2014年7月24日木曜日

心理検査の落とし穴

「エコグラム」と呼ばれる心理検査がある。

全部で50問(10問×5分野)、YES・NOで答えていく(一応、どちらでもない、も有り)。

わたしがエコグラムを最初受けたのは、今から10年ほど前。

通信制の大学の心理講座の中だった。

実際にキャンパスに行って、対面式の授業を受けたのだけど、

その時のわたしの結果の分析の言われようは、相当ひどいものだった。

大学で教鞭がとれるわけだから、少なくとも博士号なんかを持ってられる、

カウンセラーの先生だったと思う。

先生は、わたしの数字的な結果と、その結果を折れ線グラフのようにした図の両方を見て、

「あなた大変でしょう!?

色々と生きづらかったり、人との関係の中で大変でしょう!?」

そんな類のようなことを言われた。

わたしはいきなりそんなことを言われて、はっきり言ってパニックだった。

わたしがぴんときてなくて、答えないうちに、

「お母さんとの関係で、何か思い当たることない?」

とさらに質問を重ねた。

これが1対1のやりとりではなく、数十人授業を受けている中での出来事だった。

その場では何が何だかわからず、わたしは授業の後にもう一度個人的に先生に質問した。

どんな意味や意図でそういうことを質問されたのか、当時のわたしには理解できなかった。

先生は、とにかく親子カウンセリングの必要性をわたしに説き、

わたしはわたしで、自分の親子関係の悪いところを必死に探そうとし、

何かがまちがっていたんだろうか・・・という不安ばかりが募って、それっきりになってしまった。


その後も、2回程度は、エコグラムを何かの折に受けたと思う。

よく就職試験なんかで使われたりするから、そんな感じで受けた記憶がある。


で、今回、興味が湧いて受けた心理講座の中にまたエコグラムが登場した。

最初のスタートから数えて10年以上は経過したかと思う。

そこで、わたしは、当時なぜあれほどに先生にマイナスにしか取れないようなことばかり

言われたのか、言われたというより、先生がどうしてそういう発言に固執したのか、

その謎がよく解けた。


人によっては、エコグラムの折れ線グラフの形が変わったりするらしいけど、

わたしは、その初回から今回のも含めて、数回分すべて同じ様相の形だった。

だから、わたし自身、基本的な考え方や行動はあまり変わっていない。

で、そのわたしの折れ線グラフの形というのが、

「人間関係に振り回される、典型的な例」

にぴったり一致するものだった。

この、「人間関係に振り回される、典型的な例」

という分析は、実は今回初めて知った。

わたしは、今回講座を担当した先生のところにも、個別に聞きに行った。

でも、今度はちょっと違う質問をした。

わたしが質問したことは、

自分は人にはとっても恵まれていると思っている、

これは今だけじゃなくもうずっと長いことそう思っている、

周りの人にもそう言われたことまである位に本当に恵まれている、

なのになぜ、人間関係に振り回される典型的な例になるのかがわからない、

そう質問した。

先生の答えはいたってシンプルだった。

「貴女、困ってないんだよね?だったらそれでOKよ!」

その後補足して、

一般的にはそう言われてしまう形ではあるけれど、

本人がそう感じてなければ違うってこと。

ついでに最初に受けた時の、当時の先生に言われたことも伝えたら、

「それは、その先生が一般的な理論に当てはめて貴女を見ていただけ。

こういう結果なら、こういう性格の人だと決めつけて話していただろうから、

だから、そんな内容のことを言われたのかな・・・」

あと、人間関係に振り回されるという傾向が強い形ではあっても、

ひとつひとつのパートを見ていけば、

楽しいことが好きで、裏表がなくて、面白い人っていう風にもなるから、

周りにはそう映ってるんじゃない?とまで言ってもらえた(←これはとてもうれしかった)。


長いこと、なんであそこまで強く言われなければいけなかったのかわからなかったことが、

今になってわかった。

最初の先生は、理論が最初にあってその後に目の前のわたし、

要はわたしが二番目だった。

目の前の人よりも、理論が勝り、当然わたしは混乱し、

わたしもわたしで、この人はわたしの何も知らないのに、何を好き勝手に言ってるんだろう・・・

と思えば良かったけど、そう思えるだけの自信がなかった。


わたしは、やっぱり人は、たとえどんな人でも、

数字や傾向だけでは推し測ることのできないものだと思っている。

同じ人でも、昨日のその人と、今日のその人と、明日のその人と、

それぞれ状態が違う。

ある程度の枠組みはあった方が便利だし必要だとも思うけれども、

それによって目の前にいる人が決めつけられてしまうことは本末転倒だと思ってる。


当時は、とっても不愉快な思いをしたし、

必要以上にいろんな不安や葛藤がのちのちにもたらされるようなことにはなったけど、

この心理検査の落とし穴的な体験ができたことは、ある意味とっても貴重だと思ってる。

2014年7月9日水曜日

35歳4ヶ月

この日記の公開は、いつかこういう自分をさらけだしてもいいなぁ~!
こんな時代もありました、私!と堂々と胸を張れる時に公開したいと思う。
(2014.7.9)

