2019年12月21日土曜日
All is calm な夜
2019/12/20
不思議な濃度の1日だった。
「濃い」と言えば濃いし、だけどはたから見れば仕事に行って帰りに図書館と買い物に行っただけということにもなる。
特別なことは何もなかったけれども、妙に心に深く色んなものが残る1日だった。
仕事帰りにまずは図書館に寄った。
本とCDを返して、新たにまた本とCDを借りた。
本の1冊は、『夜と霧』という、ドイツの強制収容所の体験記録。
ヴィクトール・フランクルという人が書いている。
友達が紹介してくれた本だった。
【復興なんて歯切れのいい言葉では言い表せない、有象無象の人々の想いが沢山あって…
今迄信じていたものが一瞬で崩れ去る位の衝撃を受けた人々が、それでも前を向く、その人間の強さを、今の東北の人達から抽出したいんだよね…
ぶっしー、ピーターフランクルの夜と霧って読んだ?アウシュビッツの人々がどうやってあの絶望から生きる意味を見出していたのか…
根本にはその人間の真なる強さを導きたいんだよね~】
この話はさらに深い色んな話があって、私の中で「絶対にブログに起こすものリスト」に入っている。
いつ起こせるか知らないけれども、とにかく「生きること」を根元から問う話を友達から聞かせてもらった。
友達も体験者たちから話を聞いて、その話を私にまるで伝言ゲームのようにして教えてくれたんだった。
この本を借りたくて、そうしたら天井の高い図書館の上部に置かれていて、私は階段みたいな脚立を近くから運んできて、その脚立に上がってよいこらしょと本を手を伸ばして引き抜いた。
上の友達の言葉を思い出しながら、脚立に乗って高い位置にある本を引き抜いている自分にうっとりしながら、次はCDコーナーを目指した。
クリスマスが近いからクリスマスソングがいいと思った。
適当なのがなく、ふと昨日かその前の日くらいに朝仕事に行く前の数分間の朝ごはんの時にサッと見たニュースを思い出した。
マライア・キャリーのクリスマスソングが、なんと25年ぶりに全米1位を取ったとのこと。
その快挙をニュースは伝えていた。
クリスマスシーズンになるとよく聞くマライアの定番ソング。
あれは発売当初、アルバムの中に収録された曲で、当時はそうした曲はランキングに上らなかったとのこと。
ところが25年後の今、チャートは売上枚数だけではなく、動画再生回数やネットでの音楽配信とかも含めての総合評価になるらしく、それで晴れて1位になったとニュースは言っていた。
話は少し違うけれども、アメリカのランキングは本当に嘘のない、実力のみがものを言う世界だと感じる。
一応アメリカにも流行というか、「今話題の〇〇」的なものは存在する。
けれども、そもそも個人主義の発達した国で周りが良いと言うから自分も見る聞く買う食べるなんていうようなことがほぼほぼないから、それはSNSが発達している今は知らないけれど、少なくとも日本のような見えない部分で勝手に流行を操作するようなことは難しいように感じる。
日本の各種ランキングが、例えば今週の売上チャートが先週の累計ではなく、1週2週も前から未来予告のように決められていると関係者から聞いた時、本当に驚いた。
その方いわく、例えば今週クリスマス前なら、すでに業界では正月あたりの売上ランキングが発表されているらしい。
まだ正月を迎えていないのに、そのぐらいのランキングが業界の裏側では発表されているわけだから、何だそれ状態の架空のランキングが世に出る時はまるで先週やここ1ヶ月の過去のデータをベースに出されているもののように謳われている。
完全なる情報操作が行われているのと、さらにはジャンルによっては順位をお金で買ってそれでランクインする個人や商品まであるらしい。
今後は知らないけれども、少なくともそのような情報操作が長年の慣習として日本にあるのは本当。
だからこそ、マライアの発売から25年後に初めて全米チャート1位というのは、冗談抜きで実力1本で出した結果だと思う。
