2025年2月9日日曜日

アイデアとアイテム待機中

最近使っているノートたち
左上から1の5年日記〜右上5のタロットカード質問に答えるノート
左下6の書いて満足家計簿的なノート〜10のルノルマンカード帳、詳細は本文の中

2025年用の小さなスケジュール帳と
ハンドメイドのしおり

ここ数年手に入れた手帳たち
左上が星読み系、右上が吉本ばななさん手帳
下2冊がリバティの布のノート欲しさにメルカリでゲットした2024年の手帳たち

ばななさん手帳の一部

これもばななさん手帳


今年は小さな手帳を買ったけれど、なんならそれに合う手作りの世界に1つだけのハンドメイドしおりまで買ったけれど、早くも使うの放棄していてちょっと仕切り直したくなっている。

何かの記事で亜希さんという元野球選手の清原の元妻が愛用している手帳がカレンダーというのを読んだ時があった。


一気に何でも書き込めるカレンダーというのが一番使い勝手が良かったとかでそうなってるとのこと。


それいいなって読んだ時に思った。


私の場合、メモしないといけないようなスケジュールは皆無だから、それは仕事もプライベートもどちらも不要ゆえに、だから手帳は要らない。


2024年はリバティの布製のノベルティでもらえるスケジュール帳がどうしても欲しくてメルカリで買った。


だけどそれもほとんど使わず。


それも見越してほとんどがノートのように使える手帳だったところが良くてこれはいつか別の使い方にできるから買ったこと自体は後悔していない。


そのようにさかのぼって考えるといつ最後に手帳を買ったのか思い出せず、結局のところ自分が相当に何かを管理する必要性が出てこない限りこれから先もスケジュール帳は不要だなと思う。


ちなみにすごく活用していた時もそれはスケジュールの方ではなくて自分の心の中の記録をするために使っているところが私にとっては大事なことだった。


書いてて思い出した。


その前の年は吉本ばななさんの手帳で、それはばななさんの言葉が至るところにあってそれが欲しくてそしてそのページたちにはその時の自分の心情とかを書きたくて買ったんだった。


そしてそれよりももっと前は占星術の方のスケジュール帳、星読みメッセージ付きのものを買っていた。


それはたしかに活用した。


もう星読みはしばらく興味から外れつつあるから(面白いものだと今でも思うけれど今の私の中での優先順位が低い)、それ系の手帳も要らない。


突然だけど何でそんなことを思ったのかというと、5年日記のところにきっかけがある。


これはまとめて書くことが増えたものの、半分躍起になって続けているところがあるから何とか続いている。


3月の誕生日には今度3年目に突入できるくらいやり続けている。


で、ここ2ヶ月ないし3ヶ月くらいは一気にまとめて数日分書くことが多くて、そうなると大して何か気になることやイレギュラーなことがないと何の記憶も無いがゆえに何があったのかや何を感じたとかいうことがほとんど思い出せない。


それが2日3日前でも思い出せなくて、そういうことが続いてみて「生きた記録を残したい」なんてことをまた思いだした。


生活って毎日淡々としているからさして特記事項なんてないのだけれど、そういうことこそ日々違うものだったりするから書き残しておくとけっこう面白いと私なんかは思う。


いつかこのブログのどこかに書いたかもしれないけれど、20代の頃アメリカにいた時の日記を読み返した時にそこにはほとんど日々の生活について触れられていなかったことに気付いた。


それはその当時でさえも「くだらないことでも書き残しておけば良かった」と心底思った。


もう当時に戻って書けないし思い出せない細部なんかを思い浮かべては静かにでも強く後悔の気持ちが自分の中に広がった。


その記録が何か意味があるとかヒントになるなんてことは絶対と言ってもいいくらいに無いけれど、そういう当時のことをいつか読み返した時に面白いだろうなと老後の楽しみ的な意味で残したら良かったと思った。


