2021年4月14日水曜日

めいっこタイム

2018.3.26
3歳の姪っ子


2020/09/23

姪っ子との時間はいつの時も奇跡だなと感じる。


私が有休を取ってまで向かっていた、うちから70キロ近く離れた皮膚科に行く道中に母から連絡が入った。


4連休中に妹と姪っ子、後半は義理弟もくること。


妹夫婦は、年明けてしばらくしたら自分たちのパン屋をオープンさせることになった。


弟が勤めていたパン屋がコロナが毎日のトップニュースになる前に突然の閉店が決まって、そこから一気にパン屋開店の流れにあれよあれよと決まっていった。


店を出したら早々簡単に帰ってこれないのもあって、妹は直前までみんなの体調を見て帰ってくることに決めた。


だから前日に連絡が入った。


そろそろ5歳になる姪っ子は保育園に通っているし、翌々年の4月には1年生になる。


そんなに長期に帰ってはこれなくなる。


だから、姪っ子が3泊4日という決して長くはないけれど、そこそこ長めの帰省をするのは、かなりな確率で今回が最後になる。


生後2週間くらいの時に「はじめまして」のご対面をして、そして今5歳目前になる頃までを見て、とっても感慨深い気持ちが湧いてくる。


私は子ども相手の仕事をなんだかんだと10年近くやったし、特に施設の時はモロに子どもの日常の中に自分の身を置いていたけれども、姪っ子とこれまで関わった何百人という子どもとは全く違う。


姪っ子の方がかわいいとかそういうことではなくて、ある1人の人間の発達過程を本当にリアルに見たのが姪っ子オンリーになる。


施設の子どもたちも5年半みっちりと見た子もかなりな数でいた。


でもそれはどんなに長くても最長10数時間で、それで夜勤の翌日も出勤になったとしても、どうしても24時間近い「会わない時間」が存在していた。


だから、いつの時もぶつ切りの時間になってしまうし、そして一応職場なわけで私人には100%なれなかった。


私の社会人歴史の中でも私人度は一番高いし、本当にかなり地で仕事をしていたから普段の自分とそんなに多くは違わなかったけれど、それでもやっぱりどこかしらよそ行きの顔は残っていた。


そのことを思うと、姪っ子とは常にお泊まりがついているし、それも長きに渡って私人の自分になっている。


姪っ子も家にいる時と何ら変わらないようで、いつも以上にハイパーテンションになっているとのこと。


甘やかしてくれる大人が増えるぐらいで、あとはもう普段のままいる。


だから、「素の自分」という意味で、何の色も付いていない子どもを数年に渡って見れたのは、姪っ子が唯一で、そしてもしかしたらこのまま姪っ子のみが生涯において唯一無二のそういう子どもかもしれない。


たしかに身内だからかわいいというのはあっても、自分がこれまで出会った子どもたちもこれまた別のかわいさがあるし、面白いこともたくさんあった。


世間一般で言う「身内びいき」みたいなかわいさとはひと味違うものを私は感じている。


そして、これは本当に不思議な感覚だけど、姪っ子の時にしか感じたことがない、「今日、今だけの限定姪っ子」ということと、それがわかるゆえの寂しさは常に裏側に表裏一体である。


子どもだから成長して当たり前だし、いつかはみんな大人になるから体も心も頭も色々と大きくなるのは自然な摂理とわかっていてもやっぱり寂しい。


まず、久しぶりに会って最初のシーン、はにかみながらも「だいすき」と言いながら抱きついてもらえるなんて、人生の中で他に類を見ない体験だった。


朝は3回共にすると、どの日も起きてすぐ私の方を見てニッコリと特大笑顔を向けて、そして私のところにやってくる。


この世の喜びと言わんばかりに、朝イチは笑顔で始まる。


どの日か忘れたけれど、重たくなった姪っ子を抱っこして階段を降りた。


抱っこさせてくれるかな?と心配は杞憂に終わって、姪っ子は全く嫌がらず、むしろ喜んで抱きついてくれた。


16キロ強あるようで、もう抱っこするにはギリギリの重さになっている。


もう次は絶対に抱っこは身体の大きさ的に無理だと思ったから、姪っ子にそれとなく言ってみた。


今回はなるべく抱っこさせてもらえる時は、自らやりたいと言って抱っこした。


姪っ子とは生涯を通じて同じ生活圏内で生きることがないから、だからもう会える時はいつだって今生の別れ並みに思っていないと次がいつかは知らない。


そして、いつの時も、例えば今なら5歳になる前の姪っ子には今の時しか生涯を通じて会えない。


いつかの生まれたばかりの姪っ子、ハイハイしていた時の姪っ子、しゃべり立ての姪っ子、そういう姪っ子にはもう会いたくても会えない。


そして年齢と共に確実に姪っ子には姪っ子の世界が出てきて、伯母など全くもって土俵外になるのは時間の問題だから、本当に今だけだというのがものすごくよくわかる。


「ふみこだいすき!」と言って抱きついてくるなんて、そんな至上の喜びは今限定だと言ってもいい。


そのうちそういう言葉はなくなる。


抱きついてくるなんてのもなくなる。


すべてなくなる。


だから1つ1つがどうしても寂しくなる。






ごはんもお風呂も歯磨きも1人で何でもできるようになって、大人側はものすごく楽チンになった。


たまたまの流れでお風呂は毎日一緒に入った。


最初の日、「もう1人でぜんぶあらえるんだよ」と言われて、実際にそうなのはわかったけれど、仕上げするねとかなんとか言って私もかなり洗った。


次の日からは私がやった方が速いと思ったのか、それとも甘えてみてるのか、その辺りは知らないけれど、私がメインで洗ってあとは姪っ子は手を添える程度に自分の頭や体を洗った。


