前回の『心がざわざわしてる時わたしはどうしてる?』
を書いていて、いくつか思ったことがあったからそれも覚書として残す。
世の中には、たくさんの気持ちや感情のコントロール方法、
気分転換の方法、停滞気味の状態から抜け出す方法・・・
有名無名問わず、色んな人が色んな方法を紹介している。
まさにhow to本やプログラムが巷に溢れかえっている。
わたしが実際に自分が本当に滅入っている時に取っている方法
1、寝る
2、その時食べたいものを食べる
3、ひたすらノートに感じてることを書き綴る
4、家事をする(炊事・料理など)
5、散歩する
6、意識してコーヒーを淹れる(注:インスタントです)
7、風呂に入る
8、自然のものに触れる
ただいまパソコン不調でDVDも見れないけど、DVDが見れた時は
9、映画を見る
それらは、はたから見たら「え~、そんな方法!?」と思われるかもしれないけれど、
わたしは自分の滅入っている時を振り返ると
それができるだけすごいことだと本気で思ってる。
あのざわざわする感じや、もやもやする感じ、
心もとない感じ、
どれもはっきり言って好きな感覚じゃない。
できれば、そんな感覚ない方がありがたいと思ってる自分もいる。
ただ、そういう感覚が出てきてしまう以上は、
そういうものとうまく付き合う方法を自分なりに編み出していきたいとはよく思う。
そして、その方法に求めるわたしなりの基準があって
1、簡単なこと
2、すぐにできること
3、日常生活と並行してできそうなこと
4、ひとりでできること
この4つは外せない。
心の状態がよくない時に、
1、難しかったり
2、実行するために色々用意が必要だったり
3、非日常の何かを生み出す必要があったり
4、他人の協力が必要だったり
それでは余計に疲弊してしまうから、
だから上の4つは大事な基準。
コーチングやNLP、各種セラピー、
色々受けたり見聞きしたりしたけれど、
それらはある種条件が整わないと成り立たないことだと気付いた。
そして、意外にも、ざわざわやもやもやは一人でいる時に起こる確率が非常に高い。
そんな時に、いくら専門的な手法を知っていて使える技量があっても、
それを自分のために使う元気がそもそもないから
変な話、無いも同然になっている。
わたしが、そういう意味で唯一専門的に学んで良かったと思うことは、
自分の見たくない感情や気持ちを自分一人でも安全に見る方法だと思う。
2013年11月30日土曜日
心がざわざわしてる時わたしはどうしてる?
「心の声を聞こうとしてざわざわがとれない時ってどうしてる?」
と友達に聞かれた。
正しくは、友達が聞きたかった時わたしは自分の娯楽に走っていてメールも電話も気付かず、
翌日、どうしたのか聞いたら、それを聞きたかった・・・ということが判明(汗)。
でも、せっかくの機会だから、
わたしの心がざわざわしてる時実際にどうしているのかを書こうと思う。
ひとつひとつは後から説明するとして、
最初にぱっと思い付いたこと。
1、寝る
2、その時食べたいものを食べる
3、ひたすらノートに感じてることを書き綴る
4、家事をする(炊事・料理など)
5、散歩する
6、意識してコーヒーを淹れる(注:インスタントです)
7、風呂に入る
8、自然のものに触れる
ただいまパソコン不調でDVDも見れないけど、DVDが見れた時は
9、映画を見る
コーチングもNLP(「神経言語プログラム」と呼ばれる心理系の手法)も学んだし、
元々福祉上がりだけあって諸々の心理系の勉強もしたし、
スピリチュアル系も好き好んで色々独学で勉強したけれど、
でも、わたしが自信を持って人様におすすめできる方法は上の9つ。
後から(エネルギー余ってたら)、逆にそういう専門的なことがそういうとき
なぜ役に立たせることができなかったかも、わたしは是非書きたいと思ってる。
1、寝る
これは本当に一番の特効薬だと個人的には思っている。
体を横たえてしばし眠りの世界へ。
あわよくば、夢の中で何かヒントを得てから目覚めるけど、
だいたい心のエネルギーが枯渇している時は、
あまり夢に期待しても仕方ない場合が多い。
でも、夢を見た見ないに関わらず、
なぜか眠った後は少しすっきりしている。
もう終わったことは仕方ないと思うのか、
さっきよりなんだかちょびっとだけ楽かも・・・
起きるとそういう感覚が出てくる。
上の9個全部に共通して言えることは、
強烈にざわざわもやもやしている時と比べて、
寝るなりなんなりをした後に
「楽になったかも・・・」
ということに気付くことはとてつもなく大きい。
べつにすんごく楽にならなくていい。
でも、1ミリでも1グラムでも、体が心が楽になれたのなら、
それに気付けると後の回復が良い気がする。
2、その時食べたいものを食べる
これもハードルが低い上に、すぐに実行できて良い。
わたしは、体でも心でも何か追い詰められると
大学の頃からなぜかジャンクフードが食べたくなる傾向が強いけど、
もう体が欲している時は、逆らうよりそれに従った方が早い。
それがやけ食い的になっても、
体に悪そうな感じでも、
そんなことは二の次、
まずは自分のあるがまま欲求に従っている。
ドミニカに住んでいた頃、
それまでまったくビールが好きでなかったわたしは、ビールの味を覚えた。
それ以来、朝から、又は昼からビールという日もある。
普段あまり口にしない、甘いものの時もある。
とにかく、なんとなくぱっと思い付いたものを口にする。
