2023年10月13日金曜日

夏の最後のお出かけ

途中で寄った野菜直売所で見つけたカエル
今見ると夏っぽいなと思う
2023/8/26

お昼に食べたラーメン
20代の頃からずっと気になっていたラーメン屋
今もずっと営業しているくらい、
すごくおいしかった!

見に行った展示

夏の美術館

絵画撮影OKだった٩(ˊᗜˋ*)و

同じ風景をたくさん描く人で
心にある孤独とかをすごく持っていて
それらを感じさせる絵たちでとても惹きこまれた

美術館を出てわりとすぐのところにある
ジェラート屋さん
すごくおいしくてここもいつも激混みなの納得

帰りの夕日

これはまた別の日の仕事帰り
農道をわざと通って帰った
夏っぽい風景だなと思ってパチリ


2023/8/30

夏の最後のおでかけ


今週末が8月最後、季節「夏」の最後の週末になるとわかって、体力と天気がOKなら用事も兼ねて少し遠出をしようと思い立った。


朝から夏らしく青空が広がって、布の整理やら突然エンジンがかかってメルカリで一体いくらこの1ヶ月ほど使ったのか具体的にノートに書き出したりした後、ゆっくりごはんを食べて身支度をいつもより時間かけてそれから出かけた。


おおよそ予定通りに動いたのとあとはプラスアルファの行き当たりばったりな買い物をして帰ってきた。


2023/08/26()にやったこと


・セブンイレブンでアイスカフェラテ買ってからドライブ開始

・靴下屋(3人の人へのプレゼントやお礼)

・20代の頃から気になっていたラーメン屋さんでランチ

・孤独で寂しい風景画を描く外国人画家の展示を見に美術館

・ジェラート屋でおやつ(同じくずっと20代の頃から気になっていた店)

・ここ最近できたと思しき道の駅

・その近くのホームセンター

・その隣りのスーパー


とまぁ本当にてんこ盛りな予定を目一杯詰め込んだわけだけど、そしてそれだけで本当なら1つ長々とブログを書けるくらいに見どころ満載だったわけだけど、1日経ってみて一番印象に残っているのは最初の家の近所のセブンイレブンでのことだった。


全部書こうとすると、間違いなく平気でまた1ヶ月先とかになりそうだから、今回はそのセブンイレブンでのことだけを書こうと思う。


ちなみに、他の用事や食べ物は全部当たりで、食べ物もお店もまたリピートしたいなと思うくらい良かった。







普段なら私は家でアイスコーヒーと牛乳を混ぜてアイスカフェラテを作ってそれを小さな水筒に入れて持って行ってる。


これだけ書くとオシャレな感じだけど、アイスコーヒーはペットボトルのやつで特売の時にまとめ買いしたものだし、水筒に至っては蓋が一部壊れたものの普通に使えるからそのまま使い続けているすごい年季の入ったものになる。


普段仕事に行く時に毎日持って行っているから、「今日は特別感を出したいからセブンでコーヒーを買おう!それも100円のアイスコーヒーじゃなくてアイスカフェラテの方を!」と心に決めて、それでまずは歩くのと車で行くのと時間的に変わらなそうな家の近くのセブンイレブンに寄ってアイスカフェラテを買うことにした。


もう1つついでに63円切手を2枚買う用事があった。


母が集めた山崎パンの点数を応募ハガキに貼ってあとは出すだけになったものを持っていた。


今週から両親は妹のところに行ってパン屋の手伝いと家事手伝いと孫守りに行っているから、その台紙に貼って応募することを任された。


取るに足らないくだらないことばかりを書いているけれど、こういうことが重なったからこそ立ち寄ることになったセブンイレブンだった。


さらにはその数時間前に楽天マラソンで生地の買い物をしたけれど、うっかり間違えてセブンイレブン前払いにせずにカード払いで買ってしまって、だからカード払いゆえにセブンイレブンでの対応は不要になったけれど、これも不要だったことが正解なんだと思う。


もしここで前払いのひと手間があったのなら、その後の小さな重なりは起こることができなかったから。


レジを終えた私は、アイスカフェラテを作りにコーヒーマシーンのところに行った。


どちらが先かは覚えてないけれど、隣り合う機械の右側を私が、左側を同年代風な男の人が使った。


なんとなく狭くなるからお互いに使い勝手が良いとは言えず、早々と退散してしまいたい、そんな気持ちになる小さな空間だった。


その後、店舗外のすみにある小さなポストに例の懸賞ハガキを出そうと向かった。


ちょうど郵便物回収の郵便局の方がいて「ありがとうございます」と言われて気分が良く、私も「ありがとうございます、よろしくお願いします」と返して、ポストを見ると1日1回の回収しかしないようで、そんな激レアなタイミングでかち合ったポストに出せて、それにあやかって懸賞も当たるといいなぁなんて考えた。


気分良く出し終えてくるりと向きを変えて自分の車に戻ろうとすると、先ほどのコーヒーマシーンのところで隣り合わせた男の人が今度はタバコを吸うために来ていて、これまた私が若干邪魔な位置に立っているような感じだったから、一応頭を小さく下げてからその場を立ち去った。







コンビニでの出来事はそれでおしまいで、その後の美術館やラーメン、ジェラートなんかの方がよほど内容的には充実している。


もしくはホームセンターでIKEAで買ってきた収納バスケットに酷似した収納バスケットが特売で出ていて、それは職場近くの同列店で見つけた時も買う買わないで迷ったけれど最後はやめて(ちょっと気になるところがあった)、でもたった1日変わって別の店舗になったら4割引な値段になっていて、その値段且つ底面のなぜあるのかよくわからない段差も無地の生地たちをしまうためなら問題ないと判断して色違いで2つ買ってきたとか。


