2018年12月31日月曜日

1年の振り返り2018

副題『カオスな日々の中の心の中心軸2018』

年末年始の忙しい理由。

「避難訓練ごっこ」
「歯科検診&内科検診ごっこ」
「プリン屋さんごっこ」

3歳になったメイは、保育園に通い始めて早9ヶ月。

ホイッスル風の笛を吹いてから「これから、ひなんくんれんします」と宣言した。

ぬいぐるみたちを一列に並べて、その前に自分が立ち、「これからひなんくんれんです」と、保育園でもやってるだろうことを真似してやっている。

ぬいぐるみを並べたり、「はい!」とぬいぐるみの代わりに返事をしたりする役をひたすらやらされる。

歯科検診ごっこは、学校や保育園でするように、ぬいぐるみたちの口に、ライトが付くペンをかざし、「むしばないですね」とひたすら言う、これもまたエンドレス同じことを繰り返す。

1人1人を呼ぶ時の名前がおかしい。

「ぶしまたピカチュウさーん!」

3歳になったメイは、苗字と名前とセットで呼ぶことを覚えた。

初日のお風呂もすごかった。

「おかあさんとはいる!」と言って妹と入ったメイ。

途中で「史子来て!」と風呂場から妹に呼ばれた。

何かと思えば「メイが『メイのおもちゃがない!』と風呂に入った瞬間から言っていて、『お母さん知らないよ』と言ったら『ふみこがしってる!ふみこ呼んで!』って言って。『ふみこ今布団敷いてるから近くにいないよ』って言うと数分おきに『そろそろふみこ下にきたんじゃない?』ってずっと言ってるんだよね。それで今音がしたから(←洗い物をする音)、『ふみこきたかもしれないよ!』ってなってそれで呼んだんだよ」と説明を受けた。

メイのお風呂のおもちゃセット(35年物のおさがり含む)を脱衣場から出して、メイに渡した。

しばらくするとまた妹から呼ばれた。

「まだプリン屋さんごっこしたいんだって。史子一緒に入って!」

風呂場でも忙しい。

髪の毛や顔を洗ってる時に、すぐ近くのメイに電話のマネをしたりひとり言をつぶやかないといけない。

「もしもしプリン屋さんですか?今忙しいので(←本当のこと)、プリンを1つ取っておいてくれますか?」

メイはいいですよ!と返事したくせして、その後1人で店員とお客の二役を演じて、「プリンうりきれちゃうなぁー!」とここぞとばかりに私を急かし、それでその後上がるまでエンドレスプリン屋さんの刑。

昼間に食べたプッチンプリンの容器をお風呂に持ち込んで、そこにひたすらお湯を入れてプリン屋さんになりきる。

いちご味やチョコレート味、アイスプリンなど色々バリエーションはある(もちろん、みんな中身は風呂のお湯)。

「生クリームはありますか?」には、いつも「ない」と言われる。

で、私は何をするかと言うと、口から水を入れて遊ぶ鳥のおもちゃに扮して、ひたすらプリン屋さんに行く客役。

そして、メイがスプーンで容器の中のお湯をすくって鳥に食べさせてくれるから、私は鳥を押して「ブヒブヒ」みたいな音を鳴らしながら口は「おいしいおいしい」と言いながら食べる真似をする。

100回以上は鳥の体を押し、おいしいも同じ回数言い、これは何のバツかと思うような遊び。

メイはかれこれ1時間は入っていたと思うけれど←大人の方が疲れる、なかなか上がりたがらない=エンドレスプリン屋さんの刑だったから、最後はオファーしてみた。

「ねぇ明日はジュース屋さんごっこする?お風呂上がってヤクルト飲んだら、ジュース屋さんのコップができるよ!」と尋問誘導し、それでようやくメイのイエスを取り付けた。

私は翌日ジュース屋さんというよりお風呂には一緒に入れないとわかっていての、ジュース屋さんに向けての準備のオファーだった←悪い大人。

こうしたシュールな遊びに忙しい年末。

年賀状のバイトに行けば行ったで、1日休みだった私は「昨日から暇になってきましたよ!」と周りの人たちから報告を受け、たしかに前半はいつもよりもゆっくりしていた。

ところが後半、未だかつてない不具合だらけの仕事が回ってきた。

最初は「たまたま」の不具合だと思っていたけれど、本来の業務に支障が出まくりのレベルで、さすがにおかしいと思って、スタッフの人を呼びに行った。

事情を説明すると、スタッフの人はこれまでの不具合の例をいくつか挙げて、私にそれと同じかどうかを確認したけれど、「いや、そんなレベルじゃなくて、全種類制覇するような勢いで起こっています」と返した。

スタッフの人も最初はそんなわけないという感じで捉えていたけれど、実際に私の持ち場を見て納得して、それでようやくトラブルの全容はわかってもらえた。

ただ、私の前の工程の段階で完璧にセットされていることにはなっていたから、様子見することになった。

嫌な予感しかしなかったけれども、ごちゃごちゃ言ってる暇もなく、また仕事に戻った。

その後最後までずっとそのトラブルは続いて、終わり際にさっきのスタッフの人が回ってきて、惨状を報告した。

スタッフの人からしても「まさか」だったらしく、「えっ(  ̄Д ̄;)」って言われたけれど、最後はあとはやるんで大丈夫ですと言われて帰ってきた。

私は妙に納得していた。

これは派遣の仕事を始めた数年前から気付いていたけれど、私はとにかくあたりを引く。

そこで永年勤続の人たちでさえ当たらないようなトラブルによく当たる。

もしくは、かつて出たこともないクレームに当たる。

しょっちゅう色んな職場で「武士俣さん、引きが強いね!」と全く嬉しくない言葉を頂戴しまくりだった。

それはどこの職場でもよく起こって、今回も短期のアルバイトでスタッフの人もまさか!と絶句するトラブルに当たった。

ぐったりしたところに吹雪いてる中、ホワイトアウトしそうな外をのろのろと運転して帰った。

本当は別の文章をアップする予定でいたけれど、メイとのシュールな遊びや年賀状のアルバイトで思わぬトラブルに見舞われ(←もちろん私も初めて遭遇した)、そちらは間に合わず、年明けにすることにした。

そして気付けば、今回が年内最後の文章になるとわかって、ちょっと1年のしめくくりとなるような内容にしようと思った。

あまりじっくりと振り返ることもできない。

じゃあざっくりと…と車の中で考えながら帰ってきた。

メイとのシュールな遊びや年賀状のバイトもカオスな感じが溢れ出ていたけれど、そもそも今年1年もカオス感たっぷりな1年だった。

まずは、「2018年って、2018年1月1日〜明日12月31日までの間だよね?」という確認から始まった。

次に大まかな流れを見た。

3月までは仕事、4月からは引きこもり的なニート、気付けば9ヶ月もこの状態なんだと気付いた。

たしかに客観的に見たらそうだけど、実際は本当に色んなことがあった1年だった。

1年前の年明け早々にオルゴナイトに出合った。

そこから始まり、ペンジュラムの謎が徐々に明らかになって、ホロスコープ鑑定を受けて、そのうち「癒しのレシピ」と称して他の人たちのメッセージをキャッチするようになり、ホロスコープとヒーリングの勉強を始め、そして今カオスな年末の日々の横で実は今年最後の癒しのレシピをやっていた。

本当はそのことを書きたかったけれど、避難訓練ごっこやプリン屋さんごっこでそれどころではなくなり、それで気付けばあと今年も1日((((;゚Д゚)))))))!?となって、急遽今年最後の記事を変更することにした。

他人からメッセージをキャッチしてしまうこの体質的なものは、春先の桜の木の近くで初めて「うわ、これなんだ?」となってから、今この9ヶ月後にはずいぶんと違うものになった。

目の前の人に必要なものが言葉としてやってきて、無視しようとするともっとやってくるという有り様だった。

まじめにドラマか映画でも書けそうな感じで、最初はビックリしたけれど、よくよく考えたら元々そういう体質はあって、でもこれまではそうした体質であることさえ知らずにいた。

あまりに当たり前のことで、全く自覚がなかった。

今も半信半疑ではあるけれど、年内最後の癒やしのレシピのおかげで、その辺りが春先よりもうんと明確になって、どうした時にそういうことが起こって、そして私がどうしたところにアクセスしてるのかも、なんとなくわかってきた。

アクセスしてると言っても、私は意識的にアクセスしてるのとは違うから、未だにその辺りは感覚的にさっぱりわからない。

今回もアクセス先がわかったのは、相手の人からの指摘でわかっただけで、自分ではわからない。

仕事もせず結婚もせず両親からは何をしてるのかと不信がられ、周りの知らない人たちからしたら「ぶっしーは何を結局したいの?」と思われてることも感じ、ごく一部の親しい人のみが私の今のスーパーカオスな状況を知っている中で、当の本人でさえも「何がどうなっているんだろう…?」と思っている。

はたから見たら「何もしていない」ニートであって、もう私はそれを否定する気もないけれど、私にとってこの1年は本当にじっとしてでも、外との関わりを最小限にしてでも、とにかく自分を見つめることと自分の人生の流れを全部棚卸ししてそこから色んなことを感じとることが必要だった。

その辺りも詳しく書きたいけれど、また2〜3時間以内ににシュールな遊びが始まるから、今は本当の本当に「これだけは書きたい!」ということだけに絞って書く。

色んなことが入り込んできた1年で、さらにはそうした見えない部分の体質(他人からすればある種の能力)も自覚できるようになって、それに伴いなのかとにかく色んなことが起こりまくりな1年だった。

自分のことも出来事も色々カオス感たっぷりではあるけれど、それでも私はそれ以上にすごいことに気付いた。

起こってくることも、自分自身のことも、とにかく「混沌」という言葉がピッタリになっている。

じっとしている割には、外も中も騒がしい、忙しない感じだった。

あまりにも読めないことばかりで、本当なら怖さがもっと出てもおかしくないところ。

今年は過去10数年分の体調不良すべてを足したぐらいの回数具合が悪くなり、起こることも色々尋常ではなく、気持ち的にもアップダウンが激しく、落ち着かないこともたくさんあった。

それでも私自身が「大丈夫」とどこかで信じられた理由は、去年2017年のことがあったからだった。

もっと言うと、そこで出逢えた人のおかげだと思った。

車の中で、今年がいつからいつを指すのかを確認した時に、「そうだ、もう今年は一緒の空間にもいなかったし、1日も会えていないんだ」ということに気付いた。

会えていないにも関わらず、その人は私の中にずっといた。

外側がどんなに変化して色んな訳の分からないことが起こっても、唯一その人だけは私の中にずっとずっといて、そしてそこが唯一私が変わらずにぶれずに戻れるところでもあった。

心のストーカーみたいな、なんとも痛々しいところもあるけれど、別に迷惑をかけているわけじゃないからいいかと思ってる。

もし、今年2018年に起こったことが最初に起こったことなら、私は到底受け入れることができなかった。

どれも望んだものではない上に、「そんなわけない」とか「そんなぶっ飛んだことはありえない」とか、色んな理由をつけて受け入れることは一切しなかったと思う。

去年は意気揚々と「今年の1文字」を選んで、そこに並々ならぬ想いを持っていたけれども、今年はそういうこともない。

ましてや、去年のような生きてるだけで毎日が喜びに溢れていて、幸福感に満ちていて…みたいな空気は今年は皆無だった。

むしろ、今年は徹底的に自分に向き合うことで、苦しいことや逃げ出したいことの連続だった。

変なことはたくさん起こるし、自分でも説明できないようなこともたくさんあった。

それでも私が自分の人生の流れを信頼できるようになったのは、去年のその人との出逢いがあってそこから本当にたくさんのものを得ることができたからだった。

今後はますます、スピリチュアルというか見えない世界と現実世界とを掛け合わせて何かすることになるだろうし、それは役割的に避けて通れないと思う。

それは不安や恐怖をたくさん伴うものだし、避けて通れるものなら避けて通りたいという気持ちもまだまだある。

だけど、そこに向き合うと決断しつつあるのは、その人に出逢えたことで本当に自分の人生の流れを信じられるようになったからだった。

その人に出逢う前、私の人生は大きく崩れた。

崩れっぱなしの30代の中でも一番大きく崩れたところを経て、色々思い通りにならない自分の人生が心底嫌になり、残りの人生もこんなだったらどうしようとおののき、何も先のことに希望が持てなかった。

ホロスコープを学んだことで、本来であれば、2017年の夏は特に天体の影響(冥王星)がとても大きく出ている頃だということも知った。

そんなこんなの時に、私は人生で本当の本当に大切な出逢いに巡り合えた。

結果は全く思わしくないし、最後は本気で嫌がられていた風ではあったけれど、それでも大切な出逢いには変わりなかった。

そして、天体的にすごくハードと解釈されるまさにその時に、その人に出逢えたということが、それも色んな大変な時期を通り抜けての出逢いだということが、私に自分の人生を信じる力を与えてくれた。

このまま、もう再会することもなく、永遠に会うことができなくても、それでも私はやっぱりその人に出逢えて良かったと思っているし、その人に出逢えなければ自分の人生を信じることもできなかった。

その人との出逢いの部分が「陽」だとするなら、その他の部分は「隠」になる。

全体的に隠の要素満載の人生の中で、もし今年に起こったことが去年の出逢いより先に起きたとするなら、私は受け入れることもできなかったし、もっともっと自分の人生から逃げたと思う。

表面上、訳の分からない又は苦痛を伴うような出来事をたくさん経ても、それは次に繋がる大切なプロセスだったんだと知った時に、それも実体験を通じて知った時に、私は心の底から「大丈夫」と思えた。

こんなこと言うのはとても恥ずかしいけれど、私が1年前の夏に得たことは、単なる出逢いじゃなかった。

イケメンに素敵な気使いをしてもらったことがすべてでももちろんなかった。

悲しいことも切ないことも山ほどあった。

思い通りじゃない流れを心底恨んだ。

それら全てをまとめて私が得た究極のものは「愛」だと思う。

どうでもいい人であれば、今頃どうでもいいどころか記憶の片隅にも残らない人になっていたと思う。

思い通りにならなかった関係は、今も変わらない。

でもそんなものではなく、私の中で一番大きなものは「愛」とか「愛を感じる気持ち」だったと思う。

色んな想定外の出来事と苦しさ満載の数々の強制終了的なリセットと、そんなものたちを越えた先にあったものが「愛」にまつわるものなら、それはそのために必要だったんだと受け入れられる。

そして今年起こった色んなことたちも、何かそうしたところに通ずるものなら、仕方ないとも思う。

だから、かなり揺らぎの大きかったこの1年も、だから副題の通り「カオスな日々」にあっても、それでもいつも私の中心にはその人がいて、その人への気持ちがあったから、私はぶれない軸を持つことができた。

色んなことがありすぎな日々の中でも、絶対に不変だったものがその人の存在だった。

会えないのに何言ってんの?って話だけれど、単なる自己満足でしょ?って話でも、もう何でもいい。

私にとってその人がどういう存在か、その人に対してどういう気持ちなのか、そのすべてが私を本当に支えてくれた1番のものだった。

思い通りにならないことに色んな負の感情も山ほど湧いて出てくるのは日常茶飯事でも、やっぱり大切な人で大切な何かの人には変わりない。

まさか全く会えなかったこの1年もこんな風に影響を及ぼしてくれるとは想定外だったけれど、私はもうそれをありがたく受け取ることにした。

この数日、少しだけその人について書いた過去の記事たちをさらさらっと読んだ。

つくづく残しておいて良かったと感じた。

似たようなことを毎回書いている風ではあるけれど、そのすべてに一貫性を感じた。

そして私の中心にその人がいるということを再認識もした。

2017年の「逢」という1文字は、その後もまた引き続きたくさんの大切なものをもたらしてくれた。

その人には本当に出逢えて良かった。

心からそう思っている。

たとえ、もう二度と出会えなくても、それでも本当の本当に出逢えて良かった。

その時々の色んな気持ちを読んで、自分の中の変わらない軸を見つけた。

それは辛く悲しく切ないものであっても、根底は本当に愛に溢れまくっている、そう感じた。



昨日、出勤した時のこと。

家を出てすぐに、同級生が帰ってきていることを知った。

そして、はっとなった。

相手は男で、ほとんど言葉も交わしたことがなく、なんなら寡黙症の私を前面に出したようないまわしい思い出まであるけれど(苦笑)、今も今でばったり会ったならようやく大人になった私が挨拶できたら御の字みたいな話の関係の同級生。

ちなみにTの字のごとく、私の家、そして横棒のはじとはじに同級生の男2人の家がある(2人ともそれぞれ所帯を別のところに構えてる模様)。

その片割れの昨日家の前を通った方の同級生。

実はその家の苗字は、その去年の夏に出逢った男性と同じ苗字。

まぁそこはずっと前から気付いてはいたけれど、ポイントはそこじゃない。

なんとその同級生の車、その人と同じ車種で同じ色の車に乗っている。

しかも去年かその少し前に買い替えたはず。

なぜなら私が帰ってきた2016年は赤い車だった記憶があるから。

これまで全く気にも留めていなかったけれど、よくよく考えたらもう1人は何に乗ってるかは知らないけれど、当然その車じゃない。

たまたま苗字が同じ方が同じ色の同じ車に乗っている。

どういう偶然か知らないけれど、こんなところにも偶然があったんだと気付く。

驚きながら車を走らせた。

いつも通る道は雪が降るとコンディションが悪くなるから、いつもとは違う道を通った。

単に雪が降ったからの理由で、違う道になった。

いつも走る道と並行している道を通ったその時に、意外な場所で私の中のラッキーアイテムを見た。

その人と同じ名前が使われている、世界に1台しかない洋菓子屋さんの車だった。

すごい意外なところに止まっていて、初めてそんなところで見た。

1年のしめくくりに良いものを見せてもらえたなと感じた。

その世界に1台の車を見ても、同級生の同じ苗字男子との接点を見つけても、別にその人に会えるわけじゃない。

でも、私はその2つを立て続けに見て、そしてあと1日しかない=あと1つしか今年中にブログを書けないとわかって、それで急遽書くものを変更した。

その人のことをきちんと記録に残したかった。

色々痛々しい話が満載でも、私にとって大切なことには変わりないから、それをきちんと1年のしめくくりに残したかった。

2018年、一度も会えず、今後も会える見通しはなく、それでもこんなにも大切な理由は正直私にもわからない。

私の人生の七不思議の1つと言ってもいい。

それでもやっぱり大切な存在で、私の中心にあることで私は何が外側であろうともそこに戻ってこれる。

そういう意味で、今年も愛ある1年だった。

私が今後やっていくことは、愛がないとできない。

人を大切に思うところが根底にないと、絶対にやっていけない。

その1番の根っこのところにその人がいて、その人と出逢えたことで得られた私の中の愛の感覚が、これから先ずっと色んな方向で役に立っていくと思う。

だから今年も愛ある1年で、その人がいてくれることで本当に大切なものをたくさん手にした1年だった。

“LOVE2018”ということにしよう、そうしよう(♡´艸`♡)。

2018年12月27日木曜日

1年前と今とこれから

グーグル先生に「私信」とは何かを聞いた。

グーグル先生いわく
1、個人としての手紙。私用の手紙。
2、秘密の知らせ。
とのこと。

肉体労働の疲れが腰に来てるな…なんて感じながら、帰り道車を運転していた。

私信を書いたことを思い出しつつ、相変わらず届くかどうかもわからないものに対してやたらと押し気味な自分にツッコミたくなった。

それと同時に、得意の開き直りをした。

「生きているうちにしか私信さえも書けない」
「恥ずかしくなったら、その時は書いた私信を隠して見えないようにしたらいい」

私はどういうわけか、究極の事態になると「いつかは死ぬわけだから、生きているうちにしかできないことはやっておこう」と思う。

私信を書くとか、はっきり言って死んだらできないし(死んでからしたらホラーになってしまう)、このブログは100年後はインターネットの海に沈んでいるどころか姿形さえ見えなくなっている。

私も当然この世にはもういない。

私信って書きたいから今は書けるけれど、いつかは書けない日がやってくる。

届く届かないの心配の前に、書けない時が必ずやってくる。

今回書いた私信は、「イケメン上司の〇〇様」とか書いている時点で終わっている。

ツッコミどころ満載過ぎる。

とうとうこんな手段に出た私を、自分のことながら呆れている。

バカだなぁと思う。

また年末がやってくる。

去年の年末は撃沈していた。

頭からその人の例年の年末のスケジュールが離れなくなった。

何が悲しくてそんな情報を聞かなきゃいけなかったのか、私はあまりにもショックでそのことをどうやって頭から追い出そうかと必死だった。

1年前の私は、1年もすればほとぼりも冷めて、何かしら違う展開になっているだろう…と思った。

たしかに違う展開にはなった。

けれども、その展開は私の予想を大きく裏切った。

私は冷める方の展開は予想した。

そもそも可能性のない人になんだかんだと気持ちを向けても仕方ない、1年もすれば多少は冷めて違う方向に舵を切るだろう…、そう思った。

なのに、何で今私信なんて書いてるんだろう…ヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3

予定と大幅に違い過ぎる。

1年後の2019年の年末は、今と同じなのだけは絶対に嫌だ。

さすがに2年も持ち越すようなことはしたくない。

これから毎日、断られた時の場面を脳内再生しようか。

もしくは最後の時のその人の顔の表情と目の表情を脳内再生しようか。

そして自分で自分にひたすら言い聞かせる。

「その人とは縁がなかったんだよ」と。

まさか、本人からは何の音沙汰もないのに、全く関係のない第三者である4人もの人たちから、その人に関しての情報提供をこの1年でされるとは思ってもいなかった。

その人の名刺を自分のすぐ近くに置いたからこんなことになったんだろうか…。

名刺をしまったり破棄したら、もうこういうことがなくなって、なんならその人のことも気にならなくなるようになるのかな。

その人を思えば思うほど、心の中はさみしさが増すばかりだった…。

繋がれないこと、共に生きられないこと、ただただ寂しかった。

生きているうちにしか書けない私信を書いたことは後悔していない。

でも書いても繋がらない現実は否定のしようがない。

私は冗談抜きで、1年後の自分には別のものをプレゼントしたい。

もういっそうのこと、その人の結婚の報告を聞くでもいい。

そうしたら私は、自分の気持ちを切る。

紙切れ1枚のことでも、切る。

反対に、私が電撃入籍してもいいわけだから、そういうおめでたいことでももちろんいい。

とにかく今と同じ状況だけは本気で避けたい。

繋がらない日をもう365回繰り返すのは本当に嫌。

それなら、「繋がらなくて正解」という流れに自分の身を置きたい。

私だけが繋がりたくても仕方ない。

意志のないところには道はできない。

悲しいけれど、その人と私は繋がらないことが正解なんだと思う。

少なくとも、繋がらないと相手は選択したわけだから、そんなのくつがえせない。

相手は自分の選択をくつがえせても、私は相手の気持ちをくつがえせない。

今年もその人はデートかデートみたいなことをするのかもしれないから、私も私で次に目を向けたらいい。

私は第三者である4人もの人たちから情報をもらうより、たった一言、その人から連絡が欲しかった。

世の女性たちが憧れるソウルメイト的な、魂的なご縁なんか本当にいらないから、まじめにその人と普通にやりとりできる関係が欲しかった。

自分でも自信がないけれど、年が明けたら、もうその人のことは一切書かないにしようかとこの間からずっと考えている。

その人と関わった瞬間たちのホロスコープの分析だけは、書かないことが多少悔やまれるけれど、それでもこのまま詳しく見なきゃいいのかもしれない。

詳しく見なければ書く事柄も自然に消滅するから、それでいい気がする。

いくら書いても伝わらない。

何にも反応がない。

読んでいるのはなんとなくわかっている。

なのに、うんともすんとも反応がない。

もう自分側もだいぶ限界なんだとわかっている。

何が限界かもわからないけれど、とにかく悲しくて仕方ない。

1年前、まだ半袖で通せた秋の日、あれが本当に一生のうちで最後の日だったのかもしれない。

その人と私とが目の前で顔を合わせた最後の日、そしてあれが今生の別れの時だったのかもしれない。

そうじゃないのなら、そうじゃないとはっきりと言ってくれないと私にはわからない。

ここまで書いてももう何もなければ、何もないということ。

会えるのも、自分の気持ちを伝えるのも、全部が全部、生きている時にだけ許されている特権だと私は思っている。

『生きている限り希望はある』

今の朝の連ドラで死にゆく役の橋爪功が、これからを生き抜く主人公の安藤サクラに死に間際に言った言葉。

私は、人生で一番の楽しみは、会いたい人に会えることだと思っている。

私はこの1年も希望と絶望の間を行ったり来たりしていた。

私が信じたのは、自分の気持ちだけだった。

〇〇さんに会いたい、その気持ちだけだった。

〇〇さんから連絡が欲しいです。

2018年12月26日水曜日

2018年末アルバイト

私の短期のアルバイトは、郵便局の年賀状の仕事。

高速のインターに近い郵便局の集荷センターに行っている。

ネットで見つけて、すでに募集終了と出ていたにも関わらず、しれっと電話したらまだ枠があって翌々日ぐらいに面接に行った。

面接の時、10畳ほどの小さな面接室みたいなところに通された。

椅子に座って下さいと言われた椅子がやたらとテーブルから遠くて、椅子をテーブルの真ん前に移動したら、面接担当者から「近すぎるので下がって下さい」と言われ、いきなり失態を犯した(  ̄Д ̄;)~~~~。

