2022年8月10日水曜日

コミュニケーションの形

8月の最初の土曜日の夕暮れ
洗濯洗剤を買うのに迷走したドラッグストアの近くから
雲が大きいところが夏空だなと思う

2022/08/10
今朝の夜明け前 4:35

太陽が顔を出してきた 5:21

ブログをアップする直前、
太陽がしっかりと昇ってきた 5:30




書きたい熱が続くから、今回もまた最近の思ったままを綴ってみよう。


とにかく1つ書き終わらないうちに次の書きたいことが浮上してきて、浮上するとまたそれにくっつく形で色々思い出したり見聞きしたりする。


今回もそんな風だから、また書いてみよう。







「コミュニケーションの形」


突然、雷に打たれたようにハッと気付いてそして言葉と言葉が自分の中で繋がってきた。


なんとなく感じていたことが言葉にできそう、そういう感じが少し前から出てきた。


これまでは知覚できなかったけれど、どういうわけか知覚できて、今なら言葉に書けそうだと思う。


イケメン上司というのは本当に不可解な、私にはどうしても何をどう思っているとかこんな風に考えているとかいうことが相変わらずわからない。


それは言葉としてのリアクションや回答がないからで、それを私が求め続けている限り何も見えてこないのは当たり前で、これまではそこだけに私はやたらとこだわっていた。


でもそうじゃないかもと、突然のように何か気付いて、言うなれば別の側面が初めて見えたみたいな感じ。


これまでも一度だけなんとなく言葉にして書いた気がするけれど、今ほどの実感があったわけじゃない。


だけど一度気付いたらこれまで見えなかったものが見えるように今は感じている。


子どもとかくれんぼすると、子どもは隠れているつもりでもおしりが見えてるとか体のどこかが見えてるとか、はたまたカーテンの中に息を潜めて隠れていてもカーテンがぽこっと盛り上がってカーテンの向こう側からはそこにいるのがはっきりと見えてるとか。


その子どもとのかくれんぼでこれまでは自分が子ども側で子ども側の景色しか見えなかったのが、反対の探す側の方の景色が見えてきた、そんな感じに似ている。


これまでもイケメン上司がブログを見てくれてるだろうことは相当数書いてきた。


それについては本当にたくさんの数を書いた。


イケメン上司が、私に気付かれているのなら連絡しようという気になってくれたらいいなという下心ももちろんあるし(全く叶わないけれども)、私側が言いまくることで連絡することのハードルが下がってくれたらいいとか、まぁ実に自分の都合の良いことをあれこれ考えたしもはやそれは自分の中の日常と化してそんなことはしょっちゅう考えている。


常に自分側しか見えないから自分の希望やら意識やらがどうしても全面に出てくるけれど、この間憑き物が取れたように今まで見えなかったものがはたと見えた。


その時にパッとメモしたのがこちら


>黙って何も言わないけれど、「見てるよ」アピール?行動の可視化


>こうして書いたらもう見なくなるんじゃないかと思ったけれど見続けてくれている


このメモたちのことをもう少し説明。


とにかくイケメン上司は何にも言わないし何ひとつ言葉にして伝えるということはしない。


本当に何も言わないけれど、でもブログは見てくれてる。


このブログもだしイケメン上司がずっと見続けてくれてることもだけれど、時の流れとか長さとかがとにかく麻痺する。


つい2、3日前に友人ノムと電話で話した時に、ノムの絵を気に入って買ってくれた外国人の人がいて、当時本当に数分だけ私が電話越しに通訳にもならない英語での会話をしたことがあって、今回その外国人の人からまた別件で連絡が来たという話をしていた時に、「もうあの時から3年だねー!3年も経つんだー」とノムが言って、私も首を縦にぶんぶんと激しく振るくらいに同意した。


