今日の6月30日をもって2015年の半分が終わる。
これまで6月末に「1年の半分を振り返る」なんて一度もしたことがなかった。
例えば、塾に勤めていた頃は、四半期だの半期だのの売上がどうで全体の成約率がどうで
顧客数の増減がどうで・・・なんていう話が年がら年中飛び交っていた。
毎週の会議の度にそれを延々聞かされていたけれど、全く興味のなかったわたしはいつも右から
左どころか右にすら入れず、いつも上の空で別のことを考えていた。
「四半期」も「半期」も存在すらしていなかった、わたしの頭の中。
あれだけ言われていたにも関わらず、3回は通過した6月30日をどうやって過ごしていたのか、
と記憶をたどったら1つ思い出したことがある。
毎年7月8月は地獄を見るように多忙を極めていた。
それが嫌でたまらず、6月も下旬になるとげんなりしていた。
だから、6月下旬に「さぁ今年の半分を振り返ってみようではないか」と思いつくことすらなかった。
そんな風で、さらにその後のここ3年の6月30日も、特に何の気持ちも湧かず通過していた。
今年もその調子でいく流れだったところ、突然この1週間で「この半年を振り返ろう」フレーズを
あちらこちらで見かけるようになった。
しかもその半年を振り返って残りの半年をどう過ごしていきたいかを見つめてみようなんてある。
すぐに感化されやすいわたしは、「さぁ半年を振り返ろう」と思い立ったが吉日、
今日はそんな調子で過ごしている。
さらに、この半年の疲れや澱みを落とすのにソルトバスと言えばかっこいいけど、いわゆる
塩をじゃばじゃばと入れた風呂がいいとどこかで読んで、さっき早速1kgの食塩を買ってきた。
ちなみに使うのは500gでいいらしく、2回はソルトバスを楽しめる算段になっている。
とにかく「良い」とされるものにはすぐに感化されやすいわたし。
昨日はある人から「名古屋に来てお世話になった神社がある。今回も名古屋滞在の時に時間が
できてその神社にお参りしてきた」という話を聞いた。
わたしも真似っこで、今日自分が6年前の秋に名古屋行きを決断した神社に行ってきた。
この神社はいつ出掛けても気持ち良い。
今日はくもりだったけれど、そんな天気すら気にならない位に気持ち良い空気が流れていた。
その神社もたまたま行き着くことになった場所だった。
就職試験の面接で、人生で初めて名古屋に行った。
縁もゆかりもない名古屋。
右も左もわからず、とりあえず会社が指定した駅に辿り着いた。
その日の朝、母親が弁当を作ってくれて持たせてくれた。
その弁当を食べる場所がないかと、指定された駅の近くをうろうろして、数階~十数階のビルが
建ち並ぶ合間にひょっこりと顔を出した神社だった。
それがその神社と出会った瞬間だった。
しかも、その神社というのが自分が子どもの頃遊んでいた社の雰囲気に似ていて、それを見て
名古屋行きを決断できたと言っても過言ではない。
名古屋は熱田神宮が有名だけど、熱田神宮よりそのこじんまりとした神社の方がわたしは好きで
もう何回も通っている。
冗談抜きで、あの日母親が弁当を持たせてくれなければ一生出会うことのなかった神社だ。
そのまま採用されて、会社の本社に通うのに何百回と使った駅ではあるけれど、会社のある
方向と神社のある方向は真逆で、特別に足を運ばない限り神社は行かない場所だった。
300m位しか互いの距離は違わないけれど、この300mは駅―会社間の道で見たら完全な
死角となる。
しかも会社側から神社側の方向を見ると、神社の前にでんと建っているビルたちが神社の存在を
100%消し去っているから、あの母の弁当がなければそこにずっと存在しているにも関わらず、
ないも同然になる。
ちなみに会社で仲良くした人たち数人にその神社の話をしたら、全員が「そんなのがあったなんて
知らなかった」と口を揃えて言っていた。
昨日の話に感化されて、丁度1年の半分の最終日の今日にその神社に行ってこれて良かった。