やらかし具合は相変わらずで(←過去にも面接で別のことをやらかしたことがある)、それでもその場で合格をいただき、それで先週から始まった。

面接はやらかした方が合格する!という謎のジンクスを作れそう、私…。
(意外にもきちんと滞りなく流れた面接は落ちてる。)

そんなこんなで始まった年賀状のアルバイト。

私が行っているところは、新潟県の中の主要な集荷センター的なところで、普段町中で見る郵便局とは大きく異なる。

駐車場だけで200台以上あるようなところで、今日聞いた話だと、作業場の入口から一番奥まで130メートルあるとのこと。

毎日出勤の度に、そして小休憩2回と休憩1回計3回の休み時間の度に、そして最後退勤の度に、その長い道のりを歩く。

今回行ってみて何が感動したかというと、日本の郵便事情と日本の職人魂の技術。

すでに4回行ったけれど、いつ見ても感動を覚える。

私がいるところは、年賀状の大きな区分けのところで、ひたすら年賀状が機械にかけられ、県内の各局と県外の主要局、それぞれ大まかに仕分けされる、それだけをするところにいる。

年賀状を機械にかけるか、もしくは仕分けされたものたちをボックスに入れていくかのどちらかしか今のところはしていない。

書くとごく普通みたいだけど、この機械がまずすごい。

初日に説明された時、まるで社会見学をしているような気分だった。

1秒間あたり何枚の年賀状が機械にかけられ読み取られているのか知らないけれど、とにかく超光速で、あっという間に仕分けが為される。

機械の仕組みはわからないけれど、私含め初日に初めて一緒に説明を受けた人たちから「うぉー!」とどよめきが起こった。

この機械を誰が考案したのかは知らないけれど、世界に誇る「日本の技術」とはまさにこういうものを指すんだとわかった。

ざっくりとしか数えていないけれど、320ほどの区分けがされていて、年賀状たちはそれぞれの区分の場所に機械によって運ばれていく。

同じレーンの上を1枚1枚行くのに、それでもどの年賀状もそれぞれの区分先のボックスに自動的に入っていくわけだから、どうやってそれらがわかるのか不思議で仕方ない。

毎回そうした大きな機械を見る度に思うことだけれど、どうやって室内に搬入したのかなと思う。

当然エレベーターに乗るような大きさじゃない。

少なくとも機械そのものはコンビニぐらいの長さがある。

そういうことはわからないけれども、とにかく最先端の技術にビックリしながらその仕事は始まった。

そこは何も年賀状だけではなく、通常の郵便物も取り扱っている。

これまでも色んな職場に行ったし、高校生の頃のアルバイトや超短期のアルバイトも色々行った。

その中で今の郵便局のところが、断トツで忙しいし、そして仕事中、どこで誰を見てもとにかくみんなずっと黙々と目の前の作業に集中している。

消印押しの人なんか、人間業とは思えない速さで押していて、ある種の職人さんと呼んでもいいぐらいの技を持っている。

130メートルはあると言われる作業所内でぼーっとしてる人は誰もいない。

私語をしている人もいない。

とにかくみんな目の前の与えられた仕事をしている。

休憩場所は別のところにあるから、その場で休むことはない。

止まる時は、機械の不具合とかそうした不測の事態の時だけで、あとはひたすらずっと動いている。

しこもそこは24時間365日稼働しているから、どの時間も常に動いている。

どうして郵便物がきちんと届くのか、それを見ていたら本当にわかる。

色んな人たちの働きと技術の革新によって、それだけの量のものを正確に届けることができる。

たまに郵便物をきちんと配達していなかったとかニュースになる。

もちろんいけないことでも、私から見てそのことがニュースになる日本の平和さと正確性の方が凄いと思っている。

ドミニカなんかは、地元民さえ「郵便ポストなんて長いこと見ていない」と言うぐらいだから、そもそも郵便が機能していない。

アメリカは機能は日本と変わらないけれど、例えば日本でいうところの年賀状がアメリカの場合はクリスマスカードになるけれど、あの国はペースは普段と変えないのが当たり前なのか、20年前、日本ではすでに年賀状を元旦に届けるシステムが整っていたにも関わらず、アメリカは12月になると郵便の遅延が当たり前になる。

クリスマスカードをクリスマスまでに届けたかったら3週間前には投函しろとアメリカ人に教えられた。

それでも届かないこともある。

だから、日本の郵便事情は本当に世界に誇れる、勤勉な労働力と卓越した凄い技術によって支えられている。

これまでに感じたことがないぐらいに感動を覚えている。



今回行って、もう1つわかったこと。

今回の仕事はすごく性に合っていること。

何せ忙しいから仕事中は黙々と取り組むのが当たり前で、余計なことを考える時間がない。

単純作業と言えども、都度都度ちょっとずつ違うから単調な感じはしないし、そして基本的にライン作業とは違うから、機械の具合を見て自分のペースでできる。

他の人たちとの協力も多少は必要な場面があるけれど、基本的には1人で黙々系の仕事。

数人で1グループでも、ほとんど声を交わす場面はないし、空気を読むこともほぼしなくて済む。

今回初めて気付いたけれども、私がしていた色んな仕事は、今の仕事の空気を読むのが1なら、過去の仕事たちは1000とか10000とかの空気を読まないといけなくて、そりゃいつも疲れて当たり前だとわかった。

抜けてるところもたくさんあるけれど、基本的に私は空気を読むというか色々気付いてしまうタイプだと思う。

面接とかのやらかしっぷりはひどいけれど、対人関係や仕事の流れにおいてはやたらと観察する癖があるし、知らぬ間に細かな分析をしている。

だから常に忙しないし、頭の中は常時フル回転、気使いも必要に応じて回転、とにかくマックス動いている。

今回は体こそフル回転しているけれど、心は穏やかで余計なことに気を使わなくていい。

何も気にならないわけじゃないけれど、例えば昨日気になったことが、機械の操作方法を誤っている人がいて(すごい不具合は起こさないけれど、変な風にはなる)、それで使い方を説明したら、笑顔で「知ってます」と返ってきた時にはどうしようかと思ったけれども。

要は間違えているから正しい扱い方を言っても、なんなら指差して状態まで説明してもわかってもらえず、うん、もう間違えといてください!と心の中で毒を吐いたけれども、そのぐらいで終わっている。

超平和、平和すぎるぐらいに平和!

これまで派遣での仕事でさえ、超ヘビーなものばかりを言わないといけないような場面がいかに多かったのかということを思い知った。

子どもの施設や学習塾の仕事は、もう信じられないぐらいに、ガチにそれこそ人の人生がかかっているような重大事項満載過ぎて、面白さとは別に責任も重かった。

短期だからというのもあるけれど、同じ日に始めた人たちの何人かとすぐに仲良くなれて、お互いにわからないことは協力し合いながらやれたことも大きかった。

休み時間も、なんと、みんながみんなスマホを確認以外では触らずにずっと話していられるぐらい、健全な関係を持てている。

こんなの奇跡に近い。

無理をしなくてもお互いに思ったことを思ったまま話せる、深い話はする必要がないし、仲良くする必要もない、仕事の感想や色々見たことを話すだけでも和やかに話ができる。

なんなら相手は私の半分以下しか生きていない学生の子たちもいる。

それでも年齢を気にせずに互いに話ができるなんて凄すぎる。

定年退職した男の人たちもいるけれど、おじちゃんも気さくなおじちゃんがいる。

これが長い仕事期間ならまた違うのかもしれないけれど、とにかくストレスがないと言ってもいいぐらいに心の中が穏やか。

しばらく二足のわらじを履くことになるとは思うけれども、私がガチでやっていくことはさておいても、当面の生活を支える方の仕事の在り方はこういうものがいいのかもしれないと感じている。

要は、変なストレスがないこと。

仕事をしていない時間にそこに気持ちが多少動いてしまうようなものは極力避けたい。

気持ちの切り替えは10数年の間で相当上手くはなったけれども、そもそものストレス値が低いところを選ぶのも大切だと今回感じた。



もう1つ、どうでもいいけれど、人生で初体験していることがある。

なんと、もう1人武士俣さんがいる!

これまで一度も武士俣さんに出会ったことがない私は、初めて武士俣さんに会った。

しかも点呼が毎回必ずあるから、その時に他の人たちは「佐藤さん」「鈴木さん」なのに、私は「武士俣史子さん」とフルネームで呼ばれる!

私はこれまで必ず1人しかいない苗字ゆえ、フルネームで呼ばれることなんてただの一度もなかったけれど、今回はそんなレア体験もしている。

相手の武士俣さんを呼ぶ場面はほぼほぼないけれど、なんとなく呼ばなきゃいけない時に妙に照れる(o´艸`)。

なんとも呼びにくく、「あの〜」とか言って誤魔化してる。

もしこれが名前をたくさん呼ばなきゃいけないところなら、決して私は「ぶっしー」とは呼ばれず、「史子さん」と呼ばれていたと思う。

仕事で「史子さん」なんて呼ばれたら照れるし、それがもし自分好みの男の人から「史子さん」なんて呼ばれた日には鼻血ブーだなと思う(♡´艸`♡)←アホが1人。

相変わらずトキメキなど職場にはないから、そんなの妄想で終わっているけれど。

私信:イケメン上司の〇〇様

イケメン上司〇〇様

リンク先☆【真夜中のひとり言again】

上のリンク先の文章を読んでください。
よろしくお願いします。

武士俣史子

2018年12月25日火曜日

違和感

Mちゃんに会った時、話に出たこと。

「Oさんから直接〇〇さんの話聞いたら、終わりにできそうだね」

考えたこともない発想で、一瞬「???」となった。

そうか、第三者から見ると、それが1つの区切りになると思われることを初めて知った。

Mちゃんは悪気は一切なく、私のその人への執着は異常だとも言った。

もう会えない人にそこまで気持ちがいくのがわからないと。

Mちゃんの言ったことは、正論に近くて、まぁそれが世間一般的に見たらそうなるのかと思った。

私はOさんからその人にまつわる話を聞くことで、何かしらの区切りがつくなんてただの一度も考えたことがなかった。

それで終わらせる…。

気持ちがそこでスパッと切り替わるとは考えにくい。

Oさんの言い方からしても、私に区切りをつけさせようとかいう感じは一切なくて、知ることが大事みたいな感じだった。

だから、話を聞く前と聞く後とで何か大きく変化するような内容ではないと思う。

もう会えない人に異常に執着するのは、たしかにおかしい。

1つだけ言い訳するなら、執着したい気持ちはさらさらない。

その人のことを考えられずにいられる方法があるのならむしろ知りたい。

もうなるようにしかならない、とあきらめた私は自分が飽きるまで今の感じを続けてしまう気がしている。

もはや私にはそれが日常だから、異常さも感じず、仮に感じたところで何も変わらないから、自分の感じるままに放置している。

気持ちは止まらないし、勝手には変えられない。

無理に変えようと無駄な努力をして心を消耗するぐらいなら、そのまま飽きるまで今の状態でいいかと、妙な悟りの境地みたくなっている。

それよりも私が引っかかったのは「もう会えない」という言葉の方だった。

その言葉は凶器みたく、ザクッと心に刺さった。

会えない…?

間違えてはいない。

むしろ、状況を表す言葉としてこれ以上ないぐらいに適切且つ当たっている。

私の脳内処理はどうなっているかは知らない。

でも私自身はもう会えないなんて思っていない。

そう思えないだけかもしれないし、異常な執着が生んだ妄想かもしれない。

だけど、「また会える」というのとは違って、「もう会えない」ということに関して私はそう思っていない。

私が認めたくないだけなのかもしれない。

それでも、もう一生会えないというのがどうしても自分の中でピンとこない。

手段や方法は私にはない。

全くない。

だから「もう会えない人」はどこまでも正しくどこまでも本当のこと。

だけど、手段とか方法とかではなく、もう会えないという感覚に違和感がある。

会えない方が当たり前で、今後も会えないのが普通だと頭ではわかる。

それでも、「もう会えない」は何かが違う。

もしかしたら、最後だと信じたくないだけなのかもしれない。

それでもやっぱり何かが違う。

2018年12月24日月曜日

業務連絡【続】

『真夜中のひとり言again』追加

ブログについての新事実

数時間前まで知らなかった事実。

Mちゃんと今年もクリスマスデートをした。

Mちゃんの旦那は今年もイブは個人活動に忙しい。

夫婦のクリスマスは25日、2人とも仕事だから手巻き寿司で祝うらしい。

24日はそういうことで、既婚者なのにクリぼっちなMちゃんは、私に遊ぼう!と声をかけてきた、それもかなり早い段階で(笑)。

本当はMちゃんはイブを希望していたけれど、私はイブは勤労に励むから、それで前倒しの今日になった。

なんなら2人で雨の日の年末の神社のお参りにも出かけた。

久しぶりに3月まで行っていた職場の近くを通った。

まさかこの場所と縁があるだなんて、最初に迷子になって間違えて通った時は思いもよらなかった…、などと振り返りながら感慨にふけった。

ずいぶんと昔のことのように感じた。



Mちゃんと色んな話をする中で、私は初めて知った事実があった。

「ねぇ、ぶっしーのブログ(=このブログ)、普通に検索してもヒットしないんだよねー」

「うそ?」

「ぶっしーと会えなかった時、ぶっしー元気かな?と思ってブログ読もうとぶっしーの名前で検索したんだけどヒットしなくてね。それでぶっしーがLINEの方に添付してくれたアドレスから入って行って、それでブログに行き着いてたんだよね〜」

「私の名前でもヒットしないの?」

「そうなんだよ!他のブログ、あのコーチング系のブログはヒットしたけれど、私のことを書いてくれたブログはヒットしなかったんだよ!」

「そうなんだ(´⊙ω⊙`)?」

「そうだよー!だから普通の人がぶっしーの名前入れても、あのブログに行き着くなんて超レアケースっていうか、一発でたどり着ける人がいたら、その人は相当稀なケースだと思うよ!」

私はこの話を聞くまでそんなことは知らなかった。

なぜなら自分のこの携帯から検索すると、自動で携帯にメモリーが残るのか、すぐにこのブログが検索結果に出る。

出ないことがまずない。

だから、Mちゃんみたいに、全く何のメモリーも残っていない機械から検索をすると、このブログはヒットしないと聞いて心底驚いた。

そして、逆を言えば、このブログにたどり着ける人というのはとてもレアで、そしてもっと言うと読む必要のある人とか私と縁のある人しかこのサイトに繋がらないということでもあると思う。

そうと知った時に、私の中に1つの考えが浮上した。

1年前の秋に私がこのブログを再開した時、当時は1年以上のブランクがあってそれで久しぶりにアップしたわけだから、多分私の名前を入れて検索してもこのブログは検索エンジンに引っかかってこなかった可能性が高い。

そう、そもそも私のこのブログにストレートに行き着けなかった可能性がかなり高い。

この話は多分本当だと思う。

なぜなら、これではない他のブログを再開させようと思った時、そもそものブログのアドレスを知らなくて(苦笑)、それを調べるために他のブログを探したら、それが一向にヒットしなくて大変だったことがあったから。

自分のブログなのに自分で探し出せないというアホなことになっていた。

だからMちゃんの話は本当だと思う。(Mちゃんのことは疑う気はないけれど、ネットで引っかからないことは、普通には考えにくかったから)

私の妄想はさらに広がった。

そんな状況下で、よくも私は、ある人が私のブログを万が一にも読んでくれてるかもしれない…と思えたなぁと。

もちろんあの時はあきらめが99.9999%は占めていたけれど、もしかして…の限りなくゼロに近いものに対して私は一抹の希望を託した。

自分のおかしさにゾッとしながらも、それでも私はその可能性とも呼べない小さな小さな可能性に賭けた。

今は、あきらめと希望の割合が逆転した。

そこは疑わなくなった。

多分届いている。

念じたら叶うとかいう原理、あれ意外にも当たっていると思う。

今の念は「また会えますように」になっている。



【サンタにお願いしたこと】
(単にお願い(↓)をした直後、「そうだ、今日はクリスマスイブだから、サンタにお願いしたことにしよう!そうしよう!」ということで、サンタにお願いしたことに変更)


「お楽しみタイム♪」として全力で書いた文章、多分トータルすると10時間ほど、本気で書いて書いて書きまくって、そしてアップ(更新)したのが昨日の明け方。

それはちゃんと届いているんだろうか?と疑念が生まれた。

そこで私は、「本当に届いているなら届いていると私にもわかるように何かしらサイン・合図を送ってください!」とお願いした。

第1希望は本人が直接何かしらリアクションしてくるだけど、それはエベレストよりもハードル高い感じがするから、とりあえず希望するだけにとどめて。

第2希望というか、せめてこちらは本気で叶えて下さい!レベルで、私が相手が読んでくれた!とわかるような何かしらサインを送って下さいというのが願い事。

小さな願い事している自分がなんだかとても健気な人に感じた(←えっ?)。

健気と自分で自分のことは普通言わない…( ̄д ̄;)

Merry Christmas ☆彡🎅☆彡

2018年12月22日土曜日

業務連絡

お楽しみタイムの追加の書き物は今も続行中。
書き足したいことが増えたから、とりあえず終わりがすぐのすぐには見えなくなってきた。
キーワードは「手」。←書き足しの中で多分一番勇気の要る話(まだ書いていないけれど)


早くても日曜日になってすぐ、そうでなければ明日のどこかで完成させたいとは思っている。
このことを言っているんだな…とわかると思います。
どうぞよろしくお願いします。

とっておきのごちそう

「とっておきのごちそう」

このタイトルが頭に浮かんだ時、超テンションが上がった。

昨日(12/20)から短期のアルバイトを始めた。

15時〜22時という、ちょっとイレギュラーな時間のバイト。

これはこれでまた面白いから何してるかは後日書くんだろうなぁと思っているけれど、珍しく肉体労働をしている。

チラシ配りや試験補助員なんかとは比べものにならないぐらいに体を常に動かして、あっという間に時間が過ぎる。

歴代の仕事の中で、1位2位を競うぐらいに時間の過ぎる速さが速い。

今日はごはんがないのは知っていた。

帰ってから作ることはわかっていた。

星や月が見えるぐらいの空気が澄んだ夜空の下、私は車の中で作るごはんを何にしようか考えていた。

多分10数年ぶりに姿を見た「サッポロ一番みそラーメン」を思い出した。

みそラーメンにしよう、そうしよう!

最初、具なしの素ラーメンにしようかと思った。

でもせっかく食べるから、乾燥ワカメを戻して、バターのせて、コーンものせて、味噌バターコーンラーメンもいいなぁと思った。

これなら面倒がないし、全然余裕で作れる。

リュックを下ろして即そのままの格好で台所に立った。

コートというかジャンパーみたいな軽い感じの初冬に着るものを着たまま、とりあえず冷蔵庫をのぞいた。

もやしがあった。

そういえばバイト初日の前の日の夕方、母の希望で業務スーパーに一緒に行って、14円のもやしを買ったことを思い出した。

味噌バターコーンラーメンは一瞬で却下し、代わりに「もやしみそラーメン」にすることにした。

いつか使おうと思ってひき肉を冷凍してあったはず!と思って冷凍庫を開けたらビンゴ!

ラーメンを煮る用に鍋にお湯を沸かし、その隣りにはもやしとひき肉を炒めるためのフライパンをセットした。

ひき肉をレンジで解凍しながら、しょうがを擦って、すぐにフライパンを温めた。

冷たいフライパンにごま油を垂らして、そこにすりしょうがを加えた。

しょうがのいい匂いがした。

チンしたひき肉を入れてひき肉の赤さがなくなるまで炒めた。

さっと水洗いしたもやしを加えてさらに炒め、「しゃき」と「しなっ」との間ぐらいになったら、中華だし(今回はシャンタン)、砂糖、オイスターソース、そして七味と一味を振ってピリ辛にした。

「天才(´∀`)」と自画自賛する味に仕上がって、それからすぐにラーメンを煮た。

3分とあったから、先にストップウオッチを押してからインスタントラーメンを鍋に入れた。

3分は茹ですぎになって伸びるから、いつもちょっと短めにする。

煮ている間に、やっぱり刻みネギも欲しい!と思って、ここでようやくまな板を出した。

洗い物を増やしたくなくてあえてまな板を使わなかったけれども、ネギは欲しい。

おいしさを取って、さっとネギを刻んだ。

そろそろじゃない?と思って麺を一口味見した。

うん、これでいい!と思ったらストップウオッチがピピピッと鳴った。

火を止めて、すぐに器にラーメンを盛った。

盛ったというより、やかんでお湯を注ぐかののごとく、鍋に入っていたラーメンをどんぶりにジャーっと入れた。

その上に天才もやし炒めを盛った。

最後にネギを散らして終わった。

めちゃくちゃおいしいもやしみそラーメンになった!