それを思い出してCDを見たら、ちょうどその話題のクリスマスソングのアルバムがあったからそれを借りることにした。
もう1つ面白い本を見つけたから借りた。
「痛みは魂の癌」というフレーズの入った本。
[『セリーヌ川の書店主』ニーナ・ゲオルデより]
『夜と霧』を探すために、私は初めて「ドイツ文学」コーナーに行った。
そこで見つけた本で、まずはタイトルに惹かれて手に取って、中身を見たらその言葉でそれでさらに気になったから借りてきた。
きちんと読めるかどうか知らないけれども、少なくとも友達の話がなければ、絶対に生涯で出会うことのない言葉だったのはわかる。
車に戻って早速マライアのアルバムをかけた。
1曲目は『きよしこの夜』だった。
中1の英語の先生は、なぜか『きよしこの夜』の英語版の歌を私たちに授業中教えた。
だから私は今でもおおよそあの歌詞を覚えている。
体で覚えた数少ない英語。
しかも英語の意味や文法を知らずにほとんど音だけで覚えたものだから、私は今日のこの瞬間、それこそ28年越しに(誕生日がまだ来てないから、当時12歳だった)本当に初めて音を聞いてその意味を知った。
「All is calm」
この歌詞を聴いて、ものすごく言葉が胸に染みた。
すべては穏やかだよと言っている。
本当にすべては落ち着いて穏やかで今のこの瞬間満たされている自分がいる。
日本ではクリスマス一人ぼっちは寂しいなんていう風習があるけれども、私はこれまで数々の色んなクリスマスを体験して、クリスマスに色んな思い出を持っているから寂しいなんてことはない。
しかも年齢と共に思い出の数だけ色んなことを思い出せるから、たとえ相変わらず独りでも寂しいよりも思い出たちを思い出すことで心が温かい気持ちであれこれと満たされる。
本当にAll is calmに今の心の中はピッタリだと思ってウルッときた。
*
久しぶりの買い物は本当に心が躍った。
1年数ヶ月ぶりの「お金に余裕がある時の買物」をした。
お金が本当に底をつくような事態に何度も陥り、その時々で必要なものをまずは優先して、そして本来なら少しのお金があれば買いたいものを買わないというか買えない選択をずっとしてきた。
働いたら良いとかそういうのとは違っていた。
多くの人たちからは全く理解されないと思うけれども、ちなみにその気持ちを実体験も含めて理解してくれたのは2人しかいない。
というよりも2人も理解してくれる人がいたら凄いことだと思っている。
話が長くなるからここではしないけれども、お金が底をついても働けない、働く気持ちになれないことの怖さと言ったらない。
私の場合、お金が働く理由にはなってくれないから、だから働くにはもっと自分に何か響く理由がないと動かない。
お金がなければないなりの生活をするし、なくても楽しむ方法もあれこれ身につけたから、より一層タチが悪い(苦笑)。
しばらくは辞めない限りは数ヶ月先まで定期的にお金が入ることが保証されて、私は本当に久しぶりにそれをあてにした上でプレゼントを買った。
4歳になった姪っ子にトレーナーをあげようと思って探し出した。
妹がトレーナーがないと嘆いていたことと、とりあえず本人が今、ピンクだのプリンセスだのフリフリお嬢様的なデザイン大好きだのというのを知っていることと、保育園には汚くなってもいいどうでもいい服、しかもサイズがすぐに変わるから今しか着れない服がどうでも必要なこと、それらを加味して今年頑張って来年限定の着倒し服をプレゼントすることにした。
デザインが気に入らなければパジャマにしてくれたら十分だから、そうして2枚トレーナーを見繕った。
1枚目を買った時、店員さんが本当に丁寧に包装してくれて、メッセージカードさえも包装してくれるほどの丁寧さだった。
過剰なほどの包装が今回ばかしは嬉しかった。