私が想像していた35歳の自分は、

結婚して子育てしている私。
もしくは、自分の天職はこれ!と定めてひたすら突き進む私。
もしくは、まだ天職と堂々と言えなくても、なんとなく少しずつ形にしだしている私。

この3つのどれかと思っていた。

まだ30代前半の時の自分の想像だった。

まさか35歳になって、
結婚もせず、
当然子育てもせず、
派遣で仕事をして、
何がしたいのかわからず、
焦りと心配と不安でいっぱいで、
肩で息をしているような日々を送ることになるとは、
もう想像外だった。

こんな風に毎日を過ごしたいなぁ・・・
あんな風に生きたいなぁ・・・
そういうことを想像することが、とっても苦しくなった。

どうせ駄目なんだ自分は・・・とか、
誰誰、○○のせいで自分は・・・とか、
そういうことは思わないけど、
何やってんだろ自分は・・・とは思う。

なんでみんな迷わずに前に進めるの?と不思議でならない。

それぞれ見えないところで悩んだり迷ったりしているんだろう。

でも、そんなの微塵も感じさせない位にバイタリティがあったりする。

私は、迷いまくり、立ち止まりまくり、でも答えを出そうとしない、

どこからどこまでもスパイラルだらけで苦しい。


世の中の梅干しの怪

今年初めて梅干しなるものを漬けてから、

今日ふと気になったことがひとつ。

一般に市販されている、梅干し、の存在。

梅そのものは、1年365日あるうちの、多分1ヶ月にも満たない位しか市場に出回らない。

春や真夏、秋、冬に梅が売られているのは見たことがないし、

実際に収穫不可能なんだろうと思う。

つい2週間くらい前まではぎりぎり売られていた梅も、七夕を過ぎた今は目にしなくなった。

でも、スーパーの漬けものコーナーに行けば、

いつだって梅干しは数種類陳列されている。

春も夏も秋も冬も関係なく、売られている。

手作りをごり押しするつもりもなければ、

添加物反対!とか、自然由来のものしか口にしない!とか、

そういうことも一切言うつもりはない。

だけど、今回梅干しを自分で漬けてみてわかったのは、

梅、特に熟しだした梅というのは、あっという間に傷む。

黄色くなって、いい香りだなぁ~なんて悦にひたった3日後には、

茶色い斑点が!、あぁ白いカビが!とか言う羽目に。

それくらい、梅の旬は一瞬で、すぐに手を打たないと大変なことになる。

通常、(梅干しを漬けてから)食べ頃とされるのは、秋らしい。

まるで、新米の時期に合わせたようだけど、色んな本や梅干し先生(母)いわく、

秋くらいとのこと。

じゃあ、あの市販されている梅干しは、一体いつ収穫されたもので、

一体いつ仕込まれたものとなるんだろう・・・?

