2021年9月10日金曜日

ノートの楽しみ

2019/09/08  17:36
4年前の夏にいた場所の対岸側

2019/09/08  17:50


2019/09/08  17:52



2021/09/07

4年後の午前中は、あくびが止まらなくて、眠気との戦いに忙しかった。

平和度を測るなら、間違いなく4年後の今日の方が平和になる。


他にどんなやりとりをしたのか今となっては思い出せないけれども、事務さんが4年前の今日、私にとても真面目な顔をしてイケメン上司の異動を告げた瞬間は忘れられない。


色々聞きたいことはたくさんあったけれども、私が唯一質問したのは「いつから異動するんですか?」だけだった。


異動先の所在地も聞きたかったけれども、それは聞くのが変かもと思ったのか、あまりに衝撃が強すぎて頭が回らなかったのか、何も聞けなかった。


「一応来月からだけど、今月の終わりには引っ越すと思う」みたいなことを教えてもらった。


色々気になったはずだけど、ショックと悲しみとその他諸々の感情でごった返していて、それ以上会話を続けられるような心の余裕もなかった。


その時どういうわけか、事務所内には事務さんと私しかいなくて、そのうちみんなが戻ってきたような気がするけれど、その時だけは宣告のように重たい生真面目な感じで説明を受けた。


ほどなくしてイケメン上司も部屋に戻ってきたけれども、嘘みたいだった。


今目の前にいる人が、同じ空間にいる人がいなくなるってどういうことなのか理解できなかった。


今はイケメン上司がいないことの方が長くなってそれが普通になったけれども、当時は今目の前に存在しているイケメン上司がいなくなる世界なんて全くもって想像できなかった。





2021/09/08 


4年後の9月はとっても平和になっている。


今日は頭をあまり使わなくていい英訳が仕事ということもあって、仕事そっちのけでいつも以上に回想に励んだ。


10時少し前になった時、このくらいの時間にイケメン上司を探しに行って、見事1人でいたところに突撃のように行って、時間が欲しいと言いに行ったんだったななんて思い返していた。


今平和で落ち着いている自分を見て、そりゃ色々ないわ!!!、と思う。


超ツッコミどころ満載だったし、不意打ちの突撃をくらったイケメン上司がそれでも無視せずに最低限の返事だけ口頭で返してくれたのは、今思えば最大限の配慮だったんじゃないかなと思う。


私は意のままに動いていたけれども、あんなの本当にはちゃめちゃだし、ある種の緊急事態だし、相当やりにくい相手が私だったんだろうと思う。


もし誰かが当時の私と同じことを仕事中にしてきたのなら、私なんかはどう対応するんだろ?と思う。


それはそうと、おかしすぎる、はちゃめちゃすぎる私が突然やってきて、イケメン上司はどんな面持ちでいたんだろう。


あの時の私の感想としては、「そうだよね、私と時間が欲しいわけないか」とか、妙に納得というか、ダメ元で聞いてたことも手伝って、イケメン上司の返事は至極まっとうに思えた。


残念な気持ちももちろんあったけれど、なんだろう、仕方ないとか、私に興味あるわけないかとか、どう言っていいかわからないけれど、本当にイケメン上司の答えに対して「わかった」と思った。


そうだ。


最初、事務さんから異動すると聞いたと切り出した時、「だから何?」とはイケメン上司は言ってないけれども、空気は「だから何?(おまえに関係ないだろ)」的なものを感じて、本当はその時点でもずいぶんと心がポキっとなっていたんだった。


本当に嫌われてるというか嫌がられているというか、とにかくどこをどう切り取っても良い部分を探すのは無理に等しかった。


あの時のことや他の超嫌がられてる的なシーンを思い出すと、今なんかどうやっても考えられなかった。


「イヤ」以外の感情は、俺とあなたの間にはないですから!、と言わんばかりの状態だったわけで、だからブログを再開した頃も「見るわけない」と思っていたし、見て欲しい届いて欲しいと祈ったけれど、本当にそんな夢のような現実が私の身に起こるとは全く想像していなかった。







