2021年10月16日土曜日

不安・言葉・通信障害

2021/10/8の秋の夕焼け

2021/10/14の朝焼け



早々と書いてしまったら良かったけれど、書かないうちにまた状況が変わってきたから、でもまたいつそうなるのかもわからないからやっぱり書いてしまおうと思う。

先週末から月曜にかけて、私は大真面目に不安、不安、不安、と不安を時間ごとに募らせていった。


月曜なんかは、仕事中までその不安が押し寄せて、手は動かしているものの心はそこにいないみたいな状態だった。


不安だけじゃなく恐怖もあった。


その不安と恐怖は、ある程度想像の範囲内だったから決して珍しいわけではなかったけれど、想像を遥かに越えていたのはその大きさと影響だった。


覚悟していなかったわけじゃない。


だけどいざそうなったら、私は自分が本当に根底から崩れそうな、そういう危うさを感じた。


依存とか執着と呼ばれても反論などできない。


でも、本当にその短い時間にあったことだけで私には十分すぎる体験だったし、それは絶対に嫌でそしてめちゃくちゃ困ることだということもわかった。


事の顛末は言葉にするととても短い。


直近で書いたイケメン上司についての文章が、どうにもこうにも本人が見てない、とわかったことだった。


たったそれだけだし、本当にそれ以上でもそれ以下でもない。


ちなみにこれを書き出した月曜の夜あたりにはどうやら見たらしいとわかって、気持ちが切り替わった。


だけど、そこに至るまでは時間ごとに心が重く塞がれて、どんどん心が冷たくなっていった。


本当に「何もかもが繋がらない、断絶された状態」というものを味わった。


それは今の私にとって何よりも怖いことなんだと思う。


普段味わうことのない怖さや不安の類いで、こういう感じで私はいつか絶対に生きていかなきゃいけないんだと自分に言い聞かせるように思っていた。


この週末というのが、オカルトワールドよろしくなやりとりも手伝って、余計と心細さが募った。


書くと長くなるから少しの説明だけすると、先週末に占星術講座の時のクラスメイトが縁で友達になったノムにペンジュラムのボードを使った練習に付き合ってもらった。


自分で日々使っていて実感しているけれど、普段ペンジュラム使って「このお菓子買う?」とか、はたまたペンジュラムからカーナビ的に道案内してもらうとかそういうレベルじゃなくて、ボードを使って紐解いていくと人生の重大なテーマやメッセージが出てくることが徐々にわかりつつある。


ボード自身が冥王星の性質をまとっている、と自らをそのように紹介したように(ペンジュラムを使ってボードに聞いたら冥王星を指した)、占星術界で最も恐れられていると言ってもいい、破壊と再生担当の冥王星らしいメッセージがボードを通じて出てくる。


ノムに付き合ってもらった時もそうで、私がボードを通じて手にした情報というのをベラベラと伝えたら、ノムいわく絶句するじゃないけれど、あまりにも自分の中の大切なテーマやメッセージがドンピシャで出てきて、ものすごく納得且つしっくりきたと教えてくれた。


ものすごい勢いでボードとペンジュラムはタグを組んで並々ならぬ力を発揮しているし、私もそれについていこうと必死というか普段のだらけた感じとはかなり違う感じで向き合っている。


ノムは、ぶっしー今すぐにもこれで仕事を始められるよ、と言われたくらいに本当にすごい強力な本人納得のメッセージが来た。


ノムは喜んでくれたし、私もそこでますます自分のボードの使い方を磨こうとも思った。


何一つ悪いことなんかなくて、オカルト的なことはどんどん進んでいくのに、それと反比例して私の心は不安と恐怖がどんどん広がった。


ノムとのボードのやりとりが決まったあたりからだと思うけれど、いつにも増してイケメン上司の名前や何かイケメン上司にまつわるものがあちこちにサインとして現れた。


オカルト的なことの時の扉開きとかそうしたことをガチでやるような時は、これまでの4年近く毎回そうだから、今回も名前だのなんだのとあれこれサインとしてやってくるのは、ある程度の既定路線みたいな、私はそういうのを見る度にいつも「大丈夫なんだろうな」と思っている。


