2021年11月25日木曜日

題名を忘れてしまった書き物

2021/11/19 撮影
赤のボールペンの先の小さな葉が
月蝕の翌日に開いた葉っぱ


2021/5/15 撮影
土栽培から水栽培に切り替えてまもなくの頃
4枚スタートだったものが6枚に増えた図


植物の希望で植え替えをした
サンスベリア
今は支柱の焼き鳥串やテープを取っていて、
それなしでも新しい葉が生えて来た。



自分の中の優先順位なるものを思った。

つい最近読まれたブログ記事の中に、ネットバンキングの手続きのために2年半近く初回の設定を放置していたことが書かれていて、自分のことなのにすっかり忘れていて驚いた。


私ならやりかねないから、妙に納得はしたけれど。


その一方で、数日前に届いた手作り占いグッズのための天然石たちとの対話は速攻で始めた。


やるべきことをやらずして、目の前のやりたい石たちとの対話を優先した。


10時間後くらいには家を出て金沢に向かわないといけないのに、その支度やら諸々の家事を放置してまで対話に精を出した。


石も植物も本来言葉を持たない存在とのコミュニケーションはとても面白い。


この数ヶ月の間に、私は2つの観葉植物と対話して、見事に2つの植物を当時より大きくすることに成功した。


1つは、土栽培から水栽培に切り替えた。


観葉植物は本来水を乾いた時にだけ欲するから、私も最初は水栽培に切り替えることにGOサインを出した植物を超疑った。


それってもっと枯れちゃうんじゃない!?と思ったし、水による根腐れを起こしそうとも思った。


去年の冬から今年の春にかけて越冬できずに根も土の中で上手く張り切れず、12年目突入とはいかないかなとあきらめモードだった。


だけど、水でいけると植物自身は言うから信じてそのようにしたら、本当に復活した。


今にも枯れて死んでしまいそうだったのに、あれよあれよと葉を次々につけて、夏には当初4枚スタートだったところ倍以上に成長した。


ずっと好調だったのに、秋に入るくらいからまたもや不調気味になった。


つい最近も、新しく出た葉っぱの位置があまり良くなくて、これも枯れてしまうかなと心配したところがあった。


それが枯れたら、次に新しいものは芽吹かないことになってしまうから、どうにかこうにか復活してくれないかななんてずっとずっと思っていた。


かれこれ2ヶ月3ヶ月は停滞していて、さらには位置が悪くて葉っぱが自力で開くことができないような状態が数週間続いた。


さすがにダメかと思って、月蝕の前日に「大丈夫?」と植物に聞いた。


植物は大丈夫と答えた。


冗談かと思った。


私の目には全然大丈夫そうに見えないけれど、植物は大丈夫だと言う。


それが本当にどうしたことやら、月蝕の日、なんとずっと開かなかった葉っぱがとうとう開いた。


満月新月に合わせて潮の満ち引きが変わったりやたらと出産ラッシュだったりするというのはよく聞くけれど(助産師の人たち数人から、本当にそうだと聞いた!)、まさか植物までもそれに同調するとは本気で驚いた。


月蝕の前の日を意識して聞いたのとは違う。


月蝕の当日に葉が開いたのを見て、前の日にそんな質問を植物にして、それで本当にその通りだったことにただただ驚いた。


もう1つの観葉植物は、水栽培はアウトで土栽培のまま、だけど植え直しを希望した。


だから意向に沿って植え直したところ、そちらも新しい芽がなんと一気に2つも出てきてビックリした。


水栽培に切り替えた植物の方が先に成功したから、もう1つも水栽培に切り替えるかどうかを聞いた。


だけどそちらは水栽培はダメだと言って、代わりに根っこが脆くて怪しげだったのに、植え替えをして欲しいと希望してきた。


根っこを掘り起こすも何もないくらいにスポッとすぐに抜けてしまって、それ見て「本当に大丈夫!?植え替えする前に根っこがダメになってしまいそう」と思った。


とりあえず、植物の希望通りにしてみようと思ってしてみたら、最初は危うげだったのが落ち着いてきて、そのうち焼き鳥の串で抑えていた支え棒も要らなくなって、さらにこの2週間くらいだったと思うけれど、一気に新しい葉が2枚ニョキニョキと生えてきた。


水やりも適当だし、特別なことは何もしてないけれども、こちらも復活した。


という2つの植物とのおしゃべりというか意思疎通が上手くいったことで、私はますます声を持たない物たちに興味が湧いた。


なぜなら、静物たちは静かで人間が使う言葉を使うことは基本ないけれども、確実に意思めいたものを持っているし、ペンジュラムを使って聞くと何かしらの答えは返ってくる。


どんなものにも魂的なものなのか命なのか何かしらが宿っている。


ブログに書いたかどうか忘れたけれども、私はある時、歴史博物館に展示されていた陶器たち、それこそ国宝級のものも含めて何百年と生き長らえた器たち1つ1つに、どういう扱われ方を希望しているのかを聞き回ったことがあった。


