自分の思ったことを素直に表現すること。
今回はもはやそれしか術がなく、私は友達にあったことそのままと感じたことそのままを話した。
その子と絶縁関係になることも覚悟していた。
だけど、自分を守れるのは自分しかいないから、友達云々と言ってる場合ではなくなってしまった。
だから、私は自分が思ったまま感じたままを直接言った。
色んな意味で怖かった。
すっごい怖かったけれど、素直に話した先には信じられない光景が待っていた。
話が通じた。
確実に良い方向に物事が動き出す、と確信した。
それは彼女にとっても私にとっても。
そして素直な言葉の威力も知った。
素直な言葉は人に伝わる。
それで全部解決とはいかなくても、素直な言葉は誰も傷付かないとわかった。
友達にとっては青天の霹靂だったけれど、それでもその子は自分の流れを見てはっきりと答えを出してた。
それも私が言ったからじゃない。
その子自身の感覚で選んでた。
大丈夫だと思った。
詳細は今途中まで書いてるから、書き終わったらアップする。
とにかく無事に終わった。
自分の体調だけはすごく怖いから、今日は普段したことのない浄化を今やりまくってる。
帰りにスーパー寄って、食塩1キロと龍角散を買ってきた。
塩風呂に入った。
首の後ろは念入りにお湯に浸かった(ここはエネルギーの出入口として大切らしい)。
塩水でうがいすること十数回。
恒例の喉に塩を巻いた。
古代文字は3回音読した。
観葉植物に頑張ってもらおうと水をやった。
首の後ろのマッサージの本を見て自らマッサージをした。
ティンシャと呼ばれる楽器でチンチン音を鳴らして音払いをした。
友達がくれたマダガスカル産のアロマオイルを大量に手首に垂らして手首と首に揉み込んだ。
2つのオルゴナイトをみぞおちの上に置いた。
そして今龍角散を舐めながら書いている。
書く元気があれば、邪気に触れたらどうなるのかを書きたいぐらい。
リアルに体験するとわかる。
さすがに前回の体調不良で懲りたから、今日は徹底的に浄化に努めている。
今日もけっこう体調的にギリギリなところがあったから、それでとにかくありとあらゆる浄化に力を注いでる。
友達と別れた直後のこと。
親と待ち合わせて父の日のごはんを食べに行った。
1台の車に3人で乗った。
前の車を見て驚いた。
同じ車だった。
私が窮地に陥ったり何か大変な時期を過ごしてる時に、救世主のごとく現れる車。
しかもその車は数キロ先のラーメン屋に入るまでずっと目の前を走ってた。
それ見て、守られてると思った。
ご飯の前にスポーツ屋に行った。
運動音痴な私にはもちろん用事がない。
母親の買物で行くことになった。
初めて行く店だった。
そもそもそんなところにスポーツ用品店があるのも今日初めて知った。
広い店内だった。
ふらふらしてたらちょうど目の高さの位置に、あるブランドのリュックが展示されていた。
驚いた。
流行りなのか売り出し中なのかはわからない。
そのリュックは色こそ違えど、車の主の現場用リュックと同じものだった。
しかも至る所に飾られている。
他にもたくさんの種類のリュックがあるだろうに、なぜかそこだった。
それを見て私はますます大丈夫と思った。
車もリュックもあまりのタイミングの良い登場に驚きを隠せなかったけれど、本気で安心できた。
多分大丈夫って。
実は私はめちゃくちゃ怖かった。
全ては良い方にいくとわかったし、そういう意味では何も心配していない。
だけど、体は影響をどうやら受けてることは勘付いた。
それは本気で恐ろしかった。
なんなら帰り道、一気に気が緩んで私は泣いた。
怖い気持ちによって泣くなんて、一体いつぶりかわからなかった。
下手すると子どもの時以来。
それぐらいに怖かったんだとわかった。
だから目の前を走る車やリュックが、たまたまにしては出来過ぎだけれど、確実な心の安定剤だった。
2018年6月18日月曜日
2018年6月17日日曜日
私の体質③カード・物からのメッセージ・予知夢
私の体質シリーズ第3弾。
【カードを読む】
カードというのは、オラクルカードと言って、神託を意味するらしいけれど、そのカードを使ってそこから意味をキャッチする。
ある時私はとてもお世話になっている女性からそのカードを譲り受けた。
断捨離していて、カードもいくつも持っていても意味がないから、ぶっしーちゃんの好きなもの1つ選んで持って行っていいよと言われた。
その時に手にしたのがそのオラクルカードだった。
今数えたら、全部で44枚ある。
もらってしばらく、多分数ヶ月は自分のために毎日引いたり、3枚引きして過去・現在・未来と通しで見てみた。
その時もどハマりして、私はカードを引いた後、カードの解説文をノートに全部書き写してた。
1枚につき大体大学ノート1ページ分くらいの解説だった。
解説文はあくまで概要で、そこから先は自分の体験や日々の生活と照らし合わせて振り返ることをやりまくった(←興味があったから)。
こうしたカードをしたことがある人ならわかると思うけれど、本当に自分の潜在意識が反映される。
その時に仮にわからなくても後々にわかることもある。
カードは単なる象徴で、その先の振り返りや読み解きが大切なのもやっていくうちにわかった。
私はすっかりと気に入り、興味のある人たちには自ら声をかけて引いてもらった。
いつも引く前には何かしらの話を聞いてから、最後に引いてもらってた。
すると、そのカードたちから読めることがフワッと出てくる。
しかもどの人も驚くぐらいにその時のその人の状況や心情が反映されたものが出てくる。
もちろん本人にも解説は読んでもらう。
時に引いた本人がわからない時は、私の方で感じたことや話全体を通してのこととカードの繋がりについて話してた。
という具合にして、私はカードから意味を読み解くというのも好きでやり始めた。
それが2012年の今頃で、気付けばもう6年も経っていた。
【起こっている出来事の別の意味を捉える】
【物からメッセージをキャッチする】(物との対話とは別)
上の2つは、ある意味で共通しているから、合わせてざっくりと説明する。
コーチングや「NLP(神経言語プログラミング)」と呼ばれる心理療法の一種を習ってた3年ほどの時間の中で徹底的に繰り返し教えられたことの1つに、出来事の捉え方がある。
どんな出来事にもプラスの意味(側面)とマイナスの意味(側面)が同時に存在しているということ。
プラスな出来事は抵抗がないからそんなの細かく見る必要はないけれど、マイナスな出来事に対してはこれはめちゃくちゃ使える手法だから、それ故にその物事の捉え方だけは相当な時間をかけて別の視点から見ることを練習した。
最初は相当抵抗が出る。
例えば私なら「仕事を辞めたいのに辞められない、辞めさせてもらえない」なんていうのが当時はあったわけで、そんなののプラスの側面なんてないと思ってた。
今の私ならそのプラスの側面がはっきりとわかる。
(当時はこれに関しては最後まで答えが出なかった)
辞められなくて精神的に超追い込まれた私は
・自分の人生に向き合うきっかけを得て
・コーチングに出合い
・自分を癒す体験を山ほどする
ことになった。
そう、超絶マイナスな出来事の裏には、プラスのことも用意されていて、それを見る練習をとにかくたくさんした。
自分のことは自分の感情が絡まって難しいけれど、他人のことはものすごくよくわかる。
他人様のことは、言っちゃ悪いけど、私には痛くもかゆくもないから、とても冷静に見れる。
私の場合、情にも流されないから、ある意味鉄のハートのような冷たさを持っているけれど、こういう時は私まで情に流されてたら意味がないから、その冷静な分析は大いに役立つ。
タイミングや言い方、伝え方はきちんと見計らう必要があるけれど、これは知ると大抵の人が気持ちが楽になれる。
伝え方がまずいと相手を怒らせるだけだからよろしくないけれど、相手の心情を汲み取りながら(正しくは汲み取れるように努力する)起きている出来事の別の意味を伝えると、相手のガチガチに固まった心にちょっと隙間が生まれる。
もしくはそこから本人が気持ちを変えたり行動が変わったりするきっかけになることさえある。
で、結局何が私の体質的なことかと言うと、後天的にこのトレーニングをしたことで、私は物事や出来事を見る時に、特に受け入れ難いものの時、そのことの別の面をパッと見る癖がある。
自分のは相変わらずそんなにはすぐにわからないけれど、自分以外の人のことに関しては、話を聞くとわりかしすぐにその答えがやってくる。
そしてその伝え方も特に力まなくても言葉としてヒントが来るからわかる。
私は単に来たものをそっくりそのまま相手に渡したらいいだけ。
その面が特にここ2ヶ月ほどで強くなった。
【物からメッセージをキャッチする】というのは、とにかく目の前の出来事や突然現れた物から、そこにはどんな意味やメッセージがあると考えられるのか、それを自分なりに思い付いたことを伝える。
このブログに確か書いたかと思うけれど、いつだったかたかが30分ぐらいのドライブの中で、相手の人はなんと2つもの動物の死体を見た。
たぬきと鳩の死体、決して見ていて気持ちの良いものじゃないし、むしろ縁起の悪さを感じる。
だけど、その時は明らかに意味が違っているのがわかった。
車中でその人が「今日ぶっしーに絶対に話そうと思ってた」という個人的な話があった。
その話は、その人がこれまでの流れを断ち切って次に向かいたい、もしくはこれまでとは違う風にしたいという意志をはっきりと示す話だった。
だから、「動物の死体=命が終わる=これまで続いていたものが終わることの象徴」なんだと私は解釈した。
しかも私は隣りに座っていたのに、私はその死体を2つとも見なかった。
その人だけが見ることにも意味があったと思う。
なぜなら、その人はこれまでの流れを終わりにしたいという、言葉ではそうは言わないけれど、気持ちとしてそういうものを持ってるというのが話から明確に見て取れたから。
本人にもそのまま伝えた。
死体なんて不吉なものがその話の後で全く違う意味合いになって、その人はみるみるうちに元気を取り戻していった。
そしてその日数十秒タイミングがズレてたら絶対に見れなかった超レアなものも私たちは車中から目にすることになった。
そんなすごいものも見れたわけで、これは良い流れを示してる、それは私の解説なんかなくてもその人もそのように感じてた。
そうやって、目に入る色んなものからメッセージを読み解くのは私はすごく面白いと思っていて、これは誰にお願いされなくても超熱心にやっている。
他の人たちにもするけれど、私は物からのメッセージは自分のためにものすごくする。
自分のために自分が受け取りやすい形にメッセージをキャッチしようとしたこれまでの積み重ねのおかげで、他の人たちにもそうやって伝えられるようになったと思う。
【予知夢、デジャブ】
デジャブは多くの人が体験してるのではないかと思ってる。
私も1、2年に1回ぐらいの割合で体験する。
デジャブと言うよりも「既視感」と言った方が私はしっくりとくる。
すでに夢の中なのか何なのか、見たことがある風景や特定の人たちとのやりとりが再現される。
再現された瞬間、「あっ!私これ知ってる!」となる。
ちなみに今までの中で1番大きな予知夢は、塾でのある女の子との出逢いだった。
その子が入ってくる何ヶ月も前に私は仕事の夢を見た。
今でもそのシーンをはっきりと覚えている。
知らない女の子が教室の中の仕切りの向こう側から私に話しかけてた。
私は仕切りの内側にいて、他の子どもと何かを話してる最中だった。
ちなみに起きた時、夢の中でも仕事してたから、もうそれだけで私はぐったりした。
せっかく寝たのにこれじゃ疲れ取れんわ!と何に怒っていいのかわからなかったけれど、とても損をした気分だった。
そんな夢のことはすっかり忘れていたし、仕切りの向こう側から話しかけてた女の子が知らない子だったことも全く気にも留めていなかった。
そうしたら、そのシーンがまんまと再現された瞬間が現実に現れて、私は本気で驚いた。
仕切りの向こう側から話しかけてた女の子は、実際にその後いつかのタイミングで入ってきた子で、そしてその子は私にとってとても印象深い子だった。
子ども相手だから、この子は他の子どもと違って特別に好き!なんてのは私の場合ほとんどなかったけれど、例外的にとても惹きつけられる子どもというのがたまにいる。
その子もそういう子で、私はその女の子からいつも元気をもらってた。
その子と少しやり取りするだけで、と言うよりもその子がいるだけで、場の空気が華やぐ。
とても陽気な感じになるし、一緒にいるだけで毎回なぜかすごく癒されてた。
自分の中のパワーがその子によってチャージされる、そんな風だった。
そんなタイプの子はさすがに他にいなかったから、すごく不思議で、でも優しい気持ちに毎回包まれてた。
そんなこんなの先にその夢のシーンが再現されて、ビックリしたと同時に、私はその子に先に夢で引き合わせてもらえたのだなと思った。
これはめちゃくちゃ嬉しい予知夢だった。
この手の予知夢は、人口全体のどれくらいの人が見るのかは知らないけれど、こういうことが現実に起こっても私は驚かなくなった。
デジャブも然りで、毎回遭遇すると不思議な気持ちにはなるけれど、今は時間についても独特の解釈があるから、デジャブもそういう意味で起こっても全く不思議じゃないと思ってる。
【予告】
『88888』についてやこの体質的なことは続けて書く予定。
特に『88888』はこのブログたちとも全部連動してるから必ず書いてアップするけれど、まだ何も書き始めていない。
ちなみにあまりに色んなことが複雑に絡まっているから、私は忘れないうちに大慌てで全部メモをした。
だけれど、今日これからものすごく勇気の要る一大事に臨まないとで、この後何をアップするかは不明です。
私は今日これから「もうあなたとは会えません」宣言をしてくる。
こんなこと普段はしないから、すごく緊張している。
と言うよりも、人生で初めての経験になる。
パートナーシップとは違うから、男の人に別れようと言うのとは違うけれど、それとは違った意味でものすごーく緊張を強いられる。
しかも私何て説明するんだろう?と自分でもはっきりとはわかっていない。
だから、そんなことが先に控えてるから、この体質シリーズや8ストーリーは多分後回しになりそう。
【カードを読む】
カードというのは、オラクルカードと言って、神託を意味するらしいけれど、そのカードを使ってそこから意味をキャッチする。
ある時私はとてもお世話になっている女性からそのカードを譲り受けた。
断捨離していて、カードもいくつも持っていても意味がないから、ぶっしーちゃんの好きなもの1つ選んで持って行っていいよと言われた。
その時に手にしたのがそのオラクルカードだった。
今数えたら、全部で44枚ある。
もらってしばらく、多分数ヶ月は自分のために毎日引いたり、3枚引きして過去・現在・未来と通しで見てみた。
その時もどハマりして、私はカードを引いた後、カードの解説文をノートに全部書き写してた。
1枚につき大体大学ノート1ページ分くらいの解説だった。
解説文はあくまで概要で、そこから先は自分の体験や日々の生活と照らし合わせて振り返ることをやりまくった(←興味があったから)。
こうしたカードをしたことがある人ならわかると思うけれど、本当に自分の潜在意識が反映される。
その時に仮にわからなくても後々にわかることもある。
カードは単なる象徴で、その先の振り返りや読み解きが大切なのもやっていくうちにわかった。
私はすっかりと気に入り、興味のある人たちには自ら声をかけて引いてもらった。
いつも引く前には何かしらの話を聞いてから、最後に引いてもらってた。
すると、そのカードたちから読めることがフワッと出てくる。
しかもどの人も驚くぐらいにその時のその人の状況や心情が反映されたものが出てくる。
もちろん本人にも解説は読んでもらう。
時に引いた本人がわからない時は、私の方で感じたことや話全体を通してのこととカードの繋がりについて話してた。
という具合にして、私はカードから意味を読み解くというのも好きでやり始めた。
それが2012年の今頃で、気付けばもう6年も経っていた。
【起こっている出来事の別の意味を捉える】
【物からメッセージをキャッチする】(物との対話とは別)
上の2つは、ある意味で共通しているから、合わせてざっくりと説明する。
コーチングや「NLP(神経言語プログラミング)」と呼ばれる心理療法の一種を習ってた3年ほどの時間の中で徹底的に繰り返し教えられたことの1つに、出来事の捉え方がある。
どんな出来事にもプラスの意味(側面)とマイナスの意味(側面)が同時に存在しているということ。
プラスな出来事は抵抗がないからそんなの細かく見る必要はないけれど、マイナスな出来事に対してはこれはめちゃくちゃ使える手法だから、それ故にその物事の捉え方だけは相当な時間をかけて別の視点から見ることを練習した。
最初は相当抵抗が出る。
