西日に照らされた桜
(撮ったままの色)
夜桜
今年初の桜
夜桜と同じ桜の昼の顔
桜2020
思い立ってFacebookを開いた。
数ヶ月ぶりどころか1年とかそれ以上ぶりかもしれない。
「今しか見られないFacebook」を期待して開いた。
コロナウイルスによって、ちょっとギスギスしていたりナーバスになっている投稿を見れるかも!、という実に不純な動機で開いた。
かなりさかのぼって、なんなら3週間近くまでさかのぼって見たけれど、なんとなんとどの人も普段と変わらない、またはコロナによって新しい回路を開拓したり、自粛する環境下でも実に活発なことをしていた。
自分や自分の心の中をのぞいてさらに本音で何かを発信する人もいたし。
今だからこそ、ネガティブになっている自分や自分の子どもの記録を残そうと思ってやっているという人もいたし。
コロナ関連の情報を発信している人たちも、別に今だけじゃなく元々そういう人に拡散すると喜ばれるものや役立つものを普段から拡散している人たちだから、ただ今回はコロナがテーマに移り変わったんだね、ってな具合だった。
緊急事態宣言都府県に住んでいる人たちもたくさんいるし、業績悪化や給料カット、子どもの入学式中止やらなんやら、とにかくそれぞれ何か抱えているのに暗さがない。
それ見て私が真っ先に思ったのは
「自分軸が欲しかったんだな」
ということ。
私がFacebookを見るのをやめた大きな理由の1つは、Facebookの投稿を見るのが辛かったこと。
周りの人たちの生きる姿や日々の日常を垣間見るたびに、自分が何も持っていなくて何もやっていなくて社会の中で後ろめたい生き方や存在なんだと、すごく卑屈な気分に陥っていた。
それが嫌だったんだとわかる。
その空気感の中で私が感じていたのは、気圧されるのと、そして今回開いて初めて気付いたのは自分の軸の無さや自分の存在に対しての無価値感だった。
今回は仕事に行っていたりさんざん自分に向き合って付き合って自分の闇の総ざらいのようなことをしてきたから、冷静になって見ることができたけれど、少し前の自分ならそんなことできなかった。
みんなそれぞれあるし、投稿している人たちの超コアな人生模様を知っている人たちもいる。
半端ないハードな道の生き様の人たちもいるから、そんな中で自分にしかできないことやありのままの本人を発信しているのは今も過去も変わらない。
そういう人たちと自分とを比べていたから、余計にしんどかったんだなとわかった。
比べることを前が10とするなら今は1とか、あっても3くらいな感じ。
そして、比べたところで彼らのようにはできないことも知っているし、私は私で別なところに強みや弱みがあるからそれでいいんだなと思えるようになったし。
にしても、相変わらずエネルギッシュで自分と向き合いまくりな人たちの投稿を見て、自分のキュッとなる心の苦しさみたいなのが出てきたから、Facebookは早々と閉じた。
*
コロナ対策と言えば、会社のコロナ対策が少しずつ本格化してきた。
1週間前の月曜日から、朝検温が始まった。
いくつか門があるから、各入場口に大御所たちが当番制で立って、検温をしたり各自が家で測った体温を確認している。
そこだけが唯一コロナ対策っぽいけれど、仕事の中身も多忙さも何ら変わりない。
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最近ブログ熱がひっそりとなりを潜めている。
代わりに、星読みを通じた手書きの鑑定書に力を使っている。
私が何を見るのかや、どんな感覚が発達しようとしているのか、それを見るのもなかなか楽しい。
この間、占星術講座のクラスメイトだったノムと話した時に、私が今していることをノムはこんな風に伝えてくれた。
「ぶっしーは今回の星読みを通じて、自分というものを硬派さんにさらけ出そうとしているみたいな感じだねえ。ぶっしーが本当に大事にしている自分というものを、自分の能力を、この人にだったら見せてもいい、この人になら見せれる、そんな風に感じるよ」
ノムは続けて、私のそのことというのは、誰にも傷つけられたくないもの、本当にとてつもなく大事なものだから、だからこそ傷つけたくない、色んなものから守りたい、そういうものだと言ってくれた。
その時にスルスルと自分の中で1つ謎が解けた。
私が自ら離れたいくつかの人間関係に関して。
ものすごく素敵な人たち、はたまたものすごく世話になった人たちとわかって、どうして私がそれでも離れようと決断したのか。
ノムの言ってくれたことがまんま答えだった。
自分の持っているものについて、相手の人たちから否定されたからだった。
相手はそんなつもりなくても、私からすると否定だった。
しかも私が何よりも大事にしているもの、自分の中で必死で守り抜いているもの、それに対して傷付けられたように感じたから、私の心のシャッターは一気に降りた。
今回少し前まで席が隣りの隣りだったイケメンエンジニアの硬派さんの星読みをしているけれども、私は全力でやっている。
普通の人なら引くんじゃないかというくらいの量の鑑定書を書いている。
硬派さんは人生の中で私みたいなことをする人に初めて会ったし、自分の周りにはそういう人はいないと言われた。
いきなり超オカルトちっくな人が目の前に現れたにも関わらず、硬派さんは何一つ態度を変えない。
それどころか、その色んな側面を持っている私をそのまま受け入れてくれてる。
内心は多くを語らないからわからないけれども、少なくとも私が星読みでもペンジュラムでもマニアックなことをする人だと知る前と知った後で何一つ態度は変わらない。
それは作って振る舞えるものとは違うから、本当にただただそのままを受け入れてくれてるのが肌でわかる。
だから私も安心して全力で自分を出せるし、もはや何と思われてもいいやと開き直ってるところもある。
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写真は今年のプチ花見の様子。
完全に時期を逃して、近所の桜を見るだけにとどまった。
それでも十分楽しかった。
同じ木の桜なのに、夜と晴れた昼間とでは全く違う顔になっていた。
セピア色の桜は、西日に照らされた桜。
だから自然色であの色合いが出る。
ふと気付けば、毎年1人お花見を決行している私にとって、別に今年の花見も去年以前の花見もそう大差ない。
昨日かおとといくらいに朝の会社に向かう車の中で思った。
今の年齢になって自分の子どもを持つことは相当難しい。
確率として限りなくゼロに近いと思う。
ということは、相手になってくれる人も子どもを望まない前提でいるだろうと考えた時、残りの人生で毎年見飽きるくらいに桜とか季節折々の何かを共に見たり食べたり飲んだりできたらいいなと思った。
そういう人が未来に現れてくれるのなら、細かいことは基本なんでもいいなと思った。
世の中の夫婦やカップルたちを見て思う。
みんな色々文句や不満を言うけれど、私からするとそれってすごい贅沢なことだと思う。
お互いに良いと思って一緒にいられるって、この世の奇跡の中でも第1位になるくらいの奇跡だと思う。
だから毎年近くの桜でも、何であっても、それを共有できる存在が人生の中で持てるって、それこそ人生最大のご褒美だなと思った。
50になろうが80近いばあさんになろうが、そんな風に誰かの隣りにいられたら素敵だなと想像しながら車を運転した。
その30分後には、あまりにも酷い英訳を見て本気で発狂していたけれども( ̄∀ ̄;)。
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今日2020年4月15日は、50年以上業界勤めをしてきた父が正式に退職する。
明日以降もボランティアで1週間ほどは引き継ぎや手伝いで行くらしいけれど、本当に仕事が終わりになるらしい。
様子を見て、両親を食事に連れて行こうと思う。
今日はとりあえずロールケーキを買って帰ろうと思う。
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