2021/09/09 昼休み


4年前の今日はとてつもなく長い手紙の下書きをしていた。


下書きは今も私の手元にあって、それを朝起きてすぐに出してきて見た。


その下書き用の手紙は普段、A4サイズが入るユニクロでセールになっていた布製のポーチみたいなのに入れている。


その中にはイケメン上司の様子や実際にあったやりとりだけを書いたノートも入っている。


10分くらいしか時間がなかったから、手紙はやめてそのノートの方を開いた。


書く内容なんかそんなにはないから、実際には数ページ分しか使ってないものだけど、そのノートがとてつもなく良かった。


読んでいてとても面白いし、当時の情景がすぐに出てくる。


今朝読んだものの1つに、イケメン上司の椅子の座り方がイラスト付きで記録されたものがあった。


言葉も絵も、ガッツリと目を通さなくてもすぐにその瞬間がパッと出てきた。


年を重ねると大切なことしか記憶に残っていかないとはよく言われるけれども、本当にその典型的な例だった。


やる気のない仕事のことは、平気で1時間後でも忘れたりするくせして(今日もそれでウッカリ忘れてたと気付いて慌てて対応したものがある)、イケメン上司のことはどこまでも鮮明に詳細に記憶に残っている。


実はそのノートにはまだまだ書こうと思って、書く予定のものを箇条書きにしたメモが一緒にそのポーチの中に入っている。


今朝読んで本当に面白くてとっても良かったから、今さらだけどその箇条書きにしたものたちもノートの方にエピソードをこれから書きたいなと思った。


4年ごときでこんなに面白いなら、80歳くらいになった時はもっと面白いだろうと思う。

(80歳って何年後だろう?と数えたら38年後で、それはすなわちイケメン上司に出逢った時の私の年齢で、それと同じくらいの年数を重ねてばあさんになった時、こんなに楽しい読み物に触れたら、めちゃくちゃ充実した老婆の1日を送れそう!)


だから未来の楽しみのために今からしたためるのもありだし、それはそれでとっても有意義な時間を過ごせる。


しんみりしたり寂しいと感じたり、色んな感情が湧き出てくることさえも、とっておきの楽しみだなと思っている。


しんみりとか寂しいとかって、意図的に発動させることはできない。


あくまでも自然自発的にしか湧き出ない。


だから、当時を細かく思い出して記録する時、はたまたそれをいつかの未来に読む時、そういう時に湧き出るものは自然の流れに従ったもので、それってものすごく貴重なものだと今は余計とわかる。


ノートの中にしか形としてはもう残ることのできないものでも、そうやって無形のものを有形にさせて自分のために残すのはいいなぁと思う。


粋な時間の使い方だとも思っている。


もうどんなにあがいても当時には戻れないしイケメン上司にも会えない。


でもそのノートの中ではこれから先未来永劫ずっと自分は好きにその中のエピソードたちに会いに行くことができる。







残業が終わって、意気揚々と帰りの車を走らせた。


朝のノートの顛末を思い出しながら、なんでこんなにもそのノートが楽しいものなのかに思い至った。


わかったこと。


それは、私がイケメン上司の最愛の人とか彼女とか奥さんとか、そういうものを最初から一度も目指してないからだと、1人で手をポンと打ちたくなるくらいに激しく納得した。


その中でも一番ありえない「最愛の人」をとりあえず例にとってみてみよう。


イケメン上司がイケメンでなければまた少しは違ったかもしれないけれど、イケメン上司は本当にイケメンすぎて、そもそも私はただの一度も自分が相手にされるとか、気にかけてもらえるとか、そんなこと本当に考えたこともなかった。


どの人も相手を選ぶ権利と自由がある。


いつかのどこかの記事にも書いた記憶があるけれど、例えばこの世でイケメン上司と私しかいないという究極の状態になっても、私は自分が選ばれるとかせめて互いに手と手を取り合って協力して生きていこう、みたいなことさえも起こらないんじゃないかと思うくらいに、それくらい自分が何かしらの存在として選ばれるとは思っていない。


私の中で、こうしてブログを見つけてもらえることも全く起きそうにもない現実としてしか捉えられなかったけれども、それ以上にイケメン上司の大切な誰かとか最愛の人になれるなんて、そもそも想像したことさえない。


それなら本当に冗談抜きで、書いて発信したのならブログを見つけてもらえて読んでもらえる、その限りなくゼロに近い現実の方が起こるのかもしれない、と信じられたくらい、それだって宝くじで一等を当てるくらいの確率よりさらに低い確率でしか起こらないと思っていたわけで、それ以上にイケメン上司の何かになれるなんて全く思っていない。


