2019年7月18日木曜日

eat LOVE ⑿ eat LOVE聖地

野村浩平 個展「 celebration!」@ plate tokyo 
(↑ノムの個展の案内文。リンク飛びます)

個展「celebration!」のお知らせ
(↑これも個展の別バージョン(?)の案内文)

(↑ノムとミッチーの日常)











2019/07/03

eat LOVEシリーズは真ん中ぐらいまで今書き終えた。

⑸の扉びらきを3時間ほど前にアップして、今は⑹タイトル未定の星トリオとの夜について書き始めた。

いつもそうだけど、シリーズものになる話の時は、最初は全容が掴めていない。

書きながら掴んでいく。

eat LOVEシリーズに関しては、今書いているものがラストのものになる予定。

星トリオとの夜の後に、ミッチーとレイさんの手作りごはんの話が来て、その次にノムとミッチーの話が来て、そして最後3人と過ごした時間のすべての総まとめみたいな感じで書こうと思っている。

その他にも、ホロスコープと重なった話とかも書きたいし、レイさんが口にしてくれた話も書きたい。

その辺りは、これをアップする頃には何かしら答えが出て、然るべき形でアップされるなりもしくは引っ込めるなりしてると思う。

とりあえず思いついたことをその時に書かないと忘れるから、今思いついたことから書く。




「問題を解決しない」

この辺りの感覚は、私は若干ズレてるかと思うから、あくまでも私の考え方で価値観だと言い切ってから話し始めたい。

eat LOVE邸というよりノムとミッチーに最初興味をガンガン抱いたのは、ノムが言葉少なめのミッチーをそのままにしていることと、そしてノムはノムでやっぱり言葉が欲しいからその自分の気持ちは気持ちで大切にしていること、そこにものすごく惹かれた。

これってすっごい難しいことだと思う。

ミッチーがベラベラと話したらミッチーではなくなるわけで、過剰にも喋って欲しいとかはさすがになくても、返事が言葉が欲しい時も当然ある。

それを求める自分と言葉少なめのミッチーとの両方を受け止めて両方を生かすって並大抵のことじゃない。

なんだけど、ノムはなぜかそれを自然にやってのけてる。

有名心理カウンセラーとかよりもノムすごいんだけど!と思った。

お亡くなりになられたけれど、河合隼雄さんという有名な心理学者がいられたけれど、その方のやってることにものすごく近いことをノムは知ってか知らぬかやっている。

私もあんまり詳しくはないけれど、2冊ないし3冊ぐらい読んだ河合隼雄さんの本の中のエピソードにすごいそっくり。

私が印象に残っている河合隼雄さんは、カウンセリングを受けに来る人相手に、基本為すがままで、本人が何も喋りたくないとなればそのままにしておくし、心理療法もやりたくないとなればそれもそのまま、なんだけどある時変化が訪れる、その変化は起こってもいいし起こらなくてもいいぐらいの心構えで普通に待っているみたいな感じだった。

変化を起こそうともしてないし、相手を治そうともしていない。

なのに変化が起きるわけだから(本人の力が出てくる)、すごい神の領域みたいなことをしている。

ノムがミッチーとお互いにしていることってそれにすごい近い感じがした。

で、いざノムとミッチーとレイさんがいる聖地へと行ってみて、それは想像していた以上にすごく鍛えられて整えられた空間だと知った。

サイトの中よりも、もっとあのeat LOVE色が色濃く表れていた。

3人のすごいところは、「問題を解決しない」こともすれば、「解決したい気持ちを隠さない」こともしていたところ。

解決したい気持ちを本当は隠したいのかもしれないけれど、関係のない私がそこにぽっと行くと、「解決したい!!!」気持ちがまるで吹き出しのように見え隠れしていて、それがまた何とも言えず良い感じだった。

解決したい本人はそれどころじゃないかもしれないけれど、それさえも空気に滲ませてしまう術をなぜか3人共が持っている。

それっていいなぁと思った。

本気でそう思った。




私という人は、オール1から始まり、スーパー人見知りで言葉を発さない子どもだったから、子どもの頃というのは、学力向上と能力向上と会話力向上と自己表現力向上のための日常的な訓練が至るところにあった。

それらの日々の積み重ねなくしては今の私にはなれないから感謝はしているけれども、代わりにそうした訓練を重ねれば重ねるほど「そのままの自分ではダメなんだ」という自己否定感をこれでもかと自分の中に植え付けていって、典型的な「自己否定強めの人」になった。

そこに加えて福祉の世界に入っていった私は、「問題は解決を図るもの」として教えられた。

悪くはないけれど、それが全部ではないと知ったのは福祉の勉強を始めて現場にも入った後数年経過してからだった。

一番初めに衝撃を受けたのは、今から14年ぐらい前になると思う。

申込制の福祉の1日講座に参加した時があった。

群馬までわざわざ公共交通機関を駆使して何時間とかけて行ってきた。(←隣県とは思えない遠さと不便さだった)

たった一度だけ診てもらった精神科で「うつ」と診断されてしばらくの頃だった。

外に積極的に出れるほどの心の状態ではなかったけれど、申し込んでお金も払ったか何かで無理を押して行った。

行って本当に良かった。

そこでは韓国人の大学の先生がとても素敵なことを教えてくれた。

先生のところに、大人の夜尿症カップルが訪れた。

夜尿症の自助グループで知り合ってそれで結婚した2人とのこと。

その2人が新婚旅行に行くことになった。

だけど、2人とも旅行中におねしょするんじゃないかと心配で気が気じゃなかったらしい。

そこで先生は大胆不敵な提案を2人にする。

「旅行でもらしてきたらいい、それで2人で笑って思い出を作ったらいいじゃない?一生忘れられない思い出になるから!」

そう言って2人を送り出したらしい。

すごいなと思った。

問題を問題として扱うんじゃなくて、そのままにすること、なんならそれを思い出に変えることを先生は提案した。

先生のこの提案は功を奏して、2人は粗相することなく旅行を終えたのだそう。

この話とノムとミッチーとレイさんで作る世界とに共通点を感じる。

とりあえず3人ともが徹底しているのは、何事も受け入れることと否定しないこと。

この徹底ぶりは半端ない。

私が知る限りの人たちの中で一番徹底していて、それもそれは自分が楽になりたいというよりも、自分の近くの大切な人を守るためにそうしているのが本当に伝わってきた。

3人それぞれの一生懸命さが混じり合って、その3人で作る世界は極上すぎて、素晴らしすぎた。




eat LOVE邸で求められたことって、結局自分でいることだったと思う。

例えば何かのパーティーとかイベントでドレスコードがあるとするなら、eat LOVE邸のドレスコードは「自分でいること」。

しかも、この「自分」は限りなく素に近い自分。

例えば私なら、ミッチーのように言葉少なめそして自らベラベラ話すタイプの人ではない人を前にすると、自分から質問を振りまくる。

質問を振っちゃ相手の返答の仕方を観察して、また質問をタイミング見て振って相手の返しを見る…、そのエンドレス行動に出る。

レイさんのように、同性の年上女性相手の時もかなり私はあれこれ立ち位置を考えてしまう。

話し方はもっと考えて、でも今回は気付くとタメ口調な自分に引いたりしながら、でもレイさんは何てことないのか普通に接してくれていて、その不思議な会話のリズムの中で私は楽しんだ。

ノムは、ミッチーに対して確認する時のノムの反応が面白すぎて、時々わざといじってしまった。

普段なら絶対に人をいじったりしないけれども、いたずら心がムクムクと湧いてきたから仕方ない。(←えっ?( ̄∀ ̄;))

喋りすぎな自分に引いたり、初対面とは思えないあまりの心許せる感覚にうっとりしたり、私の中は色々と大忙しだった。

そうした諸々がそのまま出てきてしまって隠せなかった。

普段ならそこまで出ない。

自分でもわかっているけれども、私は人間観察をアホみたくしているし、相手の人の感じを見て話す内容や範囲を決めていたりする。

とにかくいつもいつも意識があちこちに飛んでるわ、相手からどう思われるか気にしいだわ、色々裏を読み取ろうとして訳のわからないことになってるわで、こうして書き出すと本当に忙しい人だとわかる。

でもそれでいいんだなと思った。

思ったじゃなくて「思えた」。

初対面の時の私の自分見せ平均値が1とするなら、eat LOVE邸ではその10倍の10出してた。

もっと言うと、長い付き合いの友達の前で出す自分とそんなに大差ない感じだった。

緊張ゼロとはもちろんいかなくても(限りなく少ない緊張だったけれど…)、それよりも居心地の良さが勝っていた。

だから、私は初対面とは思えないリラックス度で、本当に昔から見知った仲の人たちと集っているみたいだった。



[7/18追記:この中では「eat LOVE邸」と私は言っている。その後、自分の中で書きながらどんどん変化したことがわかるから、文中は訂正せずにそのままにした。7/17に書いた文が下に出てくるけれど、そこに私が「eat LOVE」の後ろにくる言葉たちについて書いた内容とズレている。でもそのズレも書き続けなければ知らない域の話だったから、ここではそのまま「eat LOVE邸」にする。]




2019/07/06

今(8)『星トリオと織りなす占星術』を書いている途中。

こういうのは、出てきたその時に書かないと忘れるから先に書こう。

ノムとミッチーとレイさんと3人で会ったのがどうしてこんなにも印象に、それも体感レベルでの印象に残ったのか。

4人とも大人になって、それがどういう人格であれ、ある程度固まった形に形成された状態で出会ったにも関わらず、それぞれのままで一緒に時間を過ごしてみて、それがめちゃくちゃ心地良かった。

子どもはまだ伸びしろのような変化する部分を持ち合わせているけれど、大人はその伸びしろが基本ないとは言わないけれど、そんなにはない。

自分の感覚も何なのかわからないけれど、子ども相手だと「生理的に本当に無理」なレベルの人は何百人会って2人とか3人のレベル。

思い出しても、2人しかいない。

ちなみに本当に無理だったレベルは、最低過ぎるぐらい人を蹴落とす子と周りを引っかき回す子。

人を蹴落とす子は母親がそうで、その子自身もいつも被害者だったから、その部分はドン引きだったけれども、本人も本人で私が滅多に思わない「可哀想」な子だった。
(超余談だけど、母親は教育の現場に携わる先生だった。)

周りを引っかき回す子というのは、悪口を言いふらして人を傷付けるということを平気でしていた。

こちらの子は本人の気質?と思った(母親は一生懸命な人で、どうしたらこの子こんな風になる?という感じだった)。

書いてて思い出した。

嫁いびりする、でも孫は猫可愛がりなばあちゃんと同居しているんだった。

気質は訂正して、この子もいびつな人間模様が繰り広げられている環境の要因が大きいと思う。

いずれも、大人になって本気で人間関係苦労するよ!!って思って、心の中では常にサジ投げてた。

子どものことで私が完全にサジを投げたのはこの2人ぐらい。(表面上は仕事だから関わるけれど、生理的には本気で合わないタイプの子たちだった。)

なんだけど、これが大人になると、私の「無理なレベル」の種類が途端に増えて、どうしても関わらなきゃいけない時はがんばるけれど、プライベートでは絶対に関わらないことにしている。

ここまでひどくなくても、大人同士のやりとりはやっぱりどこか建前があって、そして本音は隠されて作られる節がある。

それは処世術と言ってしまえばそれまでだけど、それゆえに大人になってから初対面でいきなりピッタリと気持ち良く過ごせるなんて奇跡に近い。

緊張感はそこそこあっても、会ってすぐに、履いた瞬間足にぴったりフィットする靴みたいな、そんなフィット感は最後いつだったかなぁ…なんて思う。

あの時は、ノムが繋がっている先の人たちというのももちろんあったけれども、ミッチーもレイさんもごちゃごちゃ考えなくても肌に馴染むみたいな安心感とフィット感でいっぱいだった。

しかも4人ともよそ行きの顔ではなく、普段の素の状態に近かったと思うけれど、不思議とピッタリなのが心地良かった。




2019/07/11

「愛の現場からは以上です」

今脳裏に浮かんできた言葉。

あと少しで第10話、レイさんとのやりとりを書いてることが書き終わる。

この後狂いがなければ、
第11話:ノムとミッチーの話
第12話:このシリーズ
第13話:最終章
となる。

自分の中で番号にも満足している。

10というのは、1つの数の単位のまとまりで、ここで一旦区切りがつきますよという節目の数だと感じる。

その「節目」というのと、レイさんのキッチリとしたところが好きと言うところがカチッとハマっている。

そのカチッと感に私も満足している。

11というのは、まさにノムとミッチーを表した数字だと思う。

1と1、それぞれ対等に並んでいる様子と2つ揃うと別の数字(もの)になるところがまさに2人を表している。

12は特別な感じはないから飛ばして。

13。

13話で完了するのが本当にピッタリだと思う。

ある時のスピリチュアル系勉強会に行った時のこと。

世の中には13音存在するけれど、13音目は何か?と講師の方から質問が出された。

ピアノとか楽器をする人ならわかると思うけれど、通常音階は、ドレミファソラシの7音にピアノでいう黒い鍵盤部分の5音で合計12音になる。

じゃあ13音目は何か?という質問。

あの時の私は何かスーパー冴えててすぐに答えがわかった。

13音目は「無音」になる。

そう、音の無い世界が13音目。

そして、占星術では13度となる数字は「カリスマ性」を表すとされている。

頭良さそうな発言が続いたけれどv( ̄∀ ̄)v、13度はたまたまこの間東京で立ち読みしてきた占星術の本に書いてあったのを読んだだけ。

しかも私、自分のホロスコープの中に13度なんてないのに、なぜかそのページを読んだ。

話は戻して13音目の話。

eat LOVEシリーズはまさに「無音の世界」の話だと思う。

見えない。

「愛・LOVE」という見えない世界のものを私はひたすら綴った。

見えないし、有形物にはなりえない。

なんだけど、私はeat LOVE聖地では愛を感じた。

愛しかなかった。

そして、その愛の裏側では1人1人が見えないところで涙を流したり固唾を呑むしかないことだってたくさんあることを知っている。

スピリチュアル用語をこの際使うと、「光と闇」の2つで世界は成り立っている。

光だけでは光を認識できないから、必ず闇もセットで同時に存在する。

名古屋ニート時代に、いつもよく散歩に行く名古屋城近くの公園があった。

その名も名城公園 笑。

ある日の名城公園への散歩の時、ひなたを見て「日かげが存在しているからひなただとわかるんだ」と思った。

私は今でもその時の光景を思い出せるけれど、太陽がさんさんと降り注ぐ木と雑草との場所のすぐ隣りには日かげがあって、これひなただけってわけにいかないんだなと思った。

くもりや雨の日を思い浮かべるとわかりやすい。

そういう時は灰色一色の景色になる。

くもりなんかわかりやすいけれど、そこに一瞬でも日が差すってわかるのは、灰色一色(日かげ)に光が差し込むから光とわかる。

すべてが光なら、それはもう光だってわからない。

愛もそうだと思う。

もし愛だけしかこの世になければ、愛を認識できない。

愛とは反対の孤独とか寂しさとかがあるから、愛とわかるものに触れる時、人は愛を感じられる、私はそう思っている。

無音の世界も一緒だと思う。

音のある世界があるように音の無い世界もある。

eat LOVEの最終章は、まさにそれら全てを表すもので、その裏側にある孤独が描かれている。

書いてて思い出した。

最終章の最初の部分だけすでに書き出してあって、その中で私は自分が感じた孤独について触れている。

孤独の方を私は人生で先に知ったけれど、それがあったおかげで、eat LOVE聖地での体験はこれ以上ない愛を感じる会となった。

もし、私が今素敵なパートナーがいて愛されまくっていて、子どももいて子どもからも必要とされて…なんてことになってたのなら、私はそもそもeat LOVE聖地に出かけることもなかったと思う。

もっと言うと、何か特別なことを学ばなくても、自分の人生に与えられた目の前のしあわせを目一杯味わっていたと思う。

色々わからなくてそれが占星術に繋がったし、占星術講座に参加する動機になった。

とするなら、ノムにも出会わなかったし、当然ミッチーとレイさんにも出会わなかった。

あそこにいた私含む4人の大人は、多分どうにもならない孤独を知っている。

「愛が欲しいね」なんて口にしないけれど、すなわちそういうことだと思う。

深い孤独を知っているから、人のぬくもりも知る、そういうことをそれぞれの人生の中で体験してきた同士だと思う。




2019/07/15

今は11話のノムとミッチーの話を執筆中。

この辺りから本格的な佳境に入るから、情報もこれまで以上に盛りだくさん。

よって筆もちんたらちんたらとしているし、今日は朝から爆睡を数回繰り返して、ほとんど何も書かず、ようやく今これまでのやりとりから言葉を引き抜いたりしてる。

さっき2時間ほど前にノムからメールが来た。

【ぶっしーがeat LOVE邸での時間を超人的に記事にしているのは、
それほどの言葉になるくらいに感じることが多かったのだろうと思うのだけど、
それは、頭ではわかっていたけれど、
タイムラグを経て、ぶっしーが何にそこまで感動したのかがようやく腑に落ちた。】

多分、ノムもミッチーもレイさんも3人共そこが日常だからわかりにくいと思うけれど、そこから離れて他人の話みたくここに書かれてあることを読むと、3人で作っている世界の凄さに気付いてもらえると思う。

私も当初3話ないし4話ぐらいのつもりで書いてたら、結局13話までいく予定になった。

21時間の滞在にして、本当に溢れんばかりの情報量で、そして私はそれをどうしても言葉にしておきたい。

私は9割は自分のために書いているけれど、ほんの少しだけ野望めいたことがあって、私が実際に体験したこと、見てきたこと、聞いてきたこと、それらから感じたことを発信して、全然関係のない第三者の誰かにもこの空気を届けたいと思っている。

人間同士誰しもが人間関係に傷付く。

傷付かない人なんてこの世に誰もいないと思う。

そして、何がキッカケであっても、その傷が痛すぎて誰かに深入りするのが怖くなって人と上手く付き合えなかったり自分から距離を置いてしまったりする人なんか、私以外にもものすごくたくさんいると思う。

さらに、社会的に迎合されない何かを自分が持っていたら、それは隠すように生きることの方が多いと思う。

それは最大限自分のための防御で悪いことだとは思わないけれど、生きづらさはあるよねと思う。

大人になった私は、子どもの頃とは違う生きづらさを感じるようになった。

子どもの時は単純に対人関係の中の居場所のなさや、いじめとかによる自分の自己価値の低さなんかが絡んでいた。

大人になって、人間関係は大幅に改善されて自己価値の捉え方もずいぶんと柔らかい方向に向いてきたけれど、今度はそうではないところに生きづらさを感じている自分がいる。

そして、過去の本当に打ち解けられた素晴らしい人間関係は、今も継続されていてももはや地理的に近くにはなくて、今後も生涯を通じて日常の単位で顔を合わせて時間をゆっくりと過ごすなんていうのは期待できない。

そうした人間関係とは別に新しい人間関係も生まれつつあったけれど、私は自分の一存でぶった切った。

一緒にいると傷付くとわかったからで、そしてそれを口にもしてみたけれども(要は本人に直接言う)、合わないことってどうやったって合わないんだなと思った。

それはそうとわかって付き合い続けるか、我慢と言ってもいい、どこか我慢して本音を隠して付き合うか、さもなければ離れるか…、どちらも痛みを伴うし、気持ちの良いものではなかった。

そして、私は切った人間関係に対しては「これ以上良くならない」と感じ取った。

なぜなら、素の部分に違和感があるから。

それは相手の在り方が悪いのでもないし、私の感じ方が悪いのでもない。

「合わない」というのと、その合わない部分に私側が痛みを覚えるから、いるのがしんどくなって、そうまでして関係を続けたいと思えなくなった。

そうやってあきらめまくりなプロセスに入っていった。

それはますます人から離れて孤独を自ら深めることでもあった。

だけど、私は傷付くのももう嫌で、傷と孤独とを天秤にかけて、とりあえず傷からは遠ざかることにした。

それで生まれてしまう孤独は仕方のないことだった。

ただ、ますます人間関係に臆病になっている自分にも気付いて、あちゃー……とは思っていた。

そんな折に3人に出会ったから、もう私は驚く以外の何物でもなかった。

最初から「合う人」というのに私は初めて出会えたと思う。

これまでだって素晴らしい人たちには恵まれてきたけれど、それは最初からそうではなくて、時間の経過と共にお互いに居心地良くなっていったパターンだった。

3人はそうではなくて、お互いに仲良くなる努力なしでいきなりカチッとはまる感覚があった。

いきなり最初から自分の足にピッタリな靴に当たったみたいな感じ。

これまでは履いて慣らすみたいなのが、今回は履いてすぐにピッタリとハマる、そういう感じだった。

そんな人間関係が、それも恋人とかではなく全くの他人同士でそういう関係が持てるなんて夢のようだった。

これは私にものすごい希望と可能性を与えてくれた。

学校で今道徳の授業が評価される教科へと変わった。

私は馬鹿じゃないの?とかなり毒付いているけれど、もうそこまでしないとまずいぐらいに日本そのものが超絶病んでいるんだと思う。

他人を思いやったり自分と他の誰かとの人間関係を見つめたり社会の中で守る必要のあるルールを教科として学ぶことが、普通に法案として通過してしまう時代になった。

物質的な豊かさが増えれば増えるほど、心の闇の部分がどこまでも拡大されていく感じがしてしまう。

そうした中で、社会もだし個人的な体験もだけど、いかにトラブル少なく気持ちが楽になれるか…の方ではなく、もう一度自分の心の望みをどこまでも追究するタイプの人間関係を1から作ってみたいと思えた、3人と出会えたことで。

