2022年3月3日木曜日

平日の朝の屋外露天風呂


今回泊まった金沢のホテル
ものすごく良かった!
看板通り、こんな高層ビル街なのに
天然温泉がある!


部屋の窓から撮影した街並み

朝食は、過去最高に良かった! 
たとえば、天ぷらはその場で揚げてた。
海老天は普通かもだけど、
なんと牡蠣天まであった!
右の味噌汁の中には蟹も入ってる。
茶碗蒸しの隣りは「あかもく」と呼ばれる
めかぶともずくのあいのこみたいな海藻。
地産地消をすごく心掛けているようで、
他のものも1つ1つ丁寧に作られている。
もう少しおなかに余裕があれば、
目の前で作られたオムレツも食べたかった。

ヨーグルトも納豆も納豆についているタレも
石川県では有名どころの
きちんとした食材で知られるところのものらしい
スイーツも、わらび餅や生麩を使った饅頭とか
超こだわり食材が多かった。

左は加賀棒茶。
右のカフェラテは、2杯目じゃなくて
上の写真のカフェラテ。
食べ物の美味しい食べ方を知っている妹から
教えてもらって、
きちんと淹れられたコーヒーに
朝食バイキングの中の牛乳を足して
カフェラテにした。
(食べ物の解説になると長くなる傾向…( ̄∀ ̄;))




様々な流れに運ばれて、平日の朝、金沢の1番の繁華街の中にあるホテルの最上階にある露天風呂に浸かった。


私以外は誰もいなくて、露天風呂を独り占めできた。


朝早いからはっきりとした天気はまだわからなかったけれど、少なくとも晴れか曇りということはわかった。


本当に贅沢をしているなと感じた。


お金的な意味の贅沢というよりも、「人生の贅沢」だと思った。







いくつもメンタル的にしんどいことが立て続いている。


自分でもよくわかったけれど、ここ最近のしんどさは、人間関係云々というよりもそれに対する自分の反応や反応に伴って鮮明に浮かび上がる過去の傷や痛みがバンバン出てくる。


どれもこれも実に仕方ないことというか、相手を責めまくったり、恨んだり、はたまた自分にも何かあるのかもと思ったところで、何の解決にもなってくれない。


深く眠っていた傷がムクリと起き上がったものもあれば、仕事の面は1ヶ月近くモヤモヤしていたけれど、ようやくそれも明けてくれたというか、自分の気持ちをとにかく自分1人の時に吐いて、ケアして、時々はごまかして、時々は限界値まで感じるように努めて、そんな風にして過ごした。


私の考えすぎかもしれないけれど、みんなそれぞれの個人が傷や痛み、苦しみ、むなしさなんかを感じる瞬間があって、それの上手いこと処理できない己の弱さみたいなものを、ある時に何かしらがトリガーになって、その弱さを隠すように怒りとか攻撃とかいう形で私のところに飛んでくる。


これって本当に私が悪いんだろうか?と思うことが色々ありすぎて、本当に今頃だけれど、その手の立ち位置みたいなものを子どもの頃から実にたくさんやってきていたんだなと知る。


私が嫌いだとか何かしら攻撃したことの仕返しだとかではなく、本当に「何で私??」となることが人も状況も変わりながら起こっていることを目の当たりにして、ようやくこの42歳も終わるという頃にわかってきた。


全てにおいて私じゃない。


体験していたりそこに巻き込まれたりしているのは私でも、私にそもそも非があるのかと言えばそうじゃない。


ものすごく納得のいかない言い方だけど、当たられやすい人というのがいるとするなら私はあるところにおいてそうなりやすいのだろうし、自分で意図してるわけでもないのにそんな感じになって今なんだと思う。


良くも悪くも私は仕返しもしないし、よほどでなければ言い返したりもしない(最近はあまりに理不尽で私側に言い返すエネルギーがある時は、言い返すというかこちらの弁・言い分を立てるけれど)。


色々すったもんだしながら、今の私が考える最大のベストな解決策としては、そうした心の傷がムクリと起き上がるタイプのことに直面したら、ひたすら自分で自分をケアすることと、そういう状況に陥ったとしても(基本不意打ちだから、いきなりその状況を体験する)自分の存在価値を自分だけは最後まで守りきる、自分の味方を通すこと。


