2019年4月30日火曜日

平成最後のブログ





平成31年4月30日〜平成最後の日〜


『平成最後のブログ』として書こうと思った。

ここ数日毎日天皇陛下と皇后の特集をやたらとテレビで見るなぁとボーッと思っていたら、今日が平成最後の1日だと気付いた。

あんなに連日平成最後の〇〇とか、令和に向けてとか、耳や目にしているのに、自分の生活に直接関係ないと思って見過ごしてた。

私はそれよりもここ最近の星模様のところでもろに自分に影響出るものたちが色々あって、そこにばかり気を取られていたら、肝心な元号のことを忘れてた。

平成最後の日は勤労に励むために、朝早くから家を出た。

ゴールデンウィーク3日間、ちょっとした社会科見学のような仕事をしているから、それはまた今度書こうと思ってる。

1時間弱の運転をしながら、突然数年前のある光景が思い出された。

数年前のある光景というのは、こうだった。

その頃私はまだSNSの1つ、mixiで日記を書いていた。

facebookや他のSNSがますます盛り上がり出したぐらいで、mixiも【つぶやき】はじめ色んな機能が増えて定着しだした頃だったと思う。

mixiもログインすると、まずはホーム画面に行き着き、そのホーム画面のトップに【つぶやき】が表示される風だったと思う。

そのつぶやきに「死にたい」みたいな投稿をしていた子がいた。

画面の向こうで私はしばらく思案した。

これ見て見ぬフリが正解なのか、とりあえず何でもいいから連絡取るのがいいのか、わからなかった。

「死にたい」とつぶやいた子は実際に知っている子で、私より10ぐらい下の子だったと思う。

色々考えた結果、とりあえず連絡することにした。

見て見ぬフリをした場合と連絡取った場合と、面倒くさいのは連絡取る方ではあったけれど、あとあと気持ち悪さや自分の中のモヤモヤ具合みたいなのの影響の大きさは見て見ぬフリの方が大きかったから、だから連絡を取る方を選んだ。

どっちもどっちだけど、圧倒的に自分がより嫌な方にならない方をこういう時は選ぶしかないといつも思う。

その後私は本人を呼び立てて、ちょうどお互いの真ん中ぐらいの中間の駅で待ち合わせて、その近くのマックに行った。

本人には2つの本を言って、どっちかプレゼントするから嫌でも出てきてと言った記憶がある。

そうやってあっという間にマックに到着して、あっという間にその時間を迎えた。

もちろん死ぬことはないし、「死にたい」と公に言えるぐらいの余力はあるから、死ぬとは思っていない。

だけど、ああいう時、「死にたい」と公に発信する側というのは、どれだけの勇気が要るのかと思う。

どんな話をしたのかも忘れたけれど、話聞いて時々2人で笑ったりしんみりしたりして、「死んだらダメだよ」とは言ったかもしれないけれど、余計なことは言わず、数時間マックで喋って解散した。

同じ色だけを集めた写真集を渡した。

字を見るよりもそっちの方が心が休まると言っていた。
7:40




仕事中は手だけ動かしていたらいいから、頭の中で「平成の中で手にしたもの」「今現在持っていて、明日令和元年以降に持ち越すもの」が何なのか考えていた。

真っ先に浮かんだのは、「両極端の体験」だった。

20代の終わりに気付いたことだった。

私はとにかくものすごく上とものすごく下の両方の側面を見る・体験する。

上の年下の子、その子のような「死にたい」発言の人にも出会えば、「生きるのが楽しい」人にも会う。

社会への貢献度合いが高い人もいれば、その反対(と本人が思っている)の人もいる。

自分の人生も、とても上手く行っているとか考えないぐらいになめらかに流れている時と今のように「さぁどうしよう」と迷いまくり足は重たいばかりの時もある。

とにかく両極端を体験する。

ちなみに上の子は、めちゃくちゃ才能を持っているとのこと。

私は現物を見てないから知らないけれど、共通の友達で天賦の才の持ち主がその子の凄いところを具体的に絶賛していたから、本当に間違いなく凄い力を持っている。

だから1人の人の中に、すごい可能性とすごい絶望の両方を持ち合わせている。

その子は出方が極端過ぎるかもしれないけれど、私も他の人たちもみんなそれぞれ外に表現される度合いが違うだけで、どの人も可能性も絶望も両方持っていると思っている。

そういう両極のものを自分も体験しているし、反対に環境や見える世界も両極のことが多い。

私にとってはそれが自分の血肉になったと思う。

綺麗事だけでは済まされないことや、どこをどう切り取ってもそこからプラスの要素を見つけるのは難し過ぎること、そういうのを積み重ねられたことはとても大きい。

私は良いことと同じくらい、もしくは体感的にはそれ以上の負のものにたくさん触れてきた感じがする。

そういうのは心の持ちようなどと言われるけれども、やっぱりそんなに簡単には割り切れなかったり、自分の心の落とし所が見つからなかったりする。

私は最近はもう、それでいいように思うようになってきた。

明るい世界は素敵だけれども、そうではない世界もあって当然だし、そこに対して素の感情が沸き起こるのもとても自然なことだと感じる。

少しだけ変わったのは、その自分の感じ方や受け止め方を、それも大丈夫だよと本当に少しでも受け止める力が自分にできたこと。

これはとても大きな変化だと感じる。

その感覚を令和にも持ち越せるのは嬉しい。
12:54




時間を逆算すると、あまり深い内容を書ける時間的余裕がないことに気付いた。

色々感じることも書きたいけれど、時間が限られている。

ザクザクっと平成最後の日を箇条書き。



*3日間だけのお仕事の2日目*

自分が何を見て仕事をしているのか、目の当たりにする。

今回のところは、挨拶だけ切り取ったら、人生で一番挨拶を徹底している組織。

挨拶が徹底しているところは、そうじゃないところを見るとわかる。←完全なる小姑かお局。

別に見ようと思ったんじゃない。

見えちゃったから仕方ない( ̄∀ ̄)。

仕事だから当然イレギュラーなことはある。

小さなイレギュラーだったけれど、挨拶マニュアルにはないイレギュラーゆえ、完全に個人のセンスがもろに出てくる。

残念過ぎる対応だった。

そして、その丁寧だけど残念な対応を見て、人間性がわかってしまう感じだった。

挨拶は上手くなくてもいい。

人が見ていないところ、そういう時こそ本領発揮すると私は思っている。

初代の万年挨拶しない上司と、最後の私に挨拶したくなさそうな上司と、その2人の姿が頭をよぎった。

2人とも挨拶はお世辞にも超一流とは言えない。(←私は何様なのかということはさておいて( ̄∀ ̄;))

でも、人が見ていないところではすごい色んなことをきっちりやっていて、それは黙っていても伝わる。

むしろ黙っているからこそ伝わる。

そういうところを私はいつも見ているんだなぁと思った。

人が見ていないところを別に良くしたって、誰にも見られていないことの方が多い。

でも、そこをやる人ってそれだけで私の中で好感度がアップする。

人が見てないからこそ、素のその人の姿が現れる。

そして、素の状態こそ、その人その人のセンスや人間性がキラリと光っていて、そういう部分が素敵な人は人からの信頼度も高い気がする。
21:14



*平成最後のごっこ遊び*

姪っ子メイ(3歳4ヶ月)と今回盛り上がっているごっこ遊びは「おみくじ屋さん」。

私が簡単なくじ引き(シュールな絵)を作って、それで私はひたすらくじ屋さん、メイはひたすら引く係(お客さん)。

「くじ引き」だと言ったけれど、メイはなぜか「おみくじ屋さん」と覚えて、毎回「おみくじ屋さんしよう!」って言う。

くじ引きじゃなくて「おみくじ」って言うところがなんだか良いことがありそうな感じがする。



*平成の日記帳*

2代前の日記帳を風呂場で開いた。

優雅にアイスコーヒーも淹れて、それを飲みながらペラペラとページをめくった。

塾に勤めていた時に、1人通っていた子が自殺した。

2回か3回しか見ないまま、次に来た時は訃報の知らせだった。

顔ははっきりとは覚えてなくて、でも本人がまとっていた空気感や雰囲気はけっこう強く印象に残った子だった。

静かなタイプではあったけれど、芯の通った感じの子だった。

どんないじめがあったのかは知らない。

でも、もし寿命まで全うしたとするなら、絶対にその子を気に入る友達や彼女がいただろうことは容易に想像できる子だった。

中学生ぐらいになると、邪の部分が入り込んで裏表ありそうな雰囲気の子も出てくるけれど、その子はそうではなく、すごい真っ直ぐで気持ちがとても優しい感じがするタイプの子だった。



ばばちゃんが死んだ時のことも書いてある。
(ばばちゃん=母方祖母)

ばばちゃんの葬式に出た後、飛行機に乗った場面が出てくる。

飛行機の窓のカバーを開けると、すぐ隣りにオリオン座が見えた。

すごい近くにオリオン座を見たのはその時が初めてで、それがまたばばちゃんが亡くなった後だったから、余計と星の近さがばばちゃんのいる場所の近くみたいに感じた。



平成の日記帳には人の死が入っている。

男の子の方の死は痛ましいものがあるけれど、そこに刻まれている名前を見ると、死そのものよりもその子が生きていた時のその雰囲気の方が思い起こされる。

ばばちゃんに関しても書いている。

「私の胸の中でずっと生き続ける」と。



*写真集*

平成最後に目にする本は何がいいかと思ってピンと来たのが、平成の日記帳と冒頭の写真の本だった。

それは12年前に買った小さな詩と写真とがセットになった写真集だった。

色んなカラーの本を同時に買って、その1冊が冒頭のmixiの「死にたい」つぶやきの子にあげたものだった。

相手は成人して間もないぐらいの男の子でそんなの好きかわからなかったけれど、普通に喜んでくれて良かった。

他のカラーは人にあげたのか売ったのか忘れたけれど、インディゴだけは気に入って手元に残した。

たしかばばちゃんが亡くなった時もスーツケースに入れて持ち帰った記憶がある。

時々思い立って手にする。

今日は平成最後だからと思って、それを手にした。

何回も読んだはずなのに、初めて気付いたフレーズがあった。

初めて気付いたフレーズは、今自分がこれまでのすべてを通り抜けなければ気付けないような内容だった。

まるでそのフレーズをメッセージとして、いつか未来の私が受け取るために手元に残したみたいだった。

下に紹介するのは、その中で私の好きなフレーズ。

初めて読んだ時から好きだった。



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日本語では
インディゴを意味する言葉は
ラブを意味する言葉と
同じ発音です。



宇宙の海を流れていく
メッセージの入ったビン。

あなたは
ビンにこめられた
美しいメッセージです。


『ザ・ブック・オブ・カラーズ  インディゴ』

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素敵なフレーズとは別に、自分のサインを見て驚いた…( ̄∀ ̄;)。

日にちの間違いはまだわかる。

だけど、何をどうしたら、2007年を1900年代と勘違いするのか、色々頭の中がとっ散らかっていることは多々あるものの、これはひどすぎる( ̄∀ ̄;)。



*かたつむり*

メイの寝言。

今私の隣りで寝ているメイが突然
「かたつむり」
ってぼやいた。

夢にかたつむりが出てくるところがかわいらしい。

【ゆっくり自分のペースで良いんだよ】
っていうメッセージだと覚えておこう。

ーー令和元年を迎える少し前

2019年4月28日日曜日

メイのメロディー

3歳半になったメイ。

言葉が増えた分知恵がついた。

分別もつく部分が増えたのは良いことだけれど、なんだか寂しい感じも私にはあった。

正月の時は、まだ我が全開で周りなんて何にも見えなくて、ひたすら自分の主張ばかりを通そうとしていた。

今もそうだけど、少し状況をもっと引いて見る部分が出てきた。

前は良い悪いじゃなくて、自分がどうしたいかが全部だった。

今は自分がどうしたいかだけじゃなくて、目の前の人も自分と同じ気持ちなのか別の何かが好きなのか、それを確かめようとするような一呼吸がある。

そんな小難しい言葉は当然喋らないけれど、なんとなくそういう空気を感じる。

保育園に行って2年目、社会性を身につけつつあって、今年からは縦割り保育で年長からメイの年少までが同じクラスにいるらしいから、尚のこと小さな大人として何か色々社会のルールや人間関係を学んでいると思う。

思いのほか早く自分と他人との境界線をメイが持ち始めたことに驚いた。

自分と他の人とは違う同士で、メイのあの素で目の前の人に体当たりする感じは前より格段に下がった。

できることも増えたし、1人でやれることも増えた。

順調に成長している証拠だから良いことのはずだけど、なんだか寂しい感じの方が私の中で勝った。

それはある種のカウントダウンみたいな感じだった。

あとどのくらいいくらでも抱っこさせてくれて、「可愛い子がいた」と何度でも言わせてくれて、お湯が熱ければ私にしがみついて私の足の上で熱さに触れないように私を盾にして自分の身を守ろうとしてくれて、夜寝る前に足をマッサージさせてくれて…、って考えると、それがもう今しかないんだということを今回はものすごくひしひしと感じる。

今日は初日だから、布団を一緒に敷いた。

これまでは布団敷きも遊びも境い目がなくて、全部が遊びになっていた。

でも今回は遊びの延長でも少し違っていた。

メイの中で「おふとんはねるためのもの」という認識ができている。

だから、布団イコール自分が眠る場所ということを知っている。

いつのまにか1人で布団を運べるようになった。

これまでも何回も2人で布団の準備を一緒にした。

体で覚えてるみたいで、私が手渡した布団を次から次へと私の部屋へと運ぶ。

私も布団を出しながらすぐ隣りの部屋にメイが運んでるのを一挙手一投足見守らなくても良くなった。

前は危なっかしくて一緒に運んだけれど、今はある程度なら1人で任せて大丈夫って思う。

そしてメイもメイできちんと隣りの部屋へ運んでくれる。

格段に大人側が楽になったけれども、危なっかしくて何しでかすかわからなくてずっと片時もそばを離れられないような感じも徐々に減ってきて、それがどことなく寂しい。

メイと私の関係はこれからも姪っ子とオバには変わりないけれど、小さなメイと私の関係は今だけの期間限定の特別なものになる。

あとからどれほどその時を愛おしんでもう一度再体験したいと思っても、二度とは巡ってこない。

大人の1年2年はどことなく輪郭がぼやけているけれども、それは充実していて1日がすごく満たされていても、それでもやっぱり私の感覚だと輪郭がぼやける。

でも子どもの1年2年は全く違う。

あれはメイが生まれて半年かもう少し月齢がいった頃だと思う。

メイは1人じゃまだ何もできなくて、車から抱っこしてメイを下ろして、そして畳の上にメイを座らせて、そして上着を脱がせようとした時だった。

上着を脱がせようとしたら、頭のところで服が引っかかって、その引っかかった服なのか、そこから見える景色なのか、それとも頭に引っかかった感触なのか、実はそうではなく私を笑わせたかったのか何かはわからないけれど、メイは突然大笑いしだした。

しかも超ツボにハマって1人でずっとケラケラと笑い続けて、そしてそのおかしさを私ともシェアしようと超真剣に笑って訴えていた。

私も可笑しくなって、一緒にゲラゲラと笑った。

2人でいつまでもゲラゲラと笑っているから、他の家族もみんな何事かと集まってきた。

本当に何もない。

だけどそのシーンは、メイは100%忘れるだろうけれど、私は一生忘れない。

忘れられないと言った方が近いかもしれない。

言葉は当然まだない。

自分のことは何1つ自分でできない時で、絶対的に大人の手が要る。

不自由なはずなのに、愉快だった。

メイも自分で何が面白いのかなんてわかってなかったと思う。

それでもその時、爆笑の渦に包まれた。

今日メイと風呂に入る前、メイの着替えを見ていてそのシーンがずっと思い浮かんでいた。

メイはいつのまにか1人で全部脱げるようになっていた。

ボタンも1人で外せるようになったし、ポニーテールの髪の毛も器用に自分でゴムを外した。

少し前はまだ大人の手が必要で、手伝おうと手を出そうとすると「じーぶん!じーぶん!」と自分でやると言って譲らず、真冬でも着替えるのにどんだけかかるのかと思ったりもした。

今回ほどメイを見て「今しかないんだ」と思ったことはない。

社会のルールを学びつつあるから、何か意思疎通を必要とする時、確実に楽になった。

だけどそれが本当にすごい楽で素晴らしいことかと言えば、そうでもなかった。

成長は喜ばしい。

だけど、もう小さなメイとの時間はカウントダウンが始まっている。

「今しかないんだよ」ってことが身に沁みてわかる。

苦痛でしかなかったお店屋さんごっこも今回はちょっと見方が変わった。

私は今もこれからも幼児特有のエンドレス同じごっこ遊びは好きにはならないと思うし、苦手なままの可能性はとても高い。

でも、一生の中でメイとできるお店屋さんごっこはもう今しかないんだなってわかる。

それはその後にどれだけ素敵な新しい思い出が加わっても、それで埋められるものじゃない。

私はこれからだって、色んな素敵な思い出をメイと作れる自信が120%ある。

だけど、そういうことじゃない。

もうその時しかない。

今は今しかない。

40歳になる頃のメイはそんなこと絶対に忘れてる。

でも40歳になっても、その時私の目に映るメイは、1歳にも満たなかった頃のメイや今日のメイの姿が重なるんだと思う。

メイを初めて自分の手に抱いたのは、生後2週間ぐらいの時だった。

可愛かったけれども、この子が自分にとってものすごく可愛いくて愛おしい存在になるというのは、いまいちイメージが湧かなかった。

あれから3年以上が経過して、メイと時間を共にすればするほどメイは私にたくさんのものを分け与えてくれた。

「かけがえのない今」だというのは、メイが他の誰よりも教えてくれたことのように思う。

2019年4月26日金曜日

菜の花の花言葉




携帯のホーム画面をこの間撮った菜の花の写真に変えた。

その前まで桜で、それも綺麗だったけれど、菜の花は菜の花でまた良い。

元気な黄色と小さな花の形がちょうど良い塩梅に1つの花になっていて、見ていて心が安らぎながらも元気ももらえる。

これが仮にもっとでかい花びらならうるさい感じになったかもしれないけれど、大きすぎず小さすぎないこの大きさだからこそ心にフィットする。

『ビタミンカラー』って言葉が似合う感じ。

花言葉は何なんだろう?と思って調べたら、その中の1つに「小さな幸せ」ってあった。

この間調べたサビアンシンボル(占星術関連のメッセージ)にも出てきた言葉と同じでなんだか嬉しくなった。

菜の花を見ているとその花言葉がよくわかる気がする。

小さい蕾が今か今かと咲く出番を待っていて、次から次へと花を咲かせるその様子が「小さな幸せ」そのものだなぁと思う。

小さな幸せは特別遠くに探しに行かなくてもすぐ近くにたくさんあって、そしてそれに気付いた人から幸せをしみじみと味わう。

小さな幸せはそれだけでも幸せだけど、菜の花みたいに幾つもの花が束になって1つの大きな花になる様が、大きな幸せの象徴みたいだなと思う。

1つ1つの花ももちろんすごく綺麗だけど、それが集まるとまた別の綺麗さを生み出す。

これから咲く予定の蕾の様子がまた良くて、すでに大きな1つの花になっているのに、まだまだ幸せは終わらないよって言ってるみたい。

「小さな幸せ」の言葉にリンクして、過去のある時に記憶が戻る。

色々繋がっていた。

ちょうど昨日(4/25)から冥王星が逆行した関係で、冥王星関係の占星術の記事をいくつか読んだ。

自分が過去に書いた冥王星関連の文章も読んだ。

占星術関連の記事で説明されていた文章でなるほど!と思った冥王星の説明があった。

冥王星は公転周期248年ととても遅い。

だから、その冥王星がじわりじわりと移動していても、普段の生活でその影響をもろに感じるのはとても難しい。

影響は全天体の中で一番でかいのに、その凄まじさを感じるのが難しいという、若干ツンデレみたいな、わかりにくいというか掴みどころがない。

わかりにくくても、冥王星の担当するものは「破壊と再生」「死と再生」「大きな変容」「強制的な軌道修正」とか、とにかく規模が超でかいから当然影響もでかい。

ちなみに、冥王星が破壊するのは人間的なエゴ(個人の自分さえ良ければいい利己主義とか)で、そして再生するのは愛らしい。

で、それだけだとイマイチ掴みどころがないなぁ…と常々思っていたら、わかりやすく説明してくれてる人がいた。

白い画用紙があったとして、そこに限りなく白に近い水色を塗る。

それで全体を塗ってもまだまだ最初の真っ白との差はわからない。

そうやって何回も何回も同じ薄い水色を塗っていくうちにそのうち画用紙がもう最初の真っ白ではないことに気付く時が来る。

今さら真っ白い画用紙に戻して!と言っても戻れないぐらい、水色に変わっている。

もう白ではない。

気付いたら水色に変わっている。

というような変化の仕方が冥王星がもたらす変化と説明されてた。

それが個人レベルだと、心の奥深いところ、魂レベルでの変容を徹底的に促す。

冥王星は0か100の天体だから、根底から変えてしまう。

顕在意識ー頭で考えてること(思考)
潜在意識ー心で捉えていること(感情)
超意識ー魂で感じること・魂が知っていること

今さらだけど、私が言う魂レベルは上の超意識に当たるところで、1人の人間に3つとも組み込まれているけれど、冥王星が管轄するのは特に一番下の超意識のところだと思っている。

魂レベルでの変容。

冥王星に動きが出る時というのは、さっき言った画用紙みたいなゆっくりだけど確実に根底から変えてしまう変化を体験する。

今回の逆行について調べると、自分の心の中で組み替えがなされる期間、みたいな表現が多かった。

過ぎ去った過去はもう変えられないけれど、そのことでやり残したりとか心残りがあることにもう一度向き合うような、そういう意味らしい。

冥王星がもたらす大変容に関して、過去に自分が書いた文章を読んで、本当にその通りだったなぁと画用紙の話と連動して思った。

30代の終わりから40歳前後で、必ず誰しもが冥王星から「中年の危機」と呼ばれるような洗礼を受ける。

遺伝子レベルのような心の組み替えが起こってもおかしくないことが起こる。

魂が今世望んだ変容と言ってもいいかも。

それがまたジワリジワリ系だから、朝目覚めたらいきなり別世界にいたとかいうのとは違う。

昨日も今日と変わらないし、明日も昨日や今日と変わらないだろうと思って日々生きていても、何ヶ月とかいう時間の単位で過去を振り返ると、それまでいた世界と今生きてる世界が丸っと変わってる。

例えば数ヶ月前も今も同じ町に住んで同じところで働いて同じ人たちに囲まれていたとしても、目に映る風景が違う。

心の感じ方が変わると言えばいいかもしれない。

もう水色に塗る前の白い画用紙ではなくなってる。

ちなみに私の「中年の危機」に該当する冥王星の効力が一番大きかった時期、私は小さな幸せを日々感じていたおかげで、実は一番きつかった時は一番穏やかに過ごせていた。

人生にこんなにも喜びに溢れた時間が存在するなんて、本当に夢の世界だった。

菜の花みたいな感じで、小さな幸せが毎瞬今か今かと咲く時期を待っていて、次から次へと開花した。

季節は変わって菜の花は終わってしまったけれども、しぼんで枯れた花は土に還った。

私の心の中は大変容が起こった。

奇跡って本当にあるんだと知った。

頭ではそんなこと起こるわけないって否定し続けていたことが、現実に起こった。

当時のことで私は面白いエピソードを書いている。

菜の花が咲いた日、なんと私は30年ぶりにブランコに乗れるようになった。

胸のザワザワ感が気持ち悪すぎて絶対に乗れなかったのに、その日私は乗れた。

心が疲れて寄り道した場所で、1人でブランコに乗った。

普段だったら絶対に乗らない。

だけど、あの時は「なんか乗れる気がする」と突然思って、ダメならすぐ止めたらいいと思って乗ってみた。

そうしたら乗れただけではなく、あの胸の気持ち悪さもなければ、むしろ体で風を切る感じに心酔した。

ブランコが空中に高く飛ぶ時、見える景色も変わる。

同じ景色なのに見え方が違って感動した。

それぐらい、身体中の細胞が再生されて活性化した、わかりやすい変化がブランコだった。

ブランコはあくまでもその変化を表すバロメーターみたいなもので、実際にその日起こったことは私が生涯忘れることのないすごい特別なものだった。

頭や思考は、全力で否定していたけれども、魂レベルではしっかり変容のプロセスを受け入れていた。

そんなことはその時はわからなくて、気付いたのはそれからまた随分と経ってからだった。

小さな幸せが転がっていた時間にはもちろんもう戻れない。

戻れないし再現もできないけれど、感覚で記憶したことはすごくて、思い出の中で何度でも何度でもよみがえる。

小さな幸せを感じていた日々の感覚は、これから先も幾度となく思い出すだろうし、そして根底から変わるきっかけとなってくれたものでもあるから、それは私の中からなくならない。

それまでの私の心の土壌が乾ききった砂漠みたいな感じだったとしたら、頑張って咲いてもトゲトゲしたサボテン。(←トゲトゲしさは心のトゲと掛けてみた)

まぁ実際は、サボテンすら咲かないぐらいに荒まくっていた( ̄∀ ̄;)。

ところがブランコの日、天変地異が起こって、その土壌は菜の花が咲くぐらいの土に変わった。

私は同じような場所に立ったままだけど、ありえない土壌の変更がもたらされた。

そして今も砂漠化したり豊かな土壌化したりを繰り返しながらも、少なくとも四季折々の花が咲く土壌は今もしっかりと引き継がれている。

菜の花、小さな花の集合体で大輪を咲かせるけれど、その前に必ず小さな花を見事に咲かせる。

小さな幸せは、1つ1つが個性的で、今でもはっきりと輪郭を思い出せる。

あの時はいちいち全部頭で否定していたけれども、今となってはかけがえのない瞬間瞬間だった。

そして、それを自分の中にずっと持ちながらこれから先も生きていけるのは心強い。

自分の希望する形の花にはならなかったけれども、それでも花が咲いた事実やそこに自分がいられたことは、生涯を通じて変わらない。

この感覚を思い出した時に、最近創刊された占い雑誌の中に出てきた石井ゆかりさんの言葉を思い出した。

出版業界が超低迷してる中で、『My Calendar』というタイトルの占い雑誌が春先に創刊された。

そこに関わった色んな人たちの制作秘話をネットで読んで、実際に実物も見に行った。

その中にあった占星術家の石井ゆかりさんの言葉。


(↓以下引用)
【若い頃はキラキラした「未来」に向かっていけばいいんですけど、大人になると「毎日」が相手なんです。
生まれた日だけを祝うだけではなく、死ぬまで毎日のことを考えなきゃいけない年頃になったということです。
毎日の愛なんです。どんなにキラキラしたものでも、毎日、目の前にしていると色あせるんです。でも、その色あせたものに色をつけていくのが愛なんじゃないかと。】


昔、『My Birthday』という名の占い雑誌があったらしい。

言われてみればあった気がする(ちょうどアラフォー世代が小中高の頃に流行った雑誌とのこと)。

それが今回、「誕生日」から「カレンダー」に名前を変えて、新たに創刊された。
(『My Birthday』は昔に廃刊)