職場近くのところは腕時計の電池交換を出しに行ってきて、だからたまたま2日連続でホームセンターを見ることになった。


とかまぁなかなか良きこともあったけれども、それよりもセブンイレブンでの1分、2分の出来事の方が私にはインパクトが強かった。


セブンで例の同世代の男の人と2回もかち合った時にふと思った。


ものすごいタイミングでそれぞれ小さな空間で隣り合ったりかち合ったりしたけれど、私がその人の名前だとか職場がどこだとか何の食べ物が好きとかどんな人間関係を持っているかとかそういうものは一切知らないしこれから先も知ることもないんだなと思った。


興味がある人じゃないからどうでもいいけれども、こんなにタイミングがバッチリと合って隣り合わせても相手のことは何も知らないって、当たり前だけれどその当たり前に改めて納得してさらには「知ってる」ってすごいなと思った。


お互いに名前を知ってるとか顔を見たら誰さんとわかるとか、そういうのって全然普通じゃなくてとても特別なことなんだとセブンイレブンの店舗から暑い外に出て思った。


例えばこんな風にコンビニで隣り合わせても知らない人の方が圧倒的多数になる。


今の職場の100人はいるフロアの中でも知っている人よりも知らない人の方が多いし、顔や名前を知っているだけで話したことない人もたくさんいる。


私は仕事でどうしても関わらないといけないから都度都度担当になった人の元へ行って話したりするけれど、私より長く働いている人たちから「◯◯さん(私がその時関わる人)、関わったことないから知らない」というのはよく言われる。


そんなこんなを思いながらまたさらに違うことを思った。







誰かと新しく出会う時、「この人とは長い付き合いになりそう」というのは私の場合過去に一度も思ったことがない。


2023/10/10


ここからは10月に書いている。


冒頭に予感した通り、すぐにアップできず、なんなら1ヶ月以上放置したら季節はもう秋もけっこう深まって寒くなってる。(꒪ꇴ꒪)


夏のお出かけもこの後に書こうとしたことも、あの日のセブンイレブンでのこともとてもよく覚えている。


もう外は一気に夏の気配が消えたし、気付けば10月で日常やこれからやってくる非日常な予定の中に生きているし、ある意味普段通りな感じではあるけれど、あの時のセブンイレブンのことは今でもとても印象に残っているし、上の「誰かと〜思ったことがない」で書き始めた文章の続きもその通りではなくても何を続きに書こうとしていたのかも覚えている。


時計の針が進んでしまったけれども、残りの部分を書き進めたい。







誰かと新しく出会う時、「この人とは長い付き合いになりそう」というのは私の場合過去に一度も思ったことがない、というのはイケメン上司の時もそうだった。


出会ったかどうかということを深く掘り下げてしまうと話が進まないから、セブンイレブンでの人と比べて「お互いに名前を知っている」「顔を見たら誰さんかわかる」というところはクリアしているから、なんなら「ブログを知られている」なんていう超パーソナルなところまで知られているから( ̄∀ ̄;)、物理的に「出会った」もしくは「知り合った」というのは間違いじゃない。


(こういう言い訳を私はいつになったらしなくなるんだろうとしょっちゅう思う)


潜在意識はさておき自分の頭にのぼってきて自分でも感知できる顕在意識の方は、イケメン上司に初めて会った瞬間、「この人は職場の人」くらいな認識、もしくは「イケメンがいた」という仕事に関係ない認識くらいしかなくて、まさかこんな風に長く繋がっていくだなんて想定外の中でも最高潮の想定外だった。


イケメン上司側は「本当に『武士俣』なんだ」くらいでしかなかったかもだけど、私側も私側でそこに何か未来を予感させるものとか、まさかその人についてブログ書いてその書かれた本人がそれを読むなんていうすごい不思議な関係に発展するだなんて、当時の私が想像できるわけもなく、本当に普通の派遣での初日くらいでしかなかった。


便宜上「長い付き合い」とこの場では言うけれど(本当にこの言葉に当てはまらない現状を一言で表せる言葉があるなら是非とも知りたい)、そういう未来は1ミリも想像していなかった。


ましてや職場だったわけで、ますますその流れは想像なんてできるはずもなかった。


職場の人とごはんや飲みに行く関係になる人たちはいるけれども、それは社会的な人間関係の延長なところがあるし、「仕事」の枠がなくなるとそのまま関係も消滅するのが常だから繋がる人というのは老若男女問わずほぼほぼいない。


だからイケメン上司と私とが何か繋がれるとは1ミリも思わなかったし、ましてや相手はイケメンなわけで、そして後にイケメン上司は当時の職場の長だと知るわけで、私はそことは別会社に所属しているところに派遣された派遣で基本的に仕事の絡みはゼロで、物理的に繋がる要素は皆無だった。


イケメン上司は指輪こそしてなかったけれども、彼女がいても何ら不思議ではなかったし、指輪をしていないだけで実は奥さんがいても「そうなんだ」と普通に思うそんな感じだったから、まさか自分がこんな超個人的な何かを共有することになるだなんて全く思わなかった。


これはイケメン上司のことを言っているわけじゃないけれど、私が30歳の時から何度かお世話になっている占いのおばちゃん(御年90歳くらい)に異性関係のことでほぼ毎回言われること、特に前回は念に念を押されて言われたこととして「あなたを好きになる人、あなたと一緒になる人は、あなたの顔とか容姿じゃなくてあなたの性格とか心意気がすごく好きな人よ」というのがあったけれど、いや真面目に顔や容姿で勝負できるような私じゃないからイケメン上司に限らず相手が誰であっても私の外見的なところじゃなくて内面的なところが良いと思わない限り一緒になどいられないだろうと思う。