「そうなりたい」と願うのと、なれるのかもと想像するのとは全く違う。


私は願望的なものは持っても、なれるとは本当にただの一度も思わずにここまできたんだなと今さらだけれど気付いた。


でもだからこそ、何にもある意味こだわっていなかったから、当時のことをとても情感豊かに振り返られるのかもしれないなと思う。


私は自分のこの一貫性のない、何に向かっているのかも何をしているのかもよくわからない人生に対して、後悔はないしそこそこ自分でもがんばっているなぁなんて思ったりもする。


でもそれはあくまでも私個人が自分自身を見て思うことであって、じゃあイケメン上司から見た時の私に何があるのか、メリット的なことを想像すると、何かあるのかしらね?と自虐ではなく本当にそれは思う。


人間関係の基本をギブアンドテイクだとするなら、私は何をギブできるんだろうと思う。


テイクはどこまでもリストを挙げられるけれど、ギブはいずこへ状態になる。


星読みとかある程度実用性のあるもの、望まれたのならいつでも提供する気満々だけど、そういうのって提供したいからできますというのとは違う。


存在そのものを必要とされたいという願望だけは天高くあるけれども、じゃあおまえさんは何ができるんだね?と聞かれたのなら言葉に窮する。


そんなこんなだから、最初から自分が相手にされるとか必要とされるとかはたまた愛を差し出してもらえる相手になれるとか、そんなことは一切思ってこなかったわけで、だから今こんなに時間が経っても純粋に当時のことを気持ちの流れのままに振り返っていられるのかもしれない。







しばらくはオンタイムにアップすることを第一にしたいから、起承転結もないしだから何が言いたい?みたいな内容になったけれども、それもいつものことと言えばいつものことだから気にせずにアップしようと思う。


せっかくだから、当時の職場近くの写真でもないかと探したのなら、2年前の9月8日に当時の職場近くを通って撮った夕焼けの写真が出てきた。


で、よくよく考えたら、当時の写真がないのはイケメン上司がいなくなったちょうど1年後に携帯画面がバキバキに割れて交換せざるを得なくなって、だから無いんだと納得したけれども、どういうわけかその数ヶ月前に社内で撮った写真が2枚だけ出てきて、私には何を撮ったのかすぐにわかったけれども、他の人たちが見てもそれが社内どころか何なのかわからないだろうから、このままアップしてもいいかなと思った。


フィギュアだけの方の写真は過去にもアップしたかもわからない。


記憶がかなり曖昧だけど、とりあえず当時の空気とは関係ないにしても社内で撮ったことには間違いないから、そのまま載せてしまおうと思う。



2021年9月7日火曜日

接する人(2021年9月)

2021/09/07の空




2021/09/06

日々カレンダーを見て回想に励んでいる。


今日は記憶違いでなければ、仕事の伝言をしたらガン無視された日になる。


言葉ではなく態度で拒絶の姿勢を示されて、私の心はズタズタになった。


そんなにも私って嫌がられてしまうんだと撃沈した。


あれって本当は何の意思表示だったんだろう?と今になって思う。


もし2021年の秋の今現在、ブログがそもそも存在してないとか、はたまた存在していてもイケメン上司が見ている風では全くないとか、そんな風なら、あれは「拒否拒絶」で正解だったと思う。


本当に嫌な相手なら、今あるブログが接点のようになる現実はどうやったって存在できない。

(昼休み)




ここからは布団の上にひっくり返って書いている。


当時のノートを確認したら、ガン無視された日は昨日5日だった。


記憶のいい加減さは相変わらずとしても、あの時のことはものすごくはっきりと覚えている。


あの時の私は、嫌がられているとか嫌われているとかそんなレベルじゃなくて、気持ち悪がられているか、存在そのものが生理的に受け付けられないか、そのくらいの嫌悪感を持たれてしまったと思った。


だから、今こうしてブログが接着剤というかバス停のごとく待ち合わせ場所や接点となるというか、そんな現実は全く想像さえしていなかった。


その直前、最後にやりとりした時と、その伝言の時とで、天国と地獄級に落差があって、最後はほほ笑むくらいの笑みを向けられて、その次はガン無視で、その中間にごはんに誘う一幕もあって、うわっ、ごめん、ごめんなさい、そんな風にしてしまうためにごはんに誘ったわけではなかったのに、結果最低最悪な方向に行ってるとわかって、心のズタズタはもちろんのこと、それとは別に申し訳なさややるせなさや、ありとあらゆる感情が噴出していた。


