2013年11月30日土曜日

ざわざわ感もやもや感から得たもの

前回の『心がざわざわしてる時わたしはどうしてる?』
を書いていて、いくつか思ったことがあったからそれも覚書として残す。


世の中には、たくさんの気持ちや感情のコントロール方法、
気分転換の方法、停滞気味の状態から抜け出す方法・・・
有名無名問わず、色んな人が色んな方法を紹介している。


まさにhow to本やプログラムが巷に溢れかえっている。


わたしが実際に自分が本当に滅入っている時に取っている方法


1、寝る
2、その時食べたいものを食べる
3、ひたすらノートに感じてることを書き綴る
4、家事をする(炊事・料理など)
5、散歩する
6、意識してコーヒーを淹れる(注:インスタントです)
7、風呂に入る
8、自然のものに触れる
ただいまパソコン不調でDVDも見れないけど、DVDが見れた時は
9、映画を見る


それらは、はたから見たら「え~、そんな方法!?」と思われるかもしれないけれど、
わたしは自分の滅入っている時を振り返ると
それができるだけすごいことだと本気で思ってる。


あのざわざわする感じや、もやもやする感じ、
心もとない感じ、
どれもはっきり言って好きな感覚じゃない。

できれば、そんな感覚ない方がありがたいと思ってる自分もいる。


ただ、そういう感覚が出てきてしまう以上は、
そういうものとうまく付き合う方法を自分なりに編み出していきたいとはよく思う。


そして、その方法に求めるわたしなりの基準があって

1、簡単なこと
2、すぐにできること
3、日常生活と並行してできそうなこと
4、ひとりでできること
この4つは外せない。


心の状態がよくない時に、
1、難しかったり
2、実行するために色々用意が必要だったり
3、非日常の何かを生み出す必要があったり
4、他人の協力が必要だったり

それでは余計に疲弊してしまうから、
だから上の4つは大事な基準。


コーチングやNLP、各種セラピー、
色々受けたり見聞きしたりしたけれど、
それらはある種条件が整わないと成り立たないことだと気付いた。


そして、意外にも、ざわざわやもやもやは一人でいる時に起こる確率が非常に高い。


そんな時に、いくら専門的な手法を知っていて使える技量があっても、
それを自分のために使う元気がそもそもないから
変な話、無いも同然になっている。


わたしが、そういう意味で唯一専門的に学んで良かったと思うことは、
自分の見たくない感情や気持ちを自分一人でも安全に見る方法だと思う。





心がざわざわしてる時わたしはどうしてる?

「心の声を聞こうとしてざわざわがとれない時ってどうしてる?」

と友達に聞かれた。
正しくは、友達が聞きたかった時わたしは自分の娯楽に走っていてメールも電話も気付かず、
翌日、どうしたのか聞いたら、それを聞きたかった・・・ということが判明(汗)。


でも、せっかくの機会だから、
わたしの心がざわざわしてる時実際にどうしているのかを書こうと思う。


ひとつひとつは後から説明するとして、
最初にぱっと思い付いたこと。


1、寝る
2、その時食べたいものを食べる
3、ひたすらノートに感じてることを書き綴る
4、家事をする(炊事・料理など)
5、散歩する
6、意識してコーヒーを淹れる(注:インスタントです)
7、風呂に入る
8、自然のものに触れる
ただいまパソコン不調でDVDも見れないけど、DVDが見れた時は
9、映画を見る


コーチングもNLP(「神経言語プログラム」と呼ばれる心理系の手法)も学んだし、
元々福祉上がりだけあって諸々の心理系の勉強もしたし、
スピリチュアル系も好き好んで色々独学で勉強したけれど、
でも、わたしが自信を持って人様におすすめできる方法は上の9つ。


