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合掌
上島竜兵さん
渡辺裕之さん
ご冥福をお祈りいたします。
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今日(5/11)の朝、テレビを消す直前に「速報」と画面に出て、そしてめざましテレビの生田アナウンサーがダチョウ倶楽部の上島竜兵さんの訃報を伝えた。
「死去」と出て、最初は病死かと思ったら、まさかの自死の方だった。
とりあえずテレビを消して家を出た。
ゴールデンウィーク中の渡辺裕之さんといい、上島竜兵さんといい、私でもわかる有名人でさらには世間的には成功者と呼ばれるような色んな経験をたくさん積んだ還暦近い男性で、なんとも言えない気持ちになった。
10連休明けの今週は、メンタルはとりあえず社会生活&日常に戻るためのリハビリ期間と自分で決めて、気負わずにいこうと考えていた。
ゆるゆるな設定はとても良かったけれど、全体的に覇気がなく、どこも悪くないけれどテンションも上がらないどころかなんだか低空飛行気味で、これはけっこう気をつけないといけないかな…なんて思った。
気をつけないとというのは、自分が低空飛行気味な時は、本当に自分に無理をさせたり、落ち気味な時にその状態や自分を見えないところで静かに責めたり、そうすることのないように、そしてそうであっても「これはいっときのことだから、本当にイマイチが続くならあとは時間薬に頼ろう」くらいにしておかないと自分がしんどくなる。
そういう意味での気をつけないとという意味で、死ぬ心配というのとは違う。
いや、「死」に関して、本当に自分なりにとことん自分と向き合って、どうにもならなくなって自殺したのならそれがまた来世に持ち越し、さらにテーマや生きづらさが増えると聞いて、今も生きづらいのに次は今までの辛さをもう一度、そしてさらにパワーアップなんて耐えられないから、その嫌さがこれでもかと自分の中にあってそれが静止力になってくれてる。
だから自分は絶対に大丈夫!なんていう保証があるわけじゃなくて、それがあるうちはなんとかなるかな…という淡い期待が自分の中にある。
ちょっと話が逸れたけれど、私はそういうメンタルケアとメンタルトレーニングチックなことを17年目とか、それくらいの積み重ねのおかげでなんとかなっている今であって決して他人事ではないし、特にそれだけの何かを積み重ねた人生の先輩たちが最後は死を選ぶと耳にすると、本当にやるせなくなる。
2年前だった気がするけれど、ちょうど今くらいに20代の頃もそして今回新潟に戻ってきてからもお世話になっていた車の自動車整備工場の責任者の男性が自殺した。
63歳だったような、新聞で年齢見た時はそうだったかな…と記憶している。
それはとてつもなく衝撃的で、しかもその方の場合は仕事でも地域でも人格者みたいなことを認められてるような感じだったからこそ余計といたたまれなく、本当にやるせない、言葉にできないような気持ちが湧いた。
だから今回の著名な2人も、これ以上ないくらいに色んなものを積み重ねて成功したと本人は思ってなくてもはたから見たらこれ以上ないくらいに素晴らしい功績を残していて、周りの人たちからも慕われていただろうに、それでも最後は何も考えられなくなるくらいに死を選ぶ勢いというか飛び出してしまう何かがあったんだろうなと思う。
そんなこんなで、思ったままを綴っていこうと思う。
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今から10年前になると思う。
目の前の仕事上での社会的地位と奥さんと子どもがいて家もあって趣味に使える時間とお金もあって…という男性が、「俺、これがあったら幸せだろうと思うものを全部手に入れた時に、自分の中には絶望しかなかった」と話してくれた時の言葉を思い出した。
それじゃあまずいと思って、そこからうんとたくさんの時間とお金をかけて自分のメンタルケアをその方は始められて、そんな折に私は出会って色んな話をする仲間の1人みたいな感じだった。
ちょうどその頃、その少し前というか、私はそれらの何一つ手にはしてなかったけれど、仕事で表彰されて、金一封はたしかに嬉しかったけれど(笑)、それよりも自分には確実に合わない行動や負荷をこれからもずっと自分にさせ続けないといけないのかと思うと、そちらの方が負荷がかかりまくりで、自分の人生終わった、無理!!!、となった自分の気持ちと重なった。
