2019年11月29日金曜日

決意表明する夜中ナウ

〜ナウなつぶやき 11/29 1:39〜

珍しく声を殺して肩が震えるほどに泣いた。

本当に悔しくて頭にもきて、そんなことではなく事務的なことの伝達をするために電話をしたのだけれど、相手の声を聞いたら気が緩んで声が出なくなって、喋れなくなってしまった。

伝達する相手は「今度は何来た?」と最初はケタケタと笑っていたけれど、私の様子が尋常じゃないと知って、「えっ!?どうした?どうした?」と聞いてくれた。

第一声を発したけれど、声が震えて、話にならなかった。

しばらく相手に声が漏れないように声を押し殺しながら、だけど喉の奥から嗚咽が漏れるみたいになって、受話器からわざと離れたぐらいにして、ようやく1つ2つと呼吸できるようになってから話した。

何が悔しかったのかも言った。

全力で伝えても、伝わらない。

身の危険が相手に迫っていると知って、それを黙って見過ごすことが私にはどうしてもできなかった。

いつかは言われるとは思ったけれども、もう関わってくれるなと言われた。

それだけならまだ良かった。

多分本当に悔しかったのは、心からの言葉が伝わらないことだったと思う。

言われた。

「ぶっしーは専門家じゃないでしょ?素人でしょ?」

専門家の適当な意見の方が強いことがものすごく悔しかった。

専門家3人は、私がぎゃあぎゃあ1人で騒いでいることに関して「大丈夫、よくあることだから」と言ったらしかった。

だからその子も安易に捉えている。

私は全く違う捉え方をしている。

専門家は「大丈夫、法的にきちんと対応できるから」という意味だけで言っているのがわかる。

私が大丈夫じゃないと言うのは、本当に些末なことだけれども、それが社会的にアウトなことで、そのアウトなことが公になった場合、法的に対処はできても、一度付いた汚点は本人から消えない。

そこに真っ当な理由があろうとも、世間の目は汚点にどうしても目が向かいやすい。

そうした大衆心理が選手生命を絶たれるきっかけになりかねない。

専門家3人は、その事案だけを見ている。

私は相手の人生を見ている。

なんだけど、私は専門家じゃないでしょ、ぶっしーそれ専門的に知らないでしょ、それってぶっしーの主観でしょ、と言われた。

心よりも専門知識が勝ったことが、ものすごく悔しかった。

主観と言われようが専門家じゃないと言われようが肩書がなかろうが、そんなことは全く構わなかった。

そこではなく、気持ちが勝てないことが悔しかった。

専門家3人のその子を大切に思う気持ちよりも、私1人のその子を大切に思う気持ちの方が絶対に負けないのに、専門家の安易な「大丈夫」発言が勝ってしまった。

だから肩が震えるくらいに私は泣いた。

泣きたいわけじゃないのに、生理反応のように喉の奥の方からカーッと熱くなった。

電話の向こうの友達は、ぶっしーありがとうとまずは言ってくれて、その後も私が今超個人的に好きに首を突っ込んでいることに関してもその気持ちを本当にそのまま受け取めてくれた。

私の名もなきお節介をきちんと公正に判断してくれる人がいるというのはものすごく心強かった。

肩書もない、専門知識もない、私の場合は完全に自分の感覚1本で動いているから、何の後ろ盾もない。

だけど、私がしていることを、肩書や社会的に通用するものではなく、心で感じたまま見てもらえることは本当に心強かった。

30歳の時から何回か通った戦争を体験した占い師のおばちゃんの言葉が頭をよぎった。

「あなた、絶対に嘘ついちゃダメよ!正直に生きなさい」

単なる励ましの言葉ではなく、ズルいことをすると私の場合、それが強烈アタックとして跳ね返ってくる星の下にいるらしかった。

だから素直が一番、誠実が一番と言われた。

今日のこのことかもしれない…と思った。

電話の向こうの友達に「何でそこまで言われてもまだきちんと付き合おうとするの?」と聞かれた。

自分で答えようとしたら、うっと詰まって涙が出てきた。

声を振り絞って言った。

「私、決めてることがあるの。
今みたいにオカルト体質になってから、そりゃ嫌なことを伝える役回りもやたらとくる。
言いたくなくても言わなきゃいけないことだったりする。
できるなら言いたくない。
だけど、言いたくないから言わないのは大間違いで、相手から何かしら情報が来ている以上は言わなきゃいけない、そう思っている。
相手から嫌われようが、言うことで縁を切られようが、言わなきゃいけない。
その覚悟でいつも伝えている」

今回もそうだと言った。

今回は私も絶縁覚悟で臨んでいる。

私との縁が1つ切れるぐらい何てことない。

私と縁切ってもらってもいいから、本当にやるべきことをやって本人が自分の身をきちんと守ることをしてくれたのなら、何でも良かった。

私を切ってでも、その友達が関わる何千人何万人というような人たちの人生に何か良きことがもたらされるなら、私1人切ることなんか本気で構わなかった。

そのために今は必要なことを訴えているわけで、それは人生の汚点になりかねないから言っているのに伝わらなかった。

電話の向こうの友達は言った。

「本人(=私)の得に全くならないし、お金もらえるわけでもないし、何一ついいことがあるわけじゃないのに、そこまで言ってくれる人の気持ちが伝わらないって、それってすーごい残念なことだよね。
そんな風に言ってくれる人を大事にしなくて、どうすんだろうね…」

もう十分だった。

わかる人にはわかる。

伝わる人には伝わる。

自分の心がまたひとつ決まった。

生き方不器用ではあっても、絶対に自分の中で大事にしたいものは曲げないようにしようと思った。

その自分で勝負して、それでも理解されないとか嫌われたりとか疎まれたりとかしても仕方ない。

自分の信じるものを中心に据えて、それで1人でも理解者が現れたのなら、それは奇跡になる。

私はたくさんのフォロワーが欲しいのでも人気者になりたいのでもない。

自分に正直に生きていたいだけ。

現場は事件起こりまくりだけど(今後は事件は起こっても見守るしかなくなったから、直接関与はしない)、自分はひたすら正直にいく他ない。

ちなみに、これには続きがある。

電話の向こうの友達が、「ぶっしーにお願いがある」と言って、私に1つ役割を与えてくれた。

それは、私がずっとぎゃあぎゃあ騒いでいることを文字に起こして欲しいというものだった。

私の名前は伏せたままそれを書類にして、そしてそれを私がずっと提案していることに繋げていくというものだった。

名前を伏せるのは私の方からお願いした。

私は引っ込むことには表上なっているから、そこを崩すとまた面倒くさい。

だから、完全に裏方に回る。

それで大切な人たちが守れるなら、私はいくらでも裏方を喜んでする。

眠くなってきたから読み返さずこのままアップしよう。

2019年11月28日木曜日

ポツポツ雨とブツブツぼやき

雨がポツポツ、ポタポタと降る音が聞こえる。

いつの間にか雨が降っていた。

1時間前、最悪な感じで電話は終わった。

本来の用件が伝わらない。

伝わらないだけじゃなくて拒否、できないと言われる。

当事者2人の間でコミュニケーションが成立しないから、私は双方の通訳をしている。

この長いやりとりの中で多分初めて声が出ないくらい、「うっ」となった。

涙は出ないけれど、不覚にも泣いてしまった。

相手が同性で良かったと思う。

気持ちをなんとか奮い立たせて伝えるべきことを伝えた。

百歩譲って私の伝え方がスーパー下手くそで感情刺激しまくりだとして、私の評価なんかは何でも良かった。

実際に「ぶっしー、感情的にならないで」と言われた、多分3回くらい。

感情的と思われても良かった。

介入するのが迷惑とまで言われてないけれど、ありがた迷惑的なことも言われた。

それも正直どっちでも良かった。

私は何回でもしつこいぐらいに言った。

「私が見てるのは、細かな感情とかではなくて、Aを守ることだけだからね。
これから何十年というキャリア、その発信力によって救われる何千人何万人の人たちだからね。
ここでちょっとやっておけばいいことなのに、それをやらないばかりに、その道にいられなくなる。
それは本当に困ることだから、だから言うんだよ」

付け焼き刃状態だった。

「今ある人間関係が大事だから…」から始まり、どうその人たちに対して誠意を尽くしたいかという話をしていた。

仲違い側はもう決裂のままでいいから、そちらは放っておくと言った。

私はその仲違い相手のことはそれで構わないけれども、何が残念って、今この瞬間目の前で私が懸命に伝えていることが伝わらないのが悔しいと言った。

個人の感情論ではなく、今めちゃくちゃ怖いことになっている世の中に対しての自分を守るためにできることの提案なのに、それを聞き入れてもらえない、それが悔しいと伝えた。

人間関係が何より大事だと言うのなら、なぜ今目の前の私の言葉が大事にされないのか、しかもそれは本人を守るための大事な話なのに聞こうともしない、それが本当に悲しいと伝えた。

向こうから、今夜遅くて頭回らないから電話終わりにしたいと言われて、それはこのまま平行線を続けても仕方ないと私も思ったから、そのまま電話を終わりにした。

利害ゼロの私はいわば第三者なわけで、その第三者から見て「危ない」から、それを危なくないようにするための手立てなのに、伝わらなかった。

なんだかなぁと思った。




電話切って10分15分は頭がカーッとして(怒ってるのではなく、興奮してるという感じ)鎮まるまで待った。

落ち着いてから、そうだ、ここはペンジュラム!と思ってペンジュラムに聞いた。

電話中も聞いたけれども、改めて聞いた。

うっすらと思ってはいたけれども、やっぱり必要なことだった。

感情論ではもちろんなくて、本気で必要な作業だった。

やりたいやりたくないではなく、厳密に言うとやらなきゃいけないことに近い。

ペンジュラムがYESになったのを見て、深いため息が出そうだった。

あれからさらに30分ほど経ったけれども、気持ちの落ち着きと共に1つ決められた。

やるだけやる。

2つ3つアイデアが浮かんだから、それを試してみてそれでも伝わらないのなら、あとは万策尽きたで私も知らない。

冷静になると、私が伝えたことは、忠告ではなく多分警告レベルの内容だったと思うけれども、それを聞く聞かないは本人の自由だから、聞かない時は仕方ない。

それはもう仕方ない。

だからやるだけのことはやる。

それで私はいいんだと思った。




この検証は好きこのんでしたくはないし、どうか私の勘違いでありますように…とものすごく願っているけれども。

今回頼まれた伝達事項は、その説明を受けた時、「あ!それ絶対に必要なやつだよね」と思った。

そういう私の主観も入ってのことだから余計と判断が難しいけれども。

私はてっきりその説明はきっちりとしていたし、普通に聞いてて何の違和感も覚えなかったから、そしてむしろやっておかないと怖いよね?と思ったから、それでその説明役をお願いされた時そのまま引き受けた。

私はその説明の文章をおこすのに、2時間かかって、何度も声に出して音読して、おかしいところは訂正して、さらに依頼主からチェックや訂正加筆もしてもらって、その上で臨んだことだった。

それを送った後に電話での説明に入った。

電話の相手は「それはできない」と言った。

その時に、とても嫌な予感がした。

この嫌な予感が、どうか私の個人の主観で、自分の努力が無駄に感じてとかいうもので、実は全然やばくないことを心から祈った。

自分の良いと思ったことが否定されて、拒否されて、それに対して「フン(怒)」とかなっていての嫌な予感であって欲しいと思った。

私がした嫌な予感は、今回の否定や拒否が後々に本人の首をものすごい絞めてしまうものになる方の意味合いで感じたものだと思う。

私はこんなことでピリピリするのは好まないけれど、今はどこで誰が火種となって、何も悪くない個人が叩かれるか未知数すぎる時代に突入している。

今回もまさに火種不明のまま起こっている騒動で、このことにかれこれ4週間は関わっている。

火種不明なのに、何人もの人たちが解決のために介入している状態は本当に異常で、だからたった1つの小さなことが炎上しかねないのは今回の件でよくわかった。

当事者ではない私がわかるぐらいだから、当事者たちはもっと感じている。

私が今回ここまでガンガンと出るのは、その怖さを知っているからだった。

魔物のような火種があるから、そして今はそれが冗談抜きで強烈な出方をするから、だからこそ整えておくことは大事だと思う。

これは自己保身ではなく自己防衛なのに、それが伝わらなかった今日。

ぶっちゃけ私は「そんなのテキトーでいいじゃん!」などと思っていて、本当に個人としては何も思うことはないけれども、世の中はそうじゃない。

世の中の多くの人は今たくさん不満を溜め込んでいて、その吐き出し方を誤る人たちがけっこうな割合でいる。

自分の中で消化できないものを、他者を攻撃することで消化しようとする人たちがいる。

そういう人たち、そういうくだらないことをする人たちに目を付けられた時に、怖いことを引き起こしかねない。

引き起こすと言うより、外部の全く知らない誰かから爆弾が投下される。

そういう時代だからこそ、それを見越しての警告なのに、感情論と言われた私…。

あれ?私おかしいわけじゃなかったんじゃない!?