効率とか能率とか生産性なんていう価値観から一番遠いところにある日常こそが人生の面白みというかいつか思い出に変わる何かなんじゃないかと思っている。


私個人的にそういう名もない日々の生活こそが人生全体の大きな時間を占めるだけあって大切なんじゃないかと感じる。


変わり映えしない日常であっても毎日毎瞬少しずつ違う。


同じように見えても同じじゃない。


そういう微細な変化を感じたり見たりするのは若かりし20代の頃から興味があったけれど、これは年を重ねるごとにもっと興味が増してる感じがする。


だからこそそうしたくだらないことをどこかに残したいと思ってしまう。


そしてそれは気負わずに入れていつでもさっとお手軽に開いてささっと書けてしまう、とにかく軽やかな感じが良いから、そしてあまりにも仰々しいものになると買って後悔物の塊となって終わるのは嫌だから、そういう私の三日坊主的なところも織り込み済みでお手軽に始められる何かがあるといいなと思っている。


手帳はかっちりしすぎていて実はあまり好みじゃない、今の私には。


そもそも常に10冊くらいのノートを平常運転で日常的に使っている私はさらなるノート的な大がかりなものはもう増やしたくないと思っている。


例えば最近使ったとわかるノートは

1 5年日記

2 普通の日記帳

3 オラクルカードとかカードをお迎えした時の専用ノート

4 旅に出た時用の小さなノート

5 タロットカード質問に答えるノート

6 書いて満足家計簿的なノート

7 カードリーディングメッセージノート

8 健康記録ノート

9 タロットカード帳

10 ルノルマンカード帳


すでにこれだけあって、しかもこれらの写真を撮ろうとノートたちを探した時にノートが数ヶ所に点在していてすぐには見つけられなかったノートもあった。


「ノートが点在している」なんて日本語をこのペーパーレスのデジタル時代にどのくらいの人が使うんだろう?なんて思ったくらい、私の部屋の中での状態は「まさに的確に状況を表している」言葉だけれど、ノートが点在って普通には聞かないな…とも思った。


景色と化しているからこれまで「ノート」を部屋でピンポイントで見ることがなかったけれども、今回ノートの探し物をしていた時に至る所に数冊ずつノートがあるのを見つけてちょっと驚いた。


ぱっと見点在してるものをトータルで合わせると30冊はあったと思う、表に出ているノートだけでも。


そんなこんなだからノートはもうしばらく日常使いするものとして増やしたくないなというところ。


何か良いアイデアとアイテムが降ってこないかとのんびり待機中。

2025年1月6日月曜日

凪2024から2025にバトンタッチ

「凪」の意味
静かで波立たないというところが
自分の心と重なる
漢字を見た時に囲まれている枠の中で
止まっている、留まっているみたいな
そういう雰囲気も自分の中では感じたこと


金沢駅
2025/01/05

金沢で見た夕陽
バスの車窓より
2025/01/05

2歳の姪っ子と母が作った雪だるま
2024/12/30


2025/01/05

今さらだけど2024年の今年の1文字を。


「凪」


これは12月に入ってすぐくらいにパッと出てきて、まさにそんな1年!、と具体的な漢字の意味も知らずにすごくピッタリと感覚的に思った。


可も不可もない、ここ数年単位では一番穏やかでその時その時に流れてきたものに何となく乗っかってみて、ゆらりゆらりと過ごしたように思う。


落ち着いていたというか、天気の良い日に波がゆらゆらしているあの波の感じに自分が乗っているイメージ。


と書くととても良い風に聞こえるかもしれないけれど、たしかに悪くはないし不平不満的なものもだいぶ薄いというか、ある程度容量の決まった範囲内での対処療法で何とかなるみたいな、という感じでその何に私は不満なのかと第三者から聞かれたのならちょっと困るなというもの。


だけれど、穏やかである程度落ち着いていて、なのに私は何度かふと「このままの生き方でいいのかな?」と自分に質問していた。


真っ先に出てくるのは「これじゃない」という感触。


大きなところとしては、生き方全般。


仕事はけっこう楽なところまでやって来れた。


楽という言い方が合っているのかわからないけれど、要は1の指示に対して10動けるくらいに仕事は覚えたし知識も技術も増えたのと、他者をフォローできるくらいの余力というかそれをできるくらいの状態になりつつあるのと、そこそこ自分を自分で何とか回せるくらいのある程度安定した人間関係も作れたと思う。


