新ブログ『光の図書館』を始めてわかったこと。
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光の図書館に載せる話は、100%実話。
そして、それらはいつ思い出しても、とても心をぽかぽかと温めてくれる、
「宝物」と呼んでもいい、そういう話ばかりだ。
もちろん、話そのものにも心動かされるものもあるし、
そのひとつひとつが起こった時のことを思い出す瞬間に感じるものもある。
感じることが二層になっている。
出来事そのものに対してと、
出来事を思い出す瞬間に湧き上がるものと。
当初、1週間に1話ずつ書いていこう!と2013年の終わりに決めたけど、
書き出して変更したことは、
「いい気分のときに書こう!」
だった。
今でも1週間に1話のペースはなんとか綴りたいという思いはある。
だけど、どうにもこうにも気分の上がらない時。
そんな時は、1週間に1話のペースを守りよりも、
気分よく書けるタイミングを待つことを優先させよう、って決めた。
ひとつひとつが大切な話だ。
大切だから、自分の気分のおもわしくない時に、わざわざ書いて、
ストーリーの中に流れてる空気を汚したくないと思った。
純粋に、それを伝えたい!という思いで書きたい、
多分それがベストだと今は感じてる。
書かない自分を責めるのではなく、
書きたい時に書いたらいいんだ!と思えるようになった、
そう決断できるきっかけを友達からもらった。
第1話を公開してしばらくした後のこと。
新年会はホルモン焼きにしよう!!とその友達と決めて、やっとやっと2月の中旬、
ついこの間その日を迎えた。
前日、「光の図書館面白い!」とひとことメールをもらっていた。
それを見た時は、単に感想を送ってくれたんだろう、くらいに思っていた。
遅い新年会当日。
会ってる時間の半分以上は、『光の図書館』の話だった。
どんなふうに感じたかということを、本当に色んな角度から話して聞かせてくれた。
そして、友達は今年、ひとつ大きなことを決めた。
絵を描く。
元々、そろそろ絵を描いてもいいかな~とはしばらく前から言っていた。
それが、あの光の図書館を読んだことで、「絶対に描く」に変わったらしい。
「描きたいなぁ」という願望から、「描く」という計画に変わった。
何年ぶりに描くのか聞いたら、12年ぶりだという。
今、やっと絵に向き合えそうだ、と話していた。
光の図書館の感想ももちろんうれしかったけど、
それ以上に、友達がそこから何かを感じ取って次のステージに移行することがうれしかった。
友達と会ってから、今日で数日さらに経過している。
なんで、それがこんなにもうれしいのか、しばらく考えていた。
その答えがようやく出てきて、今見えてる答えをここに残そうと思った、今朝ふとんの中で。
わたしは、ひとつずっとずっと憧れているものがある。
それは、わたしは一切意図せず、でも自分がやったことが結果的に
誰かの何かに影響を及ぼしたり、
何かをする原動力になったり、
小さな一歩に結びついたり、
そんな風になれたらどんなにいいだろう・・・
というものがある。
大学を卒業してから11年、12年くらいだろうか。
ずっと人に関わる仕事をしていた。
どんな仕事も人に関わるだろうけど、
その関わり方の濃度でいったら、相当濃い関わり方だった。
職業が変わっても、
関わる人が変わっても、
結局、どんな自分もさらけだして、全身全霊で相手にぶつかるような仕事をずっとしていた。
そういうところから離れて、1年半くらいになるんだろうか・・・
当時、その11年、12年した仕事のとき、わたしはいわゆる「指導者」的立場だった。
わかりやすくするために、「指導者」という言葉を使ったけど、
正直、わたしは何が良くて悪いのか、さっぱりわからずにいつも仕事をしていた。
「指導」なんていう行為すら、おかしいと思っている。
たとえば、虐待やら他の家庭的な事情で親と生活できない子どもと関わっていた時は、
社会でどうやって生きていったらいいか、
それを念頭に支援することが求められていた。
学習塾にいた時は、
子どもたちが望む、正しくは親が望む学業成績を上げることを求められていた。
字の読み書きができない人たちと関わっていた時は、
字が読み書きできるように関わり、
夫婦問題で悩んでいた人と関わっていた時は、
夫婦円満になるように関わり・・・
どれも悪いことではないし、
むしろ社会で生きていく上では大事な部分に関わらせてもらえる、
すごい機会に恵まれていたとすら思う。
たしかに。
学年順位100番台の子が、なんと学年順位9位という、一桁までになる偉業を一緒に見た。
まったく読み書きのできなかった子どもが、なんと全部読み書きができるようになる瞬間も見届けた。
結婚して25年、熟年離婚の危機だった夫婦が、
なんと一転して夫婦円満になったという知らせも受け取った。
どれも一緒に喜んだし、
うれしかったし、
そんな奇跡みたいなことがふつうに起こるんだ!という実体験もした。
だけど、わたしの中で何かが確実にずれていた。
どんなに素晴らしいことが起こっても、
それが社会で家庭で称賛されるようなことになっても、
意図して良い方向に導くみたいなのが、なにかぴんときていなかった。
「指導する」立場もいやだったし、
それは人と関わることはとっても好きだったけれど、
わたしの方が上も下もないといつも思っていた。
わたしの方がむしろ教えてもらったり気付かされたことは山ほどあったし、
色々失敗や過ちもおかしたし、
一緒にいることで共に成長する、もしくは共になにかを分かち合う、
それがわたしが感じていた感じに一番近い表現かもしれない。
いずれにしても、意図して何かを良くしよう!ではなく、
わたしはわたしで好きなことをしながらそれが何かの影響を生み出す、
でもそれは決してわたしの結果ではなく相手の結果、
そんなのがいいなぁといつもうすぼんやり思っていた。
あまりにうすぼんやりすぎて、
うまくそれを言葉に表現できずにいたけれど、
「絵を描く」と宣言した友達を見て、
「これだ!」
というわたしの中の確信に変わった。
当たり前だけど。
『光の図書館』は、わたしが好きで書いているだけで、
それで誰かを変えようとか、変えたいという気持ちは一切ない。
あれを読んで、読んだ人の中にある、何か大切なものを思い出してくれたら、
それはむちゃくちゃうれしい。
だけど、たとえ影響がなくとも、それでいいと思ってる。
「相手を変えよう」
「相手に変わって欲しい」
そう思ってるうちは、すべてわたしは駄目だと思ってる。
そう思わなくなった時、はじめて相手が変わったり、
あたりまえだけど、自分も変わるんだと思う。
そういう意味で、『光の図書館』は純粋に自分だけの世界をありありと表現し、
それを好きなように伝えられる手段として最高だと感じてる。
そして、その「最高だ」というところを、友達が「絵を描く」と宣言してくれたことで、
すべてがやっと繋がった。
『光の図書館』についてまつわる想いは、
このblogに時々綴っていこう。
ちなみに、題名の【uno】はあのカードゲームのウノとおなじ、
数字の「1」という意味。
unoがどこの国のゲームかわからないけど、
せっかく知り得たスペイン語を使ってみるのもいいなぁと。
だから、あえて、「1」でも「one」でもなく「uno」
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