そう、それは確実に時間の流れと3年なら3年の重みを感じるけれど、こういう感覚がイケメン上司との間に流れている時間には全く感じることがない。


そういう時間の流れと重みみたいなのがすっぽりと抜ける。


なんだけれど、何かしらを積み重ねたと思うものについては、きちんと時の重みを、刻まれた分だけ感じることができる。


「もう5年も経つんだー」という気持ちにはならないけれど、「5年分何かしらは積み重ねられたんだ」という気持ちはある。


この微妙なニュアンスの差は私特有のものかもしれないけれど、本当に言葉にするとそんな感じ。


【黙って何も言わないけれど、「見てるよ」】とイケメン上司はアピールはしてないかもしれないけれど、見てることは私に伝わるようになった。


最初に見てるかもと思ったのは、今みたいなブログの統計データという揺るぎないものによるんじゃなくて、私個人の体感覚とペンジュラムが見てることにYESを出したことだった。


これは5年前の秋にブログを再開してわりかしすぐに出てきた感覚だった。


体感覚というのは、これは今でも本当にそうなのかどうかはわからないけれども、とにかくブログをアップしてしばらくすると体の一部が痛くなったり独特の感覚が確実に自分側ではないところからやってくる感じとか、そういうザ・オカルト体質的なものなのかは知らないけれども、とにかくそういうことが続いた。


ちなみに痛みはいつも心臓とかみぞおちの辺りで、それはイケメン上司の心の傷みみたいなのが飛んでくるのかなと思っていた。


これこそ頭のおかしい人みたいだけれど、いかんせん私側はどこも不調がないのにブログをアップして数時間以内にやってくるもので、それで何か自分とは違うところから来るというのはその時にしかないからそんな風に感じていた。


それが最初で、途中からはブログの統計データのページの存在に気付いて、そこからは体感覚よりも見えるデータを見てのデジタル的な情報に頼れるようになったけれど、体の痛みは今も時々ある。


何の話してたんだっけ?と思って、またまた話が飛び過ぎているけれど、本題の方に戻ると、黙って何も言わなくてもイケメン上司の行為は私にも届いている。


デジタルデータであっても、とにかくそれを信じるだけのデータ量が蓄積されて、今は疑うことなく「見てくれてる」とわかるようになった。


ちなみにどこにも「ブログアップしました」とかいう情報を拡散してないから、本当に今は誰も見てないに等しいくらいにひっそりとしたブログになっているから、だからこそどの記事が読まれたとかまでかなり明確にわかる状態になっている。


有名なブロガーの人が1日何万人とアクセスがあるなんていうことを何かの分析と共に言っているのを読んだことがあって、もし私がその手のブロガーならイケメン上司の行為は知れなかったけれども、何せゼロの日もあるくらいに私のブログはひっそりこっそりとしているから、ものすごく良く言えば隠れ家チックで、だからこそ小さな統計で十分に伝わるところまで今までやってこれた。


そして、そのイケメン上司の意図はわからないけれどもとにかくブログにアクセスしてくれる行動そのものは、私に1つ「見ている」アピール?行動?を示すというか、私も疑わずに見てくれてるんだと知れて安心するみたいな、なかなかに良い流れになってくれている。


言葉を100個並べても伝えることができないことも世の中にはたくさんある。


そして言葉などなくても、無言なのにものすごく強く伝わるものもあると知った。


そう、無言なのに伝わる。


その凄さに私もようやく気付いた。


コミュニケーションと言うと、とりあえず2人以上の人が「言葉」を交わすことで成り立つと思いがちだけれど、言葉が一切無くてもそれ以外の方法で何かしら強いものが伝わることもある。


それがこのブログの先にあるイケメン上司の行動で、ようやく私もそれを本当に知れる、受け取れるところにまでやってこれた。


コミュニケーションの形は1つじゃない。


言葉を使わずに伝えることもできるんだと知った。


イケメン上司側はそんな意図ではないかもしれないけれど、とにかく「これも1つのコミュニケーションの形」だと今の私は思えるようになった。


そんなこんなを思っていた時に、自分が過去に関わった子どものことを思い出した。


Jとしよう。


Jは注意されたりしてヘソを曲げると、基本無言になって、さらにタチが悪いことに頭を壁にぶつけたりとかして自傷的なことをする子だった。


ちなみに頭を壁にぶつけたりはするけれど、それが本気でそうしているというよりも、私の気を引いたり、こちらとしても放ってどこかに行くわけにはいかないから私を繋ぎ止めるための行為という感じでもあった。