「残りの半年」を少しでも清々しく歩んでいくのに、新年の誓いじゃないけどそれに似た気持ちを
抱いてその場をあとにした。
今年の後半はどんな風になるのかはわからない。
わからないけれど、「こんな風だといいなぁ」とか「○○ができたらいいなぁ」というちょとした希望や
展望を抱ける今というのが、自分を励ましてくれる。
希望も展望も行方不明になっていた時期が色々あったから、それらを抱けるだけでわたしは
そこから勇気とパワーをもらえる。
2015年6月30日火曜日
2015年6月28日日曜日
流行を取り入れた迷走ファッション
今日たまたま目にした40代50代女性向けのファッションアドバイス。
流行を取り入れて体系もカバーできて、というのが売りのようだった。
けれど一般の方がモデルとなったデモ写真を何枚見ても、「迷走」という言葉しか思い浮かばない
位に変だった。
服が変なわけでもない。
モデルの方が変なわけでもない。
ただ、「流行」をそのまま取り入れているだけの本人に似合っていないものを着せられても、
実際は色んなものが浮いた感じに仕上がってしまう。
これが10代20代の若い子たちならまだまだわかる。
でもある程度の年齢を重ねた女性であれば、流行を取り入れることよりもその人の雰囲気とか
肌の色合いとかそれに似合うものを取り入れている方がうんとおしゃれに見えると個人的に思う。
いつだったか60台後半~70代の素敵マダムに電車のホームで会ったことがある。
一目見て個性的なファッションだというのがわかるけれど、それがもうそれ以上もそれ以下もない
位にそのマダムにぴったりな装いだった。
さらに気になったのは、マダムが手にしていたわたしのお気に入りの雑貨屋の透明袋に入った
リバティー系の花柄の洋服だった。
その布のデザインに目を奪われてわたしはがん見していたのだけれど、そうしたらマダムも私の
強烈な視線に気付いて、それでどちらからともなく話を始めたのだった。
マダムはその場で袋から服を取り出し、自分の胸に当てて「これどうかしら?若すぎやしない?」
などと聞いてきた。
それはワンピースだったのだけれど、そのマダムが着たら絶対に似合う!というものだった。
マダムいわく、店頭でもお店の人に何度も尋ねて、絶対に似合うと言われても自分の中でまだ
迷いがあり、最後ようやく決心して買ってきたとのことだった。
たしかに本体は、20代30代位の世代に向けて作られたものだとは思う。
ただ、そのマダムが着たら、年齢なんかを超えてすごく上品かつスタイリッシュな感じになる。
その後マダムが降りる駅まで数分間おしゃれについてそのマダムと話をする流れになった。
マダムの鞄や靴、メガネ、メガネケースととにかく身につけるもの1つ1つ自分が好きなものを
選んでいることはよくわかった。
そして長年そうしているのだろう、自分に似合うものを自分の目で選んで養ってきたというのが
ひしひしと伝わってきた。
最初の話に戻るけど、「今年の流行」を取り入れるよりも、自分の雰囲気と体系とそれらを考慮
した上で何が似合うかを追い求めていく方がうんとおしゃれに仕上がるように思う。
そして、そのファッションアドバイスを見て、「日本って変に大変な国だなぁ」と改めて感じた。
流行を取り入れて体系もカバーできて、というのが売りのようだった。
けれど一般の方がモデルとなったデモ写真を何枚見ても、「迷走」という言葉しか思い浮かばない
位に変だった。
服が変なわけでもない。
モデルの方が変なわけでもない。
ただ、「流行」をそのまま取り入れているだけの本人に似合っていないものを着せられても、
実際は色んなものが浮いた感じに仕上がってしまう。
これが10代20代の若い子たちならまだまだわかる。
でもある程度の年齢を重ねた女性であれば、流行を取り入れることよりもその人の雰囲気とか
肌の色合いとかそれに似合うものを取り入れている方がうんとおしゃれに見えると個人的に思う。