例えば私なら「仕事を辞めたいのに辞められない、辞めさせてもらえない」なんていうのが当時はあったわけで、そんなののプラスの側面なんてないと思ってた。
今の私ならそのプラスの側面がはっきりとわかる。
(当時はこれに関しては最後まで答えが出なかった)
辞められなくて精神的に超追い込まれた私は
・自分の人生に向き合うきっかけを得て
・コーチングに出合い
・自分を癒す体験を山ほどする
ことになった。
そう、超絶マイナスな出来事の裏には、プラスのことも用意されていて、それを見る練習をとにかくたくさんした。
自分のことは自分の感情が絡まって難しいけれど、他人のことはものすごくよくわかる。
他人様のことは、言っちゃ悪いけど、私には痛くもかゆくもないから、とても冷静に見れる。
私の場合、情にも流されないから、ある意味鉄のハートのような冷たさを持っているけれど、こういう時は私まで情に流されてたら意味がないから、その冷静な分析は大いに役立つ。
タイミングや言い方、伝え方はきちんと見計らう必要があるけれど、これは知ると大抵の人が気持ちが楽になれる。
伝え方がまずいと相手を怒らせるだけだからよろしくないけれど、相手の心情を汲み取りながら(正しくは汲み取れるように努力する)起きている出来事の別の意味を伝えると、相手のガチガチに固まった心にちょっと隙間が生まれる。
もしくはそこから本人が気持ちを変えたり行動が変わったりするきっかけになることさえある。
で、結局何が私の体質的なことかと言うと、後天的にこのトレーニングをしたことで、私は物事や出来事を見る時に、特に受け入れ難いものの時、そのことの別の面をパッと見る癖がある。
自分のは相変わらずそんなにはすぐにわからないけれど、自分以外の人のことに関しては、話を聞くとわりかしすぐにその答えがやってくる。
そしてその伝え方も特に力まなくても言葉としてヒントが来るからわかる。
私は単に来たものをそっくりそのまま相手に渡したらいいだけ。
その面が特にここ2ヶ月ほどで強くなった。
【物からメッセージをキャッチする】というのは、とにかく目の前の出来事や突然現れた物から、そこにはどんな意味やメッセージがあると考えられるのか、それを自分なりに思い付いたことを伝える。
このブログに確か書いたかと思うけれど、いつだったかたかが30分ぐらいのドライブの中で、相手の人はなんと2つもの動物の死体を見た。
たぬきと鳩の死体、決して見ていて気持ちの良いものじゃないし、むしろ縁起の悪さを感じる。
だけど、その時は明らかに意味が違っているのがわかった。
車中でその人が「今日ぶっしーに絶対に話そうと思ってた」という個人的な話があった。
その話は、その人がこれまでの流れを断ち切って次に向かいたい、もしくはこれまでとは違う風にしたいという意志をはっきりと示す話だった。
だから、「動物の死体=命が終わる=これまで続いていたものが終わることの象徴」なんだと私は解釈した。
しかも私は隣りに座っていたのに、私はその死体を2つとも見なかった。
その人だけが見ることにも意味があったと思う。
なぜなら、その人はこれまでの流れを終わりにしたいという、言葉ではそうは言わないけれど、気持ちとしてそういうものを持ってるというのが話から明確に見て取れたから。
本人にもそのまま伝えた。
死体なんて不吉なものがその話の後で全く違う意味合いになって、その人はみるみるうちに元気を取り戻していった。
そしてその日数十秒タイミングがズレてたら絶対に見れなかった超レアなものも私たちは車中から目にすることになった。
そんなすごいものも見れたわけで、これは良い流れを示してる、それは私の解説なんかなくてもその人もそのように感じてた。
そうやって、目に入る色んなものからメッセージを読み解くのは私はすごく面白いと思っていて、これは誰にお願いされなくても超熱心にやっている。
他の人たちにもするけれど、私は物からのメッセージは自分のためにものすごくする。
自分のために自分が受け取りやすい形にメッセージをキャッチしようとしたこれまでの積み重ねのおかげで、他の人たちにもそうやって伝えられるようになったと思う。
【予知夢、デジャブ】
デジャブは多くの人が体験してるのではないかと思ってる。
私も1、2年に1回ぐらいの割合で体験する。
デジャブと言うよりも「既視感」と言った方が私はしっくりとくる。
すでに夢の中なのか何なのか、見たことがある風景や特定の人たちとのやりとりが再現される。
再現された瞬間、「あっ!私これ知ってる!」となる。
ちなみに今までの中で1番大きな予知夢は、塾でのある女の子との出逢いだった。
その子が入ってくる何ヶ月も前に私は仕事の夢を見た。
今でもそのシーンをはっきりと覚えている。
知らない女の子が教室の中の仕切りの向こう側から私に話しかけてた。
私は仕切りの内側にいて、他の子どもと何かを話してる最中だった。
ちなみに起きた時、夢の中でも仕事してたから、もうそれだけで私はぐったりした。
せっかく寝たのにこれじゃ疲れ取れんわ!と何に怒っていいのかわからなかったけれど、とても損をした気分だった。
そんな夢のことはすっかり忘れていたし、仕切りの向こう側から話しかけてた女の子が知らない子だったことも全く気にも留めていなかった。
そうしたら、そのシーンがまんまと再現された瞬間が現実に現れて、私は本気で驚いた。
仕切りの向こう側から話しかけてた女の子は、実際にその後いつかのタイミングで入ってきた子で、そしてその子は私にとってとても印象深い子だった。
子ども相手だから、この子は他の子どもと違って特別に好き!なんてのは私の場合ほとんどなかったけれど、例外的にとても惹きつけられる子どもというのがたまにいる。
その子もそういう子で、私はその女の子からいつも元気をもらってた。
その子と少しやり取りするだけで、と言うよりもその子がいるだけで、場の空気が華やぐ。
とても陽気な感じになるし、一緒にいるだけで毎回なぜかすごく癒されてた。
自分の中のパワーがその子によってチャージされる、そんな風だった。
そんなタイプの子はさすがに他にいなかったから、すごく不思議で、でも優しい気持ちに毎回包まれてた。
そんなこんなの先にその夢のシーンが再現されて、ビックリしたと同時に、私はその子に先に夢で引き合わせてもらえたのだなと思った。
これはめちゃくちゃ嬉しい予知夢だった。
この手の予知夢は、人口全体のどれくらいの人が見るのかは知らないけれど、こういうことが現実に起こっても私は驚かなくなった。
デジャブも然りで、毎回遭遇すると不思議な気持ちにはなるけれど、今は時間についても独特の解釈があるから、デジャブもそういう意味で起こっても全く不思議じゃないと思ってる。
【予告】
『88888』についてやこの体質的なことは続けて書く予定。
特に『88888』はこのブログたちとも全部連動してるから必ず書いてアップするけれど、まだ何も書き始めていない。
ちなみにあまりに色んなことが複雑に絡まっているから、私は忘れないうちに大慌てで全部メモをした。
だけれど、今日これからものすごく勇気の要る一大事に臨まないとで、この後何をアップするかは不明です。
私は今日これから「もうあなたとは会えません」宣言をしてくる。
こんなこと普段はしないから、すごく緊張している。
と言うよりも、人生で初めての経験になる。
パートナーシップとは違うから、男の人に別れようと言うのとは違うけれど、それとは違った意味でものすごーく緊張を強いられる。
しかも私何て説明するんだろう?と自分でもはっきりとはわかっていない。
だから、そんなことが先に控えてるから、この体質シリーズや8ストーリーは多分後回しになりそう。
私の体質②熱・メモ・嘘発見器
自分の性質・体質の第2弾。
・話を聞いてる時に相手の大切なポイントに触れるとお腹周りの体温が上がる+他にも体の反応あり
・話を聞きながらひたすらメモ。そしてそこからその人のテーマが出てくる
・嘘発見器じゃないけれど、この人嘘言ってるなとかは大概わかる
この3つは、コーチングの練習も兼ねて色んな人たちから話を聞いてた時に出てきた。
だから年齢にすると32〜33歳ぐらいで今から6〜7年前。
【話を聞いてる時に相手の大切なポイントに触れるとお腹周りの体温が上がる+他にも体の反応あり】
これはどういうことかと言うと。
相手にとって大切な話を本人が口にしている時、どういう作用なのか私のおへそ周りは温かくなる。
その関連性はさっぱりわからないけれど、とにかく温かくなるからわかる。
そういう時、相手にもそれは必ず伝える。
伝えると相手もすぐにわかる場合が多い。
何でわかったのかを聞かれたら、そのままおなかが温かくなったと説明することもある。
この1年ぐらいはさらにバージョンアップをしていて、相手にとってものすごく大切な何かに触れてる時、鳥肌が立ったり、全身がゾクッとしたりする。
これは自分でコントロールできるものではないから、その自分の反応を見て何か大切なものに触れたんだと知る。
ちなみにペンジュラムを使ってる時にそれが出てきたら(回数としてはそんなにない)、ペンジュラム効果も手伝って、ウルトラスーパー大切な情報なんだろうと判断している。
【話を聞きながらひたすらメモ。そしてそこからその人のテーマが出てくる】
これは私の特技だけど、私は相手の人が話してる内容を聞きながらメモする・まとめることがとても得意。
これは大学時代に教授の話を聞きながらノートを取ることでできるようになった技。
これも私には当たり前のことで、ある時周りの人たち何人かから指摘をされて、特技認定してもいいレベルのものだと知った。
ちなみにこれをコーチングやカウンセリングの個人セッションでする時は、予め相手に私はひたすらメモを取るけれど、だから顔を一切見ない状態になるけれど、気にせずに話して欲しいとお願いしている。
私は自分の感覚だからわかるけれど、メモを取っていると相手の要点や大切なポイントがわかる。
話し手にすると、ただダラダラ話してるみたいで全くわからないと言われるけれど、私にはわかる。
言うなれば、そこだけとてもポイントがズレてるとか、全く違う話になってるとか、話し手の声の抑揚や言葉を選ぶ感じとか、とにかく色んなことを総体的に見て、私の方で何か違和感のようなものを覚える。
こんなのも感覚の話だし、当たり前だけれど相手によって話す内容もトーンも違うから、一定の法則があるわけじゃない。
単に私が場数を踏んだ分の勘みたいなもので、言葉では説明できない。
でも確実にわかる。
ついでに言うと、話を聞いてるうちに気になることが出てくる。
それが「質問」に繋がる。
自慢ではないけれど、私は「質問力」についても周りの人たちから褒められたことが何回かある。
そしてどうやって質問を考えてるのかそのプロセスについても聞かれたことがある。
ぶっちゃっけ、プロセスなんかない。
話を聞いてて「これどうしてそうなの?」という子どもみたいなレベルで単に疑問に持っただけのことだから、言葉も組み立てない。
気になったように聞くだけ。
一応相手を不快にさせたり傷付ける要素がないかは確認するけれど、大体において純粋な興味関心で聞く分には相手を不快にさせることはほぼほぼない。
毒を吐くと。
相手に不快な質問をするタイプの人。
ビジネスでもカウンセリングなんかでも見受けられる人たちの共通点がある。
それはまず、相手の話なんか聞いちゃいない。
聞いてるフリをしながら聞いてないのは見ててわかる。
そして絶え間なく「どんな質問をすると効果的か?」とか「どんな質問をすると相手にウケがいいか?」とか、そういう自分中心に物事を推し量ってる様子が伺える。
そういうのは人間肌で感じるものだから、そういうタイプの人が相手だと大抵みんな口を閉じるか、心にもない当たり障りのないことを答える。
だからいつまで経っても話の深い部分に到達できない。
口にこそ出さないけれど、そういう人を見ると「ねぇねぇ自分の内面を見た方がいいよ」と思ってしまう。
自分のそうした意図に気付かないと、相手がなぜに口を閉ざしたり思ってることをそのまま言おうとしないのかわからないと思うから。
【嘘発見器じゃないけれど、この人嘘言ってるなとかは大概わかる】
上のことに連動させて、嘘発見器的なものも勝手に稼働する。
これもどうしてわかるのか?と言われるとかなり困るけれど、何かしら違和感があるからわかる。
声に力がないとか(小さな声という意味じゃない)。
言葉に何か違うものが混ざってるのがわかるとか。
自分の判断で判断してなくて、自分の考えや気持ちじゃなくて周りの人たちに合わせて意見を言ってるだけだなとか。
あと、その人の雰囲気や嘘を言ってる時の空気が明らかに変だとか。
私はそういう時、わざと突っ込む。
深く関わらなくていい人ならスルーするけれど、相手のためにならないとわかる時やそれは掘り下げないとまずい時は気になったまま聞くか、もしくは言葉を変えたり自分のたとえ話を出して相手の反応を引き出すようにする。
ただ1つだけ例外がある。
色んな人たちから色んな話を聞いてきたから、大体においてこういうことは感覚的にできる。
それこそ何百人単位だし、人の話を聞く時の私は大抵状態が安定していて、自分の気持ちも大して動かない。
フラットな感じだからわかる。
だけど、例えば好きな人を前にしてるとかいうような状況の時、平常心なんてもう全くないから、心は乱れまくる。
当然、普段のような分析はできないから、自分の感情に翻弄されて終わる。
そういう時、違和感を覚えていてもそれ以外の感情がでかければそれどころじゃない。
違和感を振り返られるのは、だいぶ落ち着いてからだし、さらに言うと時間も経過してるから、私の記憶自体も怪しい。
もしかしたら違和感が違ってる可能性もある。
こうなる人と出逢うこと自体そんなにないから、そういうのは1000人に出会ったとしてその中の1人ぐらいの確率でしか出現しない。
ちなみにその1人の人を見た時、嘘ついてるという風には思わなかったけれど、これはその人の本当の本音なんだろうか?とは思った。
全ての感情を閉ざすようにして、私には一切伝わらないようにして、それを目の当たりにして私の心はボキボキボキと複雑骨折のように何箇所も傷が一瞬で広かったけれど、結局のところそれが何だったのかはわからずじまいだった。
わかったのは自分の気持ちだけだった。
私は本当のことを知りたかった。
私を嫌いとか受け付けられないでもいいから、それをその人の口から直接聞きたかった。
まぁそんなこと言える人いないと思うけれど…苦笑。
でも本当に知りたかった。
何なら、今でも知りたいと思っている。
・話を聞いてる時に相手の大切なポイントに触れるとお腹周りの体温が上がる+他にも体の反応あり
・話を聞きながらひたすらメモ。そしてそこからその人のテーマが出てくる
・嘘発見器じゃないけれど、この人嘘言ってるなとかは大概わかる
この3つは、コーチングの練習も兼ねて色んな人たちから話を聞いてた時に出てきた。
だから年齢にすると32〜33歳ぐらいで今から6〜7年前。
【話を聞いてる時に相手の大切なポイントに触れるとお腹周りの体温が上がる+他にも体の反応あり】
これはどういうことかと言うと。
相手にとって大切な話を本人が口にしている時、どういう作用なのか私のおへそ周りは温かくなる。
その関連性はさっぱりわからないけれど、とにかく温かくなるからわかる。
そういう時、相手にもそれは必ず伝える。
伝えると相手もすぐにわかる場合が多い。
何でわかったのかを聞かれたら、そのままおなかが温かくなったと説明することもある。
この1年ぐらいはさらにバージョンアップをしていて、相手にとってものすごく大切な何かに触れてる時、鳥肌が立ったり、全身がゾクッとしたりする。
これは自分でコントロールできるものではないから、その自分の反応を見て何か大切なものに触れたんだと知る。
ちなみにペンジュラムを使ってる時にそれが出てきたら(回数としてはそんなにない)、ペンジュラム効果も手伝って、ウルトラスーパー大切な情報なんだろうと判断している。
【話を聞きながらひたすらメモ。そしてそこからその人のテーマが出てくる】
これは私の特技だけど、私は相手の人が話してる内容を聞きながらメモする・まとめることがとても得意。
これは大学時代に教授の話を聞きながらノートを取ることでできるようになった技。
これも私には当たり前のことで、ある時周りの人たち何人かから指摘をされて、特技認定してもいいレベルのものだと知った。
ちなみにこれをコーチングやカウンセリングの個人セッションでする時は、予め相手に私はひたすらメモを取るけれど、だから顔を一切見ない状態になるけれど、気にせずに話して欲しいとお願いしている。
私は自分の感覚だからわかるけれど、メモを取っていると相手の要点や大切なポイントがわかる。
話し手にすると、ただダラダラ話してるみたいで全くわからないと言われるけれど、私にはわかる。
言うなれば、そこだけとてもポイントがズレてるとか、全く違う話になってるとか、話し手の声の抑揚や言葉を選ぶ感じとか、とにかく色んなことを総体的に見て、私の方で何か違和感のようなものを覚える。
