2020年12月29日火曜日

今年の一文字『駆』ー2020

少し早いけれど、今年の一文字について語りたい。


今年は11月のいつだったかに、おいせさん手帳に合わせて書くために、早々と「今年の一文字」を考えた。


これはノムの書いたおいせさん手帳のメッセージ。


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1212日 

愛の込もった言葉は、贈り物になります。

清水寺の漢字の日

 

一年を象徴する「今年の漢字」が発表になる日です。

今日は少し時間をとって、この一年を振り返ってみてはいかがでしょう。

自分の感じを表す漢字は見つかりましたか?

そうしてさらに、今の自分へ贈りたい漢字も考えてみましょう。

一足早いクリスマスプレゼントとして、自分への言葉の贈り物です。


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今年の一文字は「駆」。


そのまま読んで「駆ける」。


本当に駆け抜けた1年だった。


今日(12/28)仕事をしながら、1年前と今とを比べて感慨深い思いで見つめた。


1年前の今、年末年始の休みに入るのに、1月から1人での英訳デビューが決まっていて、とっても不安だった。


できる気もしなければ、社内で仲良くできる人も誰もいなくて、本当に不安だらけの中で年末を迎えた。


年が明けてからは、心配や不安に駆られる以前にあまりにも多忙すぎて、止まらない英訳を前にただひたすら来たものをこなしていく他なかった。


そして今だからわかるけれども、最初から私の元に来たものは内容的に難易度がとても高かったり、完全なる新規ばかりが続いてどれも自分で1から英訳しないといけなかったり、会社の大きな契約やトラブル・クレームが裏側にある機密案件だったりと、もはや誰が見ても私のキャパを超えた凄もの揃いな仕事ばかりが舞い込んだ。


それをひたすらやり続けて、都度都度おかしなことがたくさんあるからそれを1つ1つ担当者に確認して、絶対に納期を守ってやり抜いた。


「確認」と言っても単なる確認じゃなくて、とてつもなく言いにくいことや相手の能力や会社そのものの批判にもなりかねないような歯に衣着せぬこともじゃんじゃん言わないといけなかったり、超センシティブな内容をなぜか派遣の私が役員たちにガンガン切り込んで調整しないといけなかったりと、ありとあらゆる力を総動員しないとやりきれないことの連続だった。


今日も今日で、これから先の未来を見て新しい歴史を今この瞬間に決めて作らないといけない事態になった。


社員の人たちはのんきなもので、「あ〜そうだよねー、それ何かしら手立てを打たないといけないよね」とか、今度は実際に私が確実に実行するにあたっての細かな確認を現担当者となる管理職のところに聞きにいくと、そんな些末なことと言わんばかりで軽視してる上、軽視してる割に決めるのは嫌がって、私が「この方法で進めて良いですか?」と都度確認(多分3回くらい)したら、「良いですか?って聞くの止めてもらえます?」と挑戦的に言われた。


すみませんととりあえず謝って(そういう時にすぐに何も考えたりせずにまずは素直に謝れるのは、我ながらすごい力だと思う())、とにかく責任を持ちたくないのか決めた時にそれで何かあると嫌なのか、決めることも私が提案していることを受け入れるのも嫌がっていた。


私はそこで、自分の上司に確認して問題ない方法で案を作って、それをまた最後見てもらうことを提案して帰ってきた。


後々考えて、私は自分が提案したことは絶対の絶対に長い未来を考えた時に必要なことだと思った。


今は関係者が全員いるしそれぞれの人たちが自分の持ち回りについては熟知しているから問題ないけれども、少なくとも私のポジションや今いる人たちのポジションに未来に入る人たちからすると、絶対に混乱を招くのは目に見えている。


現にその混乱が問題に発展したケースに私は幾度となく当たっているし、そして当時のことがどこをどう探してもその経緯や明らかに異常なのにその異常なことが決定された理由もわからなくて、最終的に1から全部確認したり、はたまた少しでも事情を知ってそうな人たち数人に聞き回ったりと本当に無駄な仕事が多い。


そんなのはその時その時でキッチリとやっておけば余計なことをしなくて済む。


なのにその時々でいい加減にしただろうことが未来の今そのしわ寄せが来てとんでもない余計且つ面倒な仕事を生み出している。


なんなら今日なんて、たった1つ(J)(SY)を1枚の紙のどこかに入れるか入れないかだけのことだった。


冗談抜きでそれだけのことで、でもたった1つ入れるか入れないかで未来はガラリと変わる。


「管理する」ことに対して本当に力が弱い会社だと思うし、管理する体制がないままに色んなことが動いているから、だからこそ本当に小さなことをそこに暗号のように残すか残さないかで、未来にそれらを扱う人たちの仕事が増えるか減るかが変わる。