超骨が折れるし、これやったからと言って私には何の得もないのに、ここまでガッツリと入り込んでいる…( ̄∀ ̄;)、というのはすなわち、これ超重要だからだと思う。

絶対に危ない時にしか、私が他者の人生に介入する流れにはならない。

そのままだと危ないから、介入する流れがお願いしなくても自動的に作られて、それで気付くと私はそのところにいる。

その時の誰かと対峙している。

もうむしろ、そういう嫌な予感や介入プロセスを説明して、頭のおかしい人と思われてもいいから、危ないから絶対にやった方がいいと言った方が早い気がしてきた。

一か八かになるけれども、それの方が私には一番説明がしやすい( ̄∀ ̄;)。

だってこういう時って、十中八九ではなく百発百中だもん。

頭を冷やして、時間の経過を見よう。

経過してもいつまでも残るなら、とにかく何とか理解してもらえるように話をもう一度しよう。

いつまでも残る=相手に絶対に伝えなきゃいけないことだから。




色々おかしいことを書いているかもだけど、このままアップしよう。

数時間後、私は人生初のワークマンデビューをする。

働く人の味方、ワークマンは朝の7時から営業している。←調べてわかった。

私はそんなに早くは行かないけれども、この度来月から4ヶ月程度しか働かない職場にも関わらず、作業着や安全靴や帽子の用意が必要で、それの調達に出かけてくる。

毎日服のことを考えなくていいのは楽チンだなと思っている。

ちなみに安全靴は、万が一の時用で、はっきり言って使わないらしい。

なんだけど買うものらしい。

費用は派遣会社負担だけど、これ超無駄な経費って考えないのかな…と思う。

とにかく寝よう寝よう。

このカオスなことも、書いてたらスッキリしてきたから、スッキリした頭でまた明日以降考えよう。

2019年11月27日水曜日

100年先の未来より

11月は主に人・人・人だった。

ほぼ引きこもり、対面で会ったのは家族以外はヨシダさんと派遣会社関連の担当者のみ。

だけど、電話はかなりな時間を使ってやりきった。

今日(11/26)ヨシダさんに会ってきた。

ヨシダさんは8月の終わりから9月にかけて行っていた米の仕事で知り合ったおじさん。

農業のエキスパート。

ヨシダさんが農家の人たちに米でも野菜でも良く育つ方法を伝えたいという話を聞いて、それの資料作りを私が手伝うと申し出た。

実際の資料はヨシダさんが下書きをしていて、それをほぼ私はWordで転写して、あとは補足やヨシダさんが追加で話した内容を付け足す程度だった。

今日は第3回目の集合で、ようやく完成版を渡すことができた。

ヨシダさんには他にも資料があるなら文字起こしをするから資料を持ってきてとは言ってあった。

初回に資料の説明を聞いた後、ヨシダさん開発の肥料が「有機JAS」を取得していると聞いて、それがどうすごいのかを調べた。

有機JASは農林水産省が規格基準を定めている資格で、その資格を持つ農家は全農家の0.5%で、作付面積は全国の作付面積のわずか0.4%しか認証を受けていないものだと知って、それが本当にありえないくらい難しい審査をパスしていることを知った。

しかも、一度取ったら永久資格ではなく、毎年サンプルを提出して細かい検査をして、それに合格しないと資格は更新されない。

不合格の場合、その後また同じ規格基準で3年間の実績を積み直して、その後資格審査に申し込める権利を得るとのこと。

そうした知識に基づいた誰でもすぐに実践できる農作物が良く育つヒントをヨシダさんは惜しみなく農家の人たちに伝えたいと言って、それでそのための資料が要るという話から、私が自ら手伝うと言った。

第3回目の今日、新たに追加となる資料とは別に、ヨシダさんが今日本国内で他に誰も描けないと言った設計図やそれにまつわる関連資料も持ってきてくれた。

凄そうなのはなんとなくわかってはいたけれども、本当に凄いものだというのが資料のたった一文字を見てわかった。

理由は忘れたけれども(←次回超ツッコんで聞いてこようと思う)、そこに記されている某企業の名前があった。

((((;゚Д゚)))))))!?!?!?

その企業は、言うなればトヨタとかドコモとか伊藤忠とか、そういう世の老若男女問わず知っているような大大大企業だった。

目の前の数枚の紙切れは、億単位でお金を動かすような凄いもので、私はひっくり返りそうだった。

そこが資本提携してくれるような凄い技術やノウハウを目の前のヨシダさんは持っていて、私はまさかそんなに凄いものに携わっているなんて今の今まで知らなかった。

私自身は引きこもりな割に外部から入ってくるものたちがやたらとスケールがでかくて、「おかしい」と感じた。

よくよく冷静になって考えた。

ヨシダさんの技術や発想は、今だけじゃない、100年先も、なんなら人類が自然がこの世に存在する限り引き継がれるタイプのもので、そりゃ大企業が資本の部分をバックアップすると申し出ても何ら不思議じゃないことだった。

ヨシダさんとは別に、主にもう2人と関わっているけれど、その2人もヨシダさんとは全く別分野だけど、100年先の人たちにも引き継がれるようなものを今打ち出している。

2人とも、それぞれの分野における先駆者的存在なのはわかる。

ちなみに2人ともと知り合った時は、そういうものは何もなくて、私と2人との差はなかった。

それから2〜3年であっという間に変わり、2人はめきめきとエキスパートの道へとどんどん邁進していって、今なら絶対に2人とは知り合えなかっただろうなぁと思う。

それはそうと、ヨシダさんにしても2人にしても、3人共に共通しているのは「100年先の人たちにも役立つ」ということ。

目先の利益は今すぐには見込めないし、効果や社会貢献の度合いが増すのは今からうんと何年も先だと思う。

ただ、はっきりとわかるのは、100年先も必要とされるものだということ。

今利益を上げている、例えばiPhone。

iPhoneの収入たるやすごいものがあると思うし、世の中の便利さに大貢献している。

だけど、私は100年先、iPhoneが存在するかと聞かれたらわからない。

正直なところ、イメージできない。

それを思った時、三人三様の専門分野は100年先も生き残る。

むしろ、その時には今よりも大きく発展するだろうことが見込まれる。

どれもこれも全く私が関わる予定なんてなかったけれども、気付けばスケールのとても大きなものに触れる結果となった。

さすがにおかしいと思って、ましてや引きこもりなのにこれだけのことが同時多発的に起こるのはどう考えても不自然だと感じて、久しぶりにホロスコープ を出して見てみた。

これ絶対に、私のホロスコープ上の継承関連の分野に今何かしら天体があるでしょ!と思ったらビンゴだった。

ホロスコープでは、家族、パートナーシップ、表現、社会的役割、スピリチュアリティーなどなど主に12個に分野は分かれる。

その中の1つが継承で、それは財産や社会的地位の継承もあるけれど、こうした知的財産や私みたいなオカルト体質なんかも継承するものの1つに数えられる。

私のそこには今、拡大・発展の星、木星が入っていた。

たしかに、「拡大」という感じがする。

継承案件の拡大みたいな。

それよりも、もっとすごい星の重なりが見つかった。

生まれた時の冥王星と空の火星がピッタリと重なっている。

冥王星は生と死、破壊と再生を司る。

火星は「♂」の記号からもわかる通り、男性性や男性的なエネルギーを表していて、行動力や実行力、想いに対してそれを形にするためのエネルギーや動く力を表す。

人の命に一生関わるような分野において、ガツガツと動く流れにあったのが今月で、本当に星の通りの流れに今身を置いている。

ついでにヨシダさんのホロスコープも見てみた。

ヨシダさんのホロスコープを見て確信した。

来年2020年の年末ごろ、「グレートコンジャンクション」と呼ばれる20年に一度の割合でしか起こらない天体の重なりが起こる。

それは木星と土星が重なるものだけど、来年はそれだけじゃない。

その近くに天体周期249年の冥王星もいる。

木星と土星だけなら20年に一度の確率だから、生きているうちに3回や4回経験する人たちも多いけれども、そこに冥王星もすぐ近くにあるというのは数百年に一度しか起こらない。

それは数百年の人類史の中でそのタイミングを体験する人は、数百年分の人口を思えばものすごくレアだというのがわかる。

で、そんな超レアなものが本人のホロスコープの中で360度あるうちの1度で重なるなんて相当珍しい。

木星+土星+冥王星のトリオが個人のホロスコープにもろに影響する場合、その個人の人は生き方や生きる環境が来年の年末あたりを境に大きく変化する可能性がものすごく高い。

何事もなく過ごすことはまずないと思う。

ヨシダさんの場合、本人が一度は何らかの事情で手放したこと、それも100年どころか人類がこの世に存在する限り続くだろうテーマをもう一度何らかの形で関わることになるんじゃないかと思う。

その序章として、今私とのやりとりがあるような気がする。




例えば、表立ってすることは、ヨシダさんなら資料作りだったり、1人は他に誰もいなかったとは言え完全に人選ミスとしか思えない私がまさかの会計監査をすることになったり(←役立たないのはわかっているから、足を引っ張らないように頑張ろうと思う( ̄∀ ̄;))、また1人はキングオブ無知の私が法律の説明係を代役でするという、ヨシダさんの資料はまだしも、他2人の役割は完全におかしなことにはなっている( ̄д ̄lll)。

数字とか法律とか、最も弱いものを私にさせるなんて、世も末だと思う。

明日は残り少ないニートの日々を有効活用しようとアップルパイをパイ生地から作ろうとレシピ本を物置小屋と化した部屋から探し出して、無塩バターまで買って準備万端だというのに…。

それは絶対にするけれど、それよりもその今日電話で聞いた法律の説明をまずは文書で起こすこともやらないといけなくなった←完全にボランティア( ̄∀ ̄;)。

何で私にそんな大層(面倒)な役割が回ってきたかと言えば、伝える相手の感情を刺激せずに伝えることも質問を受けることもできて、そして依頼側の方の意向をそのまま伝えられて、さらにはどちらをするにも自分の感情は抜きでやるから、そういうコミュニケーションを確実に取れる、ということで私に白羽の矢が立った。

三人三様関わる内容は違うけれど、実際にやることはそこじゃないんだと今日ヨシダさんに会ってわかった。

私の本当にやることは、それぞれの人たちがそれぞれの本当にやる必要のある100年先も受け継がれることに専念できるように、そこを阻む諸々に対しての心の傷のケアになる。

会計監査に関しても、私は黒幕か!?っていうぐらい、唯一関係者全員から話を聞いて、愚痴や不満や納得いかないことを聞いている。

4人の人が絡んでいるけれども、4人ともからそれぞれの立場の話を聞いた。

話した方がスムーズに運ぶことは本人にも了解を得た上で口にしてるけれど、それ以外はオール秘密主義で通している。

その秘密にしている部分は各々が傷ついた話が出てくる。

怒りとなって最初は出てきても、その話の中で自分にとって嫌だったものが何かという話が出てくる。

私は黙って聞くのと、あとは必要があれば他の人たちの話から知り得たことで相手も知ったら楽になるだろうと予測の立つものは伝える。

ヨシダさんはこうだった。

ヨシダさんは、そんな大大大企業がスポンサー的立ち位置でつくぐらいに、もはやヨシダさんしか打ち出せない超秘密兵器を持っている。

だけど、ヨシダさんはいまいち動こうとしない。

近隣の農家の人たちにだけ広めたらいいものじゃないのに、大きくやろうとしない。

私はヨシダさんに「そんな大事なもの、絶対に次の世代に引き継がなきゃダメだよ!」と何回か言った。

ヨシダさん亡き後は誰もやれないから、生きているうちにやらなきゃダメだと言った。

どうしてそんなに渋るのか、しかもコネなんかいくらでもあるだろうに使いたがらないのか、そこも全然わからなかった。

「年だから」とか言っていたけれども、絶対に年じゃないのは話を聞いててわかった。

今だって別に誰からもお願いされていないのに、今年の米は日照りの影響で不出来でなんと等級が3つも下がって(あの米や野菜、果物の1級や2級のあの等級)、その下がった米とヨシダさん手法の等級トップを飾ったものとそれぞれ今分析に出して結果待ちしているとのこと。

頼まれなくても勝手に個人的に研究するぐらいの人だから、年なんて本当に言い訳なのはわかった。

そうしたら今日、一瞬だけぽろっと本音と思しきことを言った。

ヨシダさんがやろうとしない理由の1つは、上手くいっている間はいいけれど、何かあった時にみんな手のひらを返したように支援者なしになるどころか敵になることがネックのようだった。

ヨシダさんは一部アイデアを奪われたままだし(それで法人が1つ誕生しちゃうレベルで)、他にもそうした苦い思い出が色々あるようだった。

ここから先は読み返さず(上も読み返してないけれど)、忘れないうちにきちんと記録に残そうと思ってここからは書く。

ヨシダさんが今日見せてくれた資料は、当初5人の人が関わっていた。

だけどその筆頭者であった大学教授は亡くなり、他2人も亡くなり、実質生きているのはヨシダさんともう1人他県の人だけとのこと。

他県の人がどうしてるかは知らないけれども、少なくともヨシダさん手書きのその図案や資料はヨシダさんしか持っていないのはなんとなくわかった。

だから、ヨシダさんがそれを形にできるこの世で唯一の人なんだというのは、全体の話を聞いてわかった。

私はそんなにでかいスケールのものが裏側に隠れていたなんて、今日初めて目の当たりにした。

まさかそんなものの資料作りを私は自分から手伝うと申し出ていたなんて、ヨシダさんが私の住んでる町に野生のキノコを買いにきて一緒にキノコやめだか屋さんを見て回った時には知らなかった。

自分のしょうもないことを告白するみたいなのと、偽善者っぽくもあって嫌なんだけれども、今日思ったことと自分の中の決意として書いておこうと思う。

そもそも何でこんなことを今私はしているんだろう…?と思った。

自分でも何でやっているのか、正直よくはわからない。

なんとなく「やった方がいい」と思ったから、私やるよとヨシダさんに偉そうに申し出たに過ぎない。

ちなみにこうしたものを自らやると申し出たのは、今回が人生初のような気がした。

どちらかと言うと、やりたいよりもやらなきゃダメだと思っている。

これ絶対に放置してはまずい、形にしなきゃまずい、野生の勘のような感じでそう思っている。

だから後先何も考えずに引き受けた。

次も1枚のみの資料ではあるけれど、これがまた図形を少し描かないといけなくて、手書きなら数秒なのにも関わらず、パソコンだと大真面目に半日コースなのは間違いない。

今知っているやり方でできなければ、システムエンジニア級にパソコンに詳しい友達に連絡して、知恵をもらってやるしかないぐらい、相当な苦戦が見込まれる。

だけど私はそれを最後までやり遂げたいと思っているし、それをヨシダさんが目指す何かになって欲しいと真剣に思う。

そして私は今回だけは絶対にお金を挟まずにやろうと思っている。

思っているというより、今日改めて「絶対にお金はもらわない」と決めた。

ヨシダさんが多少そのことに関してやりにくそうなのはわかっている。

だから次回はっきりと言おうと思っているけれども。

まずは対等であって欲しいこと。

たしかに私はヨシダさんに比べてパソコンができて、資料まとめについても多分人並みどころかかなり要点をまとめてできるタイプだと思う。

だけど、それだからと言って、私に対して過剰に気遣いをしてもらう必要は全くなく、むしろいつも通りにして欲しくて、それをまずは言おうと思う。

ヨシダさんは私にこの手の話の時だけは敬語になる、私はタメ口なのに…(←えっΣ(꒪◊꒪; )))) )。

なんなら今日なんか、別れて1時間くらいして電話が来て、次の日程がわかって電話が来たのかと思えばそうじゃなくて、
「今日は悪かった。飲むことばっかり頭にあって、飲めないならごはん一緒に食べてくれば良かったのに、そこまで気が回らんかった。悪かったなぁ」
という内容だった。