そのタイトル部分に目を向けた石井ゆかりさんの言葉だった。

菜の花の話に通じるものがある。

菜の花は、毎日の生活にあったもので、それは生活だから特別なイベントとか非日常の世界とかではなかった。

ある意味、すごい淡々としていた。

菜の花が咲いた場所は高速道路が見える所だったから、冬なんかは車の流れが止まるとニュース速報より先に通行止を把握して、それが周りの人たちと「今高速止まってるよ!」ってニュースになっちゃう、そういう所だった。

今説明した通り、華やかさのかけらもない日常だった。

大人社会には大人社会の都合やルールが山ほどあるから、高速止まるだけで一大事で、でも反対に言えばそれぐらいでしかニュースにならないぐらいに淡々と粛々と時間は過ぎる。

色は無色というより、変な混じり気のある決して透明ではない色つやの無い場所。

あえて言うなら、「不透明」という単語が似合っているかも( ̄∀ ̄;)。

「艶やか」とか「彩り」なんて言葉は似合わない前に辞書にすらないような場所だった。

そこに菜の花が咲くなんて、ものすごい話で、どんな魔法のタネが蒔かれたのかと思うぐらいに凄かった。

私の冥王星がもたらした中年の危機は、良い意味での破壊が起こって、そして魔法のタネで再生されて、最終的に私の生きている世界に大変容がもたらされた。

同じようなことが繰り返される毎日の中で積み重ねられたものっていうのはすごく大きい。

ちょっとやそっとのことじゃブレない。

そして日々のことだったから、しかもある意味無意識に近かったから、潜在意識、魂レベルで静かに水面下で色んな組み替えが行われていたと思う。

本人無意識でも、知らぬ間にたくさんのものが積み重なっていて、そして気付いた時には私の世界が変わっていた。

怖くて近寄ろうとしなかったもの、ずっとないことにしていたもの、そうした扉が勝手に開いた。

その後受け取ったのは、愛と呼んでもいいと思う。

それが菜の花が表す「小さな幸せ」だった。

小さな幸せはずっと自分の中にその感触を残してくれるって、随分と経った今改めて知った。

残りの人生、色んなことがあっても、またこの時の小さな幸せをいつでも思い出せる自分でいたいなと思う。

当時いつのまにか身に付いた感覚があれば、色々ブレてもまた戻ってこれる気がする。

自分の芯みたいなもので、そこは外側がどういう状況でもずっと在り続けてくれる、そういうものだと感じている。



明日から、小さな体で大きな幸せを全身で体現する、大人よりうんと悟りを開いている3歳児がやってくる。

悟りは別名「ギャング」とも呼ぶ。

冥王星に負けない破壊力を持って日々大人たちに体当たりしてくる。

少しでも平和な時間をもたらすために、ドラえもん、アンパンマンはじめ色々な番組をいくつも録画した。

これまでと違うのは、早い夏休みが確定した義弟も日をずらしてやってくること。

義弟が来ることは大歓迎だけど、それに伴ってギャングとは別の配慮が必要なのが面倒くさい( ̄∀ ̄;)。

部屋の構造上、まさかの4人で川の字で寝るとか、別にいいけれど、気遣いゼロとはいかないのが対ギャングにはないもの。

でもそういうこともまた1つ思い出にプラスされる。

今絶賛、ここから先の自分の進行方向を迷いまくっているから、ある程度方向性が出るまでもしくは次の何かで落ち着くまで心のザワザワは収まらないとは思うけれども、そんな中でも小さな幸せを思い出したり、ギャング・義弟・妹と一緒に時間を過ごしながら何かをまた土に植えたりすると思う。

「迷っている」という言葉は、通常選択肢があってという前提で使われるけれど、今回の私の場合は、消去法でいくと選択肢すらない、じゃあどうするの?と考えるだけでゾワっとしている。

何でも選べるのに何も選ぼうとしない自分に辟易としながらも、何かしらは選んでいかないといけないプレッシャーは半端ない。

ザワザワやゾワゾワは自分なりの答えを出すまで続くんだろうなぁと思う。

またギャングからたっぷり「今を楽しむ」ことを学ぼうと思う( ̄∀ ̄)。

2019年4月25日木曜日

行列に並ぶ

基本、行列に並ぶことはしない。

記憶にある限り、並んだのはディズニーランドやシーだけ。

しかも、私はただの一度も自らの発案でディズニーに行ったことがないから、職場の旅行とか誘われてとかでしか行ったことがない。

って今書きながら、これ過去のどこかにも同じ文を書いた気がした。

デジャヴかもしれないけれど。

そんな私が今日、田舎町の小さなお店で行列に並んだ。

なんだかんだと1時間くらい並んだ。

このお店で行列に並ぶのは、人生で今日が最初で最後。

そこは町のお肉屋さんで、1年前隣家から貰い火して火事で全焼した。

子どもの頃から何1つ変わらないお店屋さんで、揚げ物系の惣菜が100円以下という、スーパーでさえ提供できない値段で手作りのとても美味しい惣菜を売っている。

今日が1年越しの新装オープンの日で、私は母から頼まれて行ってきた。

普段はうちの父の先輩だというおじさんか、その息子のお兄さんのいずれかしか見たことがなかったけれど、今日は従業員だけで2人の他にもう6人は見た。

しかもみんなお揃いの白と黒のギンガムチェック柄のボタンシャツを着ていて、とにかく人が多くて驚いた。

ばあさん達に混ざって私も並んだ。

初日ゆえ、すごいバタつきで、こんなにパニックになっている現場も初めて見たというぐらいのコミカルな行列だった。

周りはみんな折込チラシを持参しているような方たちで、田舎のばあさん特有の一張羅のマダム風のリュックサック背負ってる。

間違えてもスマホ出して画面見てる人なんて誰もいなかったから、私も行列に同じように並んだ。

時々時間を見て、あまりにも時間がゆっくりでもしっかりと流れていて驚いた。

注文して、今度はレジ側の列に並んだ。

レジ前には、地元の有名どこの味噌や醤油、卵、カレー粉とか、まぁ色々置いてあった。

ふと目をやると、名前発見。

本当にどこでも名前が登場するから驚く。

何かに紐付いているのか、その名前の登場率の高さと言ったらない。

私はその某個人の名前をもう何百回ではなく千回越えで色んな形で見ている気がする。

私はこれまで肉を買っている人を見たことがなかったから知らなかったけれど、見るとなんと3キロとか5キロ単位で肉を買っている人たちもいて驚いた。

飲食店の人なら並ばないはずだから、多分一般家庭の人たちだと思うけれど、肉屋でそんな塊を買う人たちを初めて見たから驚いた。

バラ肉3キロとかどんな料理するんだろう?と思ったり、土木系の作業着を着たおじさんがキロ単位で色々注文しながら、「鶏肉あるかい?」などと聞いていて、「ももありますよ」と見せられてそれも注文していた。

このおじさん、もも肉と胸肉を使い分けてるの?と、大変失礼ながらその風貌からは料理するようには見えなくて、私はその様子をガン見してしまった。

なんだかんだと時間をやり過ごして、そしてレジを終えて店をあとにした。

オシャレなエコバッグももらって帰ってきた。

決して楽しい行列ではなかったけれど、面白い時間ではあった。

帰りに小さな図書館に寄って、2冊借りて帰ってきた。

心がマックス苦しい時は、小説を読むと今回は楽になるとわかって、今そうしてる。

家に戻って、ひとしきりぼーっとした後、心のザワザワなんて通り越して、メンタルがガタッと落ちた。

メンタルの落ち方がすごい変で、もうどうしたらそんなにネガティブ全開になるの?と思った。

原因はわかっていても今すぐどうこうできることはないから、余計と苦しい。

こういう時の必殺技「寝る」。

起きて心の状態がある程度戻ってから思ったけれども、私ネガティブ具合の数値を自分である程度測定できる。

今日はいつぶりかわからない、もう何年もないぐらいのガッツリ落ちる系で、「おかしい」と思った。

今はまたゆるゆると通常モードに戻ってきたからいいけれど、落ち方が半端なく変だと思って、私は速攻で星の情報を探した。

1年社会から離れて生活してわかったことは、私は実はすごい空模様と自分の気分が連動しやすいということ。

新月満月は鉄板、上弦の月や下弦の月、あと天体が私にとって強烈な時、そういう時は大体何かしら体がだるくなるか、心がイマイチということが多い。

しかもこれから2020年まで長期戦でかなり影響がでかいのが続くから、基本は「低温モード」でいこうと思う。

調子良い時を基準にすると、そうでない時が「ダメな自分」みたいな気がしてしまうから、「停滞」ではないけれど、わりかし地中に潜ってます的な時はそこに標準を合わせて日々過ごす方が自分が楽だとわかった。

「停滞」だと言葉が痛々しいから「低温」という言葉を取り入れた、自分のために。

話が逸れすぎた。

天体の話。

今日4/25の昼過ぎ、2時前後なのか何時かは具体的にわからないけれど、調べてわかったこと。

超強烈な天体配置が重なって、影響を感じている人も多いはずとあった。

ちなみに詳細は、太陽と天王星が重なって、月と土星と逆行を開始した冥王星がピタリ賞。

やっぱり!と思った。

自分の感覚で「なんだかわからないけれど、ありえないぐらいに気持ちが落ちてく」みたいな感じで、それが例えば自分の日々の悩みとか長期の悩みとかから出てるだけとは思えない落ち方だったから「おかしい」と感じた。

私はこういう感じを実はすごい大事にしている。

自分でもわかるけれど、私は人といる時と1人の時とでテンションが全く違う。

1人の時はすごい静かだし、その時こそ一番素の状態に近いと思う。

人といる時はそれに合わせて、社会仕様の自分でいく。

1人の時は、とりあえずいつもと様子が違う時は、なるべく丁寧に見るようになってきた。

特に今日みたいな感じになったら、天体を調べる習慣を持つようになって、2ヶ月3ヶ月は経ったと思う。

徐々に回復してきた私は、心を毛布とかでくるんでもらえるような言葉を見つけて、それをノートに書きながら、そして書いてたらこのことをなぜか書きたくなって今に至る。

これから徐々に社会との接点もまた増えていく生活に移行していくと思う。

そして、自分の中の小さなプロジェクトも少しずつ始動しようと、実際にすでに始動してるのかしてないのか、何もしてないわけではないから「始まった」と言ってもいいと思うけれど。

小さなプロジェクトはこれから生涯かけてやるようなことだから、ここは焦らず自分で三歩進んで二歩下がるでもいいから、なんなら三歩進んで四歩下がるでもいいから、とにかくゆっくりやろうと思っている。

スパッと決めてすぐに動き出す、というのは今回はその気分じゃ逆にもっと動かなくなるからやめた。

気が向いたままに動いていく。

自分で決めれる自由はとても恵まれたことではあると思う一方で、ものすごく怖さや不安もモリモリ付いてくることがわかった。

今回本気で救われているのは、その怖さや不安を感じるのが当たり前だし、それをないことにするんじゃなくて寄り添うこと、形ばかりの行動じゃなくて見えない部分を大事にしようと唱える人たちの文章に触れられていること。

何かが変化する時・新しく始める時は、絶対にどこかに負荷はかかる。

これまではそれを吹き飛ばすかのように行動してカバーするとか、不安や自分の中の固定観念を見てそれを変えるとか、私からすると非常にやりにくい形が謳われることが多かった。

実際に私には合わなかった。

そうじゃなかった。

変化や始動の時は、めちゃくちゃエネルギーを使う。

だから、自分を急かすんじゃなくて、それでもなんとか息をして休みながら進みながら止まりながらそれでも自分といられる自分の中の安全なスペースや安心できるペースを確保するのが大事だとわかった。

自分の弱さを無視しない限り、多分自分は協力してくれる。

そんなことを知りながら今にいる。

お肉屋さんの様子を1時間観察していて、「はじめてはこれでいいんだよ」というのを教えてもらえた気がする。

本当にもう少し方法はないの?と思った人もいたと思うけれども、私も最初「何で注文を受けないんだろう?」と思ったけれども、よくよく見てるとそのみんなが不慣れな中で1つ1つできることをこなしている。

その姿にやたらと感動した。

書いてて思い出した。

色んな方法があっていいということ。

『奇跡の果実(25)愛という名の果実』の中に出てくるNさんから感想を今朝もらった。

これまでもらったことない奇想天外な方法での感想だった。

こんな伝え方が世の中にあるんだ!ととにかくビックリした。

ちなみにNさん自身もこんなことしたの初めてと言っていた。

約10日前にアップして、何人かから素敵な感想をもらって、それはまたいつかのタイミングで公表する予定でいるけれど、その時にそのNさんの感想も紹介したい。

マックス蛇行運転のような文章になってる気がするけれど、こんな風に書けることも珍しいから、もうこのままアップしようと思う。

『魂革命』の日のホロスコープ

2017年の初夏のある日のある瞬間のホロスコープを詳しく見てみた。

『魂革命』と言わんばかりの出逢いのあった日。

もちろんそんなことは知らずに私は緊張しながらその場所へと出向くわけだけど、まさかその日その場所が私の人生の大きな転換点になるなんて、人生どこで何があるかわからない。

【出会いは絶対に計算できない】ってどこかの本にあったけれど、本当にそうだった。

当時はホロスコープも知らなかったから、ただただ流れに身を任せて出向いたに過ぎなかったけれど、私何か体に内蔵してますか?ばりにすごいピッタリのタイミングで行っていた。

その時のことをかなり前の記事で、私は当時間違えた時間で出した全然違うホロスコープを見ながら、感想をつらつらと書いた。

その時は、何せ間違えたホロスコープを見ていたから「天体上はあまり影響がない」と読んで、私じゃなくて相手のホロスコープに何か大きなターニングポイントがあったんじゃ!?と勝手に推測して終わった。

後に正しいものを出して見直したらひっくり返りそうなぐらいにすごい影響力のある瞬間だった。

過去のどこかの記事にも2回ぐらいは登場させたけれど、今回改めて最新版というか詳細バージョンとして記録しておきたい。

完全に自己満足的な話で、ホロスコープに興味もない人からしたら「だから何?」みたいな話( ̄∀ ̄;)。

でも、今こうして振り返ると、人間って本当にすごいと思う。

今の超ハイテクノロジーの時代であっても、瞬間瞬間のホロスコープをその場ですぐに出してからその流れに合わせて動くことはまずしない。
(ホロスコープで大事なタイミングや吉方位を出してそれに合わせて動く人たちもいるけれども、そんなの全人口からしたら超少数派だと思われる。しかもそれは特別な時、例えば入籍とか開業とかを限定して出していて、日々の瞬間瞬間においてそんなことする人、ほぼいないと思う。)

天体がどうなってるなんて知らなくても、天体の配置と自分側の歩みとがきれいにきちんとバランスが取れる時に、そこにきちんとピッタリのタイミングで居合わせる。

さくらが春になったら咲くように、人間の中にも同じような生態系の自然なリズムが実はきちんと流れてるのかな…なんて思う。

毎日がお祭りみたいなことはまずなくて、「なんとなく」日々過ごすし、それが昨日や明日とさして変わらないと、「まぁ今日も1日こんなものだった」とすら振り返らずに1日が終わる。

その日その瞬間の天体配置なんて目に見えないし、仮に太陽を見たってそれが「今日は牡羊座の太陽」なんてわかるはずもない。

わかるはずもないのに、それぞれの肉体はきちんとある日ある時ある場所に居合わせることを普通にこなす。

その普通にこなした先には、生涯忘れられない出会いだったり物語だったりがある。

さらに不思議なことがある。

それが例えば私とその特定の人物との間だけのことならわかるけれど、少なくともその場にいた全員、その日なら私含めてその場に8人いたわけで、全員が同じ天体エネルギーの下にいた。

だから全員に等しく同じ天体のエネルギーが注がれているにも関わらず、そこで天体のエネルギーやその場にいた誰かと化学反応を起こす人というのは予め決められたかのごとく限られていた。

全員と縁があったわけじゃない。

もちろん同じ場に同じ目的でいたから、大きな枠では「縁」になる。

でも、その中で私が反応したのは1人だけで、相手側の反応度合いがいかほどかは知らないけれど、少なくとも私は1人にしか反応しなかった。

後から詳細部分に書くけれど、その瞬間の空模様は魂の記憶が呼び覚まされる配置があった。

召喚命令が出たかのごとく、目には見えないものたちに導かれて魂をまとった私という肉体がそこに辿り着いたとしか思えないぐらいの、史上最強のホロスコープを叩き出していた。

そういうエネルギーの下で、私自身の生まれた時のホロスコープにもものすごい影響があった。

そもそもの空模様がそういう魂革命が起こってもおかしくない配置のところに、私個人の配置も色々重なったから、より一層その色が濃く出たんだと思う。

ある年のある初夏の日ではなく、その日その時間その場所でないといけなかった。

他に日にちとして2候補あったけれど、2候補とも天体配置が変わる。

仮にその2候補だった場合、現実にあった宿命的な配置が薄まったり無くなったりする。

しかも日にちが変わることで、私自身のホロスコープとの重なりも全く違うものになる。

もちろんそんなこと計算なんかできるわけもなく、全てはやってきた通りの流れに乗っかったに過ぎない。

だけど、そういうことを知ると、私なんかは思ってしまう。

本当は魂が知ってたでしょう?って。

魂が誘導してもおかしくない配置を、これ以上ないぐらいに運んで来ている。

しかも私は色んな意味でやる気なさ過ぎだったけれど、魂の方はものすごい強い意志を持って、その意志を完璧に遂行できると感じる瞬間を選んでその日その場所へ出向いたことが今だからわかる。

体内時計的な、一体何と交信しているのかわからないけれど、私の体はピッタリのタイミングで必要な体験をするためにそこにいた。

そして私側の予定に合わせてくれたかのように、相手もそこにいた。

もしかしたら、私も私で相手の中の何かのスイッチを押す係だったのかもしれない。

「感情を外に出す」スイッチとか、「良い人やめる」スイッチとか。

「感情を外に出す」と言うと若干柔らかいイメージがしなくもないけれど、現実はそんな柔らかさでは済まされなかった。

実際に静かに剥き出しになった感情は、冷徹とか殺気とか拒絶とか…。

本人の意図は知らないけれど、私が見たものに名前を付けるなら、そういうものだった。

私が誇れるものは、そうしたものを前にしても自分の感情は切り離して、状況や状態を冷静に見る力。

当時の私は相手の反応にのたうち回ったし、それが見れるようになったのは随分後、今ほど感情を脇に置いて見るようになったのは本当に今月に入ってからじゃないかと思う。

その時から数えたら、1年半以上経過してからの振り返りになっている。

勝手に癒されたわけではないけれど、自分と向き合う中でいつの間にかそことも対峙できるようになってきた。

すぐのすぐは無理でも、時間の経過と、そして感情部分が癒されてくると、それらに対して別の見方ができるようになる。

これは私の超主観的な見方だけど、その時々でその人の無意識の部分で、武士俣史子の前では「そういう自分を出しても良い」という許可が自分に下りたと思う。

普段は穏やかな人が、私の度重なる行動によって、普段外には出さない自分を出さざるを得なくなった。

たとえ出さざるを得ないとしても、その人にしたらこれまでのやり方なら「自分の本心を出さない」選択が通常のような気がする。

だけど、そうも言ってられないぐらいになって、結果的に出てしまった、と勝手に予想している。

その場にいた誰しもが、その人には個人的なことを聞けない風だった。

一番仲良くしていた人でさえ、「趣味の話はいくらでもできるけれども、個人的なことになると踏み込んで欲しくないんだと思うけれど、そういう空気が出ていたからあえて何も突っ込まなかった( ̄∇ ̄)」と言っていた。

だからその人が感情剥き出しにするなんてあまりなかったわけで、そんなにないものを私は次々洗礼のごとく受けた。

いや、私が動いた結果だし、私が招いたから相手がどうこうということじゃない。

それでもその人にとっても、普段の自分のままで対応できる範疇を超えたものが私により投下されたわけだから、何事もなかったかのようには振る舞いきれなかったんだと思う。

だから、その人にとっても何かしらの「革命」的な出来事を体験したとは思う。

もちろん良い意味での革命であって欲しいけれど、それは望みすぎだから、せめて黒歴史になってないといいなぁとひたすら願っている。



ずっとずっと見ようと思って早数ヶ月。

数ヶ月放置して良かったなぁと思った。

今けっこう詳しく見れる範囲でホロスコープを眺めた。

今の自分だから気付けること、それがよくわかった。

ひとつは、ホロスコープの知識量の増加に伴って、数ヶ月前よりも詳しく見れるようになったこと。

もうひとつは、ホロスコープから読み解けるものを客観的に見れるぐらいに、自分の中をたくさん見てきたと自分で自分を認められること。

傷や痛みがたくさんあると、傷や痛みに気持ちを持っていかれてしまうから、純粋な目で物事を見れなくなる。

今はそこそこ自分の中を見て客観視できるぐらいになって、だからそこから出てきたメッセージを自分の中では真っ直ぐに受け取ったつもりでいる。

数ヶ月放置するにはきちんと理由があった。



とりあえずこれから書くのは、その時の天体から読み解いた「サビアンシンボル」というものからのメッセージ。

天体は360度ある中のどこかしらには位置する。

それぞれの位置には意味が付けられていて、どういう特徴や性格を帯びたものか、「サビアンシンボル」と呼ばれるもので表されている。

以下は今回抜き出すのに使わせてもらった文献。


・何も書いていないものが『未来事典』(松村潔・著)からの引用。

・語尾に[すたくろ]とあるものは、以下のサイトから引用。
【すたくろ〜star-clock-work〜
サビアンシンボルと占星術の話】
sutakuro.com

・語尾に[史]とあるものは、松村先生やすたくろさんの解釈からピンときたものを私が自分の言葉で書いたもの。


【】…メインメッセージ
 ・  …サブメッセージ




2017年初夏  朝の9時
田んぼだらけの町の、ある建物内
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>>>この瞬間から始まった人生物語全体の性格


【日常の中にある小さな幸せを大切にする】

・身体の中に宿っているもの、生きているんだと実感させてくれるエネルギー、自分の内面に込み上げてきた思いを表現したい。

・(小さな幸せの)表現の機会を待つ魂。

・日常の中にある小さな幸せを大切にするためなら、自分の人生を捧げる。



【人間関係では、正直さと誠実さを伴って自分の神聖な領域に入っていく】[史]

・自分の神聖な領域に入ることに対する恐怖も半端なく、自分のテリトリーを守ろうと線を引こうとする。ただ意外にも守るものは、自分だけじゃなくて、自分の大切な人やものも含まれる。[史]

・この人間関係では、自分の弱さも相手に向かって出す・見せることもテーマにある。相手に見せる=相手に対して心を開いているということ、そして相手を信じているということ。[史]



【特定の相手と密に関係性を育む】

・心の中心に信念という大木を持って、自分の喜びを追求するために努力を惜しまない内面的な強さがある。



【自らの意志で赤い糸をたぐりよせる】

・この1年は底知れぬ強い力が備わっているので、気になる人にはどんどんアタックし、結果よりもそのプロセスにこだわりを持つ。

・当たって砕けてもいいから相手に気持ちを伝えたいと思う。

・あなたに対し全く関心を持たない異性の気持ちさえ動かすことができるかも。
自分の思いに忠実になることが重要。




>>>空の天体たちから発信されたメッセージ


【自分の根底に流れているもの、人として生きる上で礎となるような根本の知恵、そうしたことを含めてあなたに大きな影響力をもたらす人が重要な役目をする(ために現れる)】

・ルックス、地位や財産を重視することなく、軽い付き合いよりも充実感のある関係に価値を見出す。

・自分にとって重要なものを見つける。

・恋愛において人生が変わるような出会いがあるかも。

・泣いたり笑ったりする素朴な感情を伴う体験は、インパクトが強く、長く記憶にとまる。



【過去を清算し新しい未来に向かう】

・隠れた自分の本質・自分のルーツが明るみに出る。

・新しい生活のサイクルが始まる年。

・純粋で素直な欲求に突き動かされる。[すたくろ・射手座13度]



【形式よりも中身こそが大切】

・素朴な楽しみで充実感を味わう。

・ほのぼのとした事柄から得る確かな幸福感。



【ごく日常的な毎日の中に、喜びと恵みを感じる】

・日々の営みを楽しむ。



【これから育てるべき資質の鉱脈を見つけ出す】

・感受性が高まる時期に味わった経験は、あなたに本物を見抜く力を与えてくれる。

・持って生まれた資質、先祖・過去世から引き継いだものが今世に繋がっていることに気付く。[史]



【永続性のある物事の本質を見ようとする】

・意識の深い部分と関わり、根本の真相の知恵を得るには時間もかかるので簡単なことではないが、そこから得るものはダイナミックなもの。

・大きな感動を得たり、自分が理解したものは、真実だという確信が持てる。



【内面の豊かさ・内面が豊か】

・人生において幸せに生きていくための知識とそれを実践していく方法をもたらす。[すたくろ・射手座25度]

・「幸福とは、自分の心構え次第だ」と日常の何気ない生活の中に幸福を見出すこと。[すたくろ]

・心をオープンにすることで青い鳥(幸福)を招き入れるスペースが出来る。[すたくろ]

・物質、精神面共に「豊かな生活」を味わうこと。[すたくろ]

・今年は特に、文章を書いてみるなど創作活動にチャレンジすると、思わぬ才能が発見できるかも。



【勇気を奮って自分の意志を貫く】
→純粋な愛情を表現するため

・自分の音楽を力強く演奏する。

・自分の喜び、自分の意志を追求する。

・人生を謳歌するための生命力に満たされる。[すたくろ・牡羊座25度]

・『元気玉』『鋭い感受性』がキーアイテム。[すたくろ]

・精神的満足を求める。湧き出る旺盛な生命力は、肉体と精神的な健康を守ってくれる。[すたくろ]

・肉体と魂、両方の成長を目指すこと。現実的な肉体の成長という側面と、自分を守るための直感力。[すたくろ]

・これから訪れる未来にワクワクして過ごすこと。[すたくろ]



【どうしても伝えたいことがある】

・何かを伝えたりすることの難しさ。

・きめ細やかな心ですみずみまで目と心を行き渡らせ、そして伝えたい相手に少しでもより多く真のメッセージが伝わるように心を込める。[史]

・実感していることが相手に伝わるように誠意を持って表現する。[史]

・過去からの贈り物である「意志」を受け取る。

・自分が信じているもの、自分に力を与えてくれるもの、目には見えない大切なもの、そうしたものを受け取って、魂の純粋性を保つ。[史]



【自分の力を信じること=自分を大事にすること】[すたくろ・山羊座19度]

・自分の力を心の底から信じることができるようになる。[すたくろ]

・自分の意志で自分のことを決めていく。

・素直な目で生活を見つめる。

・好きなものを好きだと感じ、美しいものを美しいと感じる。

・心の中にある素直な情感や感性を表す。

・自分の心の声に耳を傾ける。

・自分の感情を解放する。

・自分に向き合うことで自分のことを愛せるようになる。

・どうしても譲れないもののために自分の力を信じる、自分の気持ちを大事にする。[史]

(※後から追加の解説あり…その1)



【自分の考えを外に向かって表現する】
(※後から追加の解説あり…その2)