自分で開けられるぐらいの年齢になって、姪っ子が気に入るかどうかは知らないけれども、そうやって大切な誰かに心の余裕(お金の余裕)を持って何かをプレゼントできるのが本当の本当に嬉しかった。
この1年数ヶ月、他にもプレゼントしたことはあったけれど、去年は姪っ子の誕生日をスルーした。
そこにお金を回せるようなお金が本当に言葉通りなかった。
だから口頭だけでのおめでとうで終わってしまった。
小さなプレゼント1つできない自分の在り方や生き方が本当に後ろめたくて仕方なかった1年前。
それがずっと心にあったから、今回はものすごく感動もひとしおの瞬間だった。
さらに言うと、小さなプレゼントをするのが目一杯の時、そうした時は毎回祈るような気持ちでお金を出していた。
私の感覚が間違えていなければ、必ずそうしたお金は足りるはずだし、それで財布がすっからかんになってもその後何かしらの形でお金が入ってくる、そのことを私は毎回信じた。
それは本当にそうで、絶対に外せないちょっとした心づけみたいな、例えばお世話になると予め知っていてまさか手土産1つ持たずに伺うなんてできないから、そうした時には毎回お金の見通しが立たなくてもその時それを買うお金があるならそれを出した。
現にそれは本当に何とかなって今に至る。
そしてここに来て、しばらく数ヶ月はお金が定期的に入ることになって、それで姪っ子への誕生日プレゼントを買える余裕が生まれた。
余裕が生まれて初めての買い物が今回のプレゼントだった。
だから1つ1つが本当に感動的だったし、店を色々回るのも楽しい時間だった。
何せ仕事帰りで、膝上くらいまでのコートで隠していても、中身はワークマンで買ってきた作業着(←制服着用義務の会社で、派遣も色指定の上下作業着や安全靴着用が必須)で、格好の残念さはこの上なかったけれども、それさえも忘れるくらいにプレゼント選びを楽しんだ。
姪っ子のトレーナー買いが終わった後、同じ建物にあるスーパーにも立ち寄った。
半額セールの時間で、吟味しながら赤札の食材をポイポイとカゴに入れた。
豚バラブロックは角煮、サバの切り身はサバの味噌煮、生牡蠣はすぐに酢醤油で食べたらいい…とかメニューをパッと思いつきながらカゴに入れた。
そこは大型店らしくマニュアルでレジ担当者の方々を教育しているだろうことはわかるけれども、すごく心のこもった接客をする。
マニュアル通りの動き方でも、そうではない各個人の特色をにじませてそこにプラスアルファのものを乗せられるその人たちは本当に凄いと感じる。
レジを終えて袋詰めをしていると、カゴ回収のおじいちゃんと呼べるおじさんがすぐ近くに来た。
65歳以上、ぱっと見70歳近いのではないかと思われる。
おじさんは「失礼します」と「ありがとうございます」とをサッと口にした。
私には涙が出そうなくらい、グッと心に来るものがあった。
これは名古屋で初めての長期のニート生活をした時のある風景と気持ちを思い出した。
私の最寄駅は、とにかく自転車でそこまで行く人が多くて、至る所に有料無料の自転車置き場があった。
その自転車置き場に長期の放置自転車や投棄自転車がないかを調べるおじさんたちがいた。
年齢的に高齢者と呼ばれる方たちで、それが生活のためなのか何かしら社会と繋がっていたくてそれをするのか、個々の事情は知らなくても、その目の前の仕事に一生懸命、手も休めずにやり続ける姿は、働いていない私からして物凄いことだった。
地味で誰もそんなところ見ていなくても絶対的に必要な仕事で、誰でもできる仕事という考えでその老年世代を雇うんだろうけれども、それを黙々と真面目にやり続けるおじさんたちは凄かった。
真面目に勤め上げて当たり前と思っているのはヒシヒシと伝わってきていたし、誰が見ていなくても任されたことをキッチリとやる、国会でふんぞり返っていたり昼寝している人たちとは明らかに違う。
真面目に働く姿は、それが何の仕事であっても超一流だと感じる。
今、朝は子どもたちの通学の時間とかち合う。