本当においしくできた。

味見したいと言った母にも少し分けると、母もおいしいと言って喜んで食べていた。

食べ終えて洗い物して風呂に入った。

風呂に入った時に「とっておきのごちそう」という言葉が出てきた。

私は仕事で疲れた体を最大限に考慮しながら、冷蔵庫なんかにある材料を見てさっと作りたいものを思い浮かべてその通りに作れる素晴らしい力を持っている。

魔法の力って呼んでもいいぐらい(笑)。

そう、長いことそういう生活をしていたから、めちゃくちゃ疲れた体でもできる料理、とっておきのレシピを私はたくさん持っている。

もやしラーメンも時々作った記憶がある。

これって「とっておきのごちそう」だと思った。

本当においしいし、時間はかからないし、手間もそんなにかからない。

ゼロではないけれど、私の中では全然許容範囲。

時間も材料も手間もほとんどかかってないのに、ものすごくおいしいもやしみそラーメンになった。

もちろん、スープは最後の一滴まで飲み干した!

もう何もかもがおいしすぎた♪─v(≧∇≦)v─♪

そして今布団の中で書いているけれど、これからとっておきのお楽しみタイムに突入する。

書き途中の文章の続きを書く。

明日は休みだから、遅くなっても大丈夫。

これだけアップしたら、すぐにお楽しみタイム開始!

とっておきのごちそうは、おなかだけじゃなく心も満たしてくれる。

2018年12月21日金曜日

真夜中のひとり言again

「脳内変換」

私は自分のことになると、突然すべてが超主観に基づく判断になって、客観性がなくなる。

冷静に自分の脳内を整理することが出来る人はすごい。

また脳内お花畑みたいな話だけど。(←もう何でもかんでも「脳内お花畑」の一言さえ付ければ何を言っても許されると思っている( ̄∀ ̄))

職場の人がただの「職場の人」から「気になる人」に変わる時のパターンを説明していた記事がたまたま目に入って開いて見てみた。

その中の1つに【さりげなくフォローしてくれ特別扱いを感じた時】なんてのがあった。

「!」

「特別扱い」という言葉に酔いしれそうだった。(o´艸`)(o´艸`)(o´艸`)(o´艸`)(o´艸`)(o´艸`)←今回の絵文字は正しい使い方だと思う。

そう、あれはある種、私のまぬけっぷりが生み出した奇跡の瞬間で、そのまぬけっぷりによって私は「特別扱い」を受けた。

で、当時も(今もなお)舞い上がり過ぎて、その行為を客観視する余裕がなかったけれど、あれは間違いなく「特別扱い」の枠に入る。

扱う側は何も特別なつもりはなかったとしても、私側は十分「特別扱い」を受けたと思っている。

自分のぬけっぷりが良かった!なんて思うことはほぼないけれども、あの時だけは自分の抜け具合に心から感謝した。

私の頭のネジがもう少しまともな側に巻かれていたら、抜けることなく何も滞ることもなかったけれど、代わりにその特別扱いの千載一遇のチャンスは永遠に失われた。

あの時のぬけてた自分に超絶感謝╰(*´︶`*)╯



ヒーラーのOさんから昨日連絡きて、その特別扱いをしてくれた方についてのいつかの話について、付け足しの話があった。

この話、内容はずっと伏せられてはいるけれど、こんな風に色々長引いていて、「おかしい」と思った。

たしかに、その前に私が追加で自分の考えやその人に出逢うまでの流れやその出逢いの特別さなんかを前々日ぐらいに書いてLINEしたけれど、何も返信がなかったから私もそのままにしていた。

そもそも返信は要らないもので、返信が来るとも思っていなかった。

Oさんの返信を読みながら、今回Oさんがここまで気を使う理由と言葉を選ぶ理由、そして絶対的に秘密にする理由を考えた。

多分私の読みが間違っていなければ、Oさんは私の話をしようとはしていない。

私の話なら、多分LINEなり電話なりで伝えると思うし、こんなにも気を使わない。

なぜなら、私に私のことを伝えるのはOさんも直接本人に伝えるだけのことだから、変な根回しはしない。

Oさんとその件で3回この数日でやりとりしてわかったことの1つに、何で8月に会った時に会ったこともない話に上ったこともない人のことを突然話したのかの、Oさん側の心的理由だった。

これもまた意味のわからない、まどろっこしい言い方をしていたけれども、昨日3回目にやりとりして気付いた。

Oさんがここまで徹底して守秘義務を貫き余計なことを一切言わないのは、これ相手のことだからなんだと予想した。

多分はずれていない。

そもそも、Oさんが私にこの話をするメリットは1つもない。

むしろ神経使いまくりで疲れるだけじゃんと思う。

そして、Oさんがあの時何を感じ取っていたのかもなんとなく想像できた。

あの時は私のことじゃない。

Oさんの体質でキャッチしてたのは、多分相手の何かなんだろうと思う。

そもそもそんなのキャッチする予定にもなかったOさんがキャッチしてしまうぐらいの何かがあったんだと思う。

私が聞いた質問の1つに、あんな風にそこにはいない誰かのこと、ましてや話にも上っていない誰かのことを私の時みたいに伝えることがあるのかどうかということだった。

Oさんからきっぱりと「ない」と返事がきた。

だから、あれは超絶イレギュラー中のイレギュラーで、Oさんとて言うつもりなんかそもそもなかったんだと思う。

言った理由も、Oさんらしくない理由だった。

らしくない、というのは、あれだけ徹底している人が本来取る行動ではない、という意味で。

もう1つ思い出した。

Oさんにヒーリング関連のことについて質問した時に、Oさんが相手の情報をキャッチした時の伝え方を事細かに聞いたことがあった。
(Oさんの情報のキャッチの仕方は、名前を付けるとしたら「霊視」が一番近いと思う)

どのように伝えてるのかや、全部伝えるのか一部を伝えるのか、あとキャッチしても伝えないこともあるのかとか…。

Oさんはその辺り超徹底していて、情報の取り扱いにはもちろん細心の注意を払っているし、伝え方も伝える伝えないに始まり、伝えるならどこまでとかどんな風にというのもOさんのその透視力的な見解と個人の見解とを合わせて、相手の人にとって最適だとOさんが感じる範囲・内容・言葉で伝えている。

これも質問したけれども、内容的に伝えない方がいいと判断したらOさんは伝えない。

もしくは伝えても本人を混乱させたり余計に悩ませるものならそれも避ける。

Oさんの実践から得た感覚で、伝えても大丈夫と判断しないと、Oさんはそもそも伝えることさえしない。

私はその在り方がとても好きだし、自分も同じような状況になった時は色々真似して取り入れたいと思っているほど。

で、そこまで徹底しているOさんがなぜに今回私に伝えたのか。

これはOさんがもちろん伝える選択をしてはいるけれど、実は背景には何か別の意味があって伝えられてるんじゃないかと思った。

Oさんは単なる伝書鳩的な役割をしているだけで、Oさん自身、もしかしたら伝える必要性も少なからず感じていたのかな…とは思った。

で、そこにだけ目を向けるとわけがわからなくなるけれど、例えばこの1ヶ月に的を絞って、普段の通信状況を振り返ってみた。

今の私が連絡を時々取る人というのは相当限られている。

片手で数えられる。

しかも、Oさん含めて外部の人たちから何かしら情報をもらうというのは、それ自体が「今聞く必要のあること」に限られる。

これはひきこもり的な生活をする度に気付くことだけれど、そういう状況下でも聞く必要のあることは聞くようになっている。

むしろ、そういうものしかやってこない。

今回私が年末前にとりあえず整理したいこととして、なんでOさんが夏の会合の時に私にその人の話を突然したのかを聞こうと思って聞いたのが最初だったにしても、その後の展開は想定外だった。

まさか直接以外は言えないなんて、そんな風に返ってくるとは一切思わなかった。

そんなこと今まで一度だってなかったわけで、何もかもおかしかった。

Oさんとやりとりして24時間以上経つ。

私は、もしかして…と思っている。

特別扱いは、私の脳内お花畑の話ではなく、その人からしても本気の特別扱いだったのかもしれない。

Oさんがその人の特徴の1つとして、女性のことを苦手としていると言っていた。

それは見ていてなんとなくわかる部分があった。

私は勝手に、イケメンは女の人の扱いにも手馴れてると最初思った。

職場の人間模様なんていう大好きな人間観察を全くする余裕のなかった私にとって、最初の3週間ほど、その人の私が意識できてた部分は「イケメン」だけで、そしてイケメンは女にも慣れているという勝手な等式を導いていた。

だから、「特別扱い」と私が認定した行動そのものを受けた時、私は超勝手に「この人は普段からこういうことを女の人にさりげなくすることに慣れているんだ」と思った。

「イケメン=女に慣れてる=これも普通に誰に対してもすることだし、何も私が特別じゃない」ここまで私は勝手に決めつけ、私側はめちゃくちゃ嬉しいだけじゃなく、超ときめいてはいたけれど、これは私には一生に一度きりのチャンスでも相手からしたら日常茶飯事でよくあって手馴れているんだと思った。

その人が色々不器用だと気付くのはもっとあとの話で、その瞬間は私は「その人からしたら何百回と言わず、何千回何万回としている中の1回」と勝手に決めつけた。

そしてその考えは長いこと私の中にあったし、そしてもっと言うと特別扱いという見方をすることを私はあえて避けていた。

私はその人を良いと思っても、その人が私のことを良いと思ってくれるなんて、全く考えられなかった。

イケメンが私を相手にするとは微塵も思わず、あれはいわば事故的な産物だったんだろうなぁと思った。

自分が深追いしてもしくは勘違いして、男の人とのことで痛い思いをするのはとても嫌だったし、何よりも怖かった。

そして誰かに本気になるのも本当に怖かったから、だから私的に「イケメンはそうしたことに手馴れている」としておく方が楽だった。

その人に本気になるのは、怖すぎて絶対にそうなりたくなかった。

変な風に近づかなきゃそこそこ普通に接してもらえるなら、それの方が良いと私は当初思っていた。

近付いたら途端に手のひら返したように冷たくされそうとも思って、そんなのわざわざすることもないと思っていた。

そんな風にして、その人のことを最初はかなり思い込み激しめで「イケメン=……」の図式で捉えていた。

でも、見ているとそんな風とは違うのかもしれないなぁという部分が垣間見えた。

私のことが絡むと余計なものまで加算されて話がややこしくなるから、それ以外の部分で私が見た感じの話を少しだけしようと思う。

私以外の女性は職場に3人いた。

その人が本当に気兼ねなく話せたのはそのうちの1人だけだった。

ヤキモチ焼くぐらいにニコニコしていて、楽しそうに話していたのが超羨ましかった。
(私のこだわりでヤキモチは「妬く」じゃなくて「焼く」とわざと書いている)

その女の人は、女らしい振る舞いもするけれど、サバサバしているし、ねちっこい女特有の関係を苦手としている。

そして絶妙な距離感を自然に取れる人だし、相手に気を使わせない話術+雰囲気を持っている。

あと、相手が触れられたくないだろうことは基本そっとしておいてくれる人、でもきちんと気にかけてくれる人。

その適度に放っておいてくれるのと、適度に気にかけてくれるそのバランスが絶妙すぎる!

共通の趣味もあったにしても、その人もその女の人とはわりかしフランクに付き合えてたんだと思う。

その女の人の性格を見ていたら、すごい納得できる。

少なくとも女の人側からちょこちょこ話を聞いた限りでは、2人はとても良好な友好関係にあったと感じた。←本気で羨ましかった。

でも、他の2人とは、うまく付き合ってはいたけれども苦手なタイプかな…と思わなくもなかった。

2人に気を使っているのは空気で感じたし、それは仕事の絡みが有る無しに関わらず、その人からすると「読めない」感じが多分安心して関係を作れないんじゃなかったのかな…、とこれは完全に私の妄想だけどそういう風に私には見えた。

だから、読めないタイプの人、特に女の人となれば、苦手意識が強いのかな…と思う。

という中で、あの特別扱いは、普段の感じからすると本人にとってもちょっと有り得ない行為だったんじゃないかな、なんて思う。

そしてそれはもしかしたら、本人にとっても本気の特別扱い的な位置にあったものなのかもしれない。

女の人に苦手意識があるなら、あの行為はあまりにもイレギュラーだった。

しかもその相手は私なわけで、普通に考えて何の得があるの?と思う。

自分を卑下するつもりではないけれど、普通に見て私は絶対にモテない。

そして男ウケも悪い。

世の中にはモテ子と非モテ子がいるけれど、私は完全に非モテ子になる。

その人の好みは知らないにしても、一般的に「この子に優しくしておいて良かった♡」と男の人が感じるタイプからは程遠い。

損得で動いていたわけじゃないと思うけれど、その人からしてみてもとてつもなくイレギュラーな行為だったのかもしれない。

これまでそんな風にちょびっとだけ思ったこともあったけれど、今回Oさんとあれこれやりとりしてみて、その「かもしれない」が確信はないけれど、本当にその人からしてみても「特別扱い」だったのかな…と思う方の割合が増えた。

そう思うに至るもう1つの理由が、Oさんが通算4人目の私にその人に関して何か情報を伝えてくる人だと気付いたから。

何で相手にもされず、無視もされ、最後なんて私と関わること自体本当に嫌そうにしていた人、それっきり連絡も取りようがないし、どうにもなっていない、そんな人がいなくなってから、その人にまつわる色んなことを4人のその人とは全く無関係の人たちがそれぞれ私に何かを伝えてくるんだろう…、4人目のOさんになってそこは「本気でおかしい」と思った。

今となっては最初の3人の人がどの順番だったかは曖昧だけど、3人とも伝えてくれた別々のことは、はっきり言って私に伝えたところでその人たちに利益は一切ない。

私を喜ばせようとして言ったわけではなく、2人は突然「そう思った」ということを口にしたし、もう1人も教えてくれた理由は私に伝えたくて…というのとは少し違った。

このブログでも書いたけれど、3人のうちの1人は、今年の2月に人生で初めてのホロスコープ鑑定を受けた時の鑑定士さんだった。

鑑定士さんは普段は見えない世界とのコンタクトはないし、子どもの頃はすごく敏感で色々わかったり視えてしまったけれども、大人になってからはそういうのが一切感じられなくなったと話していた。

だけど、何か情報を伝える必要がある時、それもその情報に携わる人たちの意思によって必要だとされた時、何かしらの情報がその鑑定士さんにもたらされるということで、私が聞いた話もそうだった。

鑑定士さんが求めて情報を引っ張って来たんじゃなくて、必要があって私のところに来たんだと思いますと言っていた。

鑑定士さんは、その人と私とが輪廻転生の中で過去の別の人としてそれぞれ生きていた時にとても近しい関係だったことを教えてくれた。

そして、それは今回、私側ではなく相手側(=イケメン側)から来ていると思われるとも説明された。

その時もビックリはしたけれども、よく考えたら他の2人もそうだった。

それぞれがキャッチしたことを伝えてくれたけれども、それは不意打ちだったし、1人は「なんとなく」そう思ったと言い、もう1人は普段ビジョンなんか見ないっていうか全く見えないけれどもその時だけはパッと出てきてその見えたことをそのまま教えてくれた。

それらのどの時も決して私にプラスになるからとか私がその人に関する話だと喜ぶから言うというのとは全然趣きが違っていて、突然のように伝えられた。

2人に関しては普段そういうことをしない人たちと知っているから、反対に「たまたまだろう」ぐらいにしか思っていなかった。

鑑定士さんの話はさすがに否定する方が難しいぐらいに今の私がいて、そしてその人もいつか別の人として生きていた頃と今とがあまりに似ている性格的なところをその鑑定士さんは言ってきたから、否定できなかった。

私はペンジュラムを使うところしか引き継がれず、他の部分は引き継がれた感がなかったけれども、その人はその時も今もあまり口を開かないのはそっくりだったんだなぁ、魂って生まれ変わっても似たような性格を引き継ぐんだなぁなんて感心したけれど(笑)、そういうことじゃないと思う。

そもそも何でそんな情報が伝えられたのか?という部分に私ももっと注目すべきだった。

そこにあまり重きを置いてなかったら、とうとう大トリと言わんばかりにOさんから情報が伝えられ、さらには私が突っ込んだらもっとここには色んな事情なのか意味なのか魂的な計画なのか、それはわからないけれども、そうしたものも含まれると知った。

こうしたことが、その人が私の生きている目の前からいなくなってから全て起こってきた。

ましてや、Oさんと鑑定士さんに至っては、その人と私が出逢った時には、まだ全く知らない人たちだった。

2人ともそんな細かなことを何も知らないのに、なぜか知らない第三者の情報を私に伝えてくる。

だから、表面的な関係性はさておいても、その人と私との間にあるものが尋常ではないことがわかる。

もう生涯を通じて会えない可能性が99.9%の人のことを私に伝えてくる。

しかも内容はどの人のものも、私の気持ちが関係してることなんか全く度外視したことばかりで、普通に考えておかしい。

そこまでの状況になってふと「あの特別扱いは私だけじゃなく、その人にとっても本気の特別扱いだったのかもしれない…」そう思うところが出てきた。

その人は多分イケメンはイケメンでも誰彼構わず優しくしたり女性からしたら胸キュンな何かをするタイプの人ではないと思う。

その人ももしかしたら私が色んな気持ちを感じていたように、私ほどではないかもしれなくても何かしらは私を見て感じたのかもしれない。

私はその職場のその人が仲良くしてた人に直接聞いたことがある。

「〇〇さんって女の人に慣れてないですか?」

それは、ある時にその人とちょっとしたやりとりをした時に、その人が私には想像もできなかった反応をしたからだった。

てっきりイケメンゆえ女の人には慣れてるのかと思いきや、全くそういう感じじゃなくて、むしろ私の方が恥ずかしくなるような反応が返ってきたから、それで「もしや慣れてない?」と思って聞いた。

そうしたら「そんなことないと思うけどなぁ。女の子とも2人きりで会うって人づてに聞いたし」と返ってきた。

「そんなことない」の部分は良かったけれど、後半部分の風の噂的な話はものすごく余計で私は撃沈した。

そうだよね、慣れてないわけないよね、デートする女の子の1人や2人いてもおかしくないよね…とその時は無理矢理思い込もうとしてた。

じゃああの私が見た姿は何だったんだろう?、突然話しかけたから驚いてしどろもどろみたくなったのかな…とか、まぁ私にはすごい衝撃的だったし、私も相手のドキドキみたいなのが乗り移ったかのごとく私まで普段以上にドギマギしてしまったけれども、あれは幻か?などとも思った。

でも私が見て感じたものとその人がいなくなった後もたらされた4人からの情報、そしてOさんとのこの数日のやりとり…、全て総合して考えると、あれは本人からしても本気の「特別扱い」をしたのかもしれない。

恋愛ではない気持ちだったかもしれないけれど、その人からしても何か他の人たちには感じないものを私から感じていたのかな…と思う方がその後のおかしなことたちにも説明がつく。

こんな時に理論を持ち出してしまう私もどうかと思うけれど、本当に私の場合、必要があることにだけ集中して情報が集まる。

その人について全く関係のない人たちから情報が来るのは、「必要」だからと思う。

だって、本当の本当に不要なら、情報そのものがこない。

そうまでして来るのは、何かしら意味があるからだと思う。

何か私の知らないところで物事は水面下で動いているのかもしれない。

(多分もう少し付け足して書く気がするけれど、ここで一度更新)


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2018/12/22 夜中よりお楽しみタイム♪として書き足したものが以下。



私がその人と繋がっている、と感じる理由をいくつか紹介したい。

時々いつも以上(!)に頭のおかしな発言があるけれど、突っ込むとまた余談が長くなるから、今回はおかしいとわかって書くから悪しからずにて願います(←この日本語もひどい)。



>>>11月某日

山で遭難した人のご家族から、家族の場所をペンジュラムを使って特定してもらえないかとお願いされた時のこと。

内容が内容だけにとても気が重たかったし、すると決断するのにも今年一番のというより人生の中でその人をごはんに誘うぐらいの勇気や覚悟が必要だった。(勇気や覚悟の種類は違ったけれど)

やると決断して依頼主の方と会う前の日に私は頼み事をその人に向けてしてみた。

事が事だし、普段のおふざけの延長で出来るようなことではなかったから、とにかくその人から私とペンジュラムがきちんとできるように祈って欲しかった。

私のペンジュラムの能力が爆発的に伸びたのは、いつもその人が絡んでいた。

何がどう共鳴するのかは知らないけれど、とにかくその人にまつわる質問を何百回もすると、ある日突然見たこともない動きをペンジュラムがすることの3回(今では3つとも定番)。

ペンジュラムの新技登場は、その人と繋がっている質問の時に毎回起こるから、というよりそれ以外で起こったことがないから、ペンジュラムの新技デビューにはもれなくその人が付いて回る。

今回はペンジュラムを持ってから初めての本気の仕事だった。

だから、その人に何かしらを祈ってもらえたら、ペンジュラムも私も実力以上の力が出るんじゃないかと思った。

ちなみに後日談だけど、その日にペンジュラムが導いた内容で現実とミスマッチなことが
大きく2つあった。

残念ながらまだ見つかってはいないけれども、その2つも2回目現地で直接ご家族全員にお会いして山にも入ってみた時に、そのミスマッチの内容がミスマッチではなくおそらくそれで合っているだろうことがわかった。

だから、本当にきちんと力を発揮できていたと思う。

そんな時に、その人が見えないところで祈りでも送ってくれたのかな…と思うサインがあった。

初回の時、まさにペンジュラムと私とで共同作業をしていた真っ只中、喫茶店の通路挟んで隣りの席のグループの会話から、その人の役職名を聞くこと数回。

あれから1ヶ月以上経つけれど、やっぱりあれもタイミングと言い、役職名と言い、絶妙すぎた。

他にもサインはあったけれど、そのサインが何よりも私には「大丈夫!」と言われているみたいで本当に嬉しかったし、心の奥底で安心もした。

きちんと祈ってくれてたんだろうなぁと私は思った。

他のして欲しいことはしてもらえなくても、そういう大切な時にはその人はちゃんとしてくれる、そう思った。



>>>5月〜11月 東京日帰り旅

色々細かいことは今回は割愛するけれども、占星術の講座と6月からはヒーリング勉強会も兼ねて行っていた東京。

東京でもその人と同じ会社の制服を着た人たちを見たり、その人の名前がいくつも並んでいる電光掲示板を見たり、クラスメートの人が出展されるイベントの会場の地域にその人の名前が入っていたり、まぁ毎回毎回色々あった。