【魂の旅路の終わり】

・宇宙との接続ポイントを迎える。宇宙の接続ポイントは、この場合、過去世からの縁を指すと個人的には感じる。[史]

・見えないもの、心の奥にあるものが見えるようになる。[史]

・自分が生きたい世界、自分が今世生きたいと願う世界の完成に向けての最終準備段階。[史]



【自分の内側と向き合い、その中から自分独自のひらめきを見出す】

・『直観』とは「今までの過去を背景にした、意味のある答え」。
今までの蓄積された経験に基づく記憶から脳が一瞬のうちに必要な答えを導き出すという処理が行われる事で得られる答えなんだそうです。[すたくろ・水瓶座11度]
(※後から追加の解説あり…その3)



【自分の歩む方向がわからなくなった時に、自然界の中から鹿がやってきて、正しい方向に導かれる】

・どうしてこの人と出会ってしまったのだろう?というような不思議な出会いが期待できます。
その人は、今後のあなたの導きとなってくれます。

・この時期の出会いは、将来の方向性を暗示するものになるでしょう。どんな関係であっても大切にし、相手から吸収できるものは積極的に吸収しましょう。

・恋愛は、目の前に空気のように自然に存在する相手に焦点が当たりそうです。


↓↓↓自然界から現れた鹿に関して、追加の小惑星がくっついていて、以下の意味を強める。



【魂の転生で引き継がれた愛を育む・表現すること】=この世における魂の動機

[魂の動機にちなんだ苦手とするテーマ]
・個人的意見を打ち出すのは苦手で、自己表現が不得手。

[テーマを表す環境の特性]
・新しい環境の中で、人間関係が広がっていきそうです。恋愛でも仕事でも、自分と似た境遇の人に出会うことが多くなるでしょう。その人達の行動や思考のパターンが、自分と似ていることにも気付きます。
同じ問題を抱える者同士、シンパシーを感じ、自分はひとりではないんだ、と勇気づけられます。人が支え合う大切さを改めて知る時間となります。

[テーマに向き合うためのヒント]
・目の前の現実にしっかりと向き合う。[すたくろ]

・目の前で起こっている現実=今生出逢う予定だった人と出逢えているという現実。[史]

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上記サビアンシンボルに関して補足説明
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*その1
【自分の力を信じること=自分を大事にすること】

これは冥王星からのテーマで、【自分の力を信じる・自分を大事にすること】に関しては、徹底的な変容、死を伴うような再生を賭けての力が働くようになっていた。

さらにそこに小惑星までもが冥王星のすぐ隣りにあった関係で、その小惑星のテーマもプラスαで追加された。

その小惑星(ジュノー)は、1:1の重要な人間関係の中で、その人間関係を強化していくのに必要なことを学んだり、相手の立場や気持ちを理解することを促す。

単なる人間関係ではなくて、非常に濃い感じの人間関係で起こること、という感じがする。(←私の想像じゃなくて、相手はホロスコープ界の王者、破壊と再生担当大臣の冥王星が紐付いているから。)



*その2
【自分の考えを外に向かって表現する】

これは実は2つのことがセットになっている。

「外に向かって表現」というのは、単なる自己表現ではなくて、今世において魂の課題として持ってきているもの。

ということは、当然その反対の現象が過去世で繰り返されていたことになる。

この場合、
【過去世において、『自分の気持ちを大切な人に伝えきれなかった』ことを繰り返していた】
とまずは真逆の方向からの解釈がある。

しかも、この過去世の繰り返ししたというかしてこなかったというかのテーマは「パートナーシップ」の場所でそうなっている。

だから、今世では自分の気持ちや思いを大切な人に伝えることがテーマとして持ち越されている。



*その3
【直観とは「今までの過去を背景にした、意味のある答え」】

「過去」という言葉を見て、真っ先に「過去世」と出てきた。

なぜならこの直観は単なる直観ではなくて、
・人生の幸運のありか
・神様からのギフト
・天から与えられる今世で1つ恵まれるもの
という意味を指すところにやってきた「直観」だから。

だから、これは魂が転生した中で培った答えなんだと思った。




[サビアンシンボルを調べながら感じたこと]

*魂が求めたのは、特別なことじゃなくて、ありふれた日常の中に溢れている素朴な楽しみとか生きているからこそ触れられる何気ない喜びの瞬間だった。

本当に特別なことは何にもなくて、朝起きて支度して仕事に行って帰って家事して眠る。

それの繰り返しで、特段面白いこともなかったし、仕事に関しては興味もなかった。

だけど、本当に「喜び」って人間の機能の中にきちんとあるんだって知った。

そして、喜びのエッセンスはとてもシンプルだった。

ただ会いたい人に会う、それだけで良かった。



*日常の中に非日常が訪れる、人生で絶対に譲れないものがやってくる、そういう印象を持った。

この場合の「非日常」は、「生きる喜びを感じること」。

「奇跡」と呼んでもいいかもしれない。

私の月のサビアンシンボルは「ハウスボートパーティー」。

水の上に浮かぶ舟が自分の日常で、そこでパーティーをする。

舟を漕いで、行きたい場所に行って、会いたい人に会って、ちょっとおしゃべりして…みたいなのが私にとっては非日常=奇跡となっていた。

キーワードだなぁと感じたのは、
・生きているんだと実感させてくれる
・自分の内面に込み上げてきた思い
・自分の喜びを追求する
・生きる上で礎となる
・泣いたり笑ったりする素朴な感情
・長く記憶にとまる
・純粋で素直な欲求
・素朴な楽しみ
・ほのぼのとした事柄から得る確かな幸福感
・日々の営みを楽しむ
・ごく日常的な毎日の中に喜びと恵み
・どうしてこの人と出会ってしまったのだろう?という不思議な出会い
・(ある時までは)空気のように自然に存在する
・永続性のある物事の本質
・人生を謳歌する生命力
・元気玉
・湧き出でる旺盛な生命力
・過去からの贈り物
・自分に力を与えてくれるもの
・素直な目で生活を見つめる
・好きなものを好きだと感じ、美しいものを美しいと感じる

日常に溢れているものが私にとっての【非日常=奇跡】だった。



*魂がこれ以上ないタイミングに合わせて、引き合わせてくれた瞬間だったんだと思った。

サビアンシンボルを読み解いている時に、「どうしてこのシンボル?」っていうのはなかった。

どれもこれも、その時から始まったストーリーを表すピースばかりだった。

しかも、ピッタリと合っている。

ズレがなくて、ストレートにピタッとはまるタイプのメッセージで、読み解きながら何度もニヤニヤしそうになった( ̄∀ ̄)。



*「誠実そうな人にターゲットを絞ると成功」という文言がサビアンシンボルの中にあって、たしかに誠実な人なのは間違いなかった。

成功したかどうかはさておいても、その人は基本的に真っ直ぐで実直な人だった。

私に向けられた対応が「誠実」だったかと言われると、首を斜めに傾けたくもあるけれど、どうにも不器用極まりない立ち居振る舞いしかできなかったところは、誠実というか嘘がなかったと思う。

色んなものが隠された感じはすごくしたものの、不器用にしか対応できなかったところが、その人そのまんまだったと感じる。

嘘で付き合われるとか、上手く立ち回って変に期待させるようなことをされたり言われたりよりかはマシだったと思ってる。



*【日常の中の小さな幸せ】が私には何よりも嬉しいテーマだった。

私の生まれた時のホロスコープとは全く違う毛色で、そしてこちらは本当に私からしてみて触れるだけで心が躍る内容だった。

生まれた時のホロスコープは、基本的にオカルト要素の色が濃くて、「直観」とか「無意識」とか「霊性」とか、そんな言葉がいくつも並ぶ。

なんなら目指すところは、「お茶の葉を読む女」だから、もうどこまでも「ザ・オカルト」。

だけど今回は「日常の幸せ」がとにかく超クローズアップされてた(o´艸`)。

あと全体的に「伝える」とか「素直な気持ち」とかそういう心で感じるものがテーマの多くに含まれていて、そこも私的にすごいツボだった。




[その瞬間の天体配置の特徴]

長いけど、せっかく超真面目に調べたから、天体の配置の特徴なんかも言いたい。

多分一生の中で一度きりしか見れないような配置を持っていた。

このブログの中に私は自分のホロスコープの特徴を書いた記事がある。

さっき検索してひっくり返りそうだったけれど、普通にホロスコープ用語をグーグル検索でかけたら、なんと数個目のサイトに私のその時の記事がヒットしていた((((;゚Д゚)))))))。

Σ(꒪◊꒪ ;)))) ??∑(ΦдΦlll)???

他の人が検索してもそうなるのかは知らないけれど、多分珍しいのと、それを持ってる本人が語るなんてあまりないから、それでうっかりヒットしたんだと思う。

この記事は間違ってもヒットさせたくないから、一部文字を伏せて説明。

ホロスコープの型の中に「アル◯◯型」と呼ばれるアスペクト(天体同士を結んだ時にできる特殊な角度の総称)がある。

ちなみに◯◯の部分には「プス」と入る。

名前にちなんで、ここでは「山脈」と呼ぼうと思う(←検索でヒットさせたくないから)。

その山脈アスペクトは、基本的に超レアだと思われる。

ネット上では、著名人2人(「カメハメ波」という言葉が使われる戦闘漫画の著者と写真家兼探検家の星野氏)とあとは一般人の方お一人のホロスコープしか今のところ見たことがない。

だから私の分も入れて、これまで見たのは4ケースだけ。

新月満月でも、普段のデイリーホロスコープでも、まず出てきて説明されてる文章を見たことがない。

その形が出ないことには説明もできないから、それだけ出る確率の低いものだと認識している。

書籍では、今のところ、超マニアックな本でも説明文どころかその用語すら見たことがない。

山脈はそもそもいくつもの条件が揃わないと、まずは形成されない。

私は自分の生まれた時の天体配置にあるけれど、個人のホロスコープでの出没頻度はかなり低いはず。

私がホロスコープの知識を得るために占星術講座に通ったのも、この山脈が出てきたからだった。

自力じゃ読めないし、そもそものケースが少なすぎて、ネットでの知識獲得は不可能に近かった。

だから、そんなにむやみやたらと遭遇できるものではないことがわかった。

そんな中、なんと今回のこの分析したホロスコープには、ダブルで山脈アスペクトが出てきた。

山脈1つでも超絶珍しいのに、どうしたら2つも出るのか不思議でたまらない。

山脈を形成するには、「神の指」と呼ばれるものがまずは必要になる。

この神の指は、養土(←ヒットしないための策。専門用語は、アルファベットでワイオーデー)という二等辺三角形が形成されないといけない。

角度も細かい決まりがある。

神の指なんていう異名を持っているだけあって、神レベルの意志が絡んだ宿命的な強制力を持つとされている。

個人の力でどうこうできる流れじゃなくて、何か神がかかった強制力で人生が進んでいくのが特徴とされている。

それが今回3つある。

その3つがそれぞれ組み合わさって山脈を形成している、それも2つも!!

私はたくさんのホロスコープを見ていないからわからないけれど、感覚的には宝くじで1億円を当てるよりも確率が低いと思う。

それぐらい出てこない形がホロスコープ上に出ていてびっくらこいた((((;゚Д゚)))))))。

そんなすごい瞬間だったわけで、だから私はまた日にちをずらしてそれが出てくるかどうかを見た。

なかった。

他の日にちでは絶対に形成されないようになっていた。

それだけの強制力を持った瞬間だったから、今振り返ると、当時からそろそろ2年になる今に至るまでの流れが何だかわかる気がする。

自分でも色々おかしいとは思っていたけれど、今回ホロスコープをきちんと見て今読める範囲で読んだ限りでもこれだけのテーマを持っていたことがわかって、すごい納得した。

そこに加えて、私個人の天体ともすごい絡まり方をしている。

【日常の中にある小さな幸せを大切にする】と書いたものは、アセンダントと呼ばれる地平線軸を表すところからのメッセージだったけれど、そこに私の月とリリスがくっついている、ピッタリと。

アセンダントはその瞬間が生まれた時からずっと本質的に持っている性格・性質を表していて、そこに自分の無意識や過去世を表す月が乗っかっている。

無意識のうちに日常の中にある小さな幸せを私はたくさん見つけて、そして満たされまくりだった。

【特定の相手と密に関係性を育む】と書いたものは、社会的役割や目指す最終目標なんかを表す子午線軸からのメッセージだけど、そこには私の魂の傷を表すキロンがロックオンしている。

しかもキロンは、基本性質として、自分が受けた傷は同じテーマでしか癒すことができないものになっている。

例えば私なら、スピリチュアルなものにすごい抵抗があるのは、このキロンに関係している。

そういう配置で生まれているから、実際に30歳になるまでは超がつくぐらいのアンチスピリチュアルな人間だった。

で、今回の場合で言えば、社会的役割を示す軸にキロンが乗ったわけで、それは社会的役割を担う場所でキロンの癒しが起こるとも読める。

実際に、その人が私の人生に現れたことで私の世界のオカルト度が格段に上がった。

そして、最初に出逢った日と今とを比べるとわかる。

本当に自分の体質的なことも含めて色々癒しが起こるようになっていて、多分それはこれからも自動的に知らぬ間に続いていく気がする。

そもそも、その瞬間の地平線軸や子午線軸に私の個人天体が重なる時は、天変地異並みのビッグイベントが起こる。

それが今回2箇所もあったわけで、半端なく強い影響力を持っていたことがわかる。

【永続性のある物事の本質を見ようとする】
【どうしても伝えたいことがある】
の2つも、私個人のホロスコープと絡みまくり。

しかも【伝えたいこと】の方は、その日の海王星からのもので、そこに私の小惑星がくっついる。

2つを合わせて読むと、
「無意識の中にあるたった1つの本物、それも魂の旅路においての本物を、自分の身も心も捧げてとことん極める」
となる。

そして極めつけは、
【勇気を奮って自分の意志を貫く】
の部分。

これはその日に関しては変革・革新担当の天王星からのメッセージで、なんか見たことある…と思ったら、それは当時38歳だった私の38歳1年を通じての人生テーマと一緒だった!

ホロスコープを使って、誕生日を迎えた日から次の誕生日までの1年ごとのテーマを出すことができる。

まさかそのテーマとその日の天王星のテーマが一緒、360個中たった1つのテーマで一致するなんてどれだけの確率なのかと思った。

講座では、天王星を「過去の束縛からの解放」と習った。

ここでも過去世からの解放と言われてるようだった。

当たり前だけど、そんなテーマの瞬間を選んで誰かに出逢うわけじゃない。

むしろ私は、人間関係が面倒ではありませんようにとか、仕事が私でも何とかできる内容のものでありますようにとか、そんなことばかり真剣に願いながら出向いた先だった。

魂革命を賭けての出会いに自分の足を運んだわけでは一切なかった。

でも、それぐらいの時と場所を魂はしっかりと選んで行ったとしか思えないぐらいのタイミングで行っていた。

だから考えるに、私側の影響抜きで考えても、その日その瞬間その場のエネルギー自体が上に書いたメッセージとイコールだったわけで、相手側にもものすごい影響があったと思う。



実際に、上に書いたような特徴を帯びた経験を私はその後あらゆる場面で体験することとなった。

「日常の中にある幸せを大切にする」
本当に日常の中に溢れている幸せがいっぱいあって、私は超感動した。

毎日毎日生きてるのが本当に嬉しくて仕方なかった。

何度も「伝える」というテーマが出てきていたけれど、私は文字通り伝えることを試みた。

「大きな影響力を持った人」「自然界の中から鹿がやってきて、正しい方向に導かれる」
本当にまんまだった。

「鹿」という表現がプッと笑いそうな比喩ではあったけれど( ̄∀ ̄)、本当にそこから私の転機が始まった。

「文章を書く」というのもその通りの流れがその後やってきた。

ちなみに書かなかったけれども、松村先生の『未来事典』にはこんな内容があった。

「真剣な想いをつづった長い手紙などは、逆効果になってしまいそう」

Σ(꒪◊꒪ ;)))) Σ(꒪◊꒪ ;))))Σ(꒪◊꒪ ;))))Σ(꒪◊꒪ ;))))

何この「どこかお見通しですよ」的な余計なアドバイスはΣ(꒪◊꒪ ;))))!?

もう渡されたものは今さら取り消しなんてできないから、仕方ない。

逆効果でももう終わってしまったことは仕方ない。

そして、そういう終わり方でも、今さらそれを取り消したとしても、事態が好転するわけじゃないからいいかと開き直った( ̄∀ ̄;)。

来世があるか知らないけれど、来世に持ち越しでもいいかと思い始めてる。

宝くじ1億円当てるよりも低い確率のところをピンポイントで当てて出逢っても、どうにもできないこともある。

私には本当にもう為す術が1つとして残ってないから、だからその時に宝くじ1億当てる運を使い切ったんだと思う。

1億積んだって絶対に買えないものをたくさんもらったわけだから、これ以上求めるのは欲張りなのかもしれない。



非常に恩着せがましいけれど、私はこれをその人にも届けたくて書いてる。

私にとっても「何だこれ?」状態の数々の気持ちや摩訶不思議な流れは、実はそのようになる設定が最初からあったことがわかったから、それを証明する手立てとして書ける範囲で詳細を書いた。

どうにかして欲しいということじゃなくて、それだけの影響力というか強制力を持ったはじまりだったから、「変な感じ」や「ヘンテコ感」満載が当たり前と言いたい。

色々納得できない私ももちろんいて、本気でそんな強制力要らないから普通の幸せをくださいと天に神にお願いしたいのは山々だけど。

起こってしまったことに関してはそういうものだったと、私は知らないよりも知って楽になった。

数ヶ月前の私の読み間違いに始まり、その後も浅い読みしかしなかったから天体的にはそんなに影響がないなぁなんてのんきなこと言っていたけれど、実は全然違っていた。

影響ありまくりを通り越して、すごい最強の組み合わせだった。

もちろんどのホロスコープも唯一無二の形ではあるけれど、その中でもパンチの効いたものと柔らかいものとがある。

今回分析したホロスコープは、超一流のパンチ、宝くじで1億円当てるよりも難しい、超難関な確率を突破して出てきたものだった。

多分生きているうちに二度はお目にかかれないと思う。

そんなすごい強力なエネルギーの瞬間に出逢わせてもらえたことは、今でもものすごく感謝している。

でもだからと言って、それがイコール一緒の人生を歩むとか、そういうことではないのかもしれないな…と、何を今さらだけど、その部分の考えを少しずつ受け入れるようになった。

私は相手を動揺させたいとか、精神的に追い詰めたいとか、気持ちを重たくさせたいとか、そういう気持ちは一切ない。

特別なんだよ私たち♡なんてことを言いたいのでももちろんない。

ほらほら魂の縁が強いんだから逃げれないよ!と言いたいのでもない。

事実として、そういう瞬間であったこと、ただそのことを伝えたい、それだけ。

私には、色んなことが意地悪にしか見えなかった。

その人がということではなく、自分の身に降りかかる数々のことが究極の意地悪に見えて仕方ない時がある。

私はそんなに大層な野望もなければ、物欲的に満たされたいなんてのもかなり薄いと自分では思っている。

本当に日常に溢れている小さな幸せを日々感じられる、それだけで私はめちゃくちゃ幸せを感じられる、ある意味お金も特別な配慮も要らないエコな人間だと思う。

それさえも叶わない現実を前にした時、私は生きながらの絶望みたいな、もちろん他のものが手に入っていることもわかっている、でもそういうことじゃない、そんな言葉では片付けられないぐらいの深いところでの絶望感みたいなのがある。

私の中では今でも解せないところ、消化しきれないものが色々とある。

納得できないことももちろんある。

誰のせいにもできないし、自分のせいでもないのもわかっている。

でも、どんなにわかっていても、頭でいくらわかっていても、心はそんなに簡単に「はい、わかりました」とはならない。

私は100%の納得を求めているのじゃない。

せめて、自分の気持ちが少しは落ち着くぐらいの納得で十分。

その納得できる1つのお助けアイテムがホロスコープだった。

ホロスコープは、私が拡大解釈してるのでもなければ、もっと言えば天体配置なんて私が決められるものじゃない。

世界中の人何十億人全員の知恵を足して合わせたって、天体の運行なんて絶対に変えられない。

そう、絶対の力、人知の及ばない力が働いている。

それだけが唯一私にとって、「それなら仕方ないか」と良い意味であきらめられるお助けマンになってくれる。

天体配置の具合で、そういうエネルギーを帯びた瞬間だった、たったそれだけのことが私にはもう敵わないと自分の中で線引きできるものになっている。

それを知って〇〇さんが楽になるかはわからない。

私の価値観を押し付けるつもりもない。

だけど、もしこの情報を得て少しでも楽になれたとするなら私としては御の字、書いて良かったなと思う。

もっとお節介なことを言うと、見ての通り「伝える」ことが1つのテーマになっている。

読みながらヒヤヒヤしたかもしれない。

それが本人テーマとも合致することなら、余計と怖いものだろうことはなんとなく予想できる。

それを乗り越えることこそが人間としての魂としての成長だ!なんて言うつもりは毛頭ない。

人それぞれテーマはあるし、そのテーマに対しての怖さなんて比べられないから、そしてそれを追い込むような真似だけはしたくない。

話が逸れたけれど、もしそういうものとリンクしていたとするなら、そういうことが起こりやすい天体配置があったんだよ、とそれだけ言いたい。

本当に神様の指に適ったものがいくつも並んだ瞬間がスタートだったから、仕方ない。

そういう時は変な強制力が働いて、見たくないものや体験したくないものも、もれなく付いてくる。

気にせずにやり過ごすことは難しくても、せめて気持ちが少しでも楽になったらいいよね、何がきっかけでもいいから、と思っている。

私が「これは天体の配置の問題だからどうにもならない、仕方ない」と思うことであきらめて楽になるみたいに。

魂のテーマは本気で取り組もうと思ったら、人間側はガチで色々具合が悪くなる。

だから当時のことで精神的にしんどくなったり具合悪くなるようだったら、今少しでも心健やかにいられる他の選択肢があるなら、私はその選択をして心安らかな瞬間が訪れて欲しいと思っている。

内容が全然心安らかになるものではないかもしれないけれど、私なりに心を込めたお節介のつもりだったことは、図々しいけれども言いたい( ̄∀ ̄)。

この文章をどう締めていいかわからなくなったけれど、とりあえずホロスコープの読み解きは終了!

2019年4月22日月曜日

LINEスタンプと思い出



ーー写真の解説ーー
(超絶くだらない解説)

クマの後ろのゴォーーーーと燃え盛っているあの火は「集中」じゃなくて「殺気」。

カタカタカタカタの文字は効果音じゃなくて、本気のキーをバシバシと超高速で叩く音。

それを表すように、クマの手の周りから火花のような黄色い星が出ている。

手から出ているカメハメ波。

ドラゴンボールの中のカメハメ波は、相手を攻撃するためだけに使われる技。

パソコンに貼られてるシール『KEEP OUT』は、もう言葉通り、「近寄るな」。

アメリカなんかの殺人現場とかで「立入禁止」を表す黄色いテープが貼られる、あのテープにも確か書いてあったはず。

目には見えないけれど、「近寄るな」オーラがバリバリ出ていた。



さっきLINEのスタンプショップのぞいてたら、江崎グリコの写真のスタンプを発見。

そのスタンプ欲しさに友達に( ̄∀ ̄)。

これ今日【2019/04/22まで】ってなってた。

欲しい方は急いでチェックして下さい。



さかのぼること数時間前。

自分の中の積年積み重なったモヤモヤしたものが出てきそうになった。

すぐに何とかすれば良かったのに、時間が少し経ったらタイミングを逸して、そのモヤモヤが自分の中に引っ込んでしまった。

このモヤモヤはすぐには出せないから、私はそのモヤモヤを引き出せそうな過去のシーンをいくつか思い出した。

過去のモヤモヤを解消するために、何でもいいからモヤモヤしたことを思い出して、それを引き金にして、もっと奥深くに沈んだ感情を引き出す方法がある。

いくつか試したけれど、どれも奥深くに潜れなくて、それで「そうだ!」と思いついて真似したシーンがある。

そのシーンというのが、冒頭の写真と同じシーン。

とりあえず木のテーブルの上にパソコンがあると想定して、私はものすごい速さでタイピングする真似をした。

指の腹で木のテーブルを叩いて音も出して、臨場感たっぷりにやってみた。

超真剣に真似してみたけれど、余計と虚しくなってきて、そして本当は気持ちを開くためにやってるものが余計と気持ちが貝のように閉じて、「あれ?( ̄∀ ̄;)おかしい…」となって止めた。

すごい滑稽な光景ではあるけれど、本気で今日やった。

残念ながら自分の奥深くにも潜れなければ、あの殺気立った状態で近寄るなオーラ全開でキーボード叩いているシーンも、私が意図したようには役立ってくれず( ̄∀ ̄;)。

かなり上手に真似していたと思うけれど、引き金としてはイマイチ役に立たなかった。

ちなみに真似しながら思ったのは、本当にやっていた本人(←私はされた側でやった人は別の人)はどんな気持ちで当時キーボードを叩いていたのかな…?と。

まさか私からLINEのスタンプのスクリーンショットを撮ってまでネタにされてるなんて思ってもいないと思うけれど( ̄∀ ̄)、っていうか本人このスタンプのモデルですか?ばりのそっくりさんだったけれど、本当にどんな気分だったのかな…?と思う。

[殺気+カタカタ音+カメハメ波周波+見えない近寄るなオーラ]