自分のために用意する。
それが、不思議と心を落ち着かせる材料になるのだから、面白い。
今書いていて気付いた。
そう、「自分のために用意する」
という行為そのものが
「自分をいたわる」ことに繋がって、徐々に心がほぐれていくのかもしれない。
3、ひたすらノートに感じてることを書き綴る
これは、ある程度余力がある時の手段。
本当に滅入っている時は、
ノートや筆記用具を用意することすら億劫になるから・・・・
とにかく、感じたままを書く。
具体的な出来事や人物がざわつきの原因のときは、
誰も見ないことをいいことに、言いたい放題書いている。
だただた書く。
書き続けると、不思議な感覚が生まれてくる。
嘔吐したくても吐けずにずっと気持ち悪い感じが残るよりも、
吐いて楽になる、
あの感じに似たものが出てくる。
色々思っていたことや感じていたことが溜まり出すと、
そしてそれを何らかの形で吐き出さないと、
気付くと体か心が不調を訴えてくる。
だから、とりあえず、出す。
内容はどうでもいいから、出す。
出した分は、程度の差こそあれ、楽にはなる。
4、家事をする(炊事・料理・掃除など)
わたしは、個人的に「家事セラピー」と呼んでいる。
体を動かすことが元来嫌いなわたしだけど、
家事だけはなぜかそんなに嫌じゃない。
以前はとっても嫌だったけど、
今は嫌じゃないばかりか、楽しんでやってることも多々ある。
スポーツ系が好きな人は、自分の好きなスポーツに置き替えてもいいと思う。
家事の良いところは、
☆やったらやった分、目に見える形で成果が表れる
☆いくら考え事をしていても、手や体を動かしているうちに、なんとなくざわざわ感やもやもや感が解消される
細かい心理の分析はわからないけど、
とにかく、家事というのはびっくりするくらいに心を清めてくれる効果があると個人的に思ってる。
5、散歩する
近所をぷらぷらする。
庭とも呼べない狭い場所に植えられた樹木や花を見たり、
人の家の風貌を眺めたり、
散歩している犬の歩き方を見たり、
空を見上げたり、
お目当ての食べ物を買いに行くでもいい。
歩いているうちに、すっとしたりする。
家に戻ってどんよりする場合もある。
だけど、散歩している時、少しでも気分転換できたらいいかな~と思う。
その場しのぎの方法だけど、その場しのぎできるだけでもOK!と思ってる。
6、意識してコーヒーを淹れる(注:インスタントです)
ある時、離れて暮らす友達とまったく同じ時期によしもとばななの同じ本を読んでいたことがあった。
その友達がくれた、よしもとばななの本の感想が次のようにあった。
「『私って、ただ毎日起きて仕事行って家に帰ってご飯食べてお風呂に入って寝て、
それ繰り返すだけの人生なのかなー』って思ってた。
でも、死ぬとできなくなると言われると、
起きて→コーヒー飲むためにお湯わかして→顔洗って→テレビで天気見て・・・
てゆう、まさに順番通りのつまらない雑事が、
ちょっとだけ『生きてる間にしかできない体験』みたいに感じられる
毎日やってると飽き飽きするけど、
でも『心に思ったとたん目の前にコーヒーが現れる』
んではなくて、
いちいちカップ出してお湯沸かして豆選んで・・・
みたいな動きをいちいちいちいちやっていくのが人生。
って、別に悪くないのかもしれないなぁ」
その友達の感想を読んでから、わたしの中でも「コーヒーを淹れる」ことが特別になった。
どんなに煩わしくても、
生きているときにしか、体験できないことなのかもしれない・・・
そう本当に思えるようになってから、コーヒーを淹れることが特別になって、
そして心のざわつきももやっと感も「これも今しか感じられないかもしれない」
などと思うようになった。
7、風呂に入る
お風呂は、本当に体の血流を良くしたり、
体の緊張をほぐしてくれたり、
もうそのままの効果があると感じる。
そして、本当にゆるむと、なぜかずっとこわばっていたものがほどけて、
泣けたりする。
ずっとずっとどこにも持って行けなかった感情が溢れる。
あと、個人的に好きなのは、
お風呂場を真っ暗にして、キャンドルを灯すこと。
火がゆらゆらと動くさまに心は奪われるし、
そのゆらめきと一緒に、色んなことを一瞬忘れたりする。
「あ、今わたし色んなこと忘れてた・・・・」
と我に帰った時、ちょっぴりうれしくなる。
8、自然のものに触れる
今家で3つの観葉植物を育てている。
毎日違う表情を見せる空を見上げたり、
桜、新緑、朝顔、イチョウ、ハダカになった樹木・・・
道端に生えている雑草やその花たち
そんなものを見ているだけで、わたしの心は洗われる。
風を肌で感じる、
鳥のさえずりを耳にする、
植物特有のにおいをかぐ、
そういうものも心を整えてくれることに貢献してくれる。
色んな人が癒しの方法で「自然に触れる」ことを紹介しているけど、
これはわたしも本当に本当だと思う。
9、映画を見る
これは、自分の今ある軸をずらすのにぴったりだと思う。
2時間ほど、今のもやもややざわざわから逃れるように映画を見る。
映画にはまる。
少しの間、自分を忘れる。
一瞬でも何かを忘れることができたら合格。
最後に・・・
9つも書いてみて、共通していることに気付いた。
「小さな変化に気付く」
「一気に良くなろうとしない」
「自分に過大な期待をかけない」
多分この3つをわたしは自分のもやもやざわざわ解消の上で、おそらく大切にしている。
と友達に聞かれた。