そのうちの8月の時にヒーラーのOさんが突然色々その人についての特徴を言ってきて、何にも話してないのに度肝を抜かれた。

とここまではブログにも書いた。

実はそれ以外に、毎回東京に行く日に起こることがあった。

その人だとわかるようなもので(←そんなの私にしかわからない)、それが毎回起こるから、あぁ繋がっているのかなと思った。

しかもこちら側は百発百中のすごい確率だったから、私は確信に近いものを最後の方は持った。

結局会えずに(というよりまずは連絡がなく)毎回がっかり意気消沈して帰って来たけれど、それでも東京に行くその日だけ見れる現象だったから、毎回そこは嬉しいところだった。



>>>伝えて送ること。そして撤去までのカウントダウンに入る最後の時

多分これは今回初めて口を開くと思う。

途中までや部分的には書いたことはあったけれど、ここまでのことは書かなかった、ただの一度も。

私が信じた1番の理由は、ある時の瞬間、その人を見て、その人が放ってる空気を感じて、多分その人が感じていることは私もそっくりそのまま同じものを感じてること、その人も私も多分全く同じものを感じてる、そう感じた瞬間があったからだった。

その人が探してた資料が見つからなくて次から次へとロッカーの扉を開けては閉めるを繰り返している後ろ姿をずっと見ていた。

明らかに何かを探していた。

だから「何か探してますか?」と声をかけた。

その時の様子やその時のその人の反応は過去のどこかのブログで書いた。(←自分でも見つけ出すことは困難)

その質問には名前も呼んでいないのに自分が聞かれているとわかったのか即答えていたにも関わらず、私の方に向きを直して話し出した時、どういうわけかその人は照れたようなはにかむような、何とも不思議な反応の仕方をしていた。

本当に私の方が恥ずかしくなるぐらいに。

そこまではどこかの記事で書いた。

そしてそのずっと後の、別の資料を慌てて作ってその人の席にそれを見せに行った時のことも書いた。

1分1秒でも近くにいたくて、ものすごい超特急で資料を作り上げ、なんならいつかの私がそれだけ作るのは面倒くさいと思って先延ばしにしたことも超絶自分に感謝した。

あと、その人の席に持って行ったら行ったで、初めて手を間近で見れて、その人の手をじっと見ていたこと、少なくともすぐ上の段落の話(その人が探し物をしてた時のこと)とこの段落の話(資料を作ってその人の席に行ったこと)はどこかでした。

今回新たに話すのはその2つのことではない。

実はその間にもう1つ別のシーンがある。

このシーンはあまり思い出す回数は他のシーンに比べたら少ないけれども、実はこのシーンで感じたことがのちにその人をごはんを誘う大きな後押しになった。

探していた資料の名前を聞いて、それならここですよと教えたのか、箱ごと手渡したのかそこは忘れた(←その人の反応に気をとられすぎて、その後の行動がどうしても具体的には思い出せない)。

その人は箱ごと持って行って、自分の席に戻って行った。

しばらくすると、その箱を持ってその人は戻ってきた。

私は同じ場所でまだその時と同じ作業をしていた。

その箱は、私が座っていた席から1メートルと離れてない場所にそもそも私が置いていて、その人は同じ場所に返してくれた。

黙って返していたけれども、その人は口こそ閉じてはいたけれど、口を閉じているからと言って何も思っていなかったわけじゃない、と私は感じていた。

何か言いたそうな感じもあったし、何も言わず黙って返すことに「どうしよう?何か言おうかな?」みたいな心のおしゃべりのようなものが聴こえてきそうだった。

その人は喋らない人でもないし、挨拶をしない人でもない。

喋るタイミングとか、何か言うなら何て言うのがいいのかとか、何も言わずに置いたらどう見えてしまうんだろうとか、逆にありがとうとか一言言ったら私からどう思われてしまうんだろうとか、まぁ実際は何を考えてたのかは知らないけれども、そういうことをごちゃごちゃ考えているうちに機を逸してしまって、結局何も言わずそっと置いて立ち去ったのかな…という感じだった。

派遣の仕事で電気系の大手企業に行った時(男性が9割近くを占める)、男尊女卑はもちろん、派遣を小馬鹿にするようなバカな男の人たちがけっこういて(もちろん口には出さないけれど態度に出ている)、別に男尊女卑も肩書きで人を判断するのも構わなかったけれども、気になったのは人として失礼なことをしているという認識がないことだった。

例えば同じシーンなら、黙って置いていく。

それは何かを言う必要がないと思っていてそうしているというのがわかる。

同じ何も言わないでも、何か心にあっても言わない人と、本当に何も考えてなくて言わない人とは全く違う空気を発する。

その人の空気は、前者の何かはあるけれども結局言わなかったみたいな風に私には見えた。

あとコピー機の前を私が占領している時の小さなやりとりでも気付いた。

その人は普段から元気良く挨拶するなんていうタイプではないけれども、そういう時、私にだけ聞こえるような声で、背後から「すみません」と一言声をかけてから、自分の印刷物を持っていく。

そうした普段の在り方を知っていたこともあって、その人が黙って置いていったのも言葉にならないものも本当は胸の内にあったんだろうなぁと感じた。


子どもの施設で働いていた頃、一度ヘソを曲げると2時間はだんまりを決める男の子がいた。

最初こそ私もあれこれ話しかけるけれど、途中から反応ないのに話しかけるのも疲れてきて、私も同様にだんまりになる。

2人でだんまりのまま2時間そこに一緒に居続けるなんてこと、ざらにあった。

そういう時、表面は私のことをガン無視してはいるけれども、実際には私のことを気にしているし、私とのやりとりに関して何かしらを感じてるのはわかる。

まるで私がいないかのように振る舞われてしまうけれども、実際はそのうち本人も落ち着いてきて「さてどうしようこの状況」とか「どうしよう、だんまりしているぶっちゃんを」とか、考えているのがわかった。

説明が下手くそだけれど、その人が箱を置きにきて私のすごく近くにいた時、そのだんまり合戦の子みたいに、その人は何か言うような言いたそうな空気を出していたように見えたし、そして私とそんなに近くになることはほとんどなかったから、そもそも私に近付くだけですごいドキドキしてる風だった。

スーパー勘違いかもしれないけれど、その時、私はもちろんすごい緊張して心臓がバックンバックンしていた。

その人も多分同じように心の中は穏やかではなかったと思う。

2人で同じような気持ちを感じてたんじゃないかなと思う。

その人の「どうしよう…、何か言った方がいいかな…」という迷いみたいなのは少なくとも感じた。

結局何も言わなかったけれど、何も言う気がなくて黙ってたわけじゃなかった。(*)

内側では頭のおしゃべりや心の葛藤みたいなのがあったと思う。

(*読み返したら、言い切りの形になっていて直そうと思ったけれど、あえてやめた。真夜中に妙なテンションで書いたけれど、その時は「言い切り」が自然に感じられたわけだからそれを残そうと思う)

だんまり男子が黙ってる時「俺(自分が悪いのに)怒ってるんだからね!機嫌めちゃくちゃ悪くなったんだからね!」アピールをしている感じの時と似ていた。

黙っていても存在感はあるし、静かなのには反比例して強い自己主張を感じる。

その人は置くだけ置くとまた自分の席へ戻っては行ったけれど、私のすぐ近くにきて、かがんで箱を置いてまた立ち上がって動き出すまでの一瞬一瞬がスローモーションみたくなっていて、そのスローモーションのように見えた時にその人が本当は黙っていたいわけではない、もしかしたら私が一言そこで大丈夫ですみたいなことを言うのを期待したのかもしれないし、何か一言言った方がいいのかなと思ったかもだし、それはわからないけれど、何かしら心の中にあったことは空気として伝わってきた。

その人が意識していたものは、言葉とか態度じゃなくて、私のように感じた。

私に意識が向いているからなのか、どこか動き方もぎこちなくて(普段はスムースで身のこなしがとてもきれいな人)、変な風だった。

そしてその感じは、普段の私を見ているようだった。

その人は何にも気付かなかったかもしれないけれど、その人の席のすぐ真向かいにテプラが置かれていて、私はテプラを取りに行くたびにもしくは返しに行くたびに、当然その人の近くに行くわけだから、いつも妙に緊張していた。

実際にはその人の視界に入るわけでもないし、テプラの位置からだとその人はその人のパソコンのスクリーンが盾のようにあって、見えるようで見えなかったけれども、それでも毎回私は近付くたびにドキドキしていて、その私の感じと、その人が箱を私のすぐ近くに返しに来て、らしくない動き方の感じとがなんだか似ていた。

私が探し物を聞いた時の反応と箱を返しに来た時の反応、そうしたものを感じられたから、私はその人をごはんに誘えた。

脈はあるかないかわからなくても、もしかしたらごはんに行ってくれるかもしれない…、そう思った。

私は付き合いたいとかいうよりも、その人と時間を一緒に過ごしてみたかったのと、その人のことをもっともっと知ってみたかった。

話してみたら思っていた人と全然違って、一気に気持ちが冷めてくれるかもしれない…、これにも実は期待した。

その人に幻滅したかったんじゃない。

自分でもどうしていいのかよくわからない気持ちたちを静めるために、「なんか違ってた!」ってなるのもありだと期待した。

私にはそれぐらいどうしていいのかわからない気持ちばかりだった。



>>>2017夏からの理解できないこと

上の伝えて送ることを感じた日と、そしてそれから10日後ぐらいに今度はメモを見たかどうか、朝からきちんと業者対応の準備に励んでいるその人を捕まえて聞いた時が最後のまともなやりとりで、そこからはもう急降下して、あんなにも毎日満ち足りてた気持ちが猛烈に沈みまくる日々に変わった。

ごはんに誘ったことは、ダメならダメで仕方ないと思って誘ったものの、いざ強烈なカウンターパンチが飛んできたらそんなのんきな気持ちには微塵もなれず、ただただ辛くて苦しいばかりだった。

私は自分がやらかしたと思ったし、嫌われたんだと思った。

嫌われて、嫌がられて、迷惑とか負担になって、重たい他の何ものでもなくて、とにかくありとあらゆる負の称号を獲得してしまったように感じた。

ごはんに誘わなきゃ良かったとものすごく後悔もした。

探し物や箱の時はたまたまで、そしてそこに至る自分の気持ちもやっぱり何か違ってたんだと全力で否定したりもした。

あまりにも現実が辛すぎて向き合えなかった。

だから、私が一瞬でもその人と私が同じ気持ちなんじゃないか…なんて思ったことは完全に私の勘違いだと思った。

やっぱりイケメンに相手にされるわけがない、単に同僚的な立場であの時はたまたまちょっとした気使いをしてもらって、資料や箱の時も何か私が見たものが私の勘違いで違う風に勝手に解釈されただけでその人も私に突然話しかけられて恥ずかしかったりはにかんだりしたのではなく単に驚いただけとか、とにかく見たもの全部を否定するようになった。

だから相思相愛のわけなんかない、とずっとずっと思ってきた。

さらに、相思相愛だとするなら、自分もいいと思っている人から誘われて断るなんて意味不明すぎて、私は「ありえない、そんなわけない」と思った。

どう考えても、「私に興味がなくて私の誘いを無視した」「さらには私は単に興味がないどころか実は気持ち悪いレベルで生理的に受け付けられないぐらいに嫌で、だからこそあそこまで無視して避ける」とも思った。

そうやってとにかく否定しまくって、色んなこと、特に自分が感じたことを否定しようとした。

今はもう少し冷静に考えるようになったけれども、当時は感じたことと現実のギャップが凄すぎたから、ギャップを埋めるために否定して、そしてなるべくならその人を忘れられるようになりたかった。



ここから先はさらなる余談。もはや真夜中のひとり言には一切関係ない。



>>>「手」

先に少し余談を書きたい。

余談の部分は、その人が読むと私も多分もれなく痛みが飛んでくるから積極的に書きたい内容とは違うけれども、これどうも必要な余談みたいだからちょっと書く。

相手の痛みを刺激したくて書くのとは違う。

私もこれ立場が逆なら、絶対に知りたくないし嫌だから。

でも書かないと多分後の本題の話に繋がらないから、先に余談を少し。

およそ1年前、私は男友達とこういう会話をした。

今読み直してやっと思い出したけれど、私が心のケアなんかをひたすら書いたブログがあって、そのことで友達から質問を受けたことにそもそも事の発端があった。

ぶっしーもう書かないの?もったいない、と言われるところからその友達との会話は始まった。

実際のやりとりをそのまま抜粋しようと思う。

私「書く内容は変わらないけど、もう少しスピリチュアルな観点を書き足して(リニューアルして)再開したいと思ってる」

友達「また再開するんやね。ぶっしーはスピを入れるのは合ってる気がするわ」

私「そんな風に言ってくれてありがとう!」

友達「なんか、感性が違うからね」

私「もしお願いできるなら、時間ある時に私がどういう風に感性が違うのかを教えて欲しい!」

友達「了解!
とは言っても、感覚なんで、言葉にするのは難しいけどね。
なんか感じるんだよね」

このやりとりを経て、友達は実際にものすごくきちんと言葉で説明したものを書いて送ってくれた。

私はてっきりスピリチュアル的な感性について言及されると思っていたら、友達は私が想像さえ全くしていなかった奇想天外なことを書いてきた。

ちなみに友達の第一声はこうだった。

「ぶっしーの手の感覚
エネルギーを感じ取れる感覚
それが、単純にすげーな、と感じた」

こんなこと書くのもどうかと思うけれども、私はたしかにこの友達の手をぎゅっと握ったことがある。

あの男女が並んで歩くのに手を繋ぐ感じじゃなくて(←そういう仲じゃない)、スポーツのチームなんかで試合前にお互いに円陣組んで隣同士手を繋いでエイエイオー!みたいな感じの繋ぎ方とでも言えばいいんだろうか、言うならあんな感じ。

でも私はまさかのまさかで、友達がその時のことを出してくるとは微塵も思わず、そして言われて思い出したのが私はその時の情景とかで、手の感覚などと言われても私はその感覚がさっぱり思い出せなかった。

ちなみに手を繋ぎたかったのでもなく、その時はそうせざるを得ないような事情みたいなのがあってそうした。

その友達の説明と2017年の夏の話とが繋がっていく。



で、ここからが本題。

時は2017年の7月の多分初旬頃。

その日も私は元気に仕事に行って、その日もその人に会いに行きたくて仕事に行っていたようなもので、通常通り仕事をしていた。

たしか作業机の側で私は仕事をしていた。

何せ黙々と静かにひたすら作業するみたいな仕事だったから、時々事務所内の人間観察に励んだり、何か考え事したりは日常茶飯事ではあった。

その日はその人も事務所にいたから、その人に会える嬉しさやその人と同じ空間にいられる嬉しさで1人でテンション上げながらも、仕事は仕事だから普通に何かの作業はしていた。

その人が歩いている姿が視界に入ってきた。

変な造りの事務所で、事務所内に男性トイレがあった。

そのトイレに入ろうとその人は動いていただけだった。

私はその時の瞬間のことをとてつもなくよく覚えている。

距離にして数メートルあるし、その人と私はその時に何も関わりもなく、私は仕事、その人はトイレと別々の行動をしていた。

その人は扉の向こうに消えて、そして私はようやく自分の意識が今この瞬間に戻ってきた時に度肝を抜かれた。

相手はトイレに入ろうとしていた。

しつこいけれども何度も言う。

トイレに入ろうとして、そして本当に入った。

その姿を私は視界で捉えながら、ものすごく無意識に思っていたことが何かにいきなり気付いて、1人で赤面しそうだったし、ドン引きした。

私は本当に何も考えず、かなりぼーっとしながら、その人を見てこんな風に思っていた。

「〇〇さんに触れたい」

正気に戻った私は、ヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3=3=3=3ってなった。

ものすごい勢いで「ちょっと頭大丈夫?今仕事中ですけど!何考えてんの?」と思った。

自分で自分の思考回路に卒倒しそうだった。

私はまだその時の自分は、その人をいいなぁと思っているんだ、ぐらいにしか思っていなかった。

特別扱いされて一気にその人の存在が変わって、数日お礼を改めて言う言わないにひたすら頭を悩ませ、やっとこさ言い、相変わらずそういう時はもれなく素っ気ない返事が返ってきて、あぁそうだよね、今さらお礼など言われても反応困るよね、だからどうした?だよね、などと思いながら、まぁ言って悪いことじゃないからいいかと開き直ったあたりから数日以内の話だったと思う。

普段からぼーっとしてることはよくあるけれども、基本的に私は誰かに触れたいなどと考えることは皆無。

ましてや仕事中、仕事中はさすがにぼーっとすると私は普通に凡ミスをやらかすから、なるべくぼーっとしないように気をつけているし、そして何より仕事はきちんとしておきたいから、そういう訳の分からない情を感じるなんて過去一度もない。

しかも職場恋愛とか「何それ?」とずっと否定的だった私にとって、相手に何かされて胸がキュンキュンするのは有りでも、だからと言って職場内で仕事中に何か別の感情を抱くのは無しだった。

ましてや私は基本的に男の人に触れたいなんて普段全く考えない。

ある時に男友達、2人か3人の人に別々の機会に言われたけれども、私は異常なほど男の人を寄せ付けないオーラをバンバンに出していて、普通に仲良くはできるし楽しくも過ごせるけれども、その男に対しての警戒心が半端ないと指摘されたことがある。

私もそれは自覚していて、いくら仲の良い友達でも私は基本簡単なボディータッチもできないし、したいとも一切思わない。

特に相手が男の人となれば、もっとそのボディータッチが無理になる。

相手が姪っ子とか子どもなら別だけど、それ以外は本当に触りたいとか触れたいなんてならない。

付き合う関係ならわかるけれども、それ以外ではない。

ちなみに余談の中の男友達と手を握ったことは、例外中の例外で、それは触れたいとかいうのとは違っていた。

だから、無意識に、しかも相手はトイレに入ろうとしてるわけで色気も何もあったもんじゃなく、私も私で仕事中なわけで、なのにその人に触れたいってどういうこと!?と思った。

((((;゚Д゚)))))))((((;゚Д゚)))))))((((;゚Д゚)))))))

ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘

本当に絵文字みたいな心境だった。

その瞬間は時間にして数秒だったと思う。

その数秒間、私は全く違うところに意識がワープしていて、そしてスローモーションのようにその人を横目で眺めていた。

その時もその人の周りの空気はキラキラしていたけれども、それはその人がイケメンだからとか、もしくは私の頭の中がお花畑過ぎるからなんだと思った。

だけど、そんなことさえその時はもうすでにぶっ飛んでいて、とにかくものすごく純粋に私はその人に触れたいと思った。

とうとう頭がいかれたと真っ先に思った。

何かがとてつもなくおかしくて、私は自分がとうとうあまりにも男の人と縁遠いから、そういうおかしな妄想みたいな気持ちを沸かせるようになったんだとか、何か勘違いしてそういう気持ちを勝手に持ったんだとか、それはそれはもう大否定をしていた。

なんなら、ペンジュラムのせいにもした。

その人に親切にしてもらって1人で胸キュンキュンさせた後から、私は半分ふざけてペンジュラムに色んなことを聞いていた。

実は当時からペンジュラムは一貫してずっと同じことを私に伝えていた。

その人が本当に縁のある人だということは、ペンジュラムはずっとずっと言い続けていた。

質問を変えたり言葉を変えても同じだった。

ペンジュラムがおかしなことを私に指南するから(←ペンジュラムは指南などしない)、私まで勘違いして、とうとう思考が仕事中にも関わらず暴走したんだと思った。

そしてしばらくの間、私はこの自分の触れたい衝動を全力で否定することに膨大なエネルギーを費やした。

本当に気が狂ったとしか思えなかった。

私がその部分を本当に理解できたのは、その人もいなくなって何ヶ月もして、そしてようやく合点がいき始めたのは、それから約半年後の人生で初めてのホロスコープ鑑定の時だった。

ホロスコープの鑑定士さんが、私が過去にペンジュラムを使っていた人生を生きていたことを教えてくれた。

体が弱くて10歳ぐらいまでしか生きられず、その時に育ての親のような存在だったおじいさん的な人が使っていて、それを見て自分も使い方を覚えて、ペンジュラムに関しては自分の友達のように大切に扱っていたと教えてもらった。

余談だけど、たしかこれは書いてない気がするからいつか書けるといいけれど、私はペンジュラムを一部変えている。

当初ペンジュラムは紐の部分が金属製のチェーンだったけれども、ある日それが壊れて、そしてそれ以来、手作りの草木染めの糸を紐にしている。

おかしな話だけれど、私は紐にしてからの方がよりペンジュラムに似合っている感じがしたのと、自分の中でも何かがしっくりときていた。

何がしっくりなのかは知らないけれども、しっくりとそしてどこか懐かしいような不思議な感覚があった。

多分、その10歳ぐらいまでの人生だった時に持っていたものと似たような形のペンジュラムに似たような形の紐なんだろうと思う。

ペンジュラムの石自体も私のは採掘された時の形に近くて、とても自然な感じが出ている。

あとからネットで色んなペンジュラムを見たけれども、結構機械で形が整えられたものが多い。

そんな中、私のものはものすごく自然な感じだった。

見ると、それが量産できないタイプなのは一目瞭然だし、世界に1つしかないのもわかる。

今みたいな時代ではなく、自然の力を読み取って生活していたような時代に生きていたとするなら、私の今のペンジュラムの形の方がよりその時の感じに近いと思う。

そんなこともあったから、私はその鑑定士さんが言うペンジュラムを使っていた過去世の話をすぐに信じることができた。

そして、鑑定士さんが言った。

そのイケメン上司は、多分その時に私の近くにいたと。(私は友達や鑑定士さん含めて、その人のことを説明する時、いつも「イケメンの上司」と紹介して、そして何度も言う時は「イケメン上司」と勝手にあだ名で通してた。本当にこうした一連の流れを知っている友達だけには本名を言ったけれど、それ以外の人には通称「イケメン上司」で通した)

それもとても近しい関係で、一緒に住んでたような間柄だと。

鑑定士さんの話とその後私がペンジュラムを使って割り出したのは、何らかの事情で私はその家のおじいさんおばあさんに預けられていて、そしてその家の本当の孫がその人だっただろうこと。

だからとても近くにいて、毎日顔を合わせていたんじゃないかと思う。

私には何の記憶もないし、当時のことは想像することでしかわからない。
(ちなみに魂は、自分が生きた全ての人生の記憶を持っているとされている)

鑑定士さんいわく、先に死んでしまうことがわかっていた私に何て言えばいいのかわからなくて、当時もそのイケメン上司は無口だったんじゃないかと、そんなことも感じ取れると教えてもらった。

あまりに今と変わらなくて笑ってしまったほどだった。(←相手に失礼)

でもこの話と繋げるとわかる気がした。

もしその時に私が「また生まれ変わって再会したい」と願いながら死んだとするなら、ものすごくよくわかる。

その人を見て感じた色んなことに一気に説明がつく。

「〇〇さんに触れたい」というのだって、現実世界で考えたらおかしいのはわかる。

本当に仕事中な上、どうしたの?と思う。

でも、ようやく時を超え時空を超え、それぞれ別の人間として今この時代に共に生きていて、そしてもう一度本当に再会できたとするなら、ハグして喜び合いたいぐらいの気持ちなんだろうなぁと思う。