イケメン上司は私をそういう対象で見ているのとは違うけれど、武士俣という苗字にこそ何かしら強く印象なのかインパクトなのかは受けても私の外見どころか内面的なことなんか当時置き物のように喋らなかった私に何かを感じるのは無理だっただろうと思う。


さらに言えば、ごはんに誘われたり謎の長い手紙を押し付けられたりしなければブログも見なかったかもしれないなと思う。


私には有利な状況とか条件なんか何もなかったから、百害あって一利なしな感じはあっても自分にとってプラスな何かをもたらす人では到底なかっただろうと思う。


とにもかくにも、最初に出会った日に「この人とは何かしら繋がっていくだろう」なんて私でさえ思わなかったわけでイケメン上司はもっとそんな未来を想像できなかったんじゃないかと思う。


そしてそんな状況は絶対的にないけれど、もし誰かにこの言葉で表せない謎のブログ繋がりの私のことや私との人間関係をイケメン上司が説明する時があるとするなら何て説明するんだろう?と思う。


普通な人間関係にないこともわかったけれども、特別な感情というのも抱かない相手が私に対するものだろうという理解というか納得も時間を追うごとに増してきた。


そんな人のこと説明なんてできないだろうし今後も誰かに説明する機会なんてないだろうから全くもって無用な想像だけれども、私にだけそっと何か説明してくれないかなと思う()


好きな人的な立ち位置に私がなれてたら今頃とっくに何かしらの関係性がスタートしていてなんなら関係が終わっていた可能性だってあったと思うけれども、そういう立ち位置にいないわ、なんだか不思議な感じだわで、イケメン上司も言葉にできないのにプラスして関係もどうにもできなかったのかもしれない。


(ここからは次の日10/1113の朝、夜明け前)


関係をどうにもできなかったことはちょっと脇に置いて、人と人とが本当の意味で出会う、出会えるなんていうのは、ミクロンの確率の中で起こる。


「奇跡」だとも思うし、偶然のようで必然だとも思う。


イケメン上司のことは全然知り得る機会に恵まれず今の今に至るけれど、唯一この6年の中で知り得たこととして、ずっとずっととりあえず私にとって良い解釈をすれば「気にかけてくれてた」と言える。


冷たい感じはしなかったけれども情に厚い感じも当時の第一印象としてはなかったし、人間関係は相当に厳選してそうなイメージは当時からあったけれど、厳選というのも自分の好き嫌いということや損得とかではなくて、言うなれば自分が心を開ける人とそうでない人というラインの中で他の人よりも「心を開く」レベルが相当に限られている感じと言えばいいだろうか、誰でも彼でもウェルカムみたいな人では絶対にないのは話さなくてもなんとなくの雰囲気や空気で伝わるというか。


そんな印象だったからこそ、私に開く印象など皆無だったし、色んな意味で危険人物認定されてたようにも感じるし(それは今も)、そんな風に感じていたからこそたとえブログという実在していても距離のあるものを何だかんだと見続けてもらえるだなんて想定外のことだった。


そしてそれは「望外の喜び」という言葉がピッタリな喜びでもあった。


こういう人間関係の中でしか生まれない化学反応みたいなものは、起こそうと思って起こせるものじゃないし、ましてや相手の行動や心を自分側がコントロールできるなんてことは絶対にない。


イケメン上司の意図はわからなくても、少なくともイケメン上司側が何かしら意思を持ってブログのチェックをしてくれてたわけで、それは私がどうこうできることじゃない。


イケメン上司自ら選んだ行動だというのがとても嬉しい。


「出会い」とさえ呼べないようなこの在り方でも、時間をかけられた分の積み重ねられたものが今は存在しているということが本当に嬉しい。


私のこのなんだかよくわからない独り言ブログに何かしら興味を持ってもらえたのはとても良かったし、正直面白くもなければ支離滅裂状態だけれど、それでも気にかけてもらえてとても嬉しい。


あの夏の最後の週末にセブンイレブンで二度もかち合った男性のことは、顔も覚えてないし、まとってた空気も忘れたし、もしまたもう一度知り合っても「あの時の方ですね」とは絶対にならない。


どんなにタイミングが合っても互いを知り合うことなく終わった。


でもイケメン上司は違う。


色々とあべこべなんだけれど、知り合えた人、出会えた人で、何にもシェアできていなくてもれっきとした「知っている人」で、それも双方向に知っているということが実現できた出会いになってくれた。


イケメン上司からすると、私じゃちょっとどころか色々と踏み込みたい相手ではないんだろうけれど、それでも知り合えたことはすごいことだと今でもずっとずっと思っているし、そしてこれは逆に年数を重ねれば重ねるほどもっとすごいと思うようになった。


知り合わせていただき誠に有難うございます、と正座して手を前に揃えて置いて頭を地に付けるくらい下げてお礼を申し上げたいくらい。


とまぁそんなこんなを思った夏の終わりの週末の話を秋の半ばの今頃書き終える、というますますマイペース絶好調!なこのブログ…( ̄∀ ̄;)

2023年10月1日日曜日

10月の最初の日曜日

週末の野菜の収穫
最近ハマっているピーマンの食べ方で、
ピーマンを一口大の大きさに切ったら
油しいてピーマンを焼いて
くたっとして焼き色がついたら
しょうゆ、砂糖、たっぷりの鰹節で味付け
これが弁当にも晩酌にもいける!