だから何十回とするわけじゃなくて、やっても数回、そして私が危険を察してとりあえずそこに居残るとわかるとそれはしなくなる。


代わりにダンマリになってずっと沈黙を続ける。


それはたんすと壁の間だったり、2段ベッドのベッドの下と床の間の小さなスペースだったり、そういうところに自分自ら入って沈黙を保つということをする。


それを1時間とか2時間とかやって、とにかく機嫌が直って話ができるところまで待つということを何回かした。


Jもその辺りの計算高さはあって、絶対に私が勤務から外れた時間にやっていた。


勤務中だとそんなことをしているJに付き合えないから(他の子どもたちも見ないといけないからJとだけ1時間も2時間もマンツーマンではいられない)、それをされるのはいつも勤務外だったなと今頃だけれど思い出した。


Jとイケメン上司は全然違うけれども、とにかく沈黙を保って存在アピールするところは少し似ている感じがある。


Jがダンマリになっている時、音声はなくて、最初の数分は私も話しかけるけれども、途中から無駄だとわかると私もダンマリになって、機嫌が悪くなるとかそういうことはなかったけれど(面倒くさいとは思ったとは思う)、とにかく時が過ぎて気持ちのスイッチが切り替わるのを待つしかない。


で、狭い和室の中でひたすら黙ってお互いに1メートルくらい離れたところにそれぞれいるわけだけれど、黙っていてもお互いにお互いがいることはわかるし、気配はどうやっても感じる。


むしろ普段ベラベラと話してる時よりもダンマリ合戦の時の方がお互いに「いる」とわかる感じさえする。


Jとは対面で同じ空間にいるからそのいる感覚はもちろんあって当然のものだけれど、イケメン上司と私のこのブログという1つの小さな世界で流れているものもそれに少し近い感じがする。


少なくともイケメン上司からすると私が書いてることだけははっきりとわかっているわけだし、私の方も直近でアップしたのを見てくれているのはイケメン上司だけとは限らなくても過去にさかのぼっての相当マニアックな記事たちは確実にイケメン上司しか見ないだろうと思う。


このブログに来さえすれば、私もイケメン上司が見てくれたのかどうかわかるし、イケメン上司も私がどこかのタイミングでアップしていたことがわかる。


イケメン上司側は言葉は何にもないけれど、「いる」と互いの存在がわかる。


そう、言葉がなくてもそれ以上のものが伝わる。


そういうコミュニケーションがこの世にあるんだと知る。


それはとっても特殊な形かもしれないけれど、それだって1つの立派なコミュニケーションだと私は思っている。


そして、その特殊な形のコミュニケーションに私は自分が癒されている。







土曜日の休日出勤の後、大型書店に立ち寄ってから帰った。


気になる本があって、その本の中身を見てみたかったけれども、マニアックなだけあって本は置かれていなかった。


疲れたからさっさと帰ろうと思って、数日前の夜に母を助手席に乗せて長岡花火フェニックスを見た時と同じ橋を渡っている時だった。


「あーーー\((_))/」


突然気付いた。


Jの名前。


Jとイケメン上司とは1文字違いだということ。


JがA◯◯だとすると、イケメン上司はB◯◯になる。


漢字も違うしお互いの印象も違うから全然気付かなかったけれども、2人とも1文字違いの名前なのは間違いない。


なんならJも「カッコいい!キャー!」と学校の女の子たちからは言われていたようだった。


どうでもいいことだけれど、小学生のくせに1学年上の美少女から熱烈なアタックを受けて小さなプレゼントやら手紙やらももらっていて、相手の女の子が勘違いしないようにどういう態度や言動が良いかと、けっこう真面目にJと話したこともある。


