2021年4月28日水曜日

>衝撃。の翌日〜翌々日

 2021/04/27

火曜日のお昼休み


今日はとことん自分がどんな風になるかを観察しようと意気込んで仕事に向かった。


まったくもってアホすぎることをしてしまったなぁというのは後の祭り。


まず朝からネットワーク接続の不具合が出て、私は当初予定していたExcel英語入力ができなくなった。


メールチェックももちろん、プリンター接続もアウトだった。


とりあえずデスクトップに保存していた資料のデータを開いて少しだけやれることをやったけれども、全く神経を使わなくて良いその仕事は今日のタイミングにはスーパーバッドタイミングなものだった。


使わない神経は大人しく休んでくれるわけもなく、思考は昨日の夜の衝撃な転勤話に飛んだ。


ネットワーク不備とか仕事上の制約があって半分暇なようなもので、もはやその中で思考を停止するなんて無理だった。


無意識に考えてたら涙が目に溜まって、自分でも自分に驚いた。


Σ( )))) ゲッ!


今泣く時間ではないし、ましてや何に涙が出ているのかもはやホラー級におかしなことになっていた。


気を抜くと相変わらず涙が出そうだから、仕事に集中しようと思った。


喉や鼻のツーンとなる感じから体が鉛のように重たい感覚、この感覚が最後いつのことだったのか思い出した。


頭で思い出したんじゃない、体が細胞ごと記憶していて体の方が先に思い出した。


その人が転勤するって知らされた、残暑が残る暑い秋の始まりとも呼べない9月の頃だった。


今から4年前の9月のとある日の朝掃除した日の朝、掃除が終わってから私の教育係さんから真面目な顔と真面目な声と真面目な口調で知らされた。


あの時に何かが自分の中で大きく崩れて、世界は歪んで自分の足元さえもよくわからない不安定な感じになった。


何かがジ・エンドで、この世の終わりみたいな状態にあっという間になった。


あの時の感覚に近いもの、あれの強度がわずかばかり和らいだもの、でも和らいでも普段体験し得ない数百倍の強い力で体に訴えてくる。


自分でもどうしていいのかよくわからない気持ちや哀しみなんかを気づかぬうちに大きくさせてしまっていて、それが満を持して今外に出ようとしているのかもしれない。


そういうのって普段の日常をさりげなくそつなく送っていたとしても、無くなるものじゃない。


気付かないように見ないようにしているだけで、実際はきちんと溜め込まれている。


これがお金ならどんなにいいかと思うくらい、それなら今ごろ私は億万長者と言わんばかりのエネルギーを溜め込んでいる。


それが今、針で穴が開けられたみたいになって、そこから色んなものが溢れてくる。


だから仕事中なのに泣きそうになって、やたらとセンチメンタルという、そんな空気感を私はまとってないけれどもセンチメンタルまっしぐらみたくなって、泣かないように一生懸命堪えている。







火曜日の夜ー布団の中


午後は至急の英訳が入ってきてくれたおかげで、そちらに忙殺されてようやく落ち着いた。


落ち着いたっていうのも変だけど、考える暇もないくらいに目の前のことをこなさないといけなくて、忙しさが思考を止めてくれた。


だから落ち着いた。


でも午前中は本当に自分でもどうにかなったみたいに今にも泣き出しそうな自分との戦いだった。


ここまで書いて寝落ちした。


ここからは水曜の朝、布団の中。


一晩寝て起きても、昨日の泣きそうな自分の感覚はよく覚えている。


天井や周りの風景を見て今いる自分の場所は当時の場所とは違うことを頭の中で何回も反芻しながら、でも体の方にはあの転勤を告げられた4年前の秋みたいな感覚がもう一度やってきていた。


交わらない、永遠に交わらない、その宣告の瞬間、私の中の何かが壊れた。


もう同じ時に同じ場所に居合わせられなくなる、そのことが私をこれ以上ないくらい打ちのめした。


当時の私は無視され続けてもいいから(もちろんそれも嫌だったけれど)、当時の毎日のように毎日会えることを本気で祈った。


そんな奇跡はもう起こらないと知っていても、そうであって欲しいと本気で願い続けた。


到底受け入れられない現実が目の前に広がって、あの時も泣きそうにというか実際に仕事中涙が出てしまったし、体は重たくなった。


まさかあの時の感覚を、今本人は目の前にいないにも関わらずもう一度味わうなんて、昨日以前の私には想像さえできなかった。


その人のいない日常とその人のいない残りの人生に時間をかけて慣れていくんだと思っていたし、私はそれこそ4年近くの時間をかけて自分を慣らしてきた。


ゲラゲラ笑ったり、おいしくごはんを食べたり、真剣に何かに打ち込んだり、当たり前の日常を当たり前に過ごせる自分の中の力を見て、自分はまだまだいけると思った。


それがたった一言、西へと転勤した話を聞いて全てが止まって、これまでがまるでリセットされたかのように私は無意識に反応していた。


昨日仕事中泣きそうだった私は、普通に仕事をするふりをしながら、心の中と体の無意識の反応に忙しかった。


心の中は全然違うところにあったし、もう全部が違うし全部が交わらないと知っていても、それを受け入れられていない自分が出てきて愕然としていた。


いつもいつも「あぁ魂のスイッチが入ってしまったんだなぁ」と思って見ていたけれども、本当に変な話で、その人が私の人生に登場してからというものその人が私の中にいない日どころかいない瞬間というのはいっ時たりとも無い。


こういうのを世間では片想いと呼ぶのかもしれないけれども、そういうのともまた少し違っていて、ひとつ前のブログに自分で書いて上手いこと言うなぁと思ったけれど、信仰とかに近い感じだと思う。


