊富にバラエティがある。

あともう1つ私がよくすることは、心が苦しくなるような何かが起こった時、これもまた選択肢があって。

そのことに対して、

・「苦しい」と感じること

も1つの選択肢ならば、

・「自分の気持ちに気付くきっかけを手にした!」と捉えること

も1つの選択肢になる。

そう、苦しいだけのままにするか、自分の気持ちに気付けた!とするかは、自分で選べる。

不慣れなうちは非常に面倒くさいし、何そのやり方⁉︎と思っていたけれど、これは慣れれば慣れるほど使える。

で、選択肢をあれこれ思い浮かべているうちに、その苦しい気持ちが和らいだり、楽になったりすることもよくある。

試す価値あり!


☆正しいかどうかではなく、自分が良いと思うこと、自分の中でしっくりくることがこれからの時代の基準☆

上のことを私は「他人軸vs自分軸」だと思っている。

これまでは、世の中的に正しいとされることを選ぶのが当たり前だった。

例えば、女の人なら、結婚して旦那さんを支えて、子どもを生み育てることが社会的に正しい在り方みたいなところがあった。

例えば、会社なら、会社が求めるやり方で仕事をこなし会社に貢献することが正しいとされている。

だけど見ての通り、時代はどんどん多様化していて、それに伴い生き方もさらに多様化を極めている。

これは私の友達の実例だけれど、ひとり親のその子は、自分がどうしても勉強したいことを勉強するために、子どもがまだ小学校に上がる前、子どもを自分の親にお願いして留学をした。

ひと昔前ならあり得なかったし、今でもそれに対して賛否両論出てくる話ではあると思う。

確かに子どもをきちんと見ることは正しいと思う。

だけど、その子が自分の人生をどうしても生ききるのに必要な学びがあって、その子は自分の気持ちを優先した。

その生き方が正しいかどうかではなく、それを自分がしたかったかどうかで選んだところがとても大きいと思う。

そんな大きなことではなくても、例えば気の進まない仕事の飲み会があったとする。

それに出るのは正しいかもしれない。

だけど、出たくなかったら、会社の中の正しいふるまいよりも、自分の気持ちを優先して欠席もありだし、これからはそういうことが傾向として益々増えてくると思う。

だから、これからは社会的に組織的に正しいかどうかよりも、個人個人が何を大切にしたいか、何を大切と考えているかで選んでいく時代にどんどんなっていくと思う。

さっき中途半端になっていた星の情報と合わせての話。

2020年の終わりに、グレートコンジャンクションと呼ばれる、木星と公転周期の遅い土星と冥王星がほぼほぼ同じ位置に並ぶことになっている。

それは山羊座の終わりの方で起きてその後その3天体は順番に水瓶座に入っていく。

2021年からは本格的に水瓶座の要素が増す時代になる。

(調べたら、木星と土星が2020年の年末に水瓶座入り、冥王星が水瓶座に入るのは2023年)

水瓶座という星座は、博愛主義で、平等を大切にし、縦つながりの人間関係ではなく志を共にする横つながりの人間関係に重きを置く。

そうした星座に木星も土星も冥王星も順に入っていく。

で、今はその天体の動きを象徴するかのように、「正しさ」で動いていた社会基準が次々に崩壊をしている。

その辺りからは益々一層、社会や常識でどうだということよりも、個人がどう感じてどう生きるのかが問われる時代になっていく、と予想される。

そうした時代に向かうかのごとく、今社会レベルでも個人レベルでも、難しい局面を迎えていることが多い。

そして、よく言われるのが、新しい時代に向かう時、古い時代の旧体制的な価値観はもうそこには持っていけないということ。

だから、今「このままの生き方でいいんだろうか?」「このままの在り方でいいんだろうか?」というものを個人でも集団でも体験している人が多いんだと思う。

スポーツ界のパワハラ問題がその最たるものだと思う。

今現在、これまで秘められてきた内部事情が明るみに出て、連日メディアを賑わせている。

でも私はあれを見ていつも感じるのは、ああやって誰かが傷付いてしまうことをうやむやにしていた時代は終わって、選手もコーチも協会も各々の本来の目的に沿う在り方にもっと集中できるよう、そのための仕切り直し、削ぎ落としが行われているんだろうなぁと思っている。