100までいかなくても何十という器に聞いた。


使われたい器もいれば、価値のわかる人の手に渡ってそこで飾られたいという器もいれば、はたまた現状のように骨董品や美術品として飾られたい器もいた。


7〜8割の器は使われたいという希望で、価値あるものなのはわかったけれども、器たちの声を聴いてしまうと不憫な気持ちになった。


そんなこんなで植物だの物だのの声を聞くことを趣味のように楽しんでいる私にとって、次なる相手はつい数日前にお出迎えした、グリーンカルサイトと呼ばれる天然石29個。


ルーン占いが全くわからないまま始めるけれど、ふと思いついて、実際に使う石たち25個に占星術の要素を足しても面白いなと思って、石たちに聞いたら賛成を得られた。


だからそれぞれの石に占星術的な意味を付ける予定。


今思いついて、ムクリと起き上がって(夜中の12時半、明日はもちろん仕事)、石たちに聞いた。


この中に冥王星担当の石があるはず!と思って聞いた。


1つだけYESと出た石があって、さらっと手持ちの入門書とネットで調べたけれど、その石と冥王星は基本リンクしない。


しないけれど、そうだと出る。


調べ物をした中で「冷静に戦略を立てて問題を解決する」みたいな意味があった。


書くと長いから説明はカットするけれども、多分そんな風にして調べたものと自分の中の何かがカチッとハマったら、唯一無二の意味を持つ石が誕生しそう。


とかいうことをこれから時間をかけてするのかと思うととっても楽しみ。







4連休明けに仕事に行ったら、元々連休前に発覚した問題がさらにパワーアップしてしまった。


私がパワーアップさせたのではなく、パンドラの箱を開けたかのごとく、芋づる式にこれまで隠し通されてきたもしくは放置されていたものが明るみになってしまった。


さすがにアウトすぎて、それこそ冷静に戦略めいたものを考えて内部告発じゃないけれども、それに近いことをしないといけないんだろうなぁと思う。


積極的に関与したいものではなく、できれば目をつむりたいところだけど、本当にたった1つの小さな修正が一気に積年のアウトな事態を見える化してしまった。


ここから先は相当な針のむしろ状態だなと思う。


長い目で見たら、絶対的に企業利益になるし、必ずそれを続けたのなら確実に企業の信頼度が増すのはわかる。


だけれど、それを内部告発的に明るみに出すというのは、すなわち敵も同時にたくさん作るわけで、それははたして自分のこれからの数ヶ月にとって良いことかと言うと、一言で言えば「避けたい」。


本音は避けたい。


とりあえず、職場はありがたいことにバタバタしてくれているから、週末に英気を養って翌週に持ち越して、自分が耐えられるスピードで進めようと思っている。


大御所のヘルプが絶対に必要だから、そのためのお願いは今日のうちにしてきたから、後は言い方とか考え方とか諸々時間をかけて戦略を立てたらいい。







ここ最近、Facebookのお知らせがメールにじゃんじゃん届くから、少し気になって久しぶり、多分数ヶ月ぶりとかにログインして見てきた。


改めてFacebookから離れた意味がわかった。


今回ビックリしたのは2つあって。


1つはコーチング関係でなんだかんだと知り合いになった人が100万円越えの個人セッションを提供していたこと。(実際は100万円+世のトップ20%には入るだろう人たちの月収分くらいの金額がプラス)


個人的に好きなタイプの人だけれど、もう生きる道や生きる時の優先順位が交わらない人なんだなとどこかで思った。


個人的には残念な気持ちになった。


単純に高いと思った。


能力に見合った対価なのかもしれないけれども、私にはどこか搾取のような感覚が残ってしまった。


能力の高い人だと思うけれど、何かズレてる。


お金云々よりも何か根本がズレてる。


これを書いている今も違和感を拭えないまま、しばらくは頭から離れなくて自分の個人的なテーマに当たりそうな予感がしている。


もう1つのビックリしたことは、私の長年の友達だったけれども距離ができた人と、コーチングスクールに通っていた時に一度は耳にした記憶がある、某有名なコーチングのコーチが繋がって、何かしらトークショーみたいなことをすることだった。


ちょっとだけ案内文を見たけれども、私にはもう絶対に肌に合わないタイプの人たちだった。


私が今というか10年近く彷徨(さまよ)って出てきた1番のテーマというか落としどころは、いかに自分と仲良くするかということ。


自分との付き合い方や関係性がある程度のものにできたのならば、他はある程度何とかなるように思っている。


自分だけは24時間365日お付き合いしないといけないわけで逃げ出せないから、その自分との関係をマスターすること、マスターまでいかなくても許容範囲内にすることがすごく重要だと思っている。