そこまで気遣ってもらってありがとうと言った後に、そんなに気を遣わんでいいよというのも言った。

ケラケラと笑ってはいたけれども、本当に気を遣っているのはひしひしと伝わってきた。

で、これはその後1人で考えたことだけれども。

この資料作りに関して、お茶やごはん、飲みはごちそうになるけれども、もしくはヨシダさんの作った野菜は喜んで受け取るけれども、それ以上は最後まで受け取らないこと。

そうしたものも、頼む側の人間からしたら、無償でされることの方が頼みにくいのもわかったから、だから本人が気に病まない程度に物品や心遣いは受け取りたいと思った。

あと個人的に、もし似たようなこともしくは個人的な話を聞くことを誰か頼みたいなんて人がいれば、宣伝して!と頼もうと思う。

そして、ヨシダさんとはこのまま金銭のやり取りはしないけれども、他の人の時は有料だということも付け加えよう。

今後誰かスポンサーがつくことがあれば、その時は私もお金をもらえるのならお願いしますと冗談で言おう。

私もわかっている。

これはもう本来ならお金をもらってやるレベルのことだということ。

だけど、ヨシダさんの資料だけはそれはやらない。

なぜなら、ヨシダさん自身が自腹切ってこの資料の細かい準備を全部しているのは知っているから、しかもこれは今日明日だけのことじゃない、100年先の世界にも通用するだろうことだから、そういう俗世的なもので歪めたらダメだと思う。

お金は欲しくても、ニート生活のしすぎで財布が重体なのも本当だけど、ここだけは絶対に私は一線を超えられない。

ヨシダさんの話を聞いて余計にそう思った。

もし私が最後までお金を受け取らない姿勢のままヨシダさんの資料作りを手伝ったのなら、ヨシダさんは多分人を信じてくれる。

そういう人が世の中にもいるということを信じてくれる。

要は、自分に賛同して協力してくれる人たちが必ずこの世のどこかにいる、それがヨシダさんに伝わればいい。

ヨシダさんがこだわっているのは、資本とか設備とかじゃない。

本当にこだわっているのは、同じ志で同じ未来を思い描ける人の存在だと思う。

絶対に協力者、それもヨシダさんが望む協力者が出てくるから、そこに行くまでの繋ぎ的な役割が私なんだと思っている。

私は資料は作れても実務は協力できない。

「チッ素って何で野菜にいるの?チッ素は何してるの?」なんて質問をするレベルの私じゃ、農業の実務なんかできるわけない。

だから、ヨシダさんが必要としているのは、自分のアイデアを形にするだけじゃなく、それを本当に世のため人のために引き継いでくれる人なんだろうなぁというのはわかる。

なぜならヨシダさんのそれは、今の資本主義では考えられない関わる人全てが恩恵を受けるものだった。

それは資本主義でトップのものだけが得する、利権やそれに伴うお金を独占するみたいなやり方を真っ向から否定するもので、そうではないやり方を本気で打ち出すものだった。

だから、個人の懐や地位ばかりを可愛がる人ではヨシダさんの後は務まらない。

資料作りは早ければ年内に終わるけれども、なんとなく来年の年末までヨシダさんとは何らかの形で関わり合い続けるのかもしれない。

表面上は資料作りの手伝い要員だけど、ヨシダさんの話は最後まできちんと聞こうと思う。

一体何がこれまであったのかは知らないけれど、ヨシダさんは私に会うたびに最低でも1回は「こんな風に話を聞いてくれるのはおまさん(おまえさん)だけだ」と言う。

生態系とか化学変化とかスーパー無知な私が聞けて他の人たちが聞けない、ということではないんだと思う。

ヨシダさんが言うその意味は、お金や利権、己の保身など何も考えず、真っ直ぐにヨシダさんの思い描く構想を聞ける人がいない、ということじゃないかと思っている。

ヨシダさんの構想は、自然の生態系を最大限に生かした、人間や農作物、草木、山、川、海なんかが存在する限りずっと循環するもので、飽きたから辞めますというわけにはいかない。

持続可能な循環型農業の研究は今後ますます必要とされる。

ヨシダさんがそのモデル構想を、過去から今に至るまでの実体験と共に持っていて、その専門知識たるもの半端ないことはわかる。

ヨシダさんの思い描くものは、お金や利権ではなく、人類と自然がどうやって共存できて、どうやったら何百年先の未来にも今ある天然資源を持続させられるか、というような視点に基づいている。

その実践法を、それこそ大大大企業がバックに付くとなったくらいに、とことん極めたのがヨシダさんだった。

他に提唱できる人が誰もいないアイデアだからこそ、これは繋いでいかなきゃダメだと今も私はずっと思っている。

占星術のクラスメイトだったノムにヨシダさんやヨシダさんとのやりとりについて、何回か話をした。

そうしたらノムが、ノムのライター時代のつてを使って、こういうことが可能だという、これまたものすごく素敵な提案をしてくれた。

個人的には一番良い形で必要な人が集まりそうだから、是非とも前向きにヨシダさんが検討してくれたらいいな、というものだった。
(すでに断られた。けれども、また折を見て話に出したいと思っている。)

その時にこんな風にノムとやりとりをした。


私:
「ヨシダさんの件も素敵な提案をどうもありがとう!
本人が何と言うかはさておいても、提案はできる!そしてふと思ったけれども、提案できるだけの人間関係はヨシダさんと作れたと思っていることに今気付いた。ヨシダさんは、人によっては苦手に感じる人たちも多いだろうし、ヨシダさんは普通にしてても相手は萎縮するとか(苦笑)。特に男の敵が多い気がする。私は、ヨシダさんの前では若いこと(笑)や女だということがとても役得になっている。それがヨシダさんと戦わなくていいポジションを自動的に作ってくれるからね〜(笑)。」


ノム:
「ヨシダさんのことは、ぶっしーから話を聞いているだけだけど、ヨシダさんとそのようにフラットに話せて、質問できるのは、ぶっしーだからこそ、って感じているよ。それこそ10年間、誰もさわらなかった、さわれなかったものを、その扉を開けることができたのは、ぶっしーただ一人だったことが、それを物語っていると思う!」


ノムにそんな風に言われた後の、ヨシダさんの告白だった。

やりたい気持ちよりも、そのことで散々人に利用されたり奪われたりしてきたことでの不信感みたいなのが強そうだった。

だからお金を挟んで契約のごとく資料作りは携わっちゃいけないと思った。

資料は単なるきっかけで、ここから先はさらに人間対人間の関わりになってくる。

とにかく資料を使って、本来あるべき道に物事を運んでいくのが目下の目標のように感じている。

だから私は、この立場を利用するだけして、ヨシダさんととことん時間を共にしてみようと思う。

多分だけど、星回りからして、ヨシダさんが今取り組んでいるのは、ヨシダさんが残りの命の時間全てを懸けてやっていくことだと思う。

あとどのくらい生きるかもわからないヨシダさんが、死ぬその時まで取り組むものなんだと思う。

だから私もこのことに関しては、自分ができることを最大限提供することに決めた。

私は私にできることをする。

ちなみに私も、先に書いた2020年年末ごろに起こる「木星+土星+冥王星のトリオが個人のホロスコープにもろに影響する」1人で、自分のことになると戦々恐々とする。

だけど、ヨシダさんのことは単純に楽しみだなぁと思う。

ノムもそうで、だから今お互いにお互いのヘルプをしてるんじゃないかと2人で話している。

とにかく、ヨシダさんにしても他の友達の件に関しても、私が見据えているのは100年先の未来にも貢献するその人たちで、数字とか法律とかパソコンでの図作成とか本当にトホホだけど、発狂したり難しくてブツブツ文句を言ったりしながらも、やりきろうと思っている。

嗚呼、会計とか法律とかExcelとか…。

1ミリもテンションが上がらない( ̄∀ ̄;)。

2019年11月24日日曜日

デング熱体験記〜昔のmixi日記より〜

(小さな説明文)
今とある日記をmixiから探していて、ついでに気になるものも読んだら、とてつもなく面白いことを書いてたから、ついでにアップしようかと。

デング熱で人生初の入院をした時の話で、今読むと笑いにしかならない、超貴重な体験をしていた。

ちなみに文の最後に
「デングだけはもういやだ~!
そして入院はもっといや!」
と強く強く願う私がいるけれど、なんとその1年後に私はまたもやデング熱にかかった。

デング熱に2回もかかる人なんて聞いたことがなかったから、最初は半分冗談で検査を受けに行った。

「もしかして…」と思ったのは、目ん玉の裏側が痛くなったから。

デング熱の症状の1つに目玉の奥が痛むことが挙げられる。

何だそれ!?と思っていたけれども、実際に痛くなって、目というのは本当に球体で、実際に見えない裏側の方もきちんと実在しているんだ〜、と呑気に思った記憶がしっかりとある。

本当に痛くなりようのない箇所が痛くて、何かがとてつもなくおかしい!!!と思って、念のため熱も下がらないし食欲も突然減退するから検査しようってなって血液検査したら、デング熱確定した。

役に立つことがあまりないとは思うけれども。

デング熱に2回かかって2回ともに共通していたのは、解熱剤を飲んでも熱が下がらないことと、突然食欲減退になること。

2回目なんて、私は飲む気満々でビールもおつまみもしこたま用意してあとは飲むだけ!イェーイ!!みたいな状態だったのに、突然何も口にしたくなくなって怠(ダル)くなって、飲みは即刻中止、即ベッドに横になった。

そこから飲まず食わずの熱も下がらないから、そして目ん玉も痛くなって、おかしいと思って病院に念のためかかっておこうか!となって、病院にかかることになった。

2回目は病院の隣りの建物に検査を受けに行って、私があまりにも普通に応対するから受付の人は「検査結果はまた数日後ね〜」などと言うから、「いやいやいや、デング熱疑いだから今すぐ結果が要る!」と訴えても信じてもらえず。

何度言ってもダメで取り合ってもらえないから、ドクターが必要だって言ってるから!と言って電話して確認してもらったのか、私が診察室に戻って事の顛末を告げて検査棟へ電話してもらったかをして、ようやく早急に検査結果を出してもらえることになった。

まさかのデング熱確定で、そのまま入院になった。

ドミニカの入院着はすごいヘンテコで、日本の医療ドラマに出てくる外科医の手術着みたいな、昔の人が着るかっぽう着型のエプロンみたいなので、背中側が開いている。

前だけが隠れる、後ろはマンガ『おぼっちゃま君』に出てくるびんぼっちゃま(貧乏な坊ちゃん)みたいなスタイルで、変な入院着と思った。

色々ツッコミどころ満載の入院で、これ読んだら笑えて元気出たくらい。

他にも面白い日記が出てきたから、時々気が向いた時にアップしたいなと思う。

とりあえず、昔のmixi日記より、今回はデング熱体験記。



『ドミニカ共和国での入院・デング熱体験談』
2007年10月8日


先回の日記に書いたとおり、私はデング熱にかかって5泊6日の入院を余儀なくされた。
これまで一度も入院したことのない私だったけれど、ここドミニカ共和国で初入院という新たな自分史ができあがった。
日本で入院したことのない私には、ここでの体験がどれほどずれているのかわからないけれど、とりあえずあまりにおかしすぎたことを思い出せる限り書こうと思う。

どれが最初の驚くべき事実だったのか忘れたけれど、まずこの国では夜勤の看護師さんは休憩をとるのが当たり前らしい。

少なくとも私の入院していた病院というのは、国内でもきちんとした私立病院で、国の中では1,2を争えるくらいの医療レベルらしいとのこと。そんな病院なのに・・・

で、話は戻るけど、看護師さんの夜勤の休憩。

どうしてそれが発覚したかと言うと、ある日の夜中の2時か3時ころ、私の点滴の機械からピーピーとけたたましい音が鳴り響いてた。点滴がなくなったらしく交換しろの合図だったようで、とりあえずスイッチオフを押して音を止めた。
で、例のナースコールを押したけれど、赤く点滅するだけで音が鳴らない。
私の部屋はナースステーションのすぐ脇にあったから、ナースコールは自分のやつもよその人のやつも全て音が部屋まで届くようになっていて、そして看護師さんが返事をしたのまで聞こえてしまうような至近距離だった。
最初ナースコールが故障でもしたのかと思ってもう一度押すけれど相変わらず赤く光ったままで音が鳴らない。
仕方なく、点滴の機械のコンセントを抜いてよろよろしながらもナースステーションの方に行こうと自分の部屋のドアを開けてびっくり。
ちょうど部屋を出てすぐのところに3人がけくらいのソファーがあるのだけれど(というか、そんなのはそのとき初めて知った)、そこで毛布をかけて看護師さんが爆睡しているではないか!
仕方ないけど看護師さんに声をかけて起きてもらって諸々の仕事をしてもらったけれど、何だこの国は!と思った。
看護師さんも面倒くさそうに起きて仕事をすると多分またソファーに戻って寝たと思う。

どうもこういうことらしい。

ナースコールを全て止めて、それで仮眠を取ったらしい。
ちなみに廊下からものすごいいびきの音が響いていたから、別の看護師さんも別の廊下のソファーで寝ていたはず。無論その人は起きずにずっと寝ていたようだったけれど。

で、その2時間後くらいにナースコールが2件立て続けに鳴り響いたのを聞いて、あぁ仕事をしているんだなぁと思ったらそうではない。
どうも例の仮眠時にストップしていたナースコールを解除してそれでその時に本来届いたコールが今更ながらに確認されて、でそのまま一人の看護師さんが私の部屋に何の用事かとたずねてきた。
もうさっき終わったからいいよと答えて終わったけれど、これはどういうことだろう・・・
もし点滴がなくなったくらいならいいけれど、呼吸困難とか命に関係するようなことだったらどうするつもりなんだろうと病気でぼけていた頭で考えた。

ちなみにこのこれはその日に限ったことではなく、私はまた別の日も夜中のそういった時間帯に看護師さんを呼ばざるを得ず、その時もナースコールは赤く光るだけで鳴らなかったから、よいしょと起き上がって看護師さんを呼びに行ったら、その時と同じように看護師さんは寝ていて、また起こしてなんとかしてもらった。

あとこれはまた別の日。

まだ夜の9時とかそのくらいだったと思う。
ナースコールは鳴り響いているのだけれど、誰もこない。
誰も応答しない。

私の点滴は本当に嫌なくらい問題を毎日数回のペースで起こしていて、例えば空気がつまってエラーとか(これは私の手に負えない)、点滴がなくなりましたということでけたたましく音が鳴り響くとか。
その時は何のエラーか忘れたけど、とにかくだれかに来てもらわないことにはどうにもできない状況にあった。

仕方ないからまた点滴のコンセントを外して(発熱やら全身の倦怠感で、そのひとつの動作だけでものすごい労力を要した)、ナースステーションに直接行ったら誰もいない。
近くに誰もいないようで、少し様子を見ていたけれど、何の変化もなし。