「今がベスト」というのはそこにも繋がっていく。

例えば、上の体操の例がわかりやすいと思う。

渦中の関係者全員にとって、今は強烈にしんどい時期だと思う。

そこだけを切り取ったら「今がベスト」なんてとても言えないとは思う。

でも、これまで闇に葬られて隠されてきたものたちが表面化することで、これから先は少なくともその部分がきれいに一掃されていくだろうし、新しくなっていくと思う。

そのためのプロセスとして考えた時、今の状況はどうしてもすっ飛ばせないし、向き合わざるを得ない。

でも、それは悪くなるためではなく、良くなるために起こっている、私の目にはそう映る。

赤ちゃんの成長に似ていると思う。

いきなりハイハイもできない赤ちゃんに歩かせるなんて無理で、まずはハイハイ、それからつかまり立ち、そして歩くという段階を経る。

「今がベスト」のベストの状況はカオスな感じであっても、やっぱり飛ばさずに1つ1つ丁寧に積み重ねていくことが大事なんだと感じる。

で、さっきの個人レベルの話。

私も今とってもしんどい。

頭ではわかっていても心はついていかない。

古い価値観を脱ぎ捨てて、自分にとって心地よい価値観の選択が自分に今求められてるのもわかっている。

求めているのは他の誰でもない自分自身。

ただ、新しい価値観の中で生きてきてないから猛烈に怖いし、これまでのやり方ならある程度体も心も慣れているから、ある意味楽チンは楽チン。

それを切り捨てても違うところに向かおうとしているわけで、葛藤も半端ない。

だけど、ここで切り替わるにしても、やっぱりこれまで通りがいい!となるにしても、そこを選ぶにあたって今はベストな流れになっている、それだけは確かにそんな風に思う。

気持ち的に全然楽ではないけれど、とにかくとことん自分の内面と向き合わざるを得ない状況になっているのは確か。

そして、それは無視せずに見た方が良いというのも感覚的に納得している。

そんなこんなのことを、マッサージ師のMさんの話を聞いて感じた。


ポイントだけもう一度。

☆今が「ベスト」であるということ☆

☆自分で「選べる」ということ☆

☆正しいかどうかではなく、自分が良いと思うこと、自分の中でしっくりくることがこれからの時代の基準☆

2018年9月16日日曜日

小さな実験の舞台裏

小さな実験パートⅡは、予告した通りに準備を始めた。

ただ、1つ予定が狂った。

自分が過去にアップした記事を読んだ。

タイトル見ただけでは何を書いたものかわからなかったから、何を書いたのか気になって読んだ。

冥王星の影響とその実際を延々と分析している内容で、途中からは違う内容に変わっていた。

それは色々なことを思い出すにはものすごく役立った内容ではあったけれど、最初から読んだら20分くらいかかってしまった。

内容は今回の実験にものすごくピッタリだったから良かったけれど、それで当初予定していたことをするには時間が押し気味だった。

その後部屋をささっと片付けて、布団敷いて除夜灯に電気を切り替える頃には21:47になっていた。

そこから色んなことを思い出すのを始めたら、もうそれが思いの外楽しくてかなり熱中した。

思い出しながら気付いた。

当時の私には、無いものを数え上げたらきりがない位に色々なかった。

プライベートなスペースさえも確保できない日々で、日々色々なところを巡っては1人時間の確保に努めるような時期だった。

興味のない仕事に、先行きの不安定さに、色々と不安要素満載だった。

だけど当時は、朝を迎えること、その日元気であること、その人も元気なこと、元気で会えること、会えて満たされてその日を締めくくること、会えない日は次の会える日を心待ちにしながら1日を終えること、そんなことたちで私は徹底的に満たされていた。