何にも希望なんか見出せなくて、今日という日も明日という日もこの状態が続く人生の方が耐えられなくて、これはとにかく逃げなきゃいけない、離れなきゃいけない、そんなことを言葉にできてたわけじゃないけれど、とにかく相当に追い詰められていたのは間違いなくて、だから何かなくても心の平穏の方が本当に大切なんだとその辺りからさらに一層感じるようになった。
とかいうことを思い出していた。
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メンタル低空飛行気味なのは、タロットやペンジュラム用のボード、ブログに今回はけっこうはっきりと表れた。
そういう本来楽しみでやれるものをほぼほぼやらない日々が続いていて(今は書いてるから違うけれど)、黄色信号みたいな危機感というか、気をつけなきゃみたいな気持ちになった。
そこでその辺りはまた気持ちが向いた時でいいかとなったから良かったものの、かと言って日常はなんだかどんよりだから、久しぶりに「自分に100点をあげる」ということを超意図してやってみた。
これを最初にやったのは8年くらい前の名古屋にいた頃で、行きたくもないやりたくもない仕事をしていた時で、朝の地下鉄の仕事の最寄り駅で電車を降りてホームの階段を上がったあたりで特に強くそれをやって、その時の感覚を今でもよく覚えている。
その時の私はこんな風だった。
「やりたくもない仕事をやる自分に100点!
行きたくない仕事に行く自分に100点!
こうして今仕事に行こうとしている自分に100点!
今日もすごく嫌だけどその仕事を全うしようとしている自分に100点!」
とそんな風に何でもかんでもその時にやれていることを細分化して、その細分化したことをしているそれぞれの自分に100点をプレゼントしまくった。
思いつきでやったらものすごく良くて、そんなことを思い出しつつひさしぶりにやった。
別に今はそういう追い詰められ方とは違うけれど、思いついた時にやってみた。
今回はまた違う心の感じ方で、おんなじことをしていてもその時その時で感じ方が違うんだなとそちらに興味が移った。
そして内容も「日常生活をやっている自分に100点!とりあえず仕事に行っている自分に100点!日常を送れている自分に100点!」とそんな風だった。
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夜ごはんを食べ終わって、突然ほんの少しのやる気スイッチが入ってくれて洗い物をすることにした。
洗い終わって水の音も止まって静寂が広がるところに、タッパが床に落ちた音が鳴った。
真後ろを振り返って見ると。スーパーの再利用コーナーに持って行くための袋の中から溢れてしまった小さなタッパが1つ床に落ちていた。
その音を聞いた時、「これが私の今の日常で、これこそが生きているってことなんだな」と思った。
単なるタッパだし、スーパーに持って行く行かないはさほど私には重要でもなんでもないけれど、それでも使い終わったタッパもタッパが床に落ちた音もどれもこれも全部「生きている」ことが前提にある。
本当にくだらない些末なことかもわからない。
けれど、真面目に「生きている」って実感できるのは、こうした日常のなんてことない音とか物とか空気とか、そういうものたちなのかもしれないなと思った。
死んだら面倒な家事はやらなくて良くなるけれど、体感で感じられる全てが無くなってしまう。
音はもしかしたら聞こえるのかもしれないけれど、特定の音を聞いて「タッパが床に落ちた」と即座に想像を巡らせて振り返って見て落ちてたタッパを拾い上げることは、死んだらしたくてもできないんだなと思った。
くだらなくても今しかできないことって日常の中にゴロゴロとたくさんあるんだなと気付いた。
そしてその生きているからこそできる行為の1つ1つが、当たり前のようで当たり前じゃないんだな…とそんなことを思った。
ちなみに、メンタル低空飛行の時はごはんを作るとか風呂に入るとかそういうごく当たり前の日常生活を淡々と気が向いたものだけする、中にはしたくないけれどもやらざるを得ないからやるみたいなことたちが案外と自分のことを楽にしてくれたり救ってくれるんだなとこの数日で気付いた。