仕方ないからJICAの健康管理員の方に電話をかけて状況を説明したら、じゃあこれから私が病院に電話するからと言って待っていた。

10分15分くらい経った頃、ようやく看護師さんがきて処置を施してくれた。
で、その後また少しして今度は3人もの看護師さんが私の部屋に入ってきて、突然こんなことを言い出した。

「さっきはね、一人は薬局に行っていて、一人は他のところに行っていて、で、もう一人のこの看護師はまだ到着していなかったの。そういうときはもうどうしようもないんだから待ってればいいの」

とだけ言ってまたすたすたと行ってしまった。
私は何がなんだかわけがわからず、ぽかんとしてしまった。

これは後日判明したことだけど。

どうもJICAの健康管理員の方が病院に電話をかけてもつながらず、3回かけても誰も応答せず、仕方ないから担当医に直接電話を入れて事情を説明、その担当医から看護師に多分説教も含めて電話がいって、それで最終的に私のところにその看護師トリオがやってきたらしい。

っていうか、ナースステーションからっぽにしていいの??とこれまた疑問。

あとどうして私の点滴が普通にただぶら下げる形式のものではなく、機械を使った点滴だったかと言うと、例のごとく看護師さんの実態がすさまじいというか、信用のおけないものがあるから、医師の方の苦肉の策で、機械を使うよう指示しているらしい。
点滴の量を管理できないということで、それを機械にやってもらってるというのが現状。
納得納得。

私は時々2種類の点滴を同時進行でしないといけなかったけれど、一度なんかは看護師さんが私に投与するのをすっかり忘れていたらしく、それこそ夜中の12時頃になってやってきて、なんと3本一斉に点滴を開始した。
あまりの痛さに「痛い!!!」と言ったけれど、何か適当に言われてそのまま去られてしまった。
これも何なのかわからなかったけれど、時々忘れたかのようにやってきては注射器を点滴の管に直接刺して何か液体を私の血管に投入していたけれど、これがものすごい痛さで半端なく、一体これは何のためにやっているのかさっぱりわからなかった。
それもこれがかなり不定期でいつやってくるとかいうのがまったく予測できず、言うなれば看護師さんが思い出すとくるというもので、最後の最後まで意味不明な注射器投入だった。

点滴だけでまだまだ問題はあって。
当初私は左手首のちょうど親指下の手をパーにするとへこむところに点滴をされていた。
ところが2日目か3日目くらいから手が一日中しびれだして、でもそれが普通なのか普通じゃないのかよくわからなくて、同期の看護師隊員の子が電話をくれたときに状況を説明したら、下手すると神経損傷になりかねないから看護師を呼んで刺しなおしてもらった方がいいよと言われた。
神経損傷すると一生手がしびれたままとかいう可能性もあるから早めに何とかした方がいいとのことで、健康管理員さんもちょうど到着して事情を説明して、点滴のさしなおしをすることになった。
でも健康管理員さんからは、この国の看護師たちは本当にレベルが低いからあまり期待できないよとは言われて、でも神経損傷よりはましだと思ってさしなおしてもらうことに。

ところがこれも一筋縄ではいかず、最初手の甲に浮かぶ血管よりも明らかに太い針を同じ左手の甲の薬指の下1センチくらいのところにさされた。
明らかに入りそうにもないのを無理やり入れようとして痛さはもう半端でなく、さすがの私も痛いと絶叫した。
看護師さんはそれにびびってしまってとりあえずこれはやめようということで途中までさしたものをまたすっと抜いた。

看護師さんはどこかに行ってしまって、その間健康管理員の人から、あんな風に痛いって言うと看護師さんも萎縮して余計にできなくなってしまうから多少痛くても我慢するようにと注意を受けた。

それでさっきの看護師さんと別の看護師さんが戻ってきて、今度はもっと細い針を持ってきてそれを左手の甲の中央あたりに刺した。
今度は痛くなくて(多少は痛いにしても)、ほっとした。

ただ退院するまで時々痛いなぁと思っていたのと、ちょっと角度がずれると一瞬すごい痛みが走るのとでなんだろうなんだろうと思っていたら、なんと点滴を外したときに見たら針が見事に45度曲がっていて、その状態でずっと点滴をしていたようで、それで痛みが走ったようだ。

退院して1週間経つけれど、2箇所の点滴のあとはもちろんのこと残っているけれど(普通はこんなに残るのかはわからないけれど)、左手の甲の左半分がずっと打撲したままで、これは点滴によるというか、看護師さんの扱い方なのか、何が原因かわからないけれど、いまだもって青くなったまま押すと痛みが残っている。

点滴もひどかったけれど、経過を見るために毎日行われる採血もひどかった。

これがまたひどくて、元々血管が見えにくく日本でも採血のときは採血する人がばしばしと叩いたりして一生懸命血管探しをしなければいけないような状態だったけれど、ここでもそう。

ただここが日本と違うのは。
とりあえず刺す。
刺した状態で針をぐりぐりと動かして血管の場所なのか何なのかを探る。
で、さんざんぐりぐりした後でも見つからない場合はまた注射器をスポッと抜いてまた別の注射器で再トライをする。
それがドミニカ方式。
日本だったらありえないと思う。

で、私は右手のひじの内側とでもいうのだろうか、普通の人が採血される場所で採血できなかったときは、右手の甲とかくるぶし脇辺りの手首のあたりから採血された。
本来痛い場所なんだろうけれど、そのぐりぐりとされる方が何倍も痛かったために、手の甲も手首のあたりもほとんど痛みを感じずに済んだ。
というか、多分それくらい痛かったんだと思う。
なぜなら、そのぐりぐりされたところ(1回じゃない、数回)、2箇所あったけれど、退院してからもしばらく親指の第一関節くらいの大きさで青くなっていたから。
採血で打撲する人なんか普通いるんだろうか???

入院4日目くらいだろうか、デング熱は血小板が減少するのが特徴らしいけれど、私はそれと一緒に白血球の数も減少して、本来4000以上あるべきものが900まで下がったということで、その日は朝とそして夜にも採血が行われた。
看護師隊員の子の話だと、その900という値は白血病の人並みの値らしい。
健康管理員の方も今までデング熱で白血球が減少する人はたくさんいたけれど、3桁になった人は初めてだと言われた。

とにかくやばいということでその夜の採血が行われたのだけれど、もうこの時は本当に点滴やら何やらで疲労困憊していて、プラス発熱第2弾に苦しめられ、もうどうにもこうにもならなかったときだったけれど、そのときの採血が一番ひどくて、私は平気で失敗しても平然としている人たち、自分の体がもう実験のように扱われているような感じ、痛みももちろんだけれど、その扱いのひどさに泣けてきて仕方なかった。

その頃にはもう何かを笑い飛ばすほどの元気はまったくなく、本当に辟易としていた。

他にもおかしなエピソードとして。

私は初日は夜の9時過ぎにようやく病室に着いたために翌日からの食事提供となったのだけれど、2日目の夜食事が出てこなかった。
もっとも何も食べれなかったから気にならなかったけれど、この国は朝と昼だけしか病院では食事が提供されないのかと思った。
だいたいこの国の家の食事の時間もめちゃくちゃで統一性がないから、あぁそういうこともあるんだなぁと思った。

という話を健康管理員の人にしたらそんなわけないじゃないの!と言われて、その人が問い合わせたら私の部屋に食事を運んでくるのを忘れたとのことだった。
そんなことってあり??とこれまた仰天だった。

ちなみに食事も毎日毎日同じで、私が食べれない、これだったら食べれるなどと言うとたまに違うものが出たけれど(でも結局食べれなかった)、でも基本的に毎回マッシュポテトと付けあわせがチーズか温野菜が昼・夜と交代で出てきて、スープも同じ、他のものも毎日毎食同じというすごい取り合わせだった。

こんな食事で果たして食欲のある人は飽きないのかと思ったりもした。

あと私の点滴は、2本目が同時進行で行われると、必ずといっていいほど2本目の点滴の針が管から外れてしまって、点滴がぷしゅ~っと吹き上がるなんていうことはしょっちゅうだった。
それでベッドが汚れるのはもちろん、いやいや何かをされるよりは自分で何とかした方がいいと途中からは思い始めて、点滴の処理はしてもらうけど、ベッドのぬれた部分は自分でバスタオルをトイレから持ってきたり(たかが数歩の距離でも最高にだるいから息が上がって仕方なかった)、違うシーツをかけなおしたり、本来看護師さんの仕事を自分でしたりした。

あと2日目だっただろうか、おなかのエコーをとった日があった。
家からちょうど22歳の弟が見舞いにきていた。

私は係の人に「これからちょっと散歩しよう」などと言われて車椅子に乗せられた。
なんでだるいのに、熱があるのに散歩なんか行くんだろう?このおじさんは一体何の係だろう?弟が散歩したいとでも言ったのだろうか?とわけもわからず車椅子に乗って違う階へ。

何かの検査室だということがわかってホッとしたけれど、何の検査なのかさっぱりわからなかった。

で、私の番になって検査台のベッドの上に乗せられてあれよあれよという間に入院着をめくられておなかを出された。
車椅子のおじさんこそもういなかったけれど、22歳の弟はわけもわからずその場に一緒にいて、で、若い女の人が係だったけれど、あなたももしよかったらいていいわよとか言い出して、私は腹丸出しのまま、弟がすぐ近くで様子を伺いながらおなかのエコーをとられて、何なんだこれはと思った。

最初胸までもう一人の係のおばさんが出そうとするからそれだけはさすがにと思って抵抗したらそのままでよかったようでそれ以上は肌の露出を避けられた。

っていうか、なんで男が同室できるのか全く解せなかった。
弟の方はちらりと見たときはもうそのエコーの様子に無我夢中で私の腹だとかは全く興味の対象にもなってないようだった。
その若い女の係もあれこれと弟に説明を施していて、ずっとしゃべりっぱなしで作業をしていた。

で、私はそのエコーの間、最後の最後まで、妊娠検査をしているのかとずっと思っていた。
おなかしか見ないし、ズボンや下着を下げられて下腹部の方もチェックするし。
検査の最後のほうになってようやく左上の方にエコーの様子が見れるテレビを発見して見たら、あぁ子宮の様子なんか見てどうするんだろう?(←子宮かどうかはわからないけれど、私の乏しい知識じゃテレビドラマにある子宮のエコーにしか見えなかった)、あなた最近エッチしましたか?とか生理はきましたか?って聞けないから、こうやって検査して調べるんだろうか?とかわけのわからない理屈を自分の中であれこれ考えていた。

あとから健康管理員の人に今日おなかにぬるぬるしたものをぬられてそれで画像を取る検査したんですけれどあれは何のためですか?と聞いて、それで初めて腸内に他にばいきんがないかどうかをチェックするためのエコーだと知った。

とにかくあまりにも健康体できすぎたがために、普通の検査ですら何の検査かわからず、勝手にドラマで見るようなことをあてはめて妊娠検査だと思うのだからすごい。

他にもなんだかあった気がするけれどよく思い出せない。

とにかく入院する前に健康管理員の方から、ここに入院するとデング熱と入院のつらさの二重苦だからと言われた。

最初は意味がわからなかったけれど、ようやく自分でも納得できるだけの経験をした。
デング熱はただの風邪や発熱ではなく「デング熱」という名前がつくだけあってとっても苦しい病状だった。
私はこれまでこんなに辛い身体症状をかつて経験したことがない!というくらいに辛かった。

でもそれだけにとどまらず、その入院もひどかった。
看護師さんや採血でも何でも、もうめちゃくちゃだった。
医療事故が起きずに無事退院できたというのがもう奇跡のようだった。

ちなみにこの国のデング熱患者の退院は、少しでも血小板の数値が回復する兆しが見られたらその時点が退院の目安となる。
だから私の場合も血液の値がどうなったというところで、元々の体調はさして変化がないまま、食欲なし、とりあえず平熱には下がったけど全身に広がる倦怠感も相変わらず、もう何をするのも辛いという状況の中で退院した。
だから先週1週間家の中で寝たきりのように過ごしたのはもう仕方なかった。
退院2日後に血液検査をしに再度病院を訪れた際、吐き気なのか下痢なのかわからない気持ち悪さと立ちくらみとで立てないくらいにふらふらして結局はしばらく休んでまた歩き出したのだけれど、同行してくれた健康管理員の方にこれでもし脱水とかになったらまた入院しなきゃだからねと強く言われて、あぁそれだけは避けたいと思って最初の自宅療養開始から数日は無理矢理水分補給をしていた。
そう、水分を取ることすら辛い状態で、食べ物なんかはおかゆ3口とかいうわけのわからない状態だった。
ヨーグルトは1パックの半分も食べればおなかがいっぱいなんていう状態だった。

やっとここ2日間、日中体を起こして立ちくらみもさほどなくごはんを作ったり食べたりそして好きなパッチワークをしたりパソコンを広げたりということができるようになった。
日に日に食欲も回復しつつあって、あと数日で通常に近いくらいまでに回復するように感じる。
今日は本当に2週間ぶりくらいに「空腹感」というものを感じた。
そうこの2週間は食べなくても飲まなくても「空腹感」というものが全くなくてびっくりした。
そういえば唇がかなり乾燥して荒れていたけれど、リップを塗っても塗っても何の効果もないんじゃないかというくらいにべろんべろんと皮がむけていたけれど、やっとそれもおさまってきた。
体内に必要な水分がようやくいきわたり始めたのかもしれない。

いまだかつて体調不良で3週間もの療養を必要とすることなんか一度もなかったけれど、この度はじめてこのような経験をして、病気を克服した人が皆一様に言う「健康のありがたみ」というものをつくづく感じた。

ちなみにデング熱、インフルエンザと同じで、総称はデング熱だけれど、ここドミニカ共和国では3種類くらいのデング熱があるらしい・・・
もう残りの期間はとにかく健康無事でいきたいと強く願う。
デングだけはもういやだ~!
そして入院はもっといや!

というのが今回の一連のデング熱で常に感じていたこと。

2019年11月23日土曜日

『人間』【又吉本新刊の表紙の宣伝】

2019/10/18撮影

2019/11/22撮影

ミッチーがよっこちゃんに送った
世界にひとつだけのエプロン








今、書店では軒並み最新刊コーナーの中でも一番目につくところにある本。

お笑い芸人のピース又吉さんの『人間』。

今日はその【表紙】【表紙】【表紙】の宣伝という名の自慢を!!!

この表紙を描いたのは、イラストレーターの
村田善子さん。
MURATA Yoshikoさん。

今日はよっこちゃんの自慢をするためのブログ。

もはや宣伝でもない、よっこちゃんが描いた表紙とよっこちゃんがどんな素敵な人なのかを紹介するための文章(♡´艸`)♡




トップ画像は、見ての通り又吉さんの最新刊『人間』。

某大型書店にフラフラと入ったら、ジャジャーン☆

うわぁこれだ、これがよっこちゃんの言っていた本で、これがよっこちゃんの絵だ!