正しくは、友達が聞きたかった時わたしは自分の娯楽に走っていてメールも電話も気付かず、
翌日、どうしたのか聞いたら、それを聞きたかった・・・ということが判明(汗)。
でも、せっかくの機会だから、
わたしの心がざわざわしてる時実際にどうしているのかを書こうと思う。
ひとつひとつは後から説明するとして、
最初にぱっと思い付いたこと。
1、寝る
2、その時食べたいものを食べる
3、ひたすらノートに感じてることを書き綴る
4、家事をする(炊事・料理など)
5、散歩する
6、意識してコーヒーを淹れる(注:インスタントです)
7、風呂に入る
8、自然のものに触れる
ただいまパソコン不調でDVDも見れないけど、DVDが見れた時は
9、映画を見る
コーチングもNLP(「神経言語プログラム」と呼ばれる心理系の手法)も学んだし、
元々福祉上がりだけあって諸々の心理系の勉強もしたし、
スピリチュアル系も好き好んで色々独学で勉強したけれど、
でも、わたしが自信を持って人様におすすめできる方法は上の9つ。
後から(エネルギー余ってたら)、逆にそういう専門的なことがそういうとき
なぜ役に立たせることができなかったかも、わたしは是非書きたいと思ってる。
1、寝る
これは本当に一番の特効薬だと個人的には思っている。
体を横たえてしばし眠りの世界へ。
あわよくば、夢の中で何かヒントを得てから目覚めるけど、
だいたい心のエネルギーが枯渇している時は、
あまり夢に期待しても仕方ない場合が多い。
でも、夢を見た見ないに関わらず、
なぜか眠った後は少しすっきりしている。
もう終わったことは仕方ないと思うのか、
さっきよりなんだかちょびっとだけ楽かも・・・
起きるとそういう感覚が出てくる。
上の9個全部に共通して言えることは、
強烈にざわざわもやもやしている時と比べて、
寝るなりなんなりをした後に
「楽になったかも・・・」
ということに気付くことはとてつもなく大きい。
べつにすんごく楽にならなくていい。
でも、1ミリでも1グラムでも、体が心が楽になれたのなら、
それに気付けると後の回復が良い気がする。
2、その時食べたいものを食べる
これもハードルが低い上に、すぐに実行できて良い。
わたしは、体でも心でも何か追い詰められると
大学の頃からなぜかジャンクフードが食べたくなる傾向が強いけど、
もう体が欲している時は、逆らうよりそれに従った方が早い。
それがやけ食い的になっても、
体に悪そうな感じでも、
そんなことは二の次、
まずは自分のあるがまま欲求に従っている。
ドミニカに住んでいた頃、
それまでまったくビールが好きでなかったわたしは、ビールの味を覚えた。
それ以来、朝から、又は昼からビールという日もある。
普段あまり口にしない、甘いものの時もある。
とにかく、なんとなくぱっと思い付いたものを口にする。
自分のために用意する。
それが、不思議と心を落ち着かせる材料になるのだから、面白い。
今書いていて気付いた。
そう、「自分のために用意する」
という行為そのものが
「自分をいたわる」ことに繋がって、徐々に心がほぐれていくのかもしれない。
3、ひたすらノートに感じてることを書き綴る
これは、ある程度余力がある時の手段。
本当に滅入っている時は、
ノートや筆記用具を用意することすら億劫になるから・・・・
とにかく、感じたままを書く。
具体的な出来事や人物がざわつきの原因のときは、
誰も見ないことをいいことに、言いたい放題書いている。
だただた書く。
書き続けると、不思議な感覚が生まれてくる。
嘔吐したくても吐けずにずっと気持ち悪い感じが残るよりも、
吐いて楽になる、
あの感じに似たものが出てくる。
色々思っていたことや感じていたことが溜まり出すと、
そしてそれを何らかの形で吐き出さないと、
気付くと体か心が不調を訴えてくる。
だから、とりあえず、出す。
内容はどうでもいいから、出す。
出した分は、程度の差こそあれ、楽にはなる。
4、家事をする(炊事・料理・掃除など)
わたしは、個人的に「家事セラピー」と呼んでいる。
体を動かすことが元来嫌いなわたしだけど、
家事だけはなぜかそんなに嫌じゃない。
以前はとっても嫌だったけど、
今は嫌じゃないばかりか、楽しんでやってることも多々ある。
スポーツ系が好きな人は、自分の好きなスポーツに置き替えてもいいと思う。
家事の良いところは、
☆やったらやった分、目に見える形で成果が表れる
☆いくら考え事をしていても、手や体を動かしているうちに、なんとなくざわざわ感やもやもや感が解消される
細かい心理の分析はわからないけど、
とにかく、家事というのはびっくりするくらいに心を清めてくれる効果があると個人的に思ってる。
5、散歩する
近所をぷらぷらする。
庭とも呼べない狭い場所に植えられた樹木や花を見たり、
人の家の風貌を眺めたり、
散歩している犬の歩き方を見たり、
空を見上げたり、
お目当ての食べ物を買いに行くでもいい。
歩いているうちに、すっとしたりする。
家に戻ってどんよりする場合もある。
だけど、散歩している時、少しでも気分転換できたらいいかな~と思う。
その場しのぎの方法だけど、その場しのぎできるだけでもOK!と思ってる。
6、意識してコーヒーを淹れる(注:インスタントです)
ある時、離れて暮らす友達とまったく同じ時期によしもとばななの同じ本を読んでいたことがあった。
その友達がくれた、よしもとばななの本の感想が次のようにあった。
「『私って、ただ毎日起きて仕事行って家に帰ってご飯食べてお風呂に入って寝て、
