2024年9月10日火曜日

せみの鳴き声、鈴虫の鳴き声

9月最初の日の朝日
2024/09/1

土曜日に出かけた帰り道の信号待ちの風景
天使の梯子と呼ばれる雲の合間に光が漏れてる
この後彩雲まで見えた!
2024/09/07

妹たち家族が帰った日の風景
小さなかわいい布団は私の保育園時代に名付け親のお世話になっているおばちゃんからいただいた手打ちの布団
今はなんと姪っ子が使っている!(´⊙ω⊙`)!
2024/8/13


「せみの鳴き声で始まる9月の始まり」

なんていうタイトルでもいいなと思って書いてみた。


本当に採用するかしないか、というよりきちんと書いてブログアップできるかできないかは書き始めの今は未知数。


本当は昨日8月31日に「夏の終わり2024」とかいうタイトルにしてブログ書けたらいいなと思ったけれど、母の付き添いでdocomoショップ、自分のメガネの注文、帰ってからぐうたら時々昼寝時々ネットサーフィンしてあっという間に夜、そして気付いたら9月1日になっていてブログは書けずに終了。


docomoショップは母宛てに頻繁にドコモから「プランの変更の案内」の電話が来ていて、最初は本人1人で行こうとしていたけれど話の感じが超絶怪しすぎて私が行ける日に変えてもらって一緒に行ったら、プランの変更の案内にとどまらず、まさかの「お客様のらくらくフォンの部品はもう製造中止となっておりまして、今後故障された場合に直すことができないので機種変更をご案内させていただいております」とかいう母から聞いていた話とは全く違う話でびっくらぽん。


だけど電話本体は壊れてないから(不具合はその場で見てもらって直してもらったのと、あとは私の方で操作すれば良いものだったから残りは家でやった)、さらに機種変更となると7万円〜10万円の出費になり、これはもうこの場でなど「機種変更お願いします」と母は言わないだろうと察して、聞きたいことだけは全部説明してもらってとりあえず壊れるタイミングか冬のいつかのタイミングで変更するかにしようとなり、資料もらって帰ってきた。


何に一番驚いたかというと、部品そのものがらくらくフォンの場合、モデル販売開始から約5年限定らしく、その後は生産中止するのが主流らしい。


父と母を見てたらわかる。


あの世代の機械音痴な人たちは携帯の機種変も基本的に同じスタイルのほぼ変化なしのスタイルを好む。


そして戦前戦後時代の幼少期を過ごしてるから「物は末長く大切に使おう」が染み付いている人が多いと思う。


となると携帯は壊れない限り買い替えなど積極的にしないどころか絶対にしないだろうし、でも企業としては買い替えしてお金を落として欲しいわけで、そうなると部品生産中止という強行手段を取らざるを得ないのかなと思って話を聞いていた。


私も携帯電話の変更を面倒だと感じる人だから(なんなら前回替えた時に5年に一度と思えばあと人生で9回くらいかなという計算までした次第。あと9回の我慢と思ってがんばろうと謎の目標設定をした)何ていう世の中にというか私みたいに変化を好まない人には苦行のような世の中なんだろうと思った。


比べる対象として全く別物過ぎるけれども、針なんて一度買ったらその針がダメになるまで何十年と生き残るのになと思う。


手芸関係は最近とんとご無沙汰しているけれど、基本的に道具は使い勝手が悪くならない限りは永年選手として使い続けられるのに。


何とも世知辛い世の中だなと思う。







メガネについても驚いた。


度が合わなくなっていることは薄々気付いていたけれど、まさか前回作った時よりも0.6ほどもの視力が落ちていて、今の度数だと0.4くらいしか出ていないとのこと。


そしてこれまたおかしな話だけれど、仕事用と移動や家で使う用を使い分けることにした。


今のメガネは引き続き仕事中に使うことにして、それは基本的に職場に置きっぱなしに。


昨日作って来週以降取りに行くメガネは運転や家で使う用に。


この度数で作りますのレンズでパソコン画面を見た時の感じがたかだか数秒でもガッツリと目が疲れてしまって、そんな状態で8時間パソコンを見るなんて無理だから、そして今も見えないわけじゃないからむしろパソコン用には今のメガネの方が不便なくいけていいなという感じ。