単純に考えてみれば、添加物しかあの梅を救済するものはないんじゃないかと思う。

わたしは、今回あの超スピーディーな傷み具合を実況中継並みに観察していたから、

だからあれを防ぐために使用される添加物の量といったら、

そりゃあ半端ないだろう・・・・・・

というのが素人目にもわかる。

これからも多分ふつ~うに添加物満載の食べものを口にするだろうし、

添加物ゼロの食べものを探す方がうんと大変だと思う。

だけど、今回、自分で実験的に始めた梅干しを通して、

まさか添加物の恐るべき強さを目の当たりにするとは・・・

想像外の産物でした。


2014年7月5日土曜日

梅干しを漬ける

本の影響で、ことし人生で初めての梅干しを漬けている。

料理家の高山なおみさんが、

梅干しを漬ける時期に部屋中に充満する梅の香りがとっても楽しみだ、

1年の中でもこの時期にしかない楽しみ・・・

というような内容のことをエッセーで書いていた。

それを読んだのはたしか冬くらいで、

その頃から梅が出回る時期をそれはそれは楽しみにしていた。

梅干しを漬けることより、「部屋中に充満する梅の香り」の体験をしたかった。


母親は、物心つく頃より毎年梅干しを漬けていた。

だけど、興味がないというのは、目の前で梅干し先生がいてもいないも同然で、

今となってはとっても勿体ないことをしたと思う。


梅干し1年生のわたしは、とりあえず、

母の難解な教授(電話)と、
クックパッドと、
スーパーに置いてあった梅干しの漬け方の紙と、

それぞれを組み合わせながらやっている。

母の難解な説明を聞いた後、クックパッドで写真付きの工程を見ると、なるほど納得だ。


話が飛ぶが、「梅干しを漬ける」ことに興味を持ちだしてから、

はじめてスーパーに並ぶ梅を観察するようになった。

梅干し用の梅は、青梅ではなく、黄色い熟した梅が適しているとのことだけど、

青い梅が並んで、次いで黄色い梅が並ぶ、という季節に沿った変化を

今年はスーパーに行くたびにわざわざ立ち寄って見てみた。

本当にその通りだった。

6月の最終週、なんとなくこれが最後の梅のような気がする、

と思って黄色い梅を買った。

買っといて良かった。

なぜなら、本当にその後、梅が店頭に並ぶことがなかったから。


すぐにでも漬けて良い状態だったにも関わらず、

わたしはその買った黄色い梅を数日放置した。

放置したことが吉と出るか凶と出るかわからないけど、

少なくとも高山なおみさんが言われていた

「部屋中に充満する梅の香り」を思う存分堪能した。

わたしの場合、3日ほどしかそれは楽しめなかったけど(梅が傷みだしたから)、

本当にその匂いをかぐためだけに毎年梅仕事をしてもいい!という位の、

この上ない楽しみな香りではあった。


赤紫蘇は、梅が終わる頃、店頭に並ぶことも今年はじめて知った。

母や本の中の説明通りだった。

こういう旬のものというのはすごい。

数日の違いこそあれど、寸分狂わず、毎年同じような時期に出回る。


この1年ほどだろうか、こういう季節の移り変わりや旬のものへの興味が強くなってきた。

小学校のときの、朝顔やひまわりなんていうのは全然興味が湧かないものだったけど、

今の年齢になって、初めてそういう自然の流れや自然の力みたいなもの、

それを楽しみながら観察したり、実験のように何かを体験するようになった。

2014年7月2日水曜日

シンさんの声

うちの父母よりたぶん10歳くらい年下の家族ぐるみでの長いお付き合いの人がいる。

「シンさん」と母と私たち3姉妹は呼び、父は「シンちゃん」と呼ぶ。

いつだったか、シンさんの本当の名前を知った時、

なぜシンさんがシンさんなのか、皆目見当もつかない名前でびっくりした。


用事があって実家に電話をしたら、父が電話に出て、

「今シンちゃんと飲み交わしてる、ちょっと待ってくれ、シンちゃんに代わるから」

と言って、いつぶりかわからない位にシンさんの声を聞いた。

成人してからシンさんと話をすること、まして電話するなんて本当になくてびっくりしたけど、

電話の向こうでは、「ふみちゃん」と私を呼んでかまってくれていた時と同じ声をしていた。

もうあれから、30年近く経過してると思う。

さすがにふみちゃんとは呼ばれなくても、全然年をとらないシンさんの声を聞いて、

ほんの1分にも満たない会話だったけど、電話を切ってから、色んなことを思い出した。


私たち3姉妹をまるで姪っ子のようにかわいがってくれた人だった。

ふざけてシンさんのトイレを妹たちと覗いたこともある。

多分、当時専業主婦の母の外せない用事の時に、

わたしたちのおもりをしてくれたこともあったように記憶している。

シンさんとホットケーキを作った記憶もある。

シンさんの本名を知ったのは、いつかの年賀状だったと思う。

なんとシンさんは、私たち3姉妹にそれぞれ1枚ずつ年賀状を送ってくれたことがあった。

両親宛てとは別に、各自に1枚ずつ。

うらには、「シン」と書いてあって、でも表はちがう名前で、父か母に真相を尋ねたように思う。

たしかに、時代はまだ手書きが大半だったにしても、

血のつながりの全くない、先輩?の子ども3人に年賀状を送るだなんて、

今になって、それってとってもすごいことだと思う。


年々、年老いていく父と母。

その父に今もこうして時々会いに来てくれる、父を慕ってくれる年下の人がいるというのは、

なんとありがたいことかと思う。

母が仕事から戻ってくる時間を見計らって、

シンさんの家で採れた農作物やおいしい食べものを届けに来てくれることもしょっちゅうだ。

数年前、シンさんは地元では出世街道と言われる道を自らの意志で退いた。

その時も、決める前にも後にも父のところに顔を出して、相談なり報告なりしていた。

(わたしは、後から母に聞いた気がする)

人生の節目節目で、そういう関係を持てるというのが、どれだけ貴重か・・・

大人になった今なら自分も理解できる。


シンさんの声。

たった数十秒の会話の声は、

子どもの頃の情景がいっきによみがえり、

そこに登場する、ふみちゃんもゆうちゃん(妹)もよっちゃん(妹)ももれなくプレゼントされる。


子どもが愛されて育つことの大切さは、色んな方面から支持され説かれている。

ほんとうに、その「愛されて育ったんだぁ・・・」と実感できるのは、

そしてそれを体の芯から感じて分かるのは、実は大人になってからじゃないかと思う。

父母を大切にしてくれ、そしてその子どもたちまでもを大切にしてくれる。

そんな存在をわたしたち家族が持てたこと、すっごく誇らしい。