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ここからは土曜の朝(5/14)、雨の音を聞きながら布団の中で書いている。
よくよく考えたら、私がブログを書くのはダントツで布団の中が多い気がする。
体を起こした状態で書いてる姿が自分でさえも思い浮かばない(苦笑)。
低空飛行気味なのは一進一退しながらも徐々に良くなっているような感じがしている。
そんな時にもう1つ私がしたのは、小さな楽しみを自分にプレゼントすることだった。
ここ1週間ほど引っ張っているのは、近所の複合型のスーパーに売っている深皿を買うかどうかということ。
複合型のスーパーと言っても、田舎のスーパーの建物内に複数の店が入っているだけで、本当に小さな店があるに過ぎない。
贈答品や食器なんかを売るお店の通路に面しているところにそのお皿はあった。
一目惚れして、パスタやサラダなんかを盛ることを想像しながらも、衝動買いはやめようと思って買っていない。
しかも相変わらず皿は、今すぐ使うのではなく、いつかのまさかに備えて←えっ( ̄∀ ̄;)、2つ色違いで買おうかと考えている。
一目惚れしたのは黄色の方だったけれど、グレーも使い勝手が良さそうな雰囲気を出している。
しかも本当に誰かと一緒に使うなら…、とその後のことも私はその大特価の皿を前に、なんなら皿を後にしたのちも、どこまでも想像を繰り広げていた。
30代の頃いつの時も気に入った食器とかを見ると2つある時は2つ買っていて、それはいつか結婚や同棲することを考えてそうしていると来る友達にそれぞれ説明して、しょっちゅう笑われていた。
本当に気に入ったものしか買わないから、色んなお皿を並べてもケンカすることもなく、何人かの人たちからは違うデザインのものばかりなのに全体的にまとまっていていいね!と素敵な言葉さえも言われたことがある。
またいつか1人暮らしになっても、はたまた誰かと一緒に住めるような関係を将来持つことになっても、そのタイミングで使うお皿を見つけてしまった。
販売元の検品時に規格外となってるものらしく、1枚400円という値段で出ていた。
2枚買って消費税入れても千円でお釣りがくる。
重さや質感も申し分なく、大きさや深さも良かった。
でもすぐ使うものじゃないし、皿を増やしてどうするのかと思わなくもないけれど、これは絶対に生きている間に使うことはわかるから、さぁ買おうかなどうしようかな…と引っ張っている。
すでに2回見ていて、今日あたり見に行って気に入ったら買おうと計画中。
こういう楽しみ、しかも皿を使う楽しみを未来の自分に貯金のように用意しておくのはいいなぁと今回の低空飛行の時に思った。
未来の楽しみは大きな楽しみじゃなくて良くて、小さくてもそれでウキウキしたり、手に入れてなくても想像するだけで心が満たされるものなら何でも良い。
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「声」
1週間くらい前なのかもっと前なのか、既婚者男性のブログを読んだ時があった。
男性視点の妊活の話をしていて、男の人でそういうことを書く人が珍しくて興味を持って読んだ。
その中ですごい「!!!」となった名言というか考えがあっていたく感銘を受けたものがあった。
その男性は、相手の声が好きだとか心地良いだとかいうのは、それは絶対のものだとそんな風に言っていた。
体型とかその他の見た目、シミやシワや髪の毛なんかは年齢と共に変化する。
だけど声は変わらない。
もちろん子どもの頃と老齢期の頃を比べたら声は変わるけれど、それでも基本的な声質は変わらない。
だから誰かの声が好きとか良いと感じるのは、もう絶対的な感覚の部分でそうだと感じているわけだから、それは変わらないものなんだとものすごく納得した。
声と言われたら、イケメン上司の声の感じを思い出した。
残念すぎることに、声の輪郭というか音の感じは年々記憶が薄れている。
ほぼ話さなかった上に、イケメン上司は仕事の時も声のボリュームが大きくないから、回数として記憶に深く残すには私には足らなさすぎた。
全く覚えてないなんてことはなくても、かと言って声の音をものすごくはっきりと記憶してるかと言えばそうじゃない。
声の記憶だけはもうこの先もますます薄くなる可能性があってそれは仕方ないとあきらめつつある。