こんなにしあわせでいいんだろうか?と思ったぐらいにしあわせいっぱいで、無いものたちや上手くいってないことたちは全くと言っていいほど気にならなかった。

私は普段「喜び」なんて言葉は使わないし、さらに言葉を足して「生きる喜び」なんてまず言わない。

言わないというよりか、そんな大げさな言葉を使うことも感じることもないから。

だから、そんな言葉を使おうという発想すら湧かない。

だけど、当時は言葉で表すなら「生きる喜び」が毎日あって、実際は生きる喜び以上のものを手にしていた。

その中で見たその人の姿やシーンをあれこれ思い起こしてた。

本当に楽しくて止まらなかった。

もはや予定していた手順は時間が足りなくて、当初計画していたことの3分の1もできなかった。

21:59の表示を見た後もその余韻に浸りまくった。

本当はその人の良いところも私側が痛みを覚えたその人の行動も色々思い浮かべる予定でいたけれど、その時間がなかった。

ちょびっとだけ出した。

本当に片手で数えるぐらい。

出そうと思えばもっともっと出せたけれど、そして当初は出す予定でいたけれど、思い返しがあまりにも楽しすぎてやめられなかった。

用意が足りないな…と感じたけれども、時間は時間だから始めた。

用意は足りなかったかもしれないけれど、その楽しい状態はずっと続いて心の中は愉快だった。

用意が足りないこともそんなには気にならなかった。

暑くてクーラーをその前から入れていたせいで体は冷え切っていた。

胸を手で温める前に体が冷たすぎて、熱を感じるまでもすごく時間がかかった。

というか、全然温まらなくて、もうそこは得意の想像力を駆使して温めてるつもりになった。

想像していた手順とずい分違ったけれど、私はその振り返りがあまりにも楽しかったから、それでいっか!と開き直ってた。

もうどれが良くてどれが悲しくて痛ましかったというのは、差がなくなっていた。

良いものは良い。

それは今も変わらない。

そうじゃなくて、悲しかったりしたことも、その良いものたちと同じくらい大事なものだと本当に感じられるようになっていた。

無理やりそう思うのでも感じるのでもなく、本気でそんな風に私は感じていた。

想いが昇華したのかな…と思う。

不器用すぎる姿とかも出てきた。

その人の人生の中でそんな部分をあからさまに外に出したのは、何回ぐらいあったのかは知らない。

モテ男そうなその人はもしかしたらものすごくたくさんの回数そうしたのかもわからない。

回数はどうでもいいけれど、その1回は私が目撃者だったことは間違いない。

改めてその貴重具合を感じていた。

そしてその不器用すぎるところも全部全部含めてその人だから、私はそれを悲しむよりも慈しむ・愛しむようになっていた。

「いつくしむ」を変換すると、慈しむと愛しむが出てくる。

両方相応しい変換だから、あえて2つ書き並べた。

正解のやり方なんてないけれど、これ何かを送ってるんだろうか?と考えると違う気もした。

だけど、思い出すことを楽しんで堪能している自分を見て、これはこれでいいなぁと思った。

こんなんでその人にも何かが伝わったら逆に凄すぎる!!!と感じながら、冷たい地肌に直接両手を置いたまま、時間を過ごした。

最終的に22:17になった時、集中力が切れてやめた。

30分近く振り返って手を置いてみて、とにかく楽しかった。

別に何かなんて必要ないのかもしれないな…と思った。

私が1人で盛り上がっていた時に、見える部分のものは何もなかったと言ってもいい。

私が強く望んだその人との時間も個人的に仲良くなることも何もなかった。

何にもなくてもそれでも私は究極に満たされまくってた。

生きてるだけで丸儲けとはよく言ったもので、本当にその状態になっていた。

