「希望」があること。
希望があることでまだまだ人生捨てたもんじゃないなと思えるし、どこかいつか良いことがあるだろうと思える。
希望に遭遇すると自分が救われるし、そしてもうちょっとだけがんばったりがんばらなくてもとりあえずのらりくらりとやろうかなと思える。
昨日(3/28)、仕事でこれまでの中で5本の指に入る最悪な事態が起こされた。
業務量や内容にあまりにも偏りがありすぎて、少ない人たちの方に簡単にやれることをしてもらうという意図のものが、元々業務過多で首も回らないくらいの人の元へさらなる追加業務が渡されるという、それも誰でもできるものを押し付けるというとんでもない事態になった。
言葉にするとそういうことだけれど、そこには悲しみや失望なんかがセットで、本当にやるせなくなったし、それは後からボディーブローのように効いてきて気持ちは静かに沈んで気持ちの切り替えが私には上手くできない状況下にある。
今日だけのことじゃなくてこれから先何年にも渡っての最悪な流れの始まりで、本当にやるせなさとその業務過多の人への流れは食い止めて(実際に私がさっさと代わった)次なる救済策が必要だし、そんなこんなで頭というより心が痛い。
そんな折、4月から異動となる奥井さんの元へ個人的に挨拶に行った。
私のことを初期の頃から、仕事を組む時または彼の部下が担当でも問題勃発の時は毎回責任者的に対応を代わってくれて、そんな時はスーパーアシストどころではないくらいのサポートをしてもらって、とにかくお世話になりまくりだった。
異動先は同じ社内でも全く別の建物でよほどでもない限りバッタリと会うこともないし、会ってもせいぜい会釈くらいしかできないからそれで挨拶に行った。
奥井さんは今回昇格ではあるものの(超絶仕事ができる人)畑違いのような部署への異動で本人も大層度肝を抜かれたと昨日話した時に教えてくれた。
奥井さんと色々おしゃべりする中で、とても人に恵まれたこと、周りの人たちからたくさん助けられていること、今度のところは1からの勉強でこの先の自分の人生がどうなるのかさっぱりわからないけれどももうやるしかないのでやっていきます、みたいなことを言われていた。
5分くらいのおしゃべりだったけれども、すごく心が救われた。
奥井さんの話を聞きながら「希望」の光みたいなのを感じた。
その前にあったウルトラスーパースーパースーパーダメすぎることで本当にガッツリと落ちたけれど、そんな中数十メートル先にすたこらと足を運ぶとそこには志を持って仕事や人間模様に心を全力で注ぐ人がいる。
こういう人がいる限り、私のここでの仕事もまだまだ何とかなるのかも…と思えて、それは言葉にすると「希望」なんだと思った。
*
中間管理職的な方々とやりとりして、どこにいるかもわからない彼の方(あのかた)もこういう色々やるせないとかやりきれないとかやってらんねーぜ的なことにまみれているんじゃないのかと想像した。
そんな時に、そのスパイスとなるものが何だっていい、小さな希望を感じるものが日々のどこかに存在してくれているといいなと大真面目に願った。
それは人かもしれないし、物かもしれないし、場所とか音楽とか本とか食べ物とかはたまたすれ違った時の見知らぬ誰かの言葉かもしれない。
まだまだ人生捨てたもんじゃないな、と思わせてくれるものが1つでも2つでもあったらいい。
数日前、3泊4日で妹宅に行ってきて姪っ子たちとも過ごしてきた。
その時、あまりの天候不良に全く何も見えない、景色が売りの場所へとみんなで行った。
大人たちは全員「頂上なんて行かなくていいよね」で一致していたけれど、小学校2年生の姪っ子だけは「行きたい!」と切望した。
行ってみたらそこは本当に何も見えなかったけれど、その見えなかったことが逆に思い出になるし面白かったねと言いながら戻った。
天気なんかはある意味関係ないんだなと思った。
さらに、そこで水に浸けておくと卵から何かが出てくるというものを姪っ子が欲しいと言ったから買って、それを家で姪っ子が絵の具のバケツに使っているポケモンの透明容器の中に水と一緒に入れた。
新潟に戻った翌日に姪っ子から携帯にメッセージが来て、生まれたよ!と写真付きでやってきた。
名前はぴよちゃんとのこと。
その後も2つ3つメッセージをやりとりして終わったけれど、こういう風にどこかから種が蒔かれてストーリーが展開するのっていいなと思った。
しょうもないこと満載でもこういうシーンにもほっこりとさせられる。
希望、大きなことじゃなくて小さなこと、そういうものが日常にあること、それを心から祈願。
誕生日おめでとう♪(*^^)o∀*∀o(^^*)♪
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