破壊力抜群だったけれども、私も私で変に鍛えられたメンタル力のおかげで、「気付いてはいるけれど私は気にしていません」と言わんばかりに普通に振る舞った。

超大人な対応をしたと思うv( ̄∀ ̄)v。

あの時、万が一私が泣いたりなんかしたら、もう相手テンパってどうしていいかわからなくなったと思う 笑。

泣いとけば良かった!←悪い人。



すごいまとめをすると。

過去の記憶の全部には適用できないけれども、そこに違う意味が加わると、当時はものすごく嫌だったものも笑える思い出になったり、かけがえのない瞬間に変わったりする。

今の私は、その時がもう二度と戻ってこないことも、もう二度と巡ってこないこともわかるから、だからその時がかけがえのない瞬間に変わった。

その時の私は、今日と変わらない明日もあさっても来ると思って疑っていなくて、それがものすごく嫌で、本人に直接普通にして欲しいと頼もうかと思った。

これから先、ずっとそんなのは嫌だと思ったから。

その2日後、今日と変わらない明日は永遠に来るわけじゃないと知った。

もっと笑えなかった。

カタカタキーを叩いて殺気立って近寄るなオーラを出されてる方が何千倍もマシなことが人生にはあるんだと知った。



そんなこんなの思い出が詰まったシーンと同じシーンがLINEのスタンプにあった。

おかしな発想だけど、私は妙に嬉しくなって、江崎グリコと友達になりたいわけではなかったけれど、スタンプ欲しさに友達になった。

こうして書きたい文章まで即席でできてしまった。

30分ほどで書き上げてる。

カタカタ音の記憶は、時間の経過と共にプライスレスで他には代えられないものに生まれ変わった。

LINEスタンプは期限付きだからいつかは使えなくなるスタンプだけど、このシーンを彷彿させる現実にあった瞬間のことは私は生涯忘れないんだろうなぁと思う。

2019年4月21日日曜日

ホロスコープ2年生









この4月でホロスコープの読み解き2年生になった♪٩((*⁰▿⁰*))۶♪

最近は難しいマニアックなことよりも、基礎基本に立ち返ってそれを勉強している。

独学2ヶ月目の終わり、それも基礎をかっ飛ばして自分の興味のあることだけをひたすら独学していた頃に、占星術の基礎講座を受講して本当の本当に良かった。

基礎講座を受ける時まで私は12星座すべての名前も言えなければ、順番なんて全然わからなかった。

唯一知っていた順番は、水瓶座→魚座だけ。

牡羊座と牡牛座の区別がつかなくて、私はこの間自分が過去に書いたブログで順番が逆になっていたところを発見して訂正したぐらい( ̄∀ ̄;)。

一応読んでくれてる人がいると悪いから訂正部分を言うと。

占星術には主に2種類の方法があって、地球から見た天体配置と太陽から見た天体配置がある。

私たちが普段12星座と呼んでるのは、地球から見た時の星座。

私なら生まれた時に太陽が魚座にあったから魚座。

ところが太陽から見ると、その星座が真逆になる。

太陽から見た時は、「地球星座」と呼ぶ。

私なら地球星座が乙女座になる。

『ヘリオセントリック』という手法になる。

牡羊座ー天秤座
牡牛座ー蠍座
双子座ー射手座
蟹座ー山羊座
獅子座ー水瓶座
乙女座ー魚座

とそれぞれ真逆に位置する星座が地球星座になる。

これぐらいわかってない状態で講座を受けて良かった、と。

そして私はそんなに基礎が重要だとは知らなくて、自分のヘンテコなホロスコープを読むために基礎がいると思って受けたに過ぎなかったけれど、受講を決断した1年前の自分に超感謝している。

ホロスコープもとい占星術と呼ばれるものは、とにかく基礎が超大事だと知ったのは、この2〜3ヶ月。

講座受けていた頃から先生から何度も言われて知ってはいたけれど、自分の体感として「超大事」と知ったのはこの2〜3ヶ月。

しかも今週に入って、ある占術家の方が「独学の人は誤った覚え方をすると後からそれを訂正するのに本当に大変だから、きちんと基礎を学んだ方がいい」とあった。

講座を受けなくても、例えば「魚座」なら魚座について解説している色んな人たちの文章を読んで、そこから共通したテーマやルールを見出すことが大事だと説いていた。

特に、アセンダント・太陽・月の区別がつくようにするのが大事!とあった。(←現在の調べ物の主なテーマ)

話がマニアックになったから元に戻すと。

今となっては先生には感謝しかないけれど、私は初級講座の第1回目で心が折れた。

あまりにも難しいのと、ただでさえ苦手な理科の授業の延長みたいに、天体がどうだの黄道がどうだのと、図や解説を見ていてもさっぱりちんぷんかんぷんだった。

(「黄道」(こうどう)を「おうどう」と読み間違えてる時点で、色々やらかしまくりだった( ̄∀ ̄;))

第1回目が私には何よりも難しかった。

講座のテキストの表紙に『宇宙と個人のつながり』とあるけれど、私は宇宙につながるよりも前にまずは日本語そのものとしっかり繋がらないととても読解できないレベルだった( ̄ཀ ̄;;)。

ようやく最近、その時の説明が少しずつ理解できるようになったぐらい(←本当に単純に理科が苦手過ぎるんだと思う)。

正直、2回目は「行かない」とまで思ったぐらいに私には理解できないし面白みのカケラもなかった。

クラスメイトたちとも仲良くなれそうにもないし、東京まで行くから交通費や食費もあれこれかかる。

2回目以降は行かない!と思ったら、これはなんと全6回のセットでの講座で、行かなくてもあとからテキストと音声をもらう代わりに受講料を払うシステムになっていた。

それなら、通った方が絶対に良いと判断して、それで2回目以降も通い続けた。

そういう強制力のおかげで、私は投げ出さずに最後まで通えたし、そして頭に一向に入る気配のない基礎を徹底的に先生に教えてもらえた。

投げ出す気満々だったところを引き止めてもらえて、おかげで私はその時のことが今とっても役立っている。

そして、どうにも面白みに欠けているとしか思えなかった基礎が本気で大事だと1年経った今わかって、やっと基礎の勉強を始めたのが最近。

もっと言うと、基礎こそ難しくて私はどの本も基礎は読めずにいたけれど、今は基礎ができてきたからようやく最近、難解な専門用語たちを難なく読めるようになってきた。

先生お手製のテキストは、一生の財産だと感じている。

本当にこれ以上ないぐらいわかりやすく、そして超大事な基礎をひたすら押さえた素晴らしいテキストになっている。

同じ内容を受けようと思ったら、30万ぐらいが相場と知って驚いた((((;゚Д゚)))))))。

私はその内容を5000円掛けることの6回で3万円で受けてきた。

色々有り得ないラッキーなことが重なって私は必要な情報をもらって来れた。

そういえば、先生も先生のサポートに回る運営の先生(←この方も占術家)も口を揃えて「基礎が何よりも大事!」と何回も言っていた。

私も今その意味が1年越しにわかるようになった。

何事もそうだとは思うけれど、普通は初級、中級、上級と進むにつれて難しくなる。

ただ、ホロスコープは中級だろうが上級だろうが、まずは「基礎・初級」の徹底を言われる。

それがないと、本当に先の上級編はもっと太刀打ちできない。

先生いわく、中級・上級の方がある意味覚えることも少ないし把握するポイントがかなり限られてくるから、初級より楽だと言っていた。

初級=基礎の部分が何よりも難しい、2人の先生は口を揃えてそう言っていた。



講座の先生からもそれとなく言われたし、去年の夏受けた鑑定の先生からはもっとはっきりと言われたけれど、私の生まれた瞬間のホロスコープは「扱いにくい・生きづらい」ものに入ると言われた。

そう言われる理由は、おそらくだけど、あまりにも相容れない真逆のものをたくさん持っていたり、トランスサタニアンと呼ばれる天王星・海王星・冥王星が強く影響していたり、あとはアスペクトと呼ばれる天体同士で結ぶ角度がやたらとマニアックで超がつく特殊なものが多くて…ということからだと思う。

余談だけど、この間「嫌いなアスペクト」とかいうタグが付いたツイッターを見つけて、投稿されていたものを見たら…。

何人かの人たちが挙げていたそれぞれ別のタイプのアスペクトを、自分はいくつも持ち合わせていることに気付いた( ̄∀ ̄;)。

1つでも嫌とされるものを、そんなに何人もの人がそれぞれ嫌と感じるものを併せ持った私のホロスコープがなんだか可哀想になってきた( ̄∀ ̄;)。

反対に「好きなアスペクト」タグも見て、そこに通常は「嫌われアスペクト」に入るものを挙げていた人がいて感動した!

私もその「嫌われアスペクト」を持っていて、その誰かが好きと言っているのを見て希望を持てた。

私もそう言えるようになりたい!!!と鼻息荒く決意した( ̄∀ ̄)!

90数%の占術家からは歓迎されないタイプの要素をあまりにもたくさん持ち過ぎな私は、もう逆をいくことにした。

あまりに強烈だから、それがどう活かされるのかを見る方向に変えた。

ちなみにそれは講座の先生も鑑定の先生もそこは何度も何度も丁寧に伝えてくれたことだった。

たしかに扱いづらいし生きづらさもてんこ盛りと言わんばかりにやたらと多いけれど、それらが私を作っているもので、そして自分の道が見つかった時にそうしたものが私にとってかけがえのないものになると教えてくれた。

2人の先生が示してくれたヒントはものすごく大切で、最近「こういうことかも!」と思ったことがあった。



『奇跡の果実』がわかりやすかったけれど、あれは私にとって癒しをもたらすものでもあった。

巷では「恋愛の星」などと呼ばれる金星。

私はその金星と魂の傷なんかを表すキロンという天体とが、1度程度の差で90度(占星術用語で「スクエア」と呼ばれる)になっている。

角度差が小さければ小さいほど(1度はとても小さい)、影響は大きく出る。

90度という角度は角度を想像してもらったらわかりやすいかと思うけれど、相容れない同士がぶつかる。

「私は真っ直ぐ縦に進むから!」
「いや、あなたが真っ直ぐでも私は横に突き進むから!」
とお互いに譲らず、相手を否定しながら突き進む。

当然緊張感が高く、安心感とか皆無( ̄ཀ ̄;;)。

単純に読み解くと、「金星ーキロン=恋愛・愛に対してガンガン傷付く」となる( ̄ཀ ̄;;)。

金星は女性性の象徴とも言われていて、こちらももれなく傷付きまくり( ̄ཀ ̄;;)。

しかも私の金星は水瓶座で、水瓶座というのは「変わり者」と若干不名誉な名前まで付いている( ̄ཀ ̄;;)。

変わり者の部分も愛されるよりも攻撃の対象、恋愛においてもガシガシと傷が飛んでくる…みたいな、オーソドックスな読み解きの例としてはそんな風になる。

今調べてヒットしたものたち↓( ̄∀ ̄;)。

愛する人から過去世で何度も傷付けられた、恋愛に超絶苦手意識、容姿にコンプレックス、自分を醜いと思う、恋愛全般に対して自信ない、だって( ̄ཀ ̄;;)。

「私そんなことない!」と全力で否定したいところだけど、ヒットする過去盛りだくさんみたいな( ̄ཀ ̄;;)。

もう少し私個人の場合として深く読むと、自分の美的感覚や価値観、しかも自分の五感から導いた感覚が傷付きやすい、自尊心を育むのに横やりが入りやすいとか、そんな風にも読める。

ついでに、私は目に見えない世界のこと全般に対して苦手意識が異常に強め、近寄りたくないのもキロンが関わってくる。

そして自分が見えない世界のこと、例えば心とか潜在意識のことに対して、自分が一生懸命積み重ねたものを赤の他人から余計なことを言われるのも苦手。

まぁそんなの私じゃなくても、自分が真剣に取り組んだものに第三者が茶々を入れるなんて普通に嫌だと思うけれど。

いずれにしても、明るい読み解きは難しい。

だけど、その【金星ーキロン】の痛々しいところに、私は
・助っ人その1:火星
・助っ人その2:水星
を持っている。

火星は行動してなんぼみたいな感じだし、水星はコミュニケーションや知性使いまくってなんぼみたいな感じ。

私の火星は、弱い部分に寄り添うことにものすごく意欲的だし、私の水星は「言葉が降ってくる」感覚で何か言葉をキャッチして表現をするのが得意。

『奇跡の果実』62記事を通して、何が起きたかと言うと。

自分が五感や心で感じたこと、オカルトワールド要素も余すことなく、言葉で表現しまくった。

私の場合は、それが自分の癒しに繋がる。

言葉だけ読むと他の人たちには理解できないとは思うけれど、たしかに私にはその行動が自分をとても癒した。

特に秘密にしたかった自分のオカルト的な部分を堂々とそのまま表現できたのは大きかった。

そしてそういう自分を周りからも受け入れてもらう体験もしたわけで、より一層心に癒し薬を届けられることとなった。

私みたいに書くのも苦にならなければ、家にこもるのも苦にならない、ずっと同じことをしていても好きなものなら基本飽きない、とかいう色んな性質も互いに協力し合って、癒しがもたらされた。

それが恋愛についてもいきなりすごい癒しがもたらされたとかにはならなくても、自分の持っているものを肯定する材料にはなったから、そこを受け取るにはものすごい良い体験になった。

恋愛の癒しと呼ぶのはかなり抵抗があるけれど、過去世から持ち越した人間関係は『奇跡の果実』を通して1つ癒しが生まれた。

自分が望んだ形とは違っていても、きちんと見守ってもらえてるというのは書いている途中からわかった。

それは私の場合は、書くことでしか得られないものだったから、しかも書くものは自分の中でも自分の本質に相当迫ったもので、その部分を静かに見守ってもらえたことはとても大きかった。

「傷」「傷」と連発しまくりだけど、私が傷に対して思うことは、傷は教えてくれることもたくさんあるということ。

痛みは色々出てきても、傷の本当の正体は大切な何かを教えてくれるものだと思っている。

だから、それが魂の傷でも恋愛や愛の関わる分野からもたらされた傷でも自尊心が傷付く傷でも女性性に関しての傷でも、それは痛みと同時にそれを癒す方法も癒せる可能性も伝えてくれる。

自分の傷を1つ1つ自分のペースでゆっくり見てそこに対して色んなことをしていくうちに、例えば手に入れた1つは「自分に対する信頼感」だった。

自分のためなら、私は何かきちんとする人なんだとわかって嬉しかった。

自分のことを無視しない、傷付いたら傷付いた自分を休ませる居場所を作る、自力で癒せる部分は自力でがんばる、そういうことの繰り返しが本当に自分に色んな変化とプラスのものをもたらした。

自分の中でも嫌だと思うもの・苦手と感じるものを自分が受け取るというのは、最初こそキツイけれど、慣れてくるとそういう行動をしている自分に対して親しみや安らぎみたいなのを覚える。

元々、心の癒しを大きくテーマとして取り組んできたけれども、そこに加えてテーマ10年目の節目にホロスコープがやってきたことはとても大きかった。

それまでは掴みどころのないものに全て体当たり状態だったのが、ホロスコープの知識を得たことで体当たりの前にヒントを得られるようになった。

ゲームの攻略本みたいなもので、この面をクリアするには…って調べる感覚に似ている。



(#つぶやき:毎回のことではあるけれど、今回も思いついたものを順に書いていたら、話がバンバン飛んでる。次からまた違う面へワープ( ̄∀ ̄;)。
言い訳みたいだけど、無意識や心の深いところを探求する知的好奇心が旺盛なのもホロスコープに出ている…。恐るべしホロスコープ!)



1年前2018年の2月、人生で初めてホロスコープ鑑定を受けた時に
「ホロスコープはアカシックレコード、
すなわち【魂の青写真】【魂の設計図】」
と教えてもらって、度肝を抜かれた。

たしかに20枚に及ぶ鑑定書には、私という人間の性質が色んな側面から語られていた。

その後1年かけて自分で自分のホロスコープを読み解くようになって、本当にその通りだとますます思っている。

もちろん全部なんて意味がわからなくても、色んな切り口で自分というパズルのピースを集めている。

私は自分のピースを集めれば集めるほど、自分というものが客観的にわかって、そして安心できる部分が出てきた。

私の人生の設計図は、世の中の価値観とは大きく異なる。

だけど、設計図通りに生きている感じはする。

世の中の反逆児みたいな生き様でも、周りの人たちが普通にできてることが私はそれらがまともにできなくても、それでも自分のホロスコープの通りに生きて進んでいる。

ホロスコープは教えてくれる。

それで大丈夫だよ、と。

この間子育てコラムみたいなものを見て、唸りそうになった名言があった。

子どもに与えるものとして大切なのは「愛情」ではなく「安心感」だということ。

すっごい納得した。

両親から大切にされたとか愛されたという感覚はあっても、それと安心感とは全く別物で、私はいつも根っこの部分の不安感が半端なく高いまま大人になった。

自分の両親を責めるつもりは一切ないけれど、私が子どもの頃から何がそんなにも不安に駆られまくったのかと言えば、【安心感がなかった】の一言に尽きる。

両親だけのせいということは全くなくて、両親が目指したのは、社会で生きていける子どもだったと思う。

そして、両親の中であった基準は、「社会の基準」だったと今振り返って思う。

ただ、私はことごとくその「社会の基準」から外れまくっていたから、それに合わせようと両親は両親で必死だったこともわかる。

そのための訓練は日々色んな場面で行われて、おかげで今ぐらいの知能と知性と努力する才能は手に入ったけれど、その裏側では「常にダメな自分」の称号もしっかりと意識に深く刻まれた。

自己否定と自己卑下は無意識のうちに超絶得意になって、私は自己否定してることすら30代に入るまで気付かない有り様だった。

私は常々ありのままではいられないと思って、自分を良くしなきゃみたいな脅迫観念とか、そのままの自分じゃダメだから自分を出せない自信のなさとか、それら諸々がミルクレープのように積み重なって、やがて巨大な不安感の塊ももれなく出来上がった( ̄∀ ̄;)。

矛盾した風に聞こえるかもしれないけれど、私は社会の基準ではなく真新しい基準を持って生きることも人生のテーマに含まれているから、そのような体験も必要だったと思う。

だって、そこそこ社会の枠の中で楽しく生きられたなら、私は今こんなにホロスコープやら心のケアやらに自分の時間を費やすなんて絶対にしなかった。

本当に驚くぐらい、ホロスコープの中にある色んなテーマをそつなく、そしてこぼすことなく完璧に体験している( ̄∀ ̄;)。

余談だけど、【安心感が得にくい】こともホロスコープには出ている。

しかも強烈にその部分が私の場合は強く出ている。

これもまた別の質問をした時に、先生から教えてもらったことだった。
(先生に質問すると、いつも質問からは到底想像できない答えが返ってきて、毎回度肝を抜かれまくりだった( ̄∀ ̄;)。)

先生によると、私の場合は2つも3つも特殊な要素が重なってしまって、「【安心】【安全】への飢餓感」といったものが強い傾向にあって、「居場所のなさ」もまた異常に拡大しやすい天体配置があるとのこと。

先生は専門的に色々分析したものを伝えてくれた上で最後に
【心から安全だと思える場所を探すことに鍵がある】
とヒントをくれた。

自分でも難しいと思ったけれども、1つわかったことがある。

自分でもその安心感や安全に対する飢餓感が異常に強いのはやっとこの半年ぐらいかけて自覚できるようになってきた。

元々飢餓感が強いというのは、同時に安心・安全を必死で求めるから、私は長いことあらゆる手でその安心安全を得ようと画策している。

異常な不安の強さは、それを否定するとか不安を消す方法ではなくて、どんなに不安を膨らませてもいいから、それを補うぐらいの安心安全ポイントを自分のために見つけてあげることだった。

これが私にとっては大事なんだってわかった。

私は自分の不安体質で好きなところがある。

本当に不安だから、その不安を少しでも解消できるなら、その不安を肯定して受け止めるためのヒントを超必死で探すこと。

執念に近くて、私は自分が心休まるヒントに行き着くまでいくらでも探す。

私のこの心の癒しだとか不安との付き合い方のヒントとかを探すための集中力は半端ない。

そして、最近わかったのは、私は自分のやり方に堂々としていたらいいんだとわかった。

周りの人たちにではなく、私の中でということ。

自分の色んな方法や体質、考え方が世間とは大きくズレてることはよくわかった。

ズレてるからこそ生きづらくてそれに合わせようと長く頑張っていたけれど、やっとわかってきた。

自分を変えるなんてそれほど大変なことはないから、自分はそのままにして、外から来る心にグサグサと来るものに対して、きちんと自分なりの判断と咀嚼をしようと。

本当にピンときたら、ありがたく言葉を受け取る。

だけど、ピンとこないとか自分の中に暗い影を落とすとかだったら、それは相手の考え方で自分の考え方じゃない、という視点を自分のために持つ。

その大切さがわかるようになってきた。

これも全部【不安感の強さ】によってもたらされた素晴らしい視点だった。

こうした色々を紐解いていくと、ホロスコープが魂の設計図だというのがよくわかる。

そして、生まれた時に一緒に持ってきた課題もあるけれど、それを乗り越えるための力も一緒に授けられている。

そのヒントを求めたら、色んな形でもたらされる。

そして、私が大事にしているのは、心で感じること。

頭で正しいと思っても絶対にダメで、心で感じること。

そして、心に響くのは、自然に勝手に響く。

意図して響かせてるものは、思考や意識レベルで無理矢理してるから、結局何も変わらない。

だけど、心でスッと吸収できたのは、勝手にやっているから、深いところで自分が癒される。



安心感とか書いていたら、その後風呂の中で読んだ本の中に出てきたv( ̄∀ ̄)v!


【安心……これさえあれば、人はまた今日を生きる流れに乗っていける。】


引用元:『吹上奇譚(きたん)第二話 どんぶり』
吉本ばなな



冒頭の写真にある『未来事典』は、私が人生で初めて買ったホロスコープの本。

先日友達に紹介して友達も超気に入って買おうとしたら、なんと絶版になっていて通常の3倍近い値段で現在出てるとのこと。

この本は東京の吉祥寺にあるスープカレー屋さんで見つけたのが最初だった。

まだその頃はホロスコープを知らなかった。

私があまりにも食いついて見ていたから、女店主さんが「近くにコンビニがあるから、良かったらコピーしてもらってもいいですよ」と言ってくれて、それで本当にコピーした。

最初は「とにかく当たる!」と思って気になった本だけど、まさかそれがホロスコープと関連していて、そして私の場合は【サビアンシンボル】と呼ばれるものこそ一番ホロスコープを読むのに役立つなんて、思ってもいなかった。

【サビアンシンボル】の存在を知ったのは、それから2ヶ月後のことだった。

人生で初めてのホロスコープ鑑定を受けた時に事前に鑑定書をデータでもらって、その中に見覚えのあるフレーズがあった。

もしかして!?と思って、吉祥寺のコンビニでコピーした紙を出してきて見たら、言い回しが少し違うものの、中身は一緒だった。

本気で驚いた。

単に「当たる」と思ってコピーしただけだったのに、まさかそれがホロスコープに関連したもので、もう一度意外な形で再会するなんて思ってもいなかった。

今でも大活用していて、週に1〜2回は開いて使っている。

本当に縁のある本だったことがわかる。

余談だけど、その時の鑑定士さんにサビアンシンボルの調べ方を聞いた。

ネットでの調べ方と有名なサイトを教えてもらった。

有名なサイトは今も調べ物でよく見るけれど、今度はそのサイトの方を別の形で紹介されることになった。

占星術初級講座は、講師の先生と運営の先生と2人で共同開催されている。

運営側の先生が年に3〜4回ほど、今後開催する講座の案内をメールでくれる。

その中にそのサビアンシンボルのサイトの方が出てきて、あまりのピンポイントでの繋がりに驚いた。

運営の先生に直接聞いたら、「ご縁があって繋がった方なのよ〜」とさらりと説明してくれた。

還暦近いお年のはずだけれど、「私『変わり者』と言われるの、ふふふ」って言えるのが本当に素敵な先生。

今ほど占いもスピリチュアルも世に浸透していない頃から活躍されて、時代背景的にも大変だったとは思うけれども、その中で変わり者呼ばわりされても笑えるその強さがすごいなぁと感じた。

見た感じはすごい可愛らしい、少女のまま大人になったみたいな方だけど、本当に素敵な年の重ね方だなぁと感じる。

そうやって、色んなものを運んできてくれた『未来事典』。

つくづくご縁のあるものは、いつも不思議な感じで人生に登場してくる。



何かしらホロスコープの調べ物をしていたら、海外在住の日本人の方で占星術をされてる方のブログに行き着いた。

その方は海外で占星術に触れたから、全て英語で本を読んでるようだった。

その方いわく、日本語の占星術の書籍は内容にかなり偏りがあったり、言葉の説明が著者の主観的なものだったりするらしい。

いくつかその方のブログを読んで、たしかに言わんとすることはわかるような気がした。

その方の文章は学術的な説明が多くて、私が夏に受けた鑑定の先生の切り口と似てるなぁなんて思った。

海外書籍との差を知って、自分が当たった講座の先生がどれほどフラットに論理的にホロスコープの基礎を教えてくれたかがものすごくよくわかった。

読み解き方は無限大にあるし、占術家が100人いたら100通りの解釈がある。

私はあちこちから色んな情報を引っ張ってくるけれど、それが今できるのは初級講座のおかげだとわかる。

元々、ブログから情報を引っ張ってくる時の目が養われていたこともあるかもしれないけれど(料理レシピから心理ワークまで色々試したから、良し悪しが感覚的にすぐわかる)、占星術に関しても書いている方の知識の深さとか偏りの具合とか、なんとなくわかる。

私の先生は、個人の主観や価値観ではなくフラットにホロスコープを読む方法を徹底して教えてくれた。

最後の課題は、ASKAと中森明菜のホロスコープの読み解きだったけれど、その時も言われた。

「社会に出ている情報を参考にされてもいいですが、あくまでも見るのはホロスコープで、そして表には出てこないそれぞれの個人の人の特徴をホロスコープから読み解いて下さい。芸能人だからどうしても話題に出てくる部分ばかりがクローズアップされますが、そこではなく表には出さないだけで本人が持っているもの、そういうものをみなさんの目で見つけて来てください」

そんな風に指示を出されていた。

他にも著名人の方のホロスコープを何人か例として見たけれど、名前は伏せられたままホロスコープを読むと面白いことがわかった。

特徴は読み解けるけれど、それが現実的にどういう出方をするかはわからない。

ホロスコープが教えてくれるのはあくまで傾向で、その傾向がどんな風に実生活で表現されるかは未知数。

普段の鑑定で謎の人物のホロスコープを読むことはないけれど、それぐらい外からの情報ではなく目の前のホロスコープを見て、そこからその人物の持っているものをフラットに見つめること・読み解くことが大切だと先生は教えてくれた。

先日、性犯罪・ドラッグ・交通事故等を引き起こした芸能人たちのホロスコープを読む方のブログをたまたま見た。

「Aさんが性犯罪を犯したのは、ホロスコープの天体でこれこれこんな配置を持っていて…」

こういう説明になっていた。

絶対に違うと感じた。

たしかにそういう出方の可能性もあったのかもしれない。

でもそうではない別の読み解きもある。

「犯罪を犯したのは、こういうホロスコープだから」というスタイルに私は違和感を覚えた。

そして、そういう物事の見方をしないように、先生は何度も何度もフラットに見ることの大切さを説かれていた。

海外在住者の方ではないけれど、本当に理論理屈を持って、良い悪いではなくあくまでも傾向として読む方法を早い段階で習って良かった。

危うく独学で変な癖がつくところだった。

ちなみに先生からは常々、「武士俣さん、主観的ではなく客観的にホロスコープを読み解くといいですよ!」と言われていた( ̄∀ ̄;)。



色々書いたけれども、私もどうしてそんなにもホロスコープにどハマりしたのかは正直よくわからない。

自分の答え合わせみたいなところもあるし、単純に自分を知れるのが面白いというのもある。

けれど、ここまでハマらなくても…と思うぐらいにハマっている。

ちなみに占星術の一番好きな考え方は、
「みんな違って、みんなそれぞれが良い」
というところ。

本当に1人として同じものがないから、同じである必要がない。

好みも強みも課題もテーマも弱みも傷もみんな違う。

それをものすごく客観的に伝えてくれるツールだと私は思っている。

それがある限り、自分のことに集中できる。

外の価値観ではなく、それぞれ固有の価値観を持って生きることが正解、そんなメッセージが聞こえてくる。



(つぶやき#何回かに分けて書いたら、ものすごく話が飛んでいて、自分でも驚いた!(◎_◎;)
「ホロスコープ」だけが共通項で、内容は一貫性がない…Σ(꒪◊꒪; )))) 。

余談だけど、どういう方たちが私のブログを読んでくれているのか、一度話を聞いてみたい(o´艸`)。こんなまとまりのない文章にお付き合いしてくれるぐらいだから、超心の広い寛容な方たちなんじゃないかと思ってる(о´∀`о))



【写真】

・初級講座のテキストの表紙。
クラスメイトの1人が色ぬりをしているのを見て、私も家で色鉛筆出して塗った!

