2023年1月9日月曜日

今年の目標ーYear 2023

左の石:マダガスカルより
カイヤナイト
右の石:インドより
カバンサイト

ドミニカ共和国から持ち帰ってきた貝殻と
浜辺に落ちていた波に洗われて丸くなった
ガラス瓶の破片や白い石
(2007年のものだと思う)

同じくドミニカ共和国から持ち帰った貝殻たち
(2008〜2009年のものだと思う)



今年は珍しく年頭所感(漢字やら言葉やら正しいのかわからなくて調べたら、全国銀行協会という名の団体が使っていたから多分大丈夫)的な、今年の目標を掲げることを今年のブログ第1号にしようと思う。@布団の中すでにツッコミどころ満載。

ちなみに超どうでもいい余談だけど、ゴロゴロ寝正月の延長みたいな昨日の3連休初日に目にしたとあるアラフォー女性の今の自分を悲観して将来も悲観しまくりなブログを読んで、私よりも色々お持ちなのに(彼氏とか潤沢な資金とか素敵なお住まいとかお洋服やアクセサリーなどのお召し物とか)そんなにも嘆かなければいけないのなら私など一体全体どうしたらいいのでしょう?嘆きがあまりにも足らないのか彼女が嘆き過ぎなのか、彼女が私の人生を生きることになったのなら今頃間違いなく自殺一択ですよー、などと思ったくらい( ̄∀ ̄;)


神経が図太いのか色々生きる力が強いのかもしれないと思った。


先日もヤフーニュースで私のような生活(働き方とか諸々)をしている30代女性が人生相談的なことをしてそれに対してカウンセラー的な人が回答するみたいな記事に対する一般人からのコメントを読んだら、この記事は作り話なのかだとか、こんな風なら生きていけないだとか、こんな人現実に本当に存在するのかだとか、もうボロクソなコメントの嵐で、私がもし自分のことを相談なんかしたのならこのような罵詈雑言的な言葉を言われたり思われたりするんだろうなと他人事のように思いながら読んだ。嫌になって少し読んですぐやめた。


という私が掲げる今年の目標。


今年の目標は、大晦日に立てて!!!大快挙、さらには新年何日目かには数年ぶりに自ら買った手帳にも書いて!!!大快挙、そして忘れることなくずっと頭の中にあってブログにまで書くという、私の人生にこんなにもその年の目標が自分の中にきちんとあってずっと残るだなんてあったことないだけに自分ではその時点で「すごー!!!」と思っている。


今年の3つ出てきた目標。


・自分が納得できる生き方

・物を愛でる

・愛について


出てきた順にツラツラと思いつくまま書こうと思う。







目標その1

『自分が納得できる生き方』


さかのぼること大晦日。


高校の時の部活の友達4人とランチした。


コロナ禍だったり夏は都合がつかなくて会わなかったりで多分2年か3年ぶりに会った。


細かいことは端折るけれど、その時に何をしているかを聞かれたから、これまでの派遣の仕事を続けていることと「3年経っても大丈夫なの?」と聞かれたから3年経過したタイミングのこの12月からは無期雇用に切り替わったことを言った。


その時の周りから返ってきた言葉たちが

「英語ができるって強いよね」

「手に職だから安定するね」

「それだけ英語ができるならどこでも使えるし、今は学校でも英語が必須でそれで人手不足だし学校関係も色々職があるからぶっしーいけるよ」

などなど、こうして言葉にすると何らおかしくない会話みたいだけど、その時の私はものすごく違和感を感じて仕方なかった。


友達に違和感なんじゃなくて自分の生き方というかこうして人に聞かれた時に違和感を感じる自分に気付いた。


高校3年の時の進路選択から今に至るまで、私はただの一度も「英語関連の仕事をしたい」とは思ったことがなくて、今たしかに英訳はしているけれどもそれ以外の謎の調整役とか業務には明記されないけれど確実にやらないと自分の仕事が回らないからする必要のある裏方的な仕事とかそういうのも色々あって英語にまつわる仕事をしている感覚がないのと、さらには今の仕事をしている最大の理由は自分の中の「保険」のためだったりするから、尚のこと「英語関連の仕事」をしている感覚がないしぶっちゃけ興味もない。