それ繰り返すだけの人生なのかなー』って思ってた。
でも、死ぬとできなくなると言われると、
起きて→コーヒー飲むためにお湯わかして→顔洗って→テレビで天気見て・・・
てゆう、まさに順番通りのつまらない雑事が、
ちょっとだけ『生きてる間にしかできない体験』みたいに感じられる
毎日やってると飽き飽きするけど、
でも『心に思ったとたん目の前にコーヒーが現れる』
んではなくて、
いちいちカップ出してお湯沸かして豆選んで・・・
みたいな動きをいちいちいちいちやっていくのが人生。
って、別に悪くないのかもしれないなぁ」
その友達の感想を読んでから、わたしの中でも「コーヒーを淹れる」ことが特別になった。
どんなに煩わしくても、
生きているときにしか、体験できないことなのかもしれない・・・
そう本当に思えるようになってから、コーヒーを淹れることが特別になって、
そして心のざわつきももやっと感も「これも今しか感じられないかもしれない」
などと思うようになった。
7、風呂に入る
お風呂は、本当に体の血流を良くしたり、
体の緊張をほぐしてくれたり、
もうそのままの効果があると感じる。
そして、本当にゆるむと、なぜかずっとこわばっていたものがほどけて、
泣けたりする。
ずっとずっとどこにも持って行けなかった感情が溢れる。
あと、個人的に好きなのは、
お風呂場を真っ暗にして、キャンドルを灯すこと。
火がゆらゆらと動くさまに心は奪われるし、
そのゆらめきと一緒に、色んなことを一瞬忘れたりする。
「あ、今わたし色んなこと忘れてた・・・・」
と我に帰った時、ちょっぴりうれしくなる。
8、自然のものに触れる
今家で3つの観葉植物を育てている。
毎日違う表情を見せる空を見上げたり、
桜、新緑、朝顔、イチョウ、ハダカになった樹木・・・
道端に生えている雑草やその花たち
そんなものを見ているだけで、わたしの心は洗われる。
風を肌で感じる、
鳥のさえずりを耳にする、
植物特有のにおいをかぐ、
そういうものも心を整えてくれることに貢献してくれる。
色んな人が癒しの方法で「自然に触れる」ことを紹介しているけど、
これはわたしも本当に本当だと思う。
9、映画を見る
これは、自分の今ある軸をずらすのにぴったりだと思う。
2時間ほど、今のもやもややざわざわから逃れるように映画を見る。
映画にはまる。
少しの間、自分を忘れる。
一瞬でも何かを忘れることができたら合格。
最後に・・・
9つも書いてみて、共通していることに気付いた。
「小さな変化に気付く」
「一気に良くなろうとしない」
「自分に過大な期待をかけない」
多分この3つをわたしは自分のもやもやざわざわ解消の上で、おそらく大切にしている。
2013年11月22日金曜日
魂の台所
これは魂のはなしでも、スピリチュアルな話でもなく、
先週ともだちと夜道を歩いて偶然見つけたお店の名前だ。
その数日前、わたしはちょっとしたトラブルのすえに、
むかしの西洋のお城のような形の、屋根がきれいにライトアップされている建物に出くわした。
トラブルにはがっくり肩を落としたけれど、
そのライトアップされた建物を目にしたことはとっても感動した。
先週ともだちと会った日。
最初待ち合わせた駅からそのお城みたいな建物が歩いていける距離にあったから、
そこに行ってみよう!と提案した。
ほろ酔い気分でふたりでその建物を見に行った。
15階ほどのマンションや一戸建てが乱立する住宅街の中に、
突如現れるそのライトアップの建物。
ほろ酔い気分はさらに良い気分に変わり、
「今日はせっかくだから、このまま街の方に繰り出して、新しいお店を開拓しよう!」
ということにまとまった。
そして、延々と続く住宅街の一角に、何かしらお店のような雰囲気のところが目に飛び込んだ。
何せ、家がずっと建ち並んでいたから、ほんとうに「目に飛び込んだ」という表現がぴったりの見つけ方だった。
近くで見ると
[cocina de alma]
と看板に書いてあった。
cocina(コシナ)はスペイン語で台所。
alma(アルマ)は魂。
ふたつ合わせて「魂の台所」になる。
表の看板を見てスペインのビールを出す店だとわかり、
この間スペインを旅してきたともだちは
「うわぁ~」と感嘆をもらし、
今日はここにしようと決めた。
名前は「魂の台所」でも、
中はスペイン?ヨーロッパ?のプロサッカーの試合の録画されたものがTVに流れていて、
わたしたちと入れ違いのグループは、男性バニーちゃんやセクシーサンタクロースに扮して、
異様な雰囲気をかもし出していた。
音楽はスペイン語なら何でもありのようで、
店の少し薄暗い雰囲気にマッチしたバラードが流れたかと思えば、
陽気なラテン音楽も時々流れていた。
ひとつ強く感じたのは、
そこのオーナーが自分の好きなものをすべて詰めこんだ空間だということ。
色んなものが詰めこまれているから、
パッと見、色んなものがあるなぁと感じるけど、
なぜかそれらすべてがひとつにまとまって見えるからとても不思議だった。
そういう意味かはわからないけど、
「魂の台所」という言葉は、たしかに店の雰囲気にぴったりな感じだった。
ここからは今のわたしの備忘録。
先週から、この魂の台所の話をブログに残そうと決めていた。
なんとなく残しておきたい、
はっきりとした理由はわからないけど、とにかく残したい、
ずっとそう思っていた。
そんな気持ちから今日ようやく時間が取れて書けた。