・未来事典と人生初のホロスコープ鑑定書

・千円以上する超高級ノートは、ホロスコープ専用学びのノート。1年前に人様の善意のお金で買わせてもらって、この度1冊目が終わった。(96枚)
すごい書きやすかったから、次も同じノートにする予定。

・上のノートの1枚目。
同じようなシールが並んでるのは、前の職場で仕事中に(←えっ?)テプラで12星座の絵柄とマークを見つけて、それで打ち込んで印刷してきた( ̄∀ ̄)!
(職権濫用…( ̄∀ ̄;))
本当は700だのRDだのと打たないといけないのに、仕事するフリして違うことしてたv( ̄3 ̄)v
記念すべき1ページ目にピッタリなシール!
残り3枚も2代目以降のノートの1ページ目に貼ろうと目論んでる( ̄∀ ̄)。

2019年4月20日土曜日

さくらの花びらのおみやげ〜春の散歩









春の陽気の中、小さな散歩をしてきた。

散り始めてはいたけれど、まだまだ桜は咲いていた。

桜の花が散り始めて、地面がピンク色になるあの風景が毎年好きだなぁと感じる。

帰り道、近所の家の水仙が目に入った。

無人宅になっている。

最後おばあちゃんだったかが1人になって、施設に入ったらしい。

小さな庭の水仙たちは、人が住んでいようがいまいが関係なく、普通に咲いていた。

自然の力のすごさを感じる。

人間は頭で一生懸命考えて、たとえそれが自然に逆らっていようが、無理矢理その頭で出した答えやスケジュールに合わせて動いたりする。

自然は、カレンダーや時計があるわけじゃないのに、もちろんスマホだのタブレットだのパソコンもないけれど、脈々と流れている時間と季節に合わせて、芽を出して花を咲かせて実を実らせて最後は枯れてまた次に備える。

家に着いて羽織っていたカーディガンを脱いだ。

畳の上に桜の花びらが落ちた。

粋な演出だなぁと、嬉しくなって木のテーブルの上に載せた。

2019/04/20  14:30



2019/04/20  12:45

今ふと出てきた。

魂同士は再会できて、すごい喜び合ってるのかなと。

人間側はいちいち人間らしく面倒なことをあれこれ考えてややこしくしているけれど、魂と魂は「やったね!やったぜ!」的な感じでもう満足しているのかもしれないな、と。

だから、魂と魂は通じ合ってお互いにスキップしてるかもしれない。

人間側はそんな単純じゃないし、社会的に考えてとか、常識的に考えてとか、ふつうは…と何が普通かもわかってないのに普通枠を意識してとか…、そうやって面倒なものに仕立てている。



2019/04/20  20:56

天秤座の月が部屋からよく見える。

満月ではないけれど、満月みたいなまん丸の月。

昨日の夜、満月に合わせて3分間瞑想をした。

1年前の誕生日に菩提樹の実でできた首飾り風のアクセサリーを買った。

108個の実でできていて、その販売者の方のブログを読んでいたら、満月にさっとできる簡単瞑想の方法が出ていた。

願い事でも好きな言葉でもいいから、それを108個の実を指で回して送りながら唱えるというものだった。

細かな決まりはなくて、やり方も自分のやりやすい方法でいいとあったから、私はやった。

なんと、2回やった!

その時、本当に不思議な感じで「繋がってる」のがわかった。

普段「繋がってる」とかいう言葉を使うのは好きじゃないし、よくスピ系の人たちが使う上っ面だけの言葉が大嫌いで、私は自分の心で感じてる時さえも、そうだと言葉にするのに抵抗がある。

だけど昨日は、感覚はそれだった。

っていうか本当は昨日だけじゃなくていつもそうだけど、私が怖くて全て覆い隠してしまっているのかもしれない。



体は魂の乗り物とか魂の寺院と表現されたりする。

乗り物や寺院を飛び出して魂はすべてお見通しなのかと思う。

だけど、乗り物にしても寺院にしてもそれは物体だから、魂みたいに勝手には飛び出せない。

普段はじっとしていても、昨日の夜は魂が教えてくれたみたいな感じだったのかもしれない。

ほらここにいるよ、って。

ここにいるじゃない。

「ある」って感じだった。

普段私たちは空気があるかどうかなんて確認しない。

確認のしようもない、見えないから。

だけど確実にある。

言うなればその感覚が一番近い。

見えるばかりの行動が全部じゃない。

むしろ空気みたいに見えないのに確実にあるとわかるって本当にすごいことで、昨日はその見えない部分を純粋に曇りなく感じられた。

上の「再会を喜び合ってる」と書いたのは、半分うたた寝しそうな目も閉じかかってぽわーんとしていた時に突然出てきた。

半分寝ぼけたまま、携帯を手繰り寄せて打ち込んだ。



多分私が悶々としたのと同じぐらい悶々としたんだと思う。

私は計画から数えて2週間悶々としたけれど、そして思い通りにならない現実にやきもきもしたけれど、自分ばかりが悶々としたわけじゃないと思ったら、1人じゃないんだなと思った。

もう二度と動揺や波紋を呼ぶようなことはしないから大丈夫だよ、と自分の中で誓いを立てる。

ごまかす余地がないぐらいに不器用なところ。

その不器用さは、人の心に響くし伝わる。

「無」を貫くというのは、最初は「無い」状態に気付かない。

何も無いことにされた、という解釈にもされやすい。

実際に私はずっとそう思っていた。

だけど、「無」を貫いている(貫くつもりだったのか、気付いたらそうなったのかは別にして)というのがある程度の時間をかけて貯まると、それが見えるようになる。

春になったら桜が咲いたり菜の花や水仙が咲くのと一緒で、見えない部分でずっと根が張られている。

地中は見えないけれども、見えないところでは絶え間なく次のステージに移るための準備がなされている。

不器用だからなのか、無を貫くと決めたからなのか、気付いたら今みたいになったのか、実際のところは知らない。

だけど、その見えない部分は感じられるぐらいの輪郭を持ったのは本当。

そして、それを感じたから私は見えないのに「ある」って感じた。

はっきりと「ある」ってわかった。



私の分析ツールにおいて「不器用」とされたもの。

それも超筋金入りのバリバリの不器用。

私は不器用には不器用の芽の出し方、花の咲かせ方があると思っている。

それは愛すべきキャラクターだと思うし、実際にスマートな身のこなしよりも誠実な感じがする。

自分で今書いててわかった。

言葉を出せない感じってこんな感じなのかも…

2時間半近くかかって、やっとここまで書いてる。

普段の自分のペースからは考えられないぐらいに言葉を選んで書いて、やっとここまで来た。

言葉を出せないのは、言葉を持ってないのとも思いがないのとも違う。

私が今1つだけ確実に言えることは、私はそれを理解する努力をしたいと思っている。

理解できるような器は持ってないかもしれないけれど、知りたい欲求だけはものすごくあるから、それでカバーできる気がする。

純粋に知りたいという気持ちは、理解なんかできなくてもそれを上回る何かがある気がしてならない。

上の「2時間半」ってところからさらにもう30分ほど経過した。

言葉を外に出すってこんなに大変なんだとわかった。

そう思ったら、普段ダラダラといくらでも文章を書いている私って凄いんだなと思った( ̄∀ ̄)。

2019年4月19日金曜日

食卓実験室

今回のタイトル『食卓実験室』、自分でとても気に入っている。

珍しくタイトルが先に決まった。

いつもはタイトルは後で、30〜50回に1回ぐらいはタイトルが先に来る。

内容は単なる日常だから、「で?何それ?」みたいな話でオチもないけれど、その楽しい感じで書けるのが良い。

『奇跡の果実』を書いている時、ちなみに全部で62記事書いたけれど、後半はどんどん内容がヘビーで書いててしんどくなっていた。

義務とまでいかなくても、「書く必要があること」という感じだった。

さりげにウラ話とかが実は書いていて一番気持ちが楽チンだったし、自分でその枠を作って良かった。

本編とLessonだけ書いていたらパンクしたと思う。

どれも書いて良かったし、この書いたことがこれから私の中でどういう意味を持つようになるのかを見ていくのも楽しみではあるけれど、二度とあんな風には文章を書けないなぁとは思う。

もう終わったから、気が向いたらあの書いている時の裏側も書いてみたいなぁと思う。

ちなみに『奇跡の果実』はもう少しだけプラスαで記事を書く予定。

今のところ1つだけ確定しているのは、最終章の先の話。

書くための中身が揃った時点で(+私の気持ちが向いた時点で)、タイトルをどうするかは決めていないけれど、何かしらは書く。

カードリーディングの方の紹介も。

実は去年の11月の終わりから書こうと思って延ばし続けていた『徳を積む人』というタイトルのものも、『奇跡の果実』の内容と連動していて、それもいつかのタイミングで書きたいと思っている。

単なる先延ばしかと思っていたら、『奇跡の果実』の渦中にそれにまつわるエピソードも出てきたから、「だから延びたんだ」と思った。

あと何か抜けてたら書くかもしれない。

書いていて思った。

『奇跡の果実』は、たしかに自分である程度自由には書けたけれど、書く内容が予め決まっていて、それに沿って言葉をひたすら編み続けた。

枠組みがあって、その中では自由だけど、枠組みそのものの変更はできない感じだったから、それでこの『食卓実験室』みたいなノリを含めることは難しかった。

あれは私が書いているようで半分は私が単に代筆している感じもしないわけでもなかったから、ちょっと特殊な書き物だったと今になって思う。

代筆というのは、起こった出来事やそこに登場してくる人たちとのことを、私は記録係として書いているみたいな感じ。

決して何か見えない存在が降り立って私に何かを書かせるとかいうことじゃない。

(…と思う。というのは、Oさんの霊視によれば、私の書いた文章は、ものによって私以外のエネルギーも含まれて構成されてるとのことだったから。
と言われても、私はずっと同じ意識で書いているから、実感としては何も感じない。)

読者をイメージしてる風でもなければ、誰に向けて発信するというのがある特定の記事いくつかを除いてはなかった。

こうして少し振り返ると、非常に不思議な感じの文章を書いていたなぁと思う。

今回みたいにいくつか自由に文章を書いたら、『奇跡の果実』を振り返るのはやっぱり面白いだろうなぁと書きながら思った。



前置きが長くなったけど、『食卓実験室』。

昨日は冷蔵庫も冷凍庫も空っぽに近かった。

メインにできる肉か魚がなくて、さて何食べようかとなった。

ガサゴソ冷凍庫と乾物系を入れておく引き出しとを見て決めた。

多分時間にして2分か3分。

・あさりとベーコンのグラタン
・切昆布煮
・ネギと桜エビのチヂミ

洋食・和食・韓国と全くジャンルの違うもの同士を作ることにした。

「グラタン」と言うと、大抵の人が大変だと想像すると思う。

私の中ではグラタンは楽チンな料理。

ちなみに手順は簡単で、
・具材を適当な油を敷いて炒める
・適度に火が通ったら、コンソメや塩、こしょうとかで味付けをして火を止める
・具材に適当に小麦粉を振る
・小麦粉が具材に絡むように混ぜ合わせる
・牛乳を入れる
・火を入れてトロミがつくまで適当に混ぜる
・耐熱皿に移して焼く

バターの風味が欲しければバターが良いけれど、油なら基本何でもいい。

サラダ油かオリーブ油がクセがなくていいと思う。

ごま油はやったことないからわからない。

グラタンの最大の良さは、具材を選ばないこと。

そもそもグラタンになった理由はそれだった。

あさりは、1人分のあさりの入ったパスタ程度の量しかなかった。

ベーコンは、たばこの箱位のかたまりが1つ。

これで3人分のメインを作るとなると難しかった。

そのまま出したら、1人あたり二口ないし三口でメインが終わる。

そこで私はグラタンにした。

グラタンなら時々あさりや時々ベーコンが当たって、私なんかはあさりが当たると得した気分にさえなる。

それなら他の具材に時々あさりやベーコンが顔を出して花を添えるから、メインらしいメインになる。

今は早ゆでマカロニみたいなのもあってマカロニは茹でるの4分だったし、あとは玉ねぎをスライスしただけだった。

とにかくグラタンは中身を選ばないし、よほど何かを間違わなければまずくはならない。

分量も適当だけど、失敗しない。

パン粉の常備はないから、半枚の食パンだけがあるのを見つけて、それをミキサーにかけてパン粉にした。

あとはチーズをのせて焼くだけ。

トースト焼く感じで焼けばいい。

ちなみに耐熱皿とかグラタン皿なんてなくても、適当なお皿に盛って焼けばいい。

大事なのは、万が一そのお皿がオーブンで使われた後ダメになっても大丈夫!、というのが唯一の皿選びのポイントかもしれない。

昨日は1つはヤマザキのパン祭の皿を使った。

ちなみにこれまで一度もダメになったお皿はない。

とにかく、ザ・適当でいい。

なのに見栄えするし、面倒をしたと思ってもらいやすいから、私は人を家に呼ぶ時は相当な回数でグラタンを出した。

切昆布は賞味期限を見たら2017という文字が見えたのは気のせいではなかったと思う。

乾物だからいけるだろうと思って水で戻したら、問題なし。

適当に煮汁を調合して、切昆布と冷凍庫から発掘したさつま揚げとあと「うち豆」と言って大豆を潰した乾燥豆があって、それを全部入れて煮た。

10分も煮たら完成。

煮汁の内訳は、絶対に必要なのが醤油・砂糖・ほんだしとかの顆粒の和風だし。(プラスで水)

酒やみりんもあってもいい。

なんならめんつゆを薄めて使ってもいい。

分量は目分量( ̄∀ ̄)!

チヂミは、ネギの青い部分を使ってしまいたかった。

じゃないとすぐにダメになって使えなくなる。

ネギを細い輪切りにしてあとは乾燥の桜エビを足して、小麦粉と混ぜて、フライパンで焼くだけ。

これも2枚合わせて15分ぐらいだったと思う。

チヂミもグラタン並みに自由度が高くていい。

食べきれない食材とか、あまり美味しくなくて普通に食べるのが難しいものは、チヂミやグラタンの具材にピッタリ!

チヂミも色々試したけれど、まずいものは1つもこれまでにない。

何だかんだ30分〜35分で終わった。

てんでバラバラの献立になったけれど、普通にどれを食べても美味しいし、ちぐはぐ感も食べてる時に誰も気にならなかった。

まるで実験だなぁと思った。



私の献立はかなり適当だけど、私は献立を考えること自体苦痛だと感じたことはそんなにない。

好き嫌いの多い父がいるから、それだけが唯一献立を考える時の面倒さを生み出す。

それがなければもっと楽だなぁと思う。

とりあえず、あるものを見てパッと決めるのは、途中で間が空きながらも15年20年長いことやっているから普通にできる。

でも、これ例えばやり方を
・バランス良く食材を使う
・組み合わせを考えて統一性を持たせる
という入り方をしたのなら、私は献立を考えられない。

バランス良く色んな食材を使おうなんて考えるから、もしくは一汁三菜を心掛けようなんてするから、難しくなる。

形ありきで考えようとするから無理が出てくる。

反対に形になんかこだわらず有るもので何とかしようとすれば、昨日の私みたいにいびつなデコボコ献立でも、食べられるし普通に美味しくいただける。

何にも悪いことなんてない。

何年か前、もしかしたら10年近く経っているかもしれないけれど、クックパッドがサイト内に「献立」というジャンルを創設した。

今はほとんどクックパッドを見なくなったけれど(←一時期毎日好きで見ていた)、すごくユーザー目線でのサービスを提供していて良いなぁと思った。

私はほとんど見なかったけれど、家庭持ちの友達の多くは「献立考えるのが嫌」と言っていたから、そういうサービスが欲しい人もたくさんいると思う。

友達が言ったのか誰かテレビで言っていたのか覚えていないけれど、料理本でもネット上のレシピでも、あれらの難点は「『付け合わせは何?』がわからないこと」って言ってた。

煮込みハンバーグの作り方はいいけれど、で、何を副菜にするの?みたいな。

だから、クックパッドの献立サイトはとても助かる人たちが多いんじゃないかと思う。

でもまさかグラタンの副菜が切昆布煮だのチヂミだのなんてのは無いと思う( ̄∀ ̄;)。

でもこれノンジャンルの居酒屋さんで何人かのグループで行ったら、そういうメニューの頼み方になってもありだよね?と思う。

それぞれが食べたいのを頼んだら、そういう色んな組み合わせになってもおかしくない。

これ仲良いグループならいいけれど、職場的な気を使うグループは嫌だなと思う。

「これ頼みます?」とか「好き嫌いあります?」とか「これ他にも食べたい人います?」なんて聞きながらやり取りすることの面倒さよ。

だからアラカルトで頼むなら、気の合う同士で行くのがいいなぁと思う。

もしくはそういうのを取り仕切るのが上手な人とか。



話がどんどん逸れる。

でもこのどんどん逸れる感じで書けるのが楽しい。

『奇跡の果実』は、少なくとも私なりに枠に収めて書こうとかなり気を使っていた( ̄∀ ̄)。

献立と一緒で、その時その時の感覚で何かできるのが私は一番性に合ってる。

このブログもまた通常営業に戻ったから、これまで通り好きなことを好きなスタイルで書ける。

それが思いのほか本当に楽しくて嬉しいことなんだと今回初めて知った。

2019年4月18日木曜日

桜と心模様






[写真たち]
桜満開の様子。
私だけかもしれないけれど、桜並木の近くの川はドブ川的な汚い川の場合が多い気がする(ΦдΦ)。
全然綺麗ではない川の近くでも、毎年綺麗に咲き誇る桜の美しさに目を奪われる。
桜のある公園のベンチにいたら、声が聞こえる距離に高齢者のデイケアグループの人たちがいた。
スタッフの女性が「暑いろう?タオルやろうか?かぶせるのは頭だけど」と言っていたのに吹き出しそうだった。
直射日光がモロに頭のハゲたじいさんのハゲ頭に当たるから、のご配慮のようだった。
普通に聞いてたら失礼な言い方だけど、多分それを言えるぐらいの関係性なんだろうなぁと思った。
その後笑い声が溢れていたから。
小学校の校歌にも使われてる山にはまだ雪がもっさり積もってる。
それぐらいの山に行けば、まだ桜が楽しめる気がする。(もちろん山登りなんかしないけれど)



>>>2019/04/10

今週の月曜日、8日のことだった。

これも不思議な流れだったけれど、突然「これをしよう!」というのがとても静かに、でもすごい主張力を持って自分の中から出てきた。

最初は2ヶ月先の6月のある日にそれをしようと思った。

ちょうど節目になるから、その日にしよう!って。

『奇跡の果実』の終わりが見えたのが4月に入ってからだった気がする。

それは良かったけれど、相変わらず自分の方向性が見えなかった。

これからやることも感覚的に掴めては来たけれど、ある部分は頑なに動こうとしない自分とか、動きをかけても事態が変わらないとか。

不安はワッサワサ出てきた。

動き出さなきゃいけないとは思っても、気持ちが動かない。

だから自分の中から何かを湧くのを待つ他なかった。

それが月曜日の夕方ごろ出てきた。

鳩が豆鉄砲を食らったみたいな感覚。

その思ったことの下書きを携帯のメモに入れた。



火曜日(4/9)になって、何も6月まで待たなくても、今週末でもいいんじゃないかと思った。

今週末に動き出すなら、1日1記事のペースでいけば『奇跡の果実』が終わる。

私の中で絶対の順番があって、まずは『奇跡の果実』を必ず終わらせること。

それに区切りをつけることで、私の中にスペースが生まれる。

その状態で月曜日に出てきた願いを自分のために叶えるべく動こうと思った。

こういう気持ちで『奇跡の果実』を終わらせられるのはすごく嬉しい。



月曜日に出てきた願いの輪郭がはっきりすればするほど、自分の中で長く持っていた制限の存在に気付いた。

私は自分からそれをしちゃいけないと思っていた。

それは私が暴走しないためのストッパーでもあったからこれまでは本当に必要だった。

そして、ストッパーのおかげと現実にあったことを見て、私は長い時間、自分にとにかく集中した。

『奇跡の果実』を書いている間やこの1年社会から離れた期間のことだけを言っているのではなくもっと長い間、自分の力ではどうにもならなかった現実を前に、私ができることはひたすら自分に集中することだけだった。

自分を徹底的に見ることも自分の資質に気付くことも自分の魂の設定を知ることも、とにかくありとあらゆることで自分の気持ちが動いたものには何かしら自分の体も動かした。

その集大成と言わんばかりに、『奇跡の果実』を書くことになった。

そして書き終わる今、色んなことに区切りがつくこともわかった。

区切りがつくことが見えても自分の気持ちは見えなかった。

ずいぶんと焦った。

だけど、ここに来て、自分の本当の願いに気付いた。

ずっとストッパーをかけて触ろうとしなかったけれども、やっぱりそこは大切にしたいことで、少なくとも私は欲しいと思っている。

その欲しい自分の気持ちに対して、私は自分からチャンスをもう一度だけ与えてもいいんじゃないかと思った。

私は賭けることにした。

私が本当の本当に願っていると自分が思っていることが私の人生に必要なことなら、その方向に物事は動いていく…。

反対にそちらが魂が設定したこととズレていれば、それは私の元へは流れてこない。

ダメな場合、受け入れるためにまた自分を相当ケアしなきゃいけないのはわかっている。

でももう今の私ならそれはできる気がした。

そして、そこまでしても繋がることがなければ、それは繋がってはいけない、そういうことなんだと思う。

審判が下るみたいなことで超絶怖い気持ちもあるけれど、同時に私はラストチャンスに賭けたくなった。

自分のために自分の本物の願いを叶えるために、そのアクションを起こそうと。

それが当たらず落選したら、私はそれを自分の運命・宿命だと思って受け入れる気でいる。

だから、その自分の気持ちを今のうちに書き残そうと思って、『奇跡の果実』を放(ほう)ってこの文を書いた( ̄∀ ̄;)。
(↑Lesson14を仕上げる前にこの文を書いていた)



さっきホロスコープを出して驚いた。

携帯メモの時間でホロスコープを出した。

史上最強のホロスコープが出てきた。

ホロスコープの中でも一番影響力があると言われるものが出てきた。

それだけのものが出てきたから、願いの種類や方向性は本物だと私は思ってる。




>>>2019/04/17
『奇跡の果実』を書き終える前から、「これだけはやり遂げたい」と思っていたことがあった。

私はどうしたかというと、書き終えてすぐにそれを行動に移した。

私はそれを自分のためにしたいと思った。

そんなことしてもまた駄目だろうなぁと思いながらも、それをした。

自分で色々決めて動く時期に入っているのは嫌と言うほどにわかっている。

だけど、どれも心が動かなければ体もそれに伴って動いていかない。

そのことだけが唯一私が本当に心にならって動けることだった。

可能性のあるなしではなくて、自分が真っ直ぐな思いで動けるのがそれだった。

その後、ものすごく予定通りに思った通りではないから撃沈するわけだけど、そして私は自分が動いたことでそれが私にとっては動けるラストチャンスなのもわかっていたから、余計と撃沈したわけだけど。

昨日(4/16)桜並木がある川沿いめがけて運転していた時にふと出てきた。

私のこの予想不能な動きは、もしかして見る人によって温度差があるんじゃないかと思った。

例えば、テーマは「走ること」だとして。

私は走るために、とりあえず道具見に行ってみる?のノリに対して、「走ること始めませんか?」が相手には「東京マラソン走りましょう」とか「走ること始めたら次は『ランナーの会作りましょ!』とか言い出すんじゃね?」とかいう風に映ったかもしれない。

男女の恋愛前の状況とかにも似たようなことが言えるかもしれない。

例えば「連絡ください」が、片方は「言葉交わしませんか?」とか「おいしい焼き鳥食べに行きません?」とかなのに対し、もう片方は「連絡=結婚迫られたりして」とか「押し倒されたりして」とか、そういうでかいものをいきなり結びつけてる可能性もある。

言葉に対しての温度差やその先の世界の広がりは人によって違う。

言うなれば、私は走る道具見に行く?とかちょっとおしゃべりしてみる?ぐらいの小さなステップを頭に思い描いていても、受け取る側はフルマラソンだの結婚だのとすごい大きなものを思い描いたかもしれない。

なんてことを運転しながら思った。



『奇跡の果実』の最終話に出てきたNさんの言葉が心の中に響き渡る。

大切な人・大切な想いだから、大切にそれを育もうとしたこと、適当に扱ってはダメだと感じていたこと、わかるなぁと思った。

色々矛盾してる風だけど、私はいきなり東京マラソンみたいなことを望んでるのとは違う。

最終的に東京マラソンとかホノルルマラソンとかいう結果になるかもしれないけれど、そこをいきなりは目指していない。

私の中で大切なゆえ怖さの方が大きいから、小さくステップを作って、それを1つ、また1つとクリアしたいみたいなそんなイメージでいる。

そして、その小さなステップがすでに合わないようなら、それこそ合わないものを無理矢理合わせるものではないから、その時こそ本当に仕方ないと思っている。

でも、もしかしたら小さなステップは同じ歩幅で同じペースかもしれない。

私はそれを単に確かめたかった。

そこをうやむやにしたまま次に進むというのがもう私はできないんだとわかった。

だから、1週間ぐらい心の中でそっと温めながら、それを心の中のゴールみたいにして『奇跡の果実』の残り3篇を書いていた。

変に間を置くと、私の思考はまた余計なことばかりをごちゃごちゃ言い出すから、それを避けるためにさっとすぐ行動に移した。

私的には小さなステップの提案のつもりでいたけれど、それは私側の勝手な思いであって、もしかしたらいきなりすごい爆弾をブッ込んできたと思われても仕方ないか…、と運転しながら思った昨日。



例えば私はカツカレーを食べたかったとする。
(カツカレーを食べたいなんて、よく考えたら人生で一度もないことに今気付いた)