こんなのも感覚の話だし、当たり前だけれど相手によって話す内容もトーンも違うから、一定の法則があるわけじゃない。
単に私が場数を踏んだ分の勘みたいなもので、言葉では説明できない。
でも確実にわかる。
ついでに言うと、話を聞いてるうちに気になることが出てくる。
それが「質問」に繋がる。
自慢ではないけれど、私は「質問力」についても周りの人たちから褒められたことが何回かある。
そしてどうやって質問を考えてるのかそのプロセスについても聞かれたことがある。
ぶっちゃっけ、プロセスなんかない。
話を聞いてて「これどうしてそうなの?」という子どもみたいなレベルで単に疑問に持っただけのことだから、言葉も組み立てない。
気になったように聞くだけ。
一応相手を不快にさせたり傷付ける要素がないかは確認するけれど、大体において純粋な興味関心で聞く分には相手を不快にさせることはほぼほぼない。
毒を吐くと。
相手に不快な質問をするタイプの人。
ビジネスでもカウンセリングなんかでも見受けられる人たちの共通点がある。
それはまず、相手の話なんか聞いちゃいない。
聞いてるフリをしながら聞いてないのは見ててわかる。
そして絶え間なく「どんな質問をすると効果的か?」とか「どんな質問をすると相手にウケがいいか?」とか、そういう自分中心に物事を推し量ってる様子が伺える。
そういうのは人間肌で感じるものだから、そういうタイプの人が相手だと大抵みんな口を閉じるか、心にもない当たり障りのないことを答える。
だからいつまで経っても話の深い部分に到達できない。
口にこそ出さないけれど、そういう人を見ると「ねぇねぇ自分の内面を見た方がいいよ」と思ってしまう。
自分のそうした意図に気付かないと、相手がなぜに口を閉ざしたり思ってることをそのまま言おうとしないのかわからないと思うから。
【嘘発見器じゃないけれど、この人嘘言ってるなとかは大概わかる】
上のことに連動させて、嘘発見器的なものも勝手に稼働する。
これもどうしてわかるのか?と言われるとかなり困るけれど、何かしら違和感があるからわかる。
声に力がないとか(小さな声という意味じゃない)。
言葉に何か違うものが混ざってるのがわかるとか。
自分の判断で判断してなくて、自分の考えや気持ちじゃなくて周りの人たちに合わせて意見を言ってるだけだなとか。
あと、その人の雰囲気や嘘を言ってる時の空気が明らかに変だとか。
私はそういう時、わざと突っ込む。
深く関わらなくていい人ならスルーするけれど、相手のためにならないとわかる時やそれは掘り下げないとまずい時は気になったまま聞くか、もしくは言葉を変えたり自分のたとえ話を出して相手の反応を引き出すようにする。
ただ1つだけ例外がある。
色んな人たちから色んな話を聞いてきたから、大体においてこういうことは感覚的にできる。
それこそ何百人単位だし、人の話を聞く時の私は大抵状態が安定していて、自分の気持ちも大して動かない。
フラットな感じだからわかる。
だけど、例えば好きな人を前にしてるとかいうような状況の時、平常心なんてもう全くないから、心は乱れまくる。
当然、普段のような分析はできないから、自分の感情に翻弄されて終わる。
そういう時、違和感を覚えていてもそれ以外の感情がでかければそれどころじゃない。
違和感を振り返られるのは、だいぶ落ち着いてからだし、さらに言うと時間も経過してるから、私の記憶自体も怪しい。
もしかしたら違和感が違ってる可能性もある。
こうなる人と出逢うこと自体そんなにないから、そういうのは1000人に出会ったとしてその中の1人ぐらいの確率でしか出現しない。
ちなみにその1人の人を見た時、嘘ついてるという風には思わなかったけれど、これはその人の本当の本音なんだろうか?とは思った。
全ての感情を閉ざすようにして、私には一切伝わらないようにして、それを目の当たりにして私の心はボキボキボキと複雑骨折のように何箇所も傷が一瞬で広かったけれど、結局のところそれが何だったのかはわからずじまいだった。
わかったのは自分の気持ちだけだった。
私は本当のことを知りたかった。
私を嫌いとか受け付けられないでもいいから、それをその人の口から直接聞きたかった。
まぁそんなこと言える人いないと思うけれど…苦笑。
でも本当に知りたかった。
何なら、今でも知りたいと思っている。
私の体質①共感覚
30代の色々意味不明なことたちを経て、私の多分元から備わってたことが表面化してきた。
プラスして、子どもの頃から当たり前のことが実はみんなはそうじゃないとわかったのも30代に入ってからだった。
それを今日は紹介したい。
ざっと一覧にすると。
・共感覚
・話を聞いてる時に相手の大切なポイントに触れるとお腹周りの体温が上がる+他にも体の反応あり
・話を聞きながらひたすらメモ。そしてそこからその人のテーマが出てくる
・相手の感情が飛んでくる
・嘘発見器じゃないけれど、この人嘘言ってるなとかは大概わかる
・カードを読む
・起こっている出来事の別の意味を捉える
・物からメッセージをキャッチする(物との対話とは別)
・予知夢、デジャブ
・エンパス
・HSP
・相手の潜在意識をキャッチ。その人の悩みのヒントや答えが瞬時にわかる
(クレアコグニザント)
・ペンジュラムとの対話
・物との対話
多分これで全部。
1つの記事で全部を説明するのは長くなるから、いくつかに分けて紹介(の予定)。
名前の付いてるものもあれば、名前がないから文章で書いたのもある。
もしかしたら名前があるのかもしれないけれど、現時点では不明。
あと例えば「相手の感情が飛んでくる」なんてのは、他にどう言葉で説明したらいいのかわからないから、とりあえずの言葉をはめてみた。
最後のペンジュラムや物との対話はこのブログの中でかなりたくさん書いてきたから今回は省略。
◎共感覚
聞き慣れない言葉かもしれない。
私が知ったのは、朝活でだったと記憶している。
今振り返るとそのためにその朝活に出たんじゃないかと思った。
確か私が朝活に出れるようになったのは、10回ほど出した退職届が全部受理されず途方に暮れてたら、上司が正社員から契約社員への変更をするからそれで次の人が見つかるまで続けて欲しいと言われてからだったと思う。
朝7時に家を出て夜は日付が変わらないうちに家に着いたら御の字、年間盆正月合わせて50日しか休んでなかった正社員時代(←スーパーブラック)から、給料は確かに減ったけれど福利厚生とボーナスはそのまま、出勤日数は私が全部決めていいとなって、平日8時間×4日と土曜日午前中だけ、計4.5日/週という働き方に変えた。
その働き方に変えてからの方が売上アップ、契約率アップしたんだから、会社も働き方改革したらいいのにと思った。
そんな働き方で、平日は毎日午後2時過ぎに出社だったから、ようやく悲願の朝活に出れるようになった。
普段は指定された本を事前に読んでそれについてのシェアリングみたいな読書会に参加してた。
共感覚について知った読書会はたった一度しか出たことがなくて、それは他とは違ってた。
その1回の読書会は、自分が気に入った本を持参してそれを他の人たちに紹介するというものだった。
ヤバイ、本題に入る前に余計な記憶がボロボロと出てくる 汗。
今何を思い出したかって、その時に私が紹介した本を、この3月まで勤めてた派遣先の会社の事務所の中にいた新入社員の男の子にそれと同じ本を買って押し付けてきた。
そこに触れると共感覚の話に行き着かないからやめるけれど、そんなことをふと思い出した。
その本を紹介する朝活では、主催者の私より少し年上の女性含め男女数人の方が参加してた。
その中の男性の1人、技術職とかの人だったような記憶があるけれど、顔とかも覚えてなくて穏やかそうな真面目な感じの印象しか残ってない、その人が共感覚の本を紹介してた。
共感覚というのは、字のごとく、2つの感覚が同時に起こることを言う。
その方がざっくり紹介されたのは、数字を見た瞬間それに特定の色や音が一緒に感覚として出る人とか、音を聞くとそこに景色が広がるとか、そうした性質だった。
面白そうと思って、私も後日その本を書店で手に取って読んだ。
その本の中に色々共感覚の例が挙がっていて、何かを読む時に声が聞こえるのも共感覚の1つだと知った。
私はそれを見て驚いた。
これはけっこういるらしいけれど(の割に私はまだ会ったことない)、とにかく何を読むにしても全部に音声が付く。
これが私の場合の共感覚だった。
というかこれを書くにあたって調べてわかった。
私の場合、日本語限定。
英語は日本語並みに音声が付くけれど、スペイン語はアルファベットの羅列を見ても音が聞こえなかった!
この聞こえない感じが多分一般的な感覚なんだろうなぁ、と今、本当にたった今知った。
私の話に戻ると、とにかく日本語だと何を読んでも、本だろうが新聞だろうが漫画だろうが社内の回覧だろうが、とにかくありとあらゆる書物を読む度に必ずそれらが同時に音読される。
しかも声は毎回違う。
人にその感覚を説明する時によく使うのが、ドラマの手紙のシーン。
遠く離れた母親からもらった手紙を主人公が読む時、途中から母親の声でその手紙が読まれたりする。
あのシーンのようなことが私の場合、全ての読み物で起こる。
どういう声なのかと言うと、本なら作者の声(男性・女性、若い・年配の差がある)、小説だと会話文とそれ以外で声は異なるし、漫画も登場人物ごとに違う。
新聞は、やや男性寄りの、でも中性的な感じの声。
これは本の難易度は関係ない。
絵本から超専門的な本まで1つの例外もなく読む時は全てに声が聞こえる。
私はその時までみんなもそうだと思っていたから、そんなことが共感覚に入ることさえ驚いた。
その後何人かの人に聞いたら、逆に「どういうこと?」と突っ込まれた。
それでその感覚がみんなにあるわけじゃないことを初めて知った。
聞かれた質問の中に、それって何か読む時に邪魔にならないの?というものがあった。
何せ子どもの頃から、物心ついた頃からそれだから、邪魔だと感じたことは一度もない。
そしてさっきスペイン語のフレーズのサイトを見て、何も音が聞こえないということを体験して、初めてその音のない世界を知った。
文字と音とがセットにならないってなんだか不思議だった。
ちなみに知らない漢字の時は2パターンある。
1つは読み飛ばす。
これはまだいい。
もう1つが厄介で、思い込みで読む。
今パッと例が出てこないけれど、私の読み違いはかなりな数があるから、後から本当の読みを人との会話から知ったなんてことが多々ある。
メールや手紙はもちろん、ツイッターやブログも。
声がそれぞれ違うのはどうやって私の脳がそんな判断をするのかはわからない。
でも何も考えずとも勝手に声は変えられてる。
この後も自分のその感覚についてシリーズで書いていこうと思う。
上に書いたことの共通点は、どれも人から習ってないということ。
物からメッセージをキャッチするとか出来事の別の意味を捉えるとかは、その見本を見せてくれた人がいたけれども、その人たちから習ったりはしていない。
ちょっとだけ見本を見せてもらって、後は自分ですぐにできるようになった。
そういう自分の性質を知るのも、徐々にで、そして上のいくつかは周りの人たちからの指摘で発覚したものもある。
自分の性質を知っていく作業は、他の出来事たちと関連していて、今振り返ると、私がそうした自分のちょっと変わった性質や体質を受け入れられる器ができると認識できるようになっていた。
私の場合、どれもこれも日常生活の延長で出てきたものばかりだったから、余計と特別感がなかったし、私自身の意識は常にほとんど変わらないから余計と分かりにくかった。
人との会話からキャッチする時はちょっとだけ違っていて、その時の私はあまり喋らないのと(下手すると本当に一言二言だけ)、相手の話を全力で聞いている。
だからかなり話やその時の空気に集中している。
でもそれだって力んでるわけじゃなくて、なるべく意識が逸れないように気をつけている程度。
そうだ…。
時々人から指摘されるけれど、「話聞いてなかったでしょう?」と言われる。
私は時々話の途中で意識が別のところに向く時がある。
気付いたら別のことを考えてた…みたいな。
そして戻ってくると、気付かぬうちに話が変わっていて、その自分の意識が別のところにある間どんな話がされてたのかてんでわからないなんてことが時々ある。
相手からしたら私が話を聞いてないってことになるけれど、私からすると意識が別のところに向いてただけ…。
と言うと怒られるから、その時は適当に相槌を打つ。
仲の良い人たちは「ぶっしー、話聞いてなかったでしょ?」と普通に突っ込んでくれるからいいけれど、そうじゃない人たちはどう思っているんだろう…。
書いてて、痛い大人の例みたいでなんか嫌だった…。
とにかく私の日常はこんな風にして成り立っている。
プラスして、子どもの頃から当たり前のことが実はみんなはそうじゃないとわかったのも30代に入ってからだった。
それを今日は紹介したい。
ざっと一覧にすると。
・共感覚
・話を聞いてる時に相手の大切なポイントに触れるとお腹周りの体温が上がる+他にも体の反応あり
・話を聞きながらひたすらメモ。そしてそこからその人のテーマが出てくる
・相手の感情が飛んでくる
・嘘発見器じゃないけれど、この人嘘言ってるなとかは大概わかる
・カードを読む
・起こっている出来事の別の意味を捉える
・物からメッセージをキャッチする(物との対話とは別)
・予知夢、デジャブ
・エンパス
・HSP
・相手の潜在意識をキャッチ。その人の悩みのヒントや答えが瞬時にわかる
(クレアコグニザント)
・ペンジュラムとの対話
・物との対話
多分これで全部。
1つの記事で全部を説明するのは長くなるから、いくつかに分けて紹介(の予定)。
名前の付いてるものもあれば、名前がないから文章で書いたのもある。
もしかしたら名前があるのかもしれないけれど、現時点では不明。
あと例えば「相手の感情が飛んでくる」なんてのは、他にどう言葉で説明したらいいのかわからないから、とりあえずの言葉をはめてみた。
最後のペンジュラムや物との対話はこのブログの中でかなりたくさん書いてきたから今回は省略。
◎共感覚
聞き慣れない言葉かもしれない。
私が知ったのは、朝活でだったと記憶している。
今振り返るとそのためにその朝活に出たんじゃないかと思った。
確か私が朝活に出れるようになったのは、10回ほど出した退職届が全部受理されず途方に暮れてたら、上司が正社員から契約社員への変更をするからそれで次の人が見つかるまで続けて欲しいと言われてからだったと思う。
朝7時に家を出て夜は日付が変わらないうちに家に着いたら御の字、年間盆正月合わせて50日しか休んでなかった正社員時代(←スーパーブラック)から、給料は確かに減ったけれど福利厚生とボーナスはそのまま、出勤日数は私が全部決めていいとなって、平日8時間×4日と土曜日午前中だけ、計4.5日/週という働き方に変えた。
その働き方に変えてからの方が売上アップ、契約率アップしたんだから、会社も働き方改革したらいいのにと思った。
そんな働き方で、平日は毎日午後2時過ぎに出社だったから、ようやく悲願の朝活に出れるようになった。
普段は指定された本を事前に読んでそれについてのシェアリングみたいな読書会に参加してた。
共感覚について知った読書会はたった一度しか出たことがなくて、それは他とは違ってた。
その1回の読書会は、自分が気に入った本を持参してそれを他の人たちに紹介するというものだった。
ヤバイ、本題に入る前に余計な記憶がボロボロと出てくる 汗。
今何を思い出したかって、その時に私が紹介した本を、この3月まで勤めてた派遣先の会社の事務所の中にいた新入社員の男の子にそれと同じ本を買って押し付けてきた。
そこに触れると共感覚の話に行き着かないからやめるけれど、そんなことをふと思い出した。
その本を紹介する朝活では、主催者の私より少し年上の女性含め男女数人の方が参加してた。
その中の男性の1人、技術職とかの人だったような記憶があるけれど、顔とかも覚えてなくて穏やかそうな真面目な感じの印象しか残ってない、その人が共感覚の本を紹介してた。
共感覚というのは、字のごとく、2つの感覚が同時に起こることを言う。
その方がざっくり紹介されたのは、数字を見た瞬間それに特定の色や音が一緒に感覚として出る人とか、音を聞くとそこに景色が広がるとか、そうした性質だった。
面白そうと思って、私も後日その本を書店で手に取って読んだ。
その本の中に色々共感覚の例が挙がっていて、何かを読む時に声が聞こえるのも共感覚の1つだと知った。
私はそれを見て驚いた。
これはけっこういるらしいけれど(の割に私はまだ会ったことない)、とにかく何を読むにしても全部に音声が付く。
これが私の場合の共感覚だった。
というかこれを書くにあたって調べてわかった。
私の場合、日本語限定。
英語は日本語並みに音声が付くけれど、スペイン語はアルファベットの羅列を見ても音が聞こえなかった!