例えば、現在進行形的な職場の人については、相手を変えるのは無理だから、自分側の精神状態を健やかにすることと、こちらは最大の嫌がらせとして、私がきちんとすればするほど相手側の立ち位置も気持ちも超やりづらくなるから、私は最後の最後まで筋を通し続けるのと、それに賛同・協力してくれる人たちとチームを組んで企業にとっての最善を尽くしてそれを突き付けるしかないなと思っている。


意味がわからないと思うけれど、周りがきちんと仕事をすることで困る人もいるということを初めて知った。


だから私は、訳のわからない、筋の全く通らない意味不明な屈辱的な言葉を聞くことになるのだけれど、そんな低レベルな人の相手をするのはこちらも自分が擦り減るだけだから、そんな愚の骨頂を目指した人は無視して(挨拶くらいはする)、私は自分が信じている最善を尽くして残りの時間を過ごそうと決めた。


仕事以外のことは、もう自分が上手く付き合うしかないと思うから、無理のない形で自分の気持ちの面をケアしていこうと思う。







朝早く目が覚めた私は、最上階にある露天風呂に行った。


金沢の高層ビルが立ち並ぶ中心地に天然温泉があることにも驚いたけれど、こんなところで平日の朝早くからのんびりと誰にも邪魔されずに高層ビルの最上階の露天風呂に入れることにとにかく感動した。


天井の屋根がない小さな四角い隙間から空が見えて、冬特有の冷たい空気と首から下は熱いくらいのお湯でホクホクしながら、本当に人生の贅沢だと大満足した。


姪っ子を含む妹たちとみんなでわちゃわちゃしながら、過去最高の朝食ブュッフェを楽しんで、朝から近くの市場に焼き海苔を買いに行って、その後はまたのんびりと過ごして金沢をあとにした。


帰りのバスの中でこの文章は書いたけれど、途中からはバスの中のWi-Fiを使って、タロットカードの動画を見た。


見ながらここ最近の色んなことを振り返りながら、自分の中から出てきた言葉をメモした。



*¨*•.¸¸☆**¨*•.¸¸☆*¨*•.¸¸☆*¨*•.¸¸☆*・゚


悲しみとの距離感

他の人の痛みを引き受けなくていい

相手の学びは奪わないけれど、私は私の必要なことだけに集中して、他人の悲しみや痛みとはきちんと距離を置くようにする


*¨*•.¸¸☆**¨*•.¸¸☆*¨*•.¸¸☆*¨*•.¸¸☆*・゚



私はこれまで気付きすぎてしまうことが多々あって、それは相手の痛みのようなものがわかったり、なんとなくそういうものが想像できたり、周りの誰も気付いていないようなこともスッと伝わったりすることがある。


だからと言って何をするわけでもないけれど、時には先に書いたような相手の傷が攻撃という形で私に向かってくることもある。


そうした時に、ふと気付いた。


私は自分がグサっと来たことは無視してはいけないけれども、相手由来の悲しみとは距離感を置いていいこと、もちろん相手の痛みを引き受ける必要もないこと、自分のためにきちんと線を引いて自分の護身用の壁を作って自分を守ることもとても大切であること、そんなことを思った。


それをするだけの強さと技術が私にはある。


と同時に、どうして私がその役割というか立ち位置なのかを考えてみた。


自分がやりたいのとは絶対に違う。


けれども、私が攻撃する側とか攻撃されずに済む取り巻き側とかにはならない、その理由はもっと別のところにあるように思った。


想像してみた。


同じ状況下で、私の立ち位置と他の人たちの立ち位置が入れ替わった場合を。


私だってもちろん攻撃される側など嫌だから、甘い蜜を吸っていたい。


痛みとは無縁のポジションにいたい。


けれど、ポジションの入替を想像するとわかる。


私側のポジションは誰でもいいわけじゃない。


他の人たちが私の立ち位置にきた時にどういう反応をするのかはわからない。


けれども1つだけ言えることは、縁切りをするとか相手をとことん憎むとか攻撃するとかやり返すとか、私はそういうことは余程のことがなければやらないけれど、大概の人はそれ耐えられないだろうなと思う。

(ちなみに私から切る時は、完全に私の中のタブーを越えて相手側がくるから、それで一気に気持ち的にダメになって受け入れられなくなって、フェイドアウトしたり突然連絡を絶ったりする。)