2023/09/29
中秋の満月ー赤信号待ちの車窓より

手芸本を整理する前

手芸本を整理した後

2023/10/01

10月の初めの日曜日の夕方日が暮れる前、布団の上でゴロゴロしながら書いている。


今日は夜に、

・豆と玉ねぎとセロリのオリーブオイルサラダ

・ゴーヤチャンプル

・なすの味噌炒め

・なすのグラタン

・みょうがの味噌肉巻き

を作る予定。


大皿系を作っておくと弁当が楽だと気付いて、ゴーヤチャンプルとなすの味噌炒め、みょうがの味噌肉巻きは明日からの弁当に主に使う予定。


名古屋にいた時も弁当用に作り置きはしたけれど、どうにもこうにも飽きてしまって、ひじきが週5とかになると飽きてきてテンションが下がるから(食欲は失せない)、それっきりあまり作り置きをしなくなった。


けれど、最近パッと適当に作った麻婆茄子が弁当のおかずにピッタリと知って、それからは弁当に合うものが1つ2つ作ってあると朝の弁当がすっごく楽と気付いて(ちなみに元々さして何かを作らないから私の弁当を作る時間は5分〜10分程度)、時短とも呼べない「ただ詰めるだけ」弁当ができると知ってその詰めるだけ弁当のために作り置くというのをしている。


NHKのサラメシとか料理ブログの弁当とかを見ていると、もう別世界のもので、私の弁当が幼稚園児作なら映像や写真で見る一般人の弁当たちは大学院レベル。


ぐらいの差が元々あるところに、さらに「ただ詰めるだけ」弁当の虜になるわけだから、とても写真など載せられるシロモノじゃない。


まぁ写真も撮らないけれども。







弁当の話じゃなくて、「これ私得意なんじない!?」ということを今日突然思ってそれを書きたかったんだった。


私が得意とするというか苦にならないことの1つに「冷蔵庫や家にあるものでパッと何かを作る」ことが挙げられる。


今回もゴーヤが採れて、「じゃあゴーヤチャンプルにしよう」とか。


なすが5本くらい採れたから、それも「麻婆茄子にしよう」とか「なすグラタンにしよう(これは初の試み)」とか、そういうことだけは瞬時に決められるし、味付けや組み合わせも超絶適当だからあるもので適当にやってしまう。


私が本格的に自炊を始めたのは大学1年が終わる頃のアメリカのロッキー山脈の麓の田舎町だったから、当然食材も調味料もすごく限られていた。


米だけは全米にいる日系人の方々のおかげで普通にスーパーに日本米に近い米が売られていた。


調味料はキッコーマンKIKKOMANの醤油があったくらいであとは塩とこしょう、中華系の辛味調味料くらい。


酢は米酢とは違う酢で、あとは砂糖くらい。


あとコンソメとは違うけれど、ブイヨンみたいなのも使っていた気がする。


そんな中で始まった自炊だったから、色々と頭をひねるじゃないけれど、この時に相当鍛えられた。


そして日本みたいにコンビニで簡単に出来合いのものを買うことも、スーパーの惣菜もなく、さらには調味料がないから色々組み合わせることもして、とにかく1から作ることをかなりやった。


しかも今みたいにネットがそこまで普及していない=レシピもネットで見ることもないから、人から聞くか日本の雑誌にあるものをメモするかみたいな感じだった。


その時の名残り的なもので、今でも調味料は自分で適当に合わせて作れるものは買わないし、いつもとにかく目分量で味付けをするのも変わらない。


麻婆茄子も超適当に味付けしたのが本当においしくできて(目分量ゆえに同じものは作れない)、まだまだなすが今年は豊作で、母が夏に世話した小さな家庭菜園で採れそうだからもう少し作れそうな予感。


ちなみに2〜3週間前、なすのミートソース的なのを作った時にそれをオーブンでチーズ焼きにしたり、なんならホワイトグラタン的なものも作ってミートソースとホワイトソースダブルのグラタンなんかもやっておいしかったから、今回はとある飲みブログの方がなすのグラタンを作っているのを見てホワイトソースオンリーのグラタンを作ろうと思う。


こんな風にとにかく色々実験的にごはんを作るから、自分であるもので適当に作ることには慣れている。







手芸熱は今また違うところに飛び火していて、今度はリバティの布たちをあれこれ集めたのなら(ちなみに今も良いものがあれば都度都度買っている)、使うために手芸本を取り寄せることを始めた( ̄∀ ̄;)


自分でうっすらと気付いてはいたけれど、私はクリスマスの飾りとかがとても好きで、1年前の今頃から毎年1つずつクリスマスグッズを集めて飾る習慣を作りたいと思って、当初それは「買う」と思っていたけれど、パッチワーク関連の雑誌でクリスマス特集を見ていたら「自分で作りたいかも!」となり、何にも作ってはいないけれども、そこからまた手芸本を探すことに火がついて、今毎日手芸本の検索をしている。


いつかは小さなクリスマスツリーを買いたいとさえ大真面目に思っている。


これまでは「いつか結婚して誰かと住むなら」とかいういつ叶うのかもわからない未来を想定して決してクリスマスツリーを買うことは考えもしなかったけれど、何ヶ月か前に植木鉢にクリスマスデザインを上からペインティングしたものを購入して、「これからは毎年自分でそれらを飾ろう!」と気が変わって、それのデビューが今年になる。


ツリーはまだ買わないけれど、ちょっと今年はクリスマスデコレーションをしたいなと思っている。


で、そんなこんなの目論見もあって手芸本探しに熱中していて、今日もさっき5冊注文したえっ( ̄∀ ̄;)


明日には届くとさっきヤマト運輸からメールが来たから、営業所受取に設定を変えて明日仕事帰りに取りに行ってくる予定。


5冊も買う予定はなかったけれど、探している本がないかとAmazonやメルカリやブックオフではなく普通に本のタイトルだけを入れて検索したら、なんと手芸本や生活関連の本だけを取り扱っている古本屋のサイトに行き着いて、そこで見ていたら激レア洋書のパッチワーク本を見つけて、これ多分好きだろうなぁと思ってAmazonだとどんなレビューや値段なのか調べたら「9178円」と出ていてぶったまげて(私が見つけたのは1250円)、レビューはすごい良くて(オール英語だったけれど普通に面倒くさがらずに今回は読んだ)、これ買おうと決まった。