7時半前から毎日どんな天気でもおじいちゃん2人がいつもの交差点で待機していて、さらにまた別の学区のおじいちゃんたちも横断歩道での誘導をしていて、さらには当番制と思しきこれから仕事に行くのかな…というような格好をしたお母さんもいる。
みんな子どもたちが無事にたどり着けるように本当に小さな時間、時間にしたら30分ほどを毎日毎日キッチリと務めあげる。
お勤めというよりもお務めだと感じる。
お金が発生するのかどうかも知らない。
だけど来る日も来る日も、それが嵐風な暴風雨の日でもおじさんたちは出ている。
カゴを集めにきたおじさんを見て、そういう風景が一気に頭の中を駆け巡った。
そして、ずっと働くことの意味がわからなくて立ち往生したり停滞するかのように立ち止まったりしていた自分のことも思い出して、色んな気持ちが溢れ出した。
カゴ集めのおじさんがサラリと口にする小さな挨拶は、多分マニュアルにはない、おじさん固有の人間性だと思う。
別に挨拶はしなくても、本来のカゴ集めの業務はされている。
だけどそこにたった一言小さな声掛けがあるだけで、その行為や存在が何倍も尊いものとなる。
友達の話を思い出した。
人間が絶望する理由。
生きがいがなくなること。
それがお金になってもならなくてもいい。
自分が生きている意味があると感じられること、それがなくなった時に人間は絶望の中で生きることになる、そんなことを友達は震災で家も土地も家族も失った人たちの話をまとめてそのようなことを教えてくれた。
*
家でごはんを食べた後洗い物をしていると、父がやってきた。
来年の7月15日で退職すると今日会社に言ってきたと教えてくれた。
この時の私は疲れ切っていて、本当に話を早々と切り上げたくて、そしてその話を切り上げたくなる他の話がこの後書くけれども、そうした諸々が重なりすぎてタイミングが悪すぎた。
何十年も勤めてきた、この道50年みたいな父の最後の報告を聞くに全く相応しくない自分の態度を今頃になってものすごく後悔している。
父の体調はどういうわけか落ち着いてきた。
真っ先に思ったことは、もしこのまま体が大丈夫なら父は退職後どうなるのだろう…ということだった。
心配とは違うけれども、間違いなく「生きがい」問題にうちの父はぶち当たる。
仕事一本で来た人、しかも責任ある立場をかれこれ25年はしただろう人が、ある日何も持たなくなったらどうなるのか、想像するだけで恐ろしい。
しかも若い頃に両親を次々に亡くして苦労に苦労を重ねた人で、病気がちの母親を置いてどこか遠くになど行けないと言って自分の夢を早々と切り捨て家族のために生きて自分のために生きたことのない人が、オリンピック開催あたりから自分のためだけに生きる…。
想像のつかない時間が父の人生に現れる。
他の話というのはこうだった。
昨日、うちの数軒先に住むおばあちゃんが90代前半で亡くなった。
気難しい人だったようで、うちは父も母も苦手としていたし、そして近所中で気難しさからくる対人関係の不具合で有名な人だったらしい。
そうしたモロモロは仕方ない。
でも、子どもの頃から私はそのおばあちゃんをよく知っていて、子どもの私にはいつもニコニコして挨拶や小さな会話を交わしてくれるおばあちゃんだった。
そろばんに週3回通っていた当時、そのおばあちゃんの家の前をしょっちゅう通っていた。
その通り道には、子どもの私には何軒も苦手なおうちが続いていた中で、そのおばあちゃんは私にとって心のオアシスみたいな、そこだけは絶対に安心安全だと肌レベルで確信できていたところだったから、だから私はそのおばあちゃんも、もっと早くに亡くなられた旦那さんもとても好きだった。
これは大人になってからのこと。
そのおばあちゃんから私はどういうわけか一度家に招待されたことがあった。
それが20代の頃だったのか、ドミニカから戻った30歳の時かは覚えていないけれども、とにかく呼ばれて行った日があった。
他愛ない話の中で、私はそこで初めてそのおばあちゃんには息子がいることを知った。