40も過ぎて理想を掲げるなんて、しかも人間関係での理想を掲げるなんて考えてもいなかった。

でも私はここに来て、「理想を見つめたまま、3人と新しく関係を作れるかも」とまじめに思った。

そして、こんな言い方がいいかわからないけれど、3人と色々関わってみてダメになっても、傷付くことが出てきても、それでもいいって思える自分がいる。

自然体で、それは人間関係おっかなびっくりな自分のままでも、もう一度きちんと誰かと関われるかもしれない。

そういう可能性と希望を3人は見せてくれた。




ノムのメールの後、今度はレイさんから写真とLINEが来た。

レイさんが実家の荷物整理で昔むかしお姉さんが持っていたアメジストのアクセサリーを見つけて、それをペンジュラムにすることにしたと何日か前に教えてくれてた。

ちなみにレイさんは私と会ったすぐ後から、五円玉でペンジュラムを作って色々試し始めたことももっと早い時期に教えてくれた。

私はレイさんにペンジュラムの写真が見たいと言った。

それがさっきやってきた。

レイさんがアメジストのペンジュラムの方はまだ動きがイマイチだと言った。

それを見てすぐに、ペンジュラムに挨拶するようにして日々ペンジュラムに話しかけたり触ったりする様子がイメージのようにパッと湧いた。

ペンジュラム云々の前に、レイさんもペンジュラムもお互いがお互いに慣れていくみたいなことを先にするのがいいだろうことがすぐに思い浮かんだ。

あまりごちゃごちゃ考えずにそのまま伝えた。

念のため、自分のペンジュラムにも聞いて、どうもそれはレイさんとレイさんのペンジュラムから伝えられた内容だとわかったから、それも一緒に伝えた。

レイさんから、早速今夜からやってみる!と返信がきた。

これすっごいサラッと書いたけれど、実は今回初めてのことで、私は自分の資質がパワーアップしたことに気付いた。

私はこれまで言葉として色んな情報をキャッチすることはあっても、映像的なイメージで何かをキャッチすることは一度もなかった。

今回初めてそんなことが身の上に起こって、そして深く考えずにレイさんにさっと伝えられた。

私は何でこんなことが起こったのかよくわかる。

普通なら、石に毎日挨拶するなんて、何とも滑稽な話だし、大人が大人に対して真顔で言うような内容じゃない。

こういうことを考えたり頭の中に入れておくのはこれまではそれで良かったし色んな社会的シーンで役立ったけれど、本当に私が自分の資質と向き合う気なら、そうした常識的な考えはかなり邪魔になる。

他人の目も気になっていたし、相手の反応もあれこれ心配が絶えなかったし、自分が変だと思われるのも不毛だったし…と、そういう余計すぎる思考があまりにもたくさんあった。

でも、レイさんにはそういう心配をしなくていいから、とりあえず出たものをそのまま伝えられた。

内容云々より、そうしたことを自然にやれている自分に気付いた。

そして、ハッとなった。

色んな覚悟を最初から決められたこともあったし、その前には言葉で到底説明できない安心感をもらっていたこともあって、そうなると私は安心して自分が出せて、さらにはその「自分が出せる」という中には「自分の資質」ももっとそのまま出せるということがわかった。

これはノムとのやりとりでも同じことが言えて、私はこの『eat LOVE』シリーズに関しては、過去最高に自由気ままに書いている。

読んでの通り、私は色んなことを瞬時にキャッチしてしまうし、他の人からしたらどうでもいいことがいつまでも気になったり、それをとことん言葉にしないと気が済まなかったり、だから何?みたいなこともたくさん持ってる。

記憶も縦横無尽に飛んでいくし、勝手に色んな記憶が甦(よみがえ)ってきてそれも書かずにはいられない。

そして細かすぎて色々面倒なのもわかる。

これまでは周りに合わせたり周りの状況を見て表現する量や内容を調整していた。

していない時ももちろんあったけれど、圧倒的に調整している回数や場面の方が多い。

それがノムと2ヶ月ぐらい深くやりとりしてみて、そして今回はこのブログもあって、そういう細かいことをノムはこれ以上ない言葉で貴重がってくれてありがたがってくれた。

私はそこで勇気や安心感をもらって、(ますます調子に乗って)もっと自由に表現できるようになった。

なんなら、長文をほとんど読まないミッチーさえも読んでくれてると教えてもらって、私は昇天するかと思った。

そう、3人はそのままの私を引き出してくれるだけじゃなくて、私が持っているものを自然ともっと力が発揮できるように、その部分をものすごくサポートしてくれる人たちだった!

レイさんもノムもミッチーも私をサポートすることを意図していないはず。

ただただ、レイさんはレイさん、ノムはノム、ミッチーはミッチーでいるだけでしかない。

「いるだけでしかない」って超絶難しいことだと思うけれど、それぞれがそれぞれであることってこんなにもパワフルなんだと気付かされる。

しかもそのままでいいわけだから、私も遠慮することなく、そのまま見えたまま感じたままを発信すればいい。

これは想像もしていなかったことで、ものすごく嬉しい誤算だった。

こういう可能性や希望が、日本という超がつく闇を隠蔽体質する国で、枠から外れると叩かれやすい社会的風潮の中で、存在できるなんて凄すぎる!

こんなにもあるがままでいることができるなんて、それってものすごい可能性だと感じる。

そして、私が書く残りの1割の理由は、こうした可能性が誰にでも起こりうると伝えたいことにある。

私もノムもミッチーもレイさんも、最初からこれができたわけじゃない。

むしろ人生の前半は、自分を押し殺すようにして生きてきた過去をそれぞれが持っている。(ミッチーにはっきりと聞いてないけれど、ミッチーも絶対にそうなはず!)

生き上手とは言い難い。

4人それぞれ超がつく不器用な大人だと思う。

それでもこうした体験を手にしている。

多分、3人も人間関係に対して怖さや痛みを持っている。

なんだけど、こういう関係を作れて、そして私なんかは自分の能力まで引き上げてもらっている。

3人を前にすると、私は今まで誰に何に遠慮していたんだろうと思う。

いきなり全部を取っ払って違う風に生きるなんてできなくても、徐々にその自然体なスタイルをもっと日常の至るところに増やしていきたいと思っている。

そう思わせてくれるだけの人たちに出会えたから、私は超人的な長さの文章をひたすら書いている。




2019/07/17

残すところ、このこれとあと最終話だけになった。

1つ前の第11話『愛になる。』を読んだノムから、多分読んですぐに感想を書いたものをもらった。

ノムはそれを読んでこんな風に書いてくれた。

【すばらしい記事をありがとう! コラムでもエッセイでも日記でも小説でも論文でもないぶっしーの記事をなんと言ったらいいのかわからないので、記事っていっているけど、いったい何と呼べばいいのだろうね?  うん。やはり、鑑定書かなあ。魂のおりなす時空間の鑑定書。】

ノムのこの言葉に私は癒されまくった。

実はあの記事1つで、二重の浄化が起きている。

元々ノムとミッチーのことは書く予定でいたし、そもそもそれ見たさに行ったようなところもあるからそこは想定内なんだけど、まさかそれを書くことがノムにとって自分のこれまで積み重ねてきたものが何かを確認してそれが癒しになるというのは想定外だった。

なぜならあそこに書かれたものは、すべて実際に起こったこととあと少しだけ私の感想や視点を入れたくらいで、話を盛ったり作ったりしたのとは違う。

あるがままのある個人たちの日常が描かれただけで、癒しを目的としたのとは違う。

私は実際にeat LOVE聖地に行って3人に会ってめちゃくちゃ癒されたから、その癒されたことを書く。

そこまではわかるけれど、その書いたものによって、話を提供してくれた側(3人)にも何かしらプラスの作用が働くというのは、それを意図したわけでは一切ないから、そうと聞けてとても嬉しかった。




最終話があまりにモリモリ過ぎるから(情報過多ということ)、ここではどうして最終話にはeat LOVE聖地における星トリオ中心の話になるのかの私側の意図を書きたい。

私はこのシリーズの最初から、最終話に関しては3人を必ず登場させようと決めていた。

なぜなら、私がeat LOVE聖地に実際に足を運んでみて、何よりもインパクトがあったのは3人の関係と3人から出ている絶妙すぎるバランス感・空気感だったから。

行く前の私は、ノムがメインで、ミッチーは気持ちが向いた時間やごはんの時間は一緒で、レイさんは夕ごはんに来てくれるんだろう…と想像していた。

だけど結果的に、ノムからアトリエとeat LOVE邸を案内された時間、レイさんと2人きりの短い限られた時間以外は、ずっと4人一緒だった。

そして、その4人でいることこそが私には本当に大事なものをたくさん感じるための時間で、そして多分4人の時間がなければ、1つ前の第11話のノムとミッチーの話もあそこまで書けなかったと思う。

もしあの日、ミッチーが銀座に呼ばれてのノムとの3人とか、もしくはレイさん家庭の都合で不在でeat LOVE邸で3人とかなら、私はまた違った感触を感じただろうし、ノムとミッチーというのが実際に書いたみたいにあそこまでは見えなかったと思う。

ノムとミッチーというカップルにレイさんと私というこれまた全く別の個人があそこに一堂集うことで、それぞれの関係性や私を外した時の3人の空気感があそこまで伝わってきた、そんな気がする。

3人の「絶妙すぎるバランス感」についてもう少し触れておきたい。

「絶妙すぎるバランス」なんて言うと、すごくバランスが取れた関係だと解釈されるだろうから、私から見た3人をありのまま描写したい。

3人のバランスのすごいところは、和音的なハーモニーももちろんあるんだけど、ちょっとずつ音程がずれてしまって不協和音になりそうなところもそのまま持っていることだった。

年齢的なものや家主と借り主という書面上の関係も3人の中には含まれている。

それとは別に、誕生日をお祝いしたり一緒にごはんを食べるという家族的なコミュニケーションもある。

男女の差とか、カップル対個人みたいな差もどうしても生まれてくると思う。

それが良い悪いでもないし、そこを差別的に見るとかいうのも違う。

なんだけど、じゃあ超個人の付き合いが密になるなら、家主と借り主の関係は無くなるかと言ったら、現時点で絶対にそんなことはないわけで、そこの線はどうしても消えない。

消えないけれど、そうしたものを超えた個人の関係が3人にはある。

とにかく、「ない」ことにはできない要素がどうしてもある。

そのないことにはできない要素を持ちつつの関係が、3人とも超人的なレベルで、なぜか不思議なバランスの中で行われている。

バランスを崩すこともどこかほころびが出ることも、3人は三人三様に受け止めながら、それでも「何を大切にしたいか」をその時その時で答えを出しながら今に至ったんだろうなぁというのをものすごく感じた。

私が3人を見て惹かれたのは、上手くいってるところではなく、「どうしよう…」ってなってる方だったかな…と今振り返っても思う。

上手くいく部分は誰でも受け取れる。

3人は見ていると逆で、上手くいかないというか難しくて積極的に向き合いたいようなものではないところから目を逸らさない。

そこが3人の最大の強みだと思ったし、だからこそ今ここまでの関係になれたんだな…なんて全く何の事情も知らない私は感じた。

私にはギリギリのラインで3人が3人とも気を使っているのはいた時に気付いたし、でもなぜか関係がやたらと密なのにも気付いた。

3人共、今の関係を目指して今に至ったというよりも、お互いに試行錯誤する中で今みたいになったという感じだと思う。

本当に全くもって普通ではない3人の関係は、お手本となる関係もないし、正解もない。

正解がもしあるとするなら、3人が一番心地よくいられるポイントだと思う。

それ以外の正解なんて考えられない。

そして三人三様でありながら、3人の共通ポイントがある。

3人はお互いを本当に思いやっている。

これ少し荒い感じの部分を持ち合わせている人がその関係の中にいたとするなら、普通にその関係もバランスもあっという間に崩れる。

それが崩れずに少しずつ少しずつ独特の距離感と空気感で繋がり続けているのは、3人共が互いを思いやりながらその中でベストなバランスを見つけようとしているからだと思う。




3人は気付いたのかどうかわからないけれど、そして私もその辺りが若干いい加減だからごちゃ混ぜ状態だと思うけれど、実はeat LOVEの後に続く言葉には「邸」と「聖地」の主に2つがある。

行く前は、それこそノムとミッチーの家に行くもんだと思って、そして頭の中ではeat LOVE敷地内一帯分ぐらいの大きな屋敷を想像していたから、eat LOVE「邸」で良かった。(実際に敷地は、都会の標準的なコンビニ4店舗分以上の大きさがあると思う。)

でも行ってみたら、同一敷地内にアトリエと母屋とeat LOVE邸がそれぞれ独立した平屋として建っていて(他にももう2軒、別の個人宅がある)、そしてeat LOVE邸は2人の住まいなのは間違いないけれど、私がそこで過ごしたのは2日目の講座に行く少し前の話で、それも10分15分程度で、あとの時間の大半はレイさん所有の母屋で、あと2時間3時間ぐらいがノムとミッチーのアトリエという内訳だった。

そうなってくると、eat LOVE「邸」という言葉がニュアンスというか実際と違ってきて、それでさぁどうしようかとなった時に「聖地」という言葉が出てきて、さらに母屋やアトリエで済むところはそうやって書いた。

「邸」と「聖地」に分けたのにはきちんと理由があって、「邸」は2人の住まいしか含まれないけれど、「聖地」は邸の住まい含めてあそこ全体を指す。

聖地になると、母屋もアトリエも含まれて、より一層大きな枠組みができあがる。

そして、その「差」をとりあえず言葉で分類して良かったと今は思う。

分類したことでそれぞれのカラーや立ち位置がはっきりした。

第11話はeat LOVE邸のまとめだとするなら、第13話(次回最終話になる予定)はeat LOVE聖地のまとめになる。

だから、それぞれが渾然一体となって1つのストーリーが展開する。

情報が多すぎてどう並べてどう展開するかわからないから、今はちょっとゆっくり1つ1つの断片を拾い集めてる。

あと、「eat LOVE」の言葉を外さなかったのにもワケがある。

例えば、「レイさんの母屋」とか「ノムとミッチーの家」という言い方だって当然できた。

だけど、私はあえて「eat LOVE」を残した。

なぜなら、この話の全ての原点に「eat LOVE」の軸があって、全ての話の中に「eat LOVE」の精神が根付いているから。

だから、レイさんの母屋とかノムとミッチーの家とかいう表現にすると、物体の名称としては合っているけれど、今度は性質部分に欠落が出てきてしまう。

あくまでも、どの話の中にも「eat LOVE」はあって、それが直接「食べる」行為が入っていなくても、心はeat LOVEしてる。

そういう私なりのこだわりがあって、それでeat LOVE聖地という言葉を多用していた。

eat LOVEの基礎はノムとミッチーが作った。

第11話を読んだノムからこんな風に感想が来た。

【eat LOVEの中身は、ぼくとミッチーの10数年間の歴史や、運命共同体カップルによる現在進行形の「愛になる」実践記録なんだろうね。2人がコツコツ積み重ねた愛になる記録、記憶。それは知識とか概念とかじゃなくて、実践というか体験】

ノムの書いたものがeat LOVEそのものだと思うし、そして私が見たものもまさにそれだった。

じゃあ何で私が『eat LOVE聖地』を『eat LOVE邸』とは分けて使ったのか。

それは、ノムとミッチーが作り上げたものを軸に、今度はその運命共同体が他の人たちとも繋がり始めているから。

当初は2人だけの世界のものが、2人だけにとどまらず、そこと縁ある人たちがレイさん然り私然りで繋がり出したから。

3人を並べた時に、現時点でたしかに私からして1年以上ご縁のあるノムと一番繋がりが強い。

そして今回、ノムがレイさんと私を繋げてくれたことでそちらも新しく関係がスタートしている。

なんだけど、eat LOVEの世界に足を踏み入れる時は、ノムとミッチーとレイさんがいないと私の場合は成り立たない。

よくよく考えたら、ノムとミッチーと私の3人という時間が10分15分ぐらいあった。

(本来の目的の 笑)占星術講座に行くために、ミッチー運転の車に3人で乗っていた時間。

これもまた特殊な状況だから比べることはできないけれど、これがもし3人でアトリエなりeat LOVE邸なりにいたのならまた違った気がする。

でも、私はその時は決してeat LOVE聖地という呼び方をしなかったんじゃないかなと思う。

カップルの元へ遊びに行ったみたいな認識で、それこそ「eat LOVEな2人との時間」みたいな、そういう言い回しになったかもしれない。

時間の認識はあっても、空間の認識は多分なかったんじゃないかなと思う。

レイさんが加わる、私が加わる、母屋が加わる、そうしたプラスアルファの要素が増えれば増えるほど、ノムとミッチーのeat LOVEカップルの形がより一層際立って、そしてその運命共同体に人や空間が加わることでeat LOVEの精神がもっとわかりやすい形で見えて具現化する。

eat LOVEの発祥者は2人だしその全体の空気も2人が発信しているけれど、そこに居合わせる個人や空間は2人の影響を静かに受け取ってまた新しいものが生まれてくる。

それが【eat LOVE聖地】だった。

本当におかしな言い方だけど、eat LOVEはノムとミッチーが作り出した世界で精神だけど、そこに「聖地」と一言加わるとまた全く別の性質が加わって、これまでに見たことのない人間模様や空間を私は見ていた。

で、星トリオの3人のバランスとアンバランスを両方兼ね備えた状態こそ、eat LOVEの精神を引き継いだeat LOVE聖地という感じだった。

どこかに書いたけれど、光だけでは絶対に成立しなくて闇があってこその光というのと似ていて、きれいでキラキラした側面だけを星トリオの3人が作ろうとしていたらそれはまたちょっと違うものだったと思う。

私が新潟に戻って2週間ぐらいの頃、ノムから私が郵送した3人分の占星術の資料を渡したという連絡が来た。

【今日は3人ともなんか疲れてて、久しぶりにチェーン店のしゃぶしゃぶ食べ放題にいってきたよー。時間いっぱい食べた。笑  で、最後のコーヒータイムでサビアンの渡したら、よろこんでました!!  今日は家に帰らなきゃならないらしく、それで解散したので、中身についてはきっと明日以降にじっくり読むと思われる。
でね、さっきれいさんにぶっしーの(LINEの)IDをメールしたー。】

「今日は3人ともなんか疲れてて」というくだりが良かった。

3人共が「疲れた」けだるい雰囲気を自然と出せるんだなと思った。

もしここで「ミッチーとレイさんでおいしいごはん作ってくれて、コロッケをまたレイさんが僕のために作ってくれて…」なんてくだりがあるなら、私はメラメラと嫉妬したかもしれない(笑)。

別の意味で、お互いの疲れた感がお互いに出せる羨ましさはあったかな…。

いずれにしても、星トリオは星トリオにしか出せない独特の雰囲気がある。

そして、星トリオが成立できる一番の根っこにはノムとミッチーがまずは強固な絆を作っていて、それは愛がいっぱい詰まっていて常に進化していて、それがあるから多分レイさんも安心して2人に会えると思うし、私も3人といてその安心感は絶大だなと思った。

危機の色を隠し持っているカップルと会うと、その辺りがよくわかる。

周りがそれを察知して、その貴重な時間を楽しむとか味わうどころじゃなくなる。

でも、ノムとミッチーは見ていると、本気の運命共同体で、何の拘束力も持たないはずの関係なのに、2人といる第三者は2人の関係を心配なんて一切しなくて良くて、ただただ2人との時間を大切に愛おしんで過ごすことに専念できる。

eat LOVEの2人からレイさんが加わって星トリオになると、eat LOVEは形を変える。

それは2人だけの愛が他の人にも浸透している感じで、その浸透したところに私はどうぞと呼んでもらった。

だから、結果として私は、eat LOVEな2人でもeat LOVE邸でも星トリオの3人でもなく、eat LOVE聖地にいる3人に会いに行ったというのが感覚として一番ピッタリとくる。

【eat LOVE聖地】と呼ぶことで、ノムとミッチーのeat LOVE創始者の2人も、eat LOVEな2人が日常を織りなすeat LOVE邸も、2人のアトリエも、レイさんが加わっての星トリオも、レイさん所有の築100年越えの母屋も、空の星も外の木も2人が飼う猫ちゃんたちも、全部がそこに組み込まれている、そんな印象を私は持っている。




今回の写真のために、eat LOVEの冊子を撮影したら、表紙に折り目が付いて大ショック(T ^ T)。

絶対に汚さないように、折り目も付かないように、取扱注意していたのに…チーン。

最終話の中に自分の細かさについて書いた部分があるけれど、天は二物も三物も与えないようで、こういう物を扱う時のきめ細かさは皆無で、こうした不測の事態は毎度のこと(涙)。