いつだったか60台後半~70代の素敵マダムに電車のホームで会ったことがある。
一目見て個性的なファッションだというのがわかるけれど、それがもうそれ以上もそれ以下もない
位にそのマダムにぴったりな装いだった。
さらに気になったのは、マダムが手にしていたわたしのお気に入りの雑貨屋の透明袋に入った
リバティー系の花柄の洋服だった。
その布のデザインに目を奪われてわたしはがん見していたのだけれど、そうしたらマダムも私の
強烈な視線に気付いて、それでどちらからともなく話を始めたのだった。
マダムはその場で袋から服を取り出し、自分の胸に当てて「これどうかしら?若すぎやしない?」
などと聞いてきた。
それはワンピースだったのだけれど、そのマダムが着たら絶対に似合う!というものだった。
マダムいわく、店頭でもお店の人に何度も尋ねて、絶対に似合うと言われても自分の中でまだ
迷いがあり、最後ようやく決心して買ってきたとのことだった。
たしかに本体は、20代30代位の世代に向けて作られたものだとは思う。
ただ、そのマダムが着たら、年齢なんかを超えてすごく上品かつスタイリッシュな感じになる。
その後マダムが降りる駅まで数分間おしゃれについてそのマダムと話をする流れになった。
マダムの鞄や靴、メガネ、メガネケースととにかく身につけるもの1つ1つ自分が好きなものを
選んでいることはよくわかった。
そして長年そうしているのだろう、自分に似合うものを自分の目で選んで養ってきたというのが
ひしひしと伝わってきた。
最初の話に戻るけど、「今年の流行」を取り入れるよりも、自分の雰囲気と体系とそれらを考慮
した上で何が似合うかを追い求めていく方がうんとおしゃれに仕上がるように思う。
そして、そのファッションアドバイスを見て、「日本って変に大変な国だなぁ」と改めて感じた。
2015年6月26日金曜日
雨の日の夜の外出
今日は朝からずっと雨が降り続いていた。
小雨じゃなくて、本降りのなかなか激しい雨だ。
ちょっとした用事を足しに外に出たかったけど、とにかく雨が止まない。
少しでも雨が弱まったら徒歩で行ける用事を足しに出ようと決めた。
そうしたらあっという間に夜になってしまった。
近隣は住宅街だけあって、全体的に夜のお休みモードになりつつある。
20時過ぎにわざわざ近所に出掛けるなんて、しかも雨の日に出掛けるなんてそうそうないから、
逆に雨の風景がとても新鮮で心が洗われた。
雨は色んな匂いを強くする作用があると思う。
普段なら何にも匂いを感じない道に、緑の木々の湿った香りと雨特有の匂いとそしてどこかの
おうちからコンソメスープのような匂いも混じって、匂いだけでにぎやかな通りとなった。
お目当ての場所に行くのに大通りの歩道橋を渡った。
歩道橋のすぐ脇に白い電灯があって、それがまるでドラマの雨のシーンのように雨を映し出して
いた。
いつもの道なのに、非日常みたいだった。
雨の透明さと電気の光とビルの看板のライト、色んなものが混ざった色がこれまた幻想的だった。
用事をささっと足して今帰ってきたけれど、たかが20分ほどの外出が特別な外出みたいで、
かなり楽しかった。
別に何がどうということもないのだけれど、こういう日の記録ってうんと後から読み返すとかなり
面白い。
いつかの自分がこれを読み返す時に、こんな雨の日の夜の外出もあったんだよ、という備忘録
のために書いてみた。
ちなみに1、2週間程前、約10年前の自分の記録を読み返して、当時はわかりえなかったもの、
懐かしいとかいうのとはまた違った、時間が経たないと味が出ない独特の気持ちを味わって、
やっぱり記録は大事だと思った。
25歳26歳のわたしが見た景色、感じたもの、それはやっぱり当時のわたしにしかわからない。
そして、当時のわたしを振り返って新しく加わる景色や感じたもの、それは今のわたしへの
ちょっとした贈り物みたいだ。
小雨じゃなくて、本降りのなかなか激しい雨だ。
