2016年2月7日日曜日

ポトフを究める

去年の冬からポトフにはまっている。

1年前、料理ブログのブロガーの方たちがこぞってポトフを作っていた。

「絶品」と皆が口を揃えて言う。

自分で実際に作ってみるまで、ポトフは単なる野菜と肉・ウインナーを煮込んだメインにならない

スープと思っていた。

しかも調味料は塩だけというとてもシンプルなもの。

そんなものが美味しそうとはとても思えなかった。

いざ作ってみたら、その野菜・肉・ウインナー+塩だけのスープがものすごく美味しいとわかった。

「絶品」と言われるだけのことあって、本当に本当においしいスープが出来上がった。

今日の昼間も、掃除したり他のことをしながらただ煮込めばいいポトフは休日ランチにもってこいの

メニューだった。

しかも昼間なら別にポトフだけ食べて終わりでも全然気にならない。

そして今回は、このポトフに新兵器を投入してみた。

「茅乃舎(かやのや)」と呼ばれるブランドのだしがある。

発祥は福岡だけど料理ブログ界では有名ブランドらしく、色んな人のところで見かける。

名古屋市内にも1店舗だけ取り扱いがあって、一度は試してみたいと前々から思っていた。

そもそもだしバックなるものを買ったことのなかったわたしにとって、だしパックとはいくらが相場

なのかさっぱりわからずにいた。

だけど5パック入って300円台であれば、手が伸ばせる。

しかもそこはすべて試飲させてくれる。

店頭で味見をさせてもらって驚いた。

本当に「料亭か!?」と思ったほどの旨さで、これは皆が使うのもうなずけた。

それでその5パック入っただしパックを手に入れ、今日はポトフにパックを破いて直接入れた。

そう、茅乃舎のだしは袋を破いてそのまま使ってもOKというので、これまたありがたい限り。

さらに今日はもう2つ高級食材が一緒に入った。

1つは「インカのめざめ」と呼ばれるじゃがいも。

もう1つは、アップルベーコンというベーコンで有名なところが出してるウインナーがなんと特価!