私にはないきめ細かさがふんだんに表れている表紙の『eat LOVE』の刺繍は、ミッチー作だし、製本もミッチー。

不足の事態の中で私が何とか写真に収めた『eat LOVE』の冊子の中のノムの言葉が、私がeat LOVE聖地で感じていたものそのものだと思う。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

いったいどうしてすべては過ぎてゆくのになにかをつくるんだろうね。
食べたら消えてなくなるものを何時間もかけてつくったりさ、
たのしい会話も瞬間的にこの世の果て、宇宙の彼方に消え去っていく。
でも、だから、こんなにも愛しくかんじるんだろうな。
ぜんぶ終わっちゃう、ぜんぶ思い出になってしまう、なんてはかなく贅沢な毎日なんだろう、生きるって。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

2019年7月16日火曜日

eat LOVE ⑾ 愛になる。

(↑今回の主人公カップル:ノムとミッチーの日常)














ぽんぽん。

ノムは右手で運転席のミッチーの手なのか足なのかをぽんぽんと軽くたたいて「行ってくるね」と挨拶した。

後部座席でそれを見ていた私は、一瞬だけ流れた甘い空気に1人で超ニンマリしそうだった。

何せ相手はミッチーだから、ミッチーはそれに対してうんともすんとも返事がなくて、そのミッチーの変わらない姿も良かった。

ここでミッチーが笑顔を向けて手を振って「いってらっしゃい」なんて言ったら、もはやいつものミッチーじゃなくなってしまう。

私はこのミッチーの読めない感じにノムは実は安心感を覚えてるんじゃないかと思っている。

だってこれこそがミッチーだし、素の姿バージョンだと思うから。

私は嬉しかったけれども、ミッチーは少なくともノムにはしないだろう小さな気遣いを私にはしてくれていた。

でもそれと同じことをミッチーがノムにしたら、何かいつもの2人ではなくなってしまう気がする。

もう少しミッチーに言葉でのやりとりをノムは万年求めているのは知っているけれども、もしそれを普通にミッチーがしだしたらノムは逆に慌てるんじゃないかと思う。

いつもヤキモキしてるノムに、そんなノムにおかまいなしのマイペースなミッチー。

2人の日常は、本当に『eat LOVE』というサイトの名の通り、超「愛・LOVE」に溢れていた。

私が知っているカップルを色々思い浮かべるけれど、その中で2人が一番愛に溢れている。

本当に愛でいっぱいだなと感じる。

「ミッチー愛してる」「ノム愛してる」とはたとえ言わなくても、それ以外の方法で2人はお互いに愛を伝えている。

それは見ているとよくわかる。

私、2人の家の隣りの母屋で毎日泊まらせてもらって、2人をひたすら観察して2人の様子を文章に起こすなら、空前の大ヒットとなる映画かドラマの脚本書ける自信がある。

2人の日常は本当に見ていて飽きないし、毎瞬フレッシュな感じがする。

本当に毎瞬毎瞬が一期一会なんだと知る。

同じ日なんてないし、同じ空気なんて本当は存在しない。

そのことを13年近く共にいる2人を見て感じた。




これを書いている何日か前、ミッチーが電話越しに、あまりに精神的にキツイものと向き合っているから食べられないと言った。
(↑7/16現在、すでに終わった話でミッチーは元気だと思う)

その次の日、ノムから「数日ぶりの」ミッチーのトーストだよと、チーズトーストの写真が送られてきた。
(↑土手煮チーズトーストの日)

そして今から3時間くらい前に今度はケーキの写真がきた。
(↑すでにアップした第10話を書いていた日)


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ノム:みっちーキャロットケーキ作ってた。笑

私:ミッチー、キャロットケーキ作れるぐらい、回復したってこと?
それとも、あまりに気持ちが落ち着かないから作ったってこと?
どちらが理由でも、ミッチーのキャロットケーキを食べれるノムが羨ましい!!
わかった!次は私もデザート「も」リクエストしよう!

ノム:ケーキ作れるくらい回復したって感じがするな〜。ピークは過ぎたって思う! これから蝕の満月がくるけどもねえ。笑  いいね、デザートのリクエスト😋😋😋

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相変わらずノムはミッチーの空気から察してるようだった。

私が質問した理由は、ノムがいつだったか、ミッチーはメンタルが乱れたりする時は「刺繍してくる」とか言って作業を始めることがあると言っていたことがあって、それは私的に「無になりたい」のかな…と思って、それならキャロットケーキもミッチーなら回復の意味も気分転換の意味も両方あると思って、それで聞いた。

そして、ノムは相変わらず裏切らない返信をくれた。

空気で読むということ 笑。

そして、私はミッチーの料理は、ノムへの愛がいつもその中に含まれていると思う。

夕ごはんの時にミッチーに聞いた。

「ミッチー、誰かの作ったごはん、食べたくならない?」

「うん、食べたくなるよ」

「ミッチー1人の時は何食べてるの?」

「えー、適当だよ。こんな風には作らない」

ミッチーはたしかに料理の腕も素晴らしいし、何でもオクターブ増しにおいしく作れる。

レパートリーも普段の食材の使い方も、本当に毎日毎日ごはんを作っている人の手慣れた感はすごいするけれど、やっぱり毎日のように作ると誰かのごはんが恋しくなるし、自分以外の味のごはんを食べたいのも一緒だと思った。

しかも1人の時は適当だと言う。

じゃあ何でミッチーが毎日のようにごはんができるかって言えば、それはノムがいるからで、ミッチーもそうやってノムに気持ちを見せてるんだなぁと思った。

ノムがミッチーと付き合う前か付き合ってすぐかの時のコーヒーのエピソードを、eat LOVE聖地から最終回の占星術講座に行く時の電車の中で教えてくれた。

「部屋でコーヒーをミッチーが用意しだしたんだけど、それがさぁミッチー自分の分だけ淹れて僕の分ないの。ミッチーに聞いたら『えっ?飲みたかった?』ってあの調子で聞くんだよね。僕本当にビックリしてさ…」

(書くと長いから割愛するけれど、この話とホロスコープの話とがこの後絡まっていく。だからノムは文句として言ったわけではなく、その先のホロスコープの話をしたくて出した例だったと記憶している。)

ミッチーは基本自分の分だけ用意するのがベースにあった人みたいで、そのミッチーがこれだけ長い年月、日々のごはんを作るって、これは愛がなかったら無理だと私は思う。

自分も食べたいから作るってだけではそんなに日々続かない。

だけど、誰かと食べる、それも大切な人と囲む食卓であれば、それが気持ちの上でのモチベーションになってくれる。

しかも、ミッチーはパン焼いたりちりめんじゃこを手作りするぐらいだから食べ物に超こだわりがあるのかと思えば、子どもの頃自分1人だけ赤味噌がダメで、だけど家族はみんな赤味噌でミッチーだけ別の味噌汁だったと言うから、お母さんミッチーの分だけ別に毎日作ってたの?と聞いたら、いやあさげとかゆうげとかあるでしょ、あれを飲んでたよって教えてくれて、それでミッチーが基本何でもいける口だと知った。

だから、ミッチーはそんなにこだわりありまくりというのとは違うと思う。

作るのも好きは好きだと思うけれど、それだけじゃ作れない。

やっぱり原動力はノムだと思う。

ミッチーのごはんの原動力。




【野村さんのパートナー】

ノムのことを野村さんと呼んでいた頃の話。

去年のある夏の回の占星術講座の後のカフェタイムの時だった。

講座の後は、講座建物から徒歩3分くらいのカフェに毎回移動して、先生を囲んでの質問タイムになる。

その時にどういう流れか、ノムは先生の質問に答えながら「僕ゲイです」とカミングアウトした。

そしてその時に「長く付き合っているパートナーがいて…」と、ここで初めて私はミッチーの存在を知った。

この時のことを私はとてもよく覚えている。

ノムはまるで「僕都内に住んでます」ぐらいの感じで「僕ゲイです」と言っていて、普段から普通にこうやって言ってるんだろうなぁと思った。

ノムは占星術講座の中の唯一の男性受講者で、不思議な空気を放っていた。

私の普段の癖で男の人が結婚指輪をしているかどうかを見る。

ノムのことも確認したとは思うけれど、私はノムの指輪の有無を確認したことは覚えていない。

代わりに、不思議な空気感の方が強く印象に残っている。

格好やリュック愛用してるところを見て、フリーのお仕事か休みの日に来てるだろうことは予想がついた。

先生が「プロのライターさん」と紹介していたけれど、それよりも私の中で残っているのは先生が「野村さんのホロスコープの読み方はきっちりと基礎を全部丁寧に読んでいて、そしてそれを余すことなくわかりやすくまとめているところです。野村さん、占星術をこれまでどこかで学んだんですか?」と聞いていたことだった。

先生はノムの宿題を大絶賛していて、クラスの中で内容を読み上げた。

本当にキッチリとしていて、格好とは真逆の感じがしたから、この方はとても真面目で理系の頭の人なのだろうと思った。

男の人なのに「ザ・男」という類いの空気感が若干薄めで、良い塩梅に力が抜けていて、なのに占星術の読み解きは男性的で、不思議なバランス感覚の持ち主だとは思った。

そうした印象のままノムがゲイでパートナーがいると聞いて、私はお互いに超独立している者同士を勝手にイメージした。

ベタベタしないドライな2人、なんだけど信頼関係バリバリみたいな、そんなのを想像した。

その日の駅までの帰り道、初めてノムと並んで歩いて、その時にパートナーのことを聞いた。

今思うと、ノムはミッチーと付き合う前をもしかしたら回想しながら話していたかもしれないなぁと思う。

パートナーとは10年以上の付き合いで、ゲイでは珍しい長年カップルだと言っていた。

自分もそうだったし相手もだけど、この関係を始めるのにとても慎重にゆっくりと進めていたと言っていた。

この時の私は、まさか隣りの野村さんが幽体離脱とかしちゃう人で、そのカレがごはん作りを日常的にして、2人でたくさんの猫ちゃんと一緒に住んでるなんて全く想像していなかった。

あくまでも、あのキッチリした文章を書くキッチリな野村さんとそのカレもキッチリなんだろう…とだから2人で長く続いているのかな…なんて思った。

まさかキャロットケーキを見て、「回復したと思う」とかパートナーの状態を予想する日常なんて、一切思いつかなかった。

でもあの頃からノムは「パートナー」の話になるたびに必ずミッチーの姿を思い浮かべながら返答していたと思う。

それをもっと感じたのはそのまた何回か後の講座後のカフェタイムの時だった。

先生からノムは質問されていた。

「野村さんのホロスコープはこれこれこうで、なので色んな人たちから自分の(健全な)境界線を越えて、自分のテリトリーにガンガン入って来られるみたいなことはないですか?」
みたいな質問をされていた。

ノムの答えはこんな風だった。
「前はそうだったけれど、パートナーといるようになってからだいぶその辺りが改善されて。僕のパートナーはすごく静かで、僕1人だけなら相手もガンガンと来ても、パートナーが隣りにいるとパートナーが抑制力になってくれるのか、みんなガンガン来なくなるんですよね。どの人もパートナーの前ではガンガン入ってこれないというか…」

これが決定打となって、ノムのパートナー=「強面な超いかついダンマリ兄ちゃんみたいな人」という、単なる妄想が暴走したイメージをミッチーに勝手に持った。

そして相変わらず不思議だったのが、ノムはまるで最近付き合い始めたかのように、パートナーのことを口にする時はいつもとても嬉しそうだったこと。

強面の兄ちゃんでもノムの前だけでは違う姿を見せるのかもしれない…と私の妄想はとどまるどころを知らなかった。

これは言葉としては正解だった。

でも私が思い描いた「違う姿」とは180度真逆のタイプの違うの方だった。

私は勝手に、強面の兄ちゃんは、普段はガテン系みたいな怖いオーラを発していても、ノムの前だけではやさしい甘えたような態度になるのかと思った。




年が明けて、ノムとは私のブログを通じてもう一歩近付く感じになった。

その頃はまだノムとお茶をするなんて思ってもいなかったから、5月の講座の後にノムにお茶に誘ってもらえるなんて想定外の嬉しい出来事だった。

この時も、私の中で相変わらず「強面な兄ちゃん」イメージは健在で、ただノムと話していると2人の親密な間柄が長年一緒にいるとは思えない新鮮さを常に感じるようにはなった。

お茶の席でのことだった。

ノムが「カレの出生時間がわからないから正確なホロスコープが出せないんだよね」と言った。

そこで私がペンジュラムを使ってカレの時間を割り出した。

何が驚いたって、それを知れた時のノムの反応だった。

ノムは本当に嬉しそうに、「これでもっとカレのことを詳しく知ることができる」と言った。

私はビックリした。

5月の講座の前にノムから「講座を受けようかどうしようか迷っている」と連絡が来た。

元々、私同様、自分のホロスコープを読み解きたくて申し込んだ講座で、人のものを読むことに興味がないと言っていた。

だから中級講座を受けるモチベーションがなく、申込みをためらっていると言っていたのに、カレのホロスコープになると俄然テンションが上がっている。

今後私も誰かパートナーができたらすごい一生懸命に読むだろうけれど、ノムのその気持ちもそんな風だった。

とても10年以上連れ添ったパートナーとは思えない喜びようで、そんなにも知りたいんだと少し驚いた気持ちもあった。

その後、パートナー自作の刺繍されたトレーナーや同じく自作のオリジナルカード入れを見せてくれた時も、ノムはとっても嬉しそうだった。

強面の兄ちゃんがノムにだけさっとさりげなくプレゼントするその気持ちが嬉しいんだろうと、そして強面の兄ちゃんもさっと何かを作って「ほらよ」ってな具合にさりげなく何かをプレゼントするやさしさをノムには見せるんだろうと思った。

ノムはその銀座での素敵天空カフェの日から何日かすると、私に連絡をくれた。


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出してもらった時間でチャートつくったら、アセンダントのシンボルがぼく的にはまさに!!!!!!! だった!!
彼のことがようやくわかった気持ちになれたよ!! ありがとう〜〜ヾ(@⌒ー⌒@)ノ

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

(アセンダント=ホロスコープ用語。出生時間がわからないと割り出せないもので360通りある)


この返事にもビックリした。

ノムのビックリマークの多さに「確信」度合いが表れていたし、そして何より「ようやくわかった気持ちになれた」ってどういうこと??と思った。

わかった気持ちになれた?ようやく?あれ10年以上一緒にいて日々一緒に暮らしてるんじゃなかったっけ?、と私の頭の中はクエスチョンマークのオンパレードだった。




【ミッチー登場】

ガテン系よろしく強面だけど心は繊細シャイボーイ兄ちゃんという、もう前情報からの私のミッチー像はえらいことになっていた。

シャイボーイは、ノムが泊まりに行くと決まってすぐに「ミッチー、too シャイボーイだけど、ぜひ会ってみて〜〜。」と言ったからだった。

母屋に入ってしばらくするとミッチーが登場した。

ミッチーに会った瞬間、私の暴走しまくりなイメージが即解体された。

爆破されたと言ってもいいかもしれない。

本当に「やさしい」っていうのがものすごく伝わってくる人だった。

本当に柔らかくて穏和な感じで、ノムもそうだけど、ノムの比ではないぐらいにミッチーはすごく柔らかい空気の持ち主だった。

ガテン系とか強面とか言った人、誰?と言いたくなったぐらいに私の見え方は誤りだらけだった。

シャイボーイなのはすぐにわかった。

成人男性なんだけど、どこをどう切り取っても成人男性なんだけど、少年みたいだった。

ノムもミッチーも2人とも年齢不詳な上、ドラマや映画に出てきそうな独特の雰囲気や世界観を持つ子どもの心のまま大人になった人みたいな感じだった。

子どもの心というのは、純粋無垢という意味での方。

特にノムよりもミッチーの方がその感じが強かった。

レイさんと3人で星を見に行く中年男性2人は、星を見に行くのが本当に似合っていた。

2人を前にすると「中年」とかいう言葉もなんだかおかしくて、ミスマッチな気がする。

ミッチーが隣りにいるとノムのところにガンガン入ってこない人たちの心情や、そういう時のミッチーの様子が今も私は想像できない。

ミッチーは本当に怖い空気は一切出してないし、なんとなく出せない人な感じがする。

ただ代わりに嘘も通用しないだろうから、欺瞞だらけだったり何か後ろめたいことがあったりする大人は、ミッチーの前ではタジタジになるかもしれない。

ミッチーの第一印象は、とっても良い意味で裏切られた。

そして、ノムがミッチーに夢中になるのも、常々ミッチーを知りたくなるのも、そしてミッチーの謎すぎるところをもっともっと知って理解したくなる気持ちも、ミッチーを見てものすごく納得した。

あの講座とかで嬉しそうにパートナーについて語っていた野村さんの姿がミッチーと重なった。

ノムは、ミッチーのいないところでミッチーの話をするのが本当に嬉しくてたまらなかったんだとわかった。

ミッチーはノムにとって「最愛の人」なんだとすぐにわかった。

単なる恋人とか同棲相手とかではなく、人生を賭けての最愛の人・最愛のパートナーなんだというのが、ものすごく伝わってきた。




【ミッチーとホロスコープ】

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リーディング(=ホロスコープの読み解き)をしてもらい、
あらためてカレについて考えたし、
カレにも星のことを通して彼自身の可能性みたいなことを伝えられたよ、ありがとう!

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上の文章は、eat LOVE邸お泊まりのお誘いの前にノムから来たメール。

ノムのカレことミッチーの出生時間をペンジュラムで割り出して、その時間でミッチーの生まれた時のホロスコープをノムが出した。

そのホロスコープを見て、私の中ですごく気になったことを書いてノムに送った。

何せ私の感覚だから、そしてそもそも時間が合ってる合ってないもわからないから、あとは本人がどの程度その話を聞いてピンとくるかが争点だなぁと思って、それで感想を聞きたくてノムに聞いた。

私の中ではあくまでもミッチーの感想を聞きたい程で質問したけれど、ノムからは上のような返事が来て、その後もノムの感想だけが綴られてきた。

もしかして、ミッチー、ホロスコープには全く興味ないんじゃ……と思った。

レイさんも来てくれることになったことを知らせるメールの時は、ノムはレイさんの反応も書き添えてくれていたのに、ミッチーのホロスコープの感想はミッチーの反応の記載はなし。

ははーん…(ΦдΦ☆)ニヤリ、と勝手に想像したのは、ミッチーはホロスコープに興味ないんじゃ…!?ということだった。

実際に会って4人でホロスコープの話になった時も、ミッチーはペンジュラムの時のような食いつきは一切無くて、ずいぶんと淡々としていた。

ノムが自分たちの家にiPadを取りに戻った時、「これはチャーンス!」と思って、単刀直入にミッチーに聞いた。

「ミッチーは、ぶっちゃけ、ホロスコープに興味あるの?」

ミッチーが何という言葉で答えたか忘れたけれど、「ない」と断言したことだけは覚えている。

魂とか天体の名前とか言われても僕にはわからないし、興味もない、それぐらいはっきりと答えを口にしていた。

そんなことは想定内だったからどっちでも良かったけれど、その後のミッチーが口にしたミッチーの想いが忘れられない。

僕は興味ないけれど、ノムがする分にはそれでいいと思っているし、それに対してどうこう思うことはないみたいなことを言っていた。

ちなみにミッチーは「ノム」とは呼んでいない。

私の記憶にある限り、ミッチーはノムのことを一度も呼んでいない。

だからどう普段呼んでいるのか知らない。

もしかしたら、普段も名前なしで「ねぇ」とか「あのさ」という風に呼びかけをしてから話しかけるスタイルかもしれない。

その辺りはわからないけれど(いつになるかわからない次回のeat LOVE観察テーマの1つ!)、ミッチーが自分の在り方もノムの在り方も両方尊重しているのが私にはツボだった。

ホロスコープって知らない人たちからしたら、なんじゃらほいの世界だし、もっと悪く言うと「超絶怪しい根拠なしのオカルト天体話」というところだと思う。

ノムは何か悩み事があると、『光の書』という名のスピリチュアルガイドブック的なものをよく開いているみたいだけど、2人のアトリエにあるその本にミッチーは触れたこともなければ存在さえ知らない可能性が高い。

自分たちの風呂場の前の本棚にノムの愛用書が並べられているけれど、『チャクラ』とか『ソウル(魂)プラン』とか『魔法の学校』とか、あれはミッチーにとって完全なる風景と化してるだろうなと思う 笑。

ノムは多分ミッチーを知りたくて、ミッチーが興味あるものなら自分は興味なくても一度は目に入れたり確認したりするタチなんじゃないかと思う。

でも、ミッチーは、ノムの興味あるものでも自分は興味なければ毎度華麗にスルーするのが常だと思う。

ミッチーのそうした個人主義的なところは、ノムに対して最大限発揮されてると私は勝手に思っているけれど、私はこれこそがミッチーの純粋な愛だと思う。

ミッチーはノムに何かしてあげたり気にかけたり言葉にしたりというような、いかにもノム好みな行動は多分ノムに対して気が乗らない限りしないと思うけれど(ノムの欲しい度が100ならミッチーの提供度は10ぐらいじゃないかと勝手に思っている)、その代わり全く別の形でミッチーはミッチーの愛をノムに見せていると思う。