ちょっとした用事を足しに外に出たかったけど、とにかく雨が止まない。
少しでも雨が弱まったら徒歩で行ける用事を足しに出ようと決めた。
そうしたらあっという間に夜になってしまった。
近隣は住宅街だけあって、全体的に夜のお休みモードになりつつある。
20時過ぎにわざわざ近所に出掛けるなんて、しかも雨の日に出掛けるなんてそうそうないから、
逆に雨の風景がとても新鮮で心が洗われた。
雨は色んな匂いを強くする作用があると思う。
普段なら何にも匂いを感じない道に、緑の木々の湿った香りと雨特有の匂いとそしてどこかの
おうちからコンソメスープのような匂いも混じって、匂いだけでにぎやかな通りとなった。
お目当ての場所に行くのに大通りの歩道橋を渡った。
歩道橋のすぐ脇に白い電灯があって、それがまるでドラマの雨のシーンのように雨を映し出して
いた。
いつもの道なのに、非日常みたいだった。
雨の透明さと電気の光とビルの看板のライト、色んなものが混ざった色がこれまた幻想的だった。
用事をささっと足して今帰ってきたけれど、たかが20分ほどの外出が特別な外出みたいで、
かなり楽しかった。
別に何がどうということもないのだけれど、こういう日の記録ってうんと後から読み返すとかなり
面白い。
いつかの自分がこれを読み返す時に、こんな雨の日の夜の外出もあったんだよ、という備忘録
のために書いてみた。
ちなみに1、2週間程前、約10年前の自分の記録を読み返して、当時はわかりえなかったもの、
懐かしいとかいうのとはまた違った、時間が経たないと味が出ない独特の気持ちを味わって、
やっぱり記録は大事だと思った。
25歳26歳のわたしが見た景色、感じたもの、それはやっぱり当時のわたしにしかわからない。
そして、当時のわたしを振り返って新しく加わる景色や感じたもの、それは今のわたしへの
ちょっとした贈り物みたいだ。
2015年6月25日木曜日
買い出しメモが好き
基本的に食料品の買物は、その日その時に安いもの(特売品・値引き品)を買っている。
だから買い出し用のメモは、日用品関係か今日のように調味料関係が切れない限りは書かない。
もう何年もこのスタイルを採用しているから、すっかり慣れている。
今日久しぶりに買い出しメモを書いてみて、実はこういうメモを書くのが好きなんだと気付いた。
写真のメモ用紙は、知人の方からのスペイン旅行のおみやげでいただいて、裏が全面マグネット
になっていて普段は冷蔵庫の扉にぴたっと貼ってある。
その都度、なくなった調味料・なくなりそうな調味料を書いておく。
そうすると次の買物に行く時に忘れない。
ちなみに一緒に写っているボールペンは、友達のRがわざわざ職場の備品をプレゼントしてくれた
もので、これももう長いこと重宝している。
このボールペンはパイロット製のものだけど、今手元にあるのは3代目か4代目。
少し前のように仕事で酷使することがなくなったから、このボールペンはとても長生きしている。
メモ帳もボールペンも両方使いやすくて気に入っているのと、なんだろう、買い出しメモの場合は
買い出しメモ特有の雰囲気があってそれが好きだ。
言葉では説明できないけれど、他のメモと違っていてなぜかワクワクする。
いつだったか友達数人とどうやって日々の献立を決めるのかを話したことがある。
メニューを予め決める派とその時その場で決める派と半々だった気がする。
わたしは後者だ。
毎日、冷蔵庫の中身と自分の食欲の欲するところの掛け合わせでメニューを組み立てる。
今日はチキンナゲット(←初めて作る)にしようかと思っていたけれど、体は別のもの、もっと
さっぱりあっさりしたものを欲しているから、冷たい麺類になる気がする。
チキンナゲットも、昨日買物に出た時、半額のはんぺんを購入してそこから決めたものだ。
はんぺんをこれまでに試したことのない方法で調理してみたいと思って調べたら、チキンナゲット
がヒットした。
何せ毎回特売品やら値引き品を買うから、献立も毎回行き当たりばったりだ。