普通の市販のものより安かったから、それも入れてみた。

ちなみに「インカのめざめ」は、なぜか半額になっていたものを買い置きしておいたもの。

もうどれだけ高級食材が揃ったんだという位の高級ポトフになった。

期待で胸を膨らませ、お気に入りのボウル型の陶器にポトフを盛り付けて一口スープを啜った。

あれ?と思った。

おいしいはおいしい。

だけどポトフ本来の良さも半減、茅乃舎のだしの良さも半減。

1+1=2ではなかった。

どちらも良さが失われて、実に中途半端になってしまった。

まぁおいしいのは変わらないから、と思って気を取り直し次はインカのめざめへ。

これもまた実に中途半端な味に仕上がっていた。

正しくは味が薄れ、何ともぼけた味しかしなかった。

今回インカのめざめを色んな食べ方で食べてみてわかったことは、わたし自身が多分じゃがいも

に関してはとても舌が肥えている。

子どものころからじゃがいもがとても好きだ。

別に特別ないもでなくていい、普通の男爵とかで十分。

ただ年に1度だけ、母の勤めている会社の社長夫人が夫人の実家の北海道からきたじゃがいも

を届けてくれていた。

今から25年程前は、じゃがいもと言えば男爵とメークイーン位なもので、その他の種類のものを

手に入れるのはほぼ不可能に近かった。

ましてや今のようにインターネットでボタン一つで全国各地のおいしいものを手にするような時代

でもなかったから、じゃがいもも当然スーパーで手にするか、農家の方のおすそわけをいただく

位しかなかった。

ところがその秋口に毎年届けられたじゃがいもは、まず皮が赤かった。

さつまいもの皮をもう少し濃くしたような赤で、子ども心に「これは絶対に高級じゃがいもに違い

ない」と踏んでいた。

このじゃがいもに関しては、わたしは一切の労を惜しまず、きちんと蒸し器を用意して自分の

おやつとして吹かし芋を食べていた。

本当においしくて、大きなじゃがいも2つは平気でぺろりと食べていた。

そういう芋を食べた記憶があるせいか、インカのめざめにはあまり感動を覚えなかった。

そしてさらに今回のポトフで言えば、人からおすそわけでいただいたさつまいもも入れていて、

そのさつまいもの圧倒的勝利で余計とインカのめざめは影が薄くなってしまった。

そう、さつまいもを入れるのも料理ブログの影響で、これまた色んな人が口を揃えて「ポトフには

絶対にさつまいも!」と言う。

1年前半信半疑で入れてみたらものすごくおいしくて、それ以来作る時は毎回入れている。

ウインナーに関して言えば、もうポトフには入れない方がおいしいと今回わかった。

ウインナーはおいしいものだと思うけれど、ポトフはあくまで野菜が主役で、そして少しばかりの

塊り肉があればそれで十分おいしいだしが出ることもわかった。

今回のポトフを作ってわかったことは、高級なもの同士を組み合わせればいいというものでもない

ということ。

高級であればあるほど、その素材をそのまま生かす方法で食べた方が絶対においしい。

実際にインカのめざめも、一番おいしいと思った食べ方は、単に吹かしてそしてあとはバターと塩

で和えただけのものだった。

個人的にポトフの材料でマストなのはさつまいも。

あとは適当で大丈夫。

逆に入れるといまいちなのは、じゃがいも(←さつまいもの甘さに負けて味がぼける)、大根。

大根は、あの大根特有の青臭さが目立つ。

個人的にいまいちだったのは、れんこん。

れんこんはあの歯ごたえが好きだから、煮た食感があまり好きではない。

今日はごぼうも入れてみたけれど、これはおいしかった。

ごぼう特有のくせが良い具合にスープに溶け込んでいた。

この冬、もう一度位ポトフを作ってみたいと思う。

その時は、また調味料は塩だけで作る予定。

2016年2月6日土曜日

改名した人

最近仕事を通じて仲良くなった子からfacebookの申請が届いた。

久しぶりに「友達の数を増やす」目的ではない人からの申請ですごく嬉しかった。

何せ数ヶ月放置中のfacebook。

開いたついでに、わたしは自分が誰と繋がっているのかを確認してみた。

1人、「友達」になっている人で、全く身に覚えのない名前の人がいた。

名字も名前も知らない人。

わたし間違って登録でもしたのだろうか?と思い、その人のページを見てみた。

そうしたら知人であることが判明した。

例えば女性で結婚していて改名したとか、反対に知り合った時既に結婚していて旧姓を名乗って

いるというタイプの名字の違う人は何人かいる。

だけど、男性で本人の本名からは何一つ受け継がれるものがなく、全くの別人の名前になると

いうのは、これが芸能人だとか何かしら本人の安全を守るための理由でそうする以外は何とも

変な印象を受けてしまう。

その人とは別の人だけれども、数年前「名字」しか絶対に名乗らない男性に会ったことがある。

実際に本人にお会いして話を聞いた時に、私はなぜ名字しか名乗らないのか失礼でなければ