本を1冊手に取って、表紙の次のページぐらいをめくるとあった。

縦書きで「村田善子」

念のため後ろ側の出版社とかの名前が色々列記されてるページも見た。

残念ながらそこにはよっこちゃんの名前はなく、私はまたもう一度戻って「村田善子」と印字されたページを見た。

顔がニヤつきそうで完全に危ない人だったけれど、超嬉しくなってしまった。

名前を何度か見入って目に焼き付けて、それで本は元に戻した。

次に私は周囲を見渡した。

「よしっ!今ならいける!」

本当にしていいものかどうか、なんとなくNGな気がしなくもないけれど、又吉本もとい【よっこちゃんの表紙の絵ずらりの絵づら】の写真をささっと撮った。

(今書いてて思い出した!あるエッセイも出す心理カウンセラーさんみたいな人が、ブログで自分の本が出ていて山積みになっているのを全国各地のファンたちが写真に収めて送ってくれたのをブログで紹介していた!
…だから、大丈夫な気がする。)

普段そんなことは考えもしないけれど、額の中に入ったよっこちゃんの絵の拡大バージョンのポスターは、全国で何枚印刷されて何枚このように貼られているんだろう…?、そんなことを思った。

もちろんそれは仕方のないことだけれど、ポスターに折り目がついているのがとても残念だった。

これをその大きさのまま配送する方が大変なわけで、封筒に入るように折られて色んな店舗に流されるのは合理的ではあるけれど、なんだか納得いかない、と悔しくなってしまった。

大変失礼を申し上げると、私は本を買って読んでもなければその場での立ち読みもしておらず、だから中身がどんな本なのかを知らない。

私が知っているのは、その本の表紙をよっこちゃんが描くことに決まって、そしてよっこちゃんが描いたという事実だけ。

何せあまりにも嬉しすぎたから、私はその日合計3軒の本屋に立ち寄って、それぞれの店舗で必ず一度は本を手に取って、「村田善子」の名のページだけ見て、ポスターの大きさやディスプレイの様子を見て満足して、もう単なる追っかけ隊状態のことをした。




よっこちゃんとは何者なのか。

最初によっこちゃんが出てきたのは、ノムとノムの恋人ミッチーの話の中だった。

占星術クラスメイトだったノムと一気に仲良くなった私は、最後の講座となった今年の6月の講座の前に、ノムから誘いを受けて、ノムたちの住んでいる場所に泊まらせてもらった。

実際に泊まらせてもらったのは、同敷地内のノムたちの大家さんれいちゃん所有の母屋で、その母屋でれいちゃん含め4人でごはんを食べた。
(作ってくれたのは、ミッチーとれいちゃん)

その愛に満ち溢れた食卓で、ノムとミッチーが時々ごはんを一緒にする友達夫婦がいるという話が一瞬だけのぼった。

話は瞬く間に違う話になったから、それは本当に一瞬のことだった。

当たり前だけど、その時に私はまさかそのノムとミッチーが時々ごはんを共にする友達夫婦と実際に会うことになって、その奥さんの方のよっこちゃんがピース又吉さんの次回作の表紙の絵を担当する人だなんて、夢にも思わなかった。

よっこちゃんと旦那さんのおまちゃんに会う機会は、その後3ヶ月ぐらいした時に突如やってきた。

ずっとブログの下書きの途中になっているけれど、9月の中旬くらいによっこちゃんとおまちゃんに急遽会えることになった、それも新潟で。

話はこうだった。

ノムが、「友達夫婦と会った。ぶっしーの話をあれこれした。そしてその旦那さんの方が写真を撮る人で写真のトーク会を新潟で今度する。案内を送るから見てみて」というような連絡をくれた。

おまちゃんのおばあちゃんの生まれ故郷が新潟のとある町で、それにちなんだ写真展だし、僕もその風景見て良かったとか、その辺りまでノムからは聞いていた。

で、ノムから送られてきたサイトを開いて確認したら、なんとおまちゃんのおばあちゃんの生まれ故郷というのが、私が今住んでいる町だった。

そんな偶然があるのだろうか?という天文学的数字の確率を思った。

しかもノムが、覚えてるかな、あのぶっしーが来てくれた時に一瞬だけ僕とミッチーとで一緒にごはんを食べる友達夫婦がいるって話、よっこちゃんとおまちゃんがその夫婦だよ、とさらに説明を受けた。

のけぞり返りそうだった。

そんな話の中申し込んだおまちゃんのトーク会で、そしてその場所で私は初めてよっこちゃんとおまちゃんに出会った。




おまちゃんのトーク会の日、はじめましての2人のはずなのに、よっこちゃんの方は特にはじめまして感がなかった。

この辺りの話は別のブログに書いてる途中のままだから、またいつかゆっくり綴ってアップする予定だけど、会の後よっこちゃんからもし私に時間があるならお茶をしようと誘ってもらった。

私は天にも昇る気持ちで二つ返事で「うん!うん、行く!」と言って、近くのおしゃれなカフェに移動した。

元々ノムから、よっこちゃんはノムが20代の頃バイトしていた喫茶店で一緒になったバイトの子で、それ以来の付き合いだと聞いていた。

当時はそこまで仲良くなかったみたいだけど、その後何年かして、よっこちゃんとノムはお互いにバッタリとすれ違うことが増えた。

小さな田舎町のスーパーでの話じゃない。

2人は東京都内の都心部のところでよくすれ違っていて、ある時なんかはなんと2人とも同じ形の同じ色のコートを着てバッタリ出くわしたらしい。

その辺りから個人的に会うようになったみたいで、その後ミッチーもそしてよっこちゃんの結婚に伴っておまちゃんも加わって4人で時々ごはんを食べているということだった。

ノムからはよっこちゃんがイラストレーターだということは聞いていたけれど、それ以上の細かいことは特に聞いていなかったと思う。

はじめましての2人のはずなのに、よっこちゃんと「はじめましての感じがしないね」とお互いに言い合った。

その時によっこちゃんと色んな話をしたけれど、そこでよっこちゃんから「ピース又吉さんの新しい本が10月に出るんだけれど、私それの表紙を描かせてもらったの」と教えてもらった。

即食いついて(笑)、私本が出たらブログに書いていい?周りの人たちに言っていい?自慢しまくりたい!!!、とその場でよっこちゃんの了解を取ってきたv( ̄∀ ̄)v。

そもそもどうやってよっこちゃんが選ばれたのか、そのプロセスも聞いた。

名称は忘れたけれど、イラスト集みたいなのがイラスト業界にはあるらしい。

色んなイラストレーターの方たちの作品のサンプル集みたいなものだと私は理解したけれど、そういうようなものが存在しているらしい。

それで、又吉さん本人がそのイラスト集を見て、その中で気に入ったものがよっこちゃんの絵で、それでよっこちゃんに依頼が入ったとのこと。

しかも今回の最新刊『人間』は、某新聞(新聞名は失念)で週5で連載されてたようで、その日々の連載のイラストもよっこちゃんが担当した。

本当に大変だったと言っていた。

よっこちゃんは私と1つか2つ違いだけど、本当にイラストの道でずっとずっとやってきている人だった。

絵の道に進みたい、よっこちゃんは大学卒業前にご両親にお願いして、話の感じだと多分絵には全く関係のない専攻だったと思うけれど、就職せずにしばらくはアルバイトとイラストのことと二本柱でスタートしたとのことだった。

よっこちゃんとの時間が限られていて、他にも盛りだくさんな話で、そもそも何で絵を描こうと最初に思ったのか聞き忘れたと思うけれど(聞いたのに忘れた…ではありませんように(祈))、とにかくそうして何のアテもツテもない中でスタートした。

絵画教室に通った話はしていたけれど、絵画教室に通ったからと言って食べて行ける世界じゃないと素人でもわかる。

よっこちゃんは選んでもらえたことに関しても、「すごいこと」というような言い方はしなかった。

光栄に感じているのはわかったけれど、私なら己の偉業なら間違いなく鼻息荒く周りに超宣伝しまくるけれど(誇張する可能性大(笑))、よっこちゃんは絵を選んでもらえたことに対してとても謙虚だった。

その姿がまた本当に潔さと美しさを兼ね備えていて、私はうっとりした。

そんなすごい人なのに、そのすごさをひけらかすこともなければ、それで自分以上の何かになろうとしたりというようなことも一切なかった。

とても自然体で、一緒にいるだけでとても気持ちの良い人だった。

ノムの長年の友達というのもすごいわかった気がしたのと(2人ともまとっている空気が似ている)、その後おまちゃんも私たちのところに合流して、2人とノムとミッチーの4人が食卓を囲む姿はすぐに絵が浮かんだ。

4人ともどことなく似ている。

すごい不思議な感覚で、よっこちゃんもおまちゃんも初めて会った感じが本当にしなかった。

はじめまして特有の緊張もほとんどなく、2人とも普段のままだったと思う。

取り繕った感じがなくて、普段の素の自分の姿でその場にいる、そんな2人だった。

本当は2人との時間を書く記事の中に入れるからそれまで取っておこうと思っていたけれど、素敵なシーンは2回書けばいいと開き直って今書くことにした。

よっこちゃんとお茶してからおまちゃんも途中で合流して、3時間半〜4時間ほど共に過ごした後、私はおばの家に向かうために2人と別れた。

その日私も何もなければもっと一緒にいたかったけれど、おばの家に車を止めさせてもらっていて(新潟駅近くで車止める場所を探すのも運転も怪しかったから、新潟駅から2駅?3駅?のおばの家に車は止めた)、おばからごはんを一緒に食べようと言われていたから、帰ることにした。

最後は2人の泊まった旅館のラウンジで過ごしたから、そこでバイバイで私は全然良かった。

というか、それ以外の選択肢なんて頭にすらなかった。

ところが2人は近くの大通りまで送るよと言って、2人は私と一緒に旅館から出て一番大きな通りに出る交差点の角まで送ってくれた。

その交差点は片道3車線は確実にある大きな通りだった。

当然横断歩道もものすごい長さで、横断歩道の向こう側に行くまでけっこうな時間がかかった。

その間、よっこちゃんもおまちゃんもずっとずっと私が向こう側にたどり着くのを見守ってくれてて、時々振り返ると手を振ってくれて、お互いに何回手を振り合ったかわからない。

私が完全に向こう側に着いて、くるっと振り向いてまだ2人がいるのを確認して、お互いに最後のバイバイをした。

肌寒くなって大きなストールを体に巻いたよっこちゃんとおまちゃんとが2人仲良く並んでバイバイしているのを見て、心の奥底からものすごく満たされた。

暗いから顔の表情までは見えないけれど、2人のあのやさしそうな顔があるだろうことは簡単に想像できた。

最後まで素敵な2人だった。

少し歩いてから振り返ったら、2人も歩き出して見えなくなろうとしていた。

それ見て寂しいとか思わず、ようやく帰路に向かう2人を見て何だかホッとした。

色々非日常的なこと続きで疲れただろうに、2人はそんなこと一切感じさせなかった。

本当に素敵な出会いで、ノムはなんて素敵な人たちをこうもたくさん知っていて、そして私にもそんな素敵な人たちを紹介してくれるのだろう、人と人とを繋げる天才だななどと思いながら駅まで歩いた。




冒頭の写真をよっこちゃんに送った。
(大きいポスターの方)

よっこちゃんからこんな風に返信がきた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ぶっしー🌈

ありがとう!!
本屋さんで見てくれたんだ!
本が積まれているのを私も見かけて、又吉さんて本当に話題の人なんだなーって、改めてビックリしていたよー😊
芥川賞でお笑いやってて、っていうこと以上にさ、魅力ある人なんだろうねー💫
打ち上げでお会いした時には、彼の中ではもう次の構想に進んでるみたいで、エネルギーの強さというのかな〜勉強になったよー😊変な言い方だけれどもー

今度良きタイミングに会えたら、最高だねー!

みっちーのエプロンを2人展のとき購入して、今日届くの😊😊😊😊
今エプロン待ち〜
人生初のマイエプロン〜

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


よっこちゃんとやりとりしたのは10/18、そしてこのよっこちゃんとのやりとりを書いているのが11/21。

1ヶ月も経ってしまったけれども、私はその時のことを今でもとてもよく覚えている。

自分の中で葛藤したことと、それに対してよっこちゃんが返してくれたこと、そしてよっこちゃんが返してくれた返事から私が生きる希望をもらったこと、その全てを今でもくっきりはっきりと思い出せる。

よっこちゃんの返事の中にミッチーのエプロンの話が出てくる。

本の内容はさておき、ミッチーのエプロンの話にどう返信しようかと思った。

私も、9月の下旬にあったミッチーとノムの2人展の時に、ミッチーのエプロンに一目惚れした。

ミッチーには直接、自分の生き方がある程度方向性が出てきて生活の諸々が落ち着いて本当に自分の好きなものにお金を使えるようになったら、ミッチーのエプロンを注文させてね、今回は注文しないけれどもいつかの時のタイミングにエプロンを注文するから!と言った。

ミッチーはそんな私の告白にニコニコしながら「ありがとう」と言ってくれた。

そのやりとりを思い出しながら、よっこちゃんには何て返そうかと思った。

ミッチーのエプロン素敵だよねでも、よっこちゃんすごい楽しみだねでも、正直どんな風にだって返そうと思ったら返すことができた。

だけど、真っ先に私が思ったことは、よっこちゃんに嘘をついてちょっと良い風に自分を見せてまたはカッコ悪い自分を隠して関係を作っていくことが嫌だった。

等身大の自分で、ありのままを見てもらって、そういう私でよっこちゃんと関係を少しずつ作っていきたい、その想いが真っ先に出てきた。

カッコ悪い自分を見せることよりも、カッコ悪いと思っている自分を隠して付き合う方が不誠実な気がした。

特によっこちゃんは、初めて会った時に本当に一緒にいられた短い時間だけで私自身がものすごく癒されて、心の柔らかいところをそのまま出しても大丈夫で、初めて会った気がしないのと同時にまたいつか会うだろうと思った。

そして会う回数こそ少なくても、残りの人生で会う時というのは、ものすごく濃密な時間になるだろうことは、簡単に想像できた。

そこまで思った時に、嘘は言いたくない、とにかく自分のままを出したいと思った。

だから私はこんな風に返信した。

「よっこちゃん、ミッチーのエプロン付けて写真撮って❣️
ぜひ!!!
ミッチーのエプロン、超かわいいよね😍
私も自分の働き方や生き方がある程度落ち着いて、生活以外にお金をかけられるようになったら(笑)、ミッチーのエプロン注文する予定!!!