でも、これが個人的にとても好きなスタイルで一番楽ちんだ。
今回のようにアレンジして使いたければ、インターネットという強い味方がいる。
そこから自分で作りたいものを探し出して、実験的な感じで試すのも好きだ。
ただ、どういうわけか実験的な感じで試したメニューが定番化したものはほとんどない。
30近く試して1つ出てくるかこないかだ。
ちなみに他者考案のレシピで定番化するものは、むしろネットではなくて友達や職場の方から
個人的に教えてもらったレシピが多い。
そういうレシピは、個人の人が日々の生活で繰り返し作っているだけあって、真似して作ると
ものすごくおいしい確率が高い。
そしていつの間にかわたしの定番メニューにもなる。
買い出しメモの話から随分とそれたけど、買い出しメモを書くことも、料理の実験も両方とも
とても好きなことにはまちがいない。
2015年6月24日水曜日
ある日突然わかるようになる
一体何月のことか忘れたけど、ある時色々手を出し過ぎたメルマガをあれこれ解除した。
その中でも3つだけは残した。
1つはブログの書き方や組み立て方、パソコン上のテクニック関連のこと。
これは当時も今も同じ位に必要かつわかりやすくてとても助かっている。
1つはコーチングでの起業の企画等を専門にして情報発信されてるもの。
これは理論に弱いわたしの頭でも十分に理解できるわかりやすい実践的なもの。
最後の1つは感情やマインドセットを中心にしたもの。
この最後の1つだけは、あれこれ解除した時に「解除予定」の方に入っていたもの。
今考えたらよくわかることだけど、実は当初「なんだこの考え方は?」といちいち苛立ちを感じて、
でも自分でも何とかしたい感情とかの突破口になるような気もしていて、それで切るに切れない、
そんな感じだった。
とりあえず継続していて、それもけっこういい加減に斜め読みをずっとしていた。
またもや「解除」しようかなと思っていた矢先。
これは、わたしが変わったのか発信者の内容が変わったのか、どちらかはわからない。
だけどこの1週間位で、本当に突然発信者の言わんとしていることを「こういうことなんだろうなぁ」
と感じられるようになった。
これまでものすごく反発しか出てこないようなものだったのに、突然「これわかる」が出てきた。
もちろん今でも「それはありえない」とか「なんだこの頭の中お花畑みたいな発想は!」と、
自分何様かと言わんばかりのことも思ったりする。
だけど2回に1回は、「あれ、これわかるかも」が出てきた。
なんだか知らないけど、突然出てきた。
こういう時に、妄想好きのわたしは思ってしまう。
未来のわたし(=今のわたし)は、数ヶ月前こうなるとわかっていてメルマガをあえて解除しない、
と決めたんじゃないだろうか…と。
当時の自分の気持ちとしては、解除するが99%、そのまま継続が1%位のものだった。
それ位に感情が揺さぶられるわ、全然共感できないわ、さっぱりわけわかめ、という感じだった。
でもこのメルマガだけは、唯一時間をかけないと本当に意味のわからないものだったのでは、
と今は思う。
「これは共感できない」がいくつもいくつも重なる。
だけど、うっすらとだけど「わかるようになりたい」とか「理解したい」というような願望と、
そして表では理解できないのは自分なのに自分ではなく相手への苛立ちやもどかしさを
感じていたのではないかと思う。
今は、少し読むのが楽しみになった。
どこがわかるのか、どこがわからないのか、それを冷静に見ようとしている自分がいる。
その中でも3つだけは残した。
1つはブログの書き方や組み立て方、パソコン上のテクニック関連のこと。
これは当時も今も同じ位に必要かつわかりやすくてとても助かっている。
1つはコーチングでの起業の企画等を専門にして情報発信されてるもの。
これは理論に弱いわたしの頭でも十分に理解できるわかりやすい実践的なもの。