あの時と今とを比べて、今なんか想像もできないところにいるわけで、まさかね、こんな風に今という未来が現れるなんて、それこそ宝くじ1等一億円を当てるより難しい確率をくぐり抜けてる、と相変わらず思う。


私、実は嫌われてたわけじゃなかったんじゃないかと最近になって本当にそのように思える瞬間が出てきた。


好かれてるとは全く思わないけれど、嫌っていたわけでもないんじゃないかなと思う。


魂繋がりの繋がり度というか濃さというか、そういうのが強ければ強いほど、感覚も強烈な感じになるのが一般的だから、そういう意味で私というのは強烈なものをもたらす人なのかもしれないなとも思う。


強烈すぎて拒絶の意思みたいなのを当時は示されたのかもしれないし、意味不明すぎて受け付けられなかったのかもしれない。


その辺りは全て想像でしかないけれども、いずれにしても当時はどうやっても上手くなかったことが今は時間と物理的距離のおかげで今くらいな感じを保てているのかもしれない。


相変わらず私が一方的に書いているだけだし、連絡がもらえたわけでもないし、何もどうなってもない。


けれども、4年前の今とは違うし、1年前の今とも違う。


1年前よりも冷静に受け止められる部分が増えたのと、本当は何を感じていたのかを想像を巡らすくらいの余裕が少しだけ出てきた。


イケメン上司はあの時どんなことを感じていて、どんな風にあの時を見ていたのかなと、最近はそんなことを思う。





2021/09/07 久しぶりの晴れの朝


当時の今日というのは、イケメン上司の異動を私の教育係の事務さんから伝えられた日だった。


これまでの色んな職場で異動は見てきたし聞かされてきた。


だけど、今思い出そうとしても何も思いつかない。


なのに、イケメン上司の異動の知らせは今でもはっきりと覚えている。


たしかにイケメン上司は事務所のトップではあったけれども、他の人たちの異動の時は何も知らされず、あの職場では唯一イケメン上司の異動だけをなぜか私は知らされた。


しかもすごく真剣にキッチリと伝えられた。


まるでドラマで病名や余命を宣告されるかのような、あれくらいの深刻度で伝えられたものだった。


今になってわかるけれど、事務さんというのは何もかもを私に教えてくれたのとは違った。


さらにイケメン上司の異動については、事務さんも知り得たのがその少し前、1時間前とかそのくらいだったんだろうと思う。


派遣の私、さらにはイケメン上司は私の行っていた企業側の所属とは違う所属で、仕事の絡みはゼロ、正直にイケメン上司がいるいないは私の仕事に何ら影響がなかった。


しかも、飲み会にも私は参加しない人だったから、どうでもオンタイムに知らされる必要はなくて、送別会の案内の時でも問題なかった。


とかいうことを考えると、あのタイミングで知らされたのはこれ以上もこれ以下もない、最適最善なタイミングだったとわかる。


もし知らされたのがもっとギリギリだったのなら、イケメン上司にとんでもなく長い手紙を書いて渡すとか、さらには今こうしてブログを書いてるように4年近くも書き続けるとか、そういうことは一切なかっただろうなと思う。


あの絶妙すぎるタイミングは、あの直後から今という未来に至るまでどうしても外せない大事な通過点だった。


当時のことがどんな風にイケメン上司の中に残っているのかはわからない。


どの程度どう残っているのかはわからないけれども、少なくとも何かしらは残っている、ということだけはわかる。


そしてイケメン上司は2年半近くいたらしいけれども(もちろん本人じゃなく、イケメン上司と仲の良いSさんからの情報)、その当時から今は別の土地2つ目になってさらに新潟の記憶は日々薄れていっているのではないかと思うけれども、その薄れた記憶の中に自分もちょこんといられるというのはとても光栄なことだと感じる。


色々おかしな行動ばかりに出ていて、それでインパクトが残っただけということも否めないけれども、それでも残れているのならとても嬉しい。


色々おかしすぎたし、謝りたいことや弁解というか追加で説明したいこともあれこれあるけれども、それでも残れたのなら、イケメン上司の人生のどこかに登場できたのなら、今や今までの関係がどうであれ、すべてが奇跡だと思っている。