教えて欲しいと、純粋な興味で聞いた時があった。

今振り返ると若気の至りではないけれど、よく聞けたものだと思う。

相手の答えはこんな風だった。

「自分のビジネスの師匠にあたる人から、有名になればなるほど自分の身の安全を守るのが

とても難しくなる。

そうなる前に別の名前を用意しておいて、そちらでビジネスでは通す方が良いと言われたから、

だから自分は今のところ名字のみ名乗っている。

今後は人前で名乗る時も、もっと別の名前に変更しようと考えている」

ということだった。

わたしは呆気にとられた。

こんな言い方は失礼だけど、その人を見て話を聞いて

「この人は絶対に将来大物になる」

というエネルギーは一切感じられない人だった。

むしろ、あの手この手と手を変えるだけ変えて、でも本人の力は何一つ追いつかず表面的なこと

だけをひたすらよく見せるタイプの人にさえ感じた。

実力が伴ってから言っているのであればまだわかる。

でもそうではない。

そしてその方はセラピーだったかコンサルだったかそういう類いのことを生業にしようとしている

途中だったけれど、その後に出逢った本物の人たちはそんな名前がどうだとか職業名がどうだ

とかで勝負することもなく、ただひたすら自分の持っているものを純粋に惜しみなく出して、そして

ひたすら自分のことに従事しているタイプの人ばかりだった。

そんなことを思い出しながら、今日見つけた知人の名前の変更。

変更した名前はたしかにとてもきれいで整っている風な印象を与える。

本当にその名前が本名ならそれで違和感もなかったかもしれない。

だけど、当人の本名も知っていて、そしてその人の在り方も知っている以上、その名前と本人とが

全然マッチしない。

せっかく良いものを持っている人ゆえ、余計とその改名の名前の浮いた感じがしっくりこない。

本名の方はたしかに目立つ名前ではないし、印象に残る名前ではないのも本当。

だけど、その本名から取ったあだ名と本人の印象はものすごくマッチしていて、わたしはその

あだ名で呼ぶ時もそして呼ばれる本人の様子も何も違和感がなかったから、あれを大事にした

方が絶対にいいのにと余計なことまで思ってしまった。

多分本名は改名せず、通称だけを変更したのかなとは思う。

たった一度、子どもの名前を変更した方から話を聞いたことがある。

離婚とかではなく、そのお母さんにとってはものすごく納得のいかない理由での変更となり、

聞いてるわたしもその時ばかりはとても同情した。

その時の手続きで家庭裁判所まで行かなければいけないことを言っていて、名前を変えるって

すごく大変なんだと知った。

その方は家庭もあるから、そんな面倒な手続きを家族全員分してまで改名しているとはとても

思えないので(子どもはまだ未成年)、本当に表向きの改名だと思われる。

名前って生まれた瞬間、真っ先に与えられるものの1つだったりする。

名字はその家系にご縁があったということ、名前は少なくともその子どもに関わる大人たちが

考えて付けたもの。

もちろんどの子も平等に愛され家族の元に生まれるとは限らなくても、名前こそその本人の何か

大切なものを表すようにわたしは感じてならない。

わたしは子どもの頃、自分の名字がものすごく嫌でたまらなかった。

からかわれる名前ナンバー1と言っても過言ではない名前だった。

大真面目に佐藤や鈴木のような名前に憧れた。

だけど風向きが変わったのは大人になってから。

わたしは今の自分の名字のおかげで、色んな場面で救われている。

どんな職場に行っても、基本的にわたしはあまり「さん」付で呼ばれない。

その時々で名字をアレンジしたあだ名で呼ばれる。

もちろんみんながそんな風に呼ぶわけではなくても、そう呼ぶ人たちもたくさんいる。

仕事の上であだ名があると、これはわたしのものすごく勝手な解釈だけど、何か難しいことを

やりとりしなければいけない時もちょっとだけ場が和らぐ。

そしてプライベートでも仕事でも同じ呼ばれ方をするから、わたしもいちいちよそ行きの顔をせず

そのままで仕事ができるから楽チンだったりする。

最初の改名した知人のことに戻れば、その方がどういう理由で改名したかは知る由もない。

だけど名前は自分の感じ方ひとつで、同じ名前でも印象ががらりと変わるものだと思う。

あんなに嫌だと思っていた名前も今ではものすごく愛着がある。

50を過ぎてからの改名で、そこまで嫌だったなら仕方ないけれど、全然関係ない理由で簡単に

変えてしまっていたとしたら何だか残念な大人だなぁと思ってしまう。

2016年2月5日金曜日

対照的な気持ち

こんなことを1日の中で2回も(実際は知人の話含め3回)聞く日があることに驚いたけど、本当に

あるのだからある意味すごい。

2人の友達から全く別々に1人はかばんを紛失盗難に遭い、もう1人は海外で強盗に遭ったと連絡

があった。