メガネ屋さんにもそういうと「それが良いと思います」と言われた。







2024/09/08


メガネは昨日取りに行って早速使ってみた。


度を強くしすぎたのか少しかけるだけで疲れてしまって、慣れるのに時間かかりそうな雰囲気を醸し出している。


新旧交互にかけるといかに前のものが見えていなかったのかよくわかって、でもかと言って新しいものだけで1日過ごすのは体がしんどいからしばらくは運転する時にだけ使おうかなという感じ。


(9/9実際の使用感)


初めて新しいメガネでパソコンを見て驚いた。


これこそが世の中高年の人たちが皆辿るだろう老眼の世界なんだと思う。


見えなくはないけれど、ピントがボケる。


携帯電話になると文字がとても読みにくい。


だから本気で車の運転用と仕事でパソコンを使う時のメガネを使い分けないと生活がままならない。


コンタクトでこの調整は無理だろうからメガネ生活で良かったなと思った。


ちなみに1年?2年?くらい前から徐々に老眼的な感じはあって、とりあえず日常で困りもしないけれど少し工夫が必要なのが爪切り。


裸眼で爪切りは全く問題ないけれど、なんなら10センチ近く目の前に指を近付けないと見えないのは相変わらずだけど、メガネをかけたままの爪切りは辛くなってきた。


やりづらいというか。


それ以外は特段困っていないからなんとかなっている。


そう、「工夫している」が正しい感じだなと思う。


老眼の出にくい家系だから、その遺伝に少しでも長くあやかれるように目を大切にしたいなと思う。







友人ノムと久しぶりに電話した。


電話の終わりにノムが1つ提案なんだけど、と言って月末に用事で佐渡に行くことになって新潟入りするからぶっしーともどこかで落ち合って会いたいと言ってくれた。


あれよあれよと話がまとまって、ノムとうちから一番近い新幹線の駅で落ち合って、おしゃべりメインの新潟観光してその後は2人でビジネスホテルに泊まってお泊まり会決行。


どこかの飲み屋に行くのと部屋飲みもできるからとても楽しみ♪


次の週末は横浜のすーさん宅にも遊びに行くから、男の人たちとお泊まり会する自分って自由だけどなんだか色んな意味でズレてるミッドフォーティだなと思う。


すーさんとノムの間の週末には、なんと私自らが幹事に立候補して飲み会を開催することになった。


こちらは職場の男の人で超世話になりまくりな人で、今仕事を続けるか辞めるかの瀬戸際だと本人から聞いたから、じゃあ慰労会しましょうって持ちかけてそれで有志で小さな会を開こうとなった。


誰得情報だけど、占星術でいうと私の金星というのが水瓶座で、水瓶座の金星の特徴の1つに博愛主義で男女問わず友情が成り立つということを地でやってしまうとどこかに書いてあったけれど、まさにそのタイプだなと思う。(その容姿と雰囲気と性格なら男側だって貴女を女として見ないでしょ、というタイプのご指摘は受け付けておりません)


珍しく立て続けに予定が入っているけれど、なんなら10月は姪っ子のバレエの発表会を見るのとその数日後には子守り要員で両親と交代して私が少しだけ姪っ子たちの面倒を見に再度金沢に行くけれど、元来の私はのんびりダラダラしてるのが好きなんだよね…と思う。







夢の中でどこかのクリニックみたいなところに他の人たちの付き添いで行って、そこが肌寒くて小さく背を丸めないといられないような寒さで、何か変と思ったら現実の世界でクーラーの設定温度を低くしたまま寝落ちしてそれで寒かったことがわかった。


