2018年12月27日木曜日

1年前と今とこれから

グーグル先生に「私信」とは何かを聞いた。

グーグル先生いわく
1、個人としての手紙。私用の手紙。
2、秘密の知らせ。
とのこと。

肉体労働の疲れが腰に来てるな…なんて感じながら、帰り道車を運転していた。

私信を書いたことを思い出しつつ、相変わらず届くかどうかもわからないものに対してやたらと押し気味な自分にツッコミたくなった。

それと同時に、得意の開き直りをした。

「生きているうちにしか私信さえも書けない」
「恥ずかしくなったら、その時は書いた私信を隠して見えないようにしたらいい」

私はどういうわけか、究極の事態になると「いつかは死ぬわけだから、生きているうちにしかできないことはやっておこう」と思う。

私信を書くとか、はっきり言って死んだらできないし(死んでからしたらホラーになってしまう)、このブログは100年後はインターネットの海に沈んでいるどころか姿形さえ見えなくなっている。

私も当然この世にはもういない。

私信って書きたいから今は書けるけれど、いつかは書けない日がやってくる。

届く届かないの心配の前に、書けない時が必ずやってくる。

今回書いた私信は、「イケメン上司の〇〇様」とか書いている時点で終わっている。

ツッコミどころ満載過ぎる。

とうとうこんな手段に出た私を、自分のことながら呆れている。

バカだなぁと思う。

また年末がやってくる。

去年の年末は撃沈していた。

頭からその人の例年の年末のスケジュールが離れなくなった。

何が悲しくてそんな情報を聞かなきゃいけなかったのか、私はあまりにもショックでそのことをどうやって頭から追い出そうかと必死だった。

1年前の私は、1年もすればほとぼりも冷めて、何かしら違う展開になっているだろう…と思った。

たしかに違う展開にはなった。

けれども、その展開は私の予想を大きく裏切った。

私は冷める方の展開は予想した。

そもそも可能性のない人になんだかんだと気持ちを向けても仕方ない、1年もすれば多少は冷めて違う方向に舵を切るだろう…、そう思った。

なのに、何で今私信なんて書いてるんだろう…ヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3

予定と大幅に違い過ぎる。

1年後の2019年の年末は、今と同じなのだけは絶対に嫌だ。

さすがに2年も持ち越すようなことはしたくない。

これから毎日、断られた時の場面を脳内再生しようか。

もしくは最後の時のその人の顔の表情と目の表情を脳内再生しようか。

そして自分で自分にひたすら言い聞かせる。

「その人とは縁がなかったんだよ」と。

まさか、本人からは何の音沙汰もないのに、全く関係のない第三者である4人もの人たちから、その人に関しての情報提供をこの1年でされるとは思ってもいなかった。

その人の名刺を自分のすぐ近くに置いたからこんなことになったんだろうか…。

名刺をしまったり破棄したら、もうこういうことがなくなって、なんならその人のことも気にならなくなるようになるのかな。

その人を思えば思うほど、心の中はさみしさが増すばかりだった…。

繋がれないこと、共に生きられないこと、ただただ寂しかった。

生きているうちにしか書けない私信を書いたことは後悔していない。

でも書いても繋がらない現実は否定のしようがない。

私は冗談抜きで、1年後の自分には別のものをプレゼントしたい。

もういっそうのこと、その人の結婚の報告を聞くでもいい。

そうしたら私は、自分の気持ちを切る。

紙切れ1枚のことでも、切る。

反対に、私が電撃入籍してもいいわけだから、そういうおめでたいことでももちろんいい。

とにかく今と同じ状況だけは本気で避けたい。

繋がらない日をもう365回繰り返すのは本当に嫌。

それなら、「繋がらなくて正解」という流れに自分の身を置きたい。

私だけが繋がりたくても仕方ない。

意志のないところには道はできない。

悲しいけれど、その人と私は繋がらないことが正解なんだと思う。

少なくとも、繋がらないと相手は選択したわけだから、そんなのくつがえせない。

相手は自分の選択をくつがえせても、私は相手の気持ちをくつがえせない。

今年もその人はデートかデートみたいなことをするのかもしれないから、私も私で次に目を向けたらいい。

私は第三者である4人もの人たちから情報をもらうより、たった一言、その人から連絡が欲しかった。

世の女性たちが憧れるソウルメイト的な、魂的なご縁なんか本当にいらないから、まじめにその人と普通にやりとりできる関係が欲しかった。

自分でも自信がないけれど、年が明けたら、もうその人のことは一切書かないにしようかとこの間からずっと考えている。

その人と関わった瞬間たちのホロスコープの分析だけは、書かないことが多少悔やまれるけれど、それでもこのまま詳しく見なきゃいいのかもしれない。

詳しく見なければ書く事柄も自然に消滅するから、それでいい気がする。

いくら書いても伝わらない。

何にも反応がない。

読んでいるのはなんとなくわかっている。

なのに、うんともすんとも反応がない。

もう自分側もだいぶ限界なんだとわかっている。

何が限界かもわからないけれど、とにかく悲しくて仕方ない。

1年前、まだ半袖で通せた秋の日、あれが本当に一生のうちで最後の日だったのかもしれない。

その人と私とが目の前で顔を合わせた最後の日、そしてあれが今生の別れの時だったのかもしれない。

そうじゃないのなら、そうじゃないとはっきりと言ってくれないと私にはわからない。

ここまで書いてももう何もなければ、何もないということ。

会えるのも、自分の気持ちを伝えるのも、全部が全部、生きている時にだけ許されている特権だと私は思っている。

『生きている限り希望はある』

今の朝の連ドラで死にゆく役の橋爪功が、これからを生き抜く主人公の安藤サクラに死に間際に言った言葉。

私は、人生で一番の楽しみは、会いたい人に会えることだと思っている。

私はこの1年も希望と絶望の間を行ったり来たりしていた。

私が信じたのは、自分の気持ちだけだった。

〇〇さんに会いたい、その気持ちだけだった。

〇〇さんから連絡が欲しいです。

0 件のコメント:

コメントを投稿