前者をA、後者をBとして話す。

本人の過失度で言えば、Aの方がうんと高い。

単純に電車の中にかばんを忘れたらしい。

そこにはありとあらゆる貴重品が入っていたから、本人の困り方も半端ではなかっただろう。

Bの方は滞在先のホテルの前で身ぐるみはがされたように盗られてしまったらしい。

こうして文章にすると、Bがものすごく大変だったことがわかる。

だけどわたしは、状況的なものは圧倒的にBの方が大変にも関わらず、Bには怒りまで湧き、

Aには自ら本当に大変ならわたしにできることがあればすると連絡した。

Bにももちろんできることはすると伝えたけど、わたしが頼まれたことはわたしの予想をはるかに

超える金額の海外送金だった。

申し訳ないけどそれはできないと伝えて断った。

もしその指定された金額を持っていたとしたら、わたしは出したかどうかわからない。

金額ではなく、もちろんお金の貸し借りがどうこうというのでもなく、もっと個人的な感情の中で

わたしがしっくりきていない部分があるから出さないと決断するような気がする。

ちなみにAがなぜそんな個人的なことを伝えてきたのかと言えば、元々今日の夜会う約束を

していた。

それがそういう事情で今、仕事の合間に諸々の手続きに奔走している状態で、今日の夜は当然

飲んだくれているわけにもいかず、それで事情を伝えてキャンセルとなった。

Aは一言も助けてとも何とかしてとも言わず、淡々と自分のやるべきことをこなしている風だった。

だからAには逆にわたしの方から、何かできることがあればするということを具体的にできることの

例も挙げて伝えた。

何もできないし何もすることはないけれど、Aには心から早く解決に向かうといいねと思っている。

片やBの方はそうもいかなかった。

まず最初にわたしは、いたずらメールがBのメールアドレスを通じてやってきたのかと思った。

幸か不幸か、わたしはそこに書かれている英文をすべて解読できてしまった。

海外にいて日本語の打てないパソコンから送信しているのだから(とも書いてあった)、それは

それで仕方ない。

最初の感想は、本人が書いたが50%、何かに乗っ取られてのメールが50%だと思った。

英語も基本的に日本語と同じで、わたし個人向けに書かれたメールや文章かそうでないかは

読んでいたら伝わってくる。

大量に出すための一斉メールであれば、英語でもそのにおいはぷんぷんとする。

でも今回は、自分の私情を挟んでいることもあってか、よくわからなかった。

これがわたし宛のものなのか、そうでないのか、もしくはそのような文章を1つ書いてあとはそれに

対して反応してくれる人を待つために書いているのか…。

だから大変失礼ながら、わたしは友人の心配よりもこのメールが本人が書いたかどうかが最初に

気になってしまうという風だった。

だからとりあえず短い英語と日本語の文章で返信した。

本当にトラブルに巻き込まれているのであれば、○○円までなら送金すると具体的な金額まで

挙げて返信した。

そうしたら本当に返信が来て、そしてわたしが提示した金額を大幅に上回る額と送付先の海外の

銀行名と具体的な送金した際に発生する手続きの最後の部分だけ書かれてきた。

金額ももちろんだけれど、そもそもわたしは海外に送金したことがなく、当然そうなると海外に送金

するための銀行口座なども持ち合わせておらず、今の時代はわからないけれど、わたしが海外に

いた時は必ず海外に送金するための特定の銀行が必要だった。

その特定の銀行にまずは入金して、そこから次は海外のわたしの銀行口座に入金するという

手続きを取っていた。

その役割は家族が毎回担ってくれていたから、実はわたしの方が海外送金に関してはずぶの

素人だったりする。

もちろん何が必要かを簡潔に伝えてもらうことは必要だったりする。

だけど、何て言うのだろう、そこに自分側だけの都合が述べられていて、それにも腹が立った。

大変な状況の時に相手の都合まで考えろというのは無茶だと思う。

だけど、話の流れで、例えばすべてわたしが海外送金のための手段を持ち合わせている体で、

そしてわたしの都合などお構いなしな感じの表現と、わたしははっきりといくらなら送金できると

書いたにも関わらずそこはスルーでわたしからしたらとんでもない額をさらりと提示…。

何かがいちいち神経に触って、わたしはとてもではないけれど冷静にそのメールを読むことが

できなかった。

少し時間を置いて考えてみると、多分わたしの神経が逆撫でされたところというのは、おそらく

普段の関係性なんだと思う。

普段お互いにやりとりしていたり、不精なわたしはその普段さえも1年に1回や数年に1回になる

可能性も大だけど、それまでの積み重ねたものがベースになる。

Bの場合、その関係の中で大きくわたしを怒らせた過去がある。

怒ったのはわたしが勝手に怒ったことではあるけれど、わたしからしてみたらそれってどうなの?