そう思う方が、あの触れたい衝動の感覚としてはわかりやすい、私にとって。

そして、すごい近付きたくても怖くて近付きがたいと思った気持ちも本当で、それは多分別離を覚悟していたんじゃないかと思っている。

不思議なシンクロも全部全部頷ける。

2017年、テクノロジーも発展してテレビ電話も普通、宇宙開発も普通、日本のような国では法律もしっかりしているし、理論的に正しいことを遂行することが世間では推奨されている。

スピードや効率、正確性なんてのも重視されている。

オカルト的なものは世間から受け入れられていないし、前世だの魂の再会だのなんて、もう映画とかの世界の話みたいになっている。

だけど、多分だけど、本当に再会したいと望んでいつかのどこかの人生では死にいき、そしてこのテクノロジー大国みたいな時代に生まれ変わって、そんなバカなことあるわけないと言われちゃうような時代に生まれても、やっぱりこれが魂が本気で望んだことなら、どんな手段が講じられても、出逢える設定になっているんだと思う。

訳の分からないことが山ほど起こっても、最終的にもう一度出逢えたとするなら、魂的にはスーパー御の字だと感じる。

そして、当然過去の記憶など持たずに普段は生きているわけだから、普通に過ごしてたら気付けない。

だけど、気付けるように自分の中にボタンみたいなのは持って生まれてきているんじゃないかと私は予想している。

それが私の場合は、あの触れたいの衝動だった。

その衝動は現実的には本当におかしいし、当時38歳の独女の私が「触れたい」だと単なる欲求不満の痛々しい人みたいな風に見える。

でも、そうじゃなくて、本当に出逢えて、そして魂的には再会できたとするなら、ようやく会えたね!の再会の喜びの気持ちの1つとして「触れたい」と出てきてもおかしくない。

余談だけれど、この話の余談話に出てきた男友達も、魂が転生する中で何回も出会ったと思しき1人だと思われる。

ちなみに、今世出会う人たちは、基本的に過去世でもどこかで縁のあった人たちと言われているから、家族や兄弟にしてもその可能性は高い。

だから、「ソウルメイト」と言うと、一般的には男女の恋仲的な感じで捉えられるけれども、本当は出会う人たちみんながそれに該当する。

ただ、その中でも魂の関係の強い弱いはあって、強い人はどこまでも強いし、まぁちょっとだけの縁だねという弱めの人もいる。

いつかのブログに「こじれ男子」などと書いたけれど、その中の2人目がその友達に当たる。

だけど、私は少なくともその人に会っている時に「触れたい」と思ったことは一度もない。

色々深い話ができる人ではあるけれど、恋仲的なのとは明らかに違うし、ましてや手の感覚なんて私は覚えていない。

その時のことは記憶にあっても、感覚は触ったにも関わらず覚えていない。

その一方で、その人は違った。

触るどころか、どんなに近くにいても数十センチはいつも距離があった。

箱を置きに来た時は1メートル、触れたいと無意識に出てきた時は数メートル、その人に探し物の有無を確認した時は会議用の折りたたみ式のテーブル3つ分ぐらいの距離があった。

もちろん触れられていないし、とにかく距離は遠い。

本当に遠く離れている。

それでも私はものすごくドキドキしたり、何かその人にただならぬ気持ちを感じたり、自分と似ていると思ったり、触れたいと思ったりした。

その人が時折見せた表情も、なんとなくだけど、その人側も何か尋常ではないものを感じていたんじゃないのかな…と思う。

明らかに色々おかしいし、年齢とか社会的な価値観とか考えたら、どう捉えても頭のおかしな人の話みたいで、もしくはファンタジーとか映画の世界の話みたいに見えてもおかしくない。

だけど、もし2人がいつかの人生の時にお互いに近くにいて、そしてまた生まれ変わったら再会したいと思ったとするなら、それなら本当にこの感覚はわかる。

恋愛や既存の愛の価値観とかでは説明できないのも当たり前だと思う。

こんなの普通にあることじゃないし、本当にそうだとしても他に同じ体験はないから、色々理解できなくても当然だと感じる。

色んなことを全部ひっくるめて、その人との間に起こったことは、「魂の再会」という視点から見たら全てパーフェクトでも、2017年2018年の世間的価値観で言うなら、異常で頭が狂った視点としか思えない。

出逢う数ヶ月前からその人との出逢いの場となるところに迷子になって行き着くとか、特別扱いしてもらった瞬間の出来事が会社事務所の移転以来初めてのこととか、こうして離れてからもその人にまつわる話を4人の人たちから聞くとか、異常なことはいくらでも列挙できるけれど、結局それって何かって言ったら、本当に再会を望んだ魂側が用意してくれたプレゼントみたいなものだと思う。

魂云々はどちらでもいいけれど、私はたしかにその人に触れたいと感じた。

それはどこまでも純粋な感じで無意識に出てきたものだった。

少しでも近付きたくて、だけど近付くのも怖くて、色んな気持ちが湧くけれどそれさえも怖いこともあった。

でも、正真正銘、その人は私にとって本当に特別な人で他に代わりは絶対にいないことも知っている。

魂的には本当に相思相愛なのかもしれないけれど、現実的には相思相愛からは程遠い。

むしろ嫌われてる嫌がられてる疑惑まであるぐらいだから(苦笑)。

それでも私はやっぱり出逢えて良かった。

その人と出逢えたことは何も後悔していない。

めちゃくちゃ嫌われていたとしても、それでも後悔はない。

人間の究極の目的は「愛」だと言われている。

愛すること、愛されることを体験するために生まれてきていると言われるぐらい。

少なくとも私はその人を通じて「愛」をたくさん感じることになった。

それは成就するしないは関係なくて、本当に純粋に「愛」そのものだと感じる。

こうして会えないからなくなるものでもないみたいだし、色々あっても尚その人は私の中に生き続ける。

色々私側の望みに沿ってないことが満載すぎるけれども、それでも私はその人に出逢えて良かったし、この行き場のない気持ちも知らないより知って良かった。

現実的に繋がれない哀しみはあるけれど、そしてもう二度と生きているうちに会えない可能性が本当に高いけれど、それでもその人を知らない人生より知った人生がいい。

その人を知らない味気ない人生よりも、涙も哀しみも別れもあっても愛ある人生の方が数百倍数千倍豊かだと感じる。

その人を知って不思議な気持ちをたくさん持って、今も尚その人はどういうわけか私の中にずっとずっと24時間365日体制で居続ける存在に変わりないけれど、知らなかった38年よりも今の方がなんだかしあわせ感が強い。

その人の存在そのものが私にとっては何よりも大切だから、たとえハッピーエンドではない今もしあわせな感じがあるんだと思う。

その人への気持ちは、状況とか相手の気持ちで左右されるものではないことがわかった。

そういう気持ちを持った人だった。

去年の1文字を「逢」にしたこと、「逢」を「愛」とも掛け合わせたことを一生私は忘れない。



>>>ナウなつぶやき

もはや、そもそも何を書こうとした記事だったのかわからなくなってきた。

途中からは書きたいことを書いた。

私の文章の暴走癖は今に始まったことじゃないからいいかと割り切った。

また夜な夜な書いたらどんどん話が飛びまくったけれども、書いていてわかった。

やっぱりその人は私の中で只者じゃなくとても特別な存在であること。

書いているうちに泣けてくるところが時々あった。

感極まって涙が出てくる。

何で涙が出るのかも説明できないぐらいに、複雑な想いがたくさん出てきた。

これだけ想いが強いからどうにもならない。

でももうしばらくはそれでもいいか、と良い意味であきらめた。

もちろん本当に再会できたなら嬉しいけれども、再会できなかったからと言ってなくなる気持ちとも違う。

もうこんな風に誰かを想うのは、その人が最初で最後かもしれない。

恋愛の好きとかは絶対にないとは言い切れなくても、その人に感じてる気持ちと全く同じ気持ちで誰かを想うことはもう生涯を通じてその人が最初で最後の人のような気がする。



>>>最後に超絶くだらない妄想

最近私はカツカレーともやしみそラーメンの話を記事にした。

もやしみそラーメンはまだしも、カツカレーは本当にかなりどうでもいい分析で、これ何にも役に立たない。

超絶くだらない妄想は、これらの記事の後にその人が本当にカツカレーを食べたり、もやしみそラーメンを食べたりしてたら面白いなぁと。

もやしみそラーメンってなると普通にラーメン屋さんでメニューにあるかはわからないから、野菜みそラーメンとか。

もしくは味噌バターコーンラーメンとか。

本当に食べてたら、かなり嬉しいかも。

意味なんかないしくだらなさ満点だけど、嬉しいは嬉しい。

魂云々と書いた時に思った。

ちょっとしたことを共有できるだけでも嬉しいんだろうなぁって。

それは時空を超えてまで繋がれた喜びを思ったら、ほんの些細なこと、こうしたカツカレーやラーメンでも、嬉しくなる気持ちがわからなくもない。

ちょっとした、伝言リレーみたい。

話はガラッと変わるけれど、これを最後まで読んでくれたとするなら、それは本気ですごい。

私はたった一度読み返しただけでドッと疲れたから、もう読まない。

最後まで私の長いひとり言に付き合ってくれてありがとう。

2018年12月20日木曜日

恩師と人生の分岐点【後編】

大学時代の恩師、ジョンの話の続き。


前回の記事より、ジョンたるものがどんな人物なのかのエピソードを一部抜粋。


・ジョンのオフィスに飾ってあったオラウータンの親子の写真が、実はよく見たらオラウータンの母と子とジョン本人だと気付いて、私は吹き出しそうになるのを堪えるのに必死だったこと。

・教授本人の恋愛模様を聞きつつ、オラウータン親子と撮った写真をネタにしつつ、なんなら教授の彼女を紹介してもらうみたいな(そんな、良く言えばフランクな、そのまま言えば若干ふざけた感じの師と学生の関係…)。

・ジョンはなぜかいつも手が貧乏ゆすりのごとく震えていて、ヘビースモーカーな上、本当にこの人の体は大丈夫なんだろうか?っていうかぽっくりと亡くなってもおかしくないぐらいに不健康そうだった。

ジョンを知っている私の友達と、新しく彼女ができたということは当然性的な活動もあるわけで、本気で最中に心臓発作でも起こしかねないよね!などと、本気で失礼なことを言いまくり、2人で「なんかジョンが口説くとか想像できないね」とよく言っていた。(若さゆえの至らなさに今は穴があったら入りたい)


こうしたアホアホなことばかりを思い出して、肝心のジョンが私の人生に大きな影響を与えた人だということを、今回手紙をジョンに書くまで忘れていた(←ひどすぎる不義理な生徒)。

当時の話。

年は1997年8月か9月。

気付いたらもう21年も経っている!



アメリカの大学の特徴として2つ先に説明。

1つは、専攻をいつどのタイミングでも変えられること。

なんなら、細かな手続きの方法は知らないけれど、他校へ編入も普通にできる。

名前と顔だけ知っていた日本人の男の人で、私と同じ大学からなんと、かの有名なマサチューセッツ工科大学に編入した人もいたから、そういう意味でアメリカの教育は門戸が広く開いてると感じる。
(私の行っていた大学は、そういうレベルには全くない。ちなみに友達で「俺の行っていた高校は名前さえ書けば入れるとこだった」と豪語してた人もいたから、基本的に色んな学力の人がいたと思う。生徒数1万人もいればそうなる)

社会人になってから大学に行く人もたくさんいて、私が卒業した年に社会福祉の専攻で卒業する人の卒業生代表スピーチをしたのは40代のシングルマザーの人だった。

専攻で一番すごかった人は、アメリカ人の陽気な男の子で、もう残すところ1学期で卒業!それも教育学部で小学校での教育実習も終えて…というところまで来ていたのに、突然地質学に専攻を変えたから卒業が延びたよ、ハハハ!と笑い飛ばしていた人。

なんでも石に興味を持って、石をもっと勉強したいから!と言っていた。

本気のロック(=石)な生き方だと思った。

あと、ダブル専攻も選べたし、副専攻を持つこともOKだった。

私も多少は興味が湧いたけれど、そうなるととても4年で卒業できない上に半端ない勉強量になるとわかってあっさりとあきらめた。

もう1つの大きな特徴は、次の学期が始まる前に「アドバイザー」と呼ばれる自分を担当してくれる教授に会いに行って、来学期の学習計画やその先の学習の方針を相談したりすること。

これは必須らしく、私だけじゃなく他の生徒たちもみんなそうやっていた。

この2つの特徴なくしては、私はジョンには辿り着けず、もし日本の大学みたいに基本は専攻の変更不可とか、アドバイザー制度は日本はあるのか知らないけれども、少なくともアドバイザーは生徒本人は選べなくて学部の秘書の人が適当に割り当てるから、ジョン以外に当たる可能性も当然あった。

1つとしてそうした歯車がずれずに、本当にあったままのことが起きてくれたから、今の私がある。

それだけは間違いない。



私は最初「社会学」専攻として大学に入学の登録が為されていた。

その辺りは私が手続きしたわけじゃなかったから、大学から諸々の書類が来て初めて知った。

で、最初社会学のオフィスに行って、私のアドバイザーとなる教授の先生を紹介してもらった。

女の気さくな先生だったことは覚えている。

私はその時に「私、スクールカウンセラーになることを将来的に考えてる」と言ったら、「あら、ここじゃないわね!それなら社会福祉か心理学かどちらかになるから、それぞれの学部に相談しに行ってから専攻を変えたらいいわよ!」と返ってきた。

アメリカのすごいところは、先生も専攻の変更に慣れているからサラリと勧めてくれるし、要は学生本人の人生だから本人の意思を何よりも尊重してくれる。

それで何か紹介状的なものをオフィスでもらって、それを持って社会福祉学部に先に行った。

心理学の方がよりカウンセリングな感じはしたけれども、なぜか社会福祉も候補に先生は挙げていた。

当時、全く事情がわかってなかった私は、社会福祉でも心理でも何がどう違うのかわからなくてどっちでも良く、それで単に社会学のある建物からだと社会福祉の建物の方が近いという理由だけで、福祉の方のオフィスに先に立ち寄ろうと決めた。

心理学の建物はさらにその倍以上の距離で遠かったから後回しにしたけれど、これが大正解だった。

ちなみに私は心理学のある建物には行かなかった、なぜなら行く必要がなくなったから。

福祉の入ってる建物は、幽霊が出るともっぱらの噂だった学校の中で最も古い時計台のある建物の次に古い建物で、床は歩くだけで常にミシミシと言った。

片や心理学の建物は、学内でたしか2番目に新しい建物だったと思う。

で、社会学部を出たその足でまっすぐ福祉の学部のオフィスに行った。

オフィスでは学部の秘書の人がいて、まずはその秘書に経緯を説明した。

福祉にするのか心理にするのかはまだ決めてなくてとりあえず相談したいと言うと、「あなた留学生だから、そうねー、ジョンに相談するといいわよ!ジョンは他にも色んな国の留学生たちを見ているから慣れてるし、色々相談にのってくれると思うわ!」と言われ、それでジョンを紹介してもらえた。

今の今まで気付かなかったけれど、その時ジョンはちょうどオフィスにいた。

いつもいるとは限らないのに、その時はいた。

秘書の人に連れられてだったと思うけれど、その古くてミシミシ言う建物の地下のさらに一番奥の、ハリーポッターとかのロケ地に使えそうな、お化けが出てきそうな昼間なのに暗い廊下を歩いて、そしてジョンのオフィスにたどり着いた。

広さとして四畳半ぐらいだと思う。

ジョンは白髪もたくさん混じったクルクル天パのちょっと頭頂部が禿げ上がった、でも気さくそうなおじいちゃんという感じだった。

背は180より少し低いぐらいの痩せから普通体型ぐらいの感じだった。

フェイスブックでも今はジョンと繋がっているけれども、当時は「おじいちゃん」などと思ったけれども20年経ったとは思えないぐらいに容姿が今も変わっていない。

当時のままで、むしろ結婚して伴侶を得たことで若返ったんじゃないかとさえ思っている。

それがジョンとの最初の出会いだった。

私はジョンに促されるまま、ジョンのすぐ近くにあった椅子に座って、早速話を始めた。

社会学のオフィスでも話したように、スクールカウンセラーになりたいと思っていること、そのために社会福祉か心理学のどちらかに専攻を変更するように言われたことを言った。

余談だけれど、アメリカは日本以上にすでにスクールカウンセリングの分野が発達していて、そのスクールカウンセリングを受け持つのは基本的に社会福祉になる。

もちろん、心理学専攻の人たちもそうした分野に携わると思うけれど、一般的には福祉の方が多い印象を持った。

もう1つ、スクールカウンセラーになりたいと当時言ったのは、口から出まかせではなく本気でそう考えていた。

それは当時の私にしたら、たかが4年ほどさかのぼると中学時代の壮絶ないじめの体験が根底にあって、その時の自分の体験からスクールカウンセラーに興味を持った。

今は大丈夫になったけれども、その後20代の終わりぐらいまでは夢の中で年に2回ほどフラッシュバックがあって、夢の中で私はいじめの時の体験を追体験してものすごくうなされた。

普段は、夢の中で動いている自分とそれを見ている自分の2人がいるけれど、いじめられる夢の時は違った。

夢の中で動いている自分しかいないから、本当にまるで当時の中に自分がいて、だから目覚めても自分がどこにいるのか一瞬わからない感じになった。

当時の強烈な体験のおかげで、私は学校の中のカウンセリングというものにすごく興味を持った。

そんなことまではジョンには当時話さなかったけれど、とにかくスクールカウンセラーを目指したいことは言った。

ジョンは私の話を聞くと、こう言った。

「カウンセリングの理論を学びたいなら心理学、実践を学びたいなら社会福祉」

私はジョンのこのたった一言で社会福祉専攻を決めた。

今考えても、ものすごく的確なアドバイスだったと思う。

これは後に判明したことだけれど、今日本国内某所で臨床心理士として学校や子どもの施設なんかでカウンセリングをしている友達がいて、その子がいつかのどこかのタイミングで教えてくれたこと。

その友達は、2年?3年?の時に他校から編入してきて、そして彼女もまたジョンのオフィスを紹介されて一度は尋ねたらしい。

私の1つ上で、私と同じ年かもしくは翌年にジョンを訪ねている。

どういう風に相談したかはわからないけれど、ジョンは彼女には心理学を勧めたらしい。

福祉に関しては全然引き止める感じもなかった、と言っていた。

それで彼女は心理学専攻になり、卒業後しばらくしてから日本で大学院に行ってそれで臨床心理士の資格を取って今に至る。

このジョンの「カウンセリングの理論を学びたいなら心理学、実践を学びたいなら社会福祉」という言葉は、本当に大当たりでそして私は自分の能力的にも実践型のタイプだった。

福祉専攻と言えども、福祉のみの勉強をするわけではなく色んな分野の勉強をする。

各学部にはその学部の勉強に準じた必須科目がある。

福祉の場合、心理学・生物・経済・政治・社会学・栄養学あたりが今思い出せるだけでも必須だった。

要は、福祉が、人の心理や人体の仕組み、社会の中のお金、政治、社会の仕組み(法律)なんかと密接に関わっていて理解する必要があったから、それはわかる。

ちなみにこの必須科目たちは、どれもこれもものすごく悪戦苦闘した(汗)。

その中で心理学も取るわけだけれど、心理学が理系の勉強になるとはそのクラスを取るまでは知らなかった。

内容はより理論的、システマチックで、物理と化学の違いがわからないなどとほざく人には全く理解の及ばない内容だった。

もし心理学に進んだら、ちょっと卒業も怪しかったと思う。

だから、ジョンが私にあの時、理論か実践かとはっきりと言ってくれたのは、今となればものすごくありがたいことだった。

しかも、前回書いた
・聴く力
・相手と自分の間にきちんと線引きをして、相手の感情に巻き込まれない力
・感情を切り離して残虐な内容を淡々と読む力
この3つの能力は、心理に進んだら絶対に手には入らなかった。

普段ジョンに会いに行くことはそんなにないけれど、冒頭で説明した来学期の学習計画を立てる時には毎回ジョンを訪ねた。

ジョンは本当に的確で、私はジョンなしでは自分の単位の取り方もしっちゃかめっちゃかになって実際よりももっと大変になっていたと思う。

おおよその大学がそういう番号の割り振りをしていると思うけれども、基本的に各教科には3桁の教科番号みたいなのが充てられている。

100番台…1年生向け
200番台…2年生向け
300番台…3年生向け
400番台…4年生向け

それとは別に、特定の教科を取るのに、その前に〇〇は必修となっていれば、その必修科目を終わらせないと次に進めないようになっている。
(その辺りは日本も同じだと思う)

ちなみにそうなるのは、大体3年・4年の科目になる。

そうやって考えると、100番台の科目は基本的にはその前に必修科目もなければ誰でも取れるようにはなっている。

だけど、ジョンは安易に100番台だから先に取ろう!とは言わず、逆に私の英語力を見て私が取る科目の選択肢を示してくれた。

というより、ほぼほぼジョンに何を次取るのか、決めてもらっていた(爆)。

1年目は「数学とか芸術科目を先に取ろう!福祉だけは進めないとダメだから、1年の後期で取ろう!」という具合にジョンから提案された。

学部の必須科目とは別に、学校が定める卒業のための必須科目もあって、その学校が定める科目で私の英語力でもいけるものを優先的にジョンは組み立ててくれた。

だから4年生の時に、「これは最後の年にしよう!」と言われ続けた人文学を4年の前期後期で続けて取っている。

成績証明書を今見てきたけれども、一体何を勉強したのか記憶にないけれど、やたらと難しかったことは覚えている。

生物や国際政治なんかも3年生で取ったけれど、本当にジョンの言う通りで超絶難しかった。

どちらも100番台の教科で、本来なら1年生から取れるものではあったけれど、英語力だけではなく基本的な一般教養が著しく欠けている私には、基礎がない分難しすぎた。

特に国際政治は、10数回読んでも全く意味がわからなくて、英語力でのカバーは無理だった。

例えば「湾岸戦争」なら湾岸戦争の背景を知らないと読めなくて、当時は今ほどネットも発展してなくて基本日本語サイトは文字化けして見れなかったから、全く歯の立たない英語でひたすら読み解く他なかった。

だから3年4年の時の卒業のための一般教養の科目は、本当に難を極めた((((;゚Д゚)))))))。

他にも、経済で「需要と供給」グラフなんてのは中学・高校と数えて大学では通算3回目の学びのはずなのに、さっぱり要領を得なかった(よく卒業できましたね、のレベル)。

あのよくわからないグラフの説明を定期テストで英語でしなきゃいけず悶えてたことも覚えている←書いたは書いた。

生物に関しては、テスト中持ち込みOKにしてもらった辞書に直接日本語で用語の説明を1つ書いた(←違反行為)。

そんなことしたのは、その時1回だけ。(←何のフォローにもなっていない( ̄◇ ̄;|||)