当初送料300円出してたまたま見つけたクリスマス系のパッチワーク本を買おうと思っていたけれど、3000円で送料無料とわかって、そうしたらあと1000円分くらい買えば送料無料になると知って、また100冊は軽く超えただろうパッチワーク本をその古本屋のサイトで見て、さらに吟味してそれで5冊3200円の買物をした。


だいぶ手芸本も集まったからそろそろ手芸本熱は冷めてくれるだろうと思う。







で、こんな風にあれこれものが増えたことで今度は大の苦手な収納をなんとかしないといけなくなった。


収納上手な人は収納スペースを考えてからものを買っていると思う。


名古屋での一人暮らしの時は、本当に究極に収納スペースが限られていたから、強制的環境のおかげで「物を持たない」生活をかなりいいレベルまで達成することができた。


けれど、その中でも例外的にスピリチュアル系の本だけはものすごくたくさん買った(で、最後はほぼ手放した)。


今回は良くも悪くも「一軒家」で、自分の部屋にスペースがなければ必要頻度が低いものを他の部屋に移すという良いのか悪いのかよくわからない手段がある。


今のところ、そこまでの必要性がないから、なんとか部屋の中で諸々が収まっている。


で、手芸本たちはある程度すぐ取り出せるところに置きたいから、サイズが気に入っている段ボールをこの間からスーパーからもらっていくつか家に持ち帰ってきて、今日ようやく段ボールを本立てに見立てて大方の手芸本を収納した。


ちなみに今の部屋には木のテーブル以外は1つも家具を置いていない。


そして本棚も本当にこの土地を終の住処として住む決断をするまでは買わない予定でいる。


ちなみにいつになるのやら、段ボール本箱は味気ないからここに自分でちょっとデザインを加えた布をかぶせたいと思っている。


ここ最近一番迷っている買い物は、折り畳み式のキャスター付き3段?4段?のワゴン型収納。


レストランなんかで食事を給仕するのに使われる金属製のあのワゴンみたいなもの。


あれの幅が細くて背が高いバージョンをホームセンターで見つけて、これなら最悪手芸熱が冷めても他のものに使えるかなとも思って、買う買わないを今も迷っている。


本当に買うのなら置くものは決まっていて、手芸グッズと布たち。


話がそれまくりだけれど、とにかく物を置くこと、収納の方法については、かなりどうしたものかなと思っている。


それと同時に今回気付いたけれど、私はこの先も片付けや収納が上手になるとは思えないから、それらの能力を磨く努力よりも、できない自分を受け入れてその自分との折り合いをつけていく方が確実にやれそうだなと思っている。


そんなことを思いながら片付けを少しだけした日曜日だった。







珍しくブログを書く気になって書いたら、これわざわざブログに書くことなのかなんなのかわからない内容になってしまった。


冒頭の料理の予定はあの後つまみ食いやらテレビ見やらしてたら面倒になって、とりあえずやらないとまずいゴーヤチャンプルとなすの味噌炒めだけやった。(ゴーヤをダメにしそうなのと、それ用に解凍させておいた豚肉がダメになりそうで、何とか自分を奮い立たせて料理した)


みょうがは日を置きすぎて傷み始めていたから、明日以降天気の良い日にまた家の裏から採ってきて仕切り直すことにした。


豆のサラダとなすのグラタンは明日以降に延期。


日常を言葉にして何になるのかと思うけれども、この週末はなんだかしみじみと「こういう日常の何かに追われて、なんだかよくわからないうちに人生が終わるんだろうか?」ということをやたらと思った週末だった。


その人生も悪くないし、むしろそういう日常を好きこのんでいる自分もいる。


けれど、それが今後ずっと習慣のように続いてそして本当に肉体が死を迎えた時、私はそれでいいんだろうか?とそんなこと考えたところで今すぐどうこうできるのとは違うけれども、なんだかなぁと思った。


次の3連休はスーパーくらいは行くかもだけど(今週は野菜の収穫で外に出た以外はずっと家にこもっていた)、あとは家でのんびりしようかと思っている。


それをしたい、と思うからそれでいいんだけれど、どこかで「本当にそれでいいの?」の声が止まない。


とかいうモヤモヤも吐きつつ、そんなこんなの10月最初の日曜日になった。

2023年9月26日火曜日

9月が終わりそう

姪っ子にあげた巾着袋
左はバレエの道具入れに
右は体操服入れにするらしい

この布は姪っ子と夏休み布団を並べて寝た時に
どの布がいいかネットで検索して
姪っ子が選んだもの



2023/09/24

どれもこれも中途半端な下書きが溜まっているけれど、そのどれも続きを書かず、今書きたいことを書いてみようと思う。


縫い物をするようになってから気付いたけれど、針と糸を手に持つとどうしても手がふさがってしまうからそれでブログを書く時間が大幅に減ったんだなと思った。


あと、メルカリ内でのリバティパトロールも同様に、携帯と手と両方がふさがるからブログを書く時間が大幅減。


手芸熱がおさまらないことには、しばらくブログは超ノロノロスピードになるだろうし、そもそも最近の日々のルーティンの中にブログの時間がないからさらにアップが遅々となる。


ブログを書いていないからと言って何も考えていないわけじゃなくて、むしろ色々頭の中を駆け巡るけれども言葉におこしていない、ただそれだけのこと。


だけど、今日は何が何でも今の心の内を書いてしまいたい強い衝動があるから書いてしまいたい。


多分今日じゃないと書けない。


空腹になるとおなかの空き具合ばかり気になるだろうと思って、先に念願のインスタントのサッポロ塩ラーメンと残っていたエビサラダをこれまたそのためだけに残しておいたバゲット一切れの上にのせて食べてきた。