夜中の4時前に目覚めて(この後また寝るけれど)鈴虫が鳴いているのが聞こえる。


このブログの書き初めはセミの鳴き声だったのに9月の初旬が終わる今は鈴虫メインになっている。


もう秋なんだなと思う(鈴虫はもっと早い時期から鳴いているけれど)。

2024年8月25日日曜日

感じてるー沈黙の向こう側

隣りの休耕田が今年はひまわり畑に

家から見える花火
2024/08/25


家の外に出たらもっと綺麗に全体が見える


≫もちろん、いまの社会の流れのなかで、「ありがとう」と言うことは、もっと広がるだろう。

ただね、感謝の気持ちをぜんぶことばに出すだけでなく、「沈黙」の大海のなかにゆらゆらさせている人も、いてもいいんだよ、と、思ってもらえるといいなぁ。

これは、「ありがとう」ばかりのことじゃない。「愛してる」だとか、「悲しい」「うれしい」でも、ことばにして言うだけじゃなく、感じてる人がいるんだ。


引用:『抱きしめられたい。』糸井重里







久しぶりにエッセイというか本を読んだ。


上の文章を読んで『感じる人』とかいうタイトルでブログを書こうかなと思って今書き始めている。


正しくは、タイトルの方が後で、読んでる最中に「実は感じ続けてくれていたのかも…」と思って、そのように思った私の心の中を書きたいと思った。


今年の私はここ数年の中で一番ブログをはじめ色んなものを書いていない。


5年日記はまとめて数日分書くことが増えつつあるけれど、とりあえず2年目も半分弱になる今も続けている。


でもたいしてどうしてたくさんは書けないから、それは単にスペースの問題で、あまり深い内容はそこには書いていない。


日記帳も長らく開いていない。


たくさんのノートたちは休眠中。


そしてブログもなかなか書けずにいる。


書きたいよりも単純に体や心を休めたいの方が勝って、そうなるとどんどんブログが遠ざかる。


そんなこんなでとにかく今年は書かない時間がこの数年の中で圧倒的に多い。


こんなにもアップしていないブログではあるけれど、過去の記事たちがあれこれチェックされている。


チェックされているとわかるのは、ブログの管理ページにそうした統計が出てくるから。


ブログはいいからさぁ、連絡くれないかしらねぇなどと思うのは常日頃だとしても、とりあえずのらりくらりしている。


自分も気が向いたら過去に書いたものたちをちょこちょこ読んだりするけれど、はっきりとわかるのはもう同じ熱量で同じことたちを書くことはできないということ。


書いた当時、その時々の気持ちはもちろん覚えているだけじゃなく今も気持ちそのものはそんなに変わらない。


だけど、書こう!という衝動みたいなのと書くための体力とでも言えばいいんだろうか、その辺りが書いた当時と今とを比べると全く違っていて、思うように書けていない。


ちなみに書くことに限らず、部屋の整理整頓も物の整理も何ならこの夏はとうとう衣替えせずにひと夏を通過していて、手芸も読書も色々本当にしていないできない日々が続いている。


週末も家にこもれる時は、小さな昼寝を何回も繰り返して合間にネットサーフィンして、あとは最小限の家事なんかをして終わる。


そんな風だからとにかく書けない。


とかいう数ヶ月を通過してみて、改めて書ける時に書いといて本当に良かったと思っているし、あの書けたことたちが今の状態を生み出してくれたように感じていて、過去の自分に本気で感謝している。


私がブログを再開した2017年の秋、何の見込みも可能性もなく、とにかく書かないことには可能性0%だし、書けば書かないのと同じくらい0%でも絶対の0%ではなく「まさか」が起こるかもしれない、そのまさかに本気で賭けて書いたのが最初で、その後はとりあえず思いつくままに書いて書いて書きまくって、そして今に至る。





どのように受け止めているかはさておき、文字を読むことで感じるものはあると思う。


無機質な文章じゃない。


明らかに自分に向けられたもので自分もその場やその時に居合わせていたわけで、どこの誰かもわからない人じゃなく少なくとも名前と顔くらいは一致した人から言葉を向けられるわけで、言葉にしないからと言って沈黙を保ち続けているからと言って、何も感じていないわけじゃない。


むしろ何かしら感じ続けているからこそのブログ参りなんじゃないかと思う。


2024/08/18







一番直近でアップしたブログの中に

「この後、ここに書いたことと最近のこととを経て私なりに思っていることを書きたいなと思う。(いつも書く書く詐欺みたいになっているから今回書けるか心配しているけれど、書きたい気持ちはモリモリある。)」

と書いて締めてて、それで書こうとしていた意識があったことを思い出した。


お盆明けも相変わらずかっ飛ばし過ぎなくらいに忙しく、今は25日の日曜日、明日からまた残業デーが続くとわかって仕事に行くことへの意識の低さよ。


やる気はいつの時もマイナススタート。


ゼロになる前にその日が終わって次の日を迎える。


何のために仕事をしているのかわからないこと数ヶ月、その中でますます強くなっている内面の世界。


その内面の世界について綴ろうと思う。


私が今の職場で担当している数々のことは、必要としている人たちが必ずいることはわかっているし、極力少しでも良い状態で次の人たちにバトンタッチして渡したいと思ってやっている。