体は冷たいまま時間が過ぎたけれど、内側は色んなことを思い出せば出すほどどんどん温かくなっていった。

温かくなって当たり前!、って言い切れる。

なぜなら、その時間もその人も大切なんだから、大切なものに触れたら心は温まる。

考えただけで苦しくなったり辛くなったりするものでは、心を温められない。

色々涙も流れたし、鉛のような重たい時間もあったし、嫌でも迎えた最後の瞬間もあった。

それらも本当だった。

だけれど、それさえも全部全部含めて大切で、だから色々思い出していると心は勝手にぽかぽかとしてくる。

手順通りとはいかなかったけれど、私は昨日やってみてかなり良かったから、しばらく毎日継続してみようと考えている。

温かい穏やかな気持ちにさせてもらえるから。

もはや相手のためじゃなく自分のためにする(笑)。

話があちこちに飛んでしまうけれど、この24時間の中で色んな場面を経て、私は1つ自分の中の決定事項を変更することに決めた。

8月の終わりにヒーラーのOさんから、相手のことを思ったり言葉に出したりするとどうしてもそこに質量を帯びると教えてもらって、それが良い悪いではないと説明してもらったけれど、私は相手に迷惑や負担を変に送るのは嫌だから、そうしたことを止めようと考えた。

その後、やっぱり何も表現せずにいるのは無理だから、迷惑にならない程度に言うのはいいかな…とちょっとだけOKにした。

だからかなり遠慮がちにその人にまつわることを時々書いた。

だけれど、そういうことの前に、この昨日の小さな実験パートⅡから今日に至るまでの間に、私は自分の中の絶対に大切にしたいところを改めて思い出した。

命に限りがあるように、自分が発する言葉にも限りはある。

全部を表現することはできない。

表現できる言葉も数もどうしても限られる。

それはごはんを24時間食べ続けられない、食べるものも限られてるのと一緒で、残りの人生で何を食べるかって何でも食べれそうで、実際はそうじゃない。

言葉もそう。

何でも表現できるわけじゃない。

寝る時間や食べる時間、社会の中で動く時間、色々とある。

その中で表現できる時間は無限大にあるわけじゃない。

そしてその時間の中で表現できることも無限大に全部表現できるわけじゃない。

言葉とも一期一会なんだと本当に肚(はら)に落ちた。

伝えられる言葉とそれを表現できる時間に限りがあるとわかって、私はそれをいつの時も「伝える」ことを第一にしようと決めた。

相手の迷惑や負担を考える前に、私はどうしたいのかを考えることにした。

私は伝えたい。

限られた時間・限られた言葉の中で、私は黙り続けるよりも伝え続けたい。

それが私の本音だった。

だから、こんな実験の舞台裏なんて書いたところで本当に何の生産性もないけれども、私は私の伝えたい言葉がある限りそれは伝え続けよう、と決めた。

反応があれば尚のこといいけれど、反応欲しさに書いてるのとは違う。

せめて知っていて欲しい。

世界の裏側ではこんなことが起こっているよ、ということを知っていて欲しい。

そしてもっともっと欲を言うと、その人の存在そのものが唯一無二のかけがえのない命だと私は思っていることを知ってて欲しい。

そういうことを素直にありがとうと受け止められる人ではないとなんとなく思っている。

それはそうであってもそうでなくても
どちらでも良いけれど、せめて私が見ているその人の姿は伝え続けたい。

それが私が心から望んでやりたいことだとわかったから。

伝えたい。

その人がその人であることが何よりも大切だから。

私はそのことを伝え続けたい。

最後、無理くりまとめると。

昨日の小さな実験パートⅡは、かなりな準備不足が生じたから、これからはしばらく毎日1つその人の何かを思い浮かべてそれを大切に包み込むみたいなことをしようと思っている。