サッポロ塩ラーメンはいくつかの食べ物エッセイ系に載っていて、その描写がどれもおいしそうでいつかその味を確かめたいと思っていた。


先月くらいにうちから遠く離れたスーパーで単品で売っているのを見つけて、それで1袋だけ買って帰ってきてストックしてあった。


食べたことある味だとわかったけれど、自分は好きじゃないからもう二度は買わないと思う。


ちなみにインスタントはマルちゃん製麺の味噌が断トツで好き。







どこから書くのが正解なのかわからず、とりあえず思い浮かんだ順に書こうと思う。


去年の11月だったと思う。


ノムとミッチーのお宅におじゃまして、ノムの友人・知人・同志みたいな、とある手相家の方から手相を見てもらった。


それは去年のブログのどこかに書いた気がするから割愛するけれど、その時に思ったこと、自分の中で決めたことがあって、それをいつするのかずっと気にかけながら気付けば1年近い時が経過した。


帰りの八王子市内の八王子駅行きのバスに乗り込むと、イケメン上司にそっくりな小学校4年生か5年生くらいの男の子が座っていた席を立って私に席を譲ってくれた。


あのシーンはこの1年近い時間の中で何回も思い返したシーンだった。


自分が泣きそうになったことも含めてとても強く印象に残る、そんなシーンだった。


あの時、自分の中にあった決意のようなもの、それを後押しされたかのような男の子とのやりとりで、多分私は生涯を通じて忘れないだろうと思う。







6年前の2017年の秋。


今日の日曜日なんかは気が気じゃなかったと思う。


記憶がその辺りはほとんど残っていないけれど、さすがの私ももうあと3日もするとイケメン上司が転勤でいなくなることは知っていた。


誰かに聞いたのか盗み聞きしたのかは覚えてないけれど、ある時に最後の週の水曜日が勤務最終日だと知った。


夏場でも常備していたダウンがなくなったことから始まり、机の上もどんどん荷物が片付いていって、日に日に本当にいなくなると言わんばかりの状態は目で見て知っていた。


けれど、私の心の方は全くそれに追いつかず、本当にいなくなるというのが全然信じられなかった。


居続けてくれるとは思わなかったけれど、いなくなるというのもどこか別の世界の対岸の火事状態で、頭で理解してても心は断じて拒否みたいな、私が抵抗したところでどうにもならなくても自分の中はいなくなるというのが受け付けられなかった。


その日曜日はどうやって過ごしたのかどんな気持ちでいたのか全くもって記憶が飛んでいるけれど、気が気じゃなかっただろうし、この世の終わりくらいな暗くて重たい気持ちはあったと思う。


そこの記憶がすっぽり抜けているのは、これは私が今思うに、印象に残らなかったんじゃなくてあまりにもショックで記憶が飛んでるんじゃないかと思う。







当時の私からして、イケメン上司のいなくなる世界は全くもって想像できなかった。


いない世界で生きていく自分のことも、いない日常がどんな風なのかもとにかく想像できないことだらけだった。


あれから6年が過ぎて、心境としては6年()と6年の後ろにビックリマークが付く感じではあるけれど、とにかく6年が過ぎて、イケメン上司が現実にいない風景もなんとなく慣れて時々イケメン上司がいた時間が幻のようにも思えて、色んな感情が去来しまくりな時間がたくさん過ぎた。


日曜日の午後、金沢の妹宅に向けて諸々両親から頼まれた荷物を送った後(土日のほとんどの時間を荷物の準備に費やした。母の農作物の収穫や姪っ子たち向けのおやつの買い物や姪っ子1号と約束した巾着袋作りとか)、ノムと電話した。


その時に、ノムと色んな話をした中で、3つほど強く印象に残ることがあった。


「いつの時も最高のことが起きていると自分の中で決めてしまう」ということ、モヤモヤの効能というかモヤモヤの大切さ。


もうひとつはもう少し後で書こうと思う。


色々矛盾している風ではあるけれど、いつの時もそれが今の自分にとってベストであるというのはなんとなくわかる。


これは説明するのにすごい時間がかかるからここでは書かないけれど、その意味を説明するのに私にとっての一例をいくつか挙げたいと思う。


イケメン上司がいない時間がベストだなんて思えない自分も当然いるけれども、いない時間に私は私で色々あって、例えばそのいない時に体験したことの1つにこうしてブログが繋がり続けるための手段になってくれるというのはこれは体験してみなきゃわからない境地だった。


まず私が書いて発信しないことには始まらないにしても、そこは私が自分でできる範疇のことだからそんなに驚きの事実じゃない。


けれども発信したものをイケメン上司が見つけてくれるというのは無限大にある可能性、数では到底表せない数多の可能性の中の1つで、それが起こるのは天文学的数字分の1、ありえない分母に対して起こる1つになる。


さらには自分の力で何とか叶えることができるものじゃなくて、必ず自分以外の人、この場合はイケメン上司の意志、私のブログを思いつきでも何でもいいから探してみようという意思や行動が伴わないと起こらない現実になる。


もはや私1人の力でどうにかなることじゃなくて、イケメン上司側の働きかけもないと絶対的に起こりえない現象、化学反応的なものになっている。


色んな理由から私はこのブログに関しては開始当初、たしか2013年とかそのくらいから本名を出してやっているけれども、決して当時はイケメン上司に見つけて欲しいからそうしたわけじゃないし、このブログを再開した2017年の秋も見つけてもらえると思って書き始めたんじゃなかった。


でも結果としてこれが見つけてもらえることになぜかなってくれて、今に至っていて。


先週9月18から19日にかけて東京に行ってきたけれども、久しぶりに山手線にわりと長い時間乗っていた時にあまりにも多くの情報が飛び交っていることにどっと疲れると共に情報の多さに圧倒された。