この聞こえない感じが多分一般的な感覚なんだろうなぁ、と今、本当にたった今知った。
私の話に戻ると、とにかく日本語だと何を読んでも、本だろうが新聞だろうが漫画だろうが社内の回覧だろうが、とにかくありとあらゆる書物を読む度に必ずそれらが同時に音読される。
しかも声は毎回違う。
人にその感覚を説明する時によく使うのが、ドラマの手紙のシーン。
遠く離れた母親からもらった手紙を主人公が読む時、途中から母親の声でその手紙が読まれたりする。
あのシーンのようなことが私の場合、全ての読み物で起こる。
どういう声なのかと言うと、本なら作者の声(男性・女性、若い・年配の差がある)、小説だと会話文とそれ以外で声は異なるし、漫画も登場人物ごとに違う。
新聞は、やや男性寄りの、でも中性的な感じの声。
これは本の難易度は関係ない。
絵本から超専門的な本まで1つの例外もなく読む時は全てに声が聞こえる。
私はその時までみんなもそうだと思っていたから、そんなことが共感覚に入ることさえ驚いた。
その後何人かの人に聞いたら、逆に「どういうこと?」と突っ込まれた。
それでその感覚がみんなにあるわけじゃないことを初めて知った。
聞かれた質問の中に、それって何か読む時に邪魔にならないの?というものがあった。
何せ子どもの頃から、物心ついた頃からそれだから、邪魔だと感じたことは一度もない。
そしてさっきスペイン語のフレーズのサイトを見て、何も音が聞こえないということを体験して、初めてその音のない世界を知った。
文字と音とがセットにならないってなんだか不思議だった。
ちなみに知らない漢字の時は2パターンある。
1つは読み飛ばす。
これはまだいい。
もう1つが厄介で、思い込みで読む。
今パッと例が出てこないけれど、私の読み違いはかなりな数があるから、後から本当の読みを人との会話から知ったなんてことが多々ある。
メールや手紙はもちろん、ツイッターやブログも。
声がそれぞれ違うのはどうやって私の脳がそんな判断をするのかはわからない。
でも何も考えずとも勝手に声は変えられてる。
この後も自分のその感覚についてシリーズで書いていこうと思う。
上に書いたことの共通点は、どれも人から習ってないということ。
物からメッセージをキャッチするとか出来事の別の意味を捉えるとかは、その見本を見せてくれた人がいたけれども、その人たちから習ったりはしていない。
ちょっとだけ見本を見せてもらって、後は自分ですぐにできるようになった。
そういう自分の性質を知るのも、徐々にで、そして上のいくつかは周りの人たちからの指摘で発覚したものもある。
自分の性質を知っていく作業は、他の出来事たちと関連していて、今振り返ると、私がそうした自分のちょっと変わった性質や体質を受け入れられる器ができると認識できるようになっていた。
私の場合、どれもこれも日常生活の延長で出てきたものばかりだったから、余計と特別感がなかったし、私自身の意識は常にほとんど変わらないから余計と分かりにくかった。
人との会話からキャッチする時はちょっとだけ違っていて、その時の私はあまり喋らないのと(下手すると本当に一言二言だけ)、相手の話を全力で聞いている。
だからかなり話やその時の空気に集中している。
でもそれだって力んでるわけじゃなくて、なるべく意識が逸れないように気をつけている程度。
そうだ…。
時々人から指摘されるけれど、「話聞いてなかったでしょう?」と言われる。
私は時々話の途中で意識が別のところに向く時がある。
気付いたら別のことを考えてた…みたいな。
そして戻ってくると、気付かぬうちに話が変わっていて、その自分の意識が別のところにある間どんな話がされてたのかてんでわからないなんてことが時々ある。
相手からしたら私が話を聞いてないってことになるけれど、私からすると意識が別のところに向いてただけ…。
と言うと怒られるから、その時は適当に相槌を打つ。
仲の良い人たちは「ぶっしー、話聞いてなかったでしょ?」と普通に突っ込んでくれるからいいけれど、そうじゃない人たちはどう思っているんだろう…。
書いてて、痛い大人の例みたいでなんか嫌だった…。
とにかく私の日常はこんな風にして成り立っている。
スピ系の人4人との出逢い
30代になってから色々と私の中の感覚が外に現れるようになってきた。
そのいくつかのことを今後紹介していこうと思う。
いくつか紹介する前に4人の人を紹介したい。
この人たちはそういう世界を私に普通に教えてくれて見せてくれた人たちだった。
私が今こうして自分にあるものを素直に受け取れるのもこの4人の存在が大きい。
>1人目ーイシダくん
イシダくんのことは、このブログでいつか触れた。
その時の記事
https://viva-vivir.blogspot.com/2018/02/blog-post_66.html?m=1
(アドレスだけで、リンクしてないから飛びません)
イシダくんは大学時代の友達の友達だった。
普通にサラリーマンしてるけれど、実は色々視える人で色んなことを言い当てる、という友達の話で、私もそれに興味を持って会わせてもらった。
だから私の人生の中で視える人第1号はイシダくんだったと思う。
当時は精神世界はめちゃくちゃ怪しいもので絶対に近寄ってはいけないと思ってた。
27歳ぐらいの時だった。
テレビで見る江原さんとかも、異星人並みに違う世界に住んでる人のごとく、そしてあれは一種のエンターテイメントぐらいな感じで見てた。
だけどイシダくんは信頼している友達が絶賛するから、本当にそれだけの理由で絶対に大丈夫な人なんだろうと判断した。
実際に会ったイシダくんは、確かに一風変わってるというのは否定できなかったけれど(良い意味で独特の雰囲気があった)、この人絶対に善良な人だというのだけはすぐにわかった。
他人を傷付けないタイプの人がいる。
イシダくんはそういうタイプの人だった。
物腰も柔らかいし、幼少の頃より遺伝的な感じで色々視えていたのだろう、そのせいで多分大変な思いもしたと予想したけれど、そういう裏の世界にも精通してるからこそ余計と落ち着いてる風に見えた。
人よりも多分嫌なものをたくさん見てきた人だと思う。
だからこそ持ってる優しさや芯の強さを感じさせる人だった。
だからイシダくんの言うことは何の疑いもなく信じられたし、反対に信じたくないことも言われたけれど、そういう時に私に合わせないところもすごく良かった。
今ならわかる。
それってすごく勇気の要る行動だし、相手に合わせずにきちんと伝える、変な期待を持たせず淡々と視えた事実だけを伝えるというのは、時にすごく相手が傷付くこともある。
だけどその時に一時的な傷を避けるのではなく、長い目で見てその人のためになることをあえて言うというのは、すごいことだと思う。
そんな人柄の人が、私の人生で初めて出会った視える人だった。
だから、私はそういう世界に対して相変わらず怪しくて近寄りたくないとは思ったけれど、イシダくんだけは別で、イシダくんのことは例外的にものすごく信じられた。
>2人目ートモさん
トモさんのこともこのブログのどこかに書いた記憶がある。
その時の記事のアドレス
https://viva-vivir.blogspot.com/2018/02/blog-post_84.html?m=1
(リンクされてないので飛びません)
トモさんは妹から紹介されて知ったマッサージの人だった。
とにかくすごい実力派の指圧師さんだった。
いつだったか、あまりにも毎回私のその時々の体の不調を言い当ててそれでそこを重点的にマッサージしてくれるから聞いたことがあった。
どうして私が何も言ってないのに、私の不具合や痛いところがわかるんですか?って。
そうしたらトモさんは、「私、その人の痛いところと同じところが自分も痛くなるので、それでわかるんです」と答えてくれた。
最初驚いたけれど、後にそういう体質の人がいるというのがわかった。
トモさんはそんな必殺技みたいなものを持ってはいたけれど、他は至って普通のとても物腰の柔らかい方だった。
そして、トモさんのこの体質を先に知っておくのはとても大切なことだった。
なぜなら、後に私もトモさんとは違う形で自分以外の人の感情や感覚がわかる体質が出現したから。
トモさんにで会っていなかったら、間違いなく私は自分の体質に混乱して、そしてその感覚を否定したと思う。
トモさんに出逢っていたおかげで、いざそんな風になりだしても、そういう意味では混乱はなかったからとても助かった。
>3人目ーユキエさん
ユキエさんとはあるセミナーの時に知り合った。
2日間開催のもので、1日目の終わりの時にユキエさんから個人セッションをしてもらった。
もし興味があればボランティアで個人セッションをします、とセミナー中に宣伝されてて、私は気になって声をかけた。
ユキエさんは「自動書記」をすると言う。
私はその時まで「自動書記」の意味がわからなかった。
聞いたことがないから当たり前で、説明されても全然見当もつかなかった。
だけど単純に興味が湧いて、私は受けたいと申し出た。
ちなみにユキエさんは「史子さんを守る守護霊たちと繋がって、そこから聞いた話をそのまま紙に書いていきます。それは私の言葉ではなく、その人たちから聞いた言葉です。私には内容を決めることもそこに意見することも一切できないので、とにかく出てきたまま書いていきます。書き終わったら声を掛けるので、それまでは史子さんはこのままの状態で待機しててください」と説明された。
説明が終わると、ユキエさんは私のノートにバーッと一気に色んなことを書き始めた。
向かい合って座ってるから何が書かれているのか逆さ文字で読めなかったけれど、とにかくすごい速さで一気に書いていった。
一度手を止めたような記憶があるけれど、それからまただだだっと一気に最後まで書かれた。
書き終えて私の方を見ると、ノートを私に差し出して「読めないところがあったら言ってください」と言われた。
一通り読んだ後、そこにユキエさんが受け取ったメッセージの全容を口頭でも説明してくれた。
今回は他の記事も一気にアップしたいから詳細は省くけれど、その時にもらったメッセージはまさに今の私に繋がっている。
予言と呼んでも良かったかもしれない。
そうした特殊能力を目の前で見て、それはそれは大層驚いたけれど、それ以上に驚いたのはユキエさんが至って普通の方だというところだった。
その書いてる時は明らかに何か別の次元と交信してる風だったけれど、そうでない時は良心的で良識のある一般の方だった。
書いてる時もそのことに集中してるだけで、他は何ら変わりはなかった。
ちなみに私はその後にも何人かユキエさんのように異次元と繋がってメッセージを伝えてくれる人たちに会ったけれど、どの人も共通してごくごく一般の方だということだった。
見ただけでは全くわからない。
それが私の感想だった。
あと、そういう能力は怖いものだと勝手に思っていたけれど、ユキエさんを見て怖いという気持ちがうんと和らいだ。
その特殊能力を私の目の前で見せてくれたユキエさんはちっとも怖くなかったし、むしろそのユキエさんの情報は私にとってとてもパワフルで、当時メンタルがとても弱っていた私にとってものすごくエネルギーを分け与えてもらえるものだった。
>4人目ーまんちゃん
まんちゃんは私のコーチングセッションのコーチだった。
2年間毎月1回会って、その後も2ヶ月に1回ぐらいの割合で会ってた。
私は最初のコーチング体験がまんちゃんだったから知らなかったけれど、後から他の人たちがするコーチングを試しに受けてとてもビックリした。
多分世間一般に広く知られてるのがその後者の人たちのやり方。
まんちゃんのようなコーチングをする人は他に見たことがなかった。
ちなみにまんちゃんと私が喫茶店で話していても、それがコーチングだとは誰も気付かないと思う。
まるで友達同士の会話で、まさか私がお金を払ってまでまんちゃんと話をしてる、それも人生の核心に迫る話をしてるだなんて誰も思わないと思う。
それはいいとして、まんちゃんの質問力は抜群だった。
ピンポイントでいつもものすごい的確な質問を的確なタイミングでしていた。
こんなすごい人に会ったことがなかった私は、ある時まんちゃんに聞いた。
「まんちゃんは何で的確な質問をピッタリのタイミングで出して聞くことができるの?」
「僕ね、その人にとって大切なことだってわかると、この指がピクピク震えるんだよ。それでわかる」
たしか薬指だった気がする。
その指先をもう一方の手で指差しながら説明してくれた。
何か大切だと感じると、その指先にサインが送られてくるらしい。
質問も「なんとなく思い付いたものを聞くんだよね」という全く答えになっていない答えをもらった。
まんちゃんがそんな風だったから、私はますますスピリチュアル的な能力、サイキックと呼んでもいいかもしれない、そういう力に対して特別感をあまり抱かなくなった。
確かにかなり特別な力を持つ人たちにも会ったけれど(ちなみにこちらは桁違いに違ってた)、まんちゃんはあまりに普通ででも突然そんなすごい能力を適材適所で発揮していて。
だからそういう人たちを特別視しなくなった。
だってまんちゃんはそういうすごい力ももちろん持っていたけれど、感情や思考を持って生きる私とそんなに大差ないように見えた。
まんちゃんみたいな特殊能力を持っているたちと知り合う、そしてたまたまその人たちがそういう力を持った人、そんな風に捉えられるようになった。
まぁまんちゃんにはとても敵わないけれど。
言うなれば、絵を描く才能があるのか、歌を歌う才能があるのか、それともそうした見えない部分について才能があるのか、それだけの差という感じだった。
まんちゃんのこともまた今後名古屋シリーズで触れていきたい中の1人。
もう1つまんちゃんの特技として、難しい本を翻訳できること。
翻訳というのは異言語から日本語に直すんじゃなくて、難しい日本語から一般人も理解できる日本語に訳せること。
量子力学とか遺伝子学とか波動調整とか集合意識とか、とにかく難しい理論をとても簡単な言葉でまんちゃんは説明してくれる。
まんちゃん無しでは私はスピリチュアル系の本からの知識は得られなかったと思う。
まんちゃんから話を聞いて読んでみたい本は何冊かあった。
だけど実際に手にして中を開いてみると、一体何がどうしたらそんな難しい話になるのかさっぱり理解できない代物だった。
まんちゃんの話だけだとすごく面白そうで私でも理解して読めるかも!と毎回期待するものの、本を開くと全く違っていた。
こんな感じで4人の人に出逢わせてもらえたおかげで、私の中でスピリチュアルな能力に対する偏見や怖さがなくなった。
多分4人に共通して良かったことは、皆どの人も素晴らしい人柄で、その人たちといるだけで心が穏やかになれるところだった。
だから怪しいとか変だというようなネガティブな見方をすることは一切なかった。
4人が4人とも素敵な人たちで、私は単純にその人たちがそのままでとても好きだった。
さらにはその人たちそれぞれの力に対してものすごくリスペクトしてた。
この4人に出逢えていたから、私も自分のそのちょっと変わった能力的なものに気付いた時、けっこうまっすぐに受け入れることができた。
次からは具体的な私の感覚について。
そのいくつかのことを今後紹介していこうと思う。
いくつか紹介する前に4人の人を紹介したい。
この人たちはそういう世界を私に普通に教えてくれて見せてくれた人たちだった。
私が今こうして自分にあるものを素直に受け取れるのもこの4人の存在が大きい。
>1人目ーイシダくん
イシダくんのことは、このブログでいつか触れた。
その時の記事
https://viva-vivir.blogspot.com/2018/02/blog-post_66.html?m=1
(アドレスだけで、リンクしてないから飛びません)
イシダくんは大学時代の友達の友達だった。
普通にサラリーマンしてるけれど、実は色々視える人で色んなことを言い当てる、という友達の話で、私もそれに興味を持って会わせてもらった。