思い出してその後は胸に手を当てて温める。

そのために自分の心の中を整えたり、思い出して温かい気持ちにさせてもらえたり、それすごくいいなぁと思っている。

今だって書きながら穏やかな気持ちの部分が増えている。

そのもらったものをそっくりそのまま返すつもりで温めていく。

だから今夜以降も小さな実験パートⅡは続く。

時間はまちまちになるけれど、もし本当の本当に届いてるとするなら、それは本人はわかるような気がしている。

どんな風にしてわかるのかはわからないけれど、自分の経験上、わかることはわかる。

理論理屈抜きで、そういうことが現実に起こる。

私は自分が体験しているから、そういうことが伝わることも十分あると思っている。

2018年9月15日土曜日

予告

いつこれが読まれるのかわからないけれど、とりあえず予告。

今日15日の22時からすること。

この予告を書いたら、準備にすぐ取りかかる。

その人の好きなところを挙げる。

具体的に挙げる。

その前に、いつ思い出しても明るく穏やかな気持ちにさせてもらえる時間をいくつか思い出す。

その状態のまま、その人の好きなところを挙げる。

今度は受け入れ難いことを挙げていく。

その両方を挙げ尽くしたら、それを全部受け止める。

受け入れ難いことは、当時は受け入れ難くても、今は見え方が変わっていて、それもあってのその人だなぁと感じてる。

受け入れ難い部分とは真逆の性質だったら良かった!ということじゃない。

そうした部分も全部、全部ひっくるめて、その人が成り立っている。

どの部分が欠けててもダメで、むしろそこがあってこそのその人なんだと思っている。

とにかくそのすべてを自分の中で抱きかかえるようにする。

そこまで用意してから、仰向けに寝て、心臓近くの胸のあたりに手と手を重ねて温める。

温めたものをその人に送るようなイメージで22時から時間を迎えてみる。

今回はヒーリングとは違うけれども、遠隔ヒーリングというのがある。

私も最初「そんなのあり得ない!」と頑なに否定していたし、やってもみないうちから「そんなの嘘だ」と疑いまくってた。

だけど、それらを実際に受けてみて、今は考え方が変わった。

携帯電話の電波みたいなものだと思う。

見えないけれど、携帯をAさんにかけたら繋がるように、お互いの波がカチッとハマるとお互いの間のライン・線が繋がる仕組み。

あんな風なんだと思う。

だから距離があっても伝わるものは伝わるし、繋がるものは繋がる。

例えば、相手が出れなかったり受信拒否したとしても、そもそも私側から流してるものはそのままだから、なくなるわけじゃない。

というのが、私の考え。

何で今日なのか、何で今なのかは知らないけれど、試したくなったのが今日だから、今日これからする。

今朝ねぼけながらもそんなことをそもそも企画した時、私はやり方は完全に我流でするつもりでいた。

それがよくできたもので、私は今日予定にもなかったTSUTAYAに寄ってそこで少し時間を過ごすことになった。

時間は限られていて、先日ちょっと読んで良かった本の続きを読もうかと思ってた。

ところが同じ本がなくて、同じ著者の別の本を読むことにした。

そうしたらそこにやり方のヒントとなる手順が書かれていた!

それは自分自身にするものだけれど、人に対しても応用の効くものだろうから、それを私なりにアレンジして今日はやってみる。

ちなみにもう一つの本には書かれてないもの。

それがあれば、今日手にした本は絶対に手に取らなかったから、よくできたものだなぁと感心しきりだった。

完全に私の自己満足だけれど、それでその人にも何かしら温かいものが届いたら嬉しいなぁと思う。

出して減るもんじゃないし、相手が受取拒否してもいいものだし、そもそも本当にそんなこと可能なのかそれはやってみなきゃわからないけれど、とても楽しそうだからやってみる。

相手は何にも感じない可能性の方が高いだろうとも思っている。

でもそれで何か届いたらそれ面白いじゃん!とも思っている。

ちなみにこれ、相手のためより私のためにやっている。

自分がそれで心を満たされることを知っているから、相手に届く届かないはどちらでも良くて(欲を言えば伝わって欲しい)、むしろそのプロセスを体験することに一番大切なことが含まれていると思っている。

ということで、今から準備に取りかかる。

具体的に何分くらいするのかわからないけれど、10分はその状態を続けるんじゃないかなと思う。