「保険」というのは、オカルト的なことを本当に仕事にしたとして、それがどうにもならず食べていけない時に社会復帰するには年齢も年齢でますます雇われるのが色んな意味で難しいから、その時に「英訳の職歴3年」とかあればしかも上場企業ならさらに箔がついて良き、とりあえず世の中の基準にある程度入れそうな経歴になってくれるわけで、そんなよこしまな気持ちの保険として積み重ねている。


それ以上に自分が「自分の生き方を全うしていない」という感覚がその会話中もその後も自分の中につきまとっていて、そちらの方が私的には納得いってないんだとわかった。


オカルト的なことを仕事にして周りから眉をひそめられる方が、英訳の仕事で社会的に受け入れられやすい聞きざわりの良いことをなんとなく言って違和感を感じまくるより良いと思った。


自分でその時答えながら「これが自分の今の人生なんだ」と思ったら本当にいたたまれなく、やっていることの中身と自分の心との不一致感が半端なく、その感覚がすごく気持ち悪いというか自分で自分に居心地悪く感じて仕方なかった。


オカルト的なことをしたいかどうかは正直な気持ちよくわからない。


興味はあるし謎に色々やれるところがあるしある意味自分を活かすという意味ではとても良い選択だとどこかで思っているけれども、やったらやったで自分が納得するかはわからないし、まだまだ色々と踏ん切りがつかない。


だけど、英訳の仕事は中身が濃くてたしかに企業に対してもしくはエンドユーザーのお客さんに対して貢献度は高いかもしれないけれど、自分の中でいつも他人事みたいな感じで全然自分のことに感じられていなくて、「ザ・生活の手段」がたまたまそれなだけという感じがある。


もちろんここに至るまで相当に色々なことを積み重ねなければいけなかったけれども、そしていい加減なものは絶対に出せないから手を抜かずにやり続けたけれども、どうしても「何か生き方として違う」感はこの3年一度も拭えたことがない。


そう、生き方として自分が納得できていないところがこの大晦日のおしゃべりの時に感じた全体の違和感だったのかなと思う。


ちなみにオカルト側のことも言えば、すごい自信があるわけでもなく、なんなら重たいものがテーマにぶら下がるから積極的にガンガンと入り込みたいわけでもなく、集客とかそういう感じのことはノープラン過ぎるし(この辺がさらに甘い)、仮にそうしたことをきちんとしたとしても道が違えば看板は畳むことになるだろうしとか、そんなことも諸々いっぱい思うことはある。


10月の東京旅、日帰り長野一人旅、11月の東京旅アゲイン、12月の大雪という非日常な色んなことが重なって、それら全部とここに書いている目標とが実は色々繋がっていて(だからここに挙げたものたちはきちんと書いて残しておきたい)、自分の中でも色々とああでもないこうでもない論争が巻き起こりまくっている。


とにかく何であったとしても、自分がそれを誰かに説明するような時に、自分が言っている(やっている)ことと自分の心とが極力一致していることが、要は自分が納得していることがとても大切なんだと気付いた2022年の最後の日だった。


その違和感を自分の中から少しでも減らすには、もう自分が納得できる生き方を自分でやっていく他なくて、だから今年1年は自分の生き方に対して自分なりのテコ入れをすることが大切だと思って目標にした。


ちなみに、違和感は本物らしく、かれこれ1週間も前のものだったにも関わらずその間忘れることもなくじわりじわりと自分の中に残るというかどんどん浸透していて、それがより一層自分の中で「なんとかする必要のあるもの」として今かなりきちんと存在している。


どういう選択肢に自分が最後行き着くにしても、今みたいな違和感が減ってくれるような、そんな選択肢を自分に捧げたいと思う。







目標その2

『物を愛でる』


年末に突如スイッチが入った天然石への興味。


パワーストーンも天然石も言葉的に近いと思うし私はその違いを説明できないからどちらも同等なのかもしれないけれど、私的には「天然石」の方が言葉としてしっくりくる。


で、その天然石を少しお出迎えするにあたって、諸々のこの1年、2年で出迎えたものたちが頭をよぎった。


・本数十冊

・布数枚

・手芸関連のボタンやリボンなど数点

・タロットカードなど数点

・服数枚

・ノート数冊

・便箋等数点

・シール数点

・観葉植物ひとつ


おおよそこんな風な新たなものたちを迎えた。


どれもこれも縁あって今生私と時間を共にする。


そう思った時に、どれを買ったとかどこにしまったとかわからなくなるような今の状態ではなく、何がどこにあるかわかっていたり、1つ1つ触ったり目を通したり眺めたりとそれぞれの用途を全うできるような物との付き合い方をしたいなと思った。