信仰とも違う気もする。


呼吸や心臓の動きが一番近い。


生まれてからこの方、一度たりとも呼吸の仕方だの心臓の動かし方だの習ったことも訓練したこともないけれど、生まれた瞬間から勝手にできて今に至っている。


その人に対してのものはそれにものすごく近くて、自分で育もうとか大切にしようとかそういう気持ちで意図的に何かしているのとは違って、勝手に自動的に今みたいな感覚になっているし、育んでるわけでも培養してるわけでもないのにそうなっていて、それは24時間365日そんな風で、そんなエンドレスな状態はさすがの私も究極におかしなことだと思っていて、だから私はそれを魂スイッチが入ったと解釈して、色々おかしいと思いながらもそのおかしさに自分を慣らしていくみたいな、そうやって4年近くをやり過ごした。


いなくなったら何か変わるかもと期待もしたけれども、それもいなくなった以外には何も変わってなくて、今なんかは色々想定外すぎる感じに仕上がっている。


でもそうは言っても、慣れたのも本当で、日常を送る中でなんとかなるものだと思っていたし、なんとかなってきたとずっと思っていた。


なのに、たった一言、LINEの中でのやりとりでその人の転勤を知って、私は自分でも信じられないくらいに反応した。


私が知ったところで何にもならないし、毎日は何一つ変わらないし、本当に何があるわけでもない。


じゃあその人がもう一度新潟に転勤になってうちから普通に車で30分もあれば会えるところに来たとしても、私は久しぶりだから会おうよとか前みたいに毎日会えるようになるわけじゃない。


だからさらに遠くにいようが近くにいようがそんなのはその人と私との間を何一つ変えるものにはならないし、距離の話は何かを変えるものでは決してない。


そういうことがわかっていても、私はとにかく色んなことがショックで哀しくて言いようのない気持ちがムクムクと湧き上がった。


挙げ句の果てに、仕事中なのに涙が出そうになるという特大のオマケまでついてきた。


そんなオマケお願いすらしたことなかったのに


静かに「時間が解決してくれる」と祈るような気持ちで思った。


もう1つ、誰かをものすごく好きになれたらこんなことにはもうならないんじゃないかというのも思ったけれど、時間薬よりも確率が低すぎて、それはあわよくばくらいに思っていようと思った。


ここまでになってしまう色々は、本気で魂の領域なんだと思う。


自分で気をつけてどうこうなるものでもないし、理性とか理論で片付けられるようなものじゃない。


こんなに色々書いているけれども、向こうには彼女とかいつか結婚したい人とかいても全く不思議じゃないし、その存在の有無だって今この瞬間もゼロじゃない。


なんかそういうことじゃないんだと思う。


魂案件ということにしておけば、三次元の資本主義社会や人間社会の価値観と全くマッチしてなくても「魂絡みなら仕方ないね」と私はなれる。


魂コードなるものがあったとして、その人というのは魂コードで繋がっている人なんだと思う。


相手からして迷惑千万でも、魂コードは迷惑とか三次元的不都合とかには全く配慮のないものだから、なんなら容姿も生き方も関係なく、ただコードがお互いに繋がるかどうかでしかないものだと思う。


だったら物理的距離も気にならなきゃいいのに、気にしたって何も変わらないのに、この私の反応たるや何なんだろう?と思う。


昨日仕事から帰ってきてから、その人の名刺をペンジュラムやオルゴナイトと一緒に持ち歩く巾着袋に入れ忘れて家に置いて行ったことに気付いた。


普段名刺の細かいところなんて見ないけれども、名前の上の部署名はもちろん、名前の下の住所も今は全然違うんだろうなぁと思った。


名刺さえも今目の前に形としてあるのが不思議なくらいだった。


下書きした手紙も久しぶりに出した。


手紙ってどうなったんだろうと思った。


すでに2回大きな引越しをしているわけだから、もう手元にはない可能性も高いんだなぁと思った。


中身は読まずに最初と最後のところだけチラッと見たけれど、見なくても何を書いたか覚えている。


形あるものはいつか全てなくなる。


まだ私の手元にはいくつかの形あるものがある。


それがどのタイミングで形がなくなるかどうかでしかないんだなぁなんて思いつつ、もし相手のところにも残っていたとするならそれはすごくうれしいことだし、反対に捨てたと言われても(そんなこと知れることもないけれど)、なんかそれは別に「そっか」と割り切れそうな自分がいる。


手紙は最初から捨てられることを覚悟して書いたから、それが今現在どうなっていようとも実は本当に気になっていない。


なのに転勤話を聞いてこれまで蓋してきたことが同じように蓋することはできなくなって、うろたえている。


物体もない、ただの文字からやってきた情報に私はやられている。


今日1日仕事に行けば8連休だから、あと1日心を保ったらいい。


今日こそExcel英訳入力の前の、なんと日本語入力が待ち構えているから、なんとなくやり過ごせると思う。(日本語入力してくれた人が、誰と仕事を組んでもやらかしまくりで噂の絶えない人だったけれども、それに私もとうとう洗礼を受けたことが昨日発覚。おかげで仕事は1から入力し直し状態になっている。)


静かに資料とExcelとに神経を注いでいたらいいわけで、なるべくおかしな方向に気持ちが向かないように今日は気をつけよう。


昨日1日で相当懲りたから(自分の心の動きを観察しようなんてのんきに思っていた自分がアホすぎた)、今日は連休中の家での過ごし方(引きこもり予定)やそのための買物リストなんかに目を向けよう。

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