後から(エネルギー余ってたら)、逆にそういう専門的なことがそういうとき
なぜ役に立たせることができなかったかも、わたしは是非書きたいと思ってる。



1、寝る


これは本当に一番の特効薬だと個人的には思っている。
体を横たえてしばし眠りの世界へ。

あわよくば、夢の中で何かヒントを得てから目覚めるけど、
だいたい心のエネルギーが枯渇している時は、
あまり夢に期待しても仕方ない場合が多い。

でも、夢を見た見ないに関わらず、
なぜか眠った後は少しすっきりしている。

もう終わったことは仕方ないと思うのか、
さっきよりなんだかちょびっとだけ楽かも・・・
起きるとそういう感覚が出てくる。


上の9個全部に共通して言えることは、
強烈にざわざわもやもやしている時と比べて、
寝るなりなんなりをした後に
「楽になったかも・・・」
ということに気付くことはとてつもなく大きい。


べつにすんごく楽にならなくていい。
でも、1ミリでも1グラムでも、体が心が楽になれたのなら、
それに気付けると後の回復が良い気がする。



2、その時食べたいものを食べる


これもハードルが低い上に、すぐに実行できて良い。

わたしは、体でも心でも何か追い詰められると
大学の頃からなぜかジャンクフードが食べたくなる傾向が強いけど、
もう体が欲している時は、逆らうよりそれに従った方が早い。


それがやけ食い的になっても、
体に悪そうな感じでも、
そんなことは二の次、
まずは自分のあるがまま欲求に従っている。


ドミニカに住んでいた頃、
それまでまったくビールが好きでなかったわたしは、ビールの味を覚えた。


それ以来、朝から、又は昼からビールという日もある。


普段あまり口にしない、甘いものの時もある。


とにかく、なんとなくぱっと思い付いたものを口にする。
自分のために用意する。
それが、不思議と心を落ち着かせる材料になるのだから、面白い。


今書いていて気付いた。


そう、「自分のために用意する」
という行為そのものが
「自分をいたわる」ことに繋がって、徐々に心がほぐれていくのかもしれない。



3、ひたすらノートに感じてることを書き綴る


これは、ある程度余力がある時の手段。


本当に滅入っている時は、
ノートや筆記用具を用意することすら億劫になるから・・・・


とにかく、感じたままを書く。


具体的な出来事や人物がざわつきの原因のときは、
誰も見ないことをいいことに、言いたい放題書いている。
だただた書く。


書き続けると、不思議な感覚が生まれてくる。
嘔吐したくても吐けずにずっと気持ち悪い感じが残るよりも、
吐いて楽になる、
あの感じに似たものが出てくる。


色々思っていたことや感じていたことが溜まり出すと、
そしてそれを何らかの形で吐き出さないと、
気付くと体か心が不調を訴えてくる。


だから、とりあえず、出す。


内容はどうでもいいから、出す。


出した分は、程度の差こそあれ、楽にはなる。



4、家事をする(炊事・料理・掃除など)


わたしは、個人的に「家事セラピー」と呼んでいる。


体を動かすことが元来嫌いなわたしだけど、
家事だけはなぜかそんなに嫌じゃない。


以前はとっても嫌だったけど、
今は嫌じゃないばかりか、楽しんでやってることも多々ある。


スポーツ系が好きな人は、自分の好きなスポーツに置き替えてもいいと思う。


家事の良いところは、


☆やったらやった分、目に見える形で成果が表れる

☆いくら考え事をしていても、手や体を動かしているうちに、なんとなくざわざわ感やもやもや感が解消される


細かい心理の分析はわからないけど、
とにかく、家事というのはびっくりするくらいに心を清めてくれる効果があると個人的に思ってる。



5、散歩する

近所をぷらぷらする。

庭とも呼べない狭い場所に植えられた樹木や花を見たり、
人の家の風貌を眺めたり、
散歩している犬の歩き方を見たり、
空を見上げたり、
お目当ての食べ物を買いに行くでもいい。


歩いているうちに、すっとしたりする。


家に戻ってどんよりする場合もある。


だけど、散歩している時、少しでも気分転換できたらいいかな~と思う。


その場しのぎの方法だけど、その場しのぎできるだけでもOK!と思ってる。



6、意識してコーヒーを淹れる(注:インスタントです)