そちらはいいけれど、ブログはどうやら見てない。


それを見て、とうとう呆れられたか、嫌がられたか、もう見たくないか……、とかそんなことばかり思った。


そして自分でも想像以上のダメージで、不安はどんどんうなぎ上りに上がっていった。


自分が根底から崩れるみたいな、そういう類いの半端ない不安だった。


心臓はじめ体の色んな内臓を自分で動かせないのと一緒で、その不安は不可抗力的なものだった。


頭ではよくわかっていた。


イケメン上司が見てくれてるのはたまたま運が良かったというか、その状態にだいぶ慣れてきてそれが少しだけ当たり前みたくなっているけれども、そんなのは当たり前でもなんでもなくて、本来なら「無い」ことがスタンダードの方だということ。


見てくれてるのだって、私の支えになろうとかそんなのじゃなくて、とりあえず見てるんだろうし。


本当に何でもない、その一言に尽きるけれど、そのイケメン上司がブログから離れたようだとなっていた時間は、自分側もどんどん言いようのない不安が募って、頭でいくら色んなことを理解しようとしても体や心はそんなの全く聞かなくて大暴走していた。


不安が高まる時の体の感覚って私の場合はあるけれど、これはかなりな極地にならないとそういう風には普段ならない。


それも自分じゃコントロールのしようがない。


もういつかは見てもらえなくなるなら、というかその時がもうすぐそばまでやってきているのなら、絶対に伝えたいこと、下書きに春先くらいから入っててそのままになっている2つの記事を書き上げてしまおうと思った。


もう見てもらえなくてもそれは仕方ないけれど、もし何かの拍子に見てもらえるのなら書いて伝えたい、そう思った。







ということをアップしないうちに、イケメン上司がどうもまた見てくれてる風だから、上に書いた状況と今とは少し違うけれども、やっぱりいつでももう見ないことになってもおかしくないから2つの記事はとにかく近いうちに書いてアップしようと思っている。


こうしてズルズルとしているうちに、2つほど改めてそうだなぁと感じたことがあったから一緒に書いてしまいたい。


1つは、共通の言語をお互いに共有していることの凄さ。


日本に生まれて日本語を知っていて、日本語を知っているからこそこうして言葉の細かいニュアンスまでわかるってすごいことだと、過去にも何回か書いた記憶があるけれど、今回もそのように思った。


今仕事で韓国語の資料を取り扱っているけれど、その資料の中で決められた文言と同じ文言が入っているかどうかのチェックがある。


私は見本となる資料と今回の資料とを両方印刷して、紙同士を並べて見比べている。


ただ、ハングル文字は全く何が書いてあるかも想像さえできないから、ひたすらに文字の特徴を目で追って合ってる合ってないを判断している。


文字として存在しているのに何が書いてあるのかわからないから、それはもはや何も意味を成さないものだということ。


そんな時につくづく思った。


普段何気なく書いている日本語たち、そしてイケメン上司側も普段何気なく読んでいる日本語たち、同じ言葉を知っているって本当に奇跡的なことなんだということ。


同じ言葉を知っているからこそ伝えられて、そして伝えることの先には伝わることがセットとして用意されている。


だって仮にこうして書いても、イケメン上司が違う言語を母国語とする人なら、全く何も伝わらない。


単なる記号の羅列にしか見えないと思う。


同じ言葉を知っていて良かった。


特に私のこのブログは写真もほぼなく文章オンリーみたいなものだから、余計と言葉が通じるって凄いことなんだと思った。


伝えたい意志に応えるように、伝わる可能性も一緒に生み出されることが本当に奇跡中の奇跡なんだと心から感じた。







もう1つは、この間のドコモの全国的な通信障害が起こった時のこと。


私ももれなく通信障害が起きて、夕方から2時間ないし3時間くらい、全く携帯が繋がらなかった。


通信障害と知るまではとうとう携帯が壊れたのかと思った。


で、今週なのか来週なのかに新米の諸々の購入やら方々に送るとかいう用事で両親が孫を連れて金沢から戻ってくることが予想できていたから(ちなみに21日木曜から週末にかけて帰ってくる)、その連絡が来たらまずいなというのと、単純に携帯繋がらないと何か緊急時に困ると思って、家電から父の携帯にかけた。


今思うと、父もドコモユーザーなのに使えて、私は使えなくて、地域的な差と言えばそれまでだけど、その時に感じたことの方が私の場合は自覚する必要のあることだったんだろうなと思う。