仲良くするのは構わないけれども、流れに任せて体の関係などを持ってしまうみたいなことになっては大変だから、どう話したのかは覚えてないけれども、とにかく好きでもないのに相手を勘違いさせるのは良くないことに軸を置いて話した記憶はある。


Jは私が個別の担当者となった子で(だからJの学校の面談とかにも行けば買物に出たりと、そういう個別の対応が必要なところは私が動く)、そういう特別に関係性が強い子と、それから10年くらいした時に職場で出逢う上司の名前とが一字違いだなんて、すっごく嬉しいシンクロだった。


Jのそのダンマリ合戦も他の人の時にしたのかどうかはわからない。


多分他の人の時は1時間2時間も付き合ってなどもらえないからしなかったかもしれない。


いずれにしても、そんなことするのはJだけで、もし私がJの担当でなければダンマリ合戦を体験しなかったようにも思う。


そしてまさかのJとのダンマリ合戦の時のお互いに「いる」とわかる感覚と、このブログを通じてイケメン上司とのバーチャルダンマリ合戦の時の「いる」とわかる感覚とがどこか似通っているだなんて、20代の私には当然想像もできなかった。


そんなことを思いながらようやく解放された休日勤務を終えてホッとしたところ、ふと反対車線の車のナンバーが目に入った。


何台もすれ違ったのに、本当に突然その黒い車のナンバープレートが目に飛び込んできて、そのナンバーがイケメン上司の誕生日と同じ数字で驚いた。


一瞬過ぎたにも関わらず、吸い寄せられるようにそのナンバープレートだけが見えた。


何か感じ取る力でも芽生えたのかと思うくらい、エスパー史子になった気分だった。


Jとイケメン上司の名前のシンクロ具合に気付いた10分後くらいの話で、なんだかすっごく嬉しくなってしまった。







家に帰ると、母がちょうど外に出ていて、これからドラッグストアに買い物に行くと言うからそのまま車を出して2人でドラッグストアに行った。


お目当ての1つに洗濯洗剤があった。


母にどれが良いかを聞かれて、決して大きくないドラッグストアの洗濯洗剤のコーナーで大混乱に陥った。


一人暮らしだった数年前と今とでは比べ物にならないくらい洗濯洗剤の種類が格段に増えていて(家の日用品関係は母が大体買ってくる)、私には何が良くてとかどれがお買得かもわからないくらいたくさんの種類があった。


そして某メーカーの洗剤3種類が特売のようになっていて横に1列に並んでいた。


母にどれが良いかを聞かれたもののその3種類が何がどう違うのかパッケージを見てもわからなかった。


どれも部屋干し用で抗菌?除菌?もバッチリで、「で?」と私は真面目になったくらいに、本当に最後まで差がわからなかった。


謳い文句も本当に同じで、何を比べると違いがわかるのか本気でわからなくて、そしてあまりの種類の多さにもはや全てがどうでも良くなり、最終的に一番お得用なものを買うことに落ち着いた。


それを見て、ドミニカ共和国から2年ぶりに日本に戻って、新宿駅の西口?小田急とか京王線とかがある方の出口から出て、ビル街に向かって歩こうとした時にビルというビルの建物の角に縦一列に並ぶ電飾掲示板や店の看板を見てクラクラした時のことを思い出した。


過去には新宿駅を毎日経由していた3ヶ月の期間とか、それまでだってたくさん東京の大きな駅や駅近のビル街を行き来したことがあるから慣れた風景のはずなのに、何かすごい情報の渦で圧倒されてしまった。


ドミニカにいた時は首都に住んでいて、そこだってそこそこな都会なわけで広告や電飾掲示板だってあったけれども、あの新宿駅の周りのようなごちゃごちゃした感じはない。


今からだと13年も前になるけれど、その時に私は「こんなに情報、いらない」と大真面目に思った。


自分が処理できる情報量を圧倒的に上回る情報を与えられたところで、それを上手く処理したり分類したりする余力が私の中にない。


当時はまだ全くオカルト体質にはなっていなくて、今よりも見えない情報をキャッチする力は弱かったと思うけれど、それでもあまりの情報量にうっとなった。


洗剤もよくわからないまま終わったし、新宿のあの無限に広がる看板たちもどれ1つとして印象に残らなかったななんて思った時、1つだけ突然ものすごくはっきりと輪郭を持って私の中に浮かんだ。