魂の台所来訪は1週間も前のことになっている。
1週間、この出来事を熟成させていたら、
今日一気に色んなことを思い出した。
いつか別のともだちも交えて同じように夜道をほろよい加減で歩いたこと。
その時、たまたま畑の脇を通りかかって、
ふたりは足を止めて、その畑の作り方(構造)について超マニアックな分析をして、
そのふたりにはとてもついていけないと思いながらも、
なぜか今もその光景がとても強く残っていること。
またいつかの時は、
「『ありがとう』って言葉は『有難い』で『ありがとう』だよね。
ありがたいっていうことは、すなわち有ることが難しい、
そう、それ自体が奇跡のようなものだよね」
と語り出したともだちの言葉。
それもまた、いつかの夜道のほろ酔い散歩のときだった。
挙げたらきりがないからやめるけど、
そういう小さなちいさな思い出をたくさん積み重ねてきたんだなぁと、
そしてそれこそがわたしがとても好きなものたちなんだなぁと思った。
魂の台所の翌日、また貴重な時間を刻んだ。
どんなにお金を積んでも手に入らないような、
そして多分同じことを意図的に計画しても同じようにはならなかったような、
そんな時間を手に入れた。
そして、明日から、今度は別の思い出を作りにちょっと出かけてくる。
多分最初で最後になりそうな、まさに一期一会の会になりそうな雰囲気を今すでに感じている。
平凡な毎日でも、もちろんその時その時しか存在しないのだけれど、
そんな中で「特別な出来事」と認識するような瞬間は、さらにその時しかない感じを強くして、
そして後から振り返ると「思い出」に変わってる。
たとえば、あの畑分析の瞬間なんか、
正直まったく興味のないわたしには全然つまらない内容に思えたけど、
あとから振り返るとあそこにあった空気感や、
まったく一体感のない3人がそこに一緒にいるだけで生まれる一体感や、
言葉には表せない色んなものがそこにあったんだなと思う。
自分のしたいことは相変わらずぼんやりだけど、
でも、これまでとても大事にしてきたことやこれからも大事にしたいこと、
どんなものにわたしは感動したり心が温まるのかは、
前よりももっと鮮明になってきた。
自分で、その部分に関しては、いいぞ!!いいぞ!!と思ってる。
先週ともだちと夜道を歩いて偶然見つけたお店の名前だ。
その数日前、わたしはちょっとしたトラブルのすえに、
むかしの西洋のお城のような形の、屋根がきれいにライトアップされている建物に出くわした。
トラブルにはがっくり肩を落としたけれど、
そのライトアップされた建物を目にしたことはとっても感動した。
先週ともだちと会った日。
最初待ち合わせた駅からそのお城みたいな建物が歩いていける距離にあったから、
そこに行ってみよう!と提案した。
ほろ酔い気分でふたりでその建物を見に行った。
15階ほどのマンションや一戸建てが乱立する住宅街の中に、
突如現れるそのライトアップの建物。
ほろ酔い気分はさらに良い気分に変わり、
「今日はせっかくだから、このまま街の方に繰り出して、新しいお店を開拓しよう!」
ということにまとまった。
そして、延々と続く住宅街の一角に、何かしらお店のような雰囲気のところが目に飛び込んだ。
何せ、家がずっと建ち並んでいたから、ほんとうに「目に飛び込んだ」という表現がぴったりの見つけ方だった。
近くで見ると
[cocina de alma]
と看板に書いてあった。
cocina(コシナ)はスペイン語で台所。
alma(アルマ)は魂。
ふたつ合わせて「魂の台所」になる。
表の看板を見てスペインのビールを出す店だとわかり、
この間スペインを旅してきたともだちは
「うわぁ~」と感嘆をもらし、
今日はここにしようと決めた。
名前は「魂の台所」でも、
中はスペイン?ヨーロッパ?のプロサッカーの試合の録画されたものがTVに流れていて、
わたしたちと入れ違いのグループは、男性バニーちゃんやセクシーサンタクロースに扮して、
異様な雰囲気をかもし出していた。
音楽はスペイン語なら何でもありのようで、
店の少し薄暗い雰囲気にマッチしたバラードが流れたかと思えば、
陽気なラテン音楽も時々流れていた。
ひとつ強く感じたのは、
そこのオーナーが自分の好きなものをすべて詰めこんだ空間だということ。
色んなものが詰めこまれているから、
パッと見、色んなものがあるなぁと感じるけど、
なぜかそれらすべてがひとつにまとまって見えるからとても不思議だった。
そういう意味かはわからないけど、
「魂の台所」という言葉は、たしかに店の雰囲気にぴったりな感じだった。
ここからは今のわたしの備忘録。
先週から、この魂の台所の話をブログに残そうと決めていた。
なんとなく残しておきたい、
はっきりとした理由はわからないけど、とにかく残したい、
ずっとそう思っていた。
そんな気持ちから今日ようやく時間が取れて書けた。
魂の台所来訪は1週間も前のことになっている。
1週間、この出来事を熟成させていたら、
今日一気に色んなことを思い出した。
いつか別のともだちも交えて同じように夜道をほろよい加減で歩いたこと。
その時、たまたま畑の脇を通りかかって、
ふたりは足を止めて、その畑の作り方(構造)について超マニアックな分析をして、
そのふたりにはとてもついていけないと思いながらも、
なぜか今もその光景がとても強く残っていること。
またいつかの時は、
「『ありがとう』って言葉は『有難い』で『ありがとう』だよね。