最後の1つは感情やマインドセットを中心にしたもの。
この最後の1つだけは、あれこれ解除した時に「解除予定」の方に入っていたもの。
今考えたらよくわかることだけど、実は当初「なんだこの考え方は?」といちいち苛立ちを感じて、
でも自分でも何とかしたい感情とかの突破口になるような気もしていて、それで切るに切れない、
そんな感じだった。
とりあえず継続していて、それもけっこういい加減に斜め読みをずっとしていた。
またもや「解除」しようかなと思っていた矢先。
これは、わたしが変わったのか発信者の内容が変わったのか、どちらかはわからない。
だけどこの1週間位で、本当に突然発信者の言わんとしていることを「こういうことなんだろうなぁ」
と感じられるようになった。
これまでものすごく反発しか出てこないようなものだったのに、突然「これわかる」が出てきた。
もちろん今でも「それはありえない」とか「なんだこの頭の中お花畑みたいな発想は!」と、
自分何様かと言わんばかりのことも思ったりする。
だけど2回に1回は、「あれ、これわかるかも」が出てきた。
なんだか知らないけど、突然出てきた。
こういう時に、妄想好きのわたしは思ってしまう。
未来のわたし(=今のわたし)は、数ヶ月前こうなるとわかっていてメルマガをあえて解除しない、
と決めたんじゃないだろうか…と。
当時の自分の気持ちとしては、解除するが99%、そのまま継続が1%位のものだった。
それ位に感情が揺さぶられるわ、全然共感できないわ、さっぱりわけわかめ、という感じだった。
でもこのメルマガだけは、唯一時間をかけないと本当に意味のわからないものだったのでは、
と今は思う。
「これは共感できない」がいくつもいくつも重なる。
だけど、うっすらとだけど「わかるようになりたい」とか「理解したい」というような願望と、
そして表では理解できないのは自分なのに自分ではなく相手への苛立ちやもどかしさを
感じていたのではないかと思う。
今は、少し読むのが楽しみになった。
どこがわかるのか、どこがわからないのか、それを冷静に見ようとしている自分がいる。
2015年6月22日月曜日
夏至
夏至だの冬至だの日本古来の季節の言い回しにさっぱり興味がなかった。
今年は、ここ数日でやたらと「夏至」という言葉を目にして、自分なりに調べたりもした。
今日が1年で一番日の長い日だということは、36歳にして今初めて知った。
今は梅雨だし、本番の夏はこれからだけど、もう今日よりも日の長い日は夏にないんだと思ったら
とても不思議な感じだ。
ただ言われてみれば、たしかに夏の夕暮れ時の方が今の夕暮れ時よりどこか儚い感じはする。
今の夕暮れは夏に向かっている感じの、どちらかというと「陽」の雰囲気が強くて、
さびしさやわびしさよりも「元気な夕方」というイメージだ。
夕日に照らされてキラキラしている木々の葉っぱなんかも生き生きしている。
夏の8月に入ったあたりに一度どーんと暑くなり、その後は徐々に暑さが引き出す頃、夕暮れも
それに合わせてどこかさびしいものが混ざる。
これまで長いことそういう感じを自分で感じ取っていたけれど、今回「夏至」の意味を知って、
ようやく合点がいった。
そう思うと先人の人たちの季節の名前の付け方のなんとセンスのあること。
6月7月8月と西暦上ではなく、夏至・小暑・大暑ときたらもう次は立秋、そうやって微細な変化を
見逃さず、その時節に一番ふさわしい名前を付けていたんだから、本当にすごい。
今年はその二十四節気と呼ばれる日本古来の季節の言い回しに注目して夏を観察してみよう。
自分の中にある感覚と、古来の人たちの感覚、その2つが時空を超えて共鳴するのは面白い。
そして、その季節季節に合わせた体や太陽のエネルギーなんかを感じ取るのも面白そう。
梅干し仕事もそうだけど、こうして大人になってわかる愉しみというのに幾つになっても新しく
出逢えるというのが、とても粋でその雰囲気に酔いしれている。