だから私の人生の中で視える人第1号はイシダくんだったと思う。
当時は精神世界はめちゃくちゃ怪しいもので絶対に近寄ってはいけないと思ってた。
27歳ぐらいの時だった。
テレビで見る江原さんとかも、異星人並みに違う世界に住んでる人のごとく、そしてあれは一種のエンターテイメントぐらいな感じで見てた。
だけどイシダくんは信頼している友達が絶賛するから、本当にそれだけの理由で絶対に大丈夫な人なんだろうと判断した。
実際に会ったイシダくんは、確かに一風変わってるというのは否定できなかったけれど(良い意味で独特の雰囲気があった)、この人絶対に善良な人だというのだけはすぐにわかった。
他人を傷付けないタイプの人がいる。
イシダくんはそういうタイプの人だった。
物腰も柔らかいし、幼少の頃より遺伝的な感じで色々視えていたのだろう、そのせいで多分大変な思いもしたと予想したけれど、そういう裏の世界にも精通してるからこそ余計と落ち着いてる風に見えた。
人よりも多分嫌なものをたくさん見てきた人だと思う。
だからこそ持ってる優しさや芯の強さを感じさせる人だった。
だからイシダくんの言うことは何の疑いもなく信じられたし、反対に信じたくないことも言われたけれど、そういう時に私に合わせないところもすごく良かった。
今ならわかる。
それってすごく勇気の要る行動だし、相手に合わせずにきちんと伝える、変な期待を持たせず淡々と視えた事実だけを伝えるというのは、時にすごく相手が傷付くこともある。
だけどその時に一時的な傷を避けるのではなく、長い目で見てその人のためになることをあえて言うというのは、すごいことだと思う。
そんな人柄の人が、私の人生で初めて出会った視える人だった。
だから、私はそういう世界に対して相変わらず怪しくて近寄りたくないとは思ったけれど、イシダくんだけは別で、イシダくんのことは例外的にものすごく信じられた。
>2人目ートモさん
トモさんのこともこのブログのどこかに書いた記憶がある。
その時の記事のアドレス
https://viva-vivir.blogspot.com/2018/02/blog-post_84.html?m=1
(リンクされてないので飛びません)
トモさんは妹から紹介されて知ったマッサージの人だった。
とにかくすごい実力派の指圧師さんだった。
いつだったか、あまりにも毎回私のその時々の体の不調を言い当ててそれでそこを重点的にマッサージしてくれるから聞いたことがあった。
どうして私が何も言ってないのに、私の不具合や痛いところがわかるんですか?って。
そうしたらトモさんは、「私、その人の痛いところと同じところが自分も痛くなるので、それでわかるんです」と答えてくれた。
最初驚いたけれど、後にそういう体質の人がいるというのがわかった。
トモさんはそんな必殺技みたいなものを持ってはいたけれど、他は至って普通のとても物腰の柔らかい方だった。
そして、トモさんのこの体質を先に知っておくのはとても大切なことだった。
なぜなら、後に私もトモさんとは違う形で自分以外の人の感情や感覚がわかる体質が出現したから。
トモさんにで会っていなかったら、間違いなく私は自分の体質に混乱して、そしてその感覚を否定したと思う。
トモさんに出逢っていたおかげで、いざそんな風になりだしても、そういう意味では混乱はなかったからとても助かった。
>3人目ーユキエさん
ユキエさんとはあるセミナーの時に知り合った。
2日間開催のもので、1日目の終わりの時にユキエさんから個人セッションをしてもらった。
もし興味があればボランティアで個人セッションをします、とセミナー中に宣伝されてて、私は気になって声をかけた。
ユキエさんは「自動書記」をすると言う。
私はその時まで「自動書記」の意味がわからなかった。
聞いたことがないから当たり前で、説明されても全然見当もつかなかった。
だけど単純に興味が湧いて、私は受けたいと申し出た。
ちなみにユキエさんは「史子さんを守る守護霊たちと繋がって、そこから聞いた話をそのまま紙に書いていきます。それは私の言葉ではなく、その人たちから聞いた言葉です。私には内容を決めることもそこに意見することも一切できないので、とにかく出てきたまま書いていきます。書き終わったら声を掛けるので、それまでは史子さんはこのままの状態で待機しててください」と説明された。
説明が終わると、ユキエさんは私のノートにバーッと一気に色んなことを書き始めた。
向かい合って座ってるから何が書かれているのか逆さ文字で読めなかったけれど、とにかくすごい速さで一気に書いていった。
一度手を止めたような記憶があるけれど、それからまただだだっと一気に最後まで書かれた。
書き終えて私の方を見ると、ノートを私に差し出して「読めないところがあったら言ってください」と言われた。
一通り読んだ後、そこにユキエさんが受け取ったメッセージの全容を口頭でも説明してくれた。
今回は他の記事も一気にアップしたいから詳細は省くけれど、その時にもらったメッセージはまさに今の私に繋がっている。
予言と呼んでも良かったかもしれない。
そうした特殊能力を目の前で見て、それはそれは大層驚いたけれど、それ以上に驚いたのはユキエさんが至って普通の方だというところだった。
その書いてる時は明らかに何か別の次元と交信してる風だったけれど、そうでない時は良心的で良識のある一般の方だった。
書いてる時もそのことに集中してるだけで、他は何ら変わりはなかった。
ちなみに私はその後にも何人かユキエさんのように異次元と繋がってメッセージを伝えてくれる人たちに会ったけれど、どの人も共通してごくごく一般の方だということだった。
見ただけでは全くわからない。
それが私の感想だった。
あと、そういう能力は怖いものだと勝手に思っていたけれど、ユキエさんを見て怖いという気持ちがうんと和らいだ。
その特殊能力を私の目の前で見せてくれたユキエさんはちっとも怖くなかったし、むしろそのユキエさんの情報は私にとってとてもパワフルで、当時メンタルがとても弱っていた私にとってものすごくエネルギーを分け与えてもらえるものだった。
>4人目ーまんちゃん
まんちゃんは私のコーチングセッションのコーチだった。
2年間毎月1回会って、その後も2ヶ月に1回ぐらいの割合で会ってた。
私は最初のコーチング体験がまんちゃんだったから知らなかったけれど、後から他の人たちがするコーチングを試しに受けてとてもビックリした。
多分世間一般に広く知られてるのがその後者の人たちのやり方。
まんちゃんのようなコーチングをする人は他に見たことがなかった。
ちなみにまんちゃんと私が喫茶店で話していても、それがコーチングだとは誰も気付かないと思う。
まるで友達同士の会話で、まさか私がお金を払ってまでまんちゃんと話をしてる、それも人生の核心に迫る話をしてるだなんて誰も思わないと思う。
それはいいとして、まんちゃんの質問力は抜群だった。
ピンポイントでいつもものすごい的確な質問を的確なタイミングでしていた。
こんなすごい人に会ったことがなかった私は、ある時まんちゃんに聞いた。
「まんちゃんは何で的確な質問をピッタリのタイミングで出して聞くことができるの?」
「僕ね、その人にとって大切なことだってわかると、この指がピクピク震えるんだよ。それでわかる」
たしか薬指だった気がする。
その指先をもう一方の手で指差しながら説明してくれた。
何か大切だと感じると、その指先にサインが送られてくるらしい。
質問も「なんとなく思い付いたものを聞くんだよね」という全く答えになっていない答えをもらった。
まんちゃんがそんな風だったから、私はますますスピリチュアル的な能力、サイキックと呼んでもいいかもしれない、そういう力に対して特別感をあまり抱かなくなった。
確かにかなり特別な力を持つ人たちにも会ったけれど(ちなみにこちらは桁違いに違ってた)、まんちゃんはあまりに普通ででも突然そんなすごい能力を適材適所で発揮していて。
だからそういう人たちを特別視しなくなった。
だってまんちゃんはそういうすごい力ももちろん持っていたけれど、感情や思考を持って生きる私とそんなに大差ないように見えた。
まんちゃんみたいな特殊能力を持っているたちと知り合う、そしてたまたまその人たちがそういう力を持った人、そんな風に捉えられるようになった。
まぁまんちゃんにはとても敵わないけれど。
言うなれば、絵を描く才能があるのか、歌を歌う才能があるのか、それともそうした見えない部分について才能があるのか、それだけの差という感じだった。
まんちゃんのこともまた今後名古屋シリーズで触れていきたい中の1人。
もう1つまんちゃんの特技として、難しい本を翻訳できること。
翻訳というのは異言語から日本語に直すんじゃなくて、難しい日本語から一般人も理解できる日本語に訳せること。
量子力学とか遺伝子学とか波動調整とか集合意識とか、とにかく難しい理論をとても簡単な言葉でまんちゃんは説明してくれる。
まんちゃん無しでは私はスピリチュアル系の本からの知識は得られなかったと思う。
まんちゃんから話を聞いて読んでみたい本は何冊かあった。
だけど実際に手にして中を開いてみると、一体何がどうしたらそんな難しい話になるのかさっぱり理解できない代物だった。
まんちゃんの話だけだとすごく面白そうで私でも理解して読めるかも!と毎回期待するものの、本を開くと全く違っていた。
こんな感じで4人の人に出逢わせてもらえたおかげで、私の中でスピリチュアルな能力に対する偏見や怖さがなくなった。
多分4人に共通して良かったことは、皆どの人も素晴らしい人柄で、その人たちといるだけで心が穏やかになれるところだった。
だから怪しいとか変だというようなネガティブな見方をすることは一切なかった。
4人が4人とも素敵な人たちで、私は単純にその人たちがそのままでとても好きだった。
さらにはその人たちそれぞれの力に対してものすごくリスペクトしてた。
この4人に出逢えていたから、私も自分のそのちょっと変わった能力的なものに気付いた時、けっこうまっすぐに受け入れることができた。
次からは具体的な私の感覚について。
2018年6月16日土曜日
休止期間中の徒然記
6月13日(水)
おとといアップした時点で、しばらくブログのアップをストップ、小休止しようと考える。
色んな話が途中のままではあったけれど、あの時プツっとスイッチが切れた。
自分の中で、それまで支えとなってたものに力が入らなくなった。
だから良くも悪くもあきらめるために最後の賭けに出た。
気持ちがいきなり変わったわけじゃない。
だけど、先の見えないもの、何1つ知らないまま今があってその今がこれからも続くことを思った時に、心はその場にペタンと座り込んだ。
立ち上がれなかった。
そしてもういいんじゃないかな、もうがんばって自分の信じたいものを信じてここまで来たんだからこれでいいんじゃないかな、という気持ちだった。
これでいいんじゃないかというのは、もう一旦全てを手放すという意味で。
ここまで信じきってでも何も起こらなかった、だから次は信じるんじゃなくて、別の選択をしてもいいんじゃないかなと。
翌朝火曜日になって、ふと書いたことはいいけれど、しばらくブログを休止した場合、あの記事がトップになるのは嫌だった。
人の目に触れさせたいものではない。
そこでもう1つだけ何かを書いて、少なくともブログのトップに来るものは別のものに改めようと思った。
書きながら頭をひねった。
わざとわからないようにして書いた。
私にしたらこの世でたった1人にだけきちんと伝わればそれでいいから、そこだけを意識して書いた。
文脈が大きくズレないように、暗号を書いた。
本人を示すものを書いた。
そして、その人に向けたメッセージを書いた。
名探偵コナンか金田一少年の気分だった。
6月14日(木) 新月
自分の心の動きを観察している。
アップをしばらく控えると決めて以降自分の心はどう変化するのかを見ている。
初日は大きな荷物を降ろしたような、スペースが空いたみたいで気持ち良かった。
そしてその空いたスペースには、自分を癒すメッセージが来た。
癒すメッセージが本に書いてあったことなのか、自分で本を読み違えて解釈して出てきたことなのかわからない。
今日はそれを確認してくる。
2日目の昨日からは、あの空いたスペースはどこに行った⁇と思うほど、色んなことが頭から離れなくなった。
過去の幾つかのシーンまで思い出した。
過去のシーンたちは思い出すと切なくなるから避けていた。
避けてばかりいたら記憶が薄れてしまった件(汗)。
薄れたけれど、何とか思い出したくて1つの瞬間を何回か反芻する。
徐々に当時の記憶がよみがえってきた。
「伝えて送ることを撤去する」
そうなる前に最後私が見て感じたものは、相手からの「伝えて送ること」だった。
伝えて送ることを撤去する資料をその人は探してた。
何を探していたのかは見ただけではわからなかったから、私は後ろから声をかけて何を探してるのかを聞いた。
私は最初自分が何か変なことを聞いたのかと思った。
それぐらいに普段のその人からは考えられないようなリアクションだった。
その人がどの程度自分の心の機微に気付いたかは知らない。
だけど明らかに何かが違っていた。
今となれば本人以外答えを持ってないし、もしかしたら本人さえも答えを知らないのかもしれない。
いずれにしても私はそこでとても都合のいいように解釈をした。
それが小さなメモに始まって、次なる手紙に繋がった。
小さなメモは面白いシンクロが後にわかった。
断捨離をしてた頃だから、年明け前辺りだと思う。
小さなメモは、百均で買ってきた。
ただ気に入ったデザインがなくて、私はメモはメモ、それを入れる小さな封筒は封筒で買った。
小さな封筒は、本来他のメモとのセット販売になってた。
武士のようなちょんまげの人がメモの形になってて、それに茶色の模造紙風の封筒が付いてた。
私は封筒だけ使って、武士メモはそのままにしてある。
で、その残りものたちを断捨離の時に見つけて、私は当初もう使わないから捨てようとしてた。
捨てようとしたその時、武士メモが入っている透明の袋のバーコード部分と商品名が目に入った。
商品を作った会社の名前がアルファベットであった。
それはそのメモが渡った人が勤めてる会社の名前の前半部分と全く一緒だった。
買った時はそんなこと当然知らない。
その武士メモとアルファベットの会社名とが重なって、私はそれを捨てるのをやめた。
こんなところでもパワーが注入されるかのごとく、ちょっとした重なりがあったんだなと思った。
伝えて送ることは私のどこまでもおめでたすぎる勘違いだったようで、その後は撤去なんて可愛いものではなく、もっとグサリと一突きされるものが返ってきた。
目には見えないけれど、絶対的なNOを示された。
『原点に戻ろう』
こんな言葉が出てきた。
今日は快晴、風もあって外は気持ち良かった。
今日歩いて通った場所に学校のグラウンド並みに広い芝生の広場がある。
私はその上を裸足で歩くのが好きで、今日もスニーカーと靴下脱いで裸足で歩いた。
歩きながら色んなことを思い出してた。
私がそもそもこのブログに色んなことを書き始めた最初の理由は、もしその人の目に触れるのであれば、あったことや自分の感じたことをありのまま書いて伝えようと思ったから。
直接伝える機会がないまま今に至ってるから、せめてこういう形であっても伝わるのであれば伝えたい、知ってて欲しい、生きてるうちに知ってて欲しい、そう思って書き始めた。
書き始めた当初から無茶苦茶な確率に賭けて書いたのは知ってた。
1%どころか、その1の前にいくつゼロが付きますか?0.000000…みたいなすごい確率のところに私は賭けをした。
その時は、何も書かなければ本当のゼロだけど、書けばゼロではなくなる、何かしらの可能性が生まれると考えた。
限りなくゼロでも、100%のゼロじゃないよね?のレベル。