ど田舎にカツカレーを配達してくれる店はないにしても、仮に近くにCoCo壱みたいなカレー屋さんがあって、デリバリーもしてくれますよというものがあったと仮定して。

私がしたのは、カツカレーが食べたくなって、とりあえずお店にカツカレーの注文を入れたこと。

食べたいと思っても、思っているだけじゃカツカレーは出てこない。

カツカレーを食べたいとなったら、
1:自分で材料を調達して作る
2:お店に注文する
3:誰かに作ってとお願いする
の3つが選択肢として有り得ると思う。

3は話の主旨がズレるから省いて、となると選択は2択になる。

1は単にカツカレーを食べたければいくらでもできる。

でも、これがもし私が作ったカツカレーではなくて、ある特定のお店のカツカレーを食べたいとなれば、選択肢は自ずと2になる。

私が今回動いたことは、カツカレーの2のパターンに類似している。

今時は都会ならネットで注文できるらしいけれど、私もネットで注文をかけたとする。

ネットの不具合があれば、注文は通らない。

注文は通っても、完全閉店しているなら、これまた行き違いで注文は通らない。

もしくは頑固シェフで、自分の気に入ったお客や気に入ったタイミングでなければ作らない主義なら、注文は流されても通らない。

だけど、いずれにしても、それは私が「カツカレー食べたいなぁと想像だけする」とか「自分でカツカレーの材料を揃えて作る」では叶わない。

CoCo壱ならCoCo壱にきちんと注文して、あとは来る来ないを待つしかない。

そのラストチケットを私は使った。

注文を出すのに必要な道具だった。

ちなみにラストチケットを使って48時間経過した昨日の夜、これもまた突然の思い付きで、チケットに必要なアイテムを目に付かないところにしまった。

長い時間お守りとして常に目に付くところに置いていたものを、自らの手で見えない場所へと移動させた。

一応、モノ自身にも聞いた、移動させていいかどうかを。

そんなことずっとなかったのに、アッサリと移動していいよと出た。

そっか…、何とも言えない気持ちになりながらもしまった。

お役目終わりと言わんばかりの感じで、自分から聞いたくせして、「えっ?本当にいいの?本当に?」と往生際悪いことした。

意味不明な頭痛で布団にいたけれど、ムクリと起き上がって、最後はラストチケットを移動させた。

何が言いたかったかと言うと。

お気に入りの店のカツカレーを食べたい私は、そのためのオーダーをしたということ。

オーダーが通らないことを百も承知で出した。

選択肢が他にもあるならそれ以外を選んだけれど、ない時は選ぶ余地もない。

だけど今回は、私が一番大事にしたのは、自分の気持ちだった。

オーダーを通したいなら、最低限オーダーは出す必要がある。

それは「思い描けば引き寄せられる」なんていう誤った引き寄せの力で引き寄せられるものじゃない。

本当に自分が望んでいるものに対して、それに伴う行動を自分のために起こした。

だから、本来は結果がどうあれ、私はその結果に一喜一憂せずに、自分のためにできたことに自分で自分にがんばったね〜と言っておけばそれでいいのかもしれない。

だけど、人間の欲たるやそんな単純構造になっておらず、そして悟りなんか開いてない煩悩まみれの自分では、出てきている結果に不服申し立てしたい気持ちでいっぱいになっている。

どこに不服申し立てをしていいのかさえもわからないけれど。

わかってる。

不服申し立てするのではなく、来た結果を真摯に受け止めるのが私にできる唯一のことだということ。

ただボヤくぐらいの自由は残されていたから、ボヤいてみただけ。

カツカレーならまた注文したらいい。

だけど、私の注文は、一生に一度しか許されていないと私が思っていること。

これまでは許されているとさえ思わなかった。

ただ、今回は突然のように「最初で最後、それだけは自分のためにしてもいいんじゃないかな…」と思えた。

何度も何度もできない。

一生で一度。

だから、最初で最後のスペシャルカツカレーの注文をしてみた。

それは、東京マラソンとかホノルルマラソンなんていうそんなスケールのでかいことじゃなくて、私の中では「道具見に行ってみる?」とか「ホームページでちょっと要項(中身)を調べてみる?」ぐらいの小さなステップを想定した。

だけど、たとえ小さなステップでも、できるのは一生に一度だけ。

だから、これがダメなら私はもう本当にそのダメな現実を受け入れて完全撤退を決めている。

スペシャルカツカレーを食べたい気持ちはそのままにして、現実は違う方向に進む…。

できれば、気持ちと進む方向性をある程度一緒にしたいけれども、最初に書いた通り、私の訳の分からない魂の計画表に沿わないなら、どんなに頑張っても絶対に無理なのはわかっている。

気持ちが切り替わらなくても、これまで同様時間は通り過ぎていくわけで、その時はカツカレー食べたいままでいいからもうカツカレーは永遠にカツカレーの願い事のまま、自分の生きる道は違う方向に向かうんだと思う。

本気で最初で最後の注文だった。

でも本気で覚悟しただけあって、しかも毎日毎日その覚悟だけはブレなかったおかげで、私の最後の注文はとてもスムーズだった。



その時もあとからもれなくホロスコープを出した。

月は28日周期で12星座を1周する。

スペシャルカツカレーを注文した時間は、私が生まれた時の月の位置とほぼ同じ位置に月は位置していた。

月は、無意識の領域を表していて、無意識の気質・無意識の欲望・感情(特にプライベートな感情)・心の安定・過去世含む記憶を表す。

要は、自分の無意識にある本気で叶えたいことが表面化していると読める。

そして、魂の辿る道や輪廻転生で積み重ねたもの、目に見えないところからのご縁、現実意識と魂意識の交差点を表す、私の生まれた時のドラゴンヘッドとドラゴンテイルの組み合わせのところに、空の海王星がドンと乗っている。

公転周期:165年の海王星が自分の生まれた時の個人天体とか軸に乗るなんてのは、普通に考えて一生に一度しかない。

別の言い方をすれば、海王星が乗るなんてことを経験しない個人天体も普通にあるということ。

そんなものが今ガッツリとドラゴンヘッドとドラゴンテイルのラインにピッタリと重なっている(360度分の1度)。

色んなことを曖昧にすると言われる海王星だけれど、私はその世間的に認識されている解釈に納得がいかなくてすごい調べた。
(私のホロスコープは海王星の影響が多すぎて、そうなると私の人生は『曖昧一直線』みたいな解釈になるからそれが嫌で必死で調べた( ̄∀ ̄;))

調べてわかった。

海王星は曖昧にするんじゃなくて、正しくは今世この世に生まれた魂的な計画にとって正しいとされる唯一の生き様のみを残して、それ以外は容赦なく「ない」ことにする。

その「ない」が人間的に計画したものと合致しないから、それで色んなことを曖昧にすると怖れられている。

実際は反対で、人生で本質的なものだけ唯一残して、あとはゼロにする。

今回の場合で言えば、過去世から持ち越している自分の資質や才能、過去世から約束されている人間関係に対して、今世も必要だと判断されるものは残りの人生でも引き継がれて、反対に不要と判断されれば一刀両断、削ぎ落としされる、そんな流れだと私は思っている。

魂の設定はさすがにそんなに詳細にはわからないから、煩悩の私と魂の私とで差があった場合、煩悩側は容赦なくゼロにされて、魂側は煩悩側の私が望んだとは思えなくてもその望んだとは思えない魂側が意図した現実だけを残す。

だから、スペシャルカツカレーの注文は、私の人生を懸けてのことだった。

私は毎回走る道具を見に行くでも、毎回マラソンのホームページ眺めて終わりでも本気で良いと思ってる。

なんなら、1回だけ試しにホームページを眺めて、全然お互いの方向性が合わないから解散しようかでも致し方ないと思っている。

もちろんフルマラソン出場しまくりという結果もありだと思う。

その形は何でもいい。

私にとっては、形の詳細についてどうこうこだわっているんじゃなくて、それがたとえ道具見て終わりでも何かしら「有」だということにこだわっている。

スペシャルカツカレーは、注文が通らなければ、道具もホームページも見ることができない。

その土俵にさえ立てない。

「無」しか存在しない。

だから、私はその土俵に立つための超裏の手を使って、最初で最後の注文をかけてみた。

そんなことを知ってその行動に出たわけじゃないけれど、結果的にはそういうことになっていた。

改めて、無意識の領域って凄いなぁと思った。

なぜなら書き終えるまで私は、何時何分どころか何日に『奇跡の果実』が終わるかなんてわからなかったから。

書き終えた日も、他の用事を全部断るなり先延ばしにするなりして、とにかく「書き終える」ことだけに専念した。

書き終えた時間やスペシャルカツカレーの注文時間なんて、そんなのこだわってその時間にしていない。

たまたまその時間になっただけ。

なんなら当初私の頭の計画では、2日前の金曜の夜には全て書き終えて、土曜の朝には注文しようと思っていたから。

ところが書く方がズレにズレて、そして週を超えてズレると、私側の都合があまり良くなかったから、それで何とか週末に書き終わらせた。
(『奇跡の果実』最終章は、単純に5回に分けて書く内容を私のこだわりで1話にしたから、当たり前だけど、1日じゃ書き終わらなくて3日ぐらいかかった_φ( ̄ー ̄ ))

だから、後からホロスコープを出してみてビックリした。

『奇跡の果実』第1話書き始めの日と比べてもホロスコープは全然違っていた。

始まりははじまりらしい、終わりはおわりらしい、それぞれ特徴が出ていた。

ちなみにここではしゃあしゃあと書いているけれど、スペシャルカツカレー注文後の実際の私は「あの覚悟はいずこへ?」と思うぐらいにお通夜のようなメンタルになり、そのうちネガティブモードMAX値を振り切って発動、そして最後は何が本当の原因かわからないけれど、謎の頭痛とお腹下しが待っていた( ̄ཀ ̄;;)。

今やっと通常モードに戻りつつある。

ホロスコープ信者になったというよりも、毎度毎度、後から過去の特定の出来事の起こった時の空模様を見ると、体の中にGPS的な装置でも付けられてるのかと思うぐらいに影響出まくりの何かしらがある。

信じたくなくてもNOなんて言わせてもらえない事実を突き付けられる((((;゚Д゚)))))))。

私が最初で最後に使う超裏の手だという覚悟は、しっかりとホロスコープに出ていた。

これこそ職権濫用的な超裏の手で、これまではそれは絶対にしてはいけないと思っていたからそれを使うことさえ思い付かなかった。

私の心の中で「もうこんなこと二度とはしません」と誓っても、そんなのは知られることもない。

とにかく、私は人生で最初で最後の超裏の手の職権濫用をして、こんな秘策を使っても何にもならなければ仕方ない…とあきらめている。

もう二度は使えない秘策だから、何もなければその何もないことが私の人生においての答えなんだと受け入れようと思っている。

簡単に割り切ることも受け入れることも難しいけれど、万事休すでもう施しようがない。

でもこれだけは自信を持って言える。

たとえ職権濫用でも、私は自分が本当に叶えたいことを叶えられるかもしれない可能性に賭けて手段を講じて、それは後悔していないこと。

そして、そんなはちゃめちゃなやり方でも、そうまでして叶えたいことであること。

是が非でも叶えたいという時のパワーって凄いものがある。

凄まじいと言ってもいい。

凄まじいパワーは、人生でそう何度も発動しないし、意図的に発動もさせられない。

それだけ自分の人生を懸けようと思わない限り、そして私が思うに、それだけ叶えたいという魂側の強い希望もないと、そこまでは動かない。

衝動と呼んでもいいかもしれない。

だから、超裏の手職権濫用案件は、魂側も総動員しての動きだった、そんな風に思う。



昨日桜を見ながら歩いていた時、1年後はどんな桜の景色を見ているのかな…と思った。

新潟に戻ってからは3回目の桜になる。

2年前の桜は、朝早く家を出て、昨日と同じ桜並木を歩いて、その後出勤前にモーニングをしていた。

その時はまだその後に起こることなんて1つも知らずにいた。

去年の桜は、初めて立ち寄った桜のスポットで、ホロスコープを独学で始めて何日目という時だった。

その1週間後、違う桜の木がある公園で、初めて自分のオカルト体質に気付いた。

今年の日中の桜の景色は、2年前と同じ場所とは思えないぐらいに違うところを歩いているようだった。

色んなことがもう戻れないところまで来ているのに、気持ちは怖いばかりで前に進もうとしない。

スペシャルカツカレーの注文は思い出すと具合が悪くなってくるから、桜を見ている時だけは桜に集中しようと思った。

そう思ってすぐに私の脇を通った車のナンバーが私の誕生日だった。

しかもご当地プレート的な感じで、花火柄の誕生日ナンバープレートだった。

全くよろしくない状況でも、「これでいいんだよ╰(*´︶`*)╯」と言われてるみたいだった。

カツカレーは特別よろしくないのに、これでいいと?Σ(゚д゚lll)

カツカレーの記憶は頭から全く離れないけれども、私は必死で花見散歩に集中するようにした(ΦдΦ;)。

そんな風に歩きながら、来年はどこで桜をどんな気持ちで見ているかな…と想像した。

大真面目に、今年より穏やかな気持ちで見れますように( ̄^ ̄)ゞ、と願いなのか誓いなのかよくわからない気持ちを思い浮かべながら桜の花を目に映した。

2019年4月14日日曜日

奇跡の果実(25)愛という名の果実








動画:『いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日』


『奇跡の果実』最終章〜愛という名の果実


【導き役と京都の武士俣さん】

>>>2009年6月

室内の喧騒から離れてYさんと私はベランダにいた。

5階とか6階とかの高さだった気がする。

Yさんと共にした時間は、多くて10数回。

その時Yさんは、私の色んな話を聞いて相談に乗ってくれていた。

私が日本に帰ったら、1から人生を立て直して何かしらは方向性を決めていかないといけないことも知ってくれていた。

そんな時、私にあるおばちゃんの存在を教えてくれた。

武士俣さん、日本に帰ったら良かったら訪ねてみて下さい。

そう言って名前を教えてくれた。

自分がこれから先どうしたいのかもどうするのかも全く見当がつかない時だった。

私はYさんじゃなければ、この話には食いつかなかった。

Yさんは私から見て、すごいバランス感覚の持ち主だった。

めちゃくちゃ頭が良いのは知っていた。

だけど、それをひけらかしたりはしない。

現実感覚もしっかりとあるし、理知的で論理も自然と身につけている感じがある。

なのにどこか超越したところがあって、どうしてそんなことわかるの?というぐらいに静かに感覚を張り巡らせている人で、すごいやさしい言葉で感じたままを伝えてくれる。

今思うと見える世界も見えない世界も両方を見て、その上で何かしらを自分の感覚と知性で把握するタイプの人だと感じる。

そういうタイプの人が占いのおばちゃん(実際はおばあちゃん)を紹介してくれて、拍子抜けするぐらいに驚いた。

でも私はYさんが言うなら間違いない、そう思った。

日本に帰る前もしくは帰ってすぐにおばちゃんの連絡先に連絡をして会いに行った。

人生で初めての占いだった。

占いというよりも、本気の「鑑定」だった。

私は30代、1〜2年に1回の割合でその後もおばちゃんに会いに行った。

だからこれまでに数回鑑定を受けた。

初めての日、おばちゃんは何を見ているのか、ありとあらゆる私の人生の中身を次から次へと言い当てた。

当たるとかそういうレベルを飛び越して、怖いぐらいにその通りすぎて、過去も未来もいくつおばちゃんの言った通りだったかなんて数え切れない。

過去は過去でドンピシャで何年何月にこんなことなかった?と言うし、未来は未来で予言めいたことをいくつか具体的に言って、私はおばちゃんの話を半信半疑で聞いていたけれど、本当にその通りになった。

それが私が人生で初めて踏み入った「見えない世界」だった。

最初は「占い」だと思って行ったからそういう風に見ていなかったけれど、あれはスピリチュアルな世界へようこそ!の素晴らしい洗礼だった。

そして、そうしたものに絶対に近寄ろうとしなかった私を、とても自然に且つ抵抗や不安を一切抱かずに私がそこに向かえるよう案内をしてくれたYさんの功労はめちゃくちゃ大きい。



Yさんと私はその後も実に不思議な感じで何回か再会をした。

Yさんと私とが互いに連絡を取り合って会ったことは実は一度もないことに気付いた。

冒頭の動画を教えてくれたリーダーがいつも大体窓口となって、「ぶっしー、Yさん名古屋に来るよ!」とか「シオちゃんとYさん来るから、ぶっしーも飲もうよ」ってな具合にして、名古屋で数回会った。

ついでに一言言いたい。

リーダーの家で、リーダー・Yさん・シオくん・私という面々で『アタック25』を見ていた時のこと。

3人の頭の中はどうなっているのか知らないけれど、3人は普通にクイズの答えをスラスラと、なんならテレビ画面の向こうの回答者たちが答えられないものでも、ごく当たり前に答えていた。

私の知能がおかしいんじゃなくて、3人のズバ抜けた知能がおかしいと思った( ̄∀ ̄)。

Yさんに最後会ったのは2年前の夏、リーダーの結婚式の時だった。

Yさんと落ち着いて話せたのは時間にしてわずかなのに、10年前の初夏にベランダで話した時と変わらない空気が流れていた。

その感覚だけはよく覚えている。



>>>2019年2月

『奇跡の果実⑧覚醒』を書いた後、私はその文章の紹介ではなく、自分自身の体質的なことを伝えようと、伝えたい人たちを選んで連絡を取った。

ペンジュラムを使うことぐらいならまだしも、死者の霊魂が出てきてコミュニケーションを取ったとか、他にも人の潜在意識や魂から情報をキャッチするとか、一般的に見て本気で精神病と紙一重みたいな域のことで、私はそれを本当に伝えたい人たちには自分の口から言いたかった。

変な形で余計な尾ひれがついて第三者から本人の耳に入るのは避けたかった。

だから、『⑧覚醒』を使って、ついでに自分のことをカミングアウトすることにした。

その中でもYさんにだけは、絶対に連絡を取りたかった。

なぜなら、10年前、Yさんに出会わなければ私の今がないのは明らかだったから。

今だからわかるけれど、私のアンチっぷりは、世の中のスピリチュアルや霊的世界に対してスーパーアンチの人たちの中でもトップに君臨できるんじゃないかというぐらいのアンチだった。

それぐらいの人がそういう世界に入っていけたのは、ひとえに周りの人たちのおかげで、これだけはどれだけ感謝してもしきれないぐらいに、色んな道筋を私に示してくれた人たちにはものすごく感謝している。

その第1号の導き役がYさんだった。

しかも私におばちゃんを紹介してくれるぐらいの人だから、少なくとも理解はある人だということも予想できた。

スーパーアンチ代表の私が、10年前いわゆる「スピリチュアル」とか「見えない世界」と分類されるところに、何の抵抗もなく、怖さもなく、むしろ「占いってどんな風だろう(ワクワク♪)」みたいな勢いでいけたのは、Yさんがその道筋を示してくれなかったら絶対に無理だった。

だから、Yさんには今の私のことをお礼と共にきちんと伝えたかった。

ところが、メールを送信したら宛先不明で返ってきてしまった。

慌てて連絡先を探すも、facebookは退会した模様だし、他の人たちに聞けなくもなかったけれど、理由が理由だから、それもまた二重三重に手間と気力と知恵が必要とわかって、それは最終手段にすることにした。

しばらくして、そうだ、番号が変わってなければショートメールがいける!と思って、ショートメールを送信してようやく繋がれた。


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連絡ありがとうございます。
連絡いただきとても嬉しいです。

とりいそぎ。
今日の午後5時過ぎくらいに、ふいに、武士俣さんのことを思い出していたところなんです。

ゆっくり読んでまたメールします。

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Yさんと最後言葉を交わしたのは、2017年の夏。

元々連絡を取り合って近況を報告するような仲とは違うから、とにかく空白の1年半がどんなかなんて知らない。
(←Yさんに限らず、自分のことをあれこれ突っ込まれるなんていうことを避けるために、相手が誰でも近況を私から聞くとかは基本一切しない)

さらにYさんも私もSNSをアップするとかもないから、そういう繋がりもない。

だから、そのYさんがどうして私が連絡を取ったその日に私のことを思い出したのか、私には不思議でならなかった。

そんなピンポイントで私が連絡を取った日、しかも私がYさんの連絡先がなくてあたふたしてた同じような時間に、何がどうしたら私を思い浮かべるのか、「テレパシー!?」と思った。

Yさんにそれがどういう流れでそうなったのか聞いた。


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取り急ぎブログの件です。

もちろんOKです。

ぜひ使ってください!!

京都に、武士俣性の知り合いがいて、ゲストハウスをしているんです。
あの日、メールをいただいた日ですが、自転車で京都の町を走っていて、ふと、武士俣さんとゲストハウスの武士俣さんを思い出したんです。そしたら、その次の朝、メールに気づいたんです。
お〜、すごいって。

もう一つ、今、英語の勉強していて、壁にぶつかっているんです。今一番の悩みなんです。そしたら、シオちゃんの英語の話し。またまた、お〜、すごいって。

他はまたゆっくり。

以上、取り急ぎ!

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「武士俣」という姓は、新潟県の中でもある町のある特定の地域にしか分布しない苗字になっている。

そこに30〜40軒ほどの武士俣世帯が密集していて、うちも本家はそこだけれど、うちみたいにそこから離れた人たちはそんなにたくさんはいない。

この冬、年賀状のアルバイトに行った時に、人生で初めて「武士俣」さんと出くわして、私は本当に生まれて初めて点呼の時に「武士俣史子さん」と呼ばれた。

武士俣さんいないから、まず下の名前を呼ばれることはない。

自分の生まれた地域でもそんなものなのに、何をどうしたら京都に武士俣さんがいるの?みたいな。

さらにはYさんには私と京都の方と、2人も武士俣姓の知り合いがいるなんて、私ですらいないのに凄すぎるΣ(꒪◊꒪ )))) !!!

そんなタイミングでなぜかYさんは私のこともついでに思い出してくれ、そしてそうとは知らない私がYさんに自分の今を伝えようと連絡していた。

しかも、少しでもわかりやすくするために、私の体質をものすごくわかりやすくシオくんがまとめてくれたから、その時のブログも一緒にくっつけて送った。
(『九州男児たち』
https://viva-vivir.blogspot.com/2019/01/blog-post_14.html?m=1 )

そうしたら、Yさんから、
『シオちゃんの英語の話しですが、今僕が抱えている課題とシンクロしてまして、お〜と鳥肌が立ちました。』
と来た。

シオくんの英語の話とYさんの課題がどうシンクロするのか全然わからなくて、それも突っ込んで聞いたら、上に書いた通り、私がシオくんに勧めた英語学習法がヒントになったという。

ちなみにヒント↓

「あのさ、シオくんさ、英会話はいいと思うんだけど、イーオンみたいな英会話スクールに行くよりも、とりあえずワイン会とか日本酒会みたいな会に行って、そういうとこ行けば外国人とかいそうじゃん、東京なら。英会話の先に趣味とかじゃなくて、趣味というか好きなものに入って行ってそこから英会話の人探せば!なんなら、飲みながら英語を話すみたいなさ!」

まさかシオくんとの英会話談義が、そこにはいなかったYさんに2週間位の時差を置いてから届くなんて、これは何の作為が働いているんだろう?と思った。

まさにテレパシーv( ̄∀ ̄)v!

しかも意図してないのに、意外な形で伝わる。

「テレパシーtelepathy」は
「tele (遠くへ)+ empathy (思いやり)」
から成り立つとされていて、直訳すると【遠くへ思いやりを送る・届ける、届く】ことがテレパシーの意味になるらしい。

シオくんはあの日九州にいて、私は新潟、そしてYさんは京都。

それぞれ目の前にはいないのに、時間も空間も超えて、必要なものが必要な人たちへと渡っていった。

何かがお互いに共鳴し合って、それぞれは別々の道を歩いているのに、ある日ポッとお互いに接触する。

お互いにヒントをもらい合おう!とか、役に立とう!とか、そういうことは一切意図していない。

だけど、結果的に繋がった。

10年前におばちゃんを私に紹介してくれたことのお礼を言ったら、Yさんからこんな風に返信が来た。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あのベランダで武士俣さんの話しを聞いたり、それまで接していくなかで、そういう感覚が伝わりそうな人だと思い、お伝えしたことを覚えています。何とか助けになりたい、みたいな感覚です。
僕も武士俣さんはじめ仲間を大切にしたいと日々思いを深めています。

武士俣さんのお話しは、僕にとって信じられる話しで、そこまで行き着かれて良いなあと思います。
人が生涯で巡り会えるかどうかわからない何かってあると思うのですが、そういう感覚かと。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


私はYさんのこの言葉を読んで号泣した。

私は当時の自分のこともとてもよく覚えている。

Yさんと同じ町にいた頃、私は自分の先の人生に対して、ある意味ものすごい絶望感を感じながらも何とか帆を先に進めなければいけなくて、でもその進行先さえ皆目検討がつかずすごい焦りと混乱でいっぱいだった。

ましてや、目に見えない世界なんて何1つ興味がなかった私にとって、そういうことを口にさえしたことがなかった。

そもそも私の思考の中に今みたいなスピリチュアルと呼ばれるようなものは1つとしてなかった。

そんな時にYさんはYさんの感覚で、そこを見てくれそして気付いてくれてたんだな…と思ったら、もう言葉がなかった。

しかも、表面の会話だけなら私が興味がないのはわかってたと思う。

それでもYさんは自分の感覚を信じて、「何とか助けになりたい、みたいな感覚」で私に伝えてくれたことだった。

自分が今、他の人たちの潜在意識や魂から情報をキャッチしてることに気付いたからこそわかる。

それがどれだけのリスクを伴うもので、そして本当に気持ちがないとやれないかということを。

ましてや当時の私みたいに、スーパーアンチで興味のかけらもなさそうな人に対して、それとなくヒントを渡すのは並大抵のことではなかったと思う。

私はYさんのその裏側の想いを10年越しに初めて聞いて、そして今ある自分自身の姿を見て、あぁ本当に良くしてもらっていたんだなぁと、目一杯気持ちを込めて伝えてもらっていたんだなぁとわかった。

このYさんの特上の思いやりなくしては、今の私はいない。

本当にこの道に立つためには、抵抗なくすっと入って行けるガイド役みたいな人が必要で、その役割をYさんがとても自然にしてくれていた。



【合コンと魚座】

>>>2016年5月

月末に名古屋のアパートを引き払って新潟に戻ることを決めて、日に日に名古屋生活の終わりに近づいていた時だった。

名古屋を出る前に、会いたい人たちに時間を作ってもらって会う、という段階にいた。

名古屋で最後にした仕事でお世話になったヨコさんに連絡をした。

連絡を取ったら、ヨコさんから「実ちゃんも誘っていい?」ってきた。

私はしばらくその文を見て迷った。

ヨコさんと実(みぃ)ちゃんは元同僚で仲良しさん。

そして実ちゃんは、春からヨコさんと私がいた職場に勤め始めた。

ヨコさんと実ちゃんはまた同僚になった。

私は実ちゃんが入る前には辞めていたから、仕事は一緒にしていない。

私が仕事を辞める前、ヨコさんが合コンを企画して、それに誘われて私も行った時があった。

その時に初めて実ちゃんに会った。

っていうか、その時しか会っていない。

5対5で実ちゃんは席が近くで、さらには帰り道同じ方向だったから、その方面の男性が出す車に一緒に乗せてもらって帰ってきた。

初対面とは思えないぐらいに打ち解けたし、すごい居心地も良ければ話しやすい子なのは間違いなかったけれども、何せ1回しか会ったことがない。

実ちゃんがどうこうと言うよりも、私は基本的に普通に話せるけれど内側では人見知りするし、最後なのに気を使いながら時間を過ごすのは嫌だった。

そうだ!と思いついて、自分の元に迎えたばかりのペンジュラムを出してきた。

ペンジュラムに聞いたらいい!