年末年始に妹が帰ってくるのに合わせて部屋の掃除をした時、時間が間に合わなくてとりあえず置き場所の決まっていない紙類やノート、その他の細々としたものたちを段ボールに入れてなんとかした。


いい加減、物の位置を決めなきゃだなと思いながらもとりあえずは布団を敷くスペース作りが最優先でせっせせっせと手を動かした。


3連休でそれに着手しようとしたものの手付かずでこれはスイッチが入るのを待とうと思っている。


どうでもいいことだけれど、私が仕事も生活も全てにおいて一番苦手なことは整理整頓だと思う。


余談が過ぎるけれど、20代の頃に見たテレビで片付けられる人と片付けられない人の差が何かという検証番組を見たことがあって、それは今でも強烈に記憶に残っているけれど、まさに私のことだと思った。


4段くらいの空の本棚と色んな大きさが混じった本や雑誌を片付け得意な人と不得意な人とにそれぞれ同じものを渡して、それぞれが本棚に収納してその2人を比較して何が違うのかを番組では解説していた。


圧倒的な差だったのが、不得意な人はとりあえず本棚に本たちを入れていくのに対して得意な人はまず本棚と本たちとを眺めて最終形を頭に思い描いて、その最終形に近付くように本を入れていくことだった。


得意な人は闇雲に本棚に入れることはせず、大きさごとにまとめて例えば大きなものを最下段に小さなものを中段になど、上段の上から順番に詰めるのではなく何かしらのルールを自分で作ってそれに従って並べていくというやり方だった。


最終形を思い描くなんてしたこともなければ、道理はわかったにしてもその最終形の思い描き方がさっぱりわからない。


それを見て私に欠けているものが何かはっきりとわかったし、でもだからと言って私にはそういう片付け方ができるかと問われたら壊滅的にその脳の回路が無さすぎて相当な訓練でも積まないと無理だから、とりあえず目指したいのは自分が困らない程度に物の場所を知っていたり居心地悪くならない程度に部屋を片付けられたらOKということにしている。


30代一人暮らしの時は、収納が最小限しかなかったことも手伝って、私は物を極力持たないことにして部屋を整える術を得た。


ちなみにこれはとっても私に合っていて、片付けられない整理整頓できない私には最適解だと思った。


けれど、43歳になった今は少し考え方が変わった。


物は増やしたいわけではないけれど、自分が手元に置いておくと気持ちが明るくなったり穏やかになれるもの、はたまた必要と感じるものは自分の手元に置いておきたいと思うようになった。


天然石を迎える時にそれはとても強く思ったことだけれど、石は本当に「縁」になる。


ドミニカにいた時に、Mちゃんというラリマール、日本ではラリマーと呼ばれる天然石を扱う女の子がいた。


たしか同い年で手芸話とかで盛り上がって当時すごく仲良くなれた子だった。


Mちゃんはラリマールのアクセサリーを作るフランス人の移住者から委託されて販売を手掛けていた。


そのMちゃんから何個かアクセサリーを買った時にMちゃんは「ラリマールの石とはご縁だからね」といつもみんなに言っていて、私にももちろん言ってくれていて、その言葉がとっても魅力的だった。


当時は石にも興味がなかったしスピリチュアル的なことにはもっと興味がなかったけれども、Mちゃんというすごく自然体で天真爛漫な女の子から発せられる空気がすごく好きで、そのMちゃんがラリマールだけは「ご縁」と言い切るところもとても好感を持っていて今でも私の中に残っている。


その言葉の意味だけじゃなく世界観がわかるようになったのは本当に今回の年末年始で、1つマダガスカルから直接取り寄せた日本人の方が出す石をメルカリで見つけて今私の枕元にあるけれど、その石が色んな人の手を介して私のところにやってきた時に初めて「この石と縁がある」と思った。