ミッチーにとっては、ノムに何かしてあげることよりも、ミッチーが一番ミッチーのままでいることこそが、それが相手に示せる愛とか信頼という図式になっている気がする。

だから、毎朝おはようとノムが挨拶することに対して、ミッチーの返しは365日毎日違う返しなんだと思うけれど、ミッチーにとっては形としてノムご所望のおはようを言葉で返すことより、その時の自分の気持ちや感情をそのまま表現することの方がノムに対して「誠実」だと思っている節があるんじゃないかと予想している。

[参考資料:eat LOVE/DAY 10より

それから12年。ぼくは今も彼といる。
毎日おはようってぼくは彼に言っている。
彼はおはようっていったり、ちょこっと会釈するみたいにしたり、
目だけで返事してきたりまちまち。
その態度に、なにそれ、と不満がわいたり、
挨拶を交わせることに幸せをおぼえたりぼくの感情は一定ではない。
その不安定さは、彼を今日も好きという証なのかも。]

ミッチーは少なくとも私の前で難易度高い返し(無視とかスルーとか無言とか)はなかったから、ミッチーが絶対にそれをする相手は相当選んでいることはわかった。

だから、ホロスコープに関してもミッチーが僕は興味ないとあそこまで言い切れるのは、私には「だって僕が興味を持たなくても、僕とノムの関係はダメになったりしないよ」という風に聞こえた。

ミッチーはそんな風に言ってないしそんな風に考えてもないかもしれないけれど、冗談抜きで私にはそう聞こえた。

ミッチーは静かにしていても、ノムとの関係やノムにものすごい信頼を置いていると思う。

僕たちの関係はそんなヤワなもんじゃないでしょ?って。

それはものすごく伝わってくる。

だから超超超感動した、ミッチーのホロスコープ興味ないの答えに。




【恥ずかしいと思ったことない】

ノムからミッチーが20代の初め頃、3年間オーストラリアにいたと聞いた。

その話とゲイに対しての考えをミッチーに聞いた時のこと。

ミッチーははっきりと言った。

「僕はゲイであることを恥ずかしいと思っていない。生きている中で、恥ずかしいと思ったことがない」

そんな風にはっきりと言い切った。

話の前後を忘れてしまったけれど、私がミッチーとノムにとりわけ興味を持っている理由の1つは、2人の関係やゲイであることに対する考え方や姿勢にある。

これはノムには直接言ったし、その夜も私はレイさんも含め3人の前で思ったことを言ったし質問もした(記憶がある)。

私は行く前日にノムにメールした。


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ノムが【「いるよ」ってこと、ただそれだけ】って書いていたところ超良かった!!!
ほら今同性愛者の法的な婚姻関係を求める運動みたいなのがよくニュースに出ているけれど、あれに限らず、世の中にある権利主張みたいな運動に私はいつもどこか違和感を感じていて。
それが何なのかな…と思っていた。
そうなんだよね。
「いる」「存在してる」ただそれだけのことなんだよね。
こんなこと言ったら非国民みたくなりそうだけど 苦笑、たしかに少数派かもしれないけれど、どんな人も等しくこの世の中に存在していて、少数だから目立つかもしれないけれど、私は特別だとは思っていない。だって、例えばノムやミッチーは「ゲイ」という分類に属するかもしれないけれど、だって大元は好きになった人がミッチーだった、好きになった人がノムだった、それが同性だったというだけでしょ?って。例えば私が誰かを好きになるのに「相手が異性だから」そしてじゃあ「Aさんが好きなのはAさんが異性だから」では絶対にないわけで。好きになった人がAさんで、Aさんが異性だったというだけなのと一緒だと思っている。
もし一緒にして不快にしてたらごめんね。
社会的なハードルはもちろん違う。だけど、とりあえずそれは脇に置いて、単純に人と人というくくりで見たら、私はノムが言った【「いるよ」ってこと、ただそれだけ】が一番しっくりくる。
これだけ色んな種類の人たちが世の中に存在しているわけで、どんな人が好きかとかは人それぞれ傾向があって当たり前だと思う。ただその傾向が社会的権利を持っているか否かの差で、でもどの人もどんな立場の人も「いる」、ただただ「いる」、それが全てだと私は思っている。好きな気持ちとか大切な気持ちはみんな一緒だと思っている。表現の仕方とか好みの差にしか私には映らないから、だから、ノムが当たり前のように「いる」それだけだよって言った言葉が本当に響きまくった。

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ちなみにノムが「いる」と言ったのはこれ。↓


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世の中のゲイのイメージは、おそらく「オネエ」みたいなことや「マッチョ」とか、
どこか、異形な、特殊なものを抱く人が多いのではないかと思うのだけど、
そういう人ももちろんいるけど、そうじゃない、
ぜんぜん”ふつうっぽい”人はたくさんいて、むしろそういう人の方が多い。

で、ぼくらもそうだけど、男同士だからって、SEXだけでつながっているわけでもないし、
結婚ができないことが不幸でもないし、
なんというのだろう、ただパートナーが同性ってだけ(いや、それだけじゃないだろうけど)。

というか、そもそもゲイ、LGBTなどいつの時代にもいただろうし、
いるのだから、「認める」とか「受け入れる」とか、そういうことじゃないんじゃない?って思う。
「いるよ」ってこと。それだけ。

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本編とは少し離れるけれど、ここだけ私の主観とノムとのやりとりを書き記したい。

私が何でこんなにも2人の関係に熱を上げるのか。

春のドラマで一番話題になった『きのう何食べた?』がある。

ゲイカップルのごはんと日常が描かれたヒューマンドラマ。

それの感想を書いている人の文章をeat LOVE聖地を後にしたのち、私はたまたま見ることになった。

感想を書いた人は50歳前後の既婚者で成人したばかりぐらいの子持ちの男性だった。

その男性の視点は、まさにノムとミッチーを表しているなぁと思った内容だった。

その人は、ゲイカップルたちは結婚という法的な拘束力を持つことが出来ないことに触れて、それ故に自分たちの気持ちだけで繋がっていることの尊さと凄さを感想として書いていた。

ノムとミッチーもそうで、2人は自分たちの気持ちだけで繋がり続けている。

それってすごく危うくて不確定で実体を持たないどこまでも「見えない糸」みたいなものだと思う。

2人は、法的な権利の主張とかは一切していない。

もちろん、法的に何かしら恩恵に預かるとか守られるなんてこともない。

なのに2人の関係は、私が人生で見たどんなパートナーシップよりも強固で堅実で誠実なものになっている。

そこにいると、圧倒的な「愛」が常にあって、そしてどこかにも書いたけれど、2人の交わす言葉の中に「愛」とか「好き」は多分ほとんどない。

キスしたり手を繋いたりみたいなわかりやすいスキンシップも、唯一私が見た冒頭のノムのぽんぽん以外はなかった。

そうしたわかりやすいものを何も見なくても、その場にいるとものすごい強い愛があって、私みたいな第三者が行くとそれをもろに感じる。

本当に当事者の人たちからしたら私の考えは逆鱗に触れる話かもしれないけれど、私は権利を主張するのが悪いなんて思ってはいない。

だけど、私が同性愛だけではなく他の権利主張のものも見ていて毎回疑問なのが、「その権利を手に入れたら、あなたはしあわせですか?」ということ。

そんな喧嘩を仕掛けるようなことを口にしたら自分が社会にいづらくなるだけだから言わないけれど、私は真面目にそんな風に感じている。

だからこそ、権利的なものを何も主張しないノムとミッチーを見た時に、逆にゼロで、nothing・nothing・nothingだらけで、むしろ社会的に差別や偏見を受けやすい立ち位置にいるはずなのに、「ほんとに敵わん!!!」としか言いようのない2人の在り方や2人の愛に圧倒される。

何も持っていないのに、最強な2人。

それって「何もなくてもしあわせだよ!」を本気で日々実践しているからだと思う。

しかも2人は「しあわせを追い求めよう!」としてるのとは違う。

自分が自分であること、2人が2人であること、それをひたすらやっている。

そしてその2人の日常や在り方を見た私が、そこにものすごい愛を感じる。

相手に自分を捧げているのとも違う。

相手のために自分を差し出してるのとも違う。

なんだけど、お互いがお互いを想い合ってるのは近くにいるとものすごーくよく伝わる。

ノムはノムのやり方で、ミッチーはミッチーのやり方で、それぞれがそれぞれの気持ちを表している。

伝えたいからそうするというようなレベルじゃない。

息をするように、ごはんを食べるように、2人は普通に自分たちの気持ちを出している。

そうだ、「表してる」じゃなくて「出してる」。

ノムはミッチーの反応をもう少し欲してるところもあるにはあるけれど、見返りは一切求めていない。

僕がこれだけミッチーにしてあげてるんだから、ミッチーも返してよ!なんてのはない。

ミッチーはその辺りもっと何も求めてる感がないから(実際は知らないけれど、ノムに何か求めてるなんてのは私は感じられなかった)、もっとさっぱりしている。

求めてはないけれど、ノムもどこまで気付いているんだかいないんだかわからないけれど、ミッチーはミッチーのやり方でノムのことを本気で大切にしている。




【最強の愛を支えるもの】

最強の愛を支えるものをノムは私にメールで教えてくれた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

それはみっちーに限ったことではないけれど、
やはり、ゲイという人種(?)は、特に子どもの頃に、
自分を否定する人は多いと思うし、
ぼくなどは、まさにそうで、
話があちこちに行くけど、

ぼくこそ、居場所を、心の基盤をずーーっと求めて生きてきた、と思う。
”思う”と他人事に書いたのは、
それを求めているって気がつかなかったから。

結果的に、みっちーと郊外の、人との接触がすくない今の家に引っ越してから、
ひきこもり的になり、その繭の中みたいな安全安心さを味わい、
あとから「ああ、ずっとこれが欲しかった!」って気がついたの。

みっちーは、言葉でそういうことは伝えてこないけれど、でも、
カレもまた、居場所を、拠り所を、安全安心なスペースをずっと欲していたんじゃないかな。

で、ぶっしーが書いてくれたように、ぼくはたぶん、
カレのこれまでの人生に登場した誰よりも、それを提供できる人なんだと思う。
うぬぼれじゃなくてね、
ぼくもそうだから、わかる。

で、ふたりとも、リラックスできる場所、時間がたっぷりできて、
毎日のようにゴロゴロして、食っちゃ寝して、
そのダメ人間的日々を、誰からも咎められず満喫して、
それがベースになって、
初めて、自分からなにかを放ちたい、つくりたい、って意欲が、熱がわいてきた。

(中略)

ふたりとも、本当は自分を表現したい。
自分を表現しよう、ってやってきたのに、ずっと怖くって、恐ろしくって、とてもできなかった。
安心なホームができたことで、ようやっと火星に火がついた。(※)

だから、たぶん、ここから第二の人生というか、
これまでの「隠れる」スタンスから、怖くても「表現する」フェーズに入っていくのだろうと思う。

去年から、写真家の人に、カレの料理を撮ってもらっていてさ。
もともとは「料理」が主だったのだけど、あっという間に、
ぼくとカレと猫たちとの「生活」の記録になっていって、
eat LOVEというプロジェクトなんだけど、これはそのまま「愛を食べる」ってことで。

最初に書いた、”ホーム”が、なによりもぼくには大切で、
そして、ぼくだけではなく、「みなさん、ホームって大事じゃない?」
「大切な人といっしょにご飯を食べると幸せじゃない?」ってなことを、伝えてみたいとか思う気持ちがあって。

隠れていて、時代が「ゲイなんて珍しくもなんでもない」って変わるのを待ってから外へ飛び出すのが安心だけど、
誰かがそれをしてくれるのを待っている間に、じゃあ何をしたいのか、というと、
とくにほかにしたいことはなく。
だから、一歩ずつでも自分を、自分たちを表現していこう。
そんなことを思う。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

※…「火星に火がついた」というのは、占星術で「火星」は「(何かの目的や目標のための)行動力」を表していて、だからノムが言うのは、ようやく行動したくなってきたという意味。



ノムとミッチーが築いた王国は、「ホーム」とか「安心安全な場所」とか「自分が自分でいられる場所」だと思う。

その辺りはeat LOVEシリーズの最後に書くからここではこの程度にとどめるけれど、とにかく「ホーム」感が半端なかった。

もちろん、2人だって最初から今の2人みたいな感じではなく、紆余曲折あっただろうし、別れの危機だってあったとノムが言っていた。

ノムがアトリエかな?の中で、2人の馴れ初めというか初期の頃、まだ恋人未満だった頃の話を教えてくれた。

私は勝手に、1年前のいつかノムの口から聞いた「お互いに大切に関係を進めていった」というのは、お互いが大切だから徐々にという意味なのかと解釈した。

もちろんそれもあったと思うけれど、今回もう少し話を聞いたらどちらかと言えば、気持ちがどうなのかよくわからないから少しずつ進めて行ったんだろうなぁと思う、特にミッチーが。

ノムは激しく恋していたと思うけれども、ミッチーはその激しさとは対照的で、2人とも今ほどに関係が続くなんて全く想像できなかったと思う。

2人の気持ちの度合いや表現の仕方が真逆すぎることやその他にもいっぱい色々あったと思うけれども、その都度その都度で2人ですり合わせを行ったんだろうなぁと思う。

サイト『eat LOVE』にもたしか書いてあったし、これは(本来の東京行きの目的の)占星術講座に向かう電車の中でもノムが言っていたけれど、ノムは言った、
「これまで付き合ってきた10数年の中でただの一度もミッチーに否定されたことがない」って。

ミッチーは声を荒げるとか怒るとか否定するとか、そういうのが一切ないって言ってた。

私の超絶怪しい記憶の中で、たしかミッチーも、もしくはミッチーもそう言ったよとノムが教えてくれたのか、全く同じことを言っていた。

「僕、(ノムから)否定されたことない」って。

「あ!2人同じこと言ってる!」ってところだけは記憶にあるから、ミッチーがノムか私に言ったのは間違いない。

2人はどこまでもお互いのことを尊重している。

変な押し付けや「〇〇やってよ!」とか「あなたはいつも〇〇してくれない」みたいなのがない。

やってくれたら「ありがとう」だし、やってくれないことは黙って自分で何とかしている風だった。



ノムが書いたメールの話に戻るけれど。

これはノムにも直接言ったけれど、私がノムが言った言葉の中で超感動したのは、「ぼくはたぶん、カレのこれまでの人生に登場した誰よりも、それを提供できる人なんだと思う。うぬぼれじゃなくてね、ぼくもそうだから、わかる。」と言い切ったところ。

居場所とか心の基盤とか、それを誰よりも提供できる人だと自負できる、自信を持って堂々と言えるなんて、本気で凄っ!!と思った。

これはノムにメールする少し前に知った豆知識だけど、「居場所」という言葉は、言葉が先に生まれたものではなく、言葉が後からついてきたものらしい。

心理学者とかそれ系の人だったと思うけれども、ある時パーティーみたいな場所に出かけたそう。

そこにはたくさん人がいるんだけど、どこにも属せなくて、心ここにあらずみたいな寂しさや孤独を感じて、どうにも気持ちや自分が落ち着かない、その状態を見て「居場所」という言葉が浮かんだとのこと。

それすごくわかる!と思った。

居場所があるって、あれは物理的な場所ではなく心理的な場所のことで、そしてそれは生きている誰しもが欲してるものだと思う。

私は自分の枯渇度もよーくわかるから、それを満たしてもらえることの凄さや誰かに与えられる凄さは本当に身をもって知っているつもり。

それをノムは「自分がカレに提供できてる」と言い切れるってどれだけ凄いんだろうと思う。

ノムは普段そういうことは言わない。

むしろ自分のやっている色んなことに「これでいいんだろうか?」「このやり方で合っているんだろうか?」と悩むことの方が圧倒的に多い。

そのノムが、ミッチーにとっての居場所を提供することに関して、自分は「誰よりもカレの人生の中でできる」と胸張って言えるって、本気で凄いことだった。

そして、そう自信を持って言い切れるのって、人としてものすごくカッコいい生き方だと思った。

で、ノムからeat LOVE邸へ泊まりにおいでよと言ってもらったのは、このメールの翌日だった。

だから私はあのメールの中に描かれている2人を見に行けるんだ!と思って、さらにはその時に初めて『eat LOVE』のサイトを教えてもらって、それに全部目を一気に通して、何なら2回以上読んで予習した上で2人に会いに行った。(正しくはレイさんも来てくれたから、3人に会いに行きます!になった!)




【ミッチーの記憶力】

ミッチーとノムのやりとりは見ていて面白かった。

時々ノムは自分の言ったことが合ってるのか不安になるようで、しょっちゅうミッチーに「で、合ってるよね?」とちょっとだけタジタジしながら聞いてることがあって、私的にはその様子が超ツボだった。

違うと、ミッチーからすかさずさっと訂正されるから(←それはほとんどなかったけれども)、その時のノムはΣ(꒪◊꒪; )))) ってな表情になっていて、空気漫才みたいで面白すぎた。

私は行く前はノムからしか話を聞いてなかったから、ミッチーがどういうタイプの人なのかはノムの話からしか想像できなかった。

実際に2人を前にしてすごく感じたのは、ミッチーの方が1つ1つの細かいエピソードをきっちりと覚えていること。

ミッチーは、ノムとやりとりしたりノムと一緒に訪れた場所なんかは、本当にビックリするぐらいの記憶力を発揮していた。

講座に行くための電車の中で、ノムが「僕さ、時々覚えてなくて、なのにミッチーは超覚えてて、“えっ?覚えてないの?”なんて聞かれるとドキッとすることがあるんだよねー(苦笑)」ともらしてたことが可笑しくて仕方なかった。

ノムの記憶力が弱いというよりも、私にはミッチーの記憶力の凄さの方が上回って見えた。

ミッチーは本当に多くをベラベラとは喋らない。

しかも、言葉と自分の考えや心が一致していないと、それを言ったりしない。

ますます言葉少なめになる。

なんだけど、ミッチーは外には直接の言葉としては出さなくても、その様子やシーンをものすごく鮮明に記憶する能力が他の人よりもうんと高いと思う。

そして、その記憶する優先順位は、自分にとって大切なものとかインパクトのあるもの…となっているはずで、ノムとの記憶はミッチーの中でもとりわけ超上位に君臨しているかと思われる。

具体的なエピソードは思い出せないけれど、ミッチーが過去のどこかの場面を切り取った話は、本当に目の前でそのシーンが繰り広げられているのを想像できるくらい、立体的に説明される。

しかも私みたいに1から10まで喋るのとは違って、本当に切り取って厳選された言葉で表現されている。

だから言葉の数としては少ないけれど、その様子がものすごくよく伝わってくる。

そして、それがノムと行った場所だったり、ノムと共に体験したりすることだと、より一層その鮮明度が上がる。

それを聞いて、私はそうやってミッチーは自分の心の中でノムとの時間やノムとの関係をひっそりと愛でてる気がした。

ノムとは日常一緒にいるから、過去をあれこれ振り返るなんてあまりしないかもしれないけれど、私はノムがタジタジしてるそばで、ミッチーの静かな愛みたいなのを感じて、ミッチーの振り返り話はすごく好きだった。




どの辺りで私はそう思ったのかは忘れたけれど、とにかく2人を前にしてリアルミッチーを見ていてわかったことがあった。

その1ヶ月前に、ノムが私にミッチー作のオラクルカード入れやミッチーデザイン兼製作の刺繍されたトレーナーを見せてくれた時、ミッチーはそうしたプレゼントを恋人に普通に軽くさっとする人なのかと思った。

でもミッチーを見て、その考えは変わった。

ミッチーは1つ1つの贈り物に関して大げさには考えてないみたいだったけれど、それでもその1つ1つを自分の心も一緒に織り込んで作ったのだけは伝わってきた。

ミッチー流の愛の表現がそういうものなんだと思った。

トレーナーはまだしも、カード入れなんかはノムのことをよく見ていないとその必要性には絶対に気付けない。

それをミッチーが察してさっと作ってくれたというのは、愛だなぁと思う。

しかもミッチーは簡単な直線縫いではなく、私からすると超技術の要る曲線縫いをして、丸いボール型の入れ物を作っていた。

手間だけではなく技術も要ることを、ただ相手のためを想ってする、それも何の利益にもならないと言っては失礼だけど、本当にそれでミッチーにお金とか何か良いものがもたらされるとかいうものじゃない。

それをさっと作ってさっとノムに渡すミッチーにものすごく愛を私は感じたし、そしてそれを嬉しそうに紹介するノムの気持ちもものすごくよくわかる。

今回で終わった占星術講座の後の先生を囲んでの質問タイムならぬカフェタイムのワンシーンが蘇ってきた。

ノムのトレーナーに注目が集まった。

誰かがそれに気付いてノムに質問したら、ノムは本当に嬉しそうに「カレがデザインしてカレが作ってくれて…」と私の時と全く同じ説明をしていた。

ノムは相変わらずミッチーが含まれる話をする時はとても嬉しそうな顔をする。

好きな人の話をしているとニコニコしてしまう、人類共通のあの表情。

ミッチーにも見せてあげたいぐらい、本当に良い表情をノムはしている。

ミッチーがノムに愛を贈って、それを今度はノムの口から(愛が)語られる。

本物の愛の循環だと思って、私は毎回興味深くノムの様子を見て話に耳を傾けている。

同じ話を聞いているのに、ノムのミッチー話は全く飽きない。

2人のしていることは特別なことではないのに、とてつもなくキラキラしているのは、そのベースが愛だからだと思う。

愛って本当に偉大なパワーなんだと、2人それぞれを見て感じる。




【eat LOVE邸見学】

冒頭の写真はeat LOVE邸の写真になる。

ジブリの映画とかに出てきそうな本当にかわいいお家で、私は木が生い茂る中にポツンと姿を見せている家の姿や昭和を彷彿させるようなドアのデザインに1人で胸がキュンキュンした!