と思うことがいくつか度重なった。

だから互いに距離を置き、もう2年から3年はやりとりをしていないと思う。

最後に連絡をもらった時も、わたしは非常に変な感じで終わったことは覚えている。

何て言うのだろう、これってある程度見知った人にかける言葉だろうか?と思ったこと。

言葉の内容は忘れたけれど、こんな言葉なら黙って何も言われない方がうんとましだと思ったこと

それは覚えている。

そんな最後の終わり方以来の昨日のお願いだった。


2016年2月2日火曜日

贈り物についての考察

『贈り物についての考察』なんていうタイトルを付けている時点で卑しい感じがしてしまう。

だけど本音だから仕方ない。

事の発端は今日の仕事帰りのこと。

今の職場は徒歩圏内に「百貨店」と呼ばれる建物がいくつかある。

デパ地下もある。

徒歩圏内にあるからと言って、そうそう足を運ぶ場所ではないけれど必要であれば行く。

今日は同僚の人とついでに行こうとなって行ってきた。

彼女とわたしの目当てのものは、今月末に辞める際に配る菓子折りだ。

菓子折りである必要はないけれど、これまで退職した方たちも皆きちんとした菓子折り系の菓子を

用意していた。

わたしたちは2人だから金額も2等分できるけれど、1人で用意する人たちはなんと60~70人分

の菓子を1人で用意する。

どれだけふざけているのかと思われるの覚悟で言うと、正直スーパーで売ってる菓子でも買って

配って歩きたいとさえ思っている。

会社の慣習で配るだけで、こんなにも用意するのがためらわれる贈り物もそうそうない。

自分を良く見せるための言い訳とは違うけど、これまで数々の職場を渡り歩いたわたしは、お世話

になった方たちには、とにかく色んなものを贈ってきた。

高額な方になると、数千円の花束を用意して家まで届けた方もいる。

そこまでしてやったという意味ではなく、それをしたくなってしまう程、本当によく面倒を見てもらい

至る所でフォローされ、そしてわたしのどんな愚痴も至らなさも受け入れて常にサポートして

もらったから、もう花束では足りない位の恩をたくさん受けていた。

せめてもの恩返しでの花束だったし、他の品物だったりする。

ブラック企業と呼ばれるところで働いた時も、最後はお世話になった方数名には個人的にお礼の

品を渡した。

それらを選ぶ時間も楽しかったし、そして一言手紙を添える時も真剣に考えて書いたものだった。

そう、いつも仕事でお世話になった方たちへ何かを贈る時は、そこに自分の気持ちもこもっていて

自らの意志で贈り物を用意していたのだった。

ところが今回はだいぶ勝手が違う。

正直、なぜ人数分の形だけのお菓子が必要で、ましてや名前すらわからない人もたくさんいて、

そこにどんな意味があって贈るのだろうと思ってしまう。

はっきり言って、お金さえもったいないと思っている。

これまでも共同で用意したり、多人数分を一気に用意したりしたことはある。

だけど一度たりとも今回のような気持ちで贈り物を贈ったことはない。

少なくとも「お世話になった」せめてもの心付けのようなつもりで用意していた。

だから贈り物の品物候補で色々考えを巡らすことはあっても、なぜ贈り物を用意しなければ

いけないのかなんていう、とんでもなく低レベルなことを考えてしまうことはなかった。

まさかそんな気持ちで何かを贈るなんて、人生で体験するとは思ってもみなかった。

自分でも腑に落ちていない今回の贈り物だけど、もうそれは最後の大仕事と思って突破するしか

ないと思っている。

ちなみにもっともっとしたくないことは、最後のご挨拶だ。

それこそ何とか辞退できないものかと真剣に願っている。

2016年1月31日日曜日

ロボットとコミュニケーション

昼間、昼寝から目覚めてまたしばらくうたた寝していた時だった。

それが夢なのか思考なのかそれともその混合したものなのかわからないけれど、非常に面白い

展開が夢の中で繰り広げられていた。

アニモ?だったか何だったか名前は忘れたけれど、おそらく今現在最先端にいるロボットがいて、

そのロボットが今の職場に導入されていた。

ロボットは、何とつい何日か前にわたしが頼まれた仕事を頼まれようとしていた。

その時に頼まれた仕事というのは、複雑でイレギュラーな事象に対してどのように対応するのか

同じ部署内の他部門の担当者へ聞きに行くことだった。

わたしが頼まれた時もそうだったけれど、起こった事象は理解できたけれど、その事象に対しての

対応策なんていうのはわたしは全く知恵もなければ初めての事象でその対応に関するヒントすら

持ち合わせていなかった。

今の仕事ではそういうことが多大にある。

わたしと同じ部門にいる社員の人にまずは指示を仰ぐ。

そこから先が毎回おかしいと今のわたしは気付いているけれど、社員が答えられない場合、

なんと社員ではなくわたしが代わりに他部門の担当者に指示を仰ぎに行く。

他部門の担当者たちはどれだけイレギュラーか理解した上で、回答をする時はわたしに直接では