それを見て普段いかに自分が情報を遮断しているのかにも気付いたし、そしてこれだけ情報が溢れかえっている中で私の書くこのブログが目に止まってくれるなんていうのは超絶ありえない現実だなと思った。


その超絶ありえない現実が可能性の1つではなくて現実になってくれたことが、私からすると「人生どんなことも可能性として存在している」というよく偉人や著名人が口にするような金言を本当に体現してさらには自分で体感して信じられるレベルにまで引き上げてもらったわけで、これはこの6年の中で一番と言っても良いくらいの得た大きな人生観に数えられる。


私は窮地に陥れば陥るほど「大丈夫」というサインを探すクセがあるけれど、それは鳥の羽を地面に落ちているのを見つけるとかゾロ目の数字を見るとかそういう小さなでも普通に起こりうるものではない偶然たちだったりするけれども、それよりも何もイケメン上司がずっとこのブログを見続けてくれたことこそ本当に自分の中で何かありえないものも起こりうるという可能性を信じられる、その根源的な人生への信頼感をもらい続けている、その爆発的で継続的な力になってくれている。


これは一朝一夕で成り立つものじゃなくてずっとずっと毎日のこと、掛けることの数年分の時間の中で培われた大きな産物で、勝手にそうなったのじゃなくて積み重ねの中でしか手に入れることのできないすごい絶対的信頼感に近い何かになってくれた。


こういうのは、イケメン上司がいない世界や日常でしか手に入らない境地で、それを思うと本当にベストなことがいつの時も起こっているというのはなんとなく私の感覚でわかる。


モヤモヤの効能は、私の方から振った話で、これも詳細は割愛するけれども、ちなみに国営放送のNHKでモヤモヤの偉大な力を特集組んでやっていた時がつい最近あってモヤモヤ力の素晴らしさを目の当たりにして、私なんかはますます一層「モヤモヤを大事にしよう!」なんて思ったわけだけど、そのモヤモヤの話をしていた時にノムが言った。


「モヤモヤってさ、自分の本心と一致していない、ズレてるってことを本人がわかってるから起こるんだよね。そしてモヤモヤするからこそ、自分でそのズレてる、自分の本心と違うよということに気付けるというかさ」


まさに!なノムの分析だった。


この6年、私の中には必ずモヤモヤがあった。


特にこの1年近くはそれがさらに強く出た感じだった。


イケメン上司のことで、イケメン上司本人ということじゃなくて、イケメン上司のことと自分とを並べて考えた時に必ずと言っていいほどモヤモヤがかかって、自分の中でしっくりこないものがあって、どこか踏ん切りがつかなくてさてはてどうしような心境。


さかのぼること去年の秋の終わり、例の手相家の方から言われたことで何よりも印象に残っているのは「女としてのしあわせを求めないんですか?それを切り捨てて生きて行こうとしていいんですか?」みたいな言葉だった。


言葉はもう少し違っていたけれど大体そんな風で、そしてそれを言われた時に真っ先に思い浮かんだのはイケメン上司だった。


そしてそれを言われた翌日、ノムたちの家の最寄りのバス停から八王子駅行きのバスに乗るんだけれど、その中で初めの方に書いたイケメン上司にそっくりな男の子から席を譲ってもらうという場面に出くわして、大真面目に神の遣いか何かそういう存在が自分の前に分かりやすく降り立ったのかと思った。


本当にそれくらいすごい出来事で、だから私には忘れられない瞬間だった。


これも説明しだすととんでもなく長くなるから簡単に言うと、その男の子が単にイケメン上司に似ていたから印象に残ったというのじゃなくて、その子がしてくれたことは私がイケメン上司の存在をはっきりと認識することができた、6年前の夏の暑い日の炎天下の中でした外の掃除の時にイケメン上司が私にしてくれた行為に通じるものがあったから。


こういうことを書くと恥ずかしくなるけれど、私は普段から自分の性をあまり意識しないようにしている。


女であることがコンプレックスというのもおかしいけれども、いかにも女性らしい人たちと違って、外見は無頓着すぎるし、美人さんや可愛い子たちみたいに男性が優しくしたくなるようなそういう空気感は皆無と思われるし、外国ならまだしも日本で女だからという理由で良くしてもらうという体験が私の場合著しく少ない。


ちなみにアメリカのようなレディーファーストなお国柄だと普通に私みたいな感じでも丁寧に扱われるから非常にありがたいけれども、日本にいるとそういうことはまずなくて、しかも今は完全なるおばさん年齢になっているからより一層女だから優遇されることなど普段の生活で皆無で、普段はそれがデフォルトだから全く気にならない。


でもそういうデフォルトな私だからこそ、イケメン上司がしてくれたことは本当に私にとってすごい意味のあることで、本人はそんな気はさらさらなかったかもしれないけれど、スーパー不器用なイケメン上司がサラッとイケメン行為を私に差し出してくれたことは私の人生の中で歴史が変わるくらいの大きな出来事だった。


そして、女としてのしあわせはどうなのかと問われてグサッと心にでっかい包丁が刺さったかのような痛々しい中で、その後に乗ったバスで男の子が席を譲ってくれたのは、あれは荷物を持っていたこともあるけれど、それと同じくらいかそれ以上に私が女の人だから譲ったという感じがあの時はすごくした。


私が同世代の男の人ならああはならなかったんじゃないのかなと思う。


しかも顔が本気でイケメン上司にそっくりで、イケメン上司の甥っ子かと思うくらいのそっくり具合だった。


何の話をしてたんだっけ?と今書いたものをさかのぼって少し読んだら、「モヤモヤ」についてと気付いて、あれっ?(꒪ꇴ꒪)ってなった。


話が脱線しすぎ。


とにかく、女のしあわせ云々から始まって、私のモヤモヤはそれ以降さらにパワーアップして、イケメン上司のことがパッと出てきたのに、なんなら婚活したらどうですか?と言われてさらにモヤモヤアップして、そんな折に出会った少年と、そしてモヤモヤの根っこにはいつもイケメン上司のことが絡んでいて、そんなこんなに気付かされたモヤモヤの正体と自分の心の内。