やればやった分、職務上の知識やスキルは身につくし、ものによっては先の人生のどこかで役に立ってくれるものもあると思う。


なんだけど、本当に自分の中は全く満たされないし、「何のためにこんなことしてるんだろう?」といつもいつも思う。


そしてその思考とほぼほぼ毎回セットで「この今使っている熱量をイケメン上司との関係構築に向けて使えないものか」と思う。


仕事と人間関係は使うエネルギーの種類も心に響くものも全く別物であるけれども、単純に「エネルギーを向ける」という意味でのエネルギーを本気でイケメン上司との関係に注ぎたいと超真剣に思う。


2017年を皮切りに通算8回目の夏なわけで(もうすぐ秋になっちゃうけれど)、そして最近読まれた過去のブログを読んで他者から伝えられたイケメン上司の存在や意味みたいなもの、その他諸々を含めて考えると、そうそう何よりも自分の内側に広がる世界を見ると、イケメン上司という人は私の人生において超絶ぶっ飛んでいる存在の人なんだと改めて認識した。


だって夏は8回目だよ、今年。


2017年の夏に生まれた赤ちゃんは今小学1年生になっちゃってるよ。


そんだけの時間を毎日毎日、しかも目の前にいた時間なんて数えたら100日ちょっとしかなかったわけで、しかもとても濃い会話を交わしたとかならわかるけれど会話は皆無に近く、その時間よりも数年単位で会っていない時間の方が圧倒的に長くて、普通なら速攻で記憶から消えてしまうし、名前さえ思い出せないとか普通だし、顔や声も薄れることは十二分にありうるし、そういうスタンダードコースがあるとするならイケメン上司の存在はありとあらゆる常識や定例、定説を覆しまくりでありえないことがあまりにも多すぎてそちらがスタンダードになるというおかしな展開になっている。


さらにはイケメン上司のことを全く知らない人たちからイケメン上司についてあれこれ情報をもらうだなんて、もらった数年前の当時も変だとは思ったけれど、今一般企業にいるからこそ本当にとてつもなくぶっ飛んでいてありえなさすぎることだったんだなとしみじみと感じる。


イケメン上司に聞いてみたいことはたくさんあるけれど、例えば「ねぇねぇ何であの時冷たくしたの?」とかさ、「ねぇねぇ何であの時あんな素敵なイケメン行為をしてくれたの?」とかさ、怒りとか責めるとかそういう気持ちはなくて(それが無いのがイケメン上司からしたらやりにくいのかもだけど)、とにかくコミュニケーションを取ってみたい、本当に生きているうちに意思疎通的な何かを図りたいとは思うけれど、本当にそんな気持ちを7年間維持して、維持と言うよりも気付いたら7年経って8年目を迎えたわけだけど、ここにきて(8回目の夏を迎えて)もしかしてそれって私だけじゃなくイケメン上司も私とはだいぶ違うけれども「ちょっとやりとりしてみたい」とか思っていたりして…とか思ってみたり。


やりとりなんか始めたら私が鬱陶しくなるかもだし、そもそも日常生活やら内面やらにイレギュラーなものが入って落ち着かないどころか「やっぱり何もない方が自分の人生にとってプラス」という結論に至って早々と決別するかもだし、メリットを述べよなどと言われたら私は本気で困るけれども(今ひらめいた!星読みでも進呈したらどうだろう…←浅はか)、イケメン上司も実は私と何かやりとりをしたいと思っているのかな…などと思う。


過去のブログにイケメン上司に一度も会ったことも私から話を聞いたこともない霊視ができるヒーラーOさんが、突然私にOさんが視えているイケメン上司についてとうとうと話し出した時のことが書いてあった。


そこには詳細があって、Oさんいわくイケメン上司側も何が何だか理解できないと思います、みたいなことを当時説明されたことが書かれてあった。


理解されなくていいし、理論的なことなど何もわからないままでいいと今でも思っている。


それよりも連絡してみたい気持ちが1ミリでもあるなら、連絡してくれることが何よりだと思っている。


唐突すぎるけれど、何のために目の前の仕事をしているのかわからなくなる時に「何のために生きているんだろう?」と究極の質問に行き着く時が時々?かなり?ある。


これが今の時間とか今日1日だけのことなら折り合いがつく。


でもある程度の人生の中のまとまった時間として見た時にそれはもう完全に「やる意味が見出せないもの」になる。


そんなこんなの思考回路に陥る時、これがイケメン上司と生活とかなったらこんなこと思わずに真っ直ぐにエネルギーを注げそう…とかいう思考回路が走り出す。←仕事中に


何のために生きるとか考える余地さえないくらい、とりあえず目の前の現実に超絶感謝しながら日々生きていられそうなどと思ってしまう。


イケメン上司側のメリット?