色々目移りしまくりで超忙しい見学になった。

まず、2人の清潔度合いにとっても感動した。

本当にきれいに家を使っていることがよく伝わってくるし、家も2人から愛されているんだなぁという印象がどこを見ても感じられた。

写真家の人に撮ってもらったという2人の写真がお守りとかお札的なものを置くところのスペースに飾られていた。

その写真が本当に良い感じで、しかも毎日2人でいるのに、その写真も普通に飾っている、2人の大切なもののように飾っているところに、なんだかジーンとしてしまった。

話が逸れるけれど、前の日アトリエに行って何が驚いたって、2人の距離感だった。

私はアトリエは、各自がそれぞれの部屋を持っているのかと思っていた。

ところがアトリエは、仕切りとなる戸が外されていて、ミッチーとノムの身体的距離はあっても2メートルで、「ねぇミッチー」って離れたところから話しかけても普通に聞こえるぐらい超近かった。

それぐらいの近さにほぼ24時間単位で日々いられるわけだから、本当にお互いが近くにいても気にならないぐらいの関係を2人は作ったんだなぁと思った。

それぞれが個々に動く時間ももちろんあると思うけれど、多分2人が一緒にいない時間なんて24時間365日の中でもかなり少ないと思う。

家の方も、台所・リビング・寝室で構成されていて、個人の空間はなかった。

家とアトリエがあるから、2人バラバラの建物にいることはできるけれど、ここはミッチーだけのスペースでここはノムだけのスペースという明確な差はないんじゃないかと思った。

基本どちらも2人の共有スペースしかない。

強いて言うなら、ミッチーのミシン周りだけが(広さにして畳2畳ほど)唯一ミッチーだけの場所と言えばそうなるけれど、そこだって区切られてはないから、そしてそこを通過しないとアトリエの奥に入れないから、どこからも隔離された場所というのとは全然違う。

家の中のこともまた別に色々レポートしたいところだけど、その中でもとりわけ私が感動したのは、冷蔵庫に貼られたミッチーのお母さんのからのお手紙だった。

ノム宛に書かれたもので、いつもありがとうということと息子(ミッチー)をよろしくねということが書かれていた。

短い手紙だけど、そこにお母さんの想いが溢れかえっていた。

ちなみに、ノムもミッチーも両親にはわりかし早い時期にカミングアウトしていて、両家共々お互いのことを知ってくれているとのことだった。

去年はミッチーのご両親が何百キロと離れたところからeat LOVE邸を訪ねてきたとも教えてくれた。

2人のご両親が最初にカミングアウトされた時、本当は何が胸にあったのかはわからない。

だけど、少なくともノムの話を聞いていて、どちらの親からもそのままを受け止めてもらえたんだなというのは何となくわかった。

そして、すぐに何でも飛躍しがちな私の脳みそは、「だから2人が安定して関係を築けるんだ」と思った。

ノムが私が人生で出会った2人目のゲイの人だったけれども、1人目の人は還暦の方が年齢的に近い状態の当時、目下の最大の悩み事は死期の近いお母さんにどうカミングアウトするかということだった。

母親が死んでしまう前にそれだけは伝えたいと、そして自分はゲイでも幸せであることをきちんと伝えておきたいと言っていた。

私には想像しかできないけれど、一般的な性とは違う性を体験するというのは、当事者たちからして相当な葛藤を生み出すと思う。

対自分ともそうだろうけれど、多分それ以上に対家族とか対社会に対してもっと葛藤すると思う。

そして、まだまだ社会的理解が低いものでもあるから、それゆえに葛藤の度合いもでかくなってしまうのは、当事者でなくても想像がつく。

という中で、ノムもミッチーも家族から見守られてる感がある。

知らない私が見ていても、それを感じる。

ノムとミッチーが今2人の世界や個人の世界をとことん探究できる生き方の根っこのところには、家族からの見守りも含まれている気がする。

2人のご両親が本当に愛情いっぱいに育てたこともものすごくよく伝わってくる。

本人たちの生まれ持った気質もあると思うけれど、それが本当にやさしい形で引き出されたその土台には幼少期の頃にそれを引き出すことが日々積み重ねられていたのではないかと勝手に推測している。

ミッチーのお母さんの手紙は、自分の息子が大切にしている人への感謝と信頼と愛が一緒に綴られていた。

言葉は短く、「ありがとう」と「よろしくね」ぐらいだけれど、それ以上のものをその手紙からは感じた。

自分の大切な息子が大切にしている人、その人を自分も大事にしたいと思っている気持ちがものすごーく伝わってきた。




【ぶっしーの質問の答え】

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>>>私→ノム

ちょっと、いたずらな質問をリクエストしてもいい?

ミッチーに、「僕が、昨日ぶっしーがミッチーにした質問みたいに、『食べれてないの?』とか『ダメージいくつ?』とか聞いたら、教えてくれた?」とか
「もしかして、ミッチー、僕にぶっしーがミッチーにしたみたいな質問・問いかけをして欲しかった?」とか
是非とも聞いて欲しい(!!!)


>>>ノム→私

ぶっしーからの質問、ミッチーに聞いてみたよ!
(おもしろいことを投げかけてくれたねえ)

ミッチーの答えは、
ぼくに、食べられてないの?とか聞いて欲しいかを尋ねたら、
最初、聞いて欲しいかな。と言って、そのあと、うーんってなり、
「いや、でも、聞いてもらわなくていいかな」ってなった。
その理由は、「(口にしなくても)その感情を共有できていると思ってたから」とのこと。
その答えを聞いて、あ、そうか、って思った。
言葉にしなくても、それこそテレパシーのように伝わっていることっていっぱいあるものね、って。

それから、ぼくの思いとしては、
本当に困っているのだとしたら、手を差し伸べて欲しいと訴えてくるだろうってのもあるし、
それを、「察して」という関係ではなく、
本当に必要なときには「助けて」と、
ぼくがぶっしーに「話を聞いてもらえる?」って電話の要請をお願いしたように、
言葉にする。たとえそれが苦手であっても、苦手だからこそ、ちゃんと言葉にする。
その能動みたいなものは、あって欲しいな、というのがあって。
この「そうあって欲しい」が、ぼくのニーズなんだよね。
この”ニーズ”はそのままの彼を否定していることかもしれないけれど、
この”ニーズ”をもつ自分を、ここでは優先というか、保ちたいなって思ってて。

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これは、ある時ノムと電話して、最後にミッチーも参加した時のことだった。

私が食い意地に基づいて電話の向こうのミッチーに、今日のごはんは何だとか聞いていた時のこと。

ノムもずいぶんと自分が関わるプロジェクトに関して悩んでいたけれども、ミッチーはそれ以上に大打撃だったようで、食欲は減退するわ眠れないわですごいことになっていたことが、私の食い意地質問によって判明した。

ノムもノムで、「あ〜、ミッチーも今あまりおなか空いてないんだね」ぐらいの感じで見ていたものが、まさか「食べたくない」ではなく「食べられない」の方だと知ったのはその時だったと後から教えてくれた。

ミッチーが眠れないのも、ダメージ100がマックスとするならダメージ100なのも、その時知ったとノムは言った。

だから、この記事の一番下にある土手煮のチーズトーストは、そういう経過を経ての数日ぶりの超貴重なトーストの写真になる。

2人の回復を聞いて、それで私が気になってノムにした質問だった。

2人のやりとりは、いつも色んなことに気付かされる。

相手の気持ちも自分の気持ちも大事にしている。

そして、大切なことは、訂正があればミッチーもノムも訂正する。

そのまま曖昧にせず、大事なことは口にする。

口にして相手に伝える努力をしている。

何だかんだ言っても、2人共相手に多くを求めていない。

いてくれるだけでいい、その基本が2人共の根っこの部分に浸透している感じがする。

これは男女パートナーとの差なのか、ノムとミッチーが別格過ぎるのかは知らないけれど、「いてくれるだけでいい」なんていう基本スタンスのパートナーにまず出会ったことがない。

まだ付き合って1年とかそういう初々しい感じの人たちではなく、10年越えのパートナーたちでそんな人たちには少なくとも私は会えていない。

2人のやりとりは、まずそこがスタートで、だからその上にどんなことがやってきても簡単に揺らがない感じがする。

それが感覚的にわかっていたから、私はノムに「ミッチーに聞いてみてよ」と言えたし、2人はそんなことで揺らがない確信がありありだったから聞けた。

2人を前にするとすごいよくわかる。

「いてくれるだけでいい」そう思って日々生活を一緒に営んでいることを。

そして、大人になったから余計とわかる。

「いてくれるだけでいい」って大人になってから誰かのことをそう思えたり、反対に自分も誰かにそう思ってもらえることは、奇跡だということ。




【ノムのつぶやき】

ここでは、ノムが私宛てのメールやLINEでつぶやいた諸々を紹介。

eat LOVE邸に行く前と行った後と、もらった時は色々だけど、いつのどの時でもノムの中にある想いは同じだから、そのままを紹介。



❤️たとえカップルでも家族でも誰もが、本当にはひとりである、孤独な存在であるということを、受け入れた上ではないと、安心して一緒にいることはできないんだって。

eat LOVEに書いた、彼と一つになりたいけどそれはムリだった。彼はぼくのものにならないし、ぼくは彼のものになれない。


❤️ミッチーはほんとに言葉にしないっていうか、何か訴えてこないんだよね。けど、それがいっしょにいて楽なところでもあるのかもなあ。彼はくみとって欲しいのかもだけど、あんまりくみとることもしていないから楽なのかもだけど、、、


❤️あらたまってみたけど、単純に、ぼくとミッチーは2人きりでいる時間が超大事ってこと!笑
不機嫌な顔とかも彼の前でならできるし、彼も無愛想で無口で暗い姿でいられる。
ぼくはそれができる人が1人いるだけで充分ありがたいし、そうできる相手とは、体にふれるとかセックスとか、肉体?野生?本能?レベルの許容しあいみたいなことが必須で。そんな人は、1人だからそんな人なのかも、とも思う。そのカップルの基盤があって、そこが満たされた状態で、はじめて誰かとeat LOVEできる。
その一線を、あたりまえ、みたいにしてちゃんと考えてこなかったんだけど、今回のことであらためて向き合い、この一線がぼくの、ぼくたちの聖域みたいなものかもって思ったんだよね。


❤️愛とは深い絶対的な安心
否定がない状態
ありのままでいられる関係
対立がない
依存がない


❤️LikeではなくLove
“ここが好き”ではなく“あなたを好き”
それが双方間である
ことばにする必要がない
すべてが一致することはないが、すべてが一致しないことを理解し合っていて、その違いを知っていて受け入れている
ふれる・SEXをするなどのある種特別な行為がその関係にはある
動物的・生理的・本能的部分でも違いを求めあい、うけいれあっている関係


❤️寝食をともにしあい生活から性的なことからともにしてきた12年強という相性と年月があって成り立つ今の2人の関係

かわりはいない


❤️その“パートナーシップ”が僕たちの宝
もちろん最初からそうあれたわけではなく、何度も危機があり、それをのりこえて育んだ

ぼくにとってその彼との関係こそが人生の最も大切なものなのかもしれない
それは手にしたことで気がついた


❤️「ありのままでいられる自由」は魂が求めたもの
一生この関係がつづくかわからないが、すくなくとも自分はそれを守ろうと、大切にしつづけようと思っている
それを脅かす要素は、改善したり手放していく
優先順位の問題
両立できないのならば下位のものを手放す
それが何故かというと
彼との基盤のあってこそ
自分がのびのび自分を表現できるから
つまりはけっきょく自分のため


❤️たぶん、ぼくはミッチーと恋人関係にある間は、
彼とふたりでいる時間は、必要で、
彼との間にしか生まれない平穏があるのだよね。
あらゆることを、ミッチーとの間のようには誰とも共有できないだろうと思う。


❤️たくさんキャッチするもの同士だから一緒にいられるのだろうけど、
そうした二人が、恋人関係でありつづけるには、
実は、意識していない部分でも、たくさんの気遣い?みたいなものをしているのかもな、
ってなことを、あらためて、今回の出来事で思うよ。




【猫とミッチー】

ノムが家の中を色々案内してくれてる途中で、ミッチーもいつのまにか母屋から荷物を持って戻って来ていた。

朝ごはんの後、講座出発前までのものすごく限られた時間の中で、ノムは私にeat LOVE邸を案内してくれていた。

多分時間にして10分とか15分だったと思う。

ノムとミッチーは9匹?10匹?の猫ちゃんたちと暮らしている。

2人とも飼おうと思ってそうなったのではなく、いつからか猫たちがやってくるようになって気付いたら住みつくようになったらしい。

リビングなんかは猫ちゃんたちの居場所の面積の方が明らかに2人の占有面積より広いんじゃないかと思うほどだった。

で、いつのまにか母屋から戻ってきていたミッチーは、その中の1匹を両手で抱えて、自分のおへその前あたりに抱きかかえながら小さな赤ちゃんをあやすように体を左右に揺らしながら腕の中の猫を見つめていた。

そのすぐ近くでは、別の猫が自分もそうしてもらおうと順番待ちしていた。

私はそのシーンを見て、ものすごく胸がキューンとなった。

涙が出そうなほどだった。

おかしな発想なのはわかっているけれども、ミッチーのその姿を見て、なぜか私はミッチーとノムが里親とか養子縁組とかをして子どもを預かって一緒に過ごすみたいなのを思い浮かべた。

それは勝手にイメージとして画像が浮かんだ感じで、私も何でそんなものが思い浮かんだのかはわからない。

本当に一瞬のシーンなのに、私には忘れられないシーンになった。

それを見て、ミッチーが愛情いっぱいの中で育っただろうことが伝わってきたり、そしてその親のような部分も掛け合わせてノムが今度はミッチーに愛を注ぎ続けていることを思った。

ミッチーの抱っこの仕方は、愛を知っている人でなければ絶対にできない抱っこの仕方だった。

お母さんが小さな赤ちゃんを抱っこする時のあの雰囲気にとても似ていて、それはもうとどまることのないずっと半永久的に供給される愛って感じだった。

そして、ミッチーはそういう姿をあのeat LOVE邸ではごく当たり前に出していたし、そうできるほどに安心安全をあの場で感じてるんだなぁと思った。

これは私の偏見かもしれないけれど、男の人たち、特に大人の男の人たちが、わかりやすい形で愛を表現することは一般的に少ないと思う。

ノムみたいに言葉や態度で豊かに自分の気持ちを表現する人も中にはいるけれど、そんなタイプは超類いまれで、大体の男性は感情表現の中でも特に「愛」にまつわるものは、超苦手だと思う。

なんだけど、ミッチーのその姿は本当に愛に溢れかえっていて、見ていると泣きたくなるぐらいのものが出ていた。

感動して胸が震えるみたいなタイプの泣きたいの方。

何てすごい王国を2人は築いているんだろうと思った。

自分の中にある愛や何かを大切にする気持ちや愛しき存在をそのまま愛でる行動を、余すことなくそのまま出している。

言葉になんかできないものを2人はひたすら日々積み上げて、2人にだって方向性なんか見えないまま積み上げていたと思うけれども、少なくとも私のように初めて見た人の目にも2人の積み重ねたものや軌跡が見えるようだった。

2人が大事に育てたものは、居場所でホームでそしてその根っこにはいつもいつもお互いを思いやる愛があるんだと私は思って見ていた。

何にも法的な保証なんてない中で、2人が築き上げたものは、2人にとっての唯一無二のしあわせの形で、2人だからこそ作れた唯一無二の愛の形なんだと思う。




【ノムとミッチーの最近】

ーーノムのメールよりーー

散歩に出る報告をアトリエにいるミッチーに言いにいったら、
ぼくの顔をみて「大丈夫?」って。
そんなこと、言うことは稀だから、おどろいたな。

けど、それくらい大丈夫じゃない顔をしてたんだろうなあ。




私も驚きを隠せなかったこの2人のやりとり。

ノムが大丈夫かどうかよりも(←こらっ!)、ミッチーが「大丈夫」なんて声をかけるそのことに超驚いた(´⊙ω⊙`)!

ノムも悩み事とか一瞬飛んだんじゃないかと思う。

このやりとりに2人の日常がにじみ出ている。

出かける前に一言声をかける。

これって、誰か大切な人に自分の所在を明らかにするのと、あなたの元へまたきちんと帰ってくるよという意思表示と、今の僕にとってあなたはそういう存在なんだよというのを全部織り交ぜた行為だと思う。

1人暮らしニート時代に何が一番怖かったって、うっかり死んでしまったらどうなるのかな…ということだった。

死ぬのは構わなくても、うっかり死んで腐敗死体とかそういうのは嫌だなぁ…ってけっこうな頻度で考えたことだった。

ノムもミッチーも法律上は同居人とかになるのか、それぞれが独立した世帯に登記上なっているのかはわからない。

役所の書類上は何であっても、今日も今日でノムとミッチーなのには変わりない。

そうした時に、本当に小さなやりとりだけど、このやりとりがとても大切だとわかる。

究極のことを言えば、やってもいいし、やらなくてもいい、どちらでもいいことだと思う、一声かけて出かけるのは。

でも、「やる」となった場合、これは絶対に気持ちがないとやれない。

いちいちノムの中で「気持ちを持ってミッチーに一声かけてから出かけよう」なんて考えたわけじゃないと思う。

ミッチーだって「ノムに“大丈夫?”って言った方がいいのかな?」なんていちいち考えて言ったのとは違うと思う。

ごく自然な流れでお互いにそうしたに過ぎないんだろうなぁなんて思う。

なんだけど、そこには2人だけのリズムがあるし、そのリズムが自然に生まれるまでの積み重ねがある。

一声かけてから出かける、大丈夫?と声をかける、これって全然当たり前のことじゃない。

2人が作った2人だけの日常で交わされる、当たり前のようにあるけれど当たり前じゃないもの。

しかもミッチー、じーっとノムを見つめるなんて普段してなさそうだけど、見て感じたんだろうなぁと思う。

なんか大丈夫じゃなくない?って。

多分ノムが見てないところでミッチーはノムのことをたくさん見ている。

ノムは物足りない感じを口にしていたけれど(笑)、多分ミッチーはノムが思っている以上にノムのこと見ているような気がする。




ノムはノムで相変わらずミッチー研究に超励んでいる。

ノムに真面目なメールを送って、その返信が返って来た時に、その中の3分の1以上、少なくともiPhoneの画面に収まらなくてスクロールを数回する以上の長さが、ミッチーのホロスコープ研究の話に費やされていた。

ノム、本気でミッチーのこと愛愛愛してるし、本気でミッチーの魂の説明書(=ホロスコープ)を読み解こうとしているなぁと思った。

面白く読んでたら、途中いきなり
「って、今日は占星術の話をしたかったのではなかった!」
とか言い出すから、読みながら吹き出した。

天体同士の角度なんかも少数第2位まで見たぐらいの徹底ぶりでミッチーのホロスコープを超読み解いていて、ノムは相変わらずミッチーを知るためのホロスコープ読みに夢中なようだった。

なんなら今日の日中、この記事のタイトルのやりとりの時でさえ、ミッチーのホロスコープについて一言以上添えられていて、本気でミッチー大好きだなと思った!