普通だったら今頃はもう跡形も無く何も残らない。


若干変な形態ではあるけれども、そんなのはどうでも良くて、こんな風に細く細く繋がっている(という言葉がいいかどうかはさておき)という事実は、まさかの未来だった。


今回はわりかしオンタイムにブログを書いてアップしたいと思うから、このままアップしようと思う。


最後に、今回のことで日にちを調べた時に、隣りのページに書いてあった、石井ゆかりさんの本の中に出てくる言葉を紹介して終わりにしたいと思う。





【「完全な他者」が「会話しただれか」に変わるのは、劇的な変化なのです。


世界は「自分とは直接に接することのない他者」で埋め尽くされています。

その中にわずかに、自分と接する人たちがいます。

「他者」が「接する人」に変わる瞬間、

名もない群れの中から一人だけ名前のついた、

自分にとって意味を持つ唯一無二の個性が出現することは、まさに「劇的」としか言いようがありません。】


『愛する人に。』石井ゆかり

2021年8月31日火曜日

夏の終わり2021


今年の夏の花火
家の屋根にござを敷いて
そこから20分間限定の小さな花火大会を見た
例年の四分の一に縮小されたけれども
それでも開催されて花火が見れたことがうれしい
2021/08/28
8月最後の土曜日



秋の訪れを感じる。


夏の終わりじゃなくて「秋の訪れ」。


最近残業続きで夜の7時過ぎにしか外に出れない。


駐車場に向かう道すがら、外の暗さに驚く。


町中であっても、鈴虫の鳴き声が聞こえる。


8月の終わりってこんなにも日が暮れるのが早いんだとビックリしている。


そして、イケメン上司がいた夏はそんなこと気付いてなかったなと思った。


今書いてて気付いた。


当時は定時が17時30分で、だから日暮れ前に退勤していたからそれで気付かなかったんだと思った。


季節のおかげで、イケメン上司がいた風景の背景は、基本的にどれも明るい。


室内だと多少暗くはなっても、それは夏の季節の室内の暗さで、冬の室内の暗さとは違う。


さすがに9月末でいなくなった時には夕方は夕方らしく暗くなっていたけれども、それでも全体的に明るい色合いの風景ばかりが頭をかすめる。


2日か3日前、仕事にあまりにも集中できなくて、私は2017年のカレンダーをネット上で出して、当時の曜日を確認した。


そうだ!と思いついて、2017年のカレンダー1年分を印刷して、それを机の引き出しに入れた。


また見たくなったらいつでも見れるように。


当時の時間をオンタイムで追える、それは年に一度しか巡ってこないチャンスだから、そうやってカレンダーを見て時間をそしてその時にあったことを追いたいと思った。


振り返ることに何か意味とか得があるのとは違う。


振り返っても戻れないし、その時手に入っていた日々を取り戻せるわけでもない。


なんだけど、意味とか得なんか無くても、私にはその時の感じを思い出すことそのものが特別だし、そうすることで自分の中の色んな気持ちが癒される。


だからそうやって仕事中だろうがなんだろうがそんなことをする。







シーツを洗って、寝る前に洗ったシーツや枕カバーをセットした。


その後、いつものようにペンジュラムやオルゴナイト、他の天然石、そしてイケメン上司の名刺を枕の横にセットした。


名刺を改めて手に取ってじっくりと見た。


名刺の中身云々(うんぬん)じゃなくて、名刺そのものが手渡された時と今とを繋げて見た。


名刺をもらった時に私はその名刺がその後何年にも渡って自分のお守り代わりのようになるだなんて思っていなかった。


私は数年に一度、名刺に関しては大規模断捨離を決行するタイプの人間だから、その日もらった4枚の名刺もいつかはそうなるだろうとその時はそんな風にしか思っていなかった。


3枚はどこかにまとめてしまってあるはずだけど、イケメン上司の名刺だけはある時から別にした。


百均に行って透明の名刺ケースを買ってきて、いつもその中に入れてこれ以上名刺が傷まないように気をつけている。


改めて見てみて、そんな未来を私は全く予想だにしていなかったなと思った。


名刺は過去にもらった名刺たちと同じくらいにしか思わなかったし、とにかく不安しかないと言ってもいいくらいの状態で行き始めたから、そんな場所で全身全霊で自分が生まれ変わるくらいのすごいことを体験するだなんて当時は全く思わなかったから、名刺も他の資料も辞める時は全部捨てるだろうくらいに思って、全く見向きもしていなかった。