ありがたいっていうことは、すなわち有ることが難しい、
そう、それ自体が奇跡のようなものだよね」
と語り出したともだちの言葉。
それもまた、いつかの夜道のほろ酔い散歩のときだった。
挙げたらきりがないからやめるけど、
そういう小さなちいさな思い出をたくさん積み重ねてきたんだなぁと、
そしてそれこそがわたしがとても好きなものたちなんだなぁと思った。
魂の台所の翌日、また貴重な時間を刻んだ。
どんなにお金を積んでも手に入らないような、
そして多分同じことを意図的に計画しても同じようにはならなかったような、
そんな時間を手に入れた。
そして、明日から、今度は別の思い出を作りにちょっと出かけてくる。
多分最初で最後になりそうな、まさに一期一会の会になりそうな雰囲気を今すでに感じている。
平凡な毎日でも、もちろんその時その時しか存在しないのだけれど、
そんな中で「特別な出来事」と認識するような瞬間は、さらにその時しかない感じを強くして、
そして後から振り返ると「思い出」に変わってる。
たとえば、あの畑分析の瞬間なんか、
正直まったく興味のないわたしには全然つまらない内容に思えたけど、
あとから振り返るとあそこにあった空気感や、
まったく一体感のない3人がそこに一緒にいるだけで生まれる一体感や、
言葉には表せない色んなものがそこにあったんだなと思う。
自分のしたいことは相変わらずぼんやりだけど、
でも、これまでとても大事にしてきたことやこれからも大事にしたいこと、
どんなものにわたしは感動したり心が温まるのかは、
前よりももっと鮮明になってきた。
自分で、その部分に関しては、いいぞ!!いいぞ!!と思ってる。
2013年11月12日火曜日
言葉のフシギ
~~「あんたなんか死ねばいい」
その言葉を他人から言われたのは生まれてはじめてだった。~~
『さきちゃんたちの夜』(よしもとばなな)に収められている、短編集のひとつの出だしがそんな風に始まっている。
わたしはしばし本を脇に置いて、その言葉から引き出された数々の出来事を思い出していた。
「死ね」「殺す」という言葉たちをわたしはどれだけの数で20代浴びまくったのか
もはや半端ない数すぎて憶えていない。
お茶碗に盛られた米粒を数えるくらい数限りなかったため、そんな数を数えたこともない。
ただ、不思議と、当時のわたしはそれらを言われても嫌ではなかった。
20代のうちの5年半、わたしは「児童養護施設」と呼ばれる2~18歳の子どもで家庭では生活できなくなった子たちが生活する施設で働いた。
「養護」というと、障害児を思い浮かべる人が多かったけれど、
基本的には心身共々健康な子どもたちだ。
そして、その心身共々健康な子どもたちの口から
「死ね」「殺す」「うざい」「くそばばあ」「大嫌い」
などという言葉がわたしに向けて発射された。
30人もいれば、誰かがそういうことを言うわけで、
なので、言われない日の方が少なかったような気がする。
小さな子たちも「ありがとう」の前に「ばか」や「死ね」を覚えるから、
大人側の希望なんかこれっぽちも汲みとってもらえないことは、体で理解した。
言葉だけを取ったら、人格否定、存在そのものを全否定並みの強さがあるけれど、
わたしにはそんな風には感じられず、
「おはよう」「今日どうだった?」と同じくらいに受け取る感じだった。
言葉本来の汚さは、全部の日本語をかき集めても「汚い日本語トップ10」くらいに入るとは思うけど、
わたしはその汚さを聞いていたのではなくて、
そこにのっているエネルギーを聞き取っていたんだと思う。
子どもたちは、無意識のうちにそれらの言葉でコミュニケーションを図っていたし、
そしてそれらの言葉でわたしをテストしていたと思う。
わたしをテストしていたというのは、
わたしが信用できる人間かどうか、
それを見極める手段のひとつに汚い言葉たちが存在していたと思う。
SMの世界の話をしているわけじゃない。
どんな子も、あの手この手で大人を試していた。
汚い言葉を言うこともあれば、無視を通したり、
通常されて嫌なことをあえてやっていた感じがする。
へんてこなコミュニケーションだけど、
数限りないものを積み重ねると、ある時臨界点が訪れる。
関係性が気付くと変わっていたりする。
わたしが勤めている間、いちばん長く近くで見た子がいる。
その子がダントツでわたしに「くそばばあ」と「死ね」を吐きまくった子だった。
ある時、その子が大事件を起こした。
そして、いちばん長く近くで見ているにも関わらずわたしには何にも本人から情報をもらえなかった。
他の大人たちが本人から情報を得ているのに、
わたしには何一つ話そうとしなかった。
なので、わたしは他の職員の人たちから情報をもらうという、
とても変な構図になっていた。
ある夜、ふたりで事件の話をすることになった。
わたしは正直になぜわたしには何も言わないのかと聞いた。
彼女から返ってきた言葉は一言。
「だって、本気で心配して本気で泣くでしょ。
他の人たちはそうじゃないから…」
「くそばばあ」と「死ね」を発しながら
ずっと別のものをその先に乗せていたんだろうなぁと思った。
話はうんと変わって今。
34歳にして、わたしは今「正しい日本語」を教わっている。
わたしの数々の言葉使いに問題があるから、
隣りで訂正される。
「よろしいでしょうか」
「かしこまりました」
「申し訳ございません」
を目下意識的に練習中だ。
気を抜くと、
「よろしかったでしょうか」
「わかりました」