タイトルが用事なのか、ミッチーのホロスコープが用事なのか、相変わらずよくわからない面白可笑しいやりとりになった。

一応今回は写真を分けて載せたいと思っているけれど、下の方の写真はノムからこの2〜3週間の間に送ってもらったもの。

第何話かに登場するミッチーのお母さんから送られてきた材料で作った土手煮の夜ごはんの日と、翌朝数日ぶりに2人で食べた土手煮のチーズトースト(←食欲復活の印)と、いつかミッチーが作ったキャロットケーキと、そしてこれをアップする今日送られてきた今日のチーズトーストは「紫キャベツと鳥のささみのチーズトースト」とのこと。

野菜高騰中の今、「紫キャベツ!?」とビックリしたけれど、ノムいわく「最近、野菜が安くてそろいのいいスーパー見つけて、野菜率高くなってる。笑」とのこと。

もちろん選定はミッチー。

今日もeat LOVE邸ではおいしいごはんが作られていて、2人でおいしく囲んでいるんだなぁと、いつも写真が来るたびに思う。

愛の食卓の写真を私も自分のiPhoneにそのまま保存している。←見ていると癒しになる( ̄∇ ̄)ついでに、パートナーシップ運もアップしてくれないかと思うv( ̄∀ ̄)v




【『愛になる』が生まれるまで】

早起きしたノムからLINEが来た。

基本午前中のわりかし遅い時間に起床みたいなことを言っていたから、9時台に、しかもその少し前に私が出したものに即返信が来て驚いた。

ふと思い立って、ノムに電話した。

スリーコールぐらいですぐに出てくれた。
(ノムは携帯はガラケー、LINEはiPadだから普段どのように両者を身の回りに配置しているのか知らない。ただ、iPadは開かない限り気付かないから、それで私の中では「急用」だったから、初めてガラケーに電話した。)

「あのさー、ノムとミッチーで今回の記事のタイトルを考えてくれない?
私が題名付けてもいいんだけど、2人のことだから2人に付けてもらった方がいいかな?と思って。どんな言葉でも任せるし、どうしても付けられない、無理、ってなれば私が付けるけれど、そうでなかったら2人に付けて欲しい」

そうお願いした。

2人にはそれよりも前に、下書きの超途中(4分の1程度の完成時)でこの文章を送ってさっと読んでもらった。

その後からものすごい量を付け足したけれど、中身のテーマは変わらないから、その状態でタイトルを付けてもズレないことは想像できた。

ちなみにあまり考えていなかった私の中で出ていた候補は、
『ノムとミッチー』
『愛を食べる2人』
とかで、なんかどれもしっくりこなくて困っていた。

『ノムとミッチー』だとまるで『ぐりとぐら』という絵本のタイトルみたいで、味気ないと思った。

『愛を食べる2人』だと、表現が若干生々しいと思って、なんかそれもピンとこなかった。

頼んで大正解で、それから数時間後にノムから連絡が来た。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

愛になる。

ではどうかな?

うーむ。

愛になる生活。

うーむ。
どちらかピンときましたら!

みんな愛から生まれた愛なんだろうけども、いろいろ付着したりしてゆがんだりするでしょう?

ミッチーが1人のときはパパとすますけど、2人になると何品もつくる。ってな感じに、誰かといることでひとりの時に隠れている?自分がでてくる。ぼくらは、もちろん不穏な空気のときもあるけど、一緒にいると、愛になれる感じがあって。愛はまたIでもある。わたし。わたしになることで、相手もわたしになることができる。その健全さみたいなものをぼくたちは大事にしているのかもな、って。

愛になる。は、人生のテーマっていうか人類のテーマな気がするから、「愛になる」だと視野が広い感じがする。宣言のような感じも。「愛になる生活」は、具体的で、個人的な感じがする。どっちがいいんだろう? って迷うから、ここは執筆者にまかせたいー。そして、アップしたものでどっち選んだか知りたいー! ちなみにごめんね、ミッチーは、うん、それでいいよ。って感じだった。笑

いまトースト焼いてるとこ。焼けたら写真送るね〜

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


ノムはまたおいしいトーストを食べられるのかと羨ましくなりながら、ノムの答えがとても素敵だった。

そして、ミッチーの反応も想定内だったのが私には妙に嬉しかった。

私はミッチーが最初からウンウン頭をひねるとは全く思っていなくて、まぁできたらミッチーも参加してくれたら嬉しいけれど、そうではない可能性も高いだろうなぁと思いながらノムに振った。

ミッチーがそうしてくれたとしても嬉しいけれど、そうではなくいつものスタイルで特に可も不可もなくみたいなのでも嬉しいなぁと思った。



上の返事をもらった後、ふと気になってさらに突っ込んだ質問をした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

>>>私→ノム

ところで、「なる」なんだけど、ノムの感覚を教えて。
BeなのかBecome なのか、どっちの方がより「なる」に近い?
それこそミッチーがわずらわしく思わないのなら、英語を使うミッチーにも聞くと面白い答えが出てくるかも!


>>>ノム→私

なる。は、beの方かもしれない。ニュアンス伝えてミッチーに聞いてもbeじゃないか、って。ちなみにミッチーは、それでいい、という風に言葉にもしてないからね。笑  うなづく、みたいな。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ミッチーの反応が具体的にノムから伝えられて、私はその様子を知れて大満足した!

聞いた後、自分でも気になって考えてみた。

色々なシーンを思い起こしながら、2人は基本「be」の方だけど、そのbeの中には「become」も含まれる気がした。

beがあるがままだとするなら、becomeは後天的に何かになることを指す。

2人の愛は、最初からこの形ではなく、2人で試行錯誤しながら、色々すり合わせながら、時には別れも覚悟しながら、そういう歴史を経ての今になっている。

そうした2人の積み重ね部分はbecomeな感じがして、でもbecomeも今はbeに組み込まれてとても自然な形になっている。

私はノムとうなずき担当のミッチーが考えてくれたタイトルがとても好きだし、本当に2人そのものを表したタイトルだなぁと思う。

何の違和感もない。

さらに「うなずく」は、十分ミッチーが参加していることがわかる。

ミッチーは興味ないとか関係ないと判断するとか何か自分のものとは違うとなると、うなずきさえもないみたいだから(←ノムが別件でそれらしいことを言っていた)、うなずくだけでもそれは私の中で十分参加してくれた感じに勝手になっている。

そして、それをこんな風に毎回丁寧に教えてくれるノムのきめ細かさにも感謝と笑いしかない。

こういうのも「愛」あってこその観察眼だなぁと毎回思う。

話が飛ぶけれど、私が「愛になる生活」ではなくて「愛になる」を選んだ理由は、まさにノムが書いてくれたことに直結する。

たしかにここに書いた数々のエピソードは、ノムとミッチーの個人の生活だし、それは2人にしかわからないものでもあるとは思う。

でも2人が見せてくれたことは(2人は見せたつもりもないと思うけれども)、人類共通のテーマ「愛」だと思うし、そして愛が何かわからなくなった大人たちに何かしら「こういうものだよ」とそっと指し示してくれるような話だったりする。

私個人の宣言は不要だけど、私は2人を見て、残りの人生で誰かパートナーとなる人が現れてくれたのなら、その時は2人がしているみたいな愛を少しでも積み重ねられたらいいなと思ったし、傷付くの覚悟でその中に入っていきたいと思った。

私の中で、オカルト体質を発揮して社会の中で人と繋がっていくことよりも(こちらも非常にハードル高すぎてやりたいことでは全くない)、誰か特定の人と向き合うことの方が怖さしかないぐらいに超超超怖い。

1人の孤独より誰かといて孤独の方がより耐えられないことも自分で知っている。

しかも色々強烈な40年だったから、パートナーシップもそんなに明るく楽しいニコニコパートナーシップみたいなのではなく、けっこうヘビーなのが来るんじゃないかと思って
恐れおののいている。

どちらかというと、戦々恐々という感じ( ̄∀ ̄;)。

決して意気揚々ではない。

ミッチーはすごい魅力的な人だし、好きなところもたくさんたくさんある!!!

と宣言した上でこの後に続けたいけれど。

何が私からして2人を見て希望を持てたかと言うと、ミッチーのような言葉少なめなタイプの人とノムが超真剣に向き合って、そしてミッチーもミッチーで超真剣に向き合っているところだった。

ノムのコミュニケーション能力は「神ってる」という言葉が一時期流行語になったけれど、本当にその域だと思う。

ノムはミッチーの言葉にしない部分を超一所懸命言語化しようといつもしている。

eat LOVEの最終回、ミッチーのうなずきストーリーの別バージョンを紹介する予定でいるけれど、そのノムの解説たるや半端なく凄かった。

それを私はもっと早い時期に聞いてたおかげで、今回のタイトル案件に対してミッチーがうなずくだけなのも全然平気というか、どんな形にせよミッチーも参加してくれたと知れたからそれで大満足した。

多分だけど、私のところに今後誰か現れるとするなら、コミュニケーションスタイルにおいて、1から10まで詳細に言葉を発してくれるノムタイプか反対に1言葉を発したらOKのミッチータイプかと言えば、ミッチータイプが来る可能性が高いと思っている。

こんなところにホロスコープ話題を入れるのもどうかと思うけれど、1年前の夏のホロスコープ鑑定で言われたことがある。

「男性で出た場合、不器用で屈折した難しい男性を引き寄せるでしょうね。他の女の子ならちょいちょい選ばない人、だけど(武士俣さんなら)理解してあげられるんじゃないかなという人がくると思います。愛の修行。コンプレックス強めだったり、挫折を経験しまくってたりする男性を引き寄せやすいですね〜」

積極的に認めたい部分ではないけれど、決してこの話が絵に描いた餅ではないことは自分でもわかってる。

仮にミッチーのようにたくさんは口にしないタイプの人が来たとしても、ノムがミッチーを理解しようとするように私もしたらいいんだと思うし(実践はかなりキツイと思っているけれど( ̄∀ ̄;))、ミッチーがノムに示すような在り方で愛を知っていく方法もある。(それがどの程度ノムに見えているのか、その辺りは今度聞いてみたいと思っている)

いずれの場合も、2人を見て感じたのは、色んな愛の形があるということと、愛を伝える手段は無限大にあるということ。

だってミッチーのごはんが愛だととるかルーティンだととるかで、見える世界はガラリと変わる。

本当のところは知らなくても、「愛」だととると途端にしあわせ感が増し増しになる。

しかも、ノムの血や骨や肉が、ここ10数年、ミッチーのごはんによって作られている。

そんなしあわせなことってないと思う。

自分の体を作る成分の中に、自分の好きな人の気持ちも混ざっている。

ノム超しあわせ者じゃん!と大真面目に思っている。

ミッチーもミッチーで、そこに何かしらの愛を感じてると思うし、ミッチーは少なくとも肌の合わないと感じる人とか気が乗らない会合とかはそもそも会うことさえしないみたいだから、誰か特定の人とこれだけ長く、しかもほぼ24時間365日みたいな感じでいるというのは、ミッチーにとってもすごいことなんだと思う。

私のようにパートナーシップ恐怖症みたいな人は他にもたくさんいると思うけれど、ノムとミッチーを目の前で見て、私は怖くてもそこにそっと少しずつ足を踏み入れていけそうな勇気を2人からもらった。

恐怖よりも勇気が上回るというのはものすごいことで、私は過去最高に希望が持てたパートナーシップを2人から見せてもらえた。

そして、本物の愛って、本人たちが何も教えようとしなくても、周りにも良い風に影響をもたらすことができるんだと知った。

私と同世代の人たちは知ってるだろう歌にKANの『愛は勝つ』というのがある。

歌詞の通り、「最後に愛は勝つ〜♪」。

それをノムとミッチーから見せてもらえた。




【さいごに】

さんざん好き勝手書いといて、最後にすごいことを言うけれど。

ここに書いたミッチーは、ノムから聞いたミッチーと本物ミッチーが答えてくれたこと以外は、私がミッチーを見ていた中で感じたことだから、もしかしたらミッチー本人が読むと「僕、それ違うんだけど…」なんてこともあるかもしれない。

それはぜひともノム経由で聞きたい!!!(ミッチーの連絡先は知らない)

だけど、私は私の目に映ったミッチーをそのまま書きたかった。

もしかしたらミッチーは、ノムがいるから単にごはんを作るだけで、それを「愛」とは思ってないかもしれない。

でも私があそこにいて感じたのは、ノムもミッチーのこと大好きだけど、ミッチーもすごくミッチーらしい表現方法でノムのこと大好きだということ。

ノムから何回か聞いた。

「みんなさぁミッチーの料理を食べた人たちは、ミッチーのごはんを毎日食べれていいなぁって言うけれど、たしかにそれはそうなんだけど、そればっかりじゃないんだよね。
だって、ミッチーだよ!
あの宇宙人だよ!」

ノムは気付いているんだろうか。

ミッチーが宇宙人になるのは、ノムの前で一番宇宙人力を発揮すること。

だって私の前ではそんなに言うほど宇宙人じゃなかったもん。

わかりやすいかわかりにくいかという二択なら、わかりにくいところは多々ある。

なんだけど、ミッチーは見ていると「わかりにくい」という一点に対してどこまでもそれを通す芯みたいなのがしっかりあるから、そして嘘つけない人だというのが本当によくわかるから、わかりにくいけれど筋は常に通ってるみたいな、ミッチー道をひたすら極めるみたいな感じがある。

私が苦手な裏表がありすぎて何考えてるかわからないタイプとは全然違っていて、ミッチーの謎めいたところは健全な真っ直ぐさを私は感じる。

だから、私はあまりミッチーを見て宇宙人だとは思わなかった。

けれど、eat LOVEのサイト内のミッチーは、ノムが「ごはんはいいんだけど…」の後に続く言葉の部分がよく表れている。

宇宙人ミッチーの出現率もがぜんアップする。

でも、ミッチーはきちんと選んでいる。

朝のおはようをはじめ色んなことを返事したりしなかったりするのは、誰にでもじゃない。

ノムにだからそうするというのがよくわかる。

ノムの前情報で強面兄ちゃんだけでなく繊細なのもなんとなくわかったから、行く前は「質問とかできないかもなぁ」と思った。

でも、実際のミッチーは際どい質問でも普通にそのまま思ったことを答えてくれて、私なんかは超感動してた。

よく考えたら、子どもの頃から今現在まで、私は「答えない人」というのにかなりたくさん遭遇していると思う。

けっこうな率でくるから、私は基本的に自分から質問を振らない。

なんだけど、する必要のある場面てのはあって、その時はせざるを得ないからしてるのに答えが何も返ってこない。

あれ?私、独り言ですか?並みのスルーを受ける。
(注:私の声は決して小さくないと思う)

って場面を百戦錬磨とは言わないけれど、かなりな確率で当たってきたから、ミッチーが普通に何でも返してくれるのに超感動した。

しかもミッチーは適当に返さない。

必ず自分の中にあるものと言葉とが一致するか確認しながら1つ1つ丁寧に答える。

っていうのを見ていたからこそ、ミッチーが宇宙人になるのは、心を本当に許した人の前でしかしないんだろうなぁと思った。

ノムがそこにたとえ不満を持っていてもっと言葉が欲しいー!!!と切望していても、ミッチーはノムの前では安心してスルーとかとりあえず返事延期とか、各種様々な言葉以外の返事や反応を駆使している。

ミッチーのストライクゾーンは相当狭いはずで、さらに自分の自由気ままな性質をそのまま明かすとなるとさらにゾーンは極小になる。

そこを唯一射止めているのがノムなんじゃないかなと思った。

ノムと話していた時に私は言った。

「これから先ずっと死ぬまで2人一緒だったとして、仮に今から50年後も2人とも健在だとしても、ってことは93歳のノムも言ってると思うよー!
“ミッチー宇宙人でよくわからなくて…”って(爆笑)」

自分で言ってて可笑しくなったけれど、本当にそんな気がした。

ノムもそれに関して笑いながら、全く否定はしなかった。

なんかいいなぁと思った。

50年経っても、ノムはわかったフリをせずに、ミッチーもその時その時のミッチーのままで居続ける、そのスタイルで2人が共に生きる姿が目に浮かんだ。

愛を交わし続ける毎日を2人は今日も東京の空の下で続けているだろうし、いつかどこか違うところに行ったとしてもそうだろう2人がいると思う。

ノムが提唱した「みなさん、ホームって大事じゃない?」「大切な人といっしょにご飯を食べると幸せじゃない?」は、これからどんなに時代が変わっても、絶対的に生き残る。

自己実現とか社会的ステータスとかの前に、まず個は個であって、さらにその個である時に究極欲しいものは「愛」だと思う。

「愛」なんて言うとわかりにくいけれど、少なくとも私がここに書いたものは「見える化」した愛、形になった愛の例だと思うし、なんとなく私でも他の誰かでも1つは真似できそうなのが良い。

すっごい難しいことじゃなくて、ちょっとがんばったら、ちょっと気を配ったらすぐにでもできそうなところが良い。

しかもこの中に書かれている愛は2種類あって、「自分が誰かに渡す愛」と「誰かから受け取る愛」がある。

どっちもとっても大事だと思う。

誰かを愛するというのもとても神聖で素晴らしいものだけれど、誰かの愛を受け取るというのも実はすごい可能性を秘めた愛だと思う。

なぜなら、誰かの愛を受け取るのは、その誰かのことも同時に幸せにするから。

自分の一方通行じゃなくて、相手も受け取ってくれるってすごい奇跡だし、すごい幸せなことだと私は感じる。

いきなり大きな愛を目指すんじゃなくて、とりあえずおはようと言ってみるとか、とりあえずごはんを2人分作ってみるとか、そういう日常の小さな積み重ねの先に本物の大きな愛が育つんだと思う。

ノムとミッチーが今回あてがってくれたタイトル『愛になる』は、まさに誰でも愛を持っているし、その愛と誰かの愛を組み合わせると『愛になる』、そして『愛になる』は『幸せ』にもなることを教えてくれるものだった。

ノムの声が聞こえてくる気がする。

「大切な人といっしょにご飯を食べると幸せじゃない?」

ノムとミッチーが教えてくれた幸せは、そういう幸せだった。

2人の言う「しあわせ」は「幸せ」よりも「仕合わせ」の方が近い気がする。

自分たちも積極的に幸せになるように、仕合わせる。

そして、2人が言う「幸せ」は「愛になる」ということだと思う。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

『eat LOVE』より

DAY 6:
・ぼくは彼のことが好きなのか、愛しているのかよくわからない。
この感情をそんな風に言葉にしてよいのかよくわからない。
ただ、彼との暮らし、ぼくたちの生活をぼくは絶対に愛していると思う。

DAY 10:
・彼との関係に特別な目的も目標もない。
ただ、ただ、大切なものを恥ずかしげもなく大切にしていくこと。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆






2019年7月12日金曜日

eat LOVE ⑽ ご縁を紡ぐ

野村浩平 個展「 celebration!」@ plate tokyo 
(↑ノムの個展の案内文。リンク飛びます)

個展「celebration!」のお知らせ
(↑これも個展の別バージョン(?)の案内文)

(↑ノムとミッチーの日常)



写真:eat LOVE聖地の空より
葉は「希望」や「再生と復活」を意味する
木は「自分軸」「調和」「生命力」「循環」「魂の進化」を表す




「ぶっしーに出逢えて、本当に嬉しい!!
出逢えて本当に良かった!!」

レイさんはこの言葉を何度私に言ってくれただろう。

まだ知り合って10数時間、あと一緒にいられるのは2時間ほど…という頃に、レイさんは朝イチからそんな嬉しいことを言ってくれた。

私ももちろん同じ言葉をレイさんに返した。




毎回、占星術講座の日は、同じ日の夜遅い時間出発の夜行バスに乗って新潟に帰る。

新潟に着くと、真夜中の3時半前とかだから、毎回頭の中は寝ぼけていて、体は疲れているし眠たいんだけど、逆に神経は鋭敏というか、普段出てこないものたちもスッと素直に出てくる感がある。

今回もそのぐらいに着いて、駐車場で車に乗り換えて、家を目指して出発した。

eat LOVE邸でのことが真っ先に思い出された。

色んなことを思い出したけれど、最初だった気がする、レイさんとのそのシーンを思い出したのは。

思い出すたびにポロポロと涙が出てきた。

私は、もし何年か前の自分、特に30歳ぐらいから37歳ぐらいの間の自分に会いに行けるのなら、その自分に伝えたかった。

「“ぶっしーに会えて嬉しい!”と本気で言ってくれる人がもう少しすると現れるから、もう少し人生生きるのがんばって!
がんばらなくてもいいから、生き延びて!」

当時の私は、今以上に彷徨いまくっていて、何で生きているのか、仕事もして生活も営んでいても何のために生きているのか、それがさっぱりわからなくなっていた。

当時一番苦しくなったのは、「何か価値を提供していないと存在価値がない」と思い込んでいたことだった。

それは会社から会社が求める数字を出して表彰された時に、はっきりとそう感じた。

私は他人や社会が求めているものを永遠に提供していないと、世の中では価値がないんだ…と、それは生きる絶望みたいな感じだった。

当時の私にとって、「価値の提供=自己犠牲的ながんばりや努力というのもセット」で、それを残りの人生でずっとしていくのかと思ったら、明日なんて来なきゃいいのに、明日起きたら死んでたとかならないかな…と本気でそれぐらい思って日々を生きていた。

“ありのままのあなただから価値がある”なんていう言葉は嘘だと思った。

なに綺麗事言ってんの?と思ったし、じゃあ何もしなくても本当に価値があるのか…っていうと、そんな世界は存在していなかった。

ニートになるとわかるけれど、本当に社会的役割を手放した時に、それを称賛する文化は日本にはない。

ニートを称賛して欲しいということではなくて、何にもなっていない本当にただの一個人になった時にそれを真っ直ぐに受け止めてもらうなんていう体験は、したことがなかった。

話がかなり逸れるのは嫌だからザックリと言うと、それを誰かからしてもらうことを求めたところでその時は半永久的にやってこないから、代わりに私は自分で自分の心の安心を作ることを始めた。

そこに行くまでに何年もかかっている上、そういうことが自然と身についているタイプの人のまだ足元にも及ばないようなレベルだけれど、それでもそういうことを一切していなかった時よりもうんと良くなってきた。