一番風呂はどうしても熱くて入る時に少しコツがいるのと、これまでは姪っ子を抱っこして少しずつお湯に足元から浸かるようにしていたけれど、今回は入り方を工夫して1人で入れるようになっていた。


たくさんの回数を共にしていたから、もう確実に大人になったんだというのがよくわかった。


そしてもうずっと見張っていなくても、安全にお風呂の中で遊べるようになった。


姪っ子がプリン屋さんごっこするためにあれこれ準備をしてくれてる間に私はさっと自分の頭や身体を洗えた。


おしゃべりしていたような気がするけれど、とにかく話し声と気配を感じながらおしゃべりしているので良かった。


常に目が離せないマンツーな時から目を離しても常にチラ見チェックが必要な時まで段階を経てきたからこそ、今回はものすごく楽でありながらもやっぱり寂しいものがあった。


決してごっこ遊びは楽しくないけれど、ごっこ遊びも今だけなのはよくわかった。


ちなみに今回は、風呂の中では「ねこのプリンパーティー」という設定で、姪っ子は猫に私は犬になって、私は自分の名前は忘れたけれど、姪っ子は自分と私にそれぞれ名前を付けた。


姪っ子は「にゃらにゃんこ」ちゃんで、そして話す時は語尾に「よういできたニャン」などと末尾に「ニャン」をつけた。


私はリーラだったかサーラだったかそんな感じの名前で、語尾は「おじゃましますワン」などと末尾に「ワン」をつけた。


妹の前ではごっこ遊びをしないらしく、妹がぬいぐるみを使って腹話術的なことをするとそれが嘘とわかるからゲラゲラ笑っていたけれど、数々のごっこ遊びという名の苦行を共にした私がぬいぐるみや架空の人物に化けておしゃべりするのは全く違和感がないのか、むしろそうするのを要望されるようにやっていた。


姪っ子の方もぬいぐるみの代わりに自分がぬいぐるみになったつもりでおしゃべりして、そうやってごっこ遊びをしていた。





2021/04/12


上に書いたブログはもう少し何かを書き足したいと思っていたはずだけど、半年以上も経つとすっかり忘れる。


妹たちは無事1月末にパン屋さんを開店させて、3月からはうちの両親が金沢に行って姪っ子の面倒を見ているのと、家の中のことをあれこれ手伝っている。


両親が新潟に少し帰ってくるために今度は私が入れ替わりで16日金曜の夜から21日まで金沢に行く。


今回は妹たちに頼んで、私は水曜日1日を姪っ子と2人で過ごす予定。


夜姪っ子に電話した。


最初なんだかの理由で「いそがしい」などと言っていたけれど(姪っ子の中の最近の流行の言い訳)、すぐ終わるからと言って私は用件を言った。


「ねぇさや、土曜日、保育園に行きたいか史子と2人でいたいかどっちがいい?」


即答で

「ふみこといっしょがいい」

と返ってきた。


この世で私と一緒がいいなんて何の意味や計算もなくどストレートに言ってくれる人は姪っ子くらいなもの。


そして遊びの記憶とはすごくて、こんな風に続けて言われた。


「さや、ししょうとくじびきやさんごっこしたから、ふみこもできるよ」


ししょうとはうちの母で、どうやら2人でくじ引きの紙を作ってやったらしい。


くじびきやさんごっこは姪っ子のお気に入りの遊びの1つ。


新潟に来るたびに散々遊んだし、かれこれ3年くらいの筋金入りのお気に入り。


そういう記憶力の高さは目を見張るくらいにすごい。


色んな子どもたちとごっこ遊びをしてきたけれども、それぞれの子どもとの遊び方というのがあって面白い。


そして子ども側も実によく覚えていて、姪っ子なんかは年に3回会うか会わないかなのに、本当によく記憶している。


1年後は小学生で、さすがに小学生になったら学校は休ませられないし、同じ土日でも宿題があったりして、ただただ遊ぶとかじゃれるとかいうことができるのも今年が最後かなぁと思っている。


ひらがなやカタカナも書けるくらいに字もわかって、口なんかは達者になりすぎなくらいだけれど、本当に今の今しか5歳の姪っ子は存在しないんだなぁと思うとしみじみとする。


生涯を通じて5歳の姪っ子は今しかいない。


いつかは小学生、中学生、高校生、大人になる。


私の胸に飛び込んできたり、抱っこさせてくれるのももう終わりの方が確実に近い。


不老不死など全く憧れたことはないけれども、小さな姪っ子を見てこの今の瞬間が止まったらいいなぁと思ったことはある。


生意気なことも可笑しなことも意地悪いことも色々言うけれど、やっぱり愛おしい存在なのには変わりない。


これをアップしないとアップするタイミングを失いそうだから、これで一旦はアップしようと思う。

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