そうまでしたくせして、ギリギリ単位が取れるD判定だったんだから(日本の5段階評価でいうところの2。1なら落第)、やった意味があったのかどうかもわからない。

そうした私の英語力も見込んでジョンは指導してくれたからすごくありがたかった。

そんなこんなを経て、最後4年目にもう一度転機が訪れる。

日本に帰ってきてから私は社会福祉系の通信の大学に編入したけれど(なぜなら日本では資格なしだから)、日本とアメリカでは色々違っていてビックリしたことがある。

基本的に、日本の福祉の勉強はアメリカの福祉の勉強を参考にして作られているとは思ったけれども、私は大学で取った単位のほとんどを日本の大学では認めてもらえなかった。

アメリカで取ったものをまた日本でも履修するということになった時に、日本だと英語のそれに当たる言葉がないから、そのまま英語の発音をカタカナにしただけの単語なんていうのが山ほどあった。

しかも説明がすっごい下手くそで、これ日本語で読む方が難しいなといつも思った。

で、それよりもさらに大きな差だったのは、福祉の現場実習だった。

現場実習は2つ、12日間を2回、仮に1日あたり8時間としても192時間。
(調べたら180時間以上ならOKらしい)

これが日本のケース。

アメリカにいた時は、8ヶ月間(人によっては4ヶ月間)で450時間以上の現場実習が必須だった。

3年生の時に1年間だけ元いた学校に籍を置いたまま、提携している国内の他の大学に行くという国内交換留学的なプログラムに応募して行った時があって、その時の大学とは同じ福祉でも少しずつ対応は違っていた。

その大学の現場実習は、基本的に生徒本人ではなく実習担当の教授たちがどこの現場で実習するかを決めていた。

大体希望通りにならないと周りのクラスメートたちは言っていた。

私は4年次にまた元いた学校に戻って、それで後期の方で現場実習を始めたけれども、その実習先は生徒自らが事業所とかに連絡をして見つけてこないといけなかった。

ちなみに私の2つ上の福祉専攻の日本人の友達は、日本に帰って実習をしたし、さらにその上にもう1人ちょっとだけ知り合いになった人がいたけれど、その方はジョンの勧めでどこかアジアの国の福祉施設で実習を積んだ。

ちなみにジョンは私にもその場所を勧めてきた。

私は聞くからに興味がなく断り、とりあえず現地での実習先を探した。

と言うとちょっとだけ語弊があって、普通は数ヶ月前から実習先を探さないといけないのに、私はここでも先延ばしをして超ギリギリになってから探し始めた。

多分開始1ヶ月前とかだと思う。(←スタートが遅すぎる)

普通は1ヶ月前はもう実習先は決まっていて、あとは決まった日に始めるだけとなっている。

アメリカ人でも苦労しているのに、私は何を考えているのか(というか「面倒くさい」の一言で何も考えていなかった)とにかくギリギリまで何もしなかった。

いよいよ学校にも何かを提出するような時期になって、ようやくよいこらしょと腰を上げた。

学校からは事前に事業所一覧みたいなパンフレットをもらっていて、それを見て自分が興味あるところに直接電話して聞けばいいようになっていた。

その中で私が興味を持ったのは2ヶ所しかなく、スクールカウンセラーの現場実習は市内に2校しか受け入れがなかった。

2ヶ所に電話したものの、すでに実習生を取っていて来学期は新たには受け入れられないという回答をもらった。

一応もう一度隅から隅までパンフレットを見たけれども、他に行きたいところがなく、いきなり行き詰まった。

っていうかようやく事の重大さに気付いて、慌ててジョンのオフィスに行った。

ジョンに事の顛末を伝えて、そして家庭の経済状況で卒業を延ばす選択肢などないから何が何でも来学期(1月)に始めて夏までには全て終わらせないといけないんだけど!、と自分の先延ばしも反省せずに泣きついた。

ジョンは言った。

「フミコ、選択肢は2つ。
1つは、分野を変えて、介護でも障害でも女性支援でもホームレスでも何でもいいから、とにかく他の分野で探すこと。
もう1つは、どうしても児童福祉にこだわるなら、虐待された子どもを預かるグループホームがあるからそこにコンタクトすること」

はっきり言ってどっちも嫌だった。

だけど、背に腹は代えられず、とりあえずその虐待とやらのグループホームに連絡してみる!ということになって、そのグループホームに連絡を入れた。

私の中で児童虐待なんてのには全く興味もなく、それこそジョンのクラスで社会福祉概要の時にちょっと聞いただけで、「虐待ってそもそも何?」ぐらいの、本当に何も知らずにいた。

自分でも理由はよくわからないけれども、「子ども」に焦点を当てたかった。

大人の世界のことはよくわからないというのもあったし、なんとなく「子ども」だった。

子どもが好きではないし、女子や女性がみんな声の色を変えて小さな子を見ると「可愛い♡」とかいうあの感覚も私にはなかった。

スクールカウンセラーの道は今のところ断たれても、とりあえず子どもと関わるところは外したくなかった。

というそれだけの理由で、私はそのジョンが示したグループホームに連絡を入れた。

バスでしか行けない上に、一見普通の民家で、ここはどこ?ここで本当に合ってる?という感じの一軒家に着いた。

日中だから子どもたちはみんな学校に行っていて、ホーム長のクリス(←たしかクリスだったはず)だけがいたと思う。

クリスとの面談は滞りなくいったけれども、それとは別に数枚に渡る人物調書なるものがあって、それにその場で記入しないといけなかった。

家族構成に始まり、家庭内での各種虐待の体験の有無、親の性格、ドラッグやアルコール依存症の身内の有無、両親の離婚やDV、精神疾患の有無とか、とにかくすごい質問のオンパレードで度肝を抜かれた。

どれも当てはまるものがなく、私は逆に不安になった。

最後まで一通り終わった後、ホーム長に聞いた。

「私はこれのどれにも当てはまらないんですが、もしかして経験値がないから実習不採用ですか?」

ホーム長は言った。

「いやいやいや、なくて大正解なんだよ!
もしそれらのどれかでも当てはまる場合は、逆にたとえ実習生でもこちらでは受け入れられない。
なぜなら、ここでの子どもたちとの関わりにおいて、本人のトラウマが浮上してPTSD(心的外傷後ストレス障害)やその他の精神病関係を引き起こしてしまう可能性があるから、そういう経験値のある人は必ず断っているんだよ。
フミコは何の問題もないから採用だよ!」

ちなみに、児童虐待とかも全然知識がなければあまりにも何も知らなさすぎると言ったら、それの方がいい、知識はやっていく中で徐々に学んだらいいわけで、それよりも心身健やかにこの実習に臨んでもらうことが何よりも大事だから、と言われた。

私はこの時の対応によって、本物の「プロ意識」たるものを教えてもらった。

日本とは全く違う。

日本では個人のプライバシー配慮が先行して、でもそれは同時に本当の意味での現場における大切な配慮が足りなくて、こういうことを実施している福祉関連の事業所は皆無だと思う。

でも本当はすごく大事なことで、それは本人にとっても利用者の人たちにとっても、双方の利益のために実施するべきことだと私は個人的に思う。

心身共々その分野において傷がないことは、本当に大切なポイントだとその後の実践の場でもそう思う場面がたくさんあった。

もう1つ言うと、この8ヶ月の実習のために自分自身に保険をかけることも義務付けられていた。
(ちなみに、バレないだろうとタカをくくって途中まで払わずにいたら、学校から大目玉喰らって、即刻加入しないと実習を強制終了されると手紙と対面と両方で通告され、実習担当教授からもこっぴどく叱られた。もちろんすぐに払った、1〜3万円相当。いきなりお金がいると言ったから親からも当然怒られた 汗)

この保険は、訴訟に対しての保険で、万が一実習中に自分の過失、又は自分は良かれと思って対応したことでもクライアントや事業所から訴えられた場合、それを補填するための保険だった。

今は知らないけれど、私が福祉の仕事をしていた20代の頃は、そんな保険、日本で聞いたことがなかった。

多分、今もないと思う。

そんな風にして、私のドタバタな現場実習はようやく実習受入先を見つけて始まった。

今にして思うのは、当時は何も考えず、すでに早くも流されるままに、まぁ正しくは当時から先延ばしの癖がひどくそれでそんな流れに行き着いたわけだけど、この時の選択はその後今に至るまで本当に大切な人生の分岐点になった。

これはまた別の記事で書こうと思うけれども、私が当時現場実習として行ったそのグループホームでのことが、その後日本での就職にも繋がった

この体験が採用に有利に働いたということではなく、進路を決められなかった当時の私が、その半年後ぐらいから「児童養護施設」に狙いを定めてアメリカから日本の施設を探し出して就職活動を始める大きなきっかけとなった。

別記事で書きたいけれど、私は実際に行き始めてからその実習先の選択肢をものすごく後悔して、最初の半年(=実習期間の4分の3)は大失敗したと思っていた。

実習に行くのが本当に嫌で、子どもの嫌なところを山ほど見て、世の中の「子どもって可愛い♡」なんていう人たちは何か私にはない母性愛でも持っているんだと毎回のように思った。

そこがスタートだったにも関わらず、私はその後そうした施設での就職を希望するに至った。

気持ちが丸っと変わったのは、そこで出逢った子どもたちのおかげだった。

そしてもっとさかのぼれば、当時私が泣きついてジョンのところを訪ねたことに端を発する。

あの時、ジョンがはっきりと「他の分野の福祉で実習先を探すか、児童福祉にどうでもこだわるならこのグループホーム」と言ってくれたからだった。

さらにこれもまた面白い話で、私は3年生の時の実習に向けての実践コースの時に違う大学に行ったせいで、元の大学のところでの福祉専攻の人たちを誰も知らずにいた。

ようやく卒業間近になって、2〜3人知り合いができた程度だった。

そのうちの1人の女の子が教えてくれた。

私が実際に実習に行ったグループホームというのは、1つ大きな母体があって、その傘下でいくつかのグループホームを運営していた。

ジョンは名指しで私が実際に行ったグループホームを紹介したけれども、他にもいくつかグループホームをその団体は持っていた。

話しかけてきてくれた女の子は、その中の別のグループホームに行っていた。

何せ興味もなかった私は全く何も調べることもしなかったけれど、彼女いわく彼女の実習先と私の実習先は全くタイプが違うと言っていた。

私の実習先は、基本的に長期入所型のグループホームだった。

しかも、アメリカの虐待された子どもなんかを受け入れるグループホーム(アメリカは大人数収容の施設はほとんどなくて、基本少人数制のグループホームが主流)は、年齢・性別・子どもの特性に合わせてきちんと細分化されていた。

で、私の行っていたところは、7〜14歳の男児専用で定員4人、そして精神的に色々抱えている場合が多くて、その分類で州内にたった1つしかない最重度の精神疾患系を持つ子ども対象のグループホームの次に重度とされる子どもたちを受け入れるところだった。

生きるか死ぬかどころではない、本当に強烈なバックグラウンドを持っている子たちだった。

そんなところだったから、最初から最後まで基本同じ子たちを見たし、途中で組織の再編成とかがあって数人プラスして見た子もいたけれど、基本はあまり人の入れ替わりはなかった。

一方の彼女の実習先は、通報・相談が入って一時的に子どもを預かる専用のグループホームで、常に子どもたちは入れ替わっていて、長期的な展望とかプログラムは一切立てられなくて、そういう意味で悪戦苦闘していると言っていた。

しかも、実習に行く度にいる子どもたちの顔ぶれが変わっているから、特定の子と関係を深めるとかもなく、それも面白みに欠けると言っていた。

そうそう、実習の決まったカリキュラムの1つの課題として、自分でプログラムを立案して実施、そして評価することが義務付けられていた。

だから子どもたちと日本食クッキングをしたんだった。

思い出してきた。

刃物を使ったりするからまずは危険な道具を正しく扱うとか、私の話を聞くとか、その活動の中でまた子どもたちの何か別の側面を引き出すとか、そんなこんなの書面上は素晴らしい企画を立てて、それで実際に数回それを行った。

だから、子どもたちと長期的なやりとりができるという意味でも羨ましいと言われたんだった。

で、これこそが私の運命を大きく変える分岐点で、もし私があの時彼女が行った方のグループホームを紹介されてたとするなら、私はおそらく児童福祉には携わらなかったと思う。

どうしてジョンがそのグループホームを名指ししたのかは知らない。

けれど、ジョンはそこを単独で名指ししていたから、私は母体であるメインオフィスには一度も行くこともなく、なんならどこにあるかも知らず、最初から最後までその小さなグループホームにいた(グループホームの引越しがあって、場所だけは移動した)。

そんなことも思い出した。

ここから先は長くなるからここでは細かく書かないけれども、ジョンのアドバイスなくしては私は今自分がペンジュラムを使うとかホロスコープを学ぶとかスピリチュアルな世界観を知るとかも一切なかった、と断言できる。

この体験がスピリチュアルな世界に繋がるのは、はたから見たら「何それ?」という感じだとは思うけれども、私には絶対的に必要な体験だった。

そして、もう福祉の現場には戻らないだろうことやこれからはスピリチュアルな部分がもっと仕事の性格として入ってくるのは、なんとなく想像できる。

そこに至るまで色んな積み重ねが必要で、その根源はジョンとの出会いでジョンからの適切なアドバイスがあったからだった。

よくよく考えたら、まるで導かれるようにジョンに出会っていた。

大学時代の先生で唯一今も繋がっているのは、ジョンしかいない。

というか、まるで私がきちんと気付くように、律儀にジョンは毎年クリスマスカードを送ってくれていた。

ジョンに言われたことはきちんと覚えていたし、その後実際に起こるようにして色んな経験を得たわけだけど、自分の中ではそれぞれがバラバラのピースで全く繋がっていなかった。

なぜなら、福祉は超現実的な世界で、一方のスピリチュアルは目に見えない世界だから。

接点があるようでない、ずっとそう思っていた。

実は逆で、私がスピリチュアルな世界を色々経験するためには、現実世界に則した実践がどうしても必要だった。

先に書いた3つの力
・聴く力
・相手と自分の間にきちんと線引きをして、相手の感情に巻き込まれない力
・感情を切り離して残虐な内容を淡々と読む力
これらは、完全に福祉の世界で養われた。

そして、超現実的な対人の対応をひたすら求められる世界に10年強いたおかげで、私の場合はそこが強化された。

さらには、その後今度は派遣でももっとガチな超現実的な世界でのお客様対応を求められた。

これら全部の体験が今に繋がっている。

資格なんかでは絶対にカバーできない、ひたすら経験を積むことでしか得られないものを私はずっとやっていたんだなと思う。
(資格があれば尚のこといいけれど|( ̄3 ̄)|)

その大切な分岐点のカギはジョンが持っていた。

いじめの体験は本気で笑えないレベルだったけれども、今ぐらいに人に恵まれていたとするなら、私は入らない世界だった。

そうだったら何してたかは知らないけれども、たとえ同じ大学を選んでも違う勉強をしたり、その後も全く違う仕事をしたと思う。

結婚もしてたかもしれない( ̄∀ ̄)。

今頃子育てに追われてたかもしれない( ̄∀ ̄)。

とにかく、まるで全てが用意されてたかのように物事は起こった。

ようやくこの年になって、ジョンと出会って21年、やっとやっと1つ1つのことが繋がり始めた。

だからか…とようやく合点がいった。

ジョンに手紙を書いていた時、「ジョンのおかげで…」と書いたあたりで、私は突然胸に色んなものが迫って涙が出た。

自分に感動するではないけれども、色んな想いが一瞬すごく強く出てきた。

オラウータンと化したジョンとか、奥さんと夜の方は大丈夫だろうかと友達と笑って影で噂されてたジョンではなく(←とっても失礼)、ジョンが私の人生に現れたのは私の今に繋いでもらうためだったんだと初めてわかった。

ジョンの存在の大きさを今ようやく理解した。

不義理な生徒はやめて、来年はせめて早めとクリスマスカードを送ろう(…!?)。

せっかく書いたから、もう1つ番外編?として、グループホームでの現場実習の体験とその後の社会人デビューとなった就職活動の話がどう繋がっていくのかも書こうと思う。

最後に今さらだけど、ジョンは本当に穏やかで優しくて、いつでもニコニコしていて、偉ぶってるところはないし、話は冷静に聞いて的確なアドバイスをしてくれるし、私みたいに色々やらかしまくりな生徒の面倒も嫌な顔1つせず見てくれた。

何せ辞書の持ち込みの許可を得るために色んな教授を毎学期訪ねたし、質問があれば都度都度教授に質問するために個人オフィスに行くこともあった。

基本的に良い先生が多かったけれども、とりわけジョンはその中でもスーパー気さくな人柄の持ち主だった。

だから、私は本当に人に恵まれていた。

ジョンと大学時代の大きな人生の分岐点で出会えたことももちろん、ジョンという1人の人間に出会えたことは本当の本当に幸運なことだった。

2018年12月19日水曜日

恩師と人生の分岐点【前編】

おととい、数年ぶりに「英語」で手紙を書いた。

もう一度言う、「英語」で手紙を書いた。

あまりに久しぶりすぎて、出だしの書き方さえ忘れた。

そうだ、そうだ、「Dear」要る!と思い出して、「Dear John」と始まった。

不義理な私とは正反対で、ジョンは毎年律儀にクリスマスカードを送ってくれる。

ジョンは、日本語で言うところの「恩師」にあたる。

スーパー不義理な生徒の私は、今回手紙を書くまで色んなことを忘れていた。

このジョンこそが私が今いる場所にまで辿り着くための最初の大きな道案内役の人だったことを。

正しく書けたかどうかは別にしても、手紙の中で私はジョンに、自分は今後スピリチュアルなことも含めた実践をしていくよ、と書いた。

わかりやすい例がペンジュラムだと思って、最近依頼されたペンジュラムを使っての人探しの話をちょっとした。

あとホロスコープも。

他はどう説明していいかもわからないから割愛した。

そこに至るまで本当に葛藤したこと(今もしてる)、だけどそれを決めるにあたってこれまで色んな人たちから支えてもらって、そしてもう多分福祉の仕事には就かないけれども福祉での実践と知識は今後も大いに役立つし、それが色んなことの基盤となっているから、その部分に確実に関わってくれたジョンには感謝していると書いた。

福祉の件は全く話を盛ってなくて、私的には福祉で徹底的に人と関わるための大切なことを学べたことはとても大きかったと思っている。

傾聴だの信頼関係だの人を何か外的な要素でジャッジ・差別しないこととか、これは本当に徹底的に教えられたし実践の時にも絶対的な基礎基本となるから、それを先に専門的に学べたのは良かった。

手紙を書きながら思い出したのは、ジョンのオフィスに飾ってあったオラウータンの親子の写真が、実はよく見たらオラウータンの母と子とジョン本人だと気付いて、私は吹き出しそうになるのを堪えるのに必死だったこと。(←今も思い出して、1人思い出し笑いしたほど)

ある時とうとう勇気を出して、ジョンに直接聞いた。

これどうしたの?って。

どこかの動物園?海外?、まぁどこかしらに行って、直接オラウータンと触れ合えるところで一緒に撮らせてもらったと教えてくれた。

一瞬、オラウータンの家族なのかと思ったらジョンでびっくりした!とオブラートにも包まずどストレートに感想を言い(←こらっ!)、それに対しジョンも僕もそう思うよとかニコニコしながら言ってたと思う。

私が在学中に、バツ1だったジョンに彼女ができた。

もう1人日本人の2つ学年が上の福祉専攻で仲良くしていた女の子と、かなりな頻度で下世話なことを言っていた。

ジョンはなぜかいつも手が貧乏ゆすりのごとく震えていて、ヘビースモーカーな上、本当にこの人の体は大丈夫なんだろうか?っていうかぽっくりと亡くなってもおかしくないぐらいに不健康そうだった。

で、その女の子と、新しく彼女ができたということは当然性的な活動もあるわけで、本気で最中に心臓発作でも起こしかねないよね!などと、本気で失礼なことを言いまくり、2人で「なんかジョンが口説くとか想像できないね」とよく言っていた。(若さゆえの至らなさに今は穴があったら入りたい)

私もジョンに彼女を紹介されたし、なんなら今年のいつか写真の整理をした時に3人で撮った写真も出てきた。

ジョンは私がいた時だったか卒業してからか忘れたけれど、その方と再婚した。

くだんのクリスマスカードも、ジョンと奥さんの名前連名でいつもくる。

ジョンは退官後(いつ退官したかもわからない不義理な生徒)、自分の地元の西海岸側の州と奥さんの実家のマレーシアとを年の半分ずつで行き来して、そして今はマレーシアに永住することになったといつかの年のクリスマスカードに書かれてきた。

奥さんの細かな事情は忘れたけれども、何かを教えるためにたしか大学に来ていて、それで元々アジア文化やアジアの福祉を学術的に研究していたジョンと何かをきっかけに出会ったと記憶している。

よく考えたら教授の恋愛模様なんかを本人から普通に紹介されてた私は、そんなことばっかり記憶にあって、肝心要のことをすっかり忘れていた。

日本でもそんなことあるんだろうか?