てっきり一人娘の家かと思いきやそうではなかった。
娘さんも子どもの頃から知っていたけれども、息子さんがいるなんてその時まで本当に一切知らなかった。
話は飛ぶけれども、夜ごはんを食べていた時に、私は明日葬式に行く母に今回は息子さんもやっと来れるのかと聞いた。
そうしたら、なんと息子とは連絡がつかない、連絡先すら知らないということだった。
そして元々おばあちゃんの気難しさゆえに良く思っていない父が、それを聞いてどの家も問題のない家はないと言い出して、私の中で何かがカチンとなって、もう何も話したくないぐらいに嫌だった。
その後の洗い物のそして父の退職の話で、色々タイミングが悪すぎた。
*
おばあちゃんの家に行って話をした日のことを思い出した。
当時から息子さんと連絡が取れないことはそれとなく匂わせていた。
実際に何があったのかは知らない。
少なくとも、死に目どころか葬式にも来ないぐらいだから、相当な状態が背後にあったとは思う。
だけど、おばあちゃんは息子の話の時、それはそれは本当に嬉しそうに話していた。
海外に住んでいるという息子を自慢の息子として私には話してくれた。
勝手に想像するに、おばあちゃんの気難しさや人間として至らなさが息子さんを遠ざけて絶縁にまでするものがあったとは思うけれども、それでもおばあちゃんにとっては大切な我が子には変わりなかった。
やったことは何か知らないけれども、それでも息子を大切に想う気持ちに嘘は一切なかった。
それは言い切れる。
言い切れるぐらいに嘘がないのは私には少なくとも伝わってきた。
死人に口無しだけど、そういうことを息子さんは何も知らないのは悲しいことだと感じた。
親を死ぬほど憎んでいたり、絶縁していたりする人たちにも会ったことがあるから、そういうことを私はどちら側にも事情がそれぞれあると思うから何も言えないけれども、ただ真っ直ぐな気持ちが本人に伝わらないのは悲しいと感じる。
*
図書館から借りてきた本を1冊持って風呂に入ることにした。
見たことのない本が1冊紛れ込んでいて、最初は図書館の人の手違いかと思った。
過去にも実際に2つの図書館でそんなことがあったから、今回もそれかと思った。
だけど、よくよく見ると、それは自分が借りてきた本に間違いなかった。
中身を読めば読むほど、それは「呼ばれた本」だと確信した。
本当におかしな言い方だけど、私はその本をどうして手に取ろうと思ったのか、その時の記憶がまるっとない。
記憶喪失とは少し違うけれども、年に何回か時間にして1分から2分程度、超重要なシーンにも関わらず、その数時間後にはその1、2分の記憶がどこをどうやっても思い出せない、何一つ手がかりを掴めないということが起こる。
またまたマニアックなことを言い出すけれども、そういう時はある種、見えない世界からの介入が入ったかと思う。
これまでそんな風に思ったことはなかったけれども、たまたま今日は同じコーナーの同じ棚の位置から3冊借りてきたからこそ、その1冊だけの記憶がないのが相当変だと思った。
[「今」まさにこの瞬間を生きているっていう感覚が女性にとっては一番重要]
『ぼくは閃きを味方に生きてきた』横尾忠則より
この辺りを手に取った時読んで、これは面白そうだから借りてみようと思った記憶はある。
だけど、背表紙やタイトルを見て自分が手に取ろうと思ったというのは違う。
たしかにそそられる気はしなくもないけれど、でも基本的にエッセイは癒しがいいから難しそうなものは避ける。
しかもそれだけ文庫本サイズで他より小さいのに、よく手に取ったなぁと思う。
他は通常のサイズで背表紙のタイトルの文字が大きくて目立つのに、どうして私はその目立たない文庫本をその時に手に取ろうとしたのか、まるっと理由も気持ちも全く思い出せない。
そうやって何で手にしたのかも記憶がまるっとない本を借りてきて、そもそも借りたことさえ記憶から抜け落ちてて、それで家で見た時に驚いた。
風呂の中できちんと見てさらに驚いた。
