今さらだけど、ものすごいことに気付いた。
世紀の大発見\(。•̀ᴗ-)✧/
↑ここで寝落ち
改めて朝、布団の中で。
昨日の夜、ものすごく久しぶりに3つあるブログのうちの1つを開いてみた。
これを開くキッカケとなったのは、昨日ブログを再開した時の初の記事が読まれていて、自分もクリックして読んでみたら、別のブログが開けなくて管理事務局的なところに問い合わせている云々とあって、それを読んで久しぶりに開いてみた。
名古屋にいた頃、私はこのブログも合わせて合計3つのブログを開設した。
何でそんなことを考えついたのか忘れたけれど、元々は招待制だった頃のかなり初期に近いmixiで日記を書いていたけれども、mixiだけで続けていくことが無理に感じ出して、それで思いきって一般ブログに移った。
それが今からちょうど10年くらい前だと思う。
私はブログのことにあまり詳しくはなく、何でこのGoogle提供のブログに落ち着いたかと言えば、ドミニカ時代より仲良くしていたリーダーが「ブロッガーいいよ〜!」と教えてくれただけじゃなく、うちだったかリーダーの家だったかどちらかは忘れたけれど、どちらかで実際のサイトの作り方も手取り足取り詳細に教えてくれて、それでこれは使いやすそうだし自分でもできそうと思って始めたのが最初だった。
もっと言うと、リーダーはそもそもブログを日常的に書く人じゃない。
その当時、スペインを旅することになって、その記録を残すためにリーダーはブログを開設した。
そんなタイミングの時に私も外部ブログの開設に興味を持っていたから、それで教えてもらえたものだった。
自分でも色々見て回っていた時で、そもそものブログ開設のための諸々の登録や設定で超つまずいていたから、リーダーの教授は本当にありがたかった。
当時はリーダーの言っていた言葉が何を指すのかよくわからなかったけれども、今ならものすごくよくわかる、「広告も何も出てこないからそれがすっごいいいよ!」ということ。
他の見知らぬ人たちのブログをよく読んでいたことと、友達2人があまり聞いたことのないブログサイトを使ってブログを書いててそれを知っていたことと、あと料理ブログなんかにハマって色々なサイトのブログを見ていたことと…、その色んなことの積み重ねで知ったのは、通常の無料ブログにはブログのあちらこちらに広告が表示される。
私のブログは見ての通りブログ本体しか表示されない。
この煩雑さから解放されたシンプルなスタイルが私はとても気に入っているし、使いやすい。
ブログもたくさん種類があるけれども、ここまで広告ゼロでいけるのは他には知らない。
機械音痴&ネット音痴の私がブログの設定でつまずきまくっていたから、それでリーダーがそのタイミングで先に開設して使っていて色々知っていたことはものすごく幸運だった。
おかげで色々教えてもらえたし、私もこのブログに関してはそこまで苦闘せずに始められたように記憶している。
で、何で最終的に3つも開設・利用したかと言うと、元々書きたいこととして3つ別々のテーマがあったから。
1つはこのブログのスタイル通り、自由自在に何でも書くこと。…blogger
1つは、心理関係の情報を自分の宣伝も含めて書くこと。(これはもう4年ないし5年止まっているし、今後も消さないけれども書くことはないと思う。)…ameblo
1つは、例の昨日チェックしたもので、自分が見聞きして良いな〜と感じた話やシーンを切り取って、それを忠実に綴るもの。そこには余計な私情やら個人の考え・思想は入れず、ひたすらあるがままを記すこと。…fc2
最後のfc2ブログは、当時仲良くさせてもらった、そういうこと全般に強い人から全部設定してもらえた。
(ここからは金曜日の昼休み 5/7)
当時は何も考えず、単に教えてもらったブログサイトがbloggerだったからbloggerを日常使いしたけれども、昨日fc2ブログを改めて見てbloggerでないと絶対にダメだったんだと知った。
これまでも何回か書いたけれども、私にとってブログは自分の書きたいことを書いて発信するだけのツールじゃなくて、ある人の生存確認をするためのツールでもある。