教授本人の恋愛模様を聞きつつ、オラウータン親子と撮った写真をネタにしつつ、なんなら教授の彼女を紹介してもらうみたいな。

だから「恩師」と呼ぶのが何ともくすぐったい。

大学1年の春学期(秋学期スタートの2学期制だから、いわゆる1年目の後期)にジョンのクラスを初めて取ったけれども、「ジョン」などと気安く呼ぶ人よりもきちんと「プロフェッサー  スポアーズ」とか「プロフェソール」と周りは大抵敬称で呼んでいて、自分の呼び方がおかしいこともさながら、「あ!ジョンって本当に教授なんだ!」と初めて認識した←失礼すぎる。

ちなみにジョンと呼び捨てなのは、本人に何て呼んだらいい?と最初聞いたら「ジョンでいいよ」と言われたから、ずっとジョンだった。

ジョンも全くいとわず、いつでもジョンと呼ぶとニコニコと対話してくれた。

ちなみにそのジョンのクラスはそれしか取らなかったけれども、超絶眠くなる授業で、ジョンの小さめのいかにも子守歌的なトーンの声が聞こえなくならないように気をつけていたことしか授業の記憶がない。

そしてさらに唯一の授業の内容の記憶は、ある日コミュニティソーシャルワーカー(地域福祉士)の女性がゲストスピーカーとしてきて、自分の仕事内容や実際のクライアントの内容を紹介した時の話だった。

まだ18、19のティーネイジャーだった私にはあまりにも衝撃的な話だった。

その女性は、とある田舎の地域を担当していて、隣近所と言っても全然隣りが見えないぐらい何百メートルと離れているような、そういうところにある家族を担当した。

ある日訪問すると、中学生の娘が妊娠していた。

妊娠だけでも一大事だけど、その女性は「子供のお父さんは誰なのかしらね〜」と笑いながら言ったことがものすごく衝撃だった。

要は父親がその中学生の娘に性的虐待をしてるんじゃないか、という疑いを口にしていた。

それは笑って言うことなのかどうか私にはわからなかった。

重たい話だから、笑って話すその気持ちもわからなくもないけれど、決して笑って話すことではないと私は思っている。

というようなことのみ、ジョンのクラスの記憶として残っている。

4ヶ月習ったんだけどなぁ…(苦笑)。

ついでに言うと。

性的虐待なんて言うと、アメリカの話でしょ?と思われるかもだけど、日本でも普通にある。

そして、ここが日本は病的だなぁと思うのが、傍目には一般家庭に見えるおうちでも親が子を性的虐待してしまうところ。

福祉の現場で関わるような、命からがら助けられた子供の家庭内の話なら、もちろんあってはいけないことでも、百歩譲って可能性ゼロとは言えない。

でも、そうではなく、普通に学校に行って会社で働いて何なら今は結婚して子どももいて…みたいな女性たちの中にもそういう体験を持っている人たちがいる。

私が聞いた人たちはみんな衝撃だった。

なぜなら、本人が口を開かなければ、絶対にわかりっこない、なんなら普通の良い家庭に育ったという雰囲気を醸し出している人たちだったから。

人として魅力的で心がきれいで、まさか裏側でそんな体験をしてたなんて…。

多分そんなの氷山の一角だと思う。

ぶっちゃけて言うと、国が色々虐待の統計を取っているけれども、あんなの全くもってあてにならないと思う。

今はまた法の方が変わったから違ってきているのかもしれないけれど、どの種類の虐待でも「虐待」と認定されるのは全体の1割も実はない。

ニュースで「虐待」と報道されるものは、「虐待認定」が正式になされたという意味ではすごく稀なこと。

誰がどう見ても「虐待でしょ?それ!」というものでも、どういう基準で認定されるのかはわからないけれども、基本的に相当な証拠がないと認定は下りなかった(10年前)。

今も数に大差はないと思うけれども、日本全国に子どもを保護して養育する施設「児童養護施設」はたしか500以上ある。

でも、虐待とか何かしらの相談・通報された子どもの1割しか施設には入所しない、定員の関係で。

その1割の子どもたちに関しても「虐待」と正式に認定されて入所する子は、片手で数えるぐらいしかいなかった。

しかもそれは統計を取れる児童相談所とかでのレベル(認定は児童相談所で、施設側は基本的に認定する職務的な権利がない)。

ちなみに、認定がされてない=虐待されてないではない。

むしろ、何かしらには該当する体験をしている。

ここまでは統計で出せるレベルの話。

そうではない、100%スルーされてしまう一般家庭は当然統計には上がるわけもないから、未知数すぎる。

しかも、虐待の中の、身体的・心理的・性的の3つの中で性的虐待が一番発見しづらい。

それこそ子どもが妊娠でもしなきゃわからないレベル。

子どもも大人も含めて何で私が知ったかと言えば、本人が話したからで、そうでなかったらどこにもそんな記述も情報もないから知ることさえなかった。

だからと言うのも変だけど、家庭の中に踏み込むことをタブー視している日本では、実は…という人たちがたくさんいる。

あとよく見落とされがちなのが、性的虐待は女の子だけと思われること。

件数としては少なくても男の子が被害に遭うケースも普通にある。

気持ち悪がらせるために書いているのではなく、本当に現場にいたり色んな人たちから話を聞いた私だから、確実に統計には上がらない本当にあった話をただ事実として話しているだけだし、これは他人事ではなく誰の身にも起こってもおかしくないと思う。

話は戻って、そういう分野に入っていったのも、実はジョンが大いに関係している。

ジョンの一言でその方向に進むことになり、そして様々な知識も経験もそして私独自の能力的なものも開花された。

忘れそうだから先に書くと。

ここに書いた通り、かなりヘビーな体験を色んな子どもや大人から聞いた(虐待だけではなく、本当に色々)。

私が特に鍛えられたのは3つで、

・聴く力
・相手と自分の間にきちんと線引きをして、相手の感情に巻き込まれない力
・感情を切り離して残虐な内容を淡々と読む力

この辺りはもし気が向いたらまた別記事で書きたいけれど、これらのおかげで私は人のどんな強烈な話を聞いててもその後普通に何でもおいしく食べられて、普通に眠りに就ける。

人の気持ちに基本的に巻き込まれないし、何かを読んで具合が悪くなることもない。

もちろん最初からそうだったわけじゃなくて、最初は読むだけで泣いていたし発狂しそうだった。

それが数打てばじゃないけど慣れる。

関係ないけれど、本当に「よく生きてたね」と言いたくなるぐらいに極悪な状況が書かれている調書を読んでも平気なのに、今ネット上に溢れている一般人のブログで具合悪くなるものが時々ある。

よほどおかしなエネルギーを発してるんだろうなぁと、そういうのに当たる度に思う。

これだけでだいぶ長くなったから、ジョンとの出会いとジョンが私の人生の分岐点において道案内役になった時の話はまた別記事で。

ついでに驚いたのが、郵便局にクリスマスカードと手紙の入った封筒を持って行って料金を計ってもらったら、なんとマレーシアまで90円!(´⊙ω⊙`)!だったこと。

日本国内が82円で、そこにもう8円プラスするとマレーシアまで届けてくれるなんて、どんだけすごいの!?と思った。

日数は約1週間かかるとのこと。

日本郵便様々と思った。

ということで、不義理な生徒は数年ぶりにジョンに英語で手紙を書いた。

書いたことで、大事なことをいっぱい思い出したから、書いて本当に良かった。

オラウータンの写真とか下世話な心配とかばかりが先に思い出されたことは、ジョンはもちろん知らない。

っていうか、今思い出した(゚д゚lll)=3=3=3

その3人で撮った写真も送れば良かった!

最近ではなくても触ったのはそんなに前じゃないから、どこかの段ボールを開けたらすぐに出てくる。

来年覚えていたら送ろう、そうしよう!

2018年12月18日火曜日

携帯メモより

時々、浮かんだ時に携帯メモに入れていた言葉たち。

〜今春以降〜

5月21日

自分の傷は自分への最大のギフト
そして自分の傷の最大の癒し手は自分自身



6月12日

不安なことさえ、それは自分への愛じゃないかと思った。

自分が大切だからその自分に対して不安になる。


7月2日

・何もしなくていい=自分のことに集中してたらいい

・自分のペースで進んで大丈夫
急がなくても大丈夫
物事はきちんと順番通りに起きてるから



8月5日

8/4 23:20

今の自分と仲良くなれたら、どんな自分ともやっていける、そんな気がした。
究極に何もしてなくて、お金もなくなりそうなのに動かなくて、そんなやばいとおもう自分といられたら、これから先何があっても大丈夫な気がする。


8/5 5:16

本当の自分を表現する。

本当の自分で勝負する。

本音で語り合う。



8月15日

8/13 8:39

人は何でみんな表現するんだろう。


8/15 6:09

どうしてすごい技を習得せず、尚も習いに行かなかったのか。
どう考えてもすごいのは知ってる。
だけど、それを習いに行くのは、今の自分ではダメだと知っているから。
せっかく持っているものを、持っていることさえ認識せずにダメだとして、そして足りないものをさらに補おうとしたと思う。

足りてる今の自分、足りてないという今の自分でやっていきたい、そんな気がした。



8月24日

やったこと
・思い浮かんだままの感情にさせておいた
……
「空気感」というヒントがきた
私のキーワード
大切にしたいポイント
……
・「こんなことして何になるだろう?」と思ってもいいからやり続けた
・「お金にならない」「仕事探しした方がいい?」色々出てきても、とりあえず気が向いたものを優先
・やるときにそれ「本当にしたい?」と自問。
食べたい?飲みたい?トイレ行きたい?と同じぐらいに。
・選んで動いた時に、その時の自分の気分を見るようにした。少しでも楽になってる、スムーズな流れを感じる=OK。
……
・気がすすまない時は思い切って休む。
うじうじしても時間が過ぎるばかりで、何かしてないと落ち着かなくて、やらないと自分を責める…みたいになったら元も子もないから、そんな時は潔く休む。



8月29日

足 窮屈
自分の形に合っていない
自分に合わないものは、痛みを覚える


無理やり感謝しなくていい
まずは自分の正直な気持ちに寄り添う



8月30日

キョンキョンインタビュー

素敵な女性になるためには?との質問には「私は今、50代ですが、何もないより、間違えても何かあったほうがいい。やっちまったなっていう後悔のほうが成長するような気がしてます」とアドバイス。

(引用元不明)



9月24日

8月29日(水)
・「足りない」と思い込んでる自分に気付かせてもらった

8月30日(木)
・「このまんまの自分でいいんだろうなぁ」と思った。
・何か価値あるものを提供しないといけない、と思い込んでた自分。

8月31日(金)〜9月1日(土)
・すべてから逃げたい
・大切な言葉はすっと入ってくるものの、決断したくなくて逃げたくなってる

9月3日(月)
・私にはまだ「やること」がある
(やりたいことではなくても、やることがある)
⇒9/11追記:ミッションを指してたんだと今にして思う。やりたいことはビジョン、やらざるを得ないのがミッション。

9月4日(火)
・(1:25)何で自分を使ってあげないんだろう?

9月9日(日)
・「物語を紡ぐ」
『君の名は』見てて出てきた言葉
・思っていることをそのまま吐き出す=本当の自分と分離しない

9月10日(月)
・朝起きた時に「今日はこれをやりたい!」という気持ちや「これをやる」と頭で考える前に体で動ける流れを作りたい。
・自分が知ってることを提供することで人が楽になれるのなら、それを提供してもいいなぁと。
別に偽善者でいいかと。
芸能人の「売名行為」と一緒(炊き出しとか寄付とか)

9月14日(金)
・話を聞くとか、人の心に関わるとか、実はやりたくないことなんじゃないかと思った。
「やりたい」とか「やるべきこと」と勘違いしてる?

9月16日(日)
・「自分と向き合うと痛みが生じる」というのは、幻想かと思った。
・「それって本当?」ということを繰り返し自分に聞き続けると、その部分が薄れる。
固定観念が打ち破られる。

9月22日(土)
・自分の持ってるものを純粋に使ってもいいかもと思えた。
自分を誇示するためではなく、必要としてくれる人がいるならそれを使ってもいいと。
(なんか上から目線なのが若干引っかかるけど😅)

9月23日(日)
・「迷っている自分」ここが今の自分の地点

9月24日(月)
・突然嵐が過ぎ去って、今の状況を楽しめばいいと思った。
・やる必要のあることはいずれやる必要が出てくる。
そうではないものは今しかできないから、それは楽しんだりしながらできることをしたらいいんだと思った。



10月5日

感情の居場所を作る。


自分の感覚に流されてみる。



10月23日

私は悪いことしてるわけではないんだから、堂々とこの晴れた日に布団の上でゴロゴロ横になりながらブログを書くことを楽しんでいいんだと初めて思えた。



11月14日

11/14(水)0:17
自分が自分でいられなくなるから苦しくなる。
枠に当てはめて生きていこうとしていた自分。
もう枠のない世界に飛び立てるんだよ、というところまで来ている。
怖いね。
怖くて当たり前だね。
大丈夫だよ。


0:50
言葉の暴力。
あれは言われた側にしかわからなくて、言った側はまさか自分の言葉が暴力になってるなんて思ってもいないだろうなぁ。



12月8日

今日の痛みだけ引き受ける




〜今も消さずに残している、初期のメモたちより


2014.12.21

僕らとこの店とこの時間で作った
過ごした時間の分だけ身に染みる


(補足)
1979年生まれのライブ演奏をするジャズカフェ(二軒目)にて



2014.12.29

大事なこと

吐き出す場所があること

吐き出しても大丈夫という感覚を感じられること

吐き出す勇気を持つこと



2014.11.20

大人になるにつれ、1+1は2というような、わかりやすい答え、決まり切った答えではない答えを出す場面が圧倒的に増えてくる。
→図書館で勉強していた多数の子どもたちを見て感じたこと


このメモの最後に

💧横隔膜の頼まれごと

とあった。

横隔膜の頼まれごとって何を頼まれたんだろう?

2018年12月17日月曜日

真夜中のひとり言#夜中の3時

真夜中のひとり言。

年末までに気になるものを1つ1つ片付けることにした。

あえて触れないようにしてたけれども、やっぱり気になると思って、その1つに数時間前着手した。

「片付ける」という言葉を使ったけれども、片付けるものじゃない。

自分の中で来年もズルズルはちょっと…と思って、それなら少し駒を進めてみようか…となった。

ヒーラーのOさんに連絡した。

今さら感満載の話を掘り起こして質問した。

した質問は、8月の時にどうして1人の男性について突然私にあれこれとその人についての話をしたのか、その意図や意味があれば覚えていたら教えて欲しい、だった。

1ヶ月前、久しぶりに会えたMちゃんから「ぶっしー、どうしてそんな話を突然されたのかOさんに聞かなかったの?」と聞かれた。

会ったことも話したこともない人物の話をOさんが突然するってどう考えてもおかしいじゃん!普段色々疑問に思うぶっしーがどうしてそれを疑問に思わなかったの?と。

当時はあまりにびっくりし過ぎて何かを聞くなんて発想さえなかったけれども、その後Mちゃんに指摘されて確かに変だと思って質問は出てきたけれども、色々聞くのが怖すぎてそれで私はもうそれっきりにしてた。

ところが今頃になって、やっぱり気になってきた。

私はOさんとの全5回に渡るヒーリング勉強会&おしゃべりタイムを体験してわかったけれども、とにかくOさんとの話の時に無駄は一切ない。

一見どうでも良さそうな話さえ意味があった。

だから、本当に余計な話というのがない。

その中で、Oさんが突然「言ってもいいですか?」と前置きして話してきた人のことは、はっきり言って、一番関係がなくて、「で、何でその話必要だった?」となる。

Mちゃんの指摘もごもっともだった。

それを今回私は勇気を奮い起こしてOさんに聞いた。

わりとすぐに返信が来るのに、今回は数時間タイムラグがあった。

もちろんその理由は知らないけれども、返事を見てOさんも相当言葉を選んで返してきたことはものすごくよくわかった。

結論から言うと、Oさんから伝えられたことは1点のみ。

Oさんが言った理由も、読み返すと意味がわからないけれども(突っ込むのは簡単だけど、それに答えるのに半端ない労力を使わせるのはわかったから、あえてそのよくわからない理由は突っ込まなかった)、Oさんはこれ以上の話は電話やLINEでは言えないと言われた。

もし知りたいなら、直接会ってでしか伝えられないのと、もし伝えるとするならそれを伝えるために他の色々な話もしないといけない、その時は全て話しますと返ってきた。

((((;゚Д゚)))))))((((;゚Д゚)))))))((((;゚Д゚)))))))

もう十分すぎる説明だった。

私が思っていたよりも事態は多分複雑で、遠隔でヒーリングすることも私の状態のバランスもLINEでメッセージしてるだけなのに普通に視れる人が、会ってでないと話せないなんて言うのは、それだけで「異常」だとわかった。

何でなのかはわからないけれども、会わないと伝えられない上に、それを説明するために他の色々な話もしないといけない…、どう考えても一筋縄ではいかない、ということだけはよくわかった。

Oさんが新潟に来ることは近未来的には見込めない。

となると、私が東京に行く方がどうでも先になる可能性が99.9%。

次早くても行くのは、春以降に単発で開催されるホロスコープ講座。

ずいぶんと先になる。

もしかしたら、もっと先になる可能性も高い。
(占星術の先生の気持ちが入り次第の単発講座だから、次回開催がいつかは全く読めない)

しかも、その時に私の気持ちがまだそこにあって、さらには知りたい欲求もあるとは限らない。

Oさんの返信を幾度となく読み返した。

読んでいくうちに、「この主語って何?」「この言葉の意味は?」といくつか腑に落ちないところが出てきたけれども、もうそれにOさんを付き合わせるのがあまりに申し訳なく、とりあえずモヤモヤしたけれどもまぁ今知ることじゃないとあきらめた。

ちなみにOさんはキレッキレの超頭の回転の速い、そして理路整然と話す人だから、そのOさんの言葉を見て「主語は?」なんてなること自体が稀有。

それは、違う見方をすると、それぐらい言葉を選ばなければいけない内容に私は抵触したんだと思う。

だから、突っ込めなかった。

っていうか、Oさんが直接会ってでしか話せないなんて言うのは初めてだった。

厳密に言えば2回目だけれど、1回目の時はヒーリング系の言葉の定義か何かを説明する時に、文字化するよりもこれは直接色んな角度から話したいのと、そして内容をまとめられないのとで、それで会った時にとなった。

でもそれは別に裏事情はなかったし、文章より口頭での説明の方が相応しいという理由だった。

今回はそういう理由じゃない。

明らかに相応しい相応しくないとかではなく、対面でしか説明できないもの、というOさんの中の確固たる信念がある。

Oさんがそこまで徹底してくる時なんて過去に一度もなかったから、もう単純に「ウルトラスーパーハイクラス超絶デラックス案件」な話だとわかる。

こうして言葉で説明すると怖いものがある。

っていうか、そんな話私聞きたいの?と思う。

私も本当にひねくれているけれど、私の中でこれにOさんを介して間接的に向き合わなくて済むだろう最高の秘策がある。

🙄🤫🤭🤐😷🙄🤫🤭🤐😷🙄🤫🤭🤐😷

ズバリ、本人が私に連絡してくること。

そうしたら、Oさんをわずらわせることもなく、私は自分が欲しがった質問の答えを手にすると思う。

Oさんから伝えられるものは、多分本来本人が口を開いてくれれば、Oさんはもう説明の要らないこともしくは補足説明程度で済むことではないかと思っている。

それがそうではないから、Oさんが断じて見えないLINEや電話では言えないと言ったのではないかと、これは勝手に思っている。

もちろん真相は知らない。

私の中には相反する2つの気持ちがある。

再会したい、できるなら近くにいたい、一緒に生きていたい、という気持ち。

でもそれとは別に、もう1つ別の気持ちがある。

先に言う前に、本当にどのぐらい勘違いしてんの?という話を先に言わないといけないから、その勘違いな「もし…」から始めたいと思う。

もし…は一言で終わる。

もしその人と私が相思相愛だとするなら。

色々そこに至るまでの補足説明を山ほどしたいけれど、そんなことすると話が進まないから、とりあえずもう1つの気持ちにだけ焦点を置く。

単純に「巻き込めない」と思う。

巻き込む勇気がない。

巻き込みたくもない。

巻き込めない。

何も色々難ありみたいな私をあえて選ばなくても、本当に人間性も外見もその他の条件なんて言うと言葉が悪いけれど、そういう諸々のものが良い女の人たちは他にたくさんいる。

逆に私みたいな色々事故物件的な人を探す方が難しいぐらい。

その人がどんな価値観を持っているのかもわからないし、決めつけて話もできない。

ただ、私が見える視点から言えば、私の色々読めない人生に巻き込めない。

私はどう考えてもかなりマイナーな生き方になっていくと思う。

それも、自分が望む望まないは別にして。

私以上にヘンテコ人生を行ってる人なら全然気にならなかったと思う。

でもその人はそうじゃない。

理解して欲しいとか、協力して欲しいなんて微塵も思わない。

それはその人が頼りがいがないんじゃなくて、反対にその人はきちんと責任感ある人だから、こんなわけのわからない私の流れに巻き込みたくない。

しかも自分でさえも理解できない、受け入れ難いなんて色々思っているものに対して、第三者に理解を求めるのはおかしい。

自分で手一杯なところがあるから、それをその人に何かを求めるなんてのは、それは間違いだと思う。

2018/12/17 真夜中の3時頃



私がこれを書く理由。

春以降の私がどんなことをしていて、どんな気持ちを持っていて、その人についてもどんな風に思うのかは未知数すぎる。

例えば、私は知りたいままで、春以降のどこかのタイミングで占星術の追加講座が開催されることになって、東京行って、そしてヒーラーのOさんに再会できたとする。

その時はOさんは間違いなく、きちんと必要な話を必要な形で確実に伝えてくれると思う。

わかりやすい言葉で、色んな背景も含めて話をしてくれる、それはいくらでも思い浮かべることができる。

でも、私はOさんから聞きたいわけじゃない。

すっごい不器用で、すっごい言葉足らずで、隣りで誰か通訳してくれませんか?みたいな表現でも、私はその人自身から話を聞きたい。

Oさんなら細かいニュアンスも余すことなく正しく視た通り感じた通りの話をしてくれる。

わかりやすさはOさんに軍配が上がると思う。

でも、私はそれを本人の口から本人の言葉で聞きたい。

私はわかりやすさとか理論的な説明が欲しいんじゃない。

その人の言葉でその人が表現するものを聞きたい。

本気で「すっごい迷惑だった」と言われてもいい。

このブログごと批判されたっていい。

言葉が相変わらず少なすぎて「えっ?」ってなってもいい。

それでも本人に口を開いて欲しい。

もう拒否も拒絶も体験したから、今さらその体験がさらに加算されても私はそれでも生きていくぐらいの力は持っている。

さすがに嫌だけど、その覚悟だけはある。

だから、聞きたい。

私はよほど自分のあれやこれやの方がおかしいと思っているから、「これってどうなの?」っていうことに対して批判的になることはないかなと思う。

例えば「なんですぐに連絡してくれなかった?」とかそういうことは言わないし思わない。

もうそうした過去に関して、疑問に思ってもそれが責め立てる材料とか否定するための材料にはならない。

私はただただ知りたいと思っている。

その人が何を感じて何を思っているのか、本人の言葉で本人から直接聞きたい。

2018/12/17 お昼の2時前

2018年12月16日日曜日

先生の想い〜占星術講座総集編〜

初級講座が終了しました〜受講生のリーディングの紹介


>2018年12月16日

興味のある方がいたら、ぜひ見てください。

私の努力の結晶(?)が出ています!

『初級講座』リンク飛ばせるように今回はきちんとリンク貼りをしました!

5月から11月までの合計7回通った占星術初級講座のことを先生が最後にまとめて記事にして下さったものが上のリンク先のページです。



そこには、しれっと真面目なフリをした私が登場!

真面目な私(←えっ?)はいいとして裏話を少し。

最後の課題はASKAと中森明菜の出生図を各自で読み解いて、その読み解いたものを文章にまとめて発表することだった。

ギリギリまでやらず、当日の朝、3時間ぐらいで終わらせた課題( ̄∀ ̄)。

最後は、「字数制限がある」ということだけをしっかり覚えていた私は、「細かく読み解いても字数に収まらない=要点だけを拾って言葉にしよう」と即(楽な方へ)切り替えて、それを有言実行!