無価値観みたいなのはだいぶ薄まってきた気がするし、色々やらかしてももしくはやっていなくてもそれが自分だと思えるようになってきたし、その自分とどうしたら少しでも仲良くなれるだろうかと真剣に考えるようになった。

自分自身を敵に回すことが何よりも大変だと本気でわかったから、それをしないように気をつけるようになった。

そういう諸々の積み重ねがあって、そして縁が出てきたのがノムで、そしてノムの先にミッチーとレイさんがいた。

ノムとミッチーとレイさんは、それぞれデコボコしている。

良いとか悪いとかではなくて、本当にそれぞれの人たちがデコボコした自分をそのまま出している。

どこでもそうなのかと言うとそうではなかったとしても、少なくともeat LOVE敷地内ではそのようになっている。

これはものすごい安心感だった。

3人とも完全なる他人なのに、まるで家族みたいな感じでそれぞれがそれぞれのままその場にいる。

私もすっかり安心して、そこに3人といた。




レイさんの存在を知ったのは、eat LOVE邸に誘われるもっと前、星トリオが新潟に星を見に行った後だった。


ノムのメールより…6/13
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ぼくはカレと広い敷地の中の貸家に住んでいるんだけど、
敷地に、大家さんがときどきやってきてね、
なんというか、彼と彼女(51歳女性の大家さん)とのトリオは、
ふしぎな、血のつながりはない家族?親戚?
そういう間柄となったのだけど、

先日ぼくの誕生日があり、
大家さんが、ぼくの「星をみたい!」って願いを叶えるべく
プランニングをしてくれ、すべての準備をしてくれ、車もだし運転もしてくれ、
当初、長野に行く予定だったのが、天候の関係で、新潟へ行く運びとなり、
上越のほうに、車で‪4時‬間くらいかけて、いってきました。

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その後、ノムから
「せっかくだから、大家さんもいっしょに夕飯したいな、と彼女を誘ってみてさ。のむ、みっちー、れいさん(大家さん)という星トリオといっしょに、その日は夕飯を食べるのでもよい??」
と聞かれたから、私は二つ返事で返信した。

【40も過ぎた男の人が「星を見たい」と言ったら、本当に星を観れる場所を探して、そこまで車を出してまで連れて行こうとする、その心を持った51歳の女性】にものすごく会ってみたかった。

こうやって特徴(=すぐ上の文の【】の部分)だけで書き出すと、ものすごく考えにくいというか、イメージしにくい。

聞いたことのない発想を持った人同士の、しかも一応大家さんと借り主なわけで、法律上の賃貸契約もあるのに、そんなの飛び越えて人間関係がある2人、ミッチー入れて3人にすごく興味があった。

今だからわかるけれど、ノムが第三者を話の中に盛り込ませてくる時、必ず一言紹介がある。

ミッチーは恋人だから別枠として(←これは今度書くからその時に説明)、それ以外の人たちの時は基本私にもわかるように一言説明が付け足される。

例えば他の人たちなら、「僕にホロスコープを最初に教えてくれた人」とか「ライター時代から唯一繋がっている人」とか、聞けばすぐわかる言葉で説明される。

その中で唯一レイさんだけだった、ノムが自分の心の中にある想いも付け足して説明したのは。

「ふしぎな、血のつながりはない家族?親戚?そういう間柄」

自分との心理的距離についてわざわざ教えてくれたのはレイさんだけで、だからノムにとってレイさんがとても特別な関係にある人だというのだけはわかった。

それはノムだって「ふしぎな間柄」と呼ぶだけあって、ノムにも説明のつかない関係なんだろうと思う。

わりかし何でも言語化を目指そうとするノムがミッチー以外の人に対して曖昧な表現を使うのは、レイさんぐらいだと思う。

どうしても言葉で説明できないものに関しては、ノムは基本そのようにして、無理に言葉にはしない。

レイさんにだけは、明確な言葉での説明をノムはしなかった。

それはすなわち、言葉なんかでは説明できない関係なんだと思ったし、そしてそれがノムのレイさんとの関係に対する敬意なんだと思う。




ノムに私もレイさんに会ってみたくて願ったり叶ったりというような返事をした後に、ノムからまた返信をもらうんだけど、ちょっとだけ気になったことがあった。

「ひとまず、レイさんにぶっしーのメールのこと伝えたらよろこんでました〜🌟」

何が気になったかというと。

ノムはレイさんに「ぶっしーからOKって連絡来ました」と言うんじゃなくて、わざわざ私のメールに書かれていたことを伝えただろうこと。

もちろん、それはすごく嬉しくて、そんなの一言で済ませようと思えば済ませられるのにそうしなかったノムに驚いたのと、その後のレイさんの反応も意外だった。

ノムはプロのライターさんだけあって、言葉にはかなり忠実に表現をする。

だから、レイさんが喜んでいた、というのは、盛った表現ではなくて本当にそうなんだろうと思った。

そのノムの一言に、会ったこともないレイさんが本当に喜んでくれているのが伝わってきた。

それはいきなり何処の者とも知らぬ私をそんな風に受け入れてもらってるみたいでとても嬉しかった。




ノム・ミッチーカップルとレイさんの不思議な関係を感じながら、いざeat LOVE聖地の母屋へと到着した。

私は勝手にファンキーでぶっ飛んだ性格の大家さんを想像していたわけだけど、実際のレイさんはそれとは真逆の第一印象だった。

第2話の『もなかでお茶タイム』の中で、
「気さくな感じの、普通に一緒にスーパーに行けちゃいそうな、本当に朗らかな雰囲気の方だった。
パンクな性格ではなく、細かなことに目が届いて、きっちりするべきことはきっちりしてるのが好きという感じの、私個人は打ち解けやすい感じの女性で安心した。」
と書いたけれど、もう少し付け足そうと思う。

パンクとかファンキーという言葉は、レイさんを見た瞬間に消えた。

しかも、ノムから前情報がなければ、大きな車にゲイカップルを乗せて、往復700キロと離れた場所へ星を見に連れ出すなんて、とても考えられない感じだった。

見た目と実際にものすごく面白いギャップのある人だとわかったし、きちんとしてそうなのに遊び心もあるみたいな感じに私はますますレイさんがどんな人か知りたくなった。

レイさんは本当に気さくで、初めて会っただけじゃなく、自分の直接の知り合いでもないのに、私を本当に心から出迎えてくれた。

レイさんからして私は、家を貸してる人の占星術講座のクラスメイト…という遠い感じの、っていうかそれは一体誰でどうして東京の郊外まで来るのかという自然な疑問が浮かび上がってもおかしくない、そういう存在なのに、レイさんはその中のどれも気にならないのか、本当に単純に「ノムの知り合いでノムが自分のところに呼びたくなった人」ぐらいな感じで解釈してくれてるのがすごく伝わってきた。

後から聞いたことだけど、ノムの方からレイさんにも「レイさんと引き合わせたい人」として私を紹介してくれていた。

それも手伝って、私は本当に温かく出迎えてもらった。

ごちゃごちゃ細かいことは一旦脇に置いて、レイさんは目の前の私を本当に心待ちにしていたよと言わんばかりの雰囲気に溢れていた。

「あ!すごい歓迎してもらってる!」というのが言葉にしなくてもビンビンと伝わってきた。

その時からすぐに「これはとても楽しい時間になるに違いない!」と私は確信した。

実は人見知りな私は、会ってすぐにそんなことを確信できるなんて、人生の中でほとんどない。

見知った仲になってからは話は別だけど、基本的に初対面でそう感じることはまずない。

大人になってからの私は社交性が磨かれそこそこ人と初対面でも話すし、相手が言葉少なめと知れば自分から話すぐらいのこともできるようにはなったけれど、表面に現れる私とは別に内面は超警戒心抱いていたり超距離を置いて状況を観察するクセは抜けない。

ところが、レイさん然りミッチー然りだったけれど、ノムのおかげもあって、その私の内面の警戒心は発動しなかった。

レイさんを見て「大丈夫」とすぐに思えて、その後に続くミッチーにも同じように感じた。

日本の中でこんなにも安心な心地帯が存在するなんて、ミラクル過ぎた。




そもそもノムと私が占星術講座のクラスメイトということも関係していたとは思うけれども、夕ごはんの後、ペンジュラム体験会やらホロスコープ読み解き会なんかを自然な流れの中でやることになった。

レイさんは自分の出生時間がわからなくて、だからノムも大体のホロスコープしか出せないんだよねと言っていた。

今思うとそれもよくできた話で、その1ヶ月前にノムは目の前で私がミッチーの出生時間をペンジュラムで出したのを見ていたから、少なくともそれを見てノムが出そうと思えば出せなくもなかったのに、ノムはそうしなかった。

すべて後から決まったけれども、私が行くことでそれまでレイさんから誕生日にプレゼントしてもらったペンジュラムを使うのを待って、だからそうなるとレイさんの出生時間もノムが事前に調べることもせず、私がまるで「それやってくるんだよ」と遣わされたみたいにやることになった。

とりあえず見てわかることをレイさんにそのまま伝えた。

伝えた内容は今となればうろ覚えで、ただ唯一その時の感覚で覚えているのは、今という時期はレイさんにとって大きな転換期であることとそこに居合わせる必要があって呼ばれたのかもしれないと思ったことだった。

どの日も一生に一度なんだけど、その中でも個人にとって特に影響の大きい日や時期というのがある。

レイさんにとって今の星回りはまさにそうで、謎のしんどい理由もそこに関わってのことだと思うし、それはまさに生き方そのものをこれまでとは違う「自分のための人生」にするところに入り出していて、そうした諸々のことが星たちに表れていた。

初日の夜よりも、次の日の朝、自宅から30分かけてレイさんが来てくれた時にちょびっと2人きりで過ごせた時の方がさらに濃密だった。

レイさんに「出会えて本当に嬉しい」と何回も言ってもらったこともとっても大きなプレゼントだったし、それで心がホクホクしたことももちろん大きかったけれども、なんだろう、言葉を仮にもらわなかったとしても私はあの高揚感を感じたと思う。

ただただレイさんと一緒にいられる、レイさんと時を共に過ごせる、そのことだけで心が満たされまくりだった。




もう1つ嬉しいことがあった。

これはこの後新潟に帰ってきてからも引き続きの私の宿題みたいになって持ち込まれたけれど、私はまさか目の前の初対面の女性が私の心のわだかまりを溶かす突破口の役目をしてくれる人だなんて考えてもなかった。

そもそも自分の心の傷を癒すことを目的にeat LOVE邸に行ったわけじゃなかったから、そんなことは1ミリも期待どころか考えることもなく伺った。

そして私は客人だし、ノム以外みんな初対面だし、そもそも自分のことをどれだけ外に出すのかも未知数だったから、とにかく楽しい時間をみんなで過ごせたらいいな(あとおいしいごはん楽しみ♪♪♪)ぐらいな程で行った。

今もだけど、「一般人」としてずっと生きてきた私にとって、自分のオカルト体質やスピリチュアルへの興味なんかを口外するのは、相当人を選ぶし、相手の許容範囲は超見る。

そのことで何か関係にヒビなど入れる気は毛頭ないから、そして言わなきゃ言わないなりに普通に関係を楽しめることも知っているから、積極的に口にする気もさらさらない。

だから、ノムがリクエストしていたペンジュラムの扉びらきには立ち会うにしても、私が見たかった『光の書』なんていかにもなタイトルの本を見せてもらっても、それで全部だろうぐらいに思っていた。

だけど、それだけじゃなかった。

第6話『ペンジュラム講習会』でも書いたけれど、その日は4人でペンジュラムやホロスコープのことで大盛り上がりだった。

そして、そこをキッカケに私はレイさんのホロスコープをさっと読むことになった。

見てわかることは喋れても、きちんと紙に書いて調べてないから細かいことはわからない。

それでもわかる範囲のことを伝えた。

実はこれは私にとってかなりチャレンジングなことだった。
(書いてて思ったけれど、「チャレンジ」じゃなくて「チャレンジング」がスッと出てくる時は、現在進行形のテーマなんだとわかる)

ホロスコープ然りペンジュラム然り相手の魂や潜在意識からくるメッセージ然り、どれも軽く伝えられる内容じゃない。

しかも、伝え方も気をつけないといけないし、相手が必要としているのかとかも見ないとだし、何よりこの辺りはすごい繊細な見極めが色々必要だから積極的にやりたいこととは違う。

そして、変に伝えて相手を混乱させたり依存させたりなんてのも好きじゃない。
(依存させたのとは違うけれど、そういうことができると知って、変に頼られてそれを必要とされて私自身が必要とされてないみたいな風に感じて、それで私の方が受け付けられない結果になった人間関係も過去にあった。)

その辺のさじ加減も難しいし、さらにレイさんが年上の女性だというのも私にはためらうものがあった。

これはレイさんがと言うよりも、塾で働いていた頃に痛感したことで、年上の女性でお母さんという立場の人たちには私は何をどうやっても敵わない。

余談だけど、塾の仕事でまだ研修期間だった頃、保護者懇談を影から観察する研修があった。

何教室か行かせてもらって、どうやって主にお母さんたちと懇談するのかをひたすら観察した。

見えないから、言葉だけを聞く時間だった。

9割男性の職場だけあって、1人の女の先輩以外は全員男性ばかりだった。

上から目線で話をしている男性陣にはドン引きしながら、そのやり方は私がすると角が立つとすぐに悟ってやめた。(ちなみにこういう男性たちは、研修の私にも同じ感じできて私はいつも笑顔で「ありがとうございます」と言いながら、心の中では「ばーか!」と悪態ついてた。)

女の先輩は経験数と修羅場数が半端なく多くて、毅然とした対応をしていて、これもまた私的に自分がするのは無理だった。

そこで私が編み出したのは、ひたすら話を聞くのと、困っていることがあれば聞き出すのと、あとは私から見た子どもの様子を話すだけにした。

要はお母さんたちに何も物申さず、頼むのはお金のことだけみたいなやり方をした。

それが私の年齢や立場的(未婚子無し)に一番やりやすくて良好な関係を作れる方法だった。

それは同性として、私が体験していないことを体験してきた方たちに対して並々ならぬ敬意を持っているし、その体験のない私は同じ土俵には立てないし、それをなんとか自分なりに色々経験してどう接するかを試行錯誤して今に至っている。

で、スピリチュアル系のものになってくると、はっきり言って実年齢は関係なくなるけれど、でも現実にコミュニケーションを取るのは実年齢の自分たちなわけだから、そこは配慮が必要になる。

多分私が最大に苦手なのは、年上の子持ち女性たちだと思う。

なぜなら、結婚の苦労も子育ての苦労もさっぱりわからないから(体験したくてもできない 苦笑)、さらにそこに介護だのキャリアだのがくっついたらお手上げで、だから「年上の子持ち女性」という枠組みの中では、レイさんは一番何かを伝えるのに苦手な相手になる。

なんだけど。

レイさんは、その辺が少し違っていた。

レイさんは純粋に知りたがっていた。

しかもどこまでも私を対等に見てくれているのは、なんとなく感じられた。

上手く言えないけれど、私を上にも下にも見てなくて、あくまで「お互い人間同士だもんね」みたいな、そういう空気がレイさんにはあった。

そしてレイさん自身から「知りたい」という気持ちが出ていたのも見て取れた。

初めてのホロスコープの鑑定をした時に、本当に私は最初からものすごく恵まれたと思ったけれども、私がどういう人にだと伝えたいのか、それを相手の子がはっきりと示してくれたことで知ることができた。

私が対象としたいのは、「自分を知りたい人」だった。

運気アップとか相性診断とか職業適性診断とかは、私はできないしやりたくない。

なぜなら、他の誰かの人生はその人の人生だと私は思っているから。

そこに私が口挟んで相手の自由意志や選択を左右するのは絶対にしたくない。(私の勝手な感触で、その手のことを聞いてくる人は往々にして自分で決めることを避けて人に委ねようとする傾向が強い。)

だけど、自分の人生を生きていくのに自分をもっと客観的に知りたいとなった場合、占星術はお助けツールになってくれる。

私は少なくとも手法を知っているわけで、その時は自分自身の知識を使うことこそが正しい行いだと思っている。

レイさんと話していて、レイさんも絶対にそのタイプ、自分を知りたい人だった。

そして、多分自分で調べるだろうなぁというのもなんとなくわかった。

だから、とにかく私側のごちゃごちゃした私情は脇に置いて、話せる範囲のことを伝えた。

レイさんからも感謝されてやって良かったとは思ったけれども、それ以上にやった私の方が癒された。

このことで色々嫌な思いもしてきたから、本当なら怖い体験だった。

なんだけど、やることでレイさんにも私にも双方プラスのことがあって、そしてそれは「やり方(占星術含め自分の使い道)が色々あるのかも」と思えるきっかけにもなった。

新潟に戻ってすぐぐらいの頃、ノムからこんな風に連絡をもらった。

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なんかね、ぶっしーリーディングがレイさんにすごく響いたみたい。楽になれたんだって。だから興味を持てたんだろうね。しかもペンジュラムまで!  伝道師だねー、 ぶっしー。

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そう教えてもらえてとても嬉しかった。

時間にして、トータル30分もレイさんと2人きりで話せた時間はなかったと思う。

なんだけど、一生忘れられないような、そういう濃密な時間になった。

そしてそこからまた新たな展開へと繋がった。




eat LOVE聖地を後にしてから1週間後のことだった。

ノムから手書きで書かれた手紙の写真がきた。

超粋なことをしてくれるなぁなんて思いながら読んだら、「もしぶっしーがOKならレイさんと直接やりとりする場を作るのはどう?」と提案してくれた。

それはノムがレイさん、私とそれぞれやりとりして、そう感じて提案してくれたことだった。

私は二つ返事で、レイさんに私の連絡先を伝えて欲しいとノムにお願いした。

というか、それからまだ1週間しか経ってないことに今気付いた。

レイさんと連絡取れるようにしてもらってそして今日まで、まるでもっと長い時間やりとりしていたみたいに感じていたら、まだ1週間でビックリした。

レイさんからの最初のメールにはこんな風に書かれてきた。


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ノムが最初にぶっしーのお泊りの話した時、「たぶんこれが最後の上京かもしれないから」って言っていて、お泊りの翌日に見送った時にはもっと話したかったのになあって本気で思った。
だから昨日のメールやブログで、またいつか泊りに来てくれることが前提になっていて、本当にうれしく思ってる。
そして、今度泊りに来る時には合宿ばりに私も泊まり込んで、ずっとしゃべっていたいなあと。

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レイさんが出会ったばかりの私に対してそんな風に思ってくれていたことがとっても嬉しかった。

しかも、いつになるかもわからない次の回をレイさんもとても楽しみにしてくれている。

それも、単に楽しみと言うんじゃなくて、次は自分も母屋に泊まって合宿みたくしてずっとしゃべってたいって、夢のようなプランまで提案してくれてる。

同じメールの中でレイさんはこんな風にも言ってくれた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

たぶん、ホントに珍しいことなんだけど、ぶっしーと私はめちゃくちゃ気が合うんだと思う。だからぶっしーのブログには物凄く共感するし、もしかして自分の気持ちを代わりに表現してくれている?くらいに思うことも多々書かれていて、ビックリすることもある。
普段は、メールするにしてもこんなこと書いたら相手は引いちゃうかな?とかおっかなびっくりで、何度も文章を読み直して書き直すことがざらなんだけど、ぶっしーはそんなこと考えずに書いても受け止めてくれるんだろうなーって思う。

私自身、敬語を使うことが苦手な人間。ましてや敬語で話されるのは物凄く距離を感じるから、好きじゃない。
だから、年齢は私の方が上だけど、対等な友人関係でいたいから、お互い敬語抜き、普通に話しましょー。

まだまだお互いのことはほとんど知らないけど、たぶんそんな急いでお互いを紹介しなくても全然大丈夫な気がする。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


レイさんが基本的に、普段は慎重に物事に取り組むだろうことは直接会った時にわかったし、本当に些細なことでもここは気をつけようとレイさんの中でなればそこを本当にそっと気をつけるだろうことも見ていてなんとなく気付いた。

だからこそ、レイさんが気にせずにバッと書いたものをそのままメールしてくれる、というのはレイさんが自分で言うぐらい珍しいことなんだと思う。

それをしても良い相手だと思ってもらえるのはとても光栄なことだった。

敬語に関しては、私から質問した。

会ってる時も気付けばレイさんにもタメ口で、若干自分に引いてた( ̄∀ ̄;)。

私の中で、ノムもミッチーもレイさんも同一線上というか同一仲間グループにいる人たちという感じだから、レイさんにだけ敬語を使うのは何だか変な感じだった。

しかも私がそれをしたくなかった。

だからレイさんが気になるなら敬語にしようと思ったけれど、レイさんに聞いたら普通に敬語抜きで話して、対等な友人関係でいましょーときて、ホッとした。

今まで私も最高に何歳下かわからないけれど(覚えている限り一回り以上は下)、相手は私に対して普通にタメ口だし対等にやりとりできるのが嬉しかったから、それは男女問わず関係性問わずそうだから、それでレイさんにも確認したらOKで、そうしたちょっとした価値観が合っているのもとっても嬉しいことだった。