私だってもちろんメンタルにくるけれども、即座にバッサリ切るとかせずに、あれこれ色んなことを自分のためにする。


気持ちは超沈んだり怒ったりと忙しいけれど、変に耐性があって耐えられないわけでもない。


私が思うのは、相手も相手で自分のダークサイドを出す相手を選んでいると思う。


これは私の仮説でしかないけれど、相手側は私が嫌いでダークサイドを出してくるというよりも、そういう自分を出しても自分が受け止めてもらえるのかどうかを見極めている、それも本人もどこまで気付いているのかは知らないけれど、ギリギリのラインでそれを試しているような感じがする。


なぜなら、私はマンツーマンでやりとりする時は基本的に全く攻撃はされない。


むしろ相手もとても好意的だったりする。


これが3人以上になると、おかしなパワーバランスみたいなのが発生して、そういうよくわからない攻撃対象に仕立てられる。


複数名いる時に私のような担当部分が回ってきたら、普通の人ならその攻撃してきた人と距離を置いたり離れて終わる、はたまた陰で今度はやり返すみたいなこともしかねない。


私は善人とかではなくて、事態を飲み込むまでにも時間がかかるし、まずはとっさに自分が何かやってしまったのかと思ってしまうし、思い当たらなくても自分の発してる空気や存在そのものに何か決定的にダメなものがあるのかもと思ったり(この辺は相当ケアして今はそのように思うパターンもだいぶ克服できてきたように思う)、とにかく相手に矢を突き返す前に自分側の反応に忙しくてそれどころじゃない。


自分の処理能力の遅さが単に功を奏しているところもある。


さらには、相手もそうなってしまう何か理由でもあるんじゃないかと、分析したり思慮を巡らせたりする癖があるから、即座に相手を責めるようなことも基本はしない。


プラスして、これは10年くらい前からだけど、自分の心のケアを専門的にする知識と実践を積み重ねてきたおかげでセルフケアもできる。


そんな特殊な背景をいくつも重ねた人なんて珍しいし、果たしてこんな風にできる人がそんなにもいるかと言えばいない気もする。


そういう特殊な背景と性質を帯びた私だからこそ、このような状況を良くも悪くも引き寄せやすく、さらには体験して自分の奥深くに潜ったり癒したりするのかもしれない。







4連休明けの日常は、いつも以上に頭がボーッとしたまま終わった。


金沢の朝の露天風呂の風景を思い出したり、私はここで今何してるんだろう?と3月になった曇り空を窓越しに眺めながら思ったりして1日が終わった。


仕事に最後行った日、最後の最後にバタついて、いつもしているやるべきことをメモするのを忘れて、まずは「うーん、何からやるんだっけ?」と記憶をたぐり寄せることから始めた。


少しずつしか戻ってこない記憶は30分おきくらいにしか更新されず、そうだった、そうだったの連続だった。


こうした本来業務用に必要な記憶は、メモを残さないと残らないし、さらにはメモを見てもさらに忘れるなんてことも日常茶飯事だったりする。えっ?


でも、金沢からの帰りのバスで書いたことやここ最近経験した数々のことは、0コンマ1秒もかからずに即座に思い出す。


なんなら得意の感覚までセットで思い出す場合も多々ある。


そういうことは、やっぱり必要があって体験しているのだろうと思う。


傷の話や誰しもが持っているダークサイドの話はまた別の機会に書きたいなと思う。


余談だけど、ひょんなことから明後日土曜日から日曜日にかけてうちから1時間もかからない場所にあるビジネスホテルに泊まりに行くことになった。

(4連休明けの日常の話からは、早々と寝落ちした水曜日の夜を過ぎた木曜日になったばかりの真夜中に自分の布団の中でぬくぬくしながら書いている。)


その計画に忙しくしている。


またもや非日常を投入する。


ここに書いた心がザワザワした色んなことも、土曜日から日曜日にかけてヒーリング的なことを自分のためにできるかななんて考えている。


色々まとまりのない文章になってしまったけれど、大事な備忘録として残しておきたいからこのままアップする予定。


さらなる余談だけど、新月の今日(3/3)、3つ目のタロットカードを注文する予定でいる。


そのカードもまさにここに書いた心のケアや心の傷、心のダークサイドなんかと繋がっている。

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