ナンデスカソレ?状態なことは否めない。


人間はメリットがあるかもしくは危険が迫っているかということがないと新しい行動は好まないようになっていると思う。


メリットとは言えないけれど、私にイケメン上司が連絡してくれたのなら、それは人生最大の貢献に値すると思う。


自分を進呈するだけで誰かに貢献できるなんてなかなかできることじゃないから、それがメリットかしら…←えっ?


ゴロゴロ布団に転がりながら時々休憩という名の寝落ちをしながら書くと、当初意図していたことの半分も書けてないように思うけれど、とにかく言いたいことの1つは「人生を賭けてエネルギーを注ぎたいポイント」がイケメン上司だということ。







ここに書いたことを最初から読み返した。


そうだった、最初は「感じる」ことを書くんだったと思い出した。


イケメン上司もこの文字の向こう側でただただ読んでるだけじゃなく何かしら感じたり感情が動いたりしてるんじゃないかと冒頭の糸井重里さんのエッセイの文章を読んだ時に思ったんだった。


それとは別に、今日の昼間、ネットの記事で姉妹2人ともが障害児のお母さんが発信していることをニュースに取り上げられているものを読んだ。(1人目の子は、2人目の子の障害が生まれた直後にわかって色々検査してもらった際に、お母さん側が1人目の子の体の具合でずっとずっと気になっていたことを病院にお願いして検査してもらったら難病だったことが判明した。近所のクリニックに行っても問題ないとされてたものがいきなりの難病だった。)


そのお母さんはショックでごはんが喉を通らないくらいでそんな時に夫は普通にごはんを食べててどんな神経をしてるのかと思ってたら、夫の方は家族を守るためには自分が倒れるわけにいかないから味を感じなくても食べた気がしなくても無理してでもごはんを食べて仕事して家族を養わなきゃいけない、そういう気持ちでいたことがわかったと記事にあった。


言葉が全てじゃないということが糸井重里さんのエッセイにもそのニュース記事のお父さんにも共通しているけれど、イケメン上司も感じない人どころかめちゃくちゃ感じる人だと思う。


8回も夏がやってきて、目の前にいないのはお互い様で、本気でどうでもいい人だとするなら私のこの起承転結のないダラダラと長いブログなんか見ないと思う。


感じる何かがあるからこその無意識なのか意識してなのかブログを見るんじゃないのかな…と最近はそんな風に思うようになった。


もし何かを感じていてくれるとするなら、私は本気でそれを自分だけでおしまいにせずにそれを私に伝えて欲しいと本気で願っている。


時間の経過と共に、イケメン上司の存在が本気の魂の領域の人なんだというのはひしひしと感じるようになった。


魂と言ったのは、魂が何かなんて上手く説明できないけれども、感覚として他の誰にもないタイプの存在だということだけはものすごくよくわかった。


感覚として別格すぎる。


そしてイケメン上司のことを全く知らない第三者複数名からイケメン上司について情報が伝えられるなんてありえなさすぎる。


人生の中で後にも先にもそんな人他にいないと思う。


とにかく色んなことが普通じゃなさすぎて、そんな人なのにもう話ができないとか会えないってどういうこと!?と思う。


それはそうと、もちろん無理強いはさせられないしそんなこと私ができるわけもないけれど、せっかくコミュニケーションツールがこの世の文明のおかげで今あるのにそれを使わずにずっと交わらずにいつか死んじゃうのはすごく悔しい。


生きているうちに交わせるものは交わしたい。


感じていることがあるならそれが何かをイケメン上司の口から聞きたい。


自分の願いがそこだから、だからこそ日々何をしていても「何してるんだろう…」のグルグル思考になるのかなと思っている。


2024/08/25