そして何よりも響いたのは
【まだまだお互いのことはほとんど知らないけど、たぶんそんな急いでお互いを紹介しなくても全然大丈夫な気がする。】
の部分だった。

そうやって少しずつ関係を深められること、少しずつ知っていけばいいこと、そうして言葉にしてもらえることが本当に嬉しかった。

レイさんとのやりとりで何が心地いいって、1つ1つ言葉にできること。

遠慮したりとかレイさんがどう思うだろう…とかを考える前に、「まずそのまま思ったことを口にしてみようか」と思えることだった。

対異性(パートナー)は難しすぎるけれど、対同性でもそこはやっぱり配慮が要る。

だけど、レイさんとはそこをまずトライしながら、要は考えるより先に動いてみることを優先できそうな気がした。

そういう、これまで体験したことない関係作りをレイさんとはお互いに試せるように思えた。

それは人間関係の断捨離強化と言わんばかりの流れにいた私にとって、すごく嬉しいことだった。




上に書いたことを、激しく確認する機会が早速巡ってきた。(「激しく確認する」なんて普通言わないけれど、その表現がピッタリだからそう使ってみた。)

それから数日後、レイさんからメールがきた。

読んだ瞬間、バババッとメッセージが出てきた。

1年以上かけて自分の体質に慣れてきたからわかりつつあるけれど、頼まれてもいないレイさん自身の魂と思しきところからメッセージがきた。

いくつか瞬時にやってきて、そしてどんどんダウンロードされる感じがそうだった。

ただ私の想い的な部分とも若干重なっているメッセージではあったから、これ私が思ってること?というのももちろん疑った。

得意のペンジュラムを出して聞いた。

NOに回ってくれていいよーと思っても、こういう時百発百中ペンジュラムはYESを出してくる。

しつこく何回も聞くけれど、絶対にYES。

レイさんの魂から来たこと確定で、当然そうなれば私側に言わない選択はなくなる。

内容は伏せるけれども、一言で言うなら一般社会で年下の者が年上の人に向かって言うのは非常にはばかられる上、こういうメッセージは悪いものではないけれど読むのも消化するのも受け取り手側はかなりエネルギーが要る。

しかもレイさんと知り合って何日目ですか?みたいな。

今これ言うの?っていうか、レイさん今色々考えてるところにこれぶっこむの?みたいな。

今こんな風に冷静に書いているけれど、メッセージをいくつかキャッチした状態でその後運転していた時は、色んなことをしんみりと考えていた。

考えているうちに、心の奥深いところからだと思うけれども、涙が出てきた。

悲しいとかそういうマイナスの感情ではなく、自分でも上手く説明できないけれど、とても深く何かを感じている時の涙だった。

多分レイさんの魂から託されていること。

私がきちんと選ばれていること。

他の誰かじゃなくて私だということ。

そして、これは私にとってもチャンスだということ。

自分の持ってるものをそのまま出しても、それでも自分が望むような健全な人間関係をレイさんとは作れるだろうこと。

普通の人となら絶対にできない。

やったら関係が破綻するか迷惑行為か怒りを引き出すか、反対に依存されたり利用されたり…、けっこうギリギリのことをやるのはわかってる。

ちなみに最後にやった魂からのメッセージの時は、その後(というか今も)人間関係が凍結した。

それが直接の原因ではないけれど、確実にトリガーになった。

全く明るくない終わりを自ら迎えさせて、自分の中でも今も引き続き徐々にその終わりの中身を消化している。

直近の過去はそんな風なんだけど、私はなぜか今回の件に関わることで「レイさんに嫌われてもいい」と思えた。

なんか、あの母屋で「ぶっしーに出会えて良かった!」と言ってくれたレイさんは、本当に今の私だけじゃなくて過去の私も癒してくれて、一生分の救いみたいなものをレイさんからもらった。

だから何かあっても、あの時のことはあの時のこととして胸にずっと残せるし、あの時の気持ちはずっと覚えていられると思った。

そして大丈夫だと思うけれど、万が一レイさんから嫌われてもそれは仕方ないかと諦めるのは惜しいけれど受け入れられる気はした。

はたからすると、いちいち大げさに聞こえるかも知れないけれど、それぐらい私にとっては大きなことで、そして私がキャッチするものは多分本人の生き様やその時の心のライフステージに関わるような大きいことだと思うから、大げさにして何ともなく事済めばいいけれど、そうではない時に私が軽く扱うのは絶対に違うから、だから大は小を兼ねるじゃないけれど、慎重にそのメッセージに向き合う。

任務を遂行。(「任務」って言い方…笑)

レイさんに書いて送る前に経緯だけざっくりと伝えて、書いて送っていいかを聞いた。

【自分の魂からのメッセージ、知りたい!
お願いします🙇】

ここにそのままレイさんの返事を貼り付けるとなぜか言葉にくっついてた空気が薄まるけれど、レイさんから返信をもらった時に、私と同じ温度でもしくはそれ以上の温度で見てくれてるように感じられた。

なんとなく「大丈夫」とストレートに思えた。

そして送ったと連絡したら、
【ありがとー💓
どんな内容でも、心して読みます😉
私のために時間割いて長文メール送ってくれてどうもありがとう❤️】
と返ってきた。

レイさんが見せてくれる反応は、私にとって「そうしてもらえるのはとても嬉しい」と漠然と思っていることが形になったものだった。

普段そんなこと言葉にしないけれど、レイさんから返ってくる言葉はいつもスッと心の奥の方に届く。

さらにメールで、レイさんがメッセージを読み終わった後に返事をもらって、
【あらためて魂からのメッセージ、ありがとう。
ぶっしーはこういうのを伝えた時って、ぐったりするとかないの?大丈夫?】
と冒頭に書かれてあった。

メッセージ云々よりも、まずは私を気遣ってくれるレイさんに、本当に心が打たれた。

レイさんは最後に、パソコンから書いてるから可愛い絵文字がないことまで触れてくれていたけれど、ちなみに私が書いたメッセージのメールも絵文字は最初と最後の挨拶部分に付けただけであとはひたすら文章onlyだったけれど、そういうことに気を配れるレイさんに私はものすごく救われた。

圧倒的な差だった。

わかった。

今レイさんからの返信部分を抜き出して余計とわかった。

これまでに魂のメッセージは10数人やっている。

そのうちの3人、今は私の方から離れた3人の人はそれがなかった。

「ありがとう」とは言われた。

感謝もされた。

私を好いてくれてるのも好意的なのも知ってた。

だけど、それ以上にもっと別の形で私の心にグサっと深く刺さるものがあった。

私の態度もいけなかったと思う。

ただ、こちらが全力でしていることは上手く伝わらないのか、内容云々ではなく、私は3人の前で自分が道具みたいだった。

人間なのにもはや私はそういうメッセージを言うだけのロボットみたいな、口ではどんなに感謝されても違うところからそういうのは伝わってしまう。

そして、それが強烈だった理由は、とても良好な人間関係だったから。

なんならものすごくお世話になった3人だった。

相手に余裕がなかったことも知っていた。

だけど、それを思いやる余裕はもう私の方に残っていなかった。

今言葉にしてわかった。

私がどうにも受け入れられなかったことは、私が一番されたくないことをされたからだった。

相手の人たちは、多分私を道具のように扱っているなんて全く思っていないと思う。

本当に単に相談とか、単に話を聞いてもらってるとか、その程度の感覚だと思う。

だから、いちいち相手が発する別のところに反応するのは私側の感覚だ、ということは本当の本当にわかってる。

だけど、私がある時から「人」ではなくなる一線がある。

誰かと比べられたりとか、私の能力が使えると知って求められたりとか、だけど思う結果ではないとそれを心ない言葉で返されたりとか、もしくは友達だからという理由ですごく軽々しく扱われたりとか。

私は自分のこうした面倒くささや変な細かさも知っている。

だけど、その部分は自然にキャッチしてしまうし、無自覚に勝手に反応してしまう。

それが私の一部で、やっとわかったのは、そこはもう自分で自分を守ってあげるしかないということ。

そこが傷付くと私側は相当キツくなるから、そこは私だけはせめて大切にしないと完全にその部分の自分が居場所をなくしてしまう。

なんならその自分がいることに、前の私だったら罪悪感を覚えたと思う。

世話になってる人たちに対して、自分側のそんな反応1つで何かを断ち切るとか、わだかまるとか、それは自分がいけないんだと思ったと思う。

だけど、もうこの自分を守るには、他の何かを犠牲にしてでも切り捨てても、自分が自分のために盾にならないといけない。

それは私の価値観だから相手には強要できない。

だけど、レイさんはそんな私側のごちゃごちゃした事情なんか何にも知らなくても、そこを自然体で大事にしてくれた人だった。

自分優先スタイルを取り入れてから、私の足元はまだかなりグラグラしてるものの、それが私だというのを優先し始めている。

それに対してレイさんは、自然体で私や私のしていることをサラリとでもとても大切に受け止めてくれている。

私が伝えた内容は受け取るのに時間はかかるかもしれないけれど、それをしている私にはいつもと変わらないレイさんだった。

私は私のままで、レイさんはレイさんのままで、それでパズルがカチッとハマるというのはすごいことだった。

メッセージをやりとりした後、レイさんには少しだけ自分のことを話した。

レイさんから返信がきた。

【大変な係、引き受けてくれてありがとう。
でも、そんな力なくても、ぶっしー大好きだからね😘
(普段は、この手の言い方をすることはあまりしない私ですが😁)】

レイさんとのやりとりは、自分の何か大切なことに関わるものをもう一度新しいやり方で体験することだった。

それは私が自分をとにかく最優先するということを始めてから、初めてのことだった。

魂からのメッセージは10数人やって、3人を除いた人たちはレイさんみたいな感じだったけれど、それは最初から恵まれただけの話で、私が自分の立て直しを図らないとまずいとなってからそのようにカチッとハマったのはレイさんが初めてだった。

そして、もう無理せずに自分流を貫いて大丈夫という合図にもなった。

相手も無理しなくていいように、私も無理しなくていいということ。

そして、その互いの無理のない状態で合わない時は、単純に相性の問題で、それは誰が悪いというのでもないこと。

だって実際にその3人の人たちはどの人も人として本当に素晴らしいし、良いところもたくさん持っている。

偽善者みたいだけど、それは今も変わらずそう思っている。

なんだけど、本当に些細で小さなことだけど、私が無視できないところが合わなかったというだけ。

色々な場面を体験してとにかく自分を大事にすることを最優先し始めて、そのタイミングで出会えたのがレイさんだった。

レイさんとの出会いは、私に「自分のままでいても新しく作れる人間関係、自分が望むような健やかな人間関係がきちんと存在するよ」を教えてくれるものだった。




これは帰ってきてから知ったこと。

正直なところ、レイさんのホロスコープを最初見た時に、「私はこの人と本当に縁があったとするなら、星とか関係ないんだな」と思うぐらい、重なりが微妙だった。

ゼロと言ってもいいかもしれない。
(実際によくよく確認したら、ないわけではなかった。でもよくよく確認しないとわからないぐらい。)

レイさんとミッチーのホロスコープの赤の他人とは思えない異常なほどの重なりを見ていたから、私とは、言うならノムと私の縁故的なものから派生した先に、レイさんと私があったのかな…と、そういう解釈だった。

レイさんの先にミッチーがいて、ミッチーの先にノムがいて、ノムの先に私がいるぐらいの重なりのなさだった。

ホロスコープでは本当に他人みたいな感じになっていて、かなり腑に落ちなかった。

まるで、本当に「偶然」互いに居合わせたとしか判断できないぐらい重ならなくて、すごく変な気がした。

さらに占星術の先生の言葉も思い出した。

「最初の数人(お客さん)は、本当にものすごく縁の強い人たちが来ます」

先生に私が初めて鑑定書を書くことになった子との異常なほどの縁の強さを説明したら、そうやって言われた。
(この話も超延び延びになっているけれど、eat LOVEシリーズが終わったら、今度はその話をアップする予定。他の延び延びの話も同様。)

だから、レイさんのホロスコープはたまたま読むことになって、さらには星なんて関係なく繋がる人とは繋がるんだとそういう解釈に最後は落ち着いた。

帰ってきてからわかったのは、全く別のことだった。

ある方法で互いのホロスコープを重ねると、そこで縁がものすごく出てくる場合があることを私は偶然発見した。

ミッチーとレイさんの出生時間を多分正確にペンジュラムで出せただろうことをうけて、私はある人の出生時間も同じようにペンジュラムで出して、その時間でホロスコープを出してみた。

はっきり言って、遊びみたいな感覚でやったに過ぎなかった。

何一つ期待もなければ、元々時間不明の時点で9割重ならなくて縁がないんだと思った。

だから時間がわかったところで結果は同じだろう…と予想した。

予想は大きく裏切られた。

本気で両目が飛び出るぐらいに、卒倒しそうなぐらいに驚いた。

これはペンジュラムのイタズラかもしれない…と私は考えた。

念のため、ノムに伝えた方法でも出して調べた。

その方法でも、見て明らかなのが出てきた。

基本パッと見ただけではホロスコープは読めない私が、パッと見てわかるというのは相当な重なりだということ。

あまりに驚きすぎて、私はパッと見るだけにとどめて、すぐに画面を変えたほどだった。

そう、見た瞬間にわかるぐらいの強烈なものが出てきて、宝くじ当たったことがないからわからないけれど、それに近い感覚だと思う。

ただ、この最初のサンプルがものすごく信憑性に欠けるサンプルだったから、自分で出したものが微妙だと思った。

そこでノムに、ノムとミッチーとかノムとおじいちゃんとで見てくれないかをお願いした。

私以外のサンプルを作らないとわからないなぁと思ったから、それでお願いした。

ノムと先日の6時間にも渡る長電話の半分以上はそのことに関してのものとそこから派生した様々なインテリ(!)な雑談だったけれど、ノムが調べてくれたことでやっぱりその諸説は合っていたことを知れた。

ノムとミッチー、ノムとおじいちゃん、なんならノムのおじいちゃんとミッチーも、私が試してと言った方法で見たらそれぞれ強固に繋がっていたと教えてくれた。
(諸説は合っているけれど、私の最初に出したサンプルは、本当に合っているかわからないから気のせいかもしれない。)

で、遅れて今度はレイさんと私、そしてノムにも分析するためにノムの分を送ってもらってノムと私とで、それぞれ見てみた。

ノムともかなり濃い繋がり方だったけれども、それ以上にレイさんとはものすごく重なっていた。

それも、私側は、私の人生や性格を表す天体たちに関わっていて、最初に鑑定した子とはまた別の意味でレイさんとは「縁がとても強い」ことがわかった。

ノムにそのことを言ったら、
「あれだけいろんな見方が標準装備されているのに。(←ホロスコープ算出する超有名サイト)
ってことは、その方法って相当マニアックなのかもしれないね、わからないけど。
でも、そのひとひねりこそが、
一般的ではない深い情報をひきだす裏技なのかもしれないね!」
と返ってきた。

そう、標準装備にはない手法で、私のそれはたまたま発見したことだった。

単なる好奇心がそれを導き出して、あまりにもドンピシャなものが出てきたから、ノムにも調べてもらった。

色々調べても普通にどこにもそんな情報はなくて、そして標準装備にないぐらいだから、本当にあまり知られていないことなんだと思う。

ノムと私とで出した結論としては、「深い魂の繋がり」を見る方法だということになった。

そう、レイさんとはひとひねりの手法を用いると、本当にとってもご縁が深いことがわかる。

それも生半可な重なりではなく、ものすごく重なっている。

6天体(レイさん側)もピッタリ重なっていて、それが異常な重なりなのはわかる。

しかも、私側はその重なりの中に占星術で「神の指先」と呼ばれる、自分ではどうにもならない宿命的なものも含まれている。

神の指が差すある一点に向けて、ひたすら自分を捧げるみたいな生き方に関わるもの、その部分とレイさんの天体の一部とが関係している。

それはすなわち、私の特殊な生き方に対してレイさんが関わりを持ってくれる人だと読み解ける。

まだ言うかという感じだけど( ̄∀ ̄;)、私のホロスコープにはそうした宿命的なものがいくつも組み込まれていて、私自身もものすごく思い当たる節がたくさんあって、あまり好きじゃない。

「何この苦行みたいなこと?」という内容が、人生全体においててんこ盛り過ぎると思っている。

「ぶっしーのチャートすご。ハードにつぐハード!笑  笑っちゃいけないかもだけど、笑ってしまう。すみません!」
とノムから言われたぐらい、本当に私も色々強烈過ぎて笑うよ!と言わんばかりのホロスコープだから、わかる。

なんだけど、そんなものとレイさんの天体のいくつかが重なるなんてのは、ものすごく嬉しいことだった。

苦行的なことも色々もたらされてしまうけれど、そんな中でレイさんと出会わせてもらえたわけだから、本当の本当に嬉しい。

そもそも、苦行的なことたちがなければ、私は絶対にホロスコープにはここまでハマらなかったと思う。

色々「気のせい」で片付けるには無理すぎて、自力で読み始めたら難易度超高いとわかって、それでくだんの占星術講座に申し込んだ。

去年7回も通い詰めたのに、クラスメイトたちと自分史に残るほどのご縁も特になく、占星術は本当に勉強しに行っただけなんだなと思って終わっていた。

それが色んなことを経て、ノムと繋がって、そしてレイさんとも繋がることができた。

ここまでのご縁だと気付けたのも、ノムに出会わなければ無理で、さらにノムが咄嗟に「レイさんも呼ぼう!」と思ってくれなければさらに起こりようもない現実だった。

この2年ぐらい、アホみたいに魂繋がりだとどういう偶然が起こるのかについて、自分の体験を元にひたすら紐解いていたからわかる。

魂的なご縁は、「ありえない」ことが起こりまくるし、本来繋がらないものが繋がっていく。

イレギュラーなんてものじゃなくて、10数社の不採用食らうぐらいのことを起こしてでも、魂は絶対的なところに繋がろうとする。(人間側ははっきり言って介入できないレベル( ̄∀ ̄;))

「人知を超えたところで起こる」のが魂的なご縁らしいことはわかってきた。

前回の魂サンプルが超意味不明すぎてあれこれ調べたかいがあって、レイさんとのご縁はこんなにもすんなりと受け取ることができた。

しかも嬉しいのが、これが私だけじゃなく、レイさんにとっても思わぬ副産物的な立ち位置で起こっているということ。

詳細は割愛するけれど、レイさんの話を聞いて初めて「財産を引き継ぐ」大変さを知った。

レイさんにしても、今は再建されて素敵なeat LOVE聖地になっているけれども、最初からそんな素敵な流れではなく、レイさんはレイさんでそのことでものすごく葛藤しただろうことは、レイさんの話を聞いて少しはわかった。

言葉で説明すると何分とかで終わっても、その言葉の内容をレイさんは自分の人生全体で体験していて、それはとってもしんどかろう…としか言えない話だった。

子どもの頃から、土地や家屋を持つことによって生じる様々な人間ドラマにレイさんは訳も分からず組み込まれた人だった。

少なくともレイさん側には「拒否権」は存在しなかったんじゃないかなと話を聞いて思った。

だから、今ある姿はレイさんにとって「生きた証」であっても、決して最初から迎合できたことではなかったと思う。

レイさんも私も決してプラスのスタートではなかったものが、こうしてご縁を結んだ時にはそれらなしでは成り立たない出会いだったと知れて、私には格別な想いがある。

単なる講座とか、単なる引き継がれた家屋ではなく、それぞれの歩んだ歴史を抜きには絶対に出会うこともなかった今なんだと思うと、過去の傷たちも報われる。

それらのおかげで今があるということが、本当に特別に感じる。

もし、出会わなければ、eat LOVE母屋で「出会えて嬉しい!出会えて良かった!」と額に飾っておきたいような言葉をレイさんからもらうこともなかっただろうし、私も同じ言葉を返すこともなかったと思う。

どこかにも書いたけれど、あそこの場所は何か異次元のものを運んでくる磁場のようになっている気がしてならない。

お互いに普通に生きているだけじゃ絶対に出会うことのなかった人。

町で偶然すれ違うことさえも絶対になかったと言い切れる。

でも、お互いのタイミングが整って、そして今回の立役者ノムがいて、ようやくレイさんと私は繋がれることになった。

レイさんが守ると決めた場所で、レイさんと私は出会うことができた。

レイさんと繋がることは私にとっても、そしてレイさんにとっても、必然だったんだろうと思う。

そしてこの必然は、「ご縁を紡ぐ」っていう言葉がとても似合っている。

「紡ぐ」という言葉は、綿や繭から必要な部分を抽出してそれを道具を使って糸にしていくことが語源になっている。

「紡ぐ」を調べるうちにとても興味深い説明があった。

時間をかけて美しいところを最大限純化したものを丁寧に引き出して、それを大切な人に届けるとあった。

レイさん、ノム、ミッチーとの出会いは本当にそれだと感じる。

美しいものを最大限純化して、それを互いに差し出したりお互いのものをミックスさせてさらに違う新しいものを生み出す。

この美しいものも、もちろん合言葉は「愛・LOVE」。