その生存確認をする際に、ブログの訪問数や国、その他諸々を閲覧できる集計ページを私は見る。
Googleに勝手にくっついている機能だから、私はただ閲覧するだけで何か設定とかはしなくて良い。
何せずっとこのブログの仕様に慣れていたし、基本的に他のブログサイトでも類似の機能があるからどれも似たり寄ったりかと思っていた。
だけど昨日fc2の管理サイトを見て、bloggerのように見れる集計スタイルではないことがわかった。
むしろ、今みたいどころか最低限の集計も全くもって情報不足で、それじゃあ生存確認どころかその人が私のブログを見てくれたかどうかもわからない有り様だった。
amebloはどんな風かは忘れたけれども、今ほどに使い勝手は良くなかったことだけは覚えている。
さすがGoogleだけあって、無料とは思えないほどの立派な集計機能を持っていて、それ無くしてはその人がブログを見てくれたかどうかは絶対に知り得ることがなかったんだと昨日初めて知った。
色々今さらだけれど、普通に検索が簡単に為されないこと、それゆえにひっそりと書いていられることも私にはとっても良かった。
これがamebloなんかだと、「いいね」機能によってそこから自分のブログが拡散したりするけれども、そういうこともない。
今はやりのタグ付けもしてないし(できるのかもしれないけれど、このブログには要らない)、どこまでも自分が最小限守りたい範囲は守られているから、安心して書けるしアップできる。
そして何よりも、その人が読んでくれただろうことがわかる様式になっていて(この辺りは言葉で説明するのが面倒だから割愛)、それこそがこのブログでなければいけない最大の理由だとはっきりとわかった。
*
2021/05/09
雨の日曜日
私がこのブログを開設した当初、まさかこのブログが今みたいにとても大切なアイテムになるだなんて想像だにしていなかった。
しかもライブドアブログも手を出した記憶があるし、他のサイトのブログにも手を出した記憶がある。
とにかく設定やら実際の使い勝手に慣れないわ面倒だわで、どれもこれもすぐに触らなくなってしまった。
最終的に残った3つも、例えば心理系のものをこのbloggerにしても、もしくはfc2のものをこのbloggerにしても、またはこのブログをamebloなりfc2 にしても良かったのに、なんとなくの流れでこのブログがbloggerになることで落ち着いた。
深い意図なんか何もない。
だけど結果的にこれが大正解だった、って今になってわかる。
もしかしたら、私がこのブログを再開した時期とそう変わらない時期からその人はこのブログに気付いてくれてたのかもしれないなぁと思った。
私の名前でさえも、珍しい苗字のおかげで一発でフルネーム検索したら私そのものがヒットするだろうし、これが佐藤とか鈴木とかいう苗字ならあまりにもヒットしまくりで私のこのブログは見つけ出してもらえなかったんじゃないかと思う。
何もかも特別に配慮や分析をして選んだことじゃなく、何となくの感じで適当にその時々は選んだだけのものだった。
それが10年近く経った今、絶対に外せない選択だったなんて、本当に不思議な気持ちでいる。
*
何でその人が今も私のブログをチェックし続けてくれているのか、考えてみた。
考えるのも自由、自分の考えを書くことも自由、と開き直って書いてみたいと思う。
私に連絡したいのでは…と思った。
連絡を密に取りたいとかそういうのではなくて、何か言いそびれたこと、言えなかったこと、沈黙し続けてることの中身、そういう何かしらのものを吐き出せる範囲で言ってしまいたい、そういうのじゃないのかなぁ…と思った。
もし、私の近況を知りたいだけとか、生存確認をしたいだけなら、読まれるものはオンタイムでアップされるものだけだと思う。
だけどその人のブログの確認方法はそうじゃない。
過去のものが選ばれる。
それもその人が登場するストーリーだったり、私にはよくわからないけれども何かしら響くものがあるのか同じ記事で繰り返し読まれるものも何個かある。