変わった仕事ばかりをたしかにしてきたけれども、基本的に私は私情と仕事とを完全に切り離す。


人間的な私情というか人情めいたものはあっても、個人的な感情を仕事に持ち込むことなんか一度もなかった。


だから名刺が後に自分のお守り的なものになるだなんて、その時は想像どころかそんな考えさえ思いつくことはなかった。


イケメン上司さえもう持っていないだろうその名刺を私だけがまだ持ち続けている。


改めて手に取ってそのことを思うと、ものすごく不思議な気分になった。


すごい関係ないけれども、金曜日に職場の男性の1人がいつのまにか結婚していたことと、もう1人別の男性に彼女ができたことを知った。


どちらもどうでもいいことだけれど、そのことを聞いたり知ったりした時に、イケメン上司もプライベートでは出会いに恵まれて何か違う風が吹いてるのかもしれない、と大真面目に思った。


イケメン上司の勤める会社と私が今行っている派遣先の会社とは、ある意味とても似ている。


とにかく男性が圧倒的に多いし、普通に仕事と家との往復だけじゃ出会いなんてまずない。


でも普通に彼女とか奥さんとかと何かしらの流れで出会うわけで、ましてや金曜日に知った2人はモテるタイプとはちょっと違うだろうけれども、しっかり誰かと出会っている(しかもコロナ禍で)。


イケメン上司も3年も4年もしたのなら何かそういう出会いに巡り合っていてもおかしくないし、そもそも出会った時でさえもデートするみたいな、デートじゃなくてもマンツーで会う女の人がいたらしいことも後になって耳にする羽目になって(自分は知りたくなくてもそういう情報は全くありがたくないし求めてもないのに、2回ももたらされることのこの悪運なのか強運なのか、自分のこの変な運の当たり具合は呪いたくなった)、何がどうなっていてもおかしくないとこれも改めてそう思った。


そんなことを色々思うと、今私のところにあるイケメン上司の当時の名刺も、そうやって出逢わせてもらえたことも、どこか夢のような出来事だったななんて思う。


一生で一度、ひと夏限定、そして私側の魂的な能力やら資質やらの引き上げのために遣わされた使者的な立ち位置の相手がイケメン上司だったのかななんて思ったりもする。


私も何かしら引き上げる役割をしたいのは山々だけれど、むしろ自ら立候補したいぐらいだけれど、当時の記録なんかを読み返すと百害あって一利なし状態の内容がオンパレードになっている。


このブログの中に何かしら癒しなりプラスとなる要素があるのなら、どうぞどうぞじゃんじゃん使ってね!絞るだけ絞ってね!と思う、本気で、真面目に。







本当は何か書こうと頭の中にあったけれど、それが何かド忘れしたからとりあえず他のことを。


録画した番組を見た。


芸能界のイケメンにおいしい焼肉を紹介して、それをイケメンが食べるという番組。


番組名を見て気になったから録画した。(食べ歩き番組や食べ物系の番組をごはんの時にダラダラと見るのが好き)


画面の向こう側にはたしかにイケメンがいた。


そしてとても上品に高級な肉を食べていた。


女性側のエスコート役の人は、「イケメンが肉をおいしそうに食べてるのを見るのは萌える」みたいなことを言っていた。


改めて思ったけれど、私は基本的に全くイケメンに興味がない。


だから画面の向こうの女性に人気だろう俳優を見ていても全く何も感じない。


これは昔からそうだけど、本当にイケメンに興味が湧かない。


たとえばイケメンとして有名な福山雅治も斎藤工も私がカッコいい!!!となるのは、それぞれの人柄を何かしらで知って、それでカッコいいとは思っても、容姿を見てどうこう思うことは基本的にない。


斎藤工に釘付けになった初めてのシーンは、お笑い芸人の誰かの技を全力で真似した時だった。


本当にその芸人の人が大好きですごくリスペクトしていることがひしひしと伝わってきた。


あんなにカッコいいのに、全身全霊で体を張って真似している時は、イケメンではもはやなくなっていたけれども、むしろ私はその時の方が好感を持った。


前置きが長くなったけれども、「イケメン上司」と勝手に名付けて相手をイケメンと呼んでいるけれど、イケメン上司は本当にイケメンだし、今回の焼肉番組で出てきた2人のイケメンを見ても何も感じなくても、その人たちを見ていたら本当にイケメン上司というのはイケメンなんだと改めて思った。