イケメン上司がブログを見た見ないというのは、とてもシンプルでわかりやすいことだということ。


いつの時も二択で、見たら見たとわかるし、見ない時は見ないで終わり。


その潔いくらいにわかる形が私にはちょうど良い感じなんだと思った。


もちろん、色々と意味不明なことはある。


知りたいことをいくつか挙げると、何でイケメン上司はこのブログを見るのか、見ている時にどんな気持ちになるのか、過去のことをほじくり返して私が綴っているものをどういう気持ちで読むのか、言い出したらキリがないくらいに色々知りたいことはある。


そして知りたい=今現在知ることができない、という意味で超絶謎めいている。


その辺りの迷宮具合は、ドラッグストアの洗剤コーナーよりも、新宿駅近くのごちゃごちゃした感じよりもさらに上回っているけれども、それでも物事はとてもシンプルで、ブログを見たか見ないか、その2つのどちらかであることに私の方もそこは迷走せずに済んでいる。


本当に面白いブログでもなければ、ツラツラと書かれていて「だから何!?」みたいな内容だし、読んでもらうことさえ多少申し訳ない気持ちも湧くくらいで、そんなブログに時間を割いてもらえるのはとてもありがたくとてもうれしい。


シンプル・イズ・ザ・ベスト

って本当にこういう時こそすごい強いなと思う。


よくわからないことだらけでも、一貫とした行為を見せてもらえることがどれだけ力となってくれるだろうと思う。


イケメン上司は小説を読んだりもするらしいけれど(もちろん本人から教えてもらったわけじゃなく、イケメン上司と仲良しのSさんから何年も前に教えてもらった)、果たして何かを読む習慣のある人からしてこのブログなどどのような印象として映るのか想像さえできない。


ただ1つだけ言えることは、嫌ではないんだろうなということ。


好かれているとか肯定されているとかいう風に問いかけると答えもかなり怪しい感じになってくるけれど、嫌ではないとか否定されていないという風に問いかけると、多分嫌じゃないんだろうし否定もされてないと思う。


このブログを舞台にしたダンマリ合戦は、少なくとも私が嫌がられてるとか嫌われてるとか迷惑を生み出す人だとか、そういうことをずっとずっと思っていたことに対して、実はそうじゃないんだよ、と教えてもらえるものに発展しつつある。


真面目に本当に嫌なら、このブログは見ないって断言してもいい。


転勤直後なら好奇心とかで見ることも可能性としては十分に考えられたけれど、5年もするとさすがに好奇心とか興味関心だけで見るというのはないように思う。


イケメン上司の普段の生活には私はもう全く関与できないし、イケメン上司の目が届く景色の中に存在することさえできない。


5年前に流行っていた歌だとか食べ物だとかトレンドだとか、そんなのはもう何があったかさえも私も含めて多くの人は覚えていない。


それくらい、時間というものが経った。


どうやってもイケメン上司の日常にはいられない私が、このブログが唯一接点となってなんとなく交わえる、意思疎通は図れなくても接点・交点だけは手にできる。


それは5年という時間を経たからこそより一層色濃くなって私にもわかるようになった。


だからこそ変わらずにブログを見てくれているというのは、どんな理由にせよとっても稀有で特別なことだと今はますます思うようになった。


こんなコミュニケーションの形もありだと思う。


とっても不思議だし言葉もないけれども、そのコミュニケーションによって私は救われているし力をもらえている。


シンプル・イズ・ザ・ベストなこのコミュニケーションは、イケメン上司の心の中とかは解き明かしてくれないけれども、少なくとも私側の心の中にはあたたかいものを運んでくれるから、それでOK!なんて今の私は思っている。

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