ある時、離れて暮らす友達とまったく同じ時期によしもとばななの同じ本を読んでいたことがあった。


その友達がくれた、よしもとばななの本の感想が次のようにあった。


「『私って、ただ毎日起きて仕事行って家に帰ってご飯食べてお風呂に入って寝て、
それ繰り返すだけの人生なのかなー』って思ってた。

でも、死ぬとできなくなると言われると、

起きて→コーヒー飲むためにお湯わかして→顔洗って→テレビで天気見て・・・
てゆう、まさに順番通りのつまらない雑事が、
ちょっとだけ『生きてる間にしかできない体験』みたいに感じられる

毎日やってると飽き飽きするけど、
でも『心に思ったとたん目の前にコーヒーが現れる』
んではなくて、
いちいちカップ出してお湯沸かして豆選んで・・・
みたいな動きをいちいちいちいちやっていくのが人生。
って、別に悪くないのかもしれないなぁ」


その友達の感想を読んでから、わたしの中でも「コーヒーを淹れる」ことが特別になった。


どんなに煩わしくても、
生きているときにしか、体験できないことなのかもしれない・・・
そう本当に思えるようになってから、コーヒーを淹れることが特別になって、
そして心のざわつきももやっと感も「これも今しか感じられないかもしれない」
などと思うようになった。


7、風呂に入る

お風呂は、本当に体の血流を良くしたり、
体の緊張をほぐしてくれたり、
もうそのままの効果があると感じる。


そして、本当にゆるむと、なぜかずっとこわばっていたものがほどけて、
泣けたりする。


ずっとずっとどこにも持って行けなかった感情が溢れる。


あと、個人的に好きなのは、
お風呂場を真っ暗にして、キャンドルを灯すこと。


火がゆらゆらと動くさまに心は奪われるし、
そのゆらめきと一緒に、色んなことを一瞬忘れたりする。


「あ、今わたし色んなこと忘れてた・・・・」
と我に帰った時、ちょっぴりうれしくなる。



8、自然のものに触れる


今家で3つの観葉植物を育てている。

毎日違う表情を見せる空を見上げたり、

桜、新緑、朝顔、イチョウ、ハダカになった樹木・・・

道端に生えている雑草やその花たち

そんなものを見ているだけで、わたしの心は洗われる。


風を肌で感じる、

鳥のさえずりを耳にする、

植物特有のにおいをかぐ、

そういうものも心を整えてくれることに貢献してくれる。


色んな人が癒しの方法で「自然に触れる」ことを紹介しているけど、
これはわたしも本当に本当だと思う。



9、映画を見る


これは、自分の今ある軸をずらすのにぴったりだと思う。

2時間ほど、今のもやもややざわざわから逃れるように映画を見る。

映画にはまる。

少しの間、自分を忘れる。

一瞬でも何かを忘れることができたら合格。




最後に・・・


9つも書いてみて、共通していることに気付いた。


「小さな変化に気付く」

「一気に良くなろうとしない」

「自分に過大な期待をかけない」


多分この3つをわたしは自分のもやもやざわざわ解消の上で、おそらく大切にしている。



2013年11月22日金曜日

魂の台所

これは魂のはなしでも、スピリチュアルな話でもなく、
先週ともだちと夜道を歩いて偶然見つけたお店の名前だ。


その数日前、わたしはちょっとしたトラブルのすえに、
むかしの西洋のお城のような形の、屋根がきれいにライトアップされている建物に出くわした。


トラブルにはがっくり肩を落としたけれど、
そのライトアップされた建物を目にしたことはとっても感動した。



先週ともだちと会った日。
最初待ち合わせた駅からそのお城みたいな建物が歩いていける距離にあったから、
そこに行ってみよう!と提案した。


ほろ酔い気分でふたりでその建物を見に行った。


15階ほどのマンションや一戸建てが乱立する住宅街の中に、
突如現れるそのライトアップの建物。


ほろ酔い気分はさらに良い気分に変わり、
「今日はせっかくだから、このまま街の方に繰り出して、新しいお店を開拓しよう!」
ということにまとまった。


そして、延々と続く住宅街の一角に、何かしらお店のような雰囲気のところが目に飛び込んだ。

何せ、家がずっと建ち並んでいたから、ほんとうに「目に飛び込んだ」という表現がぴったりの見つけ方だった。



近くで見ると

[cocina de alma]