よっこちゃん、そのエプロン付けて何を初めて作るんだろう?
それも楽しみ〜😋」

その10数分後によっこちゃんから写真(冒頭のギンガムチェックの写真)とメッセージが来た。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

そして、いまゆうパックでとどいたよーー*\(^o^)/*

パッケージからして、愛らしくて、開けられないーー

いつか、みっちーエプロン付けてみんなでお料理したいなぁ〜🌈

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


よっこちゃんの最後の一言を読んだ瞬間に目がウルっとした。

人として本当にすごい人だなと、すごい素敵な人だなと感じた。

私のエプロン今買えない話の内容に対して、大方の人たちは返信けっこう困るだろうなぁと思った。

私は自分のことだけで目一杯だったから、返信する側のよっこちゃんのことはほとんど何も考えていなかった。

だけどよっこちゃんの受け答えは、単なる返信ではなくて、私はそれを読んだ時に「本当にそういう日が来るかもしれない!」と大真面目に想像できて、そして「そのためにも真面目に働き方・生き方を考えて動こう!」と思った。

それはものすごいことだった。

ミッチーのエプロンがなぜそのタイミングでよっこちゃんのところに届いたのかは知らない。

ミッチーだって、まさか私がその日にタイミングよくよっこちゃんに又吉本のことで連絡する、なんてゆめゆめ思っていなかったはず。

よっこちゃんたちとミッチーたちとが時々一緒にごはんを食べていたおかげで、よっこちゃんも口から出まかせとかではなく、本当にそんな日が来たら本当に素敵だよね!楽しみだよね!という気持ちと想像を込めて書いたと思う。

いつか本当に実現するかもしれない未来の話は、私の中に「生きる未来の楽しみ」をプレゼントしてくれた。

本当に素敵な人♡、とよっこちゃんに改めて惚れ惚れした。

よっこちゃんはその後もこんな風にLINEを綴ってくれた。

「おまちゃんもみっちーのエプロン2人展の時試着してた😊何故かのりのりで!
プリーツのスカート風な感じが割とお似合いだったよ^ ^

みんなで料理しても、
結局さ、みっちーとおまちゃんがやってそうー😆」

おまちゃんものりのりでエプロン(ΦдΦ)☆☆キラーン!

みんなでミッチーのエプロン付けてキッチンに集う、そしてよっこちゃんの言う通り、やるのはミッチーとおまちゃん!

とっても簡単に想像できてしまった(笑)。

よっこちゃんから写真をブログに使いたいとお願いしてOKもらって、速攻ミッチーにもよっこちゃんの又吉本の写真と共に連絡してミッチーからの了承も得た。

ミッチーの返事がこれまた相変わらずとっても素敵だった。

「もちろんオッケーだよ👌
まだ書店行ってないけど、すごいね✨嬉しいね✨」

ミッチーは言葉は少ないけれど、いつもピッタリの言葉をとても素直に吐き出す。

よっこちゃんの絵が表紙になった本の写真を見て「嬉しいね」と言うミッチーの言葉は、私の胸にもストレートに響いた。




よっこちゃんこと村田善子さんのご紹介。

まだまだ今の話題本として書店の目立つところに『人間』は置いてあると思うので、ぜひとも表紙とこの話に出てくるよっこちゃんの名前とをご覧くださいませ。



☆おまけの写真☆
エプロン着用例
モデル:左がミッチー、右がノム




※インスタがない人、又はミッチーに直接問い合わせたい人はこちら↓↓↓

skmy2040☆gmail.com
(☆の部分を@に変更してください)

2019年11月22日金曜日

笑っちゃいけない





写真:部屋の天井の風景

天井を何度見上げたか知らない。
大抵行き詰まる時、天井を布団の中からぼーっと見る癖がある。 
そうだ、天井の写真撮っておこう!と思って布団の中で仰向けになりながら撮影した。
名古屋時代もよくそんな風に天井眺めたなぁ、何も動けなかったけれど、何も思いつかなかったけれども、とにかく天井をじっと見てたなぁなんて思い出した。
いつもいつも、次はいつどんなタイミングでどんなきっかけで私は動き出すんだろう…って山ほどの心配をした。
今思うのは、そんな日々を何百回と過ごして、それでも私は絶対の絶対に大丈夫だったということ。
迷惑かけたり非難されたり色々あったけれども、どんな時も、天井ばかり眺めて、嫌になると布団かぶってすべてから逃げようとしていた時も、私は全部大丈夫だった。
それをいつかの私も思い出せるように、写真に残したい、そう思って昨日は別に落ち込んではなかったけれども写真に収めた。




今さっき次の派遣先の企業見学に赴いた。

今は何の縛りもないから、今のうちに書こうという魂胆。

バリバリの地元大手企業みたいなところで、従業員も数千人〜1万人規模でいるでしょ、みたいなところだった。

企業見学で4人もの人たちが同席したのは初めてだった。

全体を通しての感想。

これはダウンタウンの年末の「笑っちゃいけない」なのかと思った。

総務的な人事的な女性のみが笑って、あとの男性陣はニコリともしない。

ちょっと薄ら笑いぐらいはしていた人もいたけれど、ぶっちゃっけ「感情が死んでる」と思った。

自分の中の色んなものを殺さないと生きていけないような雰囲気で、オフィスは広いし綺麗だし申し分ない感じではあったけれども、そして福利厚生とか安定なんてのはこの辺りじゃ超一流クラスだと思うけれど、しかも技術系の会社だからよほど世の中の需要が変わらない限り生き延びそうな企業ではあったけれども、史上最高に「笑っちゃいけない」職場みたいだった。

広々としているおかげで息は詰まらなくて済みそうではあったけれども、笑顔付けて喋ってる私が本気の場違いな人みたいだった。

笑わないの?そんな仏頂面して大丈夫?と心の声は止まらなかったけれども、その職場の男性陣は笑わないのがデフォルトらしい。

何せ広い職場だからオフィスに着くまでも長い廊下を歩いたけれども、その途中すれ違った若い世代の男性たちはすれ違えば柔らかい表情で挨拶もしてくれたし、喫煙コーナーの男性たちはまだリラックスした表情をしていて、それを見て少しホッとした(9割男性みたいなところだった)。

楽だったのは、仕事さえしてくれれば、私がどんな職務経歴であるとかは気にならないようで、かなり放っておいてもらえそうな雰囲気なのはものすごく良かった。

素性を明かさなくて良いのと、何せ仕事の質問以外喋ることを一切しなくて良さそうだったから、面倒な人間関係が無さそうなのも良かった。

行ってみなきゃわからないけれど、年度末という終わりが見えているのが救いだった。

そんな余裕があるかは知らないけれど、「人が感情を殺して生きた場合どうなるのか」をひっそりと観察するには、もってこいの場所という感じだった。

職場の案内をしてくれた定年間近みたいな男性が、最後だけ一瞬横顔だけどニコッとしたのを見て、それは社食が安くて種類があってみたいな話の終わりの方だったけれども、それ見た時に少しホッとした。

何様かという話だけど、私に笑わなくてもいいから、大切な人たちの前では笑ってね…とお節介みたいなことは思った。

超ニコニコしなくても、せめて違う表情もできると、さらに言うと緩みの方の表情が出せるといいよね、と思った。

ちなみに女性だけは、作り笑いとかではなく、多分普段からにこやかに対応されているんだろうなぁと思った。

それは男性と女性の性差なのかもしれないし、その女性の個性なのかもしれない。

人生でこんなにも「笑っちゃいけない」などと感じた場所は他にあったかな…なんて振り返りつつ、私もせめて病まないように自分の体調と心の管理だけはきちんとしようと思った。

ちなみに仕事は、基本ひたすら入力だから、「単調でつまらないと思いますが大丈夫ですか?」と聞かれた。

変なものを持ち込みたくなくて、とりあえず「大丈夫かと思います」とその場では答えてきた。

大丈夫かどうかは知らないけれど、とりあえず仕事のおかげで父といる時間の確保ができるから、その気持ちだけは忙しさに忙殺されて忘れないようにしたいなと思った。

派遣会社のお洒落な男性オフィス長(←私の担当者になる予定の人)と別れた後、道を出てすぐのところで、「311」のご当地ナンバープレートの車とすれ違った。

久しぶりにお目にかかった誕生日のナンバープレートだった。

しかもご当地ナンバープレート(普通の白いナンバープレートではなくて、地域の特色が描かれた特殊なプレート)での誕生日ナンバーは初めて見た。

「大丈夫」

そう思った。

2019年11月21日木曜日

米の仕事④お気楽な焼肉



呑兵衛と同じピッチで飲めた私…( ̄∀ ̄;)
8杯はグイグイ飲んだ気がする。




ヨシダさんと飲んできた(11/19)。

事の顛末はこうだった。

ヨシダさんに「それ私が代わりにパソコンで打つよ!」と申し出た、米でも野菜でも良く育つ方法の資料を、私は資料のままパソコンに打ちこんでそれを形にした。

形にしたものの第1稿が仕上がって、それをヨシダさんに届けた。

来月から年度末まで派遣の仕事に行きそうな流れになりつつある今、先々が読めないから、時間を確実に取れる時にヨシダさんに資料を渡してしまいたかった。

ヨシダさんはまだ枝豆の仕事をしていると言って、それが終わった後に会うことになった。

そうしたらヨシダさんから、夜は空いているのかと聞かれて空いてると答えたら「お前さんと飲みたい」と言われた。

代行代も全部出すから飲みたいと。

私は二つ返事で行く!!と答えて、それで前回と同じ待ち合わせの道の駅に行った。

その道の駅というのが使い勝手が良く、商談や打ち合わせに使えるタイプのテーブルと椅子のセットがある。

まずはそこで資料の確認をして、訂正部分や新たに追加で書くことをヨシダさんに聞いた。

1時間近くそれをした後、近くの焼肉屋に行った。

そこは約2年前の3月に、当時の派遣の仕事の県外への長期出張2人組の壮行会を兼ねた飲み会の時に行った場所だった。

タイトルを『お気楽な焼肉』にしたのは、その店の名前が『きらく』だから。

やっと念願のきらく飲みだった。

飲むことは大好きでも、車があるというだけで飲むのは新潟に帰ってきてから激減した。

今の身近な人間関係で飲むことはまずないから、そして友達の盆正月の帰省の時も最近はみんな子育てで忙しいからお昼食べるだけとかになっている。

そもそも私は地元の友達と呼べる人も極端に少なく、気付けば不定期に会う友達は2人のみで、その2人と飲むことは基本ないから、気付けばずっと飲んでない。

記憶を辿ると、多分最後に外で飲んだのは、その2年前の3月に一緒の職場だったSさんと会った時のような気がする。

Sさんとは今も不定期に年に1、2回は会うけれども、お互いに車で集合するからそれ以来飲んではいない。

それはそうと、前回の職場壮行会的な飲み会は、私はノンアル参戦だったから(周りは飲んでた)、いつかこの店にまた来ることがあればその時は飲みたいと思った。

そんなの叶うわけないと思ってはなから期待していなかったけれども、まさかこんな形で、そして思いもよらない人物と飲むことになるとは本当に驚いた。




〜2019/11/17に書こうとしていたブログより〜

今、苦手な図形やら線やらを挿入しながらWordと悪戦苦闘している。

特殊な図形をExcelで作ったのに、なんとWordにコピペできず(←30分近く格闘)、それだけでぐったりとした。

同じことがWordでできないかを試したらできて、最初からWordですれば良かった(涙)と後悔。

キレート?プレート?
プリオン?えっ?プリン?
アマイド?甘いぞー?

とか、最初のカタカナ専門用語(キレート、プリオンなど)はもはや私には宇宙語にしか見えず、どの世界も専門用語って知らない人からしたら単なる暗号だなと思った。




そもそもヨシダさんが何の資料を私に手渡してくるのかは全く想像もつかなかった。

ヨシダさんの説明では「米でも野菜でもよく育つ方法」で、それはヨシダさんが長年農業に従事したのと、早期退職後に養殖エビの機械修理で5ヶ国ほど回った時のその傍らでやっていた外国での農業と、そして当時はバクテリアの研究も兼ねていて、そうした全てを組み合わせての独自のやり方とのことだった。

ヨシダさんはその方法を農家の人たちみんなに紹介したいと言っていた。

ドキドキしながら資料を見せてもらうと、ヨシダさんは1枚は既に作られた商品の宣伝用紙と、他の3枚は本人手書きの紙を持って来ていた。

私は自分が1からまとめなきゃいけないのかと思っていたけれど(だからドキドキしていた)、ヨシダさんがまとめていて、それを基本的には打ち込んで資料にすれば良いだけだった。

ちなみに冒頭の悪戦苦闘っぷりは、手書きなら1秒ほどで終わるもの、例えば大事な用語を◯で囲むとかいう◯の部分をやっていた時の話。




ここからはこの話の続き(11/20)。

ヨシダさんが手渡してきたものというのは、有機JASの認定を取ったヨシダさんが知ってる農業の究極の方法だった。

それは農家にも消費者にも地球にもやさしい、本物の知識で本物のこれから先未来永劫使える実践法だった。

農業の知識が全くない私が聞いても話がわかる、それはすなわち本当に自然の摂理に沿ったこの上ないものだとわかった。

「有機JAS」はヨシダさんの開発部門では今は取れないだろうと話していたその有機JASが何なのか、前回ヨシダさんに会った後調べてみた。

農林水産省が出してる平成25年の資料をネットで見つけた。

それによると、有機JASの認定は本当に厳しくて、その厳しい審査を通過して認定されたとする農家が全国の全農家における0.5%、有機JAS認定を受けた作付面積は全国の作付面積の0.4%になっていた。

しかも有機JASは一度取ったら永久的に使える資格ではなく、毎年毎年細かな審査をサンプルの提出をして受けないといけない。

だから一度取れたからと言ってあぐらをかける資格ではなく、半永久的に毎年厳しい検査を受けて合格したら更新されるというものだった。

基準から外れたら資格停止になるし、資格停止後は3年間またやり直しとなるから、1からやり直してそしてそれで3年の実績を積まないといけない模様。

それでようやく次回の審査に申し込めるみたいだった、私の理解によると。

私の有機JASの認定プロセスの説明は怪しいけれど、とにかくとんでもなく大変な労力と知識とがないとやれないことだというのはわかった。

そんなすごいものなのに、ヨシダさんはそれらの知識をものすごくわかりやすく、私のようなど素人ですらわかるように話してくれた。

そして、ヨシダさんが資料として作ってきたものは、そうした知識を誰にでもわかるように、そして難しい技術や特別な材料がなくともすぐに実践できる形で紹介されていた。

私みたいなど素人でも、話を聞いてたらわかる、そういうレベルにまで話を凝縮して、言葉や説明も誰でもわかるレベルに落とし込んで、大事な部分だけわかるようにまとめて話してくれた。