私から見て色んなトラブル防止に確実になるから、1文字もしくは2文字入れるのは絶対にやった方がいいことだった。


それは直の上司も大賛成だったし、それだけで済むことならどう考えてもやった方がいい。


管理職はなぜに今ここだけのことを考えているんだろう?と不思議でならなかったし、どうして今のことがその件に対する1番の土台になるのにそれを決めるのを嫌がるのか全くもって理解できなかった。


結局、私の提案は無事に通って、それでとりあえずその小さな1文字が何かあった際の最後の砦になってくれるといいなと願いながら書き入れて、さらにはその経緯が未来の人たちにもわかるように引継ぎメモ的なデータに端的に説明して残しておいた。


とにかく一事が万事こんな風で、細かな調整は常だし、そのためにあちこち走り回ることも日々やっている。


そんな風にして1年駆け抜けた。


「駆ける」というのは辞書(中学生の頃から使っている新明解)によると、

【はずみをつけるようにして足を動かし目的地まで(他より速く)行こうとする】

とある。


その時その時は面倒だなぁと思ったり気が重たかったりしても、結局のところ実際にやってきたことが一番速く目的地にたどり着ける確実な方法なのかもしれないと思う。


もしやらなかったら、後々もっと面倒なことになるのは明らかだから、だから今のスタイルでいいんだろうと思う。


これを書きながら気付いたけれど、私がいつも基準にしているのは「それをやる自分」と「それをやらない自分」のどちらの自分と自分自身が付き合いやすいか、ということなんじゃないかなとふと思った。


例えばさっきの1文字を足す足さないことについても、やるのは確かに色々面倒な手間がついてはくるけれど、逆にやらない場合、「やらないって決めたけれど本当に良かったのかな」と悩みを引きずる自分がセットでくるわけで、それの方がジワジワと長期的にしんどい。


自分でわかってきたことだけれど、私の場合、自分が納得できるかどうかが何事においても大事だから、たとえ今回の管理職が適当に見過ごそうとしても「あの人がそう言うんだからそれでいいんだ」という風には納得できない。


理にかなったことを相手の人が打ち出してくれるとものすごく楽だけれど、そうではなく「面倒くさい」とか「決めたくない」とかいう私情で決められそうになっているのを知っていて、それで「あの管理職がそう言ったからそうする」っていう選択はないなと思う。


当然逆風は吹くけれど、自分が現場にいて見ているもの感じているものほど強いことはなく、それは声を上げなければそのままなぁなぁになってしまう。


でも一度声を上げれば、必要なことなら必ず動く。


何かしらの助けが入ったりして何とかなる。


私はそれを信じているし、どうやっても動かない時は「物事が動かないことが正解」と思うから、それで割り切れる。


でも悪いことだとか不具合だとかがわかっていて黙るのは性に合わない。


黙ることの方が自分に負担がかかる。


[私がいつも基準にしているのは「それをやる自分」と「それをやらない自分」のどちらの自分と自分自身が付き合いやすいか]

というのは、そういうことを指している。


やらないことで回避できる面倒ももちろんあるけれど、理にかなってないことは後から倍返しと言わんばかりに問題を大きくして自分のところに戻ってくる可能性が高いから、多少面倒でもやることで自分の中がクリアになるのならやる。


そしてやっているうちは、たとえ結果が思わしくなくても気にはならない。


やらないことで悶々とするよりも、やって結果を見てる方がスッキリする。


どちらが自分にとって心地よいか、もしくはどちらがより心的負荷が少ないか、そうした自分基準で物事を見て決めている。


今年1年は特にその選択がモリモリたくさんあったわけで、それらをすべてやりきったと言える今時分、これで良かったなぁと思っている。


来年はまたどんな年になるのかわからないけれど、自分にしっくりくる漢字を持てるような1年になるといい。






これがおいせさん手帳以外で今年アップした記事の99記事目。


今即席で書いたけれど、次の最終の美を飾りそうな100記事目を年内にアップできたら自分的に大満足。


100記事目となる予定のものは何日かに分けて絶賛執筆中。

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