だけど自分の中でもう先が見えなくなってきた。


一番は「今の仕事を極めたい」というのが全く無いから、もうそこはこれからどれだけやっても出てこない。


お金と割り切って働けるほどの心持ちも無いからいつかは決断して次へと何かしら向かうことが無意識にわかっている。


もちろん極めようとしたらいくらでも極められるしやることはてんこ盛りにある。


だけどそれは私の中で人生を懸けてやることじゃないから遅かれ早かれ立ち退きはすることになる。


そういう意味で色々終わりに近付きつつあるのだろうと思う。


仕事に対してこんな風に考えてしまうところが傲慢というか、本気でやる気がないのがわかる。


28歳で協力隊の枠が決まっていてもう数ヶ月で児童養護施設を辞めると決まっていた時、私は自分で決めたのに「本当に今のタイミングで良いのかな」と最後は辞めることを迷った時期がしばらく続いた。


協力隊はやってみたいことだったけれど、そして施設は何だかんだと5年半やってそこそこな何かしらを自分の中に積み重ねることができつつあったけれど、もっと仕事に深みが出て面白くなってもっとできることがあるんじゃないかと感じて子どもたちとの関係性も色々変わってまだまだこれからなのかもしれない、と未知の可能性を感じていた。


だから辞めることが今なのかわからない、もっとやりたい気持ちもある、という境地に私は至っていた。


それがあるからこそ、今の仕事というのが色々違うことがわかる。


無駄なことは1つとしてないし、色々最低だと思う場面は多々あれどたくさんの意志ある人たちに助けられてるのも本当で、もちろん続ければまた次の何かが見える可能性もゼロではないけれど、とにかくそれじゃないというのがはっきりとわかる。


一番わかりやすい答えとして、児童養護施設の仕事は私の中ですごい興味があって入った仕事で、今の仕事はいくら能力的に適性や知識があっても興味が1ミリもないことだということ。


この差はお金とかで埋まるものじゃない。


私はまさか人生でこんなにも適性があってでも自分のやる気は地の底まで無いという仕事をするなんて思ってもいなかった。


児童養護施設の仕事は適性があったかどうかは知らない。


だけれどやる気だけはすごくあった。


塾の仕事がそういう意味では比較対象としてわかりやすいかもしれない。


今の仕事の方が適性はあるように感じる。


塾は適性もなければ色々会社の在り方や働き方が嫌すぎたしストレスもすごかったけれども、あの仕事の方が自分の中の何かやっている感覚やあの中にしかない面白さも味わっていた。


そういう諸々の根幹的なところが欠落している今のライスワークは今後も欠落したままだし、これは自分の生き方をこのまま続けると大変大きな後悔が出てくるとわかる。


だから落ち着いてはいても色々よろしくない。




*




45歳という年齢なのかもう色々自分の中で自分の限界を積み重ねたからなのか、私はこのまま1人で生きていくのは本当に自分の中ではそうしたいのじゃない、というのが出てきた。


嫌でもなく避けたいでもなく、何か違う。


1人でも嫌じゃないし、こんなの避けようと思って避けられるものでもないから、そのようになるのは仕方ないとどこかあきらめみたいな気持ちがある。


そして元々1人に慣れ過ぎているところがあるから、1人でも楽しく生きる力が自分にはあると自負している。


1つだけ嫌だなと思ったことがある。


これまであまりにも日常に溶け込み過ぎてて習慣化していたけれども、いつからか少なくともこの冬の寒さを肌で感じる頃から、私はまた次の1年を「イケメン上司から連絡がくるかもしれない」とか「連絡が欲しい」とだけ思い続ける時間を過ごすのは嫌だなと思った。


多分自分の中で馬鹿馬鹿しく感じたりそれを許すことを自分が許したくないみたいな、全然悪くないし困ってないし平穏は保たれるけれども、人生を全体で捉えて俯瞰して見た時に「それは自分が望んでいることじゃない」というのが出てきた。


自分の中の正解じゃないというか、この先もこれまでの7年と同じ時間を過ごすのは単純に嫌だなと思った。


新しい生き方を模索してもいいのかなと思う。


誰かと出会いたいとか(そんな素敵なことはオールウェイズウェルカムだけど)、婚活しようとか、そういうのじゃないけれど、ただただ同じように次の7年も過ごすのは嫌だなと。


勝手な自分への願いだけど、何でもいいから何かに夢中になっている自分でありたいと思う。


365日毎日傾倒してなくても何かこれは夢中になったよ的なものを今の自分は欲してるように思う。