けれども、イケメン上司の声が良いと思った感覚とその声を聴くために超神経を集中させていたことと聞きながらいつの時もホッとしていたことと、そういう諸々の感覚の記憶だけははっきりくっきりと残っている。
最後に挨拶した時に声のトーンをどこまでも落とされたあの感触さえも私ははっきりと記憶している。
いつだったかの過去世セラピー的なもののお試しをした時に、私の場合は視覚とかで何かを見る人ではなく感覚で何かを感じたり記憶したりするタイプだと説明してもらえたこともあって(ちなみにそのタイプの人はとても少ないようで、その記憶や感覚は独特のものがあると言われた)、その記憶だけは絶対に未来永劫変わらない自信がある。
体で体中の細胞で記憶に残ったものだから、私がボケたりしない限りは覚えている。
もしかしたらボケてもイケメン上司の声を聞いていた時の感覚はボケずに残るような気がする。
低空飛行期間中は、こんな風に過去の出来事や思い出をあれこれ心の中で並べてウットリしたりホッコリしたり、そんな風にして元気をもらっていた。
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最後に、占星術講座の時のクラスメイトだった友人ノムとつい2、3日前に電話した時に教えてもらったことを私もこの場で共有したい。
メンタル低空飛行気味だという話をしたら、ノムもそんな風で、さらにはノムは誰か占星術関連のブログを読んで、今の星回りというのが気持ちが沈んだり自分の中に深く入り込んでその中でもがくというか落ち込むのとも違うけれども、決してイェーイ!!ってなるようなテンションではないと説明されてたものを読んだと教えてくれた。
2人で共通していたこととして、キッカケがゼロとは言わないけれど、明確にこれがあって気持ちが落ちてるということではなくて、なんだか知らないけれど妙に落ちて行く感じがあるというところ。
あとこれまで楽しめてやれていたことも今はやらなくなったとか。
私の場合は、タロットカードがそうで、最近は時間や気持ち的余裕がないのもあるけれど、本当にぴたりとストップしてまたやりたくなる時まではしばらくこのままでいいかなと思っているし、とにかく自分を休めて労わることを今は最優先している。
ノムもそんな風で、これまではインスタの「ストーリーズ」と呼ばれる時間と見れる相手を限定してアップする投稿があるらしいけれど、それを最近ずっとやらなかったとのこと。
電話した少し前に久しぶりにストーリーズとやらを投稿して、そこに最近の様子として今書いたようなことを書いてアップしたらしい。
そうしたら「自分もそうだった!」というような反響がそこそこあって、自分だけじゃなくて今多くの人がそういう時期を過ごしているらしいとわかったと教えてくれた。
だから、今は気温差やら気圧差やら色々環境的なものもあるし、新生活が始まっての適応するためのストレスとか、はたまた私みたいに何もなくてもなんだか気持ちが低空飛行気味とか、そういうことがけっこうみんな当たり前にあるらしいことがわかった。
これはなんとなく共有した方が良さそうと思って、私のブログを読む人の人数はたかが知れていても、黙っているよりも伝えた方がとりあえず良いかなと判断してあえて書いてみた。
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皿は予定通り買った。
そして家で使う用のマグカップが欠けてずっと新しいものを探していたところ、ようやく「これだ!」というものに出会った。
ハシビロコウと呼ばれる鳥とダルマがタッグを組んで超シュールな絵柄になっている。
そのシュール具合が気に入って、あと形や重さ、大きさも申し分なく、それで一目惚れして一緒に帰ってきた。
超どうでもいい話だけれど、マグカップを買ったお店はイケメン上司が新潟勤務の際に住んでいたところの超近くで、そこは私の車の88888キロを記録した場所でもあった。
そして、雨が降る中、個人工房で陶器市的な催し物があると新聞で見て行ってきて、そこで一目惚れした茶碗でも中鉢的な使い方でもどちらもいける椀型のものを買ってきた。
一気に4つも食器類を手に入れてこんなこと人生でもこれまでなかったように思うけれど、今回はこれで未来の楽しみもセットでついてきているからOKとした。
というのがトップの写真たち。
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