本物というのは、誰が聞いてもわかる言葉でわかりやすく話す。

ヨシダさんは典型的なそういう人だった。




私の作った資料を見て、ヨシダさんはまず一言
「すごいな」
と感嘆の息をもらしながら言ってくれた。

実際はすごいことではなく、私はヨシダさんの資料とヨシダさんが追加で口にしていたことを形にしただけだった。

たしかに私は追加の話をヨシダさんから引き出してそれも別資料として新たにまとめたけれども、ヨシダさんはそれ以外の自分が渡した資料の完成品を見てまずは「すごいな」と言った。

Word自体はただ打ち込むだけだから大した技術ではない。

そして私が超悪戦苦闘していた専門用語を◯で囲むとかいうところ、所要時間1時間近くかかったものは全く注目されなかった(苦笑)。←私の中では作る前から一番手こずるのはわかっていたから、最大の難関なのは知っていた( ̄∀ ̄;)。

だけど、言われてみたら…と1つだけ誇れるものがある。

大学時代、私は話を聞きながら要点だけをひたすらノートにまとめるということを4年間ほぼ毎日やった。

授業のスタイルがそれだから当たり前なんだけれども、アメリカじゃみんなやっていたことで何も特別な技術ではないけれども、私はそこでとにかく徹底的にその技術を鍛え上げられた。

今回もそれが役立って、ヨシダさんの言葉は一切変えずに、順番を変えたり、変える際に一言副題を足したりして、見やすい形には変更した。

それは別に私でなくてもそういう資料作りに長けている人なら誰でもやれることだと思う。

ただそういうちょっとしたことにヨシダさんはものすごく感謝してくれて、そしてその功労を称えてもらえるというのは私にとって大きな癒しとなった。

忘れもしない某企業に派遣で行っていた時のこと。

トイレに行く時間もないくらいに本当に忙しい場所で、私の社会人履歴の中で最も色んなことが同時にたくさん求められた業務と言っても過言じゃないかと思う。

そこでも資料を作った。

今回のヨシダさんの資料の形とほぼ同じスタイルで、それのもっと簡易版だった。

私はその第1稿を見せに行った時、容赦なく注意を受けた。

少しでも見栄えが悪いとダメ出しされ、それは数ミリの右なり左なりに寄せるものだったり、文字の大きさだったり、はっきり言ってどうでもいいことだった。

私は未だに真相は知らないけれど、そこで私は視野が狭い人間だと言われ、うっかり者と呼ばれ、少しのミスは命取りと言わんばかりに叱責され(ちなみにそんなことはない)、そして色んな人たちのいい加減な仕事のツケが回ってきて武士俣さんがいい加減だからこんな結果だと言われ、そうした評価を上に上げられ、そして派遣会社からは「それの本当のところを教えて欲しい」とまで心配されて別途面談されていたくらいの、私からしたら仕打ちを受けていた。

派遣会社での実績があったから、派遣会社側の人たちはこれまでと180度違う私の評価を聞いても企業側の話を聞いたままにせずに、きちんと私に聞き取りをしてくれて対策まで立てて間に入ってもらって尽力してもらったくらいではあったけれども、とにかく企業の方からのいじめみたいなよくわからないことはいた間ずっと続いた。

最後の最後に、数部署が入っているフロア統括のトップの人が新しく着任して、その人だけは私のやってることをいつ見ていたのかは知らないけれども、見たままを正当に評価してくれて、私のできていることをものすごく良い風に評価してくれた。

それはそうと、そんな風なこともあったから、ヨシダさんがわたし作の資料を見て、細かいことは何も言わず、ひと目で気に入ってくれ、直しは内容的な部分数箇所だけだった。

そして、その私の労力を本当の本当にねぎらってくれたことはとっても嬉しかった。

さらにその資料はこれから先、誰かの役に大いに立つものだったり、100年先の人たちにだって引き継がれるような超本質のものだったりする。

そこに携わる機会を与えてもらえたこと、そしてそのために精を出した労力をありがたいと感謝されたことは、ものすごく嬉しいことだった。

お金には変えられない、素晴らしいものを私はヨシダさんと関わったことで得られた。

たしかにヨシダさんのための資料作りではあったけれども、それだけではなかった。

ものすごく私のためにもなった、なんなら何冥利かはわからないけれど、何とか冥利に尽きるとはまさにこのことを言うと思う。

本当の本当に、この資料作りを自ら申し出てやることになって良かった。




飲みながらヨシダさんは教えてくれた。

今回ヨシダさんが私に手渡した手書きの資料はかれこれ10年近くヨシダさんの手元にあったもの。

そしてその話を私だけではなく色んな人たちにこれまでもしてきたとのこと。

だけど、ただの1人もそれをきちんと資料にしようと声をかける者はいなかったそう。

ヨシダさんが誰かに頼めばいい話だけのようにも聞こえるかもしれないけれど、それだけではどうもないようだった。

ヨシダさんの提唱する内容は、ヨシダさんは実証済だし、なんなら農林水産省が定めるガイドラインに則った資格、有機JASまで取っている。

なんだけど、農業従事者の人たちは、ヨシダさんのその話を聞くとへ理屈を並べたり、半信半疑で聞いたりするのだそう。

私には並べるだけの理屈もなければ、半信半疑になれるほどの知識も全くない。

私のあまりの知らなさ加減に申し訳なさがあったけれども(なぜなら、漢字1つ、言葉1つ確認しなきゃいけないほどの手間暇がかかったから)、ヨシダさんはだからこそ良いと言った。

何の先入観もなく真っ直ぐに話が聞けて、聞いたままふんふんと自分の中に落とし込んでいくのが、私が無知であることが最大の強みのようだった。

無知という最大の武器を備える私に、ヨシダさんは教えてくれた。

この10年でヨシダさんに「じゃあそれを作ろう!」と本気で言って本気でやったのは私だけだったとのこと。

他の人たちでそう言ってきた人たちは誰一人いなかった、本当に私しかそれを言ってやってくれた人はいなかったと言った。

ヨシダさんはこれ以上ないくらい感謝してくれた。

私はヨシダさんに伝えた。

私は本当に知らない分野だけれども、ただ話を聞いてすぐにそれはやらなきゃいけないこと、形にして後世に伝え続けなければいけないことだと思ったこと、そしてヨシダさんの農家の人たちに伝えたいという意志もはっきりと知ったからこそ私にできることがあればやりたいと思ったこと、それを伝えた。

ヨシダさんは最初照れて、そんな大したもんじゃない、おまさん(お前さん)は上手に俺をのせすぎだとか言われたけれども、私はそれにさらに言い加えた。

私の場合、これまで何百人という人たちを見てきているから、その人が何を持っている人なのか、それはお金とか地位とかではなくその人にしかない強みを見ているから、ヨシダさんの持っているものは並外れてすごいことがわかること、そして1年くらい前に山で行方不明になった人を探して欲しいと頼まれた以降特に、本当の本当に「本物」と呼ばれる人たちの人生により一層関わるようになってきたこと、だから今回もヨシダさんのそれは本物だとわかることなんかを伝えた。

まがい物やいい加減なものは私のところには来ないから、来るのは本当の本物しか来ないような人生の仕組みだということも付け足して言った。

ヨシダさんも、それを冗談で私が言っているわけじゃないことはすぐにわかってくれた。

10年か…と思った。

10年駆け抜けた今の私でなければ、ヨシダさんにたどり着かなかったと思う。

そうした事の本質や人の人生を真摯に敬意を持って見るには、この超グチャグチャでツッコミどころ満載の色んな時を経ないと今の私にはならなかったから、だから満を持してようやく今なんだとわかる。

ヨシダさんからしてみても、私というのは人と随分と違うと言われた。

何がしたいのかと聞かれた時に、したいかどうかは定かではないけれども、私が残りの人生でやっていくことというのは、駆け込み寺的なものだと思う、それは何も誰かを家に泊めるとかいうことではなく、ある人の人生の窮地やどうにもならないような時、本当に大きな決断を前にした時、そういうような人生で誰しもが一度や二度迎えるような時に自分は居合わせる感じになると思うと言った。

ヨシダさんは黙って話を聞いていた後、
「俺はそれ需要あると思う」
と言った。

その前後で私はペンジュラムをヨシダさんの目の前で実演して見せたけれども、それを知っても尚ヨシダさんはそう言ってくれた。

なんなら具体的な物件まで知っているから、そこなんかすごく良い隠れ家的な場所だとさえ教えてくれた。




ヨシダさんと私とで、とにかく今の瞬間がとても不思議だと言い合った。

ヨシダさんは本当なら私が行った米の仕事の場所にいるような人ではなかったと思う。

事情さえ許せば、もっとスケールの大きな舞台で動く人かと思う。

ヨシダさんが今ここにいるのは、孫がいるからだった。

ヨシダさん夫婦が孫を生まれた時から育てることになったのは色んな事情があったからだというのは少しだけ聞いたからわかった。

ヨシダさんは、その時から海外に出ることも他のことも全部辞めた。

いつだったか「この子だけは俺が全力で守ってやらんきゃ(=やらなきゃ)」というようなことを言っていた。

それからヨシダさんは稲刈りの時期にだけ(あと大豆の時)、私が行った仕事の場所に期間雇用で行くらしかった。

もっとも見ていると、ヨシダさんはそこで全員の農家さんとやりとりするから、なくてはならない存在だと思う。

夏の暑い時、毎日日焼けの心配をしながら外に出ていた時のことを思い出す。

まさかそこでこんな風に誰かと一緒に飲むような仲に発展するとは思ってもみなかった。

ヨシダさんは言った。

「これまで色んな派遣の人たちや契約の人たちが来たけれども、こんな風に俺があの場所(私がいた受付係の待機場所)に行って話をするなんてのは初めてだった」

ヨシダさんは、手が空くとよく私のいた場所に来てくれて色んな話を聞かせてくれた。

日焼け防止のために、私は1人だけパイプ椅子を携えて日かげのところにいたこともあったけれども、そんな時もヨシダさんは来てくれたし、本当に色んな話をした。

「今年ほど俺は怒らなかった年はなかったし、今年はスムーズだったな、例年よりも」
とも教えてくれた。

自分で言うのもなんだけど、私が担当した受付係は本当に人に恵まれて、陽気な人や話し上手な人が集まって、さらには仕事をきっちりこなす人たちの集団だった。

状況を見て臨機応変に動ける人たちばかりで(1人だけ困ったちゃんがいたけれど、そこは適当にみんなスルーした)、だから受付がスムーズにいかないなんてまずなかった。

受付係に去年も来ていた人が1人だけいて、その人も去年とは比べものにならないくらい今年は仕事がしやすいと言っていた。

ヨシダさんもそう言っていた。

そんな風にして、よく見てもらえてた。

米の仕事に申込みに行った時のことを思い出す。

派遣会社が用意した職務経歴書に記入している途中だった。

米の仕事の営業担当が今近くにいてすぐこちらに来るので、武士俣さんは担当が来たらそちらで話をしてくださいと言われた。

程なくして担当者が到着して、担当者を私が用紙に書き終えるまで待たせて、書き終えると外のロビーの一角で面接のようなことをした。

書いている途中の段階で私の採用は決まってた。

そんなにも早く仕事が決まったのは、今回が初めてだった。

今思えば、ヨシダさんに出会うことも、ヨシダさんの資料作りを手伝うことも決まっていたと思う。

そして何が何でも行く必要があった。

今後どうなるかは知らないけれど、今回ヨシダさんとやりとりしたことで、ヨシダさんがすごい技術の持ち主だと知るエピソードがあった。

ある農業の手法で、その設計図とやらをヨシダさんは全部描けるらしい。

それは地球にやさしい循環型農業のとある特殊な方法らしく、その図面を描けるのはヨシダさんとそしてヨシダさんと一緒に組んでいたある大学教授だけらしい。

ところがその大学教授はすでに亡くなったから、どうやら今日本全国の中でその技術を持ってその図面を描けるのがヨシダさんただ1人だけのようだった。

発表できない理由として、学がないこともヨシダさんは挙げていたけれども、そこは何とかなる気がした。

どうしても学術的な権威が必要なら、私には2人ほど聞ける友達がいる。

今思い出したらもう1人当たれる友達がいる。

そしてこの話を占星術クラスメイトのノムにしたら、ノムからは想像を遥かに超えた提案をされて、それもヨシダさんに聞かなければどう言うかは知らないけれど、やり方としてはありだしむしろ面白い方法だから、それが実現したらどんなにか素敵かと思う。

ノムももしヨシダさんが興味を持てば、必要な人たちに繋げると言ってくれた。

図面を私が描くかどうかはさておいて(なぜなら、マニアックな図なら私がパソコンで作成するのは半永久的に完成しないから)、とりあえずできることならするし、できなければ次の手段を考えようと思う。

ちなみにヨシダさんが口にしていた単語をネットで調べたけれども出てこなかった。

私は専門的な知識がないけれども、勝手にノーベル賞やそれにノミネートされるぐらいのレベルのものをヨシダさんは持っているんじゃないかなと思う。

だって他にそのすごい設計図やそれにまつわる具体的手法は、この世でヨシダさんしか持っていないようだから、それはもうものすごい発見のものだと思う。

何でそこまで思うのかと言うと、ヨシダさんはその内容を自治体に掛け合ったらしい。

ところが自治体はヨシダさんのその内容を採用せずに、某企業にその内容を振ったらしい。

そしてその企業は今、そのヨシダさんの提唱したことを元に稼働している。

しかも今ささっと調べてわかった。

ヨシダさん、多分アイデアを盗られたかそれに近しいことをされたのではないかと思う。

ヨシダさんがそれを始めたのが10年ほど前からとなれば、その関連企業はほんの数年前に稼働で、さらに言うと資本にものを言わせてと言わんばかりに東京のよく知らない会社がその管轄をしているようだった。

実際の関連は詳しく知らないけれども、ヨシダさんはとてもじゃないけれども「信用ならない」と自治体については言ったし、そして稼働会社に関してもよくは言ってなかった。

自治体を巻き込めるだけのすごいものを提案したことは話からわかった。

どう凄いかはわからないけれども、ヨシダさんのそれは持続可能な循環型農業にまつわる何かで、それは地球がある限りその摂理に則っていれば無くなる事のない何かであるのは話の感じからわかった。

ヨシダさんにはとりあえず、そういう大事なものは次の世代に残さなきゃダメだと言った。

そんな大事なものは、ヨシダさんが亡くなったらもう誰も辿り着けないものになってしまうから、そうならないように形にして残すのが大事だし、それで私が何かできるのであれば、それについてもやれることはやると申し出た。

ヨシダさんとのあれこれはどうなるか知らないけれど、本当の本当に何かできることがあればできる限り手伝おうと思うし、それがどんな形であれ、本当に必要とする人たちに届いて欲しい、そう思っている。

2019年11月18日月曜日

かけ違い狂想曲


2019/11/18の夜明け



思い出す風景がある。

ワコと歩いた道。

歩き始めは6人だけれど、気付くとワコと私はいつも最後列で、気付けばみんながいなくなっていた。

歩くペースが同じの私たちは、ただそれだけで仲良くなるきっかけを得た。

私の人生でワコほど私のことを「不思議ちゃん」と呼んだ人はいない。

ふと気になって、今ほどLINEを入れた。

【すごいくだらない質問するけれど、ワコ私のこと今でも不思議ちゃんと思ってる?
今さらだけど、ワコほど私に不思議ちゃんと呼んだ人他にいなかったなぁと思って(笑)】

何て返事が返ってくるか楽しみ!