これまでだって手に入れた石たちがいくつかあるしペンジュラムに至っては妹が今回来た時に「あの名古屋の変な店で買ったやつだよね!?」と聞いてきたくらい、ペンジュラムが売ってるなんて思うこともないような駅併設の商業施設に入っているアジア雑貨店的な店で買ってきて、それにももちろん色んな思い出があるけれど、少なくともMちゃんが言っていた「石とはご縁」という言葉は当時私の頭の中をよぎらなかった。


その後もいくつかの天然石が私の元にやってきたしオルゴナイトと呼ばれるパワーストーンが入った御守りみたいなものも手にしたけれど、どの時も「ご縁」という言葉は自分の中になかった。


今回マダガスカルから遠路はるばるやってきた石を見て、これは本当に縁がないと繋がれないと思った。


石は私の小指の第一関節ほどの大きさで薄さは500円玉くらい。


それを送料込で500円で買ったけれど、マダガスカルで採取する人、その人が仮に他の行商を挟まずに直で日本の私が買った人へ送ったとしてもその郵送代や手間賃、さらに日本の売り手の方の買値があってその後の私に売る際の郵送代と手間賃、そうした諸々を考えると500円では安すぎるわけで、国際郵便でクリスマスカード1枚送るのに120円かかることを思えば破格値で、お金の話をしたいのとは違うけれども、手間暇がものすごくかかっていてようやく私の手元へ海を越えてやってきてくれて、こんなの縁がなければ結びつくことができない。


例えばもっと値段が高くて諭吉1枚じゃ足りないようなものだったのなら、「石を買った」という感覚だったかもしれないけれど、ワンコインでアフリカの島国からアジアの島国に辿り着いてさらには日本国内でいくつもの県をまたいで私のところにやってきてくれて、これはもうその石と私とが巡り合って繋がることが正解と言わんばかりだと私は思っている。


だから石は買ったという感じは全くなくて「巡り会えた」という感じ。


ペンジュラムもそんな感じがするなぁと書いてて思った。


ドミニカで一度だけラリマールの原石を買ってそこから研磨してラリマールの青い石を出すということを友達としに行った時があって、最初拳より少し小さな大きさの岩を機械で削って、青いところが出てきたら今度はひたすらやすりで磨いてという一連の作業を半日までいかなくても2〜3時間やってその大変さも少しは知っているから、天然石を扱う人たちがそれらの手間をみんなやっていると思うと頭が上がらない。


マダガスカルの人がどうやってその石に辿り着いたのかは知らないけれど、家の庭に落ちてたとかいうことじゃないだろうし、仮に磨かなくても石として完成形だったとしてもそれを浜辺とかで見つけるなんて至難の業なのは想像に難(かた)くない。


それこそドミニカの浜辺で変わった形の貝殻やビール瓶の破片だったガラスが波で磨かれて丸くなった石とかを探して集めたこともあったから、たとえマダガスカルの石がパッと見つかったにしてもやっぱりその地に赴いて探してその後パッキングして送る手間がある。


そんなことを色々感じたからこそ、メルカリという実に今どきのツールを使っての売買だったにしても、普通に近くのスーパーで売ってるわけじゃないから「ご縁」あっての巡り合いだと思っている。


そして、恒例の石にインタビューすることもやった。


石の性格や何で私のところに来てくれたのかとか私の第一印象とか私に伝えたいメッセージとかをペンジュラムを使って聞いていった。


その時にペンジュラムが石を代弁してカードをご指名しただけじゃなくとある占星術の本もご指名した。


得意のペンジュラムボード(私の中では友人ノムが命名してくれた「サーフィンボード」の方がしっくりくる)を出してきて、それで本のページをペンジュラムから出してもらって、言われたページを開いたらなんとそこは私の生まれた日の太陽の位置の解説ページで腰を抜かしそうになった。


ちなみに私のところに来てくれた理由として、示されたページで見つけたキーワードは「内面の癒し」と「意識の自由を確保していく」だった。

(参照:『直居サビアン占星学』直居アキラ)


その石へのインタビューをした時に、つくづく「良いものたちを私は時間とお金をかけて取り揃えてきたんだな」と思った。


直居サビアン本は絶版本で今ではもう手に入らないものをメルカリで毎日探してそれで手に入れたものだった。(2020年10月3日)