普通に考えて無謀としか思えない可能性を打ち出して、それに賭けた私。
だいぶ狂ってる発想だったけれど、どうしても私はあきらめきれず、とりあえず書きたいから書く、書かなきゃ伝わらないの精神だけでブログを綴った。
これはどちらが先だったのか忘れた。
多分こっちが先。
私はある時、その人が読んでる気がする、と何を根拠に思ったのか、本当にそんな風に思った。
根拠なんてなくて、そう思ったからそう思ったに近い。
で、多分こっちが後。
それは本当によく覚えてる。
ブログをいくつかまとめてアップしたある日のこと。
私はアップしてスッキリしたのと、色々満たされてほわーんと車の中でなっていたのと、そんな風だった。
ところが、それから15分くらいした頃、私は強烈に左胸からみぞおちにかけて痛くなった。
昔から度々あることで、年に数回片手で数える程度、その痛みには襲われてた。
でもそれまでは必ずその前に私は色んなものを抱え込みすぎて心が疲弊してるというのがあったから、いつも出る時はその前の何かと連動してた。
それがその時は私は自分でも記憶に残るくらい気持ちは良い方に上がっていたから、その痛みが発生するような理由や状況がなかった。
自分にしてはおかしいと思った。
これが本当に私個人のものなら、その痛くなる理由がなかった。
だけどこれがもし、もし私ではなく、他の誰かのものなら理由はわかった。
その時アップした記事の一つがその人の痛みを引き出すと仮定するなら納得できた。
その時を皮切りに、ある特定の内容がアップされるとその痛みも時間差でもれなくやってくることが数回続いた。
ちなみに痛みは毎回勤務時間外にやってくる。
仕事中は仕事に集中するタイプの人だから、日中はまず起こらない。
夜の遅い時間か朝の早い時間にしか痛みはやってこない。
私はそのおかしな現象に対してはちょっとだけ予備知識を持ってた。
調べたものたちによるとこうだった。
魂レベルでものすごく深い繋がりのある関係の場合、片方の心の痛みがもう片方の体にも現れるというもの。
地理的な距離は関係ないらしく、言うなれば虫の知らせみたいな感覚に近いものというような説明がどこかにあった記憶がある。
そして関係と言っても、普通に恋人同士とか夫婦とかではなく、はっきり言って目に見える形の関係はなくても痛みの伝達、テレパシーみたいなのは起こるとあった。
最初読んだ時はそんなバカな⁉︎と思ったけれど、何ならその人たちみんなそんな変なこと言ってて大丈夫⁉︎と大真面目に思ったけれど、その後色々情報を探し回った時、何人もの経験者の方たちがリアルな体験をブログなんかに書いていて、どうもそういうこともあるらしいということは知った。
でも私は半信半疑だった、本当に自分も体験するまでは。
そんな非科学的どころか妄想みたいな話ではあったけれど、現に痛いは痛かったし、それがブログと連動してるのがわかったから、それで私は読んでいるのかなと思った。
そんなことが秋から冬に変わるぐらいの辺りであって、それで私は徐々に伝えようと自分の中で決めていった。
もう一生会うことがないかもしれなくても、せめて何があったのか、私の側から見た風景や出来事はどんなだったのかその人に伝えようと思った。
もしその人が本当に読んでるのであれば、少なくとも書いたらその人も知れる。
そして知ってもらえる。
だから、超個人的なことをこのブログではぶっちゃっけていたし、それを私の気が済むまでやろう、伝えたい限りは伝え続けようと思った。
『本当のことを伝えよう』
夕方、遅い昼寝から目覚めた時、まずは感覚として出てきた。
今回ブログを小休止した最初の理由は、もうこのままその人とのことで何も変わらないのが嫌だ、そんなのをこれから先また1年とかもっと長く続けるのが嫌だということがあった。
でも時間が経つにつれて、本当に嫌なことが何かわかった。
私は自分の中で色々感じてることを隠し続けながら発信するのが嫌だった。
先に書いたような感覚とか、他にも色んなことを感じてきたのに、それを隠しながら、本音をベールに包んだままこのブログを発信することに疲れてた。
実は読んでるんじゃないかともう何ヶ月も前から思っているのに、それを隠して書くのも嫌だった。
これまでは適当に書けたしアップできたけれど、数日前、突然全てが嫌になった。
この1年ほどで本当にびっくりするぐらいに色々あったから、私の中でもしその人から連絡が来ても、そして実はブログを読んでたと言われても不思議じゃない。
他のことの方がもっと訳のわからないことだらけだったから、何と何が繋がっていようと、そして普通には起こらないとかおかしいと思うことでも、もはや私の人生がそんな形で日々色々あるから、そういう意味では驚かない。
普通に、世間一般的な価値観で考えた場合、一度自分から断っといてその相手に自らまた連絡するなんていうのは相当な勇気が必要だと思う。
葛藤もあると思うし、普通には変とかおかしいと思われてもおかしくないだろうと思う。
でも、私にはそんな風にには映らない。
私は自分の数々の発言の方がよほど常軌を逸してると思っているから、私以外の人の意味不明な行動や言動なんかはお互い様だよねならまだ良い方で、私の方がよほどヤバイ…と思うことの方が多い。
で、話を戻すと。
これまでは私は、私自身が「その人が私のブログを読んでる気がしてる」というのは自分の中だけに留めておくつもりだった。
まずそんなこと言ったら本気のおかしな人だというのは自分でもわかってたし、本当に読んでくれてるならそんな風に思われたくなかった。
多分その人もそんなこと知られたくないだろうとも思った。
実は今回公表に至るまで、私の中では相当な葛藤があった。
これはその人がまだ近くにいた時のこと、私は「もしその人と一緒になれるとしたら…」という本当におめでたい想像を何回かした。
ちなみにおめでたい想像をしたくてしたと言うよりも、私は自分の中の絶対に普通の付き合いでは人に言わない・言えない部分について、その人に伝える勇気があるかどうかを見極めるために、そのおめでたい想像をした。
その中の1つがスピリチュアルなことだった。
それにとても興味があるだけではなく、石(ペンジュラム)も普段使いすればその他諸々一般的にドン引きされたり精神病ですか?と言われかねない世界に自分の日々がかなり密接な関係であることをその人に伝えられるかな?というのは何度も考えた。
私は自分が元々すごく抵抗があってスピ系には絶対に近寄らなかったから、その人が受け入れられなくても当然仕方ないと思った。
だけどそれを本当に伝えたり、もしくは伝えることで関係がダメになっても私は大丈夫なんだろうかとか、まぁありもしない現実をあれこれ想像した。
だけど、そこはもう避けて通れない道でもあったから、本当に個人的に話せるようになった場合、それも含めて私は相手に自分を見せれるのかどうかは相当考えた。
まさかこの1年でその部分がさらにパワーアップするだなんて想定外過ぎたけれど、そんなこともずっと頭にあった。
忘れもしない去年の12月2日の友達開催の「命の授業」のイベントの後、ありのままの自分で色んなことを表現したいと思った。
その時に1つ思った。
どうせ連絡がついてない今だから、このブログ上でスピの話も少しずつしてみたらどうかと。
嫌なら読むことも止めるだろうと予想した。
しかも日々近くにいない分、好き放題に書ける。
好き放題というのは、相手の顔色を伺う必要がなく、自分の思うがままに書けるということ。
私はそういう自分を知って欲しいというのもあった。
今、この数ヶ月を振り返って少しずつ表現を積み重ねてきて良かったと思ってる。
半年前の12月の私と比べても、今の私は違う風になっている。
6月15日(金)
ようやく自分の中の気持ちが固まってきた。
やっぱりこのブログ上でこれまで隠し通したことを公表しようと。
これまでは隠してた方が都合良く感じていたけれど、今は隠す方ではない方法を採りたいと思ってる。
その人が読んでる気がすると思ってから今に至るまで、他にも色んなサインがあった。
私は知らないフリしてずっと発信し続けるのはもはや無理だと思った。
無理というのは私の方がもたないという意味で。
心がペタンと座り込んだ時というのは、こんなことを、すっとぼけて何もわからないフリをしてまた色んなことをこれからも発信し続けるのが無理だと感じたんだと思う。
それをまた1年とか続けて、1年後に「2年後」なんて振り返るのは本気で嫌だった。
なんなら、秋さえも迎えられる気がしなかった。
相手の反応は私にはわからないことでも、せめて自分側の隠すスタンスは変えたいと思った。
今回公表する時に、この話だけだとおかしな内容になるから、私は自分の体質的な感覚についても、公表しようと決めた。
その人に関係のない部分でも元々普通とは違う体質もあること、それを伝えようと思った。
その人に関してのものはかなり特殊だけれど、元々の体質にも似通ったようなものがあるから、それと一緒に説明すればもう少し読む側もわかりやすいかな…と。
例えば私は金属アレルギー持ちだけれど、それに近い。
寒がりな人がそうなように、私の持ってるものも周りから見て同じ風にわからないものなんだろうと思う。
要は、本人は体感できるレベルでも、周りの人から見てその人が金属アレルギーとか冷え性なんてのはわからない。
それと同様、私のちょっと変わった体質も見ただけではさっぱりわからない。
さらには健康被害の出るものではないから、余計と周りからは気付かれない。
ただ、冷え性みたく身近に普通にたくさんある体質ではないから、そしてこれは一歩間違えたら精神病と勘違いされてもおかしくないことだから、だから黙ってる。
私の体質的なものは、黙っていたら誰も知ることがない。
金属アレルギーが症状を起こさない限り見えないのと一緒で、私の体質的なものは外には一切見えない。
そして私本人にしかわからないことだから、私しか説明ができないし、聞いた瞬間受け付けられない人は受け付けられないと思う。
自ら人間関係を悪くしたくないから、必要に迫られない限り黙っている。
多分そのスタンスはこれからも変わらない。
私のものが説明しにくい理由の一つに「あまりない」ことが挙げられる。
私のものは霊媒体質とは違う。
霊感と言われる感覚は私の場合全くない。
何も視えないし聞こえない。
そういうのであればもう少し一般的にもわかりやすかったかもしれない。
私のはあまりにも普段からごく当たり前の感覚で、しかもごく最近までそれを特別だとは思っていなかったから、余計とわからなかった。
そういう体質ゆえ、その人に関することも体の方に起こっても不思議ではない、という風に私は見ている。
当たり前だけれど、どこにも立証する手立てもなければ、そんなのは私の空想や妄想だと言われたらそうなのかもしれない。
私は無理に証明しようとも思ってなければ、周りの人たちにわかって欲しいなんていうのもない。
私としてもハチャメチャなことを言ってるなと思う。
理解して欲しいなんていうとんでもないハードルを掲げるつもりも期待もない。
でもせめてその人には知ってて欲しい、そういう気持ちで今回は書いてる。
こんなことぶちまけた日にはますます距離を置かれて生涯連絡しませんとなるかもしれない。
でも、もうこの隠し通すためにエネルギーは注げない。
無理なことを自分に強いてるから、それはやっぱり続けられない。
次の1年、2年…とか考え出すと「無理」という文字しか浮かばない。
たかが2ヶ月でこんなにも自分の中にあるものに気付いたということは、これから先ますます開いてくる可能性がある。
これは勝手な予想だけれど、私の場合、他の人たちに使えば使うほど多分そうした見えない力も開いてくる。
私のためだけなら開かない。
だけど私が何かしらキャッチしてそれが私以外の誰かのためになるものなら、それは必要に応じての流れだから、必要な人たちに少しでも届くようになってる気がする。
現に、周りの人たちに伝えられる情報量がこの2ヶ月半ほどで一気に上がった。
トレーニングも何もしてないのに上がったから、しかも自分のためにはそういうことにならないから、だからあくまでも誰かがいて初めて力を発揮するものなんだと思って見ている。
そして今週から私は自分の中のごちゃごちゃとした思考を整理するための体を使ったエクササイズやちょっとしたことを取り入れ始めた。
周りからみたら怪しさ満載なことをしている。
とりあえず、古代文字の音読(1分)とパワーストーンを入れた水を飲む(コップ1杯)のとタッピングと呼ばれる自分の体を軽く叩いて潜在意識に働きかけること(1、2分)を始めた。
どれが良いのか、それともそんなの関係ないのか、意識が時々やたらとクリアになることがある。
その時には必要なメッセージを読むなりキャッチするなりしてるから、しばらく続けて様子を見ようと思ってる。
だから、それが本当に効果があるのかは知らないけれど、飽きるまで試そうと思ってる。
『自分を出して嫌われたらもう仕方ない』
今回の自分自身についての告白はかなり勇気が必要だった。
古代文字の音読なんて、1人で部屋の中でするからいいけれど、はたから見たら滑稽に見える。
まだ現段階では「こんな効果がありました!」というところまではわからないから、とりあえず継続して1日1回ないし2回してる。
他にも色々ぶっ飛んでるのは承知してる。
他人様に積極的に見せたい自分ではない。
どちらかと言えば隠したい。
だけど、こういう私ももちろん私なわけで隠せない。
社会の中では隠せるけれど、個人的な関係の場合、ある程度の自己開示は必要だし、関係が近くなればなるほど隠し通せない。
これからの私はこの方向に行こうとしてるから、もしその私が無理で嫌われたら仕方ない。
相手に好かれるために自分を変えるのは多分もうできない。
相手を不快にさせるものはもちろん改善も必要だと思うけれど、こうした私の日常の一部、しかも全部足しても1日の中の5分程度、それが平気じゃない人だと、その人に限らず誰でもダメだと思ってる。
だから、今回こうして告白することは、すなわち私の中で嫌われても仕方ない、それでも自分で生きていく覚悟も同時に発生している。
そんな風に思っている。
と同時に、自分のままでいることが相手から受け入れ難いものであるとするなら、もうそれは仕方ないと割り切れる。
こればかりは私の一方的な気持ちを押し付けるわけにはいかない。
『伝えなくても一生後悔しない?』
今回公表を決意した時に自分に聞いた質問。
相手の人が読んでるかもしれないと思いながら書いていたこのブログ。
そう思ってたことやそれにまつわる他の色んなことも含めて、「伝えない」という選択をした場合、私は後悔しないのかな…?と問いかけた。
この手の質問をする時、まずは今の瞬間後悔しないかどうかを自分に問いかける。
今だけを見る時、私は逃げようとすることも多々ある。
今回の場合で言えば、そこまで公表しなくていいんじゃない⁉︎って。
その時はさらに質問を重ねる。
視点を今だけに絞らず、自分が死ぬ間際の辺りにいると想定して、死ぬまでにこれをしなくても私は後悔しない?と自分に問いかける。
当たり前だけど、いつかは死ぬ。
その時に伝えなかったことを私は後悔しないかどうか。
相手が目にするしないは一旦脇に置いて、私自身が伝えなくても平気なのかどうか、後悔しないのかどうか、そこだけに注目する。
もし伝えなかったら後悔するだろうことは目に見えた。
本当のところ、その人が目にしてるかどうかなんてわからない。
これで相手は一切見てないとなればちゃんちゃらおかしな滑稽な笑い話になる。
それでもいいから、私自身が後悔しないのかだけを見ると、口を閉じてる方が後悔するってわかった。
こんなことするの、一生に一度きりと思えば、何てことないと思った。
この全てが私の過大な妄想だったと判明しても、それさえもどうでもいいと思った。
私は伝わってる可能性があるなら、真実を伝えたいだけ。
それを相手に知って欲しいだけ。