時は過ぎていてもその内容が色褪せないとか、はたまた気になることであれば、時の過ぎ方とその内容の心の映り方はイコールにならない。
4年前のことにはなる。
時間はたしかに4年分キッチリと進んだけれど、当時見ていた風景や心の中にあったもの、自分自身の感覚に訴えてくるもの、そういうものは全てそのまま今に引き継がれている。
その人がどうしてずっと沈黙を保ち続けるのかはわからないけれども、少なくとも墓場に自分一人で持って行こうというんじゃない気がする。
本気でそういうものなら、このブログなんかは完全にスルーされて、存在さえ気付いてもらえなかった気がする。
ここ最近書いたどれかの記事にも書いた気がするけれど、私が第三者からその人についての話をされた時というのは何回かあって、その中でも最初の人の時に言われたことで忘れられない言葉がある。
その方は私の人生初のホロスコープ鑑定をしてくれた鑑定士さんで、先天的に見えないものが視えてしまう体質の方だった。
大人になってその体質は落ち着いて視えなくなったとは言っていたけれども、必要があると見せられる、そして見せられるものというのはそこに登場する人たちの意志によって鑑定士さんに伝えられて、それを鑑定士さんが登場する人に伝える機会が巡ってくるみたいな感じで説明を受けた。
そんな説明を受けながら、鑑定士さんに視えた、ペンジュラムを大切に持っている長く生きられなかった子ども(=過去世の私)とそこに出てくる血の繋がらない家族たちが出てきて、そしてその家族の1人としてその人が出てきた。
度肝を抜かれまくりだったけれども、その話の時に鑑定士さんは私に言った。
「今回は、史子さんというよりも、相手の魂の意向でこの話が伝えられていると思います」
にわかに信じ難い話だった。
私側には非常に響きまくりな話ではあったし、私の都合の良いように聞こえる話でもあったけれども、それは私じゃなくて相手の意志だと言われて、すごい衝撃だった。
当時は衝撃だったけれども、今これだけ時間が経ってみて、本当にそうなのかも…と思うようになった。
私だけが一方的に色々書いているし、私の一人劇場ですか?と言わんばかりの内容にいつもなっているけれども、その一人劇場型の内容をなぜかその人も気にかけていて目を通すという、不思議な構図が出来上がっている。
だから、その人の中で私に伝えたいもの、訴えたいもの、見過ごすことができないもの、そういう何かしらの強さを持ったものがあるんじゃないのかな…と最近は思う。
もし、ただ単に私の近況が気になる程度なら、この4年近い時間が今のようではなかったと思う。
こんな話をしても何のなぐさめにもならないかもしれないけれど、魂の関係と一言に言っても、親子・兄弟から夫婦、仕事の同僚、ご近所さん、血の繋がらない家族、と色々ある。
例えば、占星術講座の時のクラスメイトのノムと私とは、単純な言い換えをすれば同世代の独身男女になるけれども、だからと言ってノムと私とが異性のパートナーとして知り合うのじゃない。
ゲイであるノムと私とは恋愛的な絡みは皆無でも、お互いの心を癒すヒーリングメイト的な魂の関係だと思う。
だから、その人と私もどうでも異性のパートナーとかいうくくりや、はたまた異性の友達とかじゃなくて、本当に必要があっていっときお互いに人生が重なった者同士ということで今生は十分な関係なのかもしれない。
私側は私利私欲に任せて欲を出したけれども、本気で嫌われたり迷惑をかけたりはしたくないから、その人にとって好感触な距離感を持てるようにそれだけは本気で気をつけたいと常々思っている。
何ひとつ忘れてはないけれども、無視拒否拒絶三重奏みたいなことも、私はそれはそれ、そして今がそれとは少し違っていて吐き出したいものがあるなら、これはこれくらいに思っている。
日々同じ気持ちでいること自体が実はイレギュラーで、昨日と今日、今日と明日で色々違っていてもそれが人間の当たり前の在り方だとも思う。
だから4年前は無視するしか手段がなかったものが今は少し話してもいいかもしれない…ってなっていても別に不思議なことじゃないし、生きてるんだから色々移ろいで当たり前だと思う。