4週間という時間があったにも関わらず、どうしていつもギリギリにならないとできないのか、それは何歳になっても永遠の課題のごとく私の中にある(←自ら生み出している)。

さらに言い訳というか本当にあった裏側を書くと。

ASKAから手をつけた私はASKAに関してはまだ多少の下調べはしてあったものの、中森明菜は超最小限の情報しか拾ってなくて、下調べはほぼほぼゼロ。

細かな情報どころか要点さえ拾えてない…という中で、私は必要そうなところ、目立つところだけを拾って継ぎ合わせた。

中森明菜さん、大変申し訳ありません、舌足らずどころか完全にリサーチ不足です、自らの失態により時間不足です、でももうこれで出します!というような本当に酷い有り様だった。

私の中ではASKAの方が多少時間がかけられたからまだ内容的に「よしっ!」となってた。

ASKAから手をつけて、だいぶ力尽きてた私は、明菜への読み解きへのエネルギーはかなり枯渇していた。

朝からモーニングの店を探すのに30分歩ける元気はあるくせして、課題をする元気はない←本末転倒。

もう最後は完全に勢いで、何の勢いかはわからないけれど、とにかく勢いでやった。

関係ないけれど、私は毎回課題という課題を手書きで出していた。

当たり前だけど、手書き推進派でも、「きれい」とやたらとお褒めに預かる自分の手書きの文字を見せたいのでも、タイピングができないのでもない。

単純にギリギリで間に合わないから、打って印刷する時間がないだけ(苦笑)。

手書きならその場で紙さえ出せば付け足しでも訂正でもパパッとすぐにできるけれど、パソコンだとそうはいかない。

手直しするにはパソコン持参する?なんてことになってしまうから、だから手書きだっただけ。

字数を今回どうやって数えたのかクラスメートの人から質問を受け、もちろん私は超アナログな手でひたすら一文字一文字文字数を数えた(爆)。

字数はオーバーしたけれど、そんなのはちょっと早口に読めば問題ない!とこれも開き直り、それでようやく完成したものだった。

関係ないけれど、多少の字数オーバーはいける!と予測できたのは、これもまたいつかの超ギリギリに完成させた15分とかのプレゼンの準備をしたことがあったから!

当時もやる気なし子だったけれど、まさか当時のグダグダ準備&練習がこんなところで役立つとは!(←役立ち方としてはかなり可笑しい)

そんな風にして、超特急で仕上げた明菜のホロスコープの読み解き。

クオリティの低さは目をつぶることにした。

そうしたら、まさかの明菜の課題の方が採用されるとは(爆)。

得意の超ポジティブシンキングで、あれが採用された=もっと本気でやればまだまだ伸びしろがある!、ということにした。

少なくとも、先生の方で掲載しても問題なしと判断できた!、とこれまた超絶ポジティブに捉えた。

それなら、もっと丁寧に読み解けば伸びしろはもっともっと広がる!

(掲載の件は、希望者を先生が募って、それでOKの人の分のみが掲載されてる。但し、ASKAの分なのか明菜の分なのかは、先生の方で選択されてた)

私が本名出してまで自分の分を掲載OKにしたのは、もちろん裏側では色んな計算が働いてのこと。

今後、他人様のホロスコープを読んでいくとなった場合、「こんなにきちんとした先生から私は学びました!」という形跡を残すため。

虎の威を借る狐状態( ̄^ ̄)ゞ。

ついでに。

リンク先のブログも1年ぶりに更新!(←えっ?)
(※先生のブログに、私のブログのリンク先が貼られています)

このブログはリンク先にしなかった。

なぜなら、あまりにもぶっちゃけ過ぎていて、バレるのは構わないけれど、それこそ品位を落とすことになりかねない(←いい顔したがり)。

間違いなくこのブログが一番素の自分に近いけれど、あまりにアホすぎるのと、毒吐き過ぎなのと、他にも個人的なこと書き過ぎなのと、おおっぴらにしたくない要素が満載過ぎる。

それはそうと、もし興味のある方がいたら先生の他の記事にも目を通されると、その内容が今の自分にとって必要な情報だったり、自分の問題の解決の糸口になったり、あと独学でホロスコープを学んでいる方にはすごく詳しい読み解き方のヒントになるかと思うので、おススメです!

本当に知識豊富で博識で内容に対して妥協がなく徹底して内容を検証される方だとわかってもらえると思う。

ちなみにこの桐吉謳子先生(うたこ先生だから、U先生だった)が最初に私とやりとりした時に言ってくれた「武士俣さんのアセンダントに私の太陽を載せているということもあり、深いご縁を感じます」という部分、この意味がこの講座を通じてよくわかった。

個人の天体同士や、天体と地平線軸又は子午線軸が重なるというのは、単純に360分の1度の確率なわけで、そこが2人の間で一致するというのはそうそうないこと。
(正しい確率を求めたらそんな確率ではない、もっとありえない確率だと思う←数学苦手だから追求の計算方法がわからない)

だからそうしたものが重なるというのは、本当にご縁のある人同士と解釈できる。

しかも、全くの他人で、数ヶ月前まではお互いに存在していることさえ知らなかった者同士がこうして繋がるわけだから、それは本当にご縁があったということ。

ホロスコープ講座のことはもう1つまだアップしていない分があるから、それもおいおいアップしようかと思っている(できたら年内)。

この下は、先生の人柄が伺えるエピソードを紹介。

正しくは、途中まで書いていて放置してたもの。



>2018年11月3日
 『先生の想い』

5月から始まった全6回のホロスコープ(占星術)講座が一応今回終わった(10月31日)。

一応というのは、11月の終わりに総演習のような会が予定されていて、それは出るかどうか迷っているけれど、とりあえず講座自体は終わった。

私は、この講座が初めてのホロスコープ講座で、他は出たことがないから比べようもないけれど、先生いわく、「邪道で異端」な講座だったとのこと。

先生の言葉を聞いて、この半年近い時間を猛省したことが1つ。

先生いわく、ホロスコープの講座というのは、基本的に宿題なんか出ないし、テキストもないものもたくさんあるし、質問は一切受け付けしません、なんてのも相当数あるとのこと。

先生は自分自身は1から全部独学で学んで、色んな講座にも出まくったらしいけれど、最初の3年ほどはずっと「自分の解釈で合っているんだろうか?」と悩みに悩んだとのこと。

だから、先生は自分が受けたかった形の講座を自分で作ったと仰っていた。

テキストはもちろんのこと、宿題もフィードバックするために出して、だから強制ではないけれど、出さないのはもったいないです、と仰っていた。

それを聞いて、もっと真剣にやれば良かった!と反省しまくった。

たしかに何とかギリギリ終わらせて出していたけれども、100%やり切った感じではなく、とりあえず完成させたみたいな風に出してしまったことが悔やまれた。
(くせに、最後の演習の時もギリギリにやるという、見上げた根性…)

先生の言うことは本当によくわかった。

私も正直、占星術の何がわからないって、あの解釈の仕方がわからない。

例えば私なら「獅子座の月」になるけれど、この月星座の獅子座が全くもってわからなかった。

私の場合、太陽星座の魚座の方はしっくりくるけれど、月星座は全くもってイメージが湧かない。

獅子座は基本的に目立ちたがりだし、自分を出すことに並々ならぬ欲を持っている。

でも私は目立つことも嫌いだし、自分を出す場所や人は相当選ぶ。

私は自分が安心できないと、自分をさらけ出すなんてしない。

少しでも危ないにおいがすると、即座に離れる。

でも、獅子座という性質を何らかの形では持っている。

ちなみにその1つとして、こうして自分のことをあれこれ書くのは獅子座的な要素に入るらしい。

メールなんかもそうだけど、私はやたらとストーリーを書いたりする。

仕事のメールは別だけど、個人的に何かやり取りする時は、何かしらのストーリーを添えるようにしている(端的なやり取りを好む人にはもちろんそんなことはしない)。

用事ではなく、何かを伝えるような時はそこに至るまでのストーリーを書いたり、何か特別な思いがあればそれも伝える。

ブログの読者だったりすると、感想も添える。

今回みたいに相手の方のサービスを受ける申込で、ちょっと踏み込んだ内容のものなら、どうしてそれを申し込もうと思ったのかを書く。

そういうところが獅子座の性質だと先生に教えてもらわなければ、私にはわからないままだった。

だから、単に「目立ちたがり」とか「自己表現をする」と言われてもピンとこないけれど、そうやって日常のエピソードやちょっとした個人の行動とそうしたホロスコープ上の特性を結びつけてもらえるのはとても大きい。

そんなこんなを先生はちょっとした会話の中でもよく教えてくれた。

先生が宿題を出す意図も、最後の方にわかって、本当に驚いたしそして自分がとても恵まれていたことに初めて気付いた。

いつも到着してすぐのほんの数十秒という限られた中で、先生は宿題を添削しての私の癖や気をつけた方が良いことを手短かに伝えてくれてた。
(先生はこの行為を基本的に全員時間の許す限り、講座前の時間にしていた!)

最初はビックリしたけれど、これが時間が限られた中で先生ができる最大限のことだと知ったのは今回が初めてだった。

提出した紙にももちろん細かく先生のコメントが赤ペン先生みたいにたくさん入っているけれど、それとは別に顔を見て直接一言何かを言ってもらえる。

それは本当にありがたいことだった。

私は自分にとって痛いところばかりを毎回突かれるから「ぎゃーーー( ´Д`)~~=3=3」と心では叫びそうになっていたけれども、先生がそういうつもりではなく本当に読めるようになって欲しくて言っているとわかってからはすごく納得した。

おかげで、私は自分の読むクセに関しては相当気をつけるようになった。

(ここからは12月16日追記分)
謳子先生のすごいところは、講座講座の合間にもいつでも質問を受け付けて下さって、なんなら最後の11月の演習の会の後も3週間ほど質問を受け付けますとして下さっている(今も質問受付期間中)。

どこまでも至れり尽くせりで、そしてどんな質問でもあのブログに書かれているようなスタイルで、理論的に順番にわかりやすく回答してくれて、さらにはクラス全員にシェアをしてくれていた。

とにかくみんなが「自分の言葉でホロスコープを読めるように」を目標にしていたから、細かなことにも本当にきちんと対応して答えてもらっていた。

先生も「金太郎飴みたいなどこを切っても同じ画一的な読み解き方ではなく、それぞれの基礎基本をしっかりと抑えて、それらの情報を自分なりの言葉で繋げていく、そういう読み方を教えたいし、それをできるようになって欲しい」と言われていた。

基礎基本を徹底しながらも、それをどう組み合わせてどう読み解くか、そしてその読み解きをどう文章にするかは完全に個人のセンスに任されていた。

だからみんなそれぞれ同じ人のホロスコープを読んでも、全く別の解釈になる。
(ちなみにクラスメートの方たちはもっときちんと下調べをしてから読み解いていて、実際の発表の時にはもっとたくさんの情報が伝えられていた。)

その成果が、先生のブログによく表れている。

ホロスコープの講座に関しての記事は、これにて一旦終了。



>私には大事だった超裏のストーリー

実は最初先生がアップされた時、私は新潟で「占い師」を目指すことになっていた(笑)。

他の人たちのホロスコープを読み解くことは今後必要に応じてするにしても、「占い」はしない。

しないと言うより「できない」。

私がするのはあくまでも「自分を知るツール」としてのホロスコープだから、相性鑑定や未来予測、開運ポイントだのは一切見ることができない。

だから「占い」寄りのホロスコープはどう考えても使えない(そもそもやり方を知らない)。

で、そのままにしようかと思ったけれども、うっかり誰かがそれを見て誤った職業名に出来もしない専門性が私にあると勘違いしても互いに何の利益もない、と判断して、それで先生に訂正をお願いした。

このまま新潟に住み続けるんだろうか?ということに関してもかなり私の中では疑問が残るけれども、それはどんなこともあるからまぁ今は新潟だからいいか…となった。

私、一緒にいたい人と共に生きられるなら、全国どこでも、なんなら海の向こう側でも行く覚悟はあるから、そういう時はどこにでも飛んでいきたい(o´艸`)。

(o´艸`)←やっと使える顔文字!!!

ちなみに両手を口に当てて「ふふふ」みたいな可愛い仕草を生まれてこの方一度もしたことがない。

絵文字まで盛っている( ̄O ̄;)。

こういうふざけてはないけれど、「はっ?」ってなるようなことを人目にさらしたくないから、だからこのブログをリンク先にはしなかった。



余談が過ぎたけれども、桐吉謳子先生、本当にオススメなので、講座でなくても個人鑑定に興味がある方は先生のブログの自己紹介欄(下部にある)を参照して下さい!

超絶調べまくってから鑑定される先生だから、理論大事!という男性にも特にオススメです。

実際に、鑑定には男性もかなりおみえになられてる様子(対面電話問わず)。

先生の話を聞く限りだと、ホロスコープは一切知りません!みたいな人も多いのかな?という感じがしたから、何の知識がなくても先生がわかりやすくその人の出生図に刻まれたことを説明してくれると思う。

私も来年のどこかのタイミングで受けようと検討中。
(2020年は色々天体が激しい感じなのはわかったから、それに向けて対策を練ろうと思う)

もし自分が商品なら…

「自分を商品として考えてみる」

「商品」はそのままだけど、他の部分は多少言葉を変えている。

そのワンフレーズを見た時、私はゾッとした。

この人、何言ってくれてんの?と思いつつ、もし自分が商品ならどうなるのか…を考えてみた。

商品揃え豊富な大型のスーパーとか、デパ地下で一定のクオリティーが保たれている店舗では、私は間違いなく規格外になる。

スーパーなんかだと、割引ワゴンの中に置かれるものがある。

最初、野菜の見切り品が思い浮かんだけれど、あれは違うと気付いた。

野菜たちは一度は鮮度抜群で店頭に並んでいた。

だけど、売れずに残って見切り品コーナーへ行っただけ。

一度はトップの座なり規格内の席を手にして、その後単に日にちが経ち過ぎたという理由で2軍へ。

そちらではなく、日用品や乾物とか調味料関係の見切り品コーナー。

日用品なんかは基本的に賞味期限はない。

だけど、それらの価値がお客さんから見出してもらえず、店の責任者たる人たちにより、勝手に見切り品へと変わる。

何が言いたいかと言うと、私は大多数の中に紛れると、間違いなくそういうことになってしまう。

一般大衆受けする感じではないのは、よくわかっている。

でも、代わりにこういうところでなら…というのがスーパーやデパ地下をすっ飛ばしてすぐに思い浮かんだ場所がある。

小さな個人経営のお店で、この店に人は入っているんだろうか?と大抵の人が思ってしまうような店。

でも、一歩中に入ると、中は店主さんが好きなものだけを集めていて、どれもこれも個性的でそれぞれの良さがある。

100人いたら100人が好きなものどころか目を向けないものでも、その中の1人だけはピンと来て手に取ってくれる、そういうもの。

自分を商品に喩えるなら、私は自分をそんな風に見ている。

ちなみに、その文章を書いた女性は、自分のことをデパ地下にしかないような高級菓子の名前いくつかを出して、それと一緒と言った。

もちろん、ドン引きした((((;゚Д゚)))))))。

私はその商品たちの価値を知らない。

だけど、そうした商品たちが、本当に本物を名乗れるものか、実はブランドだけで中身は大したことないのかはわからない。

これは私が否定的に捉えてるとかではなくて、現実的にあった話。

某デパ地下でいつも大行列を成す某製菓店があった。

自分のために買おうとは思わなかったけれど、そんなに有名店のものなら…と思って、私は人の家に遊びに行く時にその菓子を買って持って行った。

その家の人たちには「某デパ地下でいつも混んでる店のもの」と言って渡した。

そうしたらビックリ仰天。

なんと、その店の大元は、製菓店関係者じゃなくても日本全国老若男女が知っている大手メーカーが出しているお店だと初めて知った。

その人たちはその道の人たちゆえ、業界の細かいことをよく知っている。

大手資本に支えられた高級路線のお店ではあるけれど、所詮スーパーに並ぶ〇〇と一緒だよと教えられ、度肝を抜かれた。

おみやげは喜んでくれたけれど、みんなで大笑いしたのは言うまでもない。

そう、デパ地下にはそうしたものも紛れ込んでいる。

いくら高級そうに見えても、実は大したことなかったり、法的にギリギリなことをしてたりと、当事者たちから話を聞くと、あのきらびやかなイメージもずいぶんと変わるものがある。

全部がそうだとは言わないけれども、本当の背景は現場を見ないとわからないこともたくさんあるんだなと思った。

で、冒頭の文章を書いた女性。

私にはどうすごいスイーツなのか全然知らないから価値のほども知らないけれど、少なくとも私が文面から感じたのは「ブランド力」とそのブランドが謳っている「個性」であって、もしそれが私のとんだおみやげ同様、実は一般大衆向けのメーカーのものと知ったらその人は間違いなくその例に挙げたものたちを選ばないだろうと思った。



書いていて、もう1つ思い出した。

名古屋にいた時にこよなく愛してやまないお店があった。

そこは本当に辺ぴな場所に店を構えていて、知る人ぞ知るみたいなお店だった。

私も検索して知ったのか、散歩して知ったのかは忘れたけれど、とにかくある時そのお店と出会った。

雑貨屋兼コーヒーショップで、超本格的なコーヒーなのになぜか1杯200円という破格の値段で出してるお店だった。

注文を受けてから1杯1杯丁寧に淹れていく。

豆も道具も一流品なのは、その店に置かれているものを見ていたらわかる。

その時に添えられたクッキーがあまりにも美味しくて、それで帰る頃、お店の方にクッキーがどこのものなのかを聞いた。

店頭に売られてると聞いて、私はそれを買って帰った。

私はスイーツ好きじゃないし、基本的に甘いものを買って帰ることをしない。

だけど、そのクッキーはあまりにも美味しくて買った。

クッキーのパッケージを見てさらに驚いた。

他県の障害者施設で作られたものだった。

こんな言い方をしたら差別的な発言みたくなるけれど(←そういう気はない)、私はまさかそのお店の人に聞いてまで買ったクッキーが障害者施設で作られたものだとはゆめゆめ思わなかった。

今のところ人生の中で、それ以上に感動したおいしさのクッキーには当たっていない。

障害にも色んな種類、色んなレベルがある。

これは人から聞いた話だけれど、そのクッキーに出会う前に聞いて納得したことがある。

某大手企業で障害者枠があって、そこでは農園経営的なことをしていると聞いた。

障害者枠で採用されるのが、そこは身体ではなく知的障害、それも自閉症の生徒を積極的に採用するとのこと。

何をするのかと言えば、徹底した温度や湿度管理が必要な農作物らしく、その温度と湿度の管理をひたすらするらしい。

教えてくれた人(←障害児教育の専門)いわく、一般人は逆にやらかすし間違う人が多発するらしい。

ところが自閉傾向があってそもそものこだわりが強い特性を持っている人がすると、そのズレにいち早く反応して、それを直ちに修正する、しかもそれを飽きるどころかずっと集中してやれるとのこと。

その話とおいしいクッキーのこととが重なった。

福祉の現場実習で、知的障害の人たち対象の作業所に行ったことがあった。

その様子も少し知っているから、あのすごくおいしいクッキーを作ることがどれだけの労力なのか想像を絶する。

どうやってあそこまでのクオリティーに仕上げているのかは知らないけれども、少なくともすごい力を注いでやっているのは間違いない。

そしてこれは私の持論だけれど、世間一般ではマイナスのイメージがついてしまうところほど、材料とか作り方を徹底していると思う。

これは東北の復興に多少は関わっている友達からお褒めの言葉をいただいたから、本当だと思う。

ある時私は言った。

今、日本全国で一番安全性の高い農作物や肉、魚は「福島県産」と出ているものだと思う、と。

震災で原子力関連の二次災害まで出て、風評被害が半端ない。

そんな地域から何かが流通されるというのは、それだけで厳しい審査基準を超えて出てきているのはわかる。

復興に関わっている友達から「本当にそうなんだよ!でも、それをわかる人は少ない!」って言われた。

だから、その障害者施設で作られたものも、世間一般的にはそう名乗るだけでマイナスになりそうなところ、そんなの微塵も感じさせないどころか「どこで作られたものなんだろう?」と興味を持って確認したくなるぐらいのものすごく高いクオリティーになっている。

世間一般でハンデが最初から付いているものこそ、市場に出てくる時、とてもクオリティーの高いものになると感じる。

(※文中の言葉には気をつけたつもりですが、不快にさせることがあればすみません。)



ちなみに、冒頭の「自分を商品として考えてみる」を提唱していた方、私には驚きの発想だった。

その後は、そこから自分の魅力を紐解いていくという話に繋がっていくけれども、私はそもそもの言葉の使い方に違和感があった。

「商品」として自分でも他の誰かでも見ること自体、私はダメなんだと、受け付けられないんだとわかった。

もちろんそういう意味ではないにしても、言葉の使い方には少なくとも本人の思考や価値観が表れる。

一言で言えば「下品」だと感じた。

これがまだ本人の何かしらの能力を仕事としてやっている人向けならわかる。

でも、その女の人が発信している先は一般人で、私にはその言葉が一歩間違えたら凶器にさえなる鋭さを持っているものだと感じた。

受け取り手側の解釈の仕方次第だとしても、パッと見た時に決して良い印象は抱けない空気が出ていた。

私の方がよほどクレーマー的な感じかもしれない。

だけど、その言葉に温かさも励ましも感じられず、むしろハイクオリティは良くてそれ以外はどうなの?とどこか人を見下してる感も私にはちらほら見えた。

そんな価値観で生きていかなきゃいけないとは、本人もしんどいだろうにと思う。

文章も写真も洗練されていればいるほど、息が詰まりそうな空気を生み出してるように感じたのは私だけなのかな…と思った。

さっきの雑貨店の人たちが本当に素敵なのは、自分が良いと感じるものに対して堂々とされているのと、そしてその自分が良いと感じるその感覚を信頼しているところ。

その自分たちの感覚に妥協はないし、そして自分たちが納得したものしか店頭に並べない。

その徹底ぶりは、私みたいに物の価値がよくわからない客が見ても清々しいものがあるし、そこに流れている凛とした空気は緊張ではなくぬくもりを届けてくれる。

自分のすっとこどっこいぶりを棚に上げてすごいことを言うけれども、私はそういうお店で一部のコアなファンから愛される、そんな自分になりたい!と本気で思う。

婚活ブログでいいこと言うな〜と惚れそうになった名言がある。

モテることを目指さなくていい。
たった1人の人から真剣に愛されたらいい。

というようなもの。

いや、その1人も見つからない…(T ^ T)というのが現状でも、その考え方いいなぁと思った。

ちなみに、冒頭の自分が商品なら…は何もパートナーだけではなく友達関係にも言える。

幸いにして友達にはものすごく恵まれたけれども、色々ズレてるだろう私は友達とて自ら選べる立場にない。

自分がこの人と仲良くなりたい!と思ったからと言って仲良くなれるとは限らない。

それは恋愛も友達も一緒だと思う。

私と仲良くしてくれる人たちは、本当に人間性が素晴らしい人たちだといつもいつも感じる。

こんな色々すっとこどっこいの私と仲良くしてくれる人たちは本当に心の懐が広い人たちで、私がどんな風でも仲良くしてくれるのはとーってもありがたい。

だから、人だけは本気で大切にしよう、いつもそれだけは思っている。