中身は、完全に精神世界寄りのエッセイで、「チャネリング」だの「天使とのコンタクト」だの「精神世界の本屋」だの、他にも霊性や波動や宇宙や悟りなど、それ系の言葉のオンパレードで驚いた。
この方が何者なのかを見たら、いまいちわからなかったけれども、1つには絵を描く人らしい。
そしてその人の絵に対しての話と絵も描く友人ノムの話とが同じことを言っていてびっくりした。
ノムはいつか私に言った。
絵というのは、お金があるから買うものとは違うこと。
その絵を自分の生活の中に置きたい、その絵が欲しい、とかいうような気持ちが生まれない限り買うことのないもの、そういう気持ちになって初めて買うものだという話をしてくれた。
ちなみにノムは自分が売り手だという感覚もないし、それで買ってくれる人が買い手というのも何か違う、実際はそうでもそういう気持ちは違うと言っていた。
絵を通じて自分と誰かが繋がったり、縁が生まれたりする、ノムとは色んな話をしているけれど、ノムの絵を私は「魂の暗号」とか「魂の信号」と呼んだ。
ノムの絵を見て何かを感じる人というのは、絵の中にその人にしかわからない魂からのメッセージを受け取っている、もしくは魂的な何かをそこから感じている、そんな風に見えるというような話から私はそう呼んだ。
とかいうようなことと酷似した内容が横尾さんの本の中にも書かれていてとても驚いた。
しかもそれだけじゃない。
そもそも何者かを知りたくて本の裏表紙側をめくった時だった。
まさかの名前をそこで発見した。
発行者の「田邉浩司」さんは、何を隠そう、ノムの先輩、元上司?、とてもお世話になっている人で、この方がノムに書く仕事を振ってくれる。
そしてその方が振ってきた仕事の1つ、手帳の仕事が、今年の夏の真っ盛りの頃にノムから私に「一緒にやろう」と言われたものだった。
ちなみに「光文社」と見てもピンと来ない方もいるかもしれないけれど、この出版社はノムいわく中堅の出版社になるそうで、私からして一番わかりやすいものは『女性自身』になる。
何せ『女性自身』とノムから聞いていたものだから、まさかこんなにもぶっ飛んだ系の、でもある種精神世界の先駆けみたいな本を光文社が出してるなんて今まで知らなかった。
しかもこの本、1992年12月に「PHP研究所より刊行された『芸術は恋愛だ』を改題し、若干の加筆、訂正をしたもの」と説明書きがあった。
だから実際に書かれたのは1990年代初頭で、今から約30年も前、少なくとも「チャネリング」なんてまだまだ世の中でほとんど耳にする人がいない時に書かれたんだと知った。
この人も色んなそういう見えない世界のことの能力者を訪ね歩くことをしていて、そんなところもノムと似ているなぁと思った。
とかいう本を手にして、多分これは何かメッセージがあるだろうと確信した。
まだわからないけれども、しばらくお風呂の読書にしようと思う。
*
とかいうような、特段何ということもないけれども、とにかく濃密は濃密だった。
仕事の方も面白いというか、良く出来てる!と感心することがあったから、それも途中まで書いたからそのうちアップする。
何と言えば伝わるのかわからないけれども、小さな中に色んな奇跡が宿っている。
見ている風景やものは特別なものなんて何もない。
単なる本、単なるトレーナー、単なる歌、単なる働く人…。
「単なる働く人」は言い方が失礼だけれど、この場合は他と合わせるためにとりあえずそうしておく。
何1つ特別なものはないのに、そこにはそれぞれ固有の唯一無二のものが宿っている。
気付かなければ何てことない些末な事柄かもしれない。
けれど、ほんの少し視点を加えるだけで、一気に見えていなかった世界が見える。
その普段は見えないことたちが1日を通してあまりにもたくさん見えたから、それで「濃密」になった。
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