本そのものはほとんど読んでいないけれど、必要なメッセージがそこにあるとペンジュラムに言われれば開いて見ることはこれまでも数回あった。


占星術関係の本はほとんど読んでないけれど、こうして必要な時には絶対のものを私に届けてくれる。


そんな風に物たちを眺めてみると、天然石に限らず物たちはどれもこれもご縁のあるものだというのがわかる。


世の中には数えきれないくらいの物が溢れていて、その中で自分と縁あって自分の手元に来てくれて何かしらのお役目を果たしてくれるというのは、すごい確率で起こっていることだと私は思っている。


だからこそ、物たちを愛でる環境を整えたいと思うし、元々ガサツで整理整頓も苦手すぎる分野ではあるけれど、それでも自分と死ぬ時まで共にいる可能性が高いものたちはそうなれるように大切に扱いたいと思う。


服は有効期限もあるけれども、それでも着れる旬な年齢の時に着たいなと思う。(今はほぼワークマン制服と家でのパジャマも兼ねた部屋着が9割以上の生活のルーティンを占めているから、そうではないよそ行き用の服はたんすの肥やしにせずに着れる時に着たい。)


部屋の片付けとか段ボールに入れたまま放置している物とか色々あるけれども、この1年は物と向き合って対話してそして愛でることをいつの時もできるように環境を整えていきたいと思う。







目標その3

『愛について』


この目標、目標にすることなのかどうかさえも怪しすぎるけれども、その1生き方とその2物との付き合い方を考えた先にその3も普通に出てきた。


これはごちゃごちゃと書き出すと自分でもどうしていいのかよくわからなくなるから、なんなら書き始めの今でさえどう書いていいものかわかってないから、だからとりあえず思ったままを書こうと思う。


一言で言えば、「行動する」。


これは後付けで思ったことだけれど、物と付き合えるのも自分が残り生きた年数分だけになる。


それが50年くらいあるのか1年くらいなのかはわからない。


そう思った時に後悔しそうなこと、やり残し感が残りそうなこと、そして残り時間を思う時に必ず入れておきたいもの、ものと言うよりも「人」と「人との時間」、それらを踏まえた上で「じゃあ何ができる?」かと言えば、自分が思いついたことをやる以外にないわけで、まさか天から素敵な異性が降ってくるなんてことはなく(仕事やら私生活やらで色々降ってくるあの勢いをどうかこういう場面でも発揮してください、と思うけれども)、そういうこととも違うけれども、とにかく自分が本当に納得するための何かをするのは自分のためにしたいと思っている。


自分の人生や物と違って、この分野は誰か第三者も関係する。


それゆえに自分が何とかしたら何とかなるとは絶対に限らない、ある種宝くじを当てるみたいなことだなと思う。


だから行動すれば良いともならないどころかやり方を間違えると相手に大迷惑とかなりかねない。


望んだ結果が手に入るとは限らないどころか博打級に危うくて可能性が限りなく低いところの話になる。


なんだけど、今この時点から死ぬいつかの時までに「会いたい人」がいるのに会わない選択肢を自分に与え続けるのはなんだか違う気がするようになった。


私の意志だけではどうにもならないことであったとしても、私の意志の部分だけでも具現化したり行動に変えたりすることはできる。


そこに力を注ぐことを、これは11月の終わりの東京旅の時に思って以降ずっと頭の片隅どころかけっこうな表舞台側の思考の中にあるけれども、それを今年はしたいなと思う。


「自分の望みを叶えてあげる」ということを今年含めて残りの人生でやっていきたいと思っている。


例えば、行動しないための言い訳や弱気発言はいくらでもできる。


でもそれって裏を返すと、自分が確実に望んでいることがあるのにそこから目を背け続けてそしてわざと自分の望みが叶わないようにしていることだと思う。


やってみてダメなのは仕方ない。


でも望んでいることがあるのにそれを叶えてあげようともしないのは、自分で自分をいじめていることと同義なんじゃないかと最近は思っている。


自分の願いにまずは自分がきちんと寄り添うこと、そして寄り添いながら叶えるために自分が何ができるのかを自分なりに考えて考えたものを自分のために実行すること、そこまでは今年やりたいなぁと思っている。




*¨*•.¸¸☆**¨*•.¸¸☆*・゚*¨*•.¸¸☆**¨*•.¸¸☆*・゚


あけましておめでとうございます(*´`*)

今年もどうぞよろしくお願いします。

2023年

0 件のコメント:

コメントを投稿