だから伝えるという選択をしないと、私は残りの人生で後悔しそうだと思った。
その後悔は嫌で、だからこそ伝えることを選んだんだ、と自分で自分に納得した。
6月16日(土)
『知ってて欲しい』
今同時進行で自分の性質や体質についても書いている。
自分の持ち札を見せようと思った理由。
その人に「知って欲しい」から。
その人がこのブログを読んでるんじゃないかと思った理由は、いくつかある。
どれも本人が「読んでた」と言ってくれない限りは、私は本当のところを知らない。
知らないけれど、そう思うに至る理由はもちろんあった。
理由は全部は今回書かないけれど、一部書いたことで、わたしはせめてそのことに関する信憑性を増すために自分のことを書こうと思った。
単なる願望とか当てずっぽうとかではなく、もちろんその要素も否定はできないけれど、この自分の体質的なものも関係している。
そう思うことの裏側では、私の体質も手伝ってそう思うに至ることも含まれている。
その性質や体質は、はっきり言って、証明できる手段が何もない。
全部私の感覚だけで成り立っていて、そんなのどうやっても数値にしたりとか見える化にはできない。
だからせめて自分の持ち札だけはオープンにして見せようと思った。
(書いた時間:午前9時頃)
『88888』
今日2018年6月16日特大奇跡がやって来た。
もうブログの休止は早々と切り上げることを決めた。
その特大奇跡を目の当たりにしたら、より一層ブログを綴る勇気が湧いた。
綴るよりも公表することへの勇気かな。
今日見た全てのこと、ここ2週間ほどの体調不良や、2年前に行きたかったけれど行けなかったイベントや、住所や、友達が紹介してくれた本や、明日前の前の仕事で一緒だった人たちと会うことや、何ならペンジュラムまで、その全てが渾然一体となって1つの物語を紡いだ。
そして奇跡の中心に1人の人が深く関与していて、それ見たらもうごちゃごちゃ言うのは止めて、自分が目にした奇跡を信じようと改心した。
奇跡の物語は後日。
今日はこれからとりあえず溜まりに溜まった記事たちを仕上げてしまう。
おとといアップした時点で、しばらくブログのアップをストップ、小休止しようと考える。
色んな話が途中のままではあったけれど、あの時プツっとスイッチが切れた。
自分の中で、それまで支えとなってたものに力が入らなくなった。
だから良くも悪くもあきらめるために最後の賭けに出た。
気持ちがいきなり変わったわけじゃない。
だけど、先の見えないもの、何1つ知らないまま今があってその今がこれからも続くことを思った時に、心はその場にペタンと座り込んだ。
立ち上がれなかった。
そしてもういいんじゃないかな、もうがんばって自分の信じたいものを信じてここまで来たんだからこれでいいんじゃないかな、という気持ちだった。
これでいいんじゃないかというのは、もう一旦全てを手放すという意味で。
ここまで信じきってでも何も起こらなかった、だから次は信じるんじゃなくて、別の選択をしてもいいんじゃないかなと。
翌朝火曜日になって、ふと書いたことはいいけれど、しばらくブログを休止した場合、あの記事がトップになるのは嫌だった。
人の目に触れさせたいものではない。
そこでもう1つだけ何かを書いて、少なくともブログのトップに来るものは別のものに改めようと思った。
書きながら頭をひねった。
わざとわからないようにして書いた。
私にしたらこの世でたった1人にだけきちんと伝わればそれでいいから、そこだけを意識して書いた。
文脈が大きくズレないように、暗号を書いた。
本人を示すものを書いた。
そして、その人に向けたメッセージを書いた。
名探偵コナンか金田一少年の気分だった。
6月14日(木) 新月
自分の心の動きを観察している。
アップをしばらく控えると決めて以降自分の心はどう変化するのかを見ている。
初日は大きな荷物を降ろしたような、スペースが空いたみたいで気持ち良かった。
そしてその空いたスペースには、自分を癒すメッセージが来た。
癒すメッセージが本に書いてあったことなのか、自分で本を読み違えて解釈して出てきたことなのかわからない。
今日はそれを確認してくる。
2日目の昨日からは、あの空いたスペースはどこに行った⁇と思うほど、色んなことが頭から離れなくなった。
過去の幾つかのシーンまで思い出した。
過去のシーンたちは思い出すと切なくなるから避けていた。
避けてばかりいたら記憶が薄れてしまった件(汗)。
薄れたけれど、何とか思い出したくて1つの瞬間を何回か反芻する。
徐々に当時の記憶がよみがえってきた。
「伝えて送ることを撤去する」
そうなる前に最後私が見て感じたものは、相手からの「伝えて送ること」だった。
伝えて送ることを撤去する資料をその人は探してた。
何を探していたのかは見ただけではわからなかったから、私は後ろから声をかけて何を探してるのかを聞いた。
私は最初自分が何か変なことを聞いたのかと思った。
それぐらいに普段のその人からは考えられないようなリアクションだった。
その人がどの程度自分の心の機微に気付いたかは知らない。
だけど明らかに何かが違っていた。
今となれば本人以外答えを持ってないし、もしかしたら本人さえも答えを知らないのかもしれない。
いずれにしても私はそこでとても都合のいいように解釈をした。
それが小さなメモに始まって、次なる手紙に繋がった。
小さなメモは面白いシンクロが後にわかった。
断捨離をしてた頃だから、年明け前辺りだと思う。
小さなメモは、百均で買ってきた。
ただ気に入ったデザインがなくて、私はメモはメモ、それを入れる小さな封筒は封筒で買った。
小さな封筒は、本来他のメモとのセット販売になってた。
武士のようなちょんまげの人がメモの形になってて、それに茶色の模造紙風の封筒が付いてた。
私は封筒だけ使って、武士メモはそのままにしてある。
で、その残りものたちを断捨離の時に見つけて、私は当初もう使わないから捨てようとしてた。
捨てようとしたその時、武士メモが入っている透明の袋のバーコード部分と商品名が目に入った。
商品を作った会社の名前がアルファベットであった。
それはそのメモが渡った人が勤めてる会社の名前の前半部分と全く一緒だった。
買った時はそんなこと当然知らない。
その武士メモとアルファベットの会社名とが重なって、私はそれを捨てるのをやめた。
こんなところでもパワーが注入されるかのごとく、ちょっとした重なりがあったんだなと思った。
伝えて送ることは私のどこまでもおめでたすぎる勘違いだったようで、その後は撤去なんて可愛いものではなく、もっとグサリと一突きされるものが返ってきた。
目には見えないけれど、絶対的なNOを示された。
『原点に戻ろう』
こんな言葉が出てきた。
今日は快晴、風もあって外は気持ち良かった。
今日歩いて通った場所に学校のグラウンド並みに広い芝生の広場がある。
私はその上を裸足で歩くのが好きで、今日もスニーカーと靴下脱いで裸足で歩いた。
歩きながら色んなことを思い出してた。
私がそもそもこのブログに色んなことを書き始めた最初の理由は、もしその人の目に触れるのであれば、あったことや自分の感じたことをありのまま書いて伝えようと思ったから。
直接伝える機会がないまま今に至ってるから、せめてこういう形であっても伝わるのであれば伝えたい、知ってて欲しい、生きてるうちに知ってて欲しい、そう思って書き始めた。
書き始めた当初から無茶苦茶な確率に賭けて書いたのは知ってた。
1%どころか、その1の前にいくつゼロが付きますか?0.000000…みたいなすごい確率のところに私は賭けをした。
その時は、何も書かなければ本当のゼロだけど、書けばゼロではなくなる、何かしらの可能性が生まれると考えた。
限りなくゼロでも、100%のゼロじゃないよね?のレベル。
普通に考えて無謀としか思えない可能性を打ち出して、それに賭けた私。
だいぶ狂ってる発想だったけれど、どうしても私はあきらめきれず、とりあえず書きたいから書く、書かなきゃ伝わらないの精神だけでブログを綴った。
これはどちらが先だったのか忘れた。
多分こっちが先。
私はある時、その人が読んでる気がする、と何を根拠に思ったのか、本当にそんな風に思った。
根拠なんてなくて、そう思ったからそう思ったに近い。
で、多分こっちが後。
それは本当によく覚えてる。
ブログをいくつかまとめてアップしたある日のこと。
私はアップしてスッキリしたのと、色々満たされてほわーんと車の中でなっていたのと、そんな風だった。
ところが、それから15分くらいした頃、私は強烈に左胸からみぞおちにかけて痛くなった。
昔から度々あることで、年に数回片手で数える程度、その痛みには襲われてた。
でもそれまでは必ずその前に私は色んなものを抱え込みすぎて心が疲弊してるというのがあったから、いつも出る時はその前の何かと連動してた。
それがその時は私は自分でも記憶に残るくらい気持ちは良い方に上がっていたから、その痛みが発生するような理由や状況がなかった。
自分にしてはおかしいと思った。
これが本当に私個人のものなら、その痛くなる理由がなかった。
だけどこれがもし、もし私ではなく、他の誰かのものなら理由はわかった。
その時アップした記事の一つがその人の痛みを引き出すと仮定するなら納得できた。
その時を皮切りに、ある特定の内容がアップされるとその痛みも時間差でもれなくやってくることが数回続いた。
ちなみに痛みは毎回勤務時間外にやってくる。
仕事中は仕事に集中するタイプの人だから、日中はまず起こらない。
夜の遅い時間か朝の早い時間にしか痛みはやってこない。
私はそのおかしな現象に対してはちょっとだけ予備知識を持ってた。
調べたものたちによるとこうだった。
魂レベルでものすごく深い繋がりのある関係の場合、片方の心の痛みがもう片方の体にも現れるというもの。
地理的な距離は関係ないらしく、言うなれば虫の知らせみたいな感覚に近いものというような説明がどこかにあった記憶がある。
そして関係と言っても、普通に恋人同士とか夫婦とかではなく、はっきり言って目に見える形の関係はなくても痛みの伝達、テレパシーみたいなのは起こるとあった。
最初読んだ時はそんなバカな⁉︎と思ったけれど、何ならその人たちみんなそんな変なこと言ってて大丈夫⁉︎と大真面目に思ったけれど、その後色々情報を探し回った時、何人もの経験者の方たちがリアルな体験をブログなんかに書いていて、どうもそういうこともあるらしいということは知った。
でも私は半信半疑だった、本当に自分も体験するまでは。
そんな非科学的どころか妄想みたいな話ではあったけれど、現に痛いは痛かったし、それがブログと連動してるのがわかったから、それで私は読んでいるのかなと思った。
そんなことが秋から冬に変わるぐらいの辺りであって、それで私は徐々に伝えようと自分の中で決めていった。
もう一生会うことがないかもしれなくても、せめて何があったのか、私の側から見た風景や出来事はどんなだったのかその人に伝えようと思った。
もしその人が本当に読んでるのであれば、少なくとも書いたらその人も知れる。
そして知ってもらえる。
だから、超個人的なことをこのブログではぶっちゃっけていたし、それを私の気が済むまでやろう、伝えたい限りは伝え続けようと思った。
『本当のことを伝えよう』
夕方、遅い昼寝から目覚めた時、まずは感覚として出てきた。
今回ブログを小休止した最初の理由は、もうこのままその人とのことで何も変わらないのが嫌だ、そんなのをこれから先また1年とかもっと長く続けるのが嫌だということがあった。
でも時間が経つにつれて、本当に嫌なことが何かわかった。
私は自分の中で色々感じてることを隠し続けながら発信するのが嫌だった。
先に書いたような感覚とか、他にも色んなことを感じてきたのに、それを隠しながら、本音をベールに包んだままこのブログを発信することに疲れてた。
実は読んでるんじゃないかともう何ヶ月も前から思っているのに、それを隠して書くのも嫌だった。
これまでは適当に書けたしアップできたけれど、数日前、突然全てが嫌になった。
この1年ほどで本当にびっくりするぐらいに色々あったから、私の中でもしその人から連絡が来ても、そして実はブログを読んでたと言われても不思議じゃない。
他のことの方がもっと訳のわからないことだらけだったから、何と何が繋がっていようと、そして普通には起こらないとかおかしいと思うことでも、もはや私の人生がそんな形で日々色々あるから、そういう意味では驚かない。
普通に、世間一般的な価値観で考えた場合、一度自分から断っといてその相手に自らまた連絡するなんていうのは相当な勇気が必要だと思う。
葛藤もあると思うし、普通には変とかおかしいと思われてもおかしくないだろうと思う。
でも、私にはそんな風にには映らない。
私は自分の数々の発言の方がよほど常軌を逸してると思っているから、私以外の人の意味不明な行動や言動なんかはお互い様だよねならまだ良い方で、私の方がよほどヤバイ…と思うことの方が多い。
で、話を戻すと。
これまでは私は、私自身が「その人が私のブログを読んでる気がしてる」というのは自分の中だけに留めておくつもりだった。
まずそんなこと言ったら本気のおかしな人だというのは自分でもわかってたし、本当に読んでくれてるならそんな風に思われたくなかった。
多分その人もそんなこと知られたくないだろうとも思った。
実は今回公表に至るまで、私の中では相当な葛藤があった。
これはその人がまだ近くにいた時のこと、私は「もしその人と一緒になれるとしたら…」という本当におめでたい想像を何回かした。
ちなみにおめでたい想像をしたくてしたと言うよりも、私は自分の中の絶対に普通の付き合いでは人に言わない・言えない部分について、その人に伝える勇気があるかどうかを見極めるために、そのおめでたい想像をした。
その中の1つがスピリチュアルなことだった。
それにとても興味があるだけではなく、石(ペンジュラム)も普段使いすればその他諸々一般的にドン引きされたり精神病ですか?と言われかねない世界に自分の日々がかなり密接な関係であることをその人に伝えられるかな?というのは何度も考えた。
私は自分が元々すごく抵抗があってスピ系には絶対に近寄らなかったから、その人が受け入れられなくても当然仕方ないと思った。
だけどそれを本当に伝えたり、もしくは伝えることで関係がダメになっても私は大丈夫なんだろうかとか、まぁありもしない現実をあれこれ想像した。
だけど、そこはもう避けて通れない道でもあったから、本当に個人的に話せるようになった場合、それも含めて私は相手に自分を見せれるのかどうかは相当考えた。
まさかこの1年でその部分がさらにパワーアップするだなんて想定外過ぎたけれど、そんなこともずっと頭にあった。
忘れもしない去年の12月2日の友達開催の「命の授業」のイベントの後、ありのままの自分で色んなことを表現したいと思った。
その時に1つ思った。
どうせ連絡がついてない今だから、このブログ上でスピの話も少しずつしてみたらどうかと。
嫌なら読むことも止めるだろうと予想した。
しかも日々近くにいない分、好き放題に書ける。
好き放題というのは、相手の顔色を伺う必要がなく、自分の思うがままに書けるということ。
私はそういう自分を知って欲しいというのもあった。
今、この数ヶ月を振り返って少しずつ表現を積み重ねてきて良かったと思ってる。
半年前の12月の私と比べても、今の私は違う風になっている。
6月15日(金)
ようやく自分の中の気持ちが固まってきた。
やっぱりこのブログ上でこれまで隠し通したことを公表しようと。
これまでは隠してた方が都合良く感じていたけれど、今は隠す方ではない方法を採りたいと思ってる。
その人が読んでる気がすると思ってから今に至るまで、他にも色んなサインがあった。
私は知らないフリしてずっと発信し続けるのはもはや無理だと思った。
無理というのは私の方がもたないという意味で。