と看板に書いてあった。


cocina(コシナ)はスペイン語で台所。

alma(アルマ)は魂。

ふたつ合わせて「魂の台所」になる。


表の看板を見てスペインのビールを出す店だとわかり、
この間スペインを旅してきたともだちは
「うわぁ~」と感嘆をもらし、
今日はここにしようと決めた。


名前は「魂の台所」でも、
中はスペイン?ヨーロッパ?のプロサッカーの試合の録画されたものがTVに流れていて、
わたしたちと入れ違いのグループは、男性バニーちゃんやセクシーサンタクロースに扮して、
異様な雰囲気をかもし出していた。


音楽はスペイン語なら何でもありのようで、
店の少し薄暗い雰囲気にマッチしたバラードが流れたかと思えば、
陽気なラテン音楽も時々流れていた。


ひとつ強く感じたのは、
そこのオーナーが自分の好きなものをすべて詰めこんだ空間だということ。


色んなものが詰めこまれているから、
パッと見、色んなものがあるなぁと感じるけど、
なぜかそれらすべてがひとつにまとまって見えるからとても不思議だった。


そういう意味かはわからないけど、
「魂の台所」という言葉は、たしかに店の雰囲気にぴったりな感じだった。



ここからは今のわたしの備忘録。


先週から、この魂の台所の話をブログに残そうと決めていた。


なんとなく残しておきたい、
はっきりとした理由はわからないけど、とにかく残したい、
ずっとそう思っていた。
そんな気持ちから今日ようやく時間が取れて書けた。


魂の台所来訪は1週間も前のことになっている。


1週間、この出来事を熟成させていたら、
今日一気に色んなことを思い出した。


いつか別のともだちも交えて同じように夜道をほろよい加減で歩いたこと。


その時、たまたま畑の脇を通りかかって、
ふたりは足を止めて、その畑の作り方(構造)について超マニアックな分析をして、
そのふたりにはとてもついていけないと思いながらも、
なぜか今もその光景がとても強く残っていること。


またいつかの時は、
「『ありがとう』って言葉は『有難い』で『ありがとう』だよね。
ありがたいっていうことは、すなわち有ることが難しい、
そう、それ自体が奇跡のようなものだよね」
と語り出したともだちの言葉。


それもまた、いつかの夜道のほろ酔い散歩のときだった。


挙げたらきりがないからやめるけど、
そういう小さなちいさな思い出をたくさん積み重ねてきたんだなぁと、
そしてそれこそがわたしがとても好きなものたちなんだなぁと思った。


魂の台所の翌日、また貴重な時間を刻んだ。


どんなにお金を積んでも手に入らないような、
そして多分同じことを意図的に計画しても同じようにはならなかったような、
そんな時間を手に入れた。


そして、明日から、今度は別の思い出を作りにちょっと出かけてくる。


多分最初で最後になりそうな、まさに一期一会の会になりそうな雰囲気を今すでに感じている。



平凡な毎日でも、もちろんその時その時しか存在しないのだけれど、
そんな中で「特別な出来事」と認識するような瞬間は、さらにその時しかない感じを強くして、
そして後から振り返ると「思い出」に変わってる。



たとえば、あの畑分析の瞬間なんか、
正直まったく興味のないわたしには全然つまらない内容に思えたけど、
あとから振り返るとあそこにあった空気感や、
まったく一体感のない3人がそこに一緒にいるだけで生まれる一体感や、
言葉には表せない色んなものがそこにあったんだなと思う。


自分のしたいことは相変わらずぼんやりだけど、
でも、これまでとても大事にしてきたことやこれからも大事にしたいこと、
どんなものにわたしは感動したり心が温まるのかは、
前よりももっと鮮明になってきた。