そう思ってペンジュラムに聞いた。

ペンジュラムは迷うことなくすぐにYESを出した。

私は「えっ( ̄∀ ̄;)?」ってなった。

相手云々ではなく、その時間を想像して自分の心の中も想像して、「いやいやいや、楽しいかもだけど、気使うでしょ?」と思った。

当時からすでに、自分の意思と違う答えがペンジュラムから出てくると、「あれ?ペンジュラム間違えた?」と思っていた私( ̄∀ ̄;)。

その時ももれなくそうで、繰り返し同じ質問してもYES続きだったから、今度は質問変えて聞いても結局YES。

そして、断るにはNOが出て、気が進むわけではなかったけれど、実ちゃんなら楽しいからいいか!と最後は開き直ってヨコさんに返信した。

今考えたら、実ちゃんのことがペンジュラムを信じるキッカケをくれた最初のことだった。



約束の日、ヨコさんと実ちゃんの終業時間に合わせて待ち合わせて、初めておしゃれサイゼリヤに入った。

今書きながら思い出したけれど、私実ちゃんに会った最初の場所もおしゃれサイゼリヤもけっこう鮮明に記憶にある。

サイゼリヤに行ったことがある人ならわかると思うけれど、基本的にどの店舗も似たり寄ったりの内装やテーブル・椅子になっている。

だけどその店舗だけは全然違っていて、きちんとした木のテーブルと木の椅子で、やたらと重厚感があって、床も大理石調と言えばいいんだろうか、ヒールで歩いたらカツカツと音がしそうな素材で、さらには照明もやたらムーディーな、出てくる食べ物はチェーン店らしく変わらないけれど、雰囲気がいけてる場所だった。

新潟でサイゼリヤに行って気付いたけれど、壁にヴィーナスみたいな天使の絵が大きく描かれていた。

名古屋のその店舗にもあったのかは知らないけれど、実ちゃんといたその時間はまさに天使が舞い降りたみたいな瞬間だった。

実ちゃんだけだったのかヨコさんもいたかは忘れてしまったけれど、実ちゃんが突然私に聞いてきた。

「ねぇふみちゃん、もしかしてブログ書いてない?心とかの」

私のこの時の衝撃と言ったらなかった。

ブログは書いていた。

このブログじゃなくて、別のブログで心理に特化した文章だけをひたすら書いたものがあった。

だけど、私の書いたものは、人気記事でもないし、検索してすぐにヒットするものでもないし、ましてや実ちゃんは私の名前すら知らなかったわけだから名前検索もできない。

私も宣伝してないブログだったから、そのブログを知ってる人はほとんどいなかった。

というブログにどういうわけか実ちゃんは行き着いていて、しかも一言二言の話だったけれども「本当に読んでくれてる!」というのがすぐにわかった。

初めて出会った、私のブログを読んでくれてる人に。

友達で書いてることを知ってる人ではなく、実ちゃんは私とリアルに出会う前にどういうわけか行き着いて、私のブログの存在を知ってくれてる人だった。

そりゃペンジュラムも、実ちゃんも一緒に!の方にYESを出すなぁと思った。

ペンジュラムだけはあの時すでに知っていたと思う、実ちゃんと縁があることを。

そして、それが初めてペンジュラムが教えてくれた「本物のYES」だった。

もしペンジュラムを持っていなければ、私はヨコさんに2人で会いたいと言ったと思う。

だけど、あの時しつこいぐらい何度聞いてもペンジュラムはYESしか出なくて、「実ちゃんと会っておいでよ〜」と誘(いざな)ってくれてた。

人生において大切な出会いだからね、と言わんばかりに。



今思い出すと本当によくわかる。

その時は直近のことだから、どの人とかどの場所とかと縁があったかはすぐにはわからない。

すごく強く印象に残るというものではない限り、その時すぐには気付かない。

だけど、縁がある人とか縁がある何かというのは、時間が経ってもずっと残る。

それが距離ができようが、そんなに頻繁に会えなくなろうが、関係なく自分のどこかに残り続ける。

実ちゃんもそうで、最初に出会った日を思い起こすと、まさかその後今に続くまでなんだかんだと繋がれるようになっていたなんて想像もしていなかった。

そもそも私が出かけたのは合コンの方で、実ちゃんに出会いに行ったわけじゃない。

その時いた他のメンバーの人たちも記憶に残ってはいるけれど、実ちゃんみたいな残り方はしていない。

よくよく考えたら実ちゃんと会ったのは、今のところその時とサイゼリヤの時と2回だけなのに、かなり強く記憶に残っている。

帰りの車の中とか(バスの運転手さんだったから、超運転が上手くて乗っていて本当に心地良かった!)、本気でタクシーみたいになっていて、私は実ちゃんがそこに一緒にいてくれたことしか覚えていない。

男性は会話に参加していたんだろうか…( ̄∀ ̄;)

最後の時もヨコさんもいたのに、そして大量に飲んだけれども(サイゼリヤのコスパの良さは呑兵衛のお財布に優しい)、私が今も覚えているのは、実ちゃんが私にブログのことを聞いてきた場面だけになっている。

他の会話は綺麗さっぱり忘れた。

もしかしたら実ちゃんも私も少しだけお互いの打ち明け話をしたのかもしれない。

けれど、それをしたとかしてないとかいうことではなく、肌感覚で一緒にいて居心地が良かった、そこだけがやたらとクローズアップされて私の中には残っている。



>>>2019年2月2日

『⑧覚醒』の文章を書いた後、LINEを開いて連絡先一覧を出した。

ちなみに実ちゃんとは、名古屋を去った後も2回か3回ぐらいひょっと連絡をもらって、やりとりした時があった。

元々縁があったヨコさんとはそれっきりになって、反対に2回しか会っていない実ちゃんとやりとりする不思議な感じの流れになった。

連絡先一覧を見て、実ちゃんの名前が目に入った。

ああいう時の私は、はっきり言って「なんとなく」の感覚で選ぶから、どうして実ちゃんだったのかは言葉ではあまり上手く説明できない。

だけど送ろうと思った。

突然送りつけたらビックリするかな…とも思ったけれども、元々私の心理系のブログを読んでくれた奇特な人だから、今回もふつうに読んでくれるかもしれない…、とあまり深くは考えずに送った。

実ちゃんはメッセージとブログに気付くと、「早速読んでみるね〜♡」と来た。

そしてそのまた10分後に返信がきた。


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じっくり読みたい
ゆっくりじっくり読んでみるね

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実ちゃんの言葉に自分が包まれた。

自分の書いたものがとても大事にされてる。

いつか別の友達が「ぶっしーのメールは、それぞれ空気をまとっていて、これは愛いっぱいとか、これは温もりがあるとか、色んな表情がある」と言ってくれたことがあった。

実ちゃんの言葉もそんな風で、しばらく私は文字に釘付けになった。

短い文章なのに、そこから放たれている想いはものすごく大きくて、本当に心が融けてしまいそうだった。

その後実ちゃんからきた。


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まだ読み切れてないけど
どうして私を思い出してくれたんだろ?って不思議な気分〜笑笑
変な意味ではなくて単純に(o´艸`)

思い出してくれたのも、何か縁なのかなぁ?みたいな感じ!!

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私は送ろうと思った時の気持ちを書いた。

その後27人に送ってみてわかったことがあると前置きした上で、もし良ければわかったことを書いて送るねと言って、了解を得た上で長いスピリチュアル情報満載の話を実ちゃんに送り付けた。

勢いに任せて書いてしまって、うわぁー( ̄∀ ̄;)と思いつつも、「嫌なら読まないだろうから…」と開き直った。

実ちゃんから「返信するまでに時間かかりそう」と来たから(ごもっともな話)、私は返信は要らないこと、連絡もらえただけで嬉しかったことを書いて送った。

私は書きすぎたなぁ…と反省しつつ、まぁいいかとそのままにしていた。



>>>2019年3月 魚座の季節

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ふみちゃん、こんにちは(^^)
着々と読んでるょ☆
私はスピリチュアル的な事は全く分からないけど、やっぱり必要だったのかも...と思ってるょ。
私は、見た目で誤解される事が多いけど凄い不器用でね。
特に人間って難しくて、頭で難しく考えてるとネガティブな方向に行きがちで
自分でもなんとかしなきゃとか
やっぱりさみしいから人に合わせて合わせてって感じで、どうしようもなく疲れる事が多いの笑
まさに今が渦中だったりして笑
もう少し上手に生きれたら良かったんだけど…
まだまだ読み途中だけど
何となく経過報告でした笑


私、心配性なのか疑い深いのか
なかなか話せない事を勝手に書いて送っちゃったの...ごめんね。
でも、本当にありがとう♡

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1ヶ月後、突然のように実ちゃんからLINEがきた。

ずっとその後も私の長いブログを読んでくれてたことを初めて知った。

私は1ヶ月前に最後やりとりした時は「色々情報渡しすぎたかな…」とばかり思っていた。

そうではなく、実ちゃんは丁寧に言葉を咀嚼したり、自分の中を見たり、それを自分のペースで1つ1つやる人なんだと初めてわかった。

私も自分の不器用さについては実ちゃんに言ったけれど、もしかして実ちゃんと私の不器用さは似てるのかもしれないなぁと思った。

「私は、見た目で誤解される事が多いけど凄い不器用でね。」
という部分を見て、なんとなくわかる気がした。

見た目というか、誰かがいる時の実ちゃんはすごい明るいし、朗らかで、人当たりもめちゃくちゃ良い。

細かいところによく気がついて、男女問わずさっと気使いができる、それも相手の人が負担とかに思わない絶妙なバランスで気使いを配合してさり気なく差し出せる。

合コンの細かいところは忘れたけれど、私は実ちゃんの近くだったからこそ何とかあの場にいられたと思う。

そういうのすごい不慣れだし、適当に話を合わせるとかはできるけれど、心はMAXで緊張とストレスと余計な観察力と自分の振る舞い方のチェックとかで本気で忙しい。

相手が男の人だと私は余計にその辺りが強く出る。

この後に、男友達のリーダーの話も出てくるけれど、リーダーから何十回「ぶっしーに初めて会った日、この人とは『絶対に』仲良くなれないと思った!」と言われたことか…( ̄∀ ̄)。

リーダーの感覚は大当たりで、自分でもわかってるぐらいに凄い壁を作って、口は動くけれど見えない部分は拒絶反応みたいな、相手を寄せ付けないみたいなすごいことになってる。

実ちゃんと初めて会った日も私は本当にそんな風だったはずだけど、実ちゃんの男女分け隔てなく明るく振る舞えるその姿と要所要所の気使いのおかげで何とかいられた。

だけど、1人になった時や見えない部分では、実ちゃんも自分の不器用さと格闘している。

あの肌にすっと馴染む居心地の良さは、実ちゃんのそうした見えない部分のきめ細かさがあるからだろうなぁと今になって思う。

その後も次の日と数日空いた日と実ちゃんとやりとりした。

私がその時ちょうど書けた『傷を癒す』は、なんと実ちゃんの誕生日当日だった。

そうとは知らずに私は、実ちゃんが書いてくれたこととちょうど自分が書き終えた内容とがシンクロしていたから、良かったら読んでねと言って渡した。

当日は実ちゃんは何も言わず、それから2日して誕生日だったことを教えてくれた。

「ありがとう。単純にふみちゃんから贈り物頂いちゃった気分になって嬉しかった(^-^)ありがとうねえ☆」

あまりにピッタリのタイミングで記事を渡していてビックリしたけれど、頭の中で「また魚座繋がりの縁だ!」と思った。

とにかく魚座の人との出会い率が半端ない。

そして、妙に納得してしまった。

実ちゃんの誕生日は、7年に一度星座を移動する天王星が2011年以降正式に牡牛座に入った日だった。

何も聞いていないからわからないけれど、今年の誕生日前後はさぞかし心に色々来ていたんじゃないかな…と思った。

色んなものが浮上しやすいというか、終わりにしてもいいものたちがお知らせのようにやってくるというか。

もちろん、それは全てより良くなっていくために起こっている流れではあるけれど、渦中は強烈だから、しんどい時間だろうなぁ…と自分を見ても思う。

何でこのタイミングでまた実ちゃんと繋がれることになったのか私も不思議な気持ちでいたけれど、頭では計算できないぐらいに緻密に色んなことが重なり合っての結果なんだろうなぁと感じた。

もちろん、3年前の小洒落たダイニングバーみたいなところにいた時とか、サイゼリヤで私がブログを書いてるかを実ちゃんが確認してくれた時とか、そんな時は実ちゃんの誕生日を知らなかった。

しかもあの時、初対面に近いのに、よく私のブログを確認してくれたなぁと思う。

あの確認がなければ、もしあの日一緒に呑んだくれてても、こんな風に今には繋がらなかっただろうなぁと感じる。

名古屋にいた頃、いくつも派遣に行ったことで、行く先々で誰かしら仲良くさせてもらった。

だから「連絡先」というくくりなら、私は実ちゃん以外にも連絡しようと思えばできる人が何人かいる。

だけど、私が連絡したのは実ちゃんだけだった。

あの時は深く考えず感覚で「この人に知らせよう」となっていたけれど、今当時の連絡者リストを見ると、名古屋にいた頃に仕事を通じて知り合った人で連絡したのは、実ちゃんただ1人だけだった。



今書いていても不思議な繋がり方だなぁと思う。

実ちゃんが読んでくれたブログを書いている頃、実際の私は絶賛引きこもり中だった。

ほぼ毎日のように散歩に出たり大型書店に足を運んだりとかはしていたけれど、人との接触は最小限だった。

これ書いて何になるんだろう?なんて数えきれないぐらい思ったし、それがきっかけで人と繋がるイメージもなかった。

343記事アップされていたけれど(←今見てきた)、毎日のように書いていた当時はブログからは繋がりが出ても、全くの外部からの人との繋がりは生まれなかった。

だけど、そんな風に思ってもいない形で、何なら初めて出会ったのが合コンという面白い出会い方をしているけれども、こうして繋がりが生まれた。

出会うべく人とは出会わせてもらえる。

実ちゃんとの繋がりを思うと本気でそう思う。



【お気に入りと吉本ばなな】

私は1年前の4月から自分で自分のホロスコープを読み解くこと(=占星術)を始めた。

ホロスコープは、自分が生まれた瞬間の時間・何時何分と生まれた町の緯度経度から算出した空の天体たちの配置から、自分自身の色んなことを紐解けるツールになっている。

仕事・パートナーシップ・親子関係・家族・人間関係・強み・才能・課題・魂的なテーマ・心の傷など、とにかく色々そこから自分自身の特徴を読み解ける。

1年前のゴールデンウィークの前後だったと思うけれど、私は自分のホロスコープにすごいマニアックな形が含まれていることに気付いた。

本もネットも片っ端から調べたけれど、とにかくレアすぎるようで情報がなかった。

そこで私は占星術の初級講座を受けようと考えて、探し始めた。

個人的に鑑定を受けたいと思った先生がイチオシしていた初級講座を見つけた。

見たらキャンセルが出て「受けたいな〜」なんて思っているうちにすぐに満席になった。

私はそこからは執念で、たしか1時間おきぐらいにキャンセルが出ないかどうかをチェックして、それでようやくキャンセルが出ると、私は速攻で講座の運営者の方に連絡をした。

キャンセル分を確保できて、それで行けることになった占星術講座だった。

それで5月から11月まで毎月1回東京に占星術を習いに行った。

その中のクラスメイトの1人がNさんだった。

唯一の男性受講者で、物腰柔らかい感じが普通にしているだけで溢れ返っている。

私より少し年上だけど、少年のまま大人になったような感じで、ナチュラルなアート系男児の空気をかもし出していて、話すとその外見以上にものすごく優しい。

穏やかな表情と穏やかな声がトレードマークみたいな人。

講座3回目の時の帰り道だったと思う。

Nさんと駅まで一緒に歩いた。

その直前にNさんはさらりと自分がゲイであることをみんなの前でカミングアウトされて、私はかなりがっつき気味にNさんにあれこれ聞いた。
(もちろん、質問しても大丈夫かを聞いてから聞いた)

話を聞いた当時、私はこんな風にブログに書いている。


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そんな彼が話してくれたゲイのパートナーの話がとっても良かった。

「パートナー」と呼んではいたけれど、パートナーと言うよりもっともっと強い気持ちを抱いて一緒にいるのは話を聞いていて感じた。

かれこれ10年以上一緒にいるのだと言う。

私が、1人目のゲイの知人から、ゲイ同士で長く続くカップルは珍しいと言っていた話を出して、私は詳しくはわからないけれど、普通に10年と聞いてビックリしたとそのままの感想を言った。

男の本能的な性的欲求の高さや浮気心じゃないけれど、元々種子を残そうという生物学的なものも相まって、とにかく長く同じパートナーといるのは珍しいと言っていた(ということまではさすがにNさんには言わなかった)。

そうしたら、Nさんも全く同じ説明を私にしてきて、これはゲイの世界ではメジャーな考え方や価値観なのかもしれないと思った。

そう前置きした上で、それでも今の人と長く続いてる理由は、聞いていたら性欲よりも遥かに人間関係そのものの理由で私は感動した。

パートナーは本当の本当に大切な人で失いたくない、絶対に大切にしたい、そう言ってた。

その人に出逢うまでに関係があった人たちとは、別に別れても次にいけばいいと思っていたし、ダメならダメでいいかとなってたとのこと。

だけど、その人は最初から違っていて、付き合うまでも自分はすごく大切に関係を作るようにしていたし、適当に扱ってはダメだと感じたらしい。

普段ならすぐに関係を始めるみたいな言い方をしていたけれど、今のパートナーに関しては慎重に進めたとのこと。

相手もそうだったんじゃないんですか?と聞いたら、相手もそんな風でいた感じはありました、と言っていた。

自分自身は突然仕事を辞めたり、絵を描き始めたり、とにかくハチャメチャだけれど、それでもどんな時も何も言わずに自分を見守ってくれてる、本当にすごい人だと思ってる、と話してくれた。

そんな風だから、パートナーは最初から何も変わらずにありのままの自分を大切にしてくれてる、自分もとにかく相手が大切なんだと教えてくれた。

ゲイかノーマルかなんて関係なくて、普通に自分の大好きな人大切な人を大切にするという、人間が人間として生きるそのものを表現するかのごとくパートナーと生きている人だった。

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その時に、Nさんの絵のことも出てきた。

Nさんは大人になってから絵を描き始めた人で、それも始めてまだそんなに長くは経ってなかったと思う。

子どもの頃はさっぱり絵になんか興味がなくて、むしろ図工は5段階の2にマイナスが付いていたと言う。

だけどある時、自分の中にあるものを吐き出すために紙に何かしらの筆記用具を使ってそのまま手の動くまま心の動くまま描いたと言う。

そうした時に「これだ!」と感じて、そしてどんどん絵を描いたのが最初とのこと。

どんな絵を描くんですか?と聞いたら、過去に開いた個展の案内をリュックから出して見せてくれた。

良かったらどうぞと言われてもらって帰ってきた。



それからしばらくして、ふとNさんからもらってきた案内を見ると、そこにあるアドレスに見覚えがあった。

当時の私は、ホロスコープの調べ物で気になった記事があるとすぐにブックマークをしていた。

わからないことに行き当たると、そのブックマーク一覧を開いて必要な情報をしょっちゅう引っ張ってきた。

その中の見慣れたアドレスの1つと似ていた。

気のせいかと思って突き合わせたら、なんと本気でNさんのブログそのものだった。

しかも、占星術講座に申し込む少し前に見つけたものらしく、占星術には全く関係のないブログにも関わらず、私はその文章に一目惚れしてブックマークしたものだった。

本気で驚いた。

何がどうしたら、気に入った文章の書き手の人と全く同じ講座、しかも定員18名の講座に居合わせるんだろう?と思った。

次の講座の時、私は会場に到着するやいなやNさん目がけて行って、超興奮気味にそのことを言った。

Nさんも驚かれていたけれど、喜んで聞いてくれた。



11月の終わりに講座が終了した際、講座の中の何人かとLINEでグループを作った(←私ではなく、そういうのが得意な人が)。

2月2日に『⑧覚醒』を書いた時、その人たちにもグループLINEで文章を送った。

Nさんはその場ではこんな返信をしていた。


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どうもありがとう!
まさに、ぴったりなタイミングで、
メッセージ受けとりました💐🎈💃

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「ぴったりなタイミング」って何だろう?と思った。

気になったから、Nさんに個人的にLINEして聞いた。

Nさんの返信を読んで、本当に驚いた。

どこで何が繋がるかなんて未知数で、そういうのは私たち人間の頭でなんか計算できない。

そういう内容が返ってきた。


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ぶしまたさん、こんにちは🐥  きのう、あれからぶしまたさんのブログ拝見してたのですが、言葉があふれでてるっていうか、すごい熱量というか、圧倒されました。ぼくも、そうとう書くのが苦にならない人間だけど、ぶしまたさんすごい。

きのう、Gさんって人のセッションを初めて受けまして。セッション中にいろんなことビジョンが見えて、自分が何をしに生まれたのかを思い出した! ってその時に感じて。その、感じ、が、ぶしまたさんの「覚醒」とフィットしたんです。自分を生きるために生きてるのに、なにを隠したり恐れたり否定してたんだろ! って。

Gさんがセッション終わったときに、おめでとう、って言って。生まれ変わった、って自分でも思って。そしたら、叔母が亡くなったと夜に報せがあって。ぶしまたさんのブログは、死者とのコンタクトとかが書かれてたりして。

うまく言えないんだけど、覚醒のことばもそうだけど、シェアしたぶしまたさんのアクションも、「そういうことだよね!」って思った。恐いとか恥ずかしいとかそういうエゴの声に従わず、受けとったものは、ちゃんとあらわさないと、って。

そういうタイミングだったのですよ😻

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Nさんの返信を読んで、Nさんが『覚醒』だけじゃなくて、他のものも読んでくれたことがわかった。

だから、おじいちゃんの死とNさんの叔母さんの死が重なった話にも、私はものすごくドキッとした。

人の寿命は操作できないし計画もできない。

そうしたものが今回のそのタイミングに起こるというのが、そしてNさん自身が自分の中のものを受け止めたそのタイミングとが重なる…、まるで計画されたかのような完全なシンクロ具合で度肝を抜かれた。

Nさん多分好きだろうなぁと思って、ブログの中にちょこちょこ登場させてたカードリーディングされる方の動画も教えた。


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ブログに掲載の件、ぜんぜんオッケーです! いろんな人のストーリーがどうからむのか? 楽しみです。ぼくにとって、昨日はかなり大きな転換期かもって思ってます。いきなりのぶしまたさんのLINEは、ぴったりすぎて、ちょっと笑ってしまいました。うん、たしかにそれだけ強い想いなのかもです。

それからカード動画、ぶしまたさんのブログで読んで気になってました!! まるでテレパシー! ありがとうございます、おすすめの見てみます!


お互い、というかきっと多くの人がここからどんどん殻を破って、殻が幻だったって気がついて、化けていくんですね。覚醒していく。ぼくがキャッチしたことも、自分のエネルギーをまっすぐ表現する! そういうことでした。

ブログ、あまりに膨大で気になるところを読ませてもらった感じなのですが、小説みたいで、なんともいえない世界に連れていかれました。World🌕
吉本ばななさんの小説みたい!  おなじ日本の現代にいながら、まるで違う世界みたいで、読んでるとぶしまたさんの文体がインストールされるみたいだった🦄

ぼくも学生時代ばななさんの小説に助けられてきて、いちばん好きな作家さんですよ!
つながるわ〜🍌

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Nさんとは不思議すぎるぐらいに色んなことが重なった。

まさかお互いに一番好きな作家が吉本ばななさんだなんて、どんな偶然かと思う。

そして、Nさんはプロのライターさんで、そのNさんから自分の文章を評価されたことは、すっごい光栄なことだった。

1年前ホロスコープの調べ物を始めた時に、それがきっかけとなってこんな風に縁が繋がっていくなんて、思ってもいなかった。

さらにNさんとはこんな風にも繋がっていたことに気付いた。



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「☆」(←注釈あり)しかり、いろんなところでつながり、ご縁感じますね🐣👍

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[☆の注釈]
「Nさん、今さら気付きましたが、Nさんの名前の「☆」の部分、今回色々出演している名脇役の1人と同じ文字です!
だからご縁をいただいたのかと思いました!」

Nさんの下の名前をよくよく見たら、この『奇跡の果実』のベース部分に貢献してくれてる立役者の人と同じ漢字だった。

読み方も一緒。

個人でLINEをやりとりしたことで、画面に表示されるNさんのフルネームを見て初めて気付いた。

ちなみにNさんが現在住む町とその立役者の人の出身地とされる町は同じ町。

立役者の人というのは、私のこのオカルト体質を引き出すトリガー的な役割を果たしてくれた人。

言うなれば、2年前の夏に私の体質は発芽した。

種は元々あったと想定すると、それまではただ持っているだけの状態が(←持っていることにさえ気付いていなかったけれど)、それを発芽させるのに絶対に必要な肥料を与えてもらった、そんな役割の人だった。

私のこのオカルト体質は1つだけ条件がある。

自分で言うのもとても恥ずかしいものがあるけれど、このオカルト体質を他者に向かって発動させる時、それは愛とやさしさを持って取り扱うことが絶対条件だと思っている。

それらを持って使えないなら、使ってはいけないとさえ私は思っている。

その部分の感覚を開くために私の人生に現れた人物とNさんとが同じ漢字を持っている。

占星術講座だって先生入れたら20人いるわけで、その中でこんなにもピンポイントで繋がれたことにただただ驚きを隠せない。

さらに繋がってみると、名前然り、住む場所然り、好きな作家さん然り…とやたらと共鳴している。

もちろんそんなのを狙って出会ったわけじゃない。

だけど、知れば知るほど、共通点や趣味嗜好が重なる。

Nさんの文章を初めて読んだ時に湧いた感覚、心に沁み入る感じは今も変わらない。

すごい短い文章の中に一瞬で吸い込まれる。

まさかその後ご本人に出会うなんて想像さえしていなかったけれど、出会うようになっていたんだと思う。

心を鷲掴みにされるぐらい、静かにでも強く心に響いた。

Nさんの短い文章には、愛とやさしさが溢れ返っている。

今久しぶりに開いて驚いた。

その短い文章にも「やさしく」って入っている。

どこまでもシンクロしている。

この文を書いた人と縁がありますよ、と言わんばかりに色んなことが繋がっている。



【命の授業】
〜コータロとリーダーの話〜


冒頭の牛さんたちの写真は、岐阜の飛騨地域に住むコータロに頼んで送ってもらった。

本人から自己紹介文を書いてもらったのがこれ↓

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全国的にも名の知れている
ブランド牛である『飛騨牛』の生産者。
お肉になる肥育牛の飼育にとどまらず、自身の手で和牛の繁殖も手掛ける。

将来の夢は大金持ち。
欲望にまみれたパンクロッカー(笑)

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「『ブランド牛』を足しましょう!」と最後に付け加えられてきた 笑。

本当に私から特に付け足すことがないくらいにバッチリな自己紹介文を書いてくれたコータロが撮影した写真たち。

一言付け加えるならイクメン&イケメン!