なく、わたしを質問に行かせた社員に回答をしている。

きちんと筋を通していると思う。

難解だからこそ、きちんとわかる人にきちんと正しい指示を出していると思っていつも見ている。

夢の話に戻るけれど、ロボットも同じことを頼まれていた。

ところがロボットは人間のわたしと違って、その頼まれ事を「わかりません」と言って突き返した。

ロボットはすでにプログラミングされたことは正確に処理するけれど、そうしたイレギュラーで

これまでに一度も対応したことのないものには対応できないという意味で拒否反応を示していた。

実にロボットらしい反応だなぁと眠たい頭の中で考えていた。

少しずつ夢から目覚めて現実に戻った頃、そのロボットの対応を見て気付いたことがある。

絶対に人を介してでないと答えが得られないタイプの仕事やコミュニケーションがある。

今わたしがしていることはまさにそういうタイプの仕事が大半だ。

とりあえずわたしはわからないものはすぐに聞くし、他に聞けと言われたら他の担当者のところに

行って質問している。

わたしを毎回別の部門の人たちのところへ回す社員の人たちは、先を見通しているのだろうか。

その人たちは、個人的感情で相手が苦手とかだったりすると、聞きに行くのを避ける。

代わりに、そのタイミングで質問したわたしや他の人を質問に行かせる。

結局はその時は良くても、長期的な目で見た時に自分で自分の首を絞めているに過ぎない。

今はたまたま質問する人とその質問そのものを思い付く人がいるから何とか回っているだけ。

これがそういう人たちがいなくなれば結局自分で質問に行かざるを得ないわけで、それを避けても

どうにもならないとわたしは思う。

わたしはロボットではないけれど、ロボット的な役割の人物が「できません」「わかりません」と

なった時は、もう自ら動くしかない。

当たり前だけど、その時は自分で他の誰かとコミュニケーションをとる必要が出てくる。

逃げもごまかしも効かない。

自分で勝負するしかない。

人を使うのは構わないけれど、それが結局は自分の能力衰退に繋がるだけ。

本来自分ができること/やることを他人やロボットに任せるというのは、その時は良くても必ず

どこかでデメリットも同時に生じている。

要は使い方だと思うけれども、自分でもやれるしできるけれど今どうしても時間が取れないとか、

他にもっと大きな仕事をすぐに対応しないといけなくて物理的に聞きに行けないとか、そういう事情

であればわかる。

ちなみにそのように判断する人は、他の人に質問に行かせるなんてことは大概しない。

どこかのタイミングでやっぱり自分で責任を持って聞きに行っている。

でも、他の人に任せる理由が面倒くさいだからとか、○○さんが苦手で話したくないからだとか、

そういう非常に個人的なレベルでお願いしていたら、それってまずいと思う。

何事もそうだけど、楽しようとか適当にしようとかって、結局は遠回りになるんだと思う。

ロボットも出てきて何とも近代的な夢の仕上がりになっていたけれど、とても大切なことを伝える

ロボットの存在だった。

2016年1月30日土曜日

心のダメージと回復

年が明けてすぐに数年ぶりの風邪を引いた。

最初は体調が優れずに体が睡眠を欲しているのだろうと思っていた。

風邪は1週間もすれば回復して、徐々に生活のペースを自分が思い描くように戻す予定だった。

なのに体はいつまで経っても意味不明な眠気と疲れを訴えてきた。

ペースを戻すどころか、風邪を引いた時と同じような感じで、時間さえあれば極力早く寝るように

なった。

今日は休みだったから昨日の夜は遅くまで起きていたって構わなかったけれど、22時過ぎには

眠くなり23時前にはすとんと眠りに落ちた。

たくさん寝ればすっきり爽やかという感じでもなく、なんとなく気持ち的にけだるい。

他にも顕著だったのは、このブログも他のブログも日々の手書きの記録も、ほとんど書くことを

やめたこと。

書きたくないとかいう感じとは違っていて、疲れた体を労わることが最優先となった。

料理や部屋のちょっとした整理整頓も面倒になり、なんとなくすべてが重たい感じ。

それで今さらだけど、心の方がすっかり疲弊してダメージ受けまくりであることをようやく理解した。

仕事の人間模様に無駄にエネルギーが使われてしまっている。

特に今週はひどかった。

わたしは他の人たちがいい加減な状態で手をつけてそのままにしている仕事を、たまたまその

仕事の対象になっているお客さんからの1本の電話でその中途半端な仕事をすることになった。

そういうのはいつかは誰かがしないといけないことだし、そして最大の救いはお客さん自体は

クレーマーでもなんでもなく、単に自分に関わることに関してどうなっているのかを連絡もらって

いないからそれについて問い合わせただけの人だった。

だけど、複数の人が実にいい加減な状態で放置していて、もう事態は大変な方向に動いていた。