「申し訳ないです」
とわたしは言っている。
それは仕事だから仕方ないと思う。
だけど、必ずしも丁寧な正しい日本語が良いエネルギーを
持っているわけではないし、
反対に響きはお下劣なのに血の通ったコミュニケーションが成立したりする。
真逆のものが今人生に流れ込んでいる。
真逆のきれいなものたちに囲まれて、
わたしは逆に窮屈になっている自分を感じている。
たしかに良い勉強の機会ではあるけれど、
表面だけを取り繕うような、そういうやりとりをわたしは全く好まないことがよくわかる。
2013年10月31日木曜日
農業はセンス
『農業はセンスだと思う』
その一言に、わたしは最初どういう意味でそれを友達が言っているのかわからなかった。
どういう意味か、この発信者である友達に突っ込んで聞いてみるとこんな風だった。
最初にわたしは友達からこんな質問を受けた。
「ぶっしーがどうやって職場まで行ってるかわからないけど、
仮に歩いて行ってるとして、その間になんびきの虫を見つけられる?」
しばし考えて、
よく見るのはうちにある観葉植物の周りをうろうろする小さな名前も知らない虫と、
最近お昼を食べる公園で時々服に止まる、赤い2ミリくらいのクモみたいな虫とを思い付いて
「2ひきかな…」
と答えた。
友達は続けた。
「多分、俺が同じところを歩いたらもっと見つけられると思う。
子どもの頃から虫とか好きだったからね~。
同じ道を歩いても、
ぶっしーが目にするものと俺が目にするものは多分違うと思う。
ぶっしーが気付いても俺が気付かないものもあれば、
俺が気付いてもぶっしーが気付かないものもある。
それぞれ同じところを歩いても、まったく見える世界は違うはず。
で、さっきの『農業はセンス』の話の続きだけど。
それは『畑をどう見るか』がカギになってくる。
同じ畑に立った時、何が見えているかで、出てくる結果はまったく違うものになる。
たとえば、今日今年初の白菜を出荷した。
この初出荷の白菜は、正直ちょっと「初物」としては遅い。
あと1日、たった1日でいい、夏の日に早く植えていたら、確実に初物はもう少し早かったし、
そして白菜としての出来も数段良くなっていたと思う。
畑を見て、何を感じ取ったか、そこから何が見えたかで、
まるっきし違うものが生まれる。
最初の虫の話もそう。
なんびきの虫に気付けるか。
たった1ぴき、小さなちいさな虫に気付かなかったとする。
数が少ない時に気付けば、すぐその時に何とかすることができる。
その少ない時点で気付かず、大量に発生してから気付いたとしたら、
それはそれは大変な作業になってしまう。
俺からしたら、くすり(農薬)は最終手段。
早くに気付けば、くすりに頼らなくて済む。
些細な小さなことだけど、それに気付けるかどうか、
そういうこともとても大切になってくる。」
さらに、友達は将来の自分の農業の方面の展開と共に、彼の人生訓を続けて披露してくれた。
「俺は夢は見るものだと思っていない。
俺の中で、夢は、将来の希望そのものとイコールになってる。
叶わないものではなくて、形にしていくものだと。
当然、できないことも出てくる。
俺は「できない」と思った時にすることがある。
それが『夢を分解すること』だ。
飛行機だってボルト1個から始まってる。
夢もそれとおんなじで、夢全体を見て「できない」と思う。
そういう時は、分解する。ばらばらにする。
そうすると、明確になる。
そしてできるものを見つけてできるところからやっていく。」
2013年10月29日火曜日
人恋しい時間
ときどき、多分1年に片手で数えるくらいの回数。
猛烈に人恋しくなるときがある。
心地良い沈黙を共有できる誰かに、会いたくなる。
寂しいから恋したいとか、
心の隙間を埋めたくて誰かにいて欲しいとか、
いう感じではなくて、
とにかく意味もわからず誰かと一緒にいたくなる。
男性女性、老若関係なくて、
そう、心地良い沈黙を共有できる、
そんな人たちに会いたくなる。
ドミニカにいた頃。
直前まで打ち合わせか何かで人に会っていた。
用事がすべて終わって昼下がりの明るい外に出た。
雲ひとつないような晴天の空が広がっていたのはよく覚えている。
閑静な住宅街の中を歩いている時。
突如、泣きたくなるくらいに、寂しくなった。
人恋しくて人恋しくてたまらなかった。
ちなみに、その時ふと会いたいと思ってとっさに思い浮かんだのは、
手芸大好きで3児の母をしている素敵な日本人女性Mさんだった。
記憶があいまいすぎて、細かくは思い出せないけど、
その日はMさんには連絡を取っても仕方ない、繋がらない、というのだけはわかっていた。
他に連絡を取ろうと思えば他にもいるだろうに、
すごく人恋しいのに、誰にも連絡できなくて、
なんだかひとりでぽつんとしてしまった。
その後どのように過ごして、どのような経過をたどってまた日常に戻ったのかは憶えていない。
ただ、憶えているのは、青い真夏のような天気の空の下、
閑静な住宅街の中で、ひとりぽつんとそこに存在して、
異常なほどの人恋しさに襲われたことだけ。
こんなことを思い出したのは、昨日の朝6:55にかかってきた1本の電話だ。
週末の計画が流れそうになっていることの連絡と一緒に、
結婚に向けて着々と準備が進んでいるという一報が、
これから5連チャンの勤務の初日、月曜日の朝、
めでたい話のはずなのに、
わたしの中では嵐のごとく色んな感情が渦巻いていた。
まじめにわたし何を自分の人生でやっているんだろう???