「イケメンは余計ですぜ姉さん(笑)
ご自由にお使いくださいね。」
とのことではあったけれど。

実際に、4人の子どものお父さんで、本当に子どもたちをよく見ている。

本人はイケメンを否定したけれど、私の女友達がドミニカの写真を見た時に「この人カッコいいじゃん!」と言ってたから、イケメンはイケメン。

牛の写真なら私は何でも良かったけれど、いきなり1枚目に親子の牛が来た。

私はどちらかと言えば動物全般が苦手だけど、コータロの1枚目の写真は見ただけですごい癒された。

牛の表情はもちろん牛たちそのものが持っているものだけど、その表情を一瞬でカメラに収めるセンスはコータロのセンスだなぁと思う。

そしてその表情を自然に牛たちも出せるくらいに、コータロに安心できてるんだろうなぁと思った。

今のNHKの朝ドラ『なつぞら』で牛飼い家族が出ているけれど、ドラマで言ってた。

牛というのはすごい警戒心が強い動物だから、いきなり人間が触れられるものではないらしく、徐々に距離を詰めて牛側が人間に慣れないと触らせてもらえないそう。

信頼関係もないまま触ると、搾乳の際、牛に蹴られて命を落とすこともあると言っていた。

それを最近知ったから、コータロが手塩にかけて育てているのが写真越しにより一層伝わってくる。

2枚目は「隆二」くんとのこと。

3枚目はご懐妊したばかりの「ふみこ」。

最初コータロからは
「水曜日に出荷するんで、その時に撮る感じで良いっすか⁇
ちなみに『ふみこ号』も繁殖牛でいますけど、ちょっと薄汚いもので(笑)」
と返信が来て、ふみこは来ない予定だった。

私はそれでも良かったけれど、ブログに使いたいと言ったらありがたいことにすぐに送ってくれた!

コータロの解説によると、雄牛は漢字できちんと名前を付けて(細かいきまりがあるって言ってた気がする)、雌牛はひらがなで飼い主が好きに付けれると言っていた。

ふみこやちかこ、しずか、かなこ…と色んな友達の名前を付けてると言ってた。

おかげさまで「ふみこ」も採用してもらい、そして牛のふみこは子宝に貢献中 笑。

ふみこの種付けもコータロがしたんだろうと思う。

写真を送ってくれた後、妊娠鑑定を本当にして
「今触診しましたが、おめでとうございます!妊娠してますね。10月23日予定でお願いします。初産なので、しっかりと準備しておいて下さい。」
と来た 笑。



コータロは、『覚醒』のブログをアップした時に、最後の最後まで連絡するしないを迷った唯一の人だった。

普通に連絡はいくらでも取れる。

だけど、コータロの今の生活を何度か遊びに行かせてもらって知っているから、コータロがどういう思考体系の人なのかさっぱりわからなくて、それが迷いとなった。

日々牛たちイコール生き物の命のお世話をしているわけで、24時間365日体制で命と隣り合わせの生活を送っている。

子どもも4人いて、そして地域の結びつきがとっても強いから、毎日毎日何かしら地域の集まりにも借り出されている。

消防団から町内会、今は子どもの子供会、PTAなんかも含めて、コータロにいつか1週間のスケジュールを聞いた時に、あまりの忙しさにびっくらこいた。

その合間に趣味のバンド活動もしていて、本当にすごい活動量を普通にこなしている。

地域のしがらみとか色々あるにしても、そうした中で上手くバランスを見つけて本当にきちんと生きている、それはコータロを見てたらわかるから、私のこのオカルト的なものをカミングアウトするのはいかがなものかと思った。

そして最後に会ったのは2年前の夏のリーダーの結婚式の時で、あの時もすでにペンジュラムは使っていたけれど、まだ全然自分1人の趣味の範疇みたいな感じだったから、当時の私はこの先そんなことをコータロはじめ他の人たちにも言わずにいる気でいた。

その時は隠し通せると思ったし、そんなことはいちいち言わなくても友人関係は続けられると思っていたから。

冗談抜きで、私は長い付き合いの友達には、相手が興味を持たない限り、死ぬまで誰にも言うつもりがなかった。

だからコータロとそういう手の話は一度としてしたことがなかった。

こんなにスピリチュアルなことやオカルト的なことが人生に入ってきたのは、コータロに会ったその後1ヶ月ぐらい後からの話で、それまでは本当に隠せるぐらいのものでしかなかった。

今がオカルト度100とするなら、当時は10以下だった。

で、コータロに会ったのはそのオカルト度10以下の時が最後だった。

迷ってはいたけれど、一気に色んな人に連絡したり傍らでYさんの連絡先探しをしていたから、コータロのことは落ち着いてから考えよう…なんて思っていたら、さすがコータロ、facebookに1番に反応してくれた。

コータロは「いいね」だけじゃなく、きちんとコメントを残してくれた。

>盗用してやるー(笑)
>ところで武士さん元気ですか⁇

この一言を見て心が決まった。

わかってもらえなくてもいいや!って。

わかってもらえなくてもいいから、きちんと話そうって。

まるで言い訳のように見えるかと思うけれども、私がここまでこだわったのは、一言で言えば「これまでの関係性を失うのが怖かった」から。

本気で失いたくなかったから、だから最後までああでもないこうでもないと迷った。



コータロと初めて会ったのは、私がデング熱で入院していた病室でだった。

1回目のデング熱は本気で具合が悪くて、そんな時にコータロたちのグループがドミニカに到着したばかりで、病院のオリエンテーションを受けていたんだと思う。

日本人女性の健康管理員さんが私のところに来て「今さ新しい子たち来ているんだけど、ここに連れてきていい?」と聞かれた。

扉の向こうにいるのが丸わかりで、「嫌です」って言えるの?この状況で?と思って、「いいです」と答えた。

あれが入院何日目かは覚えてないけれど、シャワーも浴びていない、グッタリしている、色んな意味でひどい時に初めて会った。

ドミニカでは2年弱重なっていて、本当に色々と仲良くさせてもらった。

日本帰国後も会って、そしてコータロはあれよあれよという間に岐阜の飛騨牛産地の町へ結婚して婿に入った。

名古屋から3時間ほどの距離で、私は新婚当初からコータロ夫妻のところに遊びに行かせてもらっていた。

忘れもしない、たしか1回目か2回目の訪問時。

コータロが注文したギターが届いた。

奥さんのなっちゃんと3人でいいやつだね〜良い色だね〜とか言ってみんなで見て、そしてなっちゃんが一瞬席を外した瞬間、
「武士さん、これ本当は◯◯万円なんすよ!なつこには黙ってて下さいね!」
と言ってきた。

値段は忘れたけれど、なっちゃんに公表した値段の3倍ぐらいしてた 笑。

その後もコータロ夫妻とは本当に縁があって、2人の待望の第一子ご懐妊を調べるために妊娠検査薬を薬局に買いに行って、それですぐその場で調べて陽性反応が出た時も、なぜか私はその場にいた!

その子を連れ立って私の名古屋の極小アパートにも遊びに来てくれたし、その日はリーダーも来て3人でコータロが持ってきてくれたビール24缶全て飲み干した。

よく考えたら、なっちゃんと長女ちゃんとは下呂温泉だと思うけれど、一緒に日帰り温泉にも入った仲で、本当に家族ぐるみでお付き合いをさせてもらっていた。

2年前の夏、コータロが口にしたなっちゃんへの愛は、その後キャリアウーマンたちはじめ色んな女性たちに大人気だった。

コータロが言ったのはこんな風だった。

「年を取るとそして子ども産むと体のラインが崩れてくるじゃないですか?うちのなつこさんなんて本当にすごいんすよ!でも、それがまた良いんすよね〜。あの崩れたラインに色気を感じるんすよね!」

結婚式の席だったのか、他の時だったのか忘れたけれど、とにかくずっと下ネタオンパレードな時間の一貫で聞いた話だった。
(翌朝の爽やかな空気漂うローカル電車の車内でもコータロともう1人の友達すーさんは、私の目の前で札幌すすきの体験を話し出した( ̄∀ ̄;))。

その時もすごい素敵だなぁと思ったけれど、今度は東京でキャリアウーマンたちと集った時にその話をしたら、コータロ株は異常なほど上がっていた。

しかも3人とも医療従事者で、女としてもだけど職業人としてもコータロのその感性をべた褒めしていた。

これだけ色んなものを重ねてきたからこそ、私が怖かった。

超絶怪しいオカルト的なものは、ものすごく反応が分かれる。

ダメな人は昔の私みたいにどこまでもダメだし、今カミングアウトを始めてみてわかったのは平気な人もけっこういるということ。

ただ、そんな話、コータロとしたことがなかった。

個人的な話とか深い話はしたことはあっても、オカルトに関しては互いに興味もなかったから話に上ることさえなかった。

だから、コータロの反応は読めなさすぎた。

そして、誠意や仁義、誠実さ、人としてのあり方を本当に大事にする人だから、そしてそういうのを大事にできないのをとても嫌がるのも知っているから、それとオカルトは別物にしても、色々読めなさすぎた。

だけど、facebookにすぐ反応してくれて、それを見て心は決まった。



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武士さん…

スッゲーなげぇ💢

でもね、良く3人のこと表現されてますよね。
妬いちゃうくらいに(笑)

シオさん東京に転勤なんですね!
彼のフラットな物の見方は見習うべきものがあります。
一見素っ気なく思えても、実は思っている。
けれども、深くは入ってこない…絶妙な距離感が素晴らしく思いますね。

G男君はチャランポランに見せかけて、実はかなりクールな物の見方をしている方です。
本当の意味で頭の良い人ですよね。
二面性はあるのですが、裏面があまり表に出てこない所に、かれの凄さを感じます。

リーダーさんはナイーブなのに、他人を放って置けない。そんな優しさに溢れた方なんですよね。素晴らしい父親になるでしょうね!

そして、武士さん。

超絶怪しい事にハマって?いるようですが(笑)
やりたい事をやるのが、この世に生を受けた者の、幸せの形なのではないでしょうか?

自分が今やっている牛飼いも然り…半分趣味ですから。
一応の?天職にあり付けるのは、本当に一握りなんだと、ご自身のやっている事に誇りを持って下さいね。

自分は今の仕事、天職だと思ってますよ。

九州の三快男児のように😎

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コータロの言葉にものすごく勇気や元気をもらった。

コータロさすが!!!と思った。

コータロは本当に自分の仕事を誇りに思ってやっているし、そしてその中に楽しみもたくさん見出している。

初めて行った時、牛舎をはじめ色々紹介してくれたけれど、本当に自分の身の回りで楽しめることを存分に楽しんでいた。

牛舎近くに小川があって、そこに立ち止まって「ここで釣りもするんすよ!」と言っていたりとか、ちょっと行くとすぐヤブっぽい森みたくなるところで「ここは春になるとタラの芽がたくさん出ます。天ぷらにすると美味いんすよね!」と、本当に楽しいスポットをいくつも教えてくれた。

そんな綺麗事ばかりではもちろんなく、現実的に向き合わなきゃいけないことも色々あれば、命と日々関わる仕事ゆえの厳しさもすごく強い。

だけどそれをコータロは、目の前のことを1つ1つこなしながらやっている。

そして本気でその仕事に向き合っている人だからこそのエールだなぁと感じた。

本当にとっても嬉しい言葉だった。

今は自分が少し恥ずかしいと思っている。

私は自分のことばっかり心配していて、コータロの性格をきちんと見てなかったなぁと。

本当に凄い人間力がある人だということを見落とすぐらいに、自分の心配で頭がいっぱいだった。

でも、やりとりしたおかげで、コータロの人間性に改めて触れることができた。

コータロ株はまたここでも急上昇した。



この時はまだコータロとリーダーがコラボしたことは何も知らずにいた。

知ったのはその翌日、リーダーから『覚醒』のブログの返信が来た時だった。

コータロとリーダーのコラボの話を聞いて、「これは絶対に書いて外に出そう!」と決めたのと、これこそが『奇跡の果実』の最後を締めくくるにふさわしい話だとすぐに思った。

命の循環であったり、人と人との巡り合わせ・ご縁だったり、そうしたものが信じられない形でお互いに重なり合って新しい物語を生んでいる。

『奇跡の果実』そのものが人の死に関わった話が出発点だからこそ、絶対に避けては通れないテーマが横たわっている。

死の反対には「生」・「命」がある。

それをどこまでも表現したい、そう思った。



コータロとやりとりした翌日、リーダーからも返信が来た。

そもそもはコータロが書いてくれた九州男児たちの感想をリーダーに伝えたくて連絡をした。

コータロには、『⑧覚醒』以外に『九州男児たち』の話も送った。

その中でシオくんが私のしていることをとてもわかりやすく説明してくれているから、それで送った。

そうしたら、コータロから3人に対する素敵な感想が返ってきたから、だからリーダーにそれを転送したに過ぎなかった。

だから、「命の授業」の話の存在は、その時まで全く知らずにいた。


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コータロくんに送りたいものがあるのよ。そ内容はね、コータロくん(の仕事)について、授業で扱ったの。

生徒達がお礼の手紙を書いているの。
なんか、こういうの、良くない?

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私は何したのか気になって、何をしたのかリーダーに尋ねた。


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命をいただくっていう授業。
そういう絵本というか、道徳に使われる話があるの。
話では、リアリティないと思って。
ある女の子と、家族のように過ごした食肉用の牛との別れ、そしてその食肉用の牛を屠殺する仕事の男性の葛藤を描いた話。

コータロくんが、一生懸命働いていること、食卓に届くまでに沢山の人の手や心がかけられて届いているかを生徒達と一緒に考えたの。

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冒頭のYouTubeの動画が、リーダーが実際に授業で使った題材。

時間のある方は10分程度で終わるので、本当にこの話すべてに通じるものがあって言葉では言い表せない良さがあるから、良かったら見て下さい。

リーダーに今回の話、リーダーが書いてくれたことも含めてブログに使いたい旨を伝えて、了解を得ようとした。

その返信はここでは伏せるけれども、そのリーダーの返信について私が個人的に思ったことを今から紹介したい。



リーダーは、ブログに使うのは全然OKしてくれたけれど、1つだけあることを「伏せてくれるとありがたい」と書いていた。

その伏せる内容に対してリーダーがした配慮こそが本物の気遣いだと思った。

リーダーが希望した内容は、そこに関わる人たちへの配慮だった。

それはリーダーでなければ絶対に気付かないタイプの配慮で、それは特別扱いとか差別的態度とかではなく、本当にそのことに対して真摯に向き合う人の言葉だった。

そのまま出しちゃうと、その言葉から連想されるものによって「色眼鏡が入る」可能性をリーダーは言っていて、それを避けるためにある部分だけは伏せてくれるとありがたい、そう言った。

この上ない配慮で、すごく人に寄り添ってる、それも自分の今近くにいる大切な人たちに寄り添ってる、それを私はひしひしと感じた。

デリケートなことだからこそ、小さな配慮1つで余計な混乱を生まなくて良くなる、それをものすごく自然にでも毅然と言うリーダーがすごく良かった。

リーダーはずっとずっと変わらないなぁと感じた。

リーダーは専門は美術になる。

ある時、生徒たちにした授業の1つを、私にビールか焼酎を飲みながら紹介してくれた。

テーマは「好きな色」だった。

白い画用紙と絵の具を用意して、生徒たちには好きな色で塗ることを指示した。

ビールか焼酎を飲みながら、「こんな風に説明したんだよね」と言う。

「もし好きな色がわからなかったら、絵の具を1つずつ順番に出して、それを塗ってみたらいい。時には色と色を混ぜてもいいし、そのまま使ってもいい。
もしくは、隣りの子の色使いを見てそれを真似してもいい。
そうやって色んな色を試していく中で『自分これ好きだな〜』っていうのを見つけたらいいんだよ」

私はこのリーダーの話が好きでたまらない。

リーダーはあくまでも美術の授業の一環でその話をしたに過ぎない。

だけど、それは私たち大人にも使えるものだなぁと。

30代の中でも1番2番を争うぐらいに自分の人生に迷っている時に聞いたと思う。

話を聞いていて、自分も自分の好きとか自分の進みたい方向がわからなかったら、とりあえず色々試したり周りの人たちを見たらいい、それも1つの方法だなぁと思った。

リーダーはわからない子、できない子をそのままにしない。

わからないならわかる方法を、できないならできることを、そういうものを見つけて自信をつけさせる。

そういう細かいことにも普段から配慮しているから、だから今回私がブログに使うことに対しても、リーダーが私にお願いしてきたことは普段の配慮の延長線上にあると感じた。

見落としたって正直直接は誰も困らないと思う。

だけど、リーダーはもっと上の視点で物事を俯瞰して、その中で大切なことを守るために「これは配慮をしてもらえたらありがたい」ということを言ってきた。

自分と関わっている人たち・生徒たちをとても大切にしているんだなぁとわかった。



コータロと今回写真のやりとりをした時に、リーダーとのコラボの話になった。


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リーダーさんとの事は、コラボって程のものじゃないですよ。
ただ資料提供しただけで、なーんにもしてませんから😅

でも、生徒さんそれぞれが手紙を書いてくれて、皆さんの考えを読んで、何か込み上げてくるものがありました。

我々は消費者と顔を合わせる事が出来ないので、もっとお客様と繋がれたら嬉しいなぁと思った次第です。

こちらも手紙をしたためようと思っていたのですが、数日後に彼等は卒業すると書いてあったので、断念しました…ラインでもリーダーさんに送ればよかったなぁ…と、ちょっと心残りです😓

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リーダーはリーダーでこんな風に言っていた。


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実は、コータロくんからの資料提供は去年だったんだけど、その頃色々校内であって、やれなかったの。
でも、どうしてもやりたくて先月決行。
子どもたちなりに考えてたよ。


この題材自体は結構有名で、知ってはいたの。だけど以前、コータロくん家に行って見たこと聞いたことが、いつか社会の中で働く生徒たちとその生活と、自分と見つめ合うことにつながったの。だから、これを扱いたいなと。
しかも、コータロくんはまさしくビンゴな職業だし!

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コータロもリーダーもそれぞれがそれぞれの想いを持って日々仕事をしている。

コータロがどんな資料を提供したのか知らないけれど、その資料は間違いなくリアルなもので、それを見る子たちに響いたと思う。

「ただ資料提供しただけ」とかさらりとコータロは言っているけれど、冒頭の写真からもわかるように、コータロが日々積み重ねているものがそのまま表れたようなすごいメッセージ性の強い資料だったんじゃないかなと思う。

一朝一夕にはできないものを、惜しみなく提供しただろうコータロを思うと、ただただ尊敬の念が湧くばかり。

リーダーはリーダーで、それを生徒たちに伝えられるタイミングを見計らって、それでようやくその時を迎えたようだった。

「自分と見つめ合うことにつながった」と言ったリーダーのセンスが凄かった。

その場限りの授業じゃなく、いつか社会に出ていく子どもたちに対して伝えられるもの、これから先生きていく上でも大切なもの、そういうものをリーダーは授業を通して子どもたちが何か大切なものに気付くためのきっかけを作ったんだと思う。

リーダーのような人が先生なら、本当に子どもたちも生きていく上での新しい引き出しが増えただろうなぁと思う。

そして、この「命の授業」は今後もやるのかは知らないけれど、リーダーは今春異動になって、そして今年がおそらく担任をする最後の年になりそうだと言っていた。

とうとうずっと避けてた管理職でも目指すのかと思ったらそうではなく、全国探してもそんなこと専属でする人いるの?というものを目指したいとあった。

ピッタリだと思った。

と同時に、コータロとリーダーとがコラボした「命の授業」は、今回が一期一会、最初で最後の授業になった可能性も高い。

そんなピンポイントで私も連絡を双方と取り合ったわけで、この奇跡的なタイミングに心から感謝した。

リーダーは、私が2月に『⑧覚醒』を書いて渡した時にこんな風に感想をくれた。


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自分と向き合うって、言葉では簡単だけど、すごく苦しくて目を背けたくなるくらい難しいことだよね。
だからこそ、乗り越える価値があって、乗り越えるべき壁なのかもしれないなとぼんやり考えちゃう。
自己理解を深めることって、いくつになってもやってる自分がいる。きっと死ぬまで自己理解は続くんだろうね(^^)

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そして、私と数日違いで40歳になったリーダーに誕生日おめでとうメッセージを送ったらこんな風に返ってきた。


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なんかね、いろいろ考えたよ。
これからをどう生きるか。どう進んでいくか。
正解かどうかわからないけど、明日の自分がよかったと思える今日を過ごしていくってことにする。
お互い、やり残すことがない1日過ごしていこう!

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【最後に】

今回は、ものすごく長くなるのを最初から覚悟して書いた。

あえて、1つの文章として発表する気で最初からいた。

分けなかった理由は、ここに出てくる5人の人たちの話はそれぞれたしかに独立してはいるけれども、同時多発的に起こっていたから。

『奇跡の果実⑧覚醒』を発表した時に、ものすごい勢いで色んなことが色んな人たちの場所で起こっていることを知った。

27人に文章を送ったから27通りの返信をもらっている。

言葉を変えれば、27人分のある冬の日のある1日、それを知ることとなった。

そしてそこに至るまでの日々の積み重ねがそれぞれの人たちの言葉の向こうにあった。

誰一人として同じストーリーを持っていない。

本当に1人1人唯一無二のストーリーで、それがすごい壮大な物語を紡いでいた。

当初他の人たちの分も載せようかと思ったけれども、あまりにも量が膨大すぎる=長くなるから、的を絞った。

私が最後こだわったのは、これを読んだ誰かの心にやさしい空気が少しでも流れてくれたらいいなぁと、そしてその空気をまとってる話を選んだ。

今は本当に世の中が、ちょうど時代が入れ替わろうとしていて混沌としている。

「世知辛い」という言葉を何年か前に初めて知った時、まさに今を表す言葉だなぁと思った。

海外で合計6年暮らした私からすると、日本はすごい先進国でありながら、心は超ギリギリな線で保たれている国だと思う。

これからますます蓋をされてきたものは世に暴かれていくだろうし、世の風潮が大きく変わるというのはそれだけ混乱や不安、心配も呼び覚まされるわけで、その分が個人個人の人たちに痛みや生き辛さをもたらす可能性もすごく高い。

私は悲観してるのではなく、本当にそういう状況がどうしても目に浮かんでしまうから、それを自分の言葉で表現できることは、黙って知らぬふりではなく、言えそうなことは言葉を選びながら言いたいと思っている。

大変になることを言いたいのではなく、そうなっていく中で、個人レベルで気をつけて大切にできること、そんな混沌とした中にもきちんと存在しているやさしいもの、そういうのを表現したいんだと徐々にわかってきた。

もちろん、それを出せば出すほど、私とは反対意見の人も到底受け入れられない人もたくさん出てくると思う。

だけど、私はそんな中でも、人が持っている無限のやさしさに本気で可能性を感じているし、それこそがこれからの時代本当に生き抜いていくための一番の心のよりどころ、一番大事にされていく部分じゃないかと思っている。

ここに出てきた人たちは、ものすごい強い意志を持って「誰それにやさしくしよう!」とか「良いことをしよう!」なんて意気込んでいたのではないと思う。

普段の行い、普段よりちょっとだけハードル上げて勇気を出した行いの結果が、これだけのストーリーを運んで来てくれたと思っている。

みんなそれぞれの人たちは私も含めて、日常のことから人生の大きなことまで、幅広く悩みだったり何かする必要のあることだったりに囲まれている。

それぞれの人たちの愚痴や悩みを聞いたことあるし、すべて順風満帆です!!!イエーイ!!!みたいなのとは違う。

だけど、みんなそれぞれが一生懸命生きていて、その一生懸命の一部を私に教えてくれて、そしてこれだけの文章が今出来上がっている。

私は『⑧覚醒』を出す前までは、やっぱり自分のこのオカルト系の体質が嫌だったし、受け入れ難い気持ちもいっぱいことあった。

今も「私自分の資質を生かして生きていきます!100%そうします!」なんていう強い意志はない。

少しずつ向き合える量が増えてきた、それだけでも私には大進歩だったりする。

2月3月とまだまだ思わぬ言葉もやってきたけれども、それでも私が今これだけ自分に向き合えるようになったのは、上の人たちはじめ、色んな人たちからやさしさをもらったからだった。

自分のことを告白するというのは私にはすごく勇気のいることで、これからもまだ色々あるだろうなぁと思う。

だけど、あの『覚醒』の文章を外に向けて発信したことで、私は初めて本当の本当に心の底から自分の体質が良かったと思えた。

そうしたものを、これから死ぬまで付き合わなきゃいけない自分の体質を告白しても、それでもやさしさを向けてくれる人たち、本当の言葉をかけてくれる人たちがいると知って、それでようやく私も自分の居場所を作れるかもしれない…と思った。

『覚醒』を発信したことで得たものは、この自分の体質を持つことで得た、初めての本気で心を包み込んでもらえるようなものばかりだった。

この体質でなければ『覚醒』なんていう文章を書くこともなかったし、外に向けて発信することもなかった。

どの人たちも、やさしさだけじゃなくて、私に安心感とかエールとかいうものも一緒に送り届けてくれた。

私があえて今回、それぞれの人に聞き回って公開した理由は、それが誰の身にも起こりうることだと言いたかったから。

上から目線みたいな話でちょっと言うのに抵抗があるけれども、私は色んな人たちと話していく中で「そんなこと、ぶっしーが特別なんだよ」と言われるのが実はすごく悲しい。

死者の霊魂と繋がるとかいうならそりゃそんなの誰の身にも起こるとは言わないけれども、少なくともここに書いた話は誰もが色んな形で経験できるものだと私は本気で思っている。

ここに出てきた人たちが何も特別じゃなくて、みんなそれぞれそういう心を持っている、その可能性を私は感じている。

だから、生きにくい日本であっても、そしてこれからますます時代は過渡期を迎えて強烈極まりない流れに入っていくとは思うけれども、それでもやさしさは絶対に存在するし、それは1人1人の心にいつも存在していると私は思っている。

外側の出来事や人間関係然り、自分の内面然り、色々あるとやさしさも自分の強さやしなやかさもどこ行った?と私なんかはよくなるけれど、それでもなくなるなんてことはない。

自分が行方不明のように見える時は、周りを見て周りの人たちのやさしさに気付けたら「大丈夫!」と思う。

心が疲れたり弱ったりすると、色々見えなくなる。

私なんかしょっちゅうそうだからわかる。

だけど、そんな時でも奇跡は起こる。

人のやさしさもそこいら中に存在している。

やさしい世界があること、それこそが「奇跡」を体現したものだと思う。

どんなに世知辛い世の中でも、よーく目をこらすとやさしさが必ず存在している。

山で行方不明になったおじいちゃんが私に見せてくれた景色は、何も私の失敗だとか至らなさではなくて、人と人とが繋がって生きている姿と、そして1人1人の命の物語と、そして1人1人の中にあるやさしさと、そしてそのやさしさとやさしさが巡り合う一期一会、それはみんな「愛」と呼べるものだった。

おじいちゃんが伝えてきたのは、「“愛”ってこういうことだよ」っていうことだったと思う。

そして「愛」って言うと難しすぎるけれど、ここに書いた物語たちが「愛」というものの姿かたちを変えたものだと思う。

『奇跡の果実』という名前は別名『愛という名の果実』でもあると思う。


Love for you!
Love for us!
Love for all of us!

あなたに愛を!
私たちに愛を!
私たちすべてに愛を!



奇跡の果実【完】



『奇跡の果実』シリーズに個人的な話を出すことを快諾いただいた方々、この長い文章を読んでいただいた方々、本当にありがとうございました。
これにて『奇跡の果実』完了です。
本当にありがとうございました。

2019年 桜満開の頃
武士俣史子