当然いい加減な回答をお客さんにするわけにもいかず、わたしは回答はするけれどその肝心の

回答がどういう風なのかを確認した。

そこから悪夢のようなことが次から次へと起こりだした。

まず対応していた人たちは、「知らない、今どうなっているか知らないから、○○さんに聞いて」と

さじを投げる。

さじを投げられるたびにわたしは次の人次の人と聞いて回る。

3人目に当たった時、わたしはその人からこっぴどく怒られた。

なぜわからないものを対応しようとしているのか、なんできちんと確認しないのか、どうして勝手な

判断をするのか、と到底理解できない言葉が返ってきた。

わたしの知っている範囲での状況は全部説明した。

でも1つ1つ返しても、わたしの言葉は相手の耳に全く届いている風ではなかった。

怒った人はそれでも事態を責任ある立場の者として確認し、最終的にお客さんへの回答を

知らせてくれたけれど、何だかもうどっと疲れた。

実際にお客さんと電話で話したけれど、お客さんは怒ってもいないし、少なくとも知りたいことは

全部伝えて、そして伝えきれない分についてはまたわかった時点で連絡しますということで、

ものすごくあっさりと納得してくれた。

何も難しいことなんか1つもなかった。

難しいことにしているのは、社内の関わる人たちの無責任な対応だということに誰が気付いて

いるんだろう?と思う。

そして尻拭い的なことをしているわたしが何ゆえに怒られたのか今でも理解できない。

救いだったのは、その日のお昼休み、仲良くしている人2人と一緒に初めて3人でランチをしたの

だけど、真っ先に2人ともが

「あの午前中のやりとり、何だったの?全然悪くない人がめちゃくちゃな言われようで、あれは

何だったの?」と心配してくれ、そして細かな事情を伝えたら2人とも口を揃えて

「ありえない!!!!」

とわたし以上に怒ってくれたことだった。

わたしは渦中の人物で周りの状況なんか一切見えていなかったけれど、2人いわく、仕事が手に

つかない位のヒートアップぶりと怒った人の意味不明な発言で、思わずそちらをがん見してしまう

そんな状況だったらしいことも教えてくれた。

ヒートアップしていたのは、わたしではなく怒った人一人だけ。

さらに最後、社内のわたしのフォロー役の人がわたしのところに来て、事の顛末を確認していた

時に出た言葉で、「わたしが悪いことになっていること」が判明した。

わたしは自分が本当にできなくてとか失敗したことは責められても仕方ないと思っている。

だけど今回わたしは、たまたま誰しもが放置していてそしてもう手をつけられない位にひどくなった

事態の状態で、急遽お客さん対応を依頼されてやっただけに過ぎない。

自ら引き受けたわけでも自ら放置したわけでもない。

なのに総合的に自分が悪いことになっている、というのはものすごく納得がいかなかった。

納得はいかないけれど、自分はやれるだけのことはやったし、おかしくなっていた事態をある程度

軌道修正できたと思っているから、自分のやったことは良かったとさえ思っている。

これに限らず、こういうよくわからないことがものすごく沢山日常的に起こる職場だ。

心が疲弊しないわけない。

そういうことの積み重ねが、あの異常な眠気と疲れに繋がっているのだろうと思う。


本当に一連のおかしなことは日々沢山起こる。

だけど、真面目にやっていること、道理を通してやっていることは必ず伝わるということを身を

もって体験している。

直接に関わる人たちのいい加減な仕事ぶりとそれ故に回ってくる意味不明なフォロー的な仕事

には日々嫌気がさす。

だけどそうした私的な感情と実際のわたしの仕事には何の関係もないから、回ってきたものは

できる限りの誠意を持って対応するし完結に努めている。

つい数日前、フロアの責任者の人と面談する機会があった。

この方はつい3週間ほど前に着任されたばかりで、今全員と面談している。

わたしみたいに辞めることが決まっている派遣社員とさえも面談をする。

何せ日々直接話す機会がないから、どんな考え方や価値観の人物かというのは話す時まで

知らずにいた。

それでも遠目に時々姿を見かけてはすごく真摯に仕事をするし、小さなことも大切にする姿勢

というのは言葉はなくても伝わってくる。

人柄はそれだけでも良いというのが十分わかっていた。

実際の面談の時のこと。

その人のデスクとわたしの席は、一応顔が多少は見えて声も多少は聞こえる位の距離だ。

そうしたら責任者の方は、わたしの仕事ぶりをものすごく評価してくれていた。

例のフォロー役の人からは、わたしは毎回ぼろくそに言われものすごい低い評価ばかりを数々

受けていたから、その責任者の方の発言にはものすごく救われた。

自分のやっていることが正当に評価されたのももちろん嬉しかったし、その責任者の方は何せ

今30分×60~70名の面談をしているから、席にいる時間はかなり限られてくる。

かなり限られてくるのに、驚く位に内部事情をよく見ていた。