そうした不測の事態になって「緊急時に繋がらないのはまずい」と思って父にだけ連絡を家電からかけたけれど、その時にそういうことかと思ったことがある。


「緊急時」と想像した時に、父(+母、なんならその先に妹たちも芋づるで繋がる)に連絡しようと思ったそのことは、すなわち関係性の強弱も表している。


それを本当にリアルで体験してみて、「イケメン上司からして、こうした緊急事態の時に私は絶対にその連絡先に上がらないんだ」と痛感した。


ブログは見てくれてるかもしれない。


けれど、とにかく何かしらあった時にすぐに連絡しなきゃ!と思う相手として、私はイケメン上司の連絡先を知らないから連絡のしようがないにしても、イケメン上司側は捨ててなければ私の連絡先を持ってると思うけれど、持っていても当然連絡先として候補にさえ上がらない。


それは悲しいことの1つに数えてもいいけれど、私の中では逆に「そういう関係じゃない」ということを過去最高に一番冷静に受け止められた出来事でもあった。


緊急連絡先にはもちろんならないにしても、例えば引っ越すとかいう時に「今度転勤になって」とかいう連絡ももらえる相手ではないし、とにかく「連絡する相手」というレベルにはどうあがいてもなれない、と本当にものすごく冷静に受け止められた。







数日で、ペンジュラム用のボードのデビューだったり、韓国語の資料だったり、ドコモの通信障害だったりと、あれこれてんこ盛りだった。


こうして振り返ってみると、イケメン上司というのはとにかくオカルトワールドよろしく的な私の人生のイベントでは本人の意志など関係なく私にイケメン上司の存在を示すサインが送られてきて、それで大丈夫と確認できるのはものすごくありがたい一方で、そういう存在として人生に現れてくれたんであって、私が希望するようなご飯やら飲みやらに繰り出そう!的な感じの人間関係を求めることの方があまりにも無理がありすぎるんじゃないかと思った。


ペンジュラムもペンジュラムの相棒のサーフィンボードもとても大切なものではあるけれども、ノムに練習に付き合ってもらった時につくづく思ったのは、本当に相当に責任を持って伝えないといけない、全身全霊全力で取り組んでやるタイプのメッセージがくるとわかって、気が重たいというか、決して積極的に引き受けたいことじゃない。


心細いのはいつの時もそうで、イケメン上司ともうブログでも繋がらないかもとなったあの72時間くらいの時間は、いつか近い未来、私は本気の独り立ちをしないといけないんだと思った。


そして、ドコモの通信障害という三次元の世界でリアルに困るような時に、イケメン上司は私と繋がっていなくても何ら困らない、その事実が目の前にでんとそびえ立って、それは変えようのない現実として私のところにある。


寂しいとかそういう感情よりも、もう仕方ないというようなあきらめとか受け入れとか、そういう気持ちの方が強い。


毎日毎日すれ違う男性たちを職場で見て、イケメン上司はその中に絶対にいないし、そして逆も然りで、イケメン上司が毎日毎日すれ違う人の中に私はいない。


オカルト的な面は本当に助けられているし、それこそ毎度毎度バージョンアップする時は百発百中でイケメン上司のサインがくるから、おかげさまで安心材料を手にして物事に当たれるけれど、そういうことじゃなくて日々の生きている時間の中でイケメン上司と私とが交わることはない、その事実はとても悲しい。


そんなことをしみじみと感じた1週間だった。


だからこそ、いつ断絶されてもおかしくない状況の中で、本当に伝えたいと思って書き途中になってるものを2つ、近いうちに書き上げてアップしようと思う。


あと少しだけイケメン上司にも付き合って欲しいと心から願っている。


これから何十年とかはもちろん言わない。


何ヶ月とかも言わない。


本当にあと2つ書くことがイケメン上司に伝えたいことになる(その2つももれなく過去のどこかに似たようなことは書いたと思うけれど)。


それを伝え終えた時に、ブログはその後も続くだろうし、私の日常も何ら変わらないだろうけれども、何か1つの区切りになるんじゃないかなと思っている。


だからそこまではせめてせめて、イケメン上司もブログをチェックしてくれるといいなと心から願っている。

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