イケメンを見ても基本何も思わない私からして、イケメン上司も最初はそういう人だった。


私は今の職場で日々100人近い男の人たちと同じフロアにいることをいいことに、変な視点で人間ウォッチに励んでいる。


歩き方とか醸し出してる空気とか、そんなのを見ている。


イケメン上司くらいの背の高さの人なんかは特にガッツリと見る。


中には社内でイケメンと評されている人たちもいる。


なんだけど、イケメン上司と同じ歩き方をする人もいなければ、今となってはもしかしたら本当に私にしか見えていなかったのかもしれない、透明でキラキラした空気なんかは誰も持ち合わせていない。


声も全くときめかない。


今の職場で誰かの声を必死で聞き取るなんてことは全くしない。


イケメン上司は、本人は自分をどう見ているのか知らないけれども、周りからすると本当にイケメンで本人のいないところでイケメンと女性陣みんなから言われていた。


外見的なスペックは本当に高くて、そして私が思うにあの空気感とか人間性とか性格も手伝って、さらにイケメン度をアップさせていると思う。


そんな感じの人ゆえに、私の最初の興味は全くと言っていいほどに意識の対象にいなかった。


無意識の領域はまた全然違っていたけれども、意識の上ではイケメン上司のイケメンスペックに私は全く反応を示していなかった。


だからイケメン上司ともし何もなければ、本当にイケメン上司は「イケメンな人だな」で終わったと思う。


本当にイケメンすぎて、私がイケメン上司と仲良くなるイメージなんか全く湧かなかったし、なんなら自らベラベラとおしゃべりするタイプではないから、そして私も人見知り発動していたから、どうやっても接点なんかなくて、本当に単なる職場の男性っていう風にしか私は見ていなかった。


もし、毎日決まった同じ仕事しかせずに当時日々過ごしていたのなら、イケメン上司と私とは永久にすれ違ったままだったと断言してもいい。


世間的なものさしだと、イケメン上司はハイスペッククラスの人になる。(こんなことズカズカと好き放題に書いて、本人マイナスな方に気にしてたら本当にごめんなさい


でも私はそういうことにほとんど興味がないし、イケメンにも興味がないから、本当にイケメン上司の人間的な部分を知るきっかけがなければ、今は全く違う現実を生きていたんだろうなと思う。


本人は自己アピールの気なんかさらさらなかったと思うけれど、本当に一瞬でイケメン上司は私の一生に残るくらいのインパクトを残した。


それは逆に言うと、イケメンだからでもないし、ハイスペック男子だからでもない。


その人がその人ゆえの理由としか言いようがない。


自然に出ているものが本当にキラリと光っていた。


存在そのものから出ているものに私は何かしらを感じ取ったんだと思う。


それって超すごいことだと私は思っている。


自分に置き換えて考えたらわかる。


だって、「あなたが武士俣史子さんだからいいんだよ」と言われてるのと一緒で、そんなこともし私が誰かに言ってもらえたのなら、私の人生は大成功だなと思う。


「生きてるだけで素晴らしい」なんて、綺麗事にしか普段は聞こえないけれども、イケメン上司を見ているといつもそういう気持ちにさせられる。


何をしていても、はたまた何もしていなくても、存在そのものがすごいってこういうことを言うんだと悟り級のところまで私は見せてもらえた。


イケメン上司は全力で否定してきそうだけど、私から見たイケメン上司はそういう人だった。







8月中にブログをアップしたいから、中途半端な感じだけど、このままアップしようと思う。


書きながらまた新たに書き残したいこともちらほらと頭をかすめた。


またのんびりと自分のペースで書き進めていく予定。


今年の夏の最後の日に、こうして書けて夏を振り返られて、とても良かった。


明日からは9月の振り返りをする予定。


色んな気持ちを味わいながら振り返るのもおつだなと思う。

2021年8月21日土曜日

ショートブログタイム




寝る前のブログタイム。

1時間くらいと時間を定めて書くから、書けたらそのままアップしようと思う。


昨日8/20金曜日の仕事中、私はあまりにもやる気が失せて(常にないけれどもその中でもさらにないワースト更新系)、ふと気になって2017年の同じ日が何曜日なのかを調べた。