自分が同じテンションでいられないのと一緒で、気持ちがコロコロ変わったり、気持ちは変わらなくても表現方法が変わったりなんていうのはいくらでもあると思っている。
だから、その人の中には何か言葉にして出してしまいたいものがあるんじゃないのかな…なんて思ったりもする。
余計とかまえてしまうかもしれないけれど、私としては「いつでもどうぞ〜」な気持ちでいつもいるし、何で今さら連絡してくるの?とか無視してたのに何なの?とか、そういう意地悪いことは一切言わない(笑)。
とにかく、いつの時もウェルカム!なのには変わりない。
*
2021/05/10
月曜日の夜
週末を迎える少し前あたりだったと思う。
そもそもどうしてこんなにも色々書いたんだっけ?と回想した。
そうだった、家を出てすぐの小さな交差点で前の仕事で一緒だったWさんと思しき人の車とすれ違ったことが出発点だったんだと思い出した。
そのことで当時の職場で仲良くなれたSさんに連絡をして、Sさんから「◯◯さんは多分元気だと思います笑 去年☆☆に異動しちゃったんですが…」と返ってきて、そこで衝撃を受けてドヨーンとなって、そこから書き始めた話だった。
何でこのタイミングで転勤話を知ることになったのかは神のみぞ知るの領域だけれど、今知る必要があったんだろうし、そして何よりも自分と二人三脚で色んなことを振り返ったり心の奥底を探索したり、そしてそれらをこんな風に言葉に起こして伝えることが必要なことだったんじゃないのかな…と思う。
普段は蓋をしているというか、そうじゃなくてもよくわからない事態が発生してそちらに気を取られたりする。
だけど今回はゴールデンウィークも重なって、ゆっくりと自分の中に潜っていって、味わいたいだけ味わって思い出して、そして言葉にし続けた。
言葉に書き起こしてそして最終的にアップするその時まで、気付くと私はいつも信頼している。
その人が読んでくれるだろうことを。
何に繋がるわけじゃなくても、目を通してもらえるだけでも御の字で、そのことに対して大丈夫と思っている自分に気付いた。
もちろんこんなことがいつまで続くかなんてわからない。
今回が最後になる可能性だって、それはいつの時も死が隣り合わせなのと一緒なようにある。
それでも生きてて書き続けるしばらくの間は、なんとなく目を通してもらえるんじゃないかなと思う。
ずっと書き続けてみて、途中から気付いた。
物理的距離はあんまり関係ないということ。
そもそも連絡を取り合う仲でもないから、というのももちろんある。
けれど、その人が私の人生に現れてからは感覚的にずっと一緒のまま今に至る。
さらにはいなくなった後も、物理的なものは変化したけれど、それ以外は何にも変わらない、その状態が日常となっているから、だからこの2週間くらい書いて書いて書きまくったらそのうちあんまり気になっていない自分にも気付いた。
これが会える関係性ならまた違ったと思う。
会えないから全ては私の心の中の話で、それは距離は遠い近いは関係ないらしい。
ふと、その人にある時必要なものを手渡された瞬間を思い出した。
あまりに一瞬だったのと一気に色んなものが湧き上がったおかげで、実は実際のことをあまりよく覚えていない。
名前は呼ばれなかったし、最初は「あの…」でもなんでも呼びかけられたのかどうかも覚えていない。
差し出されたところだけ時が止まったみたいに記憶にあって、もっと細かな細部を覚えておけば良かった、と今さらだけど思った。
私はその時、自分の体を守る道具を渡してもらったけれど、それこそがその瞬間から今に至るまでの一貫したテーマのように感じる。
その人と私とは本当に何ひとつ一般的な繋がり方はしていないけれども、その人の存在というのは私の中で私の中の一番大切なところに気付かせてくれて、それをきちんと保護するように勝手にお守りのようになっている。
相手にそんな気はさらさらないことは十分承知しているけれど、それがその人の存在なんだと感じる。
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