そして、その中でも特に大事なのが、超絶受け入れ難い、超超超拒否りたい自分の部分を自分の中でどう受け止めるかにかかっている。


だから背伸びした自分とかちょっとイケてる自分とか、そんなのではなくて、死ぬまで隠し通したい自分の影の部分をいかに自分がOKできるかが全てにおいての鍵だとさえ思っている。


とかいう考え方と真逆の方にありそうなトークショーと2人の考え方に、これもまたすごい違和感を覚えた。







植物や鉱物とおしゃべりすること(意思疎通の通訳担当はペンジュラム)、仕事では内部告発的な段階にあること、Facebookで見た2つの違和感を覚えたニュース、それぞれ何の繋がりもないようなものだけれど、私の中では繋がっている。


色んな生き方や考え方、価値観があるのは理解しているつもり。


だけれど、やっぱり自分の中でストレートに取り入れられるものと、どうやっても縦のものを横にはできないものとがある。


で、その差は何なんだろう?と思うと、そこに嘘がないか、真のものであるかどうか、森羅万象ではないけれども本当に理にかなったものなのかどうか、そういうことの差のように感じる。


はたから見たら私がペンジュラム(石とひも)を使って声を持たない物たちから声を拾ってそれを採用することの方が実に馬鹿げていてぶっ飛んでいるんだと思うけれども、そちらは人間の私が考える以上どころか私なんかの考えも及ばない深くて見えない部分できちんと整えられている。


そして、整えられたものは、ある時それで正しいんだよと言わんばかりに結果が目に見える形になって現れてくる。


私が勝手に月蝕の日に葉よ開け!などと操作や命令ができるわけもなく、でも葉っぱはきちんと自分のタイミングで開くことができる。


それも自力で開く。


私が信じているのはそういった力で、内部告発的なものもFacebookで違和感を覚えた人たちの発信しているものも、その自力とか自然の成り行きとかいうこととは真逆にあるように見えてならない。


余談だけれど、内部告発的なことに繋がったものは、本件とは関係ないところが発端だった。


発端は全くの別件で、じゃあ本件も関係してるんじゃ!?と思って確認したら本件も適用で、じゃあ適用させたらいいのね!と思って適用させようとしたら、そこで本件の不具合が発覚して、最初はたった1つの不具合だったものがもうそんな小さな不具合では済まされなくて、ずっといい加減に為されていただろうことが次々と出てきてしまって、さすがに私が一個人で黙って正せば良い範疇を大幅に越えたから、色んな経緯を含めて報告・連絡・相談をせざるを得ないところに来てしまった。


大袈裟に聞こえるかもしれないけれども、今色んな大企業が隠蔽工作していたものをカミングアウトして、企業のトップたちが謝罪会見開いて第三者委員会を設けてみたいなことが連日ニュースになっているような感じだけれど、それくらいの規模の不具合を今回引き当ててしまったから、だからさすがに黙り通すのはまずい。


私が報告を上げて、上の判断で隠蔽するのは構わないけれども(そんなのは私の知ったこっちゃない)、私が隠蔽するのは嫌だしそれはさすがにまずい。


葉っぱたちが見えないところで成長していたのと同じで、不正解の行為を積み重ねれば当然それが爆弾のように成長を遂げて、ある時それが大爆発する。


どうせ同じように育てるなら、私は爆弾じゃなくて葉っぱを育てたい。


私のところに、海を越え何人もの人たちの手を介して集まって来てくれた石たちを、愛でたいし発展的なものに育てたい。


やっても報われないことではなくて、せめて自分がやって良かった!と思えるところに落ち着きたい。


石たちが何にもならなくても、私はすでに十分楽しんだ時間やワクワクドキドキ感を石たちからもらったわけで、そういうものを自分は大事にしたいんだとわかる。


社会での肩書は派遣で、趣味の欄があったら「物と対話すること」とか「ペンジュラムを使うこと」とか「星と天然石と木を融合させて新しい境地を拓くこと」とか、超絶怪しい人でしかないけれども、周りからどう思われてもそれは仕方ないけれども、せめて自分は自分に忠実でありたいし、湧いて出てくるものに関しては忖度せずに受け取れる自分でいたい。


「ペンジュラムとか言って怪しい」じゃなくて、「ペンジュラムと対話できるって面白い!」の方が人生断然豊かだなと思う。


半分寝ながら書いているから、今日も今日でずいぶんと振り幅の大きい、意味があまり通じないことを書いていると思うけれど、これが私だし、隠しても隠しきれない。


私はこういう考え方の人間です、って正々堂々と言えるようになるにはまだまだ長い道のりだけれど、こうして誰が見ているのかもわからない場所で自由気ままに話せるのはけっこう清々しい。

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