問題点となることも、強みとなる人物も、そして自分の手持ちの情報でどこから改善に向けて

実際に動いていけるかも、本当の本当によく見ていて、惚れ惚れする位のセンスだった。

情に厚いタイプの人だと感じたけれど、組織を動かす時は私情を挟まずきちんとビジネスとしての

審美眼を持っている。

現場ではなぜか意味不明な評価とぼろくそに言われたり責任を押しつけられたりと腑に落ちない

こと満載だけれど、責任者の方はそんな第三者からの意見ではなくその人が見たまま感じたまま

をわたしに伝えてくれた。

こんなことは言うべきではないし今さら言ってもとっても遅いのはわかっているけれど・・・と前置き

した上で、「残って一緒にやって欲しかったです」と3回ほど言われた。

それは人が減って困るという意味ではなく、わたしという人物を評価してそこはあくまで一個人と

して思っていることを思っているままに伝えてくれた。

それがあったから救われた。

変な評価を山ほど浴びていたからこそ、その責任者の方の言葉はまっすぐに届いた。

きちんと見てくれる人がいるというのは、それだけで自分のこれまでのすべてが無駄ではなく、

自分の信じていることがいつか実を結ぶこともあるということを教えてくれたりもする。

心のダメージは、それに取って代わる回復薬も必ずどこかのタイミングで届けられるんだと思う。

2016年1月24日日曜日

物価上昇を実感した買物

日曜特売で1パック98円の卵を狙って買物に出た。

お昼を食べに友達が来てくれるから、その足りない材料もついでに買う予定で行った。

9時開店のその店は9:45はギリギリ卵があって、10:15はない、10:00丁度ならどうだろうと

今日はその辺りをめがけたわけではなかったけれど、結局その位に到着した。

残念。98円卵はなく、167円卵になっていた。

それでも多店舗に比べたら、うんと安い。

まずはこの卵についても物価上昇の波が押し寄せていると言わざるを得ない。

ちなみにそのスーパーは、丁寧に卵の価格の大きな札の隣りに同じ大きさの注意書を貼っていて

「卵の価格高騰に伴い…」

という何かのお知らせがある。

卵の価格高騰の理由は、わたし的には1つしか思い当たらない。

にわとりのえさ代の価格高騰なんだと思う。

いきなり卵を産めるにわとりの数が減ったとは考えにくい。

では鶏卵工場が減ったのかと言えば、それもわからないけれど、揃いも揃ってすべてのスーパーで

価格高騰になるわけもない。

友達で飛騨牛を育てている農家の人がいる。

友達いわく、バターや肉の高騰は、基本的にえさ代の価格高騰に伴うとのこと。

もちろん他の原因も色々あるのだろうけれど、えさが高くなれば当然出荷する製品自体も価格を

上げないと倒産、廃業になってしまうと言っていた。

それはもう持ちつ持たれつだから仕方ないと思う。

卵はそうなのかなぁなどと頭の中で一人雑談をしながら、自分の買物を進めていった。

さて最後レジのところにきた。

ひき肉2パック、牛乳、お徳用かつおぶし、クリープも購入しているから1000円は超えるだろう

ことは、はなから予想していた。

わたしはレジで千円札はさっとすぐに出し、残りは小銭で支払う頭でいた。

ところがレジの会計で「にせんひゃく・・・えん」と言われる。

一瞬耳を疑った。

二千円台になるとは思っていなかった。

何がそんなに高いのかわからず、そして量もたくさん買ったわけではない。

とりあえず支払い、袋詰めの台に着いたらまずはじっくりとレシートを眺めた。

何も間違いはなかった。

たしかにすべて買ったものはそのままの値段だった。

釈然としないまま袋詰めをし、真っ青な空の下をひたすら家に向かって歩いた。

何がこんなにも高い値段を打ち出しているのだろう?とずっと思っていた。

ちなみに何も余計なものなど買ってなく、欠品中のもの、今日のもてなしに使う材料の一部、あと

安くて使い勝手の良い日常的によく食べるものだけだ。

政府に対して何だかんだとここで文句を垂れたところで何も変わらないとわかっていても、この

物価上昇具合は何なのだろう?

要は、消費税8%になったことに伴い給料もその分上がったとかならわかる。

だけどそうではなく、給料は据え置きのまま、消費税は上がり、さらにその8%に便乗して全体的

にどさくさに紛れて全体の価格も微妙に上げてきたのは間違いない。

何せずっと同じ地域で暮らしているから、買う店も数軒あってもそこは基本変わらない。

店側に安く売れよなどと言うつもりも毛頭ない。

そこで働く人たち、さらにはそれぞれの食品の生産者の方や運搬者など、色んな人たちの生活も

関わっているから、それらに文句など言うつもりも当然ない。

だけど、政府の方針には全く共感も同情も湧かない。

政治とか経済とかよくわからないけれど、一般の人たちの給料はそのままで物価だけ上昇しても

または消費税だけ上げても、それはいつか多くの人たちにマイナスの影響を与えるだけではない

のかなぁと思う。