心がペタンと座り込んだ時というのは、こんなことを、すっとぼけて何もわからないフリをしてまた色んなことをこれからも発信し続けるのが無理だと感じたんだと思う。
それをまた1年とか続けて、1年後に「2年後」なんて振り返るのは本気で嫌だった。
なんなら、秋さえも迎えられる気がしなかった。
相手の反応は私にはわからないことでも、せめて自分側の隠すスタンスは変えたいと思った。
今回公表する時に、この話だけだとおかしな内容になるから、私は自分の体質的な感覚についても、公表しようと決めた。
その人に関係のない部分でも元々普通とは違う体質もあること、それを伝えようと思った。
その人に関してのものはかなり特殊だけれど、元々の体質にも似通ったようなものがあるから、それと一緒に説明すればもう少し読む側もわかりやすいかな…と。
例えば私は金属アレルギー持ちだけれど、それに近い。
寒がりな人がそうなように、私の持ってるものも周りから見て同じ風にわからないものなんだろうと思う。
要は、本人は体感できるレベルでも、周りの人から見てその人が金属アレルギーとか冷え性なんてのはわからない。
それと同様、私のちょっと変わった体質も見ただけではさっぱりわからない。
さらには健康被害の出るものではないから、余計と周りからは気付かれない。
ただ、冷え性みたく身近に普通にたくさんある体質ではないから、そしてこれは一歩間違えたら精神病と勘違いされてもおかしくないことだから、だから黙ってる。
私の体質的なものは、黙っていたら誰も知ることがない。
金属アレルギーが症状を起こさない限り見えないのと一緒で、私の体質的なものは外には一切見えない。
そして私本人にしかわからないことだから、私しか説明ができないし、聞いた瞬間受け付けられない人は受け付けられないと思う。
自ら人間関係を悪くしたくないから、必要に迫られない限り黙っている。
多分そのスタンスはこれからも変わらない。
私のものが説明しにくい理由の一つに「あまりない」ことが挙げられる。
私のものは霊媒体質とは違う。
霊感と言われる感覚は私の場合全くない。
何も視えないし聞こえない。
そういうのであればもう少し一般的にもわかりやすかったかもしれない。
私のはあまりにも普段からごく当たり前の感覚で、しかもごく最近までそれを特別だとは思っていなかったから、余計とわからなかった。
そういう体質ゆえ、その人に関することも体の方に起こっても不思議ではない、という風に私は見ている。
当たり前だけれど、どこにも立証する手立てもなければ、そんなのは私の空想や妄想だと言われたらそうなのかもしれない。
私は無理に証明しようとも思ってなければ、周りの人たちにわかって欲しいなんていうのもない。
私としてもハチャメチャなことを言ってるなと思う。
理解して欲しいなんていうとんでもないハードルを掲げるつもりも期待もない。
でもせめてその人には知ってて欲しい、そういう気持ちで今回は書いてる。
こんなことぶちまけた日にはますます距離を置かれて生涯連絡しませんとなるかもしれない。
でも、もうこの隠し通すためにエネルギーは注げない。
無理なことを自分に強いてるから、それはやっぱり続けられない。
次の1年、2年…とか考え出すと「無理」という文字しか浮かばない。
たかが2ヶ月でこんなにも自分の中にあるものに気付いたということは、これから先ますます開いてくる可能性がある。
これは勝手な予想だけれど、私の場合、他の人たちに使えば使うほど多分そうした見えない力も開いてくる。
私のためだけなら開かない。
だけど私が何かしらキャッチしてそれが私以外の誰かのためになるものなら、それは必要に応じての流れだから、必要な人たちに少しでも届くようになってる気がする。
現に、周りの人たちに伝えられる情報量がこの2ヶ月半ほどで一気に上がった。
トレーニングも何もしてないのに上がったから、しかも自分のためにはそういうことにならないから、だからあくまでも誰かがいて初めて力を発揮するものなんだと思って見ている。
そして今週から私は自分の中のごちゃごちゃとした思考を整理するための体を使ったエクササイズやちょっとしたことを取り入れ始めた。
周りからみたら怪しさ満載なことをしている。
とりあえず、古代文字の音読(1分)とパワーストーンを入れた水を飲む(コップ1杯)のとタッピングと呼ばれる自分の体を軽く叩いて潜在意識に働きかけること(1、2分)を始めた。
どれが良いのか、それともそんなの関係ないのか、意識が時々やたらとクリアになることがある。
その時には必要なメッセージを読むなりキャッチするなりしてるから、しばらく続けて様子を見ようと思ってる。
だから、それが本当に効果があるのかは知らないけれど、飽きるまで試そうと思ってる。
『自分を出して嫌われたらもう仕方ない』
今回の自分自身についての告白はかなり勇気が必要だった。
古代文字の音読なんて、1人で部屋の中でするからいいけれど、はたから見たら滑稽に見える。
まだ現段階では「こんな効果がありました!」というところまではわからないから、とりあえず継続して1日1回ないし2回してる。
他にも色々ぶっ飛んでるのは承知してる。
他人様に積極的に見せたい自分ではない。
どちらかと言えば隠したい。
だけど、こういう私ももちろん私なわけで隠せない。
社会の中では隠せるけれど、個人的な関係の場合、ある程度の自己開示は必要だし、関係が近くなればなるほど隠し通せない。
これからの私はこの方向に行こうとしてるから、もしその私が無理で嫌われたら仕方ない。
相手に好かれるために自分を変えるのは多分もうできない。
相手を不快にさせるものはもちろん改善も必要だと思うけれど、こうした私の日常の一部、しかも全部足しても1日の中の5分程度、それが平気じゃない人だと、その人に限らず誰でもダメだと思ってる。
だから、今回こうして告白することは、すなわち私の中で嫌われても仕方ない、それでも自分で生きていく覚悟も同時に発生している。
そんな風に思っている。
と同時に、自分のままでいることが相手から受け入れ難いものであるとするなら、もうそれは仕方ないと割り切れる。
こればかりは私の一方的な気持ちを押し付けるわけにはいかない。
『伝えなくても一生後悔しない?』
今回公表を決意した時に自分に聞いた質問。
相手の人が読んでるかもしれないと思いながら書いていたこのブログ。
そう思ってたことやそれにまつわる他の色んなことも含めて、「伝えない」という選択をした場合、私は後悔しないのかな…?と問いかけた。
この手の質問をする時、まずは今の瞬間後悔しないかどうかを自分に問いかける。
今だけを見る時、私は逃げようとすることも多々ある。
今回の場合で言えば、そこまで公表しなくていいんじゃない⁉︎って。
その時はさらに質問を重ねる。
視点を今だけに絞らず、自分が死ぬ間際の辺りにいると想定して、死ぬまでにこれをしなくても私は後悔しない?と自分に問いかける。
当たり前だけど、いつかは死ぬ。
その時に伝えなかったことを私は後悔しないかどうか。
相手が目にするしないは一旦脇に置いて、私自身が伝えなくても平気なのかどうか、後悔しないのかどうか、そこだけに注目する。
もし伝えなかったら後悔するだろうことは目に見えた。
本当のところ、その人が目にしてるかどうかなんてわからない。
これで相手は一切見てないとなればちゃんちゃらおかしな滑稽な笑い話になる。
それでもいいから、私自身が後悔しないのかだけを見ると、口を閉じてる方が後悔するってわかった。
こんなことするの、一生に一度きりと思えば、何てことないと思った。
この全てが私の過大な妄想だったと判明しても、それさえもどうでもいいと思った。
私は伝わってる可能性があるなら、真実を伝えたいだけ。
それを相手に知って欲しいだけ。
だから伝えるという選択をしないと、私は残りの人生で後悔しそうだと思った。
その後悔は嫌で、だからこそ伝えることを選んだんだ、と自分で自分に納得した。
6月16日(土)
『知ってて欲しい』
今同時進行で自分の性質や体質についても書いている。
自分の持ち札を見せようと思った理由。
その人に「知って欲しい」から。
その人がこのブログを読んでるんじゃないかと思った理由は、いくつかある。
どれも本人が「読んでた」と言ってくれない限りは、私は本当のところを知らない。
知らないけれど、そう思うに至る理由はもちろんあった。
理由は全部は今回書かないけれど、一部書いたことで、わたしはせめてそのことに関する信憑性を増すために自分のことを書こうと思った。
単なる願望とか当てずっぽうとかではなく、もちろんその要素も否定はできないけれど、この自分の体質的なものも関係している。
そう思うことの裏側では、私の体質も手伝ってそう思うに至ることも含まれている。
その性質や体質は、はっきり言って、証明できる手段が何もない。
全部私の感覚だけで成り立っていて、そんなのどうやっても数値にしたりとか見える化にはできない。
だからせめて自分の持ち札だけはオープンにして見せようと思った。
(書いた時間:午前9時頃)
『88888』
今日2018年6月16日特大奇跡がやって来た。
もうブログの休止は早々と切り上げることを決めた。
その特大奇跡を目の当たりにしたら、より一層ブログを綴る勇気が湧いた。
綴るよりも公表することへの勇気かな。
今日見た全てのこと、ここ2週間ほどの体調不良や、2年前に行きたかったけれど行けなかったイベントや、住所や、友達が紹介してくれた本や、明日前の前の仕事で一緒だった人たちと会うことや、何ならペンジュラムまで、その全てが渾然一体となって1つの物語を紡いだ。
そして奇跡の中心に1人の人が深く関与していて、それ見たらもうごちゃごちゃ言うのは止めて、自分が目にした奇跡を信じようと改心した。
奇跡の物語は後日。
今日はこれからとりあえず溜まりに溜まった記事たちを仕上げてしまう。
ブログ休止の裏側で
今回ブログを一旦リセットして良かった。
アップしてないだけで実際にはこうして書いてはいたけれど、それでもアップするのをあえて止めて良かった。
毎日アップするのは全く負担でも何でもなかったけれど、心の中のものすごーい奥の方が違和感を訴え出した。
ブログアップ云々ではなく、心の在り方に、表現することと自分の心の中とに不一致な部分がいつの間にか生まれてた。
書いてることに嘘はなくても、書いていない隠してる部分があった。
その隠してる部分をこのまま隠し続けることに、結局は違和感を覚えた。
私は当初その隠してる部分はずっと隠すつもりでいた。
そんなのいちいち公にする必要はないと判断したのと、私が隠してる色んなことは賛否両論あるしにわか信じがたい話でもある。
そんなのは自分の中だけに留めるのが正解に見えたし、私もそれを隠したままでも全く問題なかった。
結局ひょんな形でこのままだと自分が苦しくなるとわかって、このリセット期間にあれこれ書くことになったけれど、結果そういう自分も出していくと決断できて良かったと思う。
別記事に書くけれど、私の体質的なものは元々あった。
記憶にある限り、30代でスタートしたことだった。
最初は少しずつだったし、その少しも全く気にならなかった。
しかも隠しながら生活するのは何てことなかったし、ごく一部の人だけが知ってるので問題なかった。
去年の12月に自分の本音で表現したいと思った時も、今みたいな気持ちとは違ってた。
単に表現の部分だけ、自分の本音で表現したい、そんな風だった。
ここに来て大きく変化したことは、その自分の体質的なものも大きく変化して、それを隠すのがちょっと大変になってきたというのが大きい。
体質的なものは別に大変じゃない。
私の場合、徐々に出てきたことと、そしてその若干特殊なものに関しては「他の人に使うために与えられてるもの」という認識が強いから、それを大変なこととして受け止めては全くいない。
むしろそれ私でいいの?とさえ思ってる。
他にもっと適任者いるんじゃない?って。
まぁそれはそうと別に不思議はない。
だけど、そういう状態が日常化してるし、普通に起きてる間の意識の一部でもある。
それを隠し続けるのは、すごく苦しくなってきた。
賛否両論を呼ぶとか、信じてもらえないとかいうのは二の次の話で、まずは自分をそのまま外に出す、そのことの方が大事だった。
だから隠すのを止めよう、と思った。
最初は、もうブログをしばらく止めたいぐらいに全部が嫌になった。
色々もどかしかった。
私は最初それはある人からのリアクションがないのが嫌だ、とそう思ってた。
でもそれが本当の気持ちではなかった。
それもそうだったけれど、それ以上に自分を隠し続けるのに限界があった。
自分を偽ってはいない。
けれど、半分自分で、残りの半分は隠遁生活を送るかごとく表には出さない。
そこがもう違和感になるぐらいまで膨れ上がってた。
そしてそれが一気に弾けて、今回のかなり短くはあったけれど、ブログの休止に繋がった。
アップしてないだけで実際にはこうして書いてはいたけれど、それでもアップするのをあえて止めて良かった。
毎日アップするのは全く負担でも何でもなかったけれど、心の中のものすごーい奥の方が違和感を訴え出した。
ブログアップ云々ではなく、心の在り方に、表現することと自分の心の中とに不一致な部分がいつの間にか生まれてた。
書いてることに嘘はなくても、書いていない隠してる部分があった。
その隠してる部分をこのまま隠し続けることに、結局は違和感を覚えた。
私は当初その隠してる部分はずっと隠すつもりでいた。
そんなのいちいち公にする必要はないと判断したのと、私が隠してる色んなことは賛否両論あるしにわか信じがたい話でもある。
そんなのは自分の中だけに留めるのが正解に見えたし、私もそれを隠したままでも全く問題なかった。
結局ひょんな形でこのままだと自分が苦しくなるとわかって、このリセット期間にあれこれ書くことになったけれど、結果そういう自分も出していくと決断できて良かったと思う。
別記事に書くけれど、私の体質的なものは元々あった。
記憶にある限り、30代でスタートしたことだった。
最初は少しずつだったし、その少しも全く気にならなかった。
しかも隠しながら生活するのは何てことなかったし、ごく一部の人だけが知ってるので問題なかった。
去年の12月に自分の本音で表現したいと思った時も、今みたいな気持ちとは違ってた。
単に表現の部分だけ、自分の本音で表現したい、そんな風だった。
ここに来て大きく変化したことは、その自分の体質的なものも大きく変化して、それを隠すのがちょっと大変になってきたというのが大きい。
体質的なものは別に大変じゃない。
私の場合、徐々に出てきたことと、そしてその若干特殊なものに関しては「他の人に使うために与えられてるもの」という認識が強いから、それを大変なこととして受け止めては全くいない。
むしろそれ私でいいの?とさえ思ってる。
他にもっと適任者いるんじゃない?って。
まぁそれはそうと別に不思議はない。
だけど、そういう状態が日常化してるし、普通に起きてる間の意識の一部でもある。
それを隠し続けるのは、すごく苦しくなってきた。
賛否両論を呼ぶとか、信じてもらえないとかいうのは二の次の話で、まずは自分をそのまま外に出す、そのことの方が大事だった。
だから隠すのを止めよう、と思った。
最初は、もうブログをしばらく止めたいぐらいに全部が嫌になった。
色々もどかしかった。
私は最初それはある人からのリアクションがないのが嫌だ、とそう思ってた。
でもそれが本当の気持ちではなかった。
それもそうだったけれど、それ以上に自分を隠し続けるのに限界があった。
自分を偽ってはいない。
けれど、半分自分で、残りの半分は隠遁生活を送るかごとく表には出さない。
そこがもう違和感になるぐらいまで膨れ上がってた。
そしてそれが一気に弾けて、今回のかなり短くはあったけれど、ブログの休止に繋がった。
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