そう、ノムが言ったように、私のモヤモヤは自分の思っていることや感じていることと現実が不一致で、その色んな不一致感からくるモヤモヤなんだと改めて思った。


ちなみに文中に「スーパー不器用な」とイケメン上司のことを言ったけれど、仕事とか社会的な人間関係とかはそつなくスマートにこなして誠実な対応をしているけれど、自分の内面に踏み込んだものになればなるほどすごい慎重なのか不器用なのかその辺りはわからないけれど、スマートにさらりとやれるタイプの人ではないんだろうなと、そんなのは多くの人が苦手にしてもその中でもさらに苦手意識が強そうな人だなとこれは時間の経過と共にそんな風に思うようになった。(失礼な言い方をしていたら、ごめんなさい)







ノムが電話の中で「手相家さんからぶっしー向けにメッセージをそういえば預かっていてさ」と切り出されて、今度はどんなすごいメッセージが来るのかと身構えた。


前後の言葉はこの後書くけれど、一番印象に残っているのは

「しあわせになっていいんですよ。」

だった。


ノムの伝えてくれたことはこんな風だった。


「いつだったか手相家さんと話していた時に、『これ誰か宛てのメッセージです。』って始まって『あ、これ武士俣さん向けです』って言って伝えてくれたことなんだけどね。

『武士俣さんはカルマが終わっている人です。本人は真面目にあれしなきゃとかやらなきゃいけないと色々思っているかもしれないけれど、カルマが終わっているから大丈夫です。本人は自分のことを重たいとか真面目にやらないととか思ってるかもしれませんが、武士俣さんの本質は子どものようなエネルギーでとても軽いんです。そのエネルギーで生きていいんです。そしてしあわせになっていいんですよ。

同性の私が言うとまた伝わらないかもわからないので、野村さん折を見て武士俣さんに伝えてください』

っていつだったか言われて、ということを今思い出して伝えたんだけどね」


ノムに聞いたら8月くらいに言われた気がすると言っていた。


そして今のタイミングなんだと思った。


「しあわせになっていい」


実はこの言葉、人生で言われたのが二度目だった。


名古屋の時にお世話になったSさんからが最初。


そして今回が二度目。


最初に言われた時もイケメン上司に出逢った後だったと思う。


そして今回。


言われた直後に、何も考えずにパッと出てきたのがイケメン上司だった。


私が余計なことを考えたり臆したりせずに自分のしあわせって何だろう?とかそんな類いのことを思ってスッと自然に出てくるのは、イケメン上司で、現実とか色んなことの99%は脇におくと、私が本当に望んでいるのはイケメン上司の隣りにいることなんだと思う。


人生には色んな側面があって、色んな楽しみ方やしあわせの感じ方があるのは今のこの年齢に至るまで色んなものを経験したおかげでそれは知るようになれた。


1人でも楽しむ方法は本当にたくさん開拓したおかげで、そこは残りの人生も何とかなるだろうと思えるほどに自分はなれた。


けれども、誰かと共にいること、誰かと共に生きること、いやそういうことを先に思い描いているんじゃなくて、自分の中で欠けているというか大きく不在になっているというか、とにかくしあわせというワードからパッと出てくるのはイケメン上司の存在なのは間違いない。


誰かといたらしあわせだとかいうことを言いたいんじゃない。


それは誰でもいいわけじゃないし、そして最近気付いたことだけれど、私という人は基本的に「人間関係面倒くさい」と思っていて、だから人と関わらずに済むのならそれで済ませたいとか、自分から働きかけなければ面倒なことに自分を巻き込まずに済むと思えば家でじっとして1人で好きなことをしている方が楽だと本気で思っている。


そんな中、唯一たとえ面倒と感じる場面があったり傷が生じそうな一番避けたいことがあったりしたとしても、それでも関係を築いてみたいと唯一思うのがイケメン上司で、だから誰かといるしあわせなんじゃなくてイケメン上司と関係ができていくことでしか手に入らないしあわせがあるならそれは自分でもそこに入っていきたいんだなと思った。


わかる、わかる、このイケメン上司の意向や意志を完全に無視した自分の勝手な言い分なのは。


だけど自分はそういう気持ちなんだということを今回改めて知った。


しあわせになっていい。


その言葉の先に考えたり思案したりせずにパッと思い浮かぶのはイケメン上司なんだということ。


現実が全く交わらなくて、全然接点もなくて、生きていても繋がれなくて、本当にその現実を見ていたら私の頭の中のおかしさは最高潮に達しているけれども、本当にパッと思い浮かぶのはイケメン上司でそれ以外に思い付いたり思い描いたりするものが何もない。


モヤモヤはしてないとは言わないけれど、それよりも本当に叶ってくれないかなと願っている。







2023/09/26


とりあえずここまでで一度アップしようと決めてる。


まだまだ書こうと思えば書けるけれども、そんなことやり出したらまたアップせずにズルズルいきそうだからアップしてしまう。


タイトルは「これ!」っていうのがなくて、しかも今回は色々書いているから余計と決め手となるタイトルがなくて、そうだ!と思い出したのが「9月が終わりそう」と思ったことそのままタイトルにしたらいいんじゃん!となって、多分この後本当に「9月が終わりそう」と書いてアップするんだと思う。


6年後の私は、イケメン上司の勤務最終日の前日の夜に、ブログのタイトルに心を悩ませる余裕が生まれたんだと知る。