今年は、ここ数日でやたらと「夏至」という言葉を目にして、自分なりに調べたりもした。
今日が1年で一番日の長い日だということは、36歳にして今初めて知った。
今は梅雨だし、本番の夏はこれからだけど、もう今日よりも日の長い日は夏にないんだと思ったら
とても不思議な感じだ。
ただ言われてみれば、たしかに夏の夕暮れ時の方が今の夕暮れ時よりどこか儚い感じはする。
今の夕暮れは夏に向かっている感じの、どちらかというと「陽」の雰囲気が強くて、
さびしさやわびしさよりも「元気な夕方」というイメージだ。
夕日に照らされてキラキラしている木々の葉っぱなんかも生き生きしている。
夏の8月に入ったあたりに一度どーんと暑くなり、その後は徐々に暑さが引き出す頃、夕暮れも
それに合わせてどこかさびしいものが混ざる。
これまで長いことそういう感じを自分で感じ取っていたけれど、今回「夏至」の意味を知って、
ようやく合点がいった。
そう思うと先人の人たちの季節の名前の付け方のなんとセンスのあること。
6月7月8月と西暦上ではなく、夏至・小暑・大暑ときたらもう次は立秋、そうやって微細な変化を
見逃さず、その時節に一番ふさわしい名前を付けていたんだから、本当にすごい。
今年はその二十四節気と呼ばれる日本古来の季節の言い回しに注目して夏を観察してみよう。
自分の中にある感覚と、古来の人たちの感覚、その2つが時空を超えて共鳴するのは面白い。
そして、その季節季節に合わせた体や太陽のエネルギーなんかを感じ取るのも面白そう。
梅干し仕事もそうだけど、こうして大人になってわかる愉しみというのに幾つになっても新しく
出逢えるというのが、とても粋でその雰囲気に酔いしれている。
2015年6月21日日曜日
日本の情報発信内容がすごすぎる件
これは全部の日本国内の情報発信に当てはまるわけではないけれど、
個人的に最近やたらと気になることが1つ。
「体に悪い食べ物」
「体に良いとされる習慣」
「友達が多い人の特徴」
「仕事ができない人の特徴」
「50代でもきれいな人がしていること」
こんな感じのタイトルの情報が巷には溢れ返っている。
とにかく異常な位の情報量。
それも、書く人は同一人物ではなく、日本国内在住の全く別人の方たちが発信されてると思う。
なのに、皆が皆こぞって白黒はっきりつけたがる情報を垂れ流しにしている。
白でもない黒でもないものの方が世の中圧倒的に多いにも関わらず、ある1つのことがとても良く、
それ以外はダメと言わんばかりの情報発信の方法に目を疑いたくなる。
例えば「健康」ひとつとっても、「健康」の定義は人それぞれだ。
「友達」についても、多いことが良いとする人もいれば1人でも信頼できる友達がいたらいいという
人も当然いる。
考え方も価値観も多種多様であっていい今の時代なのに、なぜか最近の情報たちは、ある特定
の価値観に傾倒する傾向が強い。
個人的に怖いなぁと思った記事の1つに、「友達の多い子どもの特徴」みたいなのがあった。
なぜこの記事が怖く感じたかと言えば、これを読む子育て世代のお母さんたちが、
「うちの子引っ込み思案でなかなか友達もできなくて・・・」と悩んでいたら、この記事はもはや
暴力的な内容に近い。
(実際にそういう相談も受けたことあれば、その手のお母さんの気持ちが書かれたブログも
よく見かける)
自分自身を見ていてもそう思うし、それこそ何百人という子どもたちを実際に見ても思ったけど、
友達が多い少ない、社交的内向的、おしゃべり静か、なんていう両極端の一部だけを見て、
子どもの個性の良し悪しなんて判断できない。
それぞれがみんな違ってみんないい、って言うときれいごとみたいだけど、本当にそうだ。
友達が多い子が性格的に明るかったり朗らかだったりするかと言えばそうでもないし、
反対に友達がいるのかいないのかもわからない子が根暗で性格が悪いわけではない。
そういうのも全部ひっくるめた上で「友達が多い子どもの特徴」なんていう情報が発信されている