とどんよりしてしまった。
結婚していない焦りよりも、
すべてが宙ぶらりんの自分の状態に対しての焦りがわぁ~っと押し寄せてきた。
その後仕事にも行ったし、日常をこなしたけど、
先に書いたドミニカでの人恋しい体験が鮮明に思い出されて、
あぁなんだかあの時と似ているなぁと思った。
この流れを変えるべく、思いっきり「非日常」の体験を自分でしてみたい!と思った。
できたら、誰か心地良い沈黙を共有できる人がいれば尚のこと良い、
と思った。
いくつか候補を考えて自分で昨日の夜は少し調べたりもしたけど、
どれも気乗りせず、すぐにやめた。
まぁいいか~と流して、そんな計画頭のすみに追いやられ、
また日常に戻った。
そうしたら、今日、予想もしていなかったところから突然「非日常」にふさわしい計画の話が届いた。
計画者の友達とさっき電話で話した時のこと。
ぶっしー今何やってる?という話になった。
派遣しながら、これからの身の振り方を考えてる、と答えた。
友達はわたしに一言、
「ゆっくりでいいや~ん!」
といつもの関西弁でさらりと言ってくれた。
しかも、相手は心からそう思って言ってくれてるのがよく伝わってきた。
気を利かせようとか、
いいことを言ってやろうとか、
そういう計算めいたことは微塵もない。
ただただ、その人の心からぽろっと出てきた言葉だった。
多分だけど。
猛烈な人恋しさは、
こうした無計画の人の優しさによって癒されてる気がする。
毎回どうやって回復したのかなんて、
そんなこといくら記録好きなわたしでも書き残していない。
だけど、多分、今日みたいに、突然やってくる人の想いに救われているんだろうなぁと思う。
2013年10月27日日曜日
6年の軌跡
6年と数ヶ月ぶりに、2ヶ月限定で住んだ町を友達と一緒に訪れた。
友達が誘ってくれなければ、絶対に行こう!と思わなかったところだ。
アルプス山脈に囲まれたその場所は、景色や空気は抜群に良かった。
だけど、その2ヶ月というのは、
スペイン語の勉強+毎回強烈な眠気と戦うことになった座学+最後までなじめなかった集団生活
という、良い思い出を思い出す方が大変な毎日だった、わたしにとっては。
今日、本来であればもうそことは何も関係のないわたしや友達は建物の中にまでは入れないのだけど、
とても親切で機転の利く方たちのおかげで中に足を踏み入れることができた。
6年ぶりの建物の中は、当時とそう大きくは変わらず、
だけどわたしの中でなつかしさや感慨とは違う別の感情を喚起させるようなものがあった。
友達に見送られて、ひとりで名古屋行きの高速バスに乗った。
バスに乗り込んでから、この6年をひとりで振り返った。
2ヶ月その建物で暮らし、
2年ドミニカ共和国で暮らし、
出たり入ったりしながら実家で5ヶ月ほどお世話になり、
そして名古屋に来てもう4年が過ぎようとしている。
2年ドミニカ、4年名古屋としても、
わたしの中のこの6年の第一感想は「強烈」だった。
楽しくて笑ったことよりも、
多分、行き詰まりを感じまくって笑えなかった日の方が圧倒的に多かったと思う。
「もう無理」と何回思ったかわからない。
だけど、どういうわけか、過ぎ去った日々たちは、
「強烈」であっても、
それが「うん、本当に苦しかったよ」と思うことでも、
どれもこれも、「これでよかった」と心底感じた。
去年も今年も自分の在り方、生きる方針に疑問符つきまくりだった。
「だった」だと過去形になるから、今も現在形の「疑問符付きまくり」。
今は、好きでもない興味もない条件だけで選んだ派遣の仕事に毎日嫌だと思いながら通い、何やってんだかわたし…と思う日もいっぱいいっぱいある。
だけど、どんな今であっても、多分今の状態が今のわたしにとっては良いもの、
たとえ今大否定していたとしても、
後々になってみれば「これでよかった」と思ってるのではないかと思えた。
走り抜けた6年と数ヶ月。
本当に文字通り動いて走り抜けた時もあるし、
ただただ息をひそめてその瞬間が終わるのを何もせずただじっとしていたこともたくさんある。
布団に横になって天井を仰ぐだけの時もあった。
悔しくてやるせなくて、そういう気持ちをどう消化していいのかわからなくなったこともたくさんあった。
だけど、どんな結果に終わったものでも、
自己満足とは違うけど、
なぜなのか「これでよかった」感情が後々芽生えるのだからすごい。
あの時はよかった…というものでもなくて、
とにかく「これでよかった」とまるで死を迎えた老婆のような気持ち?みたいな感じ。
明日から始まる仕事には何の楽しみもない。
できたら避けたいと思ってる。
だけど、これまでと違うのは。
今日その町を友達と一緒に訪れるまでは、
本当にこれまでの歩みが良かったのかどうかずっとわからなくなっていた。
もう今さらやり直しがきかないのもわかってるし、
過ぎ去ったことは過ぎ去ったことでこれで良かったんだと思いこもうとしていた。
できれば、自分の選んだことだから、否定だけはしたくなかった。
否定したくないけど、どこか否定するような気持ちもあったと思う。
だけど、今日、それこそこの6年の中で一度も感じたことのない
「これでよかった」というからだの奥底から沸き上がるものが出てきた。
涙まで出たくらい(笑)、帰りの高速バスの中で。
明日も「これでいいのか、わたし!?」と思いながら仕事に行くだろうし、
今日感じた、しびれる様な感覚は明日にはすっかり消え失せている可能性大だし、
まぁそういうネガネガ系の想像はいくらでもできてしまうけど、
だけど、やっぱり今日感じた、これまでの歩みに対しての
「これでよかった」
は本物だと思う。
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