日曜日と判明。


ということは、北九州にいたんだな、まだまだ超ルンルンしていた頃だったんだなと振り返った。


その時にパッと出てきたシーンは、神社でおみくじを引いて、そのおみくじに書かれていたメッセージだった。


「神に感謝したくなるような出会い」みたいなことが書かれてあった。


他にも良きことがいくつか書いてあったと思うけれど、とにかく「まさに!」なことが言葉としてあって、気持ちはさらに加速して超級の幸福感に包まれた。


その後からどんどんドツボにハマる険しい道へと入っていくわけだけれど、その時はまだ目の前にある日々のしあわせをどこまでも味わっていた。


今だから余計とわかるけれど、当時みたいに何もしてなくても「しあわせ」だと心から感じる体験など、人生でそうそうない。


それも1日限定とかじゃなくて、何ヶ月というある程度まとまった時間、毎日継続されていたわけで、あれは本当に人生のご褒美だったなと思う。







某手帳に寄せるメッセージの原稿を担当している件で、この数日強烈な体験をした。


久しぶりにメンタルが超落ちたし、受け入れ難い色んなことと何とか折り合いをつけて最後のメッセージをしたためないといけなくて、真面目に「私が今降りたいと言ったら、どうなる?」と今回も誘ってくれたノムに聞いたくらいだった。締切4日前。


そこをなんとか持ちこたえるために、かなり必死に色々やったけれど、ちょうどそのタイミングで読まれた『星の王子さまの日』の自分が書いたブログを自分も読んでみた。


誰が読んだかなんてもちろんわからない。


わからないけれども、これイケメン上司が読んでくれてたらいいな〜くらいはもちろん思ったけれども、とにかくそんなの抜きにしても自分は読んだ。


自画自賛の何物でもないかもしれないけれど、私は自分が書いた文章もといイケメン上司がいた頃の回想や存在意義なんかを書いたそれを読んで、自分の心が癒されていく感触を相当なレベルで味わった。


自分が体験したことや感じたことを書いただけのシロモノだけど、読んでいくうちに自分が癒されていった。


その中にはやさしい空気や自分が救われた体験談があった。


イケメン上司がそれを実際に読んだ時はどんな心情になったのかは想像もつかないけれど、少なくとも私が読んだら、私はその中に書かれていたものを通して尖(とが)りまくり、やさぐれまくりだった自分の心がそっと包まれるみたいな、いきり立っていたものがなりを潜めたみたいな、そんな感じの心にやさしい変化が訪れた。


もちろん、今の自分を想定して自分を癒すために書いたのとは違う。


だけれど、結果的に自分は癒された。


そして癒された内容を自分が自分の人生で経験できて知っているんだと思ったら、とても誇らしい気持ちになった。


私はその世界を知っている。


そのことだけが自分を支えるのに十分な力を発揮してくれて、なんだかなんとかなりそうとようやく数十時間越しに思えた。


改めて感じた。


イケメン上司がもたらしたもののすごさを。


本人は全くもって無意識的だったと思うけれども、本人が無意識の中で私側に与える影響は無限大だった。


存在そのものが癒しって、本当に何か神がかった領域だなとつくづく思う。


こうしてこんなにも時間が経っているのに、今もその癒しの力を発揮するってどれだけなんだろうと思う。







さっき23時過ぎまで占星術講座をネットで受けていた。


その時にふと「時間が流れたなぁ」なんて感慨深く思った瞬間があった。


そしてすぐさま、イケメン上司と今もこうして謎の接点めいたものを持てている(私側から見て持てているだけであって、イケメン上司側の解釈は違うだろうと思う)、その現実のすごさを思った。


昨日今日近くにいた人じゃない。


4年以上経過して、さらにはその間ずっと何ひとつ個人的なやりとりはない。


私が一方的にブログを書いているだけ。


それがどういうわけか接点となってくれて、でも本当なら繋がらないのが当たり前の相手だと思う。


いつか会えるとかでもない。


ない、ない、ない、全てにおいてない条件が揃いまくりなのに、なぜかブログだけは繋がるためのものとしてこの4年以上続いたし、尚且つ途切れることなく今に至っている。


それって本気の奇跡じゃん!?と思った。


近所のスーパーの夏くじさえ何一つ当たりが出なかったのに、イケメン上司とブログを仲介点として接触じみたことが起こるだなんて、スーパーの夏くじさえ当たらない私が超特大奇跡を体験している。


どこまでそんな幸運的なことがこれから先の未来にも続くかなんてわからない。


いつかは幸運もパタリと止まる可能性は十二分にある。


それでもここまで何だかんだと続いて、なんなら今年はあれから5回目の夏でもういい加減何も残らなくても不思議じゃないのに、こうして細ーく続いている。


そのことも私を大いに励ましてくれた。


色々ダメダメすぎたここ数日だったけれども、確実に私は救われている。


イケメン上司の存在に救われている。