のであれば問題ない。
だけど、読んでいる限りは、それこそきれいごとばかり言うな!と感じたし、これに当てはまらない
場合はどうしろと言うんだろう?と思ってしまった。
日本人特有の協調性は素晴らしいと思う。
これはなかなか欧米のような個人主義の国ではあまり見られないものだ。
だけど、「協調性」と「みんな一緒がいい」みたいな価値観は別物だ。
それぞれの個性があって、その違う人たち同士が協調するのが協調性であって、
何も同じ価値観を推奨するみたいな、それこそ「友達が多いのがいい」みたいなのは絶対に
違うと思う。
上っ面ばかりの垂れ流し情報に規制をかけることは言論の自由に反するからできないけれど、
せめて人を追い込むような情報ではなくてそれを読んだ人が救われるような情報だといいなぁ
と思いながら読んでいた。
個人的に最近やたらと気になることが1つ。
「体に悪い食べ物」
「体に良いとされる習慣」
「友達が多い人の特徴」
「仕事ができない人の特徴」
「50代でもきれいな人がしていること」
こんな感じのタイトルの情報が巷には溢れ返っている。
とにかく異常な位の情報量。
それも、書く人は同一人物ではなく、日本国内在住の全く別人の方たちが発信されてると思う。
なのに、皆が皆こぞって白黒はっきりつけたがる情報を垂れ流しにしている。
白でもない黒でもないものの方が世の中圧倒的に多いにも関わらず、ある1つのことがとても良く、
それ以外はダメと言わんばかりの情報発信の方法に目を疑いたくなる。
例えば「健康」ひとつとっても、「健康」の定義は人それぞれだ。
「友達」についても、多いことが良いとする人もいれば1人でも信頼できる友達がいたらいいという
人も当然いる。
考え方も価値観も多種多様であっていい今の時代なのに、なぜか最近の情報たちは、ある特定
の価値観に傾倒する傾向が強い。
個人的に怖いなぁと思った記事の1つに、「友達の多い子どもの特徴」みたいなのがあった。
なぜこの記事が怖く感じたかと言えば、これを読む子育て世代のお母さんたちが、
「うちの子引っ込み思案でなかなか友達もできなくて・・・」と悩んでいたら、この記事はもはや
暴力的な内容に近い。
(実際にそういう相談も受けたことあれば、その手のお母さんの気持ちが書かれたブログも
よく見かける)
自分自身を見ていてもそう思うし、それこそ何百人という子どもたちを実際に見ても思ったけど、
友達が多い少ない、社交的内向的、おしゃべり静か、なんていう両極端の一部だけを見て、
子どもの個性の良し悪しなんて判断できない。
それぞれがみんな違ってみんないい、って言うときれいごとみたいだけど、本当にそうだ。
友達が多い子が性格的に明るかったり朗らかだったりするかと言えばそうでもないし、
反対に友達がいるのかいないのかもわからない子が根暗で性格が悪いわけではない。
そういうのも全部ひっくるめた上で「友達が多い子どもの特徴」なんていう情報が発信されている
のであれば問題ない。
だけど、読んでいる限りは、それこそきれいごとばかり言うな!と感じたし、これに当てはまらない
場合はどうしろと言うんだろう?と思ってしまった。
日本人特有の協調性は素晴らしいと思う。
これはなかなか欧米のような個人主義の国ではあまり見られないものだ。
だけど、「協調性」と「みんな一緒がいい」みたいな価値観は別物だ。
それぞれの個性があって、その違う人たち同士が協調するのが協調性であって、
何も同じ価値観を推奨するみたいな、それこそ「友達が多いのがいい」みたいなのは絶対に
違うと思う。
上っ面ばかりの垂れ流し情報に規制をかけることは言論の自由に反するからできないけれど、
せめて人を追い込むような情報ではなくてそれを読んだ人が救われるような情報だといいなぁ
と思いながら読んでいた。
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