自分で、その部分に関しては、いいぞ!!いいぞ!!と思ってる。

2013年11月12日火曜日

言葉のフシギ

~~「あんたなんか死ねばいい」
その言葉を他人から言われたのは生まれてはじめてだった。~~


『さきちゃんたちの夜』(よしもとばなな)に収められている、短編集のひとつの出だしがそんな風に始まっている。



わたしはしばし本を脇に置いて、その言葉から引き出された数々の出来事を思い出していた。



「死ね」「殺す」という言葉たちをわたしはどれだけの数で20代浴びまくったのか
もはや半端ない数すぎて憶えていない。


お茶碗に盛られた米粒を数えるくらい数限りなかったため、そんな数を数えたこともない。


ただ、不思議と、当時のわたしはそれらを言われても嫌ではなかった。


20代のうちの5年半、わたしは「児童養護施設」と呼ばれる2~18歳の子どもで家庭では生活できなくなった子たちが生活する施設で働いた。


「養護」というと、障害児を思い浮かべる人が多かったけれど、
基本的には心身共々健康な子どもたちだ。


そして、その心身共々健康な子どもたちの口から
「死ね」「殺す」「うざい」「くそばばあ」「大嫌い」
などという言葉がわたしに向けて発射された。
30人もいれば、誰かがそういうことを言うわけで、
なので、言われない日の方が少なかったような気がする。


小さな子たちも「ありがとう」の前に「ばか」や「死ね」を覚えるから、
大人側の希望なんかこれっぽちも汲みとってもらえないことは、体で理解した。


言葉だけを取ったら、人格否定、存在そのものを全否定並みの強さがあるけれど、
わたしにはそんな風には感じられず、
「おはよう」「今日どうだった?」と同じくらいに受け取る感じだった。


言葉本来の汚さは、全部の日本語をかき集めても「汚い日本語トップ10」くらいに入るとは思うけど、
わたしはその汚さを聞いていたのではなくて、
そこにのっているエネルギーを聞き取っていたんだと思う。


子どもたちは、無意識のうちにそれらの言葉でコミュニケーションを図っていたし、
そしてそれらの言葉でわたしをテストしていたと思う。


わたしをテストしていたというのは、
わたしが信用できる人間かどうか、
それを見極める手段のひとつに汚い言葉たちが存在していたと思う。


SMの世界の話をしているわけじゃない。


どんな子も、あの手この手で大人を試していた。
汚い言葉を言うこともあれば、無視を通したり、
通常されて嫌なことをあえてやっていた感じがする。


へんてこなコミュニケーションだけど、
数限りないものを積み重ねると、ある時臨界点が訪れる。
関係性が気付くと変わっていたりする。


わたしが勤めている間、いちばん長く近くで見た子がいる。
その子がダントツでわたしに「くそばばあ」と「死ね」を吐きまくった子だった。


ある時、その子が大事件を起こした。
そして、いちばん長く近くで見ているにも関わらずわたしには何にも本人から情報をもらえなかった。


他の大人たちが本人から情報を得ているのに、
わたしには何一つ話そうとしなかった。
なので、わたしは他の職員の人たちから情報をもらうという、
とても変な構図になっていた。


ある夜、ふたりで事件の話をすることになった。


わたしは正直になぜわたしには何も言わないのかと聞いた。


彼女から返ってきた言葉は一言。


「だって、本気で心配して本気で泣くでしょ。
他の人たちはそうじゃないから…」


「くそばばあ」と「死ね」を発しながら
ずっと別のものをその先に乗せていたんだろうなぁと思った。



話はうんと変わって今。


34歳にして、わたしは今「正しい日本語」を教わっている。
わたしの数々の言葉使いに問題があるから、
隣りで訂正される。


「よろしいでしょうか」
「かしこまりました」
「申し訳ございません」
 を目下意識的に練習中だ。


気を抜くと、
「よろしかったでしょうか」
「わかりました」
「申し訳ないです」
とわたしは言っている。


それは仕事だから仕方ないと思う。


だけど、必ずしも丁寧な正しい日本語が良いエネルギーを
持っているわけではないし、
反対に響きはお下劣なのに血の通ったコミュニケーションが成立したりする。



真逆のものが今人生に流れ込んでいる。


真逆のきれいなものたちに囲まれて、
わたしは逆に窮屈になっている自分を感じている。


たしかに良い勉強の機会ではあるけれど、
表面だけを取り繕うような、そういうやりとりをわたしは全く好まないことがよくわかる。