ちなみに私は自分がまともだとは思ってはいないけれど、かと言って不思議ちゃんとも全く思っていない、本気で!

ワコからの返事がきた。

「私、ぶっしーの事そんなに不思議ちゃんって呼んだかな?覚えてない💦笑
今はそんな風に思ってないよ。」

ほらほら、私は不思議ちゃんじゃない(笑)!!!

私は自分が本当にしんどかった時、小さなお金ではあったけれど、搾取されてさらには自分がそれを搾取する側から私が悪いと言われた時、ワコは言ってくれた。

「人を裏切るのも人だけど、人を救うのもこれまた人なんだよね」

どれだけワコに救われたかわからない。

ワコも相当な目に遭った時、先輩だか上司に言ってもらった言葉なんだけどね、と言っていた。

何があったのかを書きたいけれど、今回は名前さえもぼかして書いているから書けなくて、「小さなお金ではあったけれど、搾取されてさらには自分がそれを搾取する側から私が悪いと言われた時」と表現したら、実際は小さいことなのにとても重篤みたいな雰囲気で驚いた(笑)。

この話は今は笑い話な上、実際も当時からかなり笑える内容だから、重篤では全くない。

だけど中身を明かせないとなると、いや中身はいくらでも明かせるけれど、ワコとこれからもう1人話に出てくる里香のプライバシーを守るために、2人が身バレしないようにするには中身を隠すしかない。

どこから話が漏れても怖いから(←それを現在進行形で目の当たりにしてる人)、とりあえず隠してる。




続いては、真夜中のマクドナルド。

私はそのマクドナルドが未だにどこにあるのかを知らない。

当時、里香ともう1人の友達とが住んでいたそれぞれの駅の中間だったと思う。

ベビーカーでスヤスヤ眠る里香の赤ちゃんと共に、私たち3人は夜な夜な語り合った。

そこで里香が語った自分の人生に起こったことは、ものすごいことだった。

冗談抜きで私は「里香が今生きててくれて良かった」と思った。

今の日本で命からがら逃げるなんて体験する人なんてそうそういないと思う。

でも、里香が体験したのはそういうことだった。

そしてその日は里香の家に泊めてもらったけれど、里香は外に見せる顔と本当に親しい人にしか見せない内の顔とがあまりにも違いすぎる人だけれど、その日の里香は本当に素の里香で、おそらく外の里香の顔しか知らない人たちには信じられないだろうと思う。

里香もだしワコもだけど、今では2人とも超絶すごいキャリアなわけで、なぜこの2人と私とが今でも繋がっているのか世の七不思議状態だけど、なぜか繋がっている。

これはワコもだけど、私は双方の家に何回ずつか泊まらせてもらっていて、夜な夜なピロトークで語って、お互いに剥き出しみたいな顔や本音を知っている。

2人とも今じゃキャリアの方が凄すぎて、反対に私のような何も持たない人の方が双方の友人関係では珍しいと思う。

珍獣って言葉が出てきたけれど、珍獣でも絶滅危惧種でも、そういうタイプのポジションに私はちゃっかりといられたわけで、だからワコとも里香とも今でも繋がり続けるんだと思う。

私の周りはスーパー優秀な人たちばかりだけど、その中でもワコと里香は群を抜いて優秀且つこれからも独自路線で上に行くだろう人たちだったりする。

その2人が今回揉めに揉めて、もはや2人でのコミュニケーションは成立しないところに来ていて、それで弁護士から作ってもらった書類とやらを里香がワコ向けに送ろうと、あとはポストに投函するだけ、というタイミングで里香は私に連絡してきた。

私は全力でお願いした。

2人が水と油なのは今に始まったことじゃないから、そんなのは知っていた。

だけど、何を間違えてそんな怖い書類をワコに送りつけるのか、と半分呆れながらも真剣な声で「あと1日でもいい、それを待って」と里香を説得して止めて、そこが全ての出発点だった。

仕事が決まらない宙ぶらりんな時にこんなことしてる場合じゃない気がかなりするけれど、でも現実的に今がそうだから仕方ない。

今見てきたら、今日でちょうど10日ほどだった。




その後もとにかく色々あって、それでようやく着地点が定まって見えてきて、あとは着地点に向かって動けばいいだけになった。

私が今回、2人共には言ったけれど、この茶番劇に自ら首を突っ込む一番の理由は、2人の人生の道を守るためだけだった。

優劣をつけるつもりはないけれど、ワコも里香もそれぞれが日本で唯一無二と言ってもいいと思う、そういう分野に携わっている。

そして、それは2人でないとそれぞれできないことだったりする。

それは単なるキャリアではなく、2人それぞれが生まれてきて色んな幼少時から大人になってあるところに至るまでの全ての経験がないとできないことだから、私はそれを最初から知っているから、だから今回もここまで首を突っ込んでいる。

2人の代わりなんて誰もできない。

真似すらもできないと思う。

私から見て、2人のそれぞれの道というのは、やりたいからやるというよりも、道の方から呼ばれてやるようなことだと思う。

誰でもいいわけじゃない。

代わりのきかない道だから、2人のことは全力で守らなきゃダメだと思った。




数時間前にワコと2回目の電話をした。

その前に私はワコに長いメールを2通送った。

1通は、私の足らない頭では到底カバーできない実務的なヒントを、別の共通の友達に聞いて説明を書いてももらったし口頭でも電話越しであれこれ説明してもらって、それをひたすら書いたものだった。

もう1通は、ワコ個人に向けた私の気持ちだった。

とにかく私が動く理由はここに書いた通り、ワコと里香を守るための他ならず、だから色々厳しいことや納得のいかないことを私が言うかもしれないけれど、それは責めてるのでもワコを否定するのでもなく、本当の本当にワコとワコの人生にとって大事だと思うことを言ってるだけだということを書いた。

いつものごとく、あれこれ書いてたら長くなった…。

ワコにメールを送ると一言連絡を入れると、
「文章が好きなぶっしーのメールは喜んで拝読いたします…笑」
と返ってきた。

ワコの反応がすごい怖かったけれども、何ともなくて、その後私たちは1時間弱電話で話した。

ちなみに、ワコも里香も2人ともオール白で、一点の曇りもない。

曇りはないんだけれど、ちょっと事務的な落ち度があって、それがまた笑えるくらいにおかしなことがいくつも重なって、超とっ散らかってる。

で、そのとっ散らかってるのは今2人それぞれ整理を始めたからいいけれど、なんとそこをどこの誰かも知らない人が見つけてきて、それをまずは里香が大きな会議の場で追及されて、そしてそれの追及の先にはワコも名を連ねているものだった故に、それでワコの方にも飛び火した形だった、何百キロと離れたところで。

里香いわく、国会の野党追及みたいな有り様だったらしい。

もう一度言うけれど、2人は100%白で、本当に何一つ悪いものはない。

ただ、事務的なところにイレギュラーな落ち度が含まれていた、というだけ。

とかいうところが今回の火種で、私からすると「何だそれ?」って感じだった。

追及の空気を生んだ、要は今回の火付け役は超ケツの穴の小さい、志を捨ててきたんか?と言いたくなるくらいの人ではないかと想像している。

なぜなら、里香は今もって何でこんな事態になったのか、誰の先導でこんなことが生じているのかわからないと言う。

里香いわく「私のしてることに嫉妬してるんだと思う」と言っていたけれど、私もそう思う。

里香のしていることは代わりがきかないくらいに超専門的なことで、それを妬んで「それ何年前のことなの?」ということをネタにしてきている。

それが今回の茶番劇で、その追及の煽りを企てた人は今も身を潜めている。

おまえも前に出てこーい!!!と言いたい。

それはそうと、そういうチンチクリンな人がいたわけで、おかげで2人は今、落ち度のあったところをもう一度補強するチャンスに恵まれたわけで、そこはいいのだけれど。

ワコと話した時に「世知辛い世の中だね」とワコは言った。

「そんなにみんなね、ルールをたくさん敷いて、そこから1ミリでもズレてはいけなくて、そんなのみんな息苦しくなるだけなのにね」

本当にその通りだった。

何度も言うけれど、ワコも里香も完全なる白で、抜けていたのは単なる事務的なもの。

そんなのは他の誰かが代わりになれるからいいけれど、ワコの代わりとか里香の代わりなんて誰もできない。

2人の着眼点に基づいた活動は、ワコならワコ、里香なら里香にしかできないもの。

世の中のルールに則った事をきちんとしておくのは大事だし、今回の場合、その点において2人共が天才的なすごいありえない事務的な凡ミスをやらかしてくれたわけで(←だからややこしい)、そこは2人も大いに反省しているし、私もそれは2人に「とにかく誰に突っ込まれても大丈夫なように、そこだけはきちんとしよう」と伝えた。

それは落ち度あるところは仕方ない。

だけど、今の世の中はその凡ミスが命取りになったりもする。

凡ミスだけを見たら、誤解を生む可能性はたしかにある。

それは否定しない。

だけど、それはきちんと世に通る形にすれば問題ないわけで、本来ならそれが誰かの人生の命取りになるようなことでは絶対にない。

なのに、今回里香が出席したところの誰かがそれをスクープと言わんばかりに取り出して、そして里香がガンガン追及される事態となった。

里香はとりあえず、物が揃ったら、その物を持って関係各者に謝罪とお礼に行く。

1ミリもごまかさず、自分の至らないところも正直に話し、そして求められているものを提示する。

同じことがワコのいつかの未来にも起きないように、それでワコも今動くようになった。

ワコは当初里香の不手際として、自分が何でこんなことしなきゃいけないの?というスタンスだった。

それを周りから言われ、そして私が最後通告として、本気で危ないからやらなきゃダメなことを伝えた。

真っ白でも世の中はたった1つのちょっとルールから外れたことをつまんで、そこを追及するならまだしも人1人の人生を蹴落とすぐらいのことをしてくる。

ワコもワコにしかできないことをしているから、それを面白く思わない人たちも少なからずゼロではないと思う。

だから、本気で気をつけてと、そしてそのために面倒でも多忙でもそれはやっておけば自分の身を守れるからということを全力で伝えた。

本当に世知辛い。

社会のルールは一定の安全や安心を保つためには必要だと思う。

だけど、それをあまりにも細かくしてその細かさを絶対にした時に、それで大きな社会的損失も生まれると思う。

国の桜を見る会なんかは中止になっても本当に困る人やそれで不利益被る人はいないと思う。

開催先のホテルやそれに関連する業者は損失が出るかもしれない。

だけど、人の命レベルでの損失とは訳違う。

ワコのメールには書いた。

ワコや里香のすることというのは、これから何十年、2人が亡くなった後も継承されるようなものだということ。

2人それぞれのすることが何十万人、何百万人の人たちの人生のどこかを救うものだと私にはわかるから、だからこれは全力で2人からやんややんやと言われようが通さなきゃいけないことだった。

2人が自分のフィールドに立てなくなるようなことがあるのなら、2人も困るだろうけれど、それ以上にもっと困る人たちが出てくる。

だから、白のものを白だと証明するための手続きの抜け落ちたところを今やろうという段階。

で、肝心かなめの当事者2人が水と油すぎて円滑に物事が進まないから、これだけの大騒動になった。




ワコと話した後、里香に一報連絡を入れた。

今後諸々の事務的なプロセスを進める際に、何かどうしてもワコに話が通じないことが出てきたら、私がワコに話を通すから、その時は言って欲しいと伝えた。

ワコも里香も本当に助かっているのが、2人は私に互いの文句や不平不満を色々言うけれども、私がどちらに寄るのでもなく、どちらとも連絡するのを快諾してくれてる。

「私は相手と友好的なやりとりはできないけれど、ぶっしーは気にせずにどうぞ」というスタンスで2人共がいてくれるから、私も2人の間を自由に行き来している。

最も、自分で言うと卑しいけれど、今現在確実に2人それぞれとどちらに偏ることもなく話せて、本音を引き出せるのは私しかいない。

2人からしてみても、私を自由に泳がせておくことが一番良いこともわかっていると思う。

どちらかが「もう1人と連絡取らないで!」なんて言い出したら、そこはもういきなり里香の弁護士封筒に出番が回ってきてしまう。

今そうならない形での解決がかなり見えてきたから、そしてそこに他にも私以外に3人加わって形が落ち着くように尽力している。

だから、私は実務的なことはあまりにも知識がなさすぎて何の役にも立たないけれど、2人それぞれの為すべきことが為されるために必要なコミュニケーションは双方とようやく取れるところにまで来たから、それは事態収束の時まで必要な時は頼まれたらやろうと決めてる。

私はもう足場は固まったから、あとは必要に応じて動くだけにした。

何も動かなくてもいいなら、あとは見守るだけでいる。




風呂の中で変なことを考えた。

おばあちゃんになったワコと里香と私とが会した姿を思い浮かべた。

最初、もうワコと里香が生きているうちにお互い再会することは二度とないだろうと思った。

それは仕方のないことでもちょっぴり寂しいことだった。

こうやって出会っても、生きていても、互いに会いたくないとなれば会えないんだなぁと思ったら、それはお互いにストレスがないから一番良い方法だとは知っていても、私はなんとなく寂しくなった。

年を重ねて婆さんになった自分たちを想像して会うことを思った時、それもそれで私がストレスだと思った( ̄∀ ̄;)。

テーブルに3人で着いて、優雅なカフェタイム(ちなみに3人とも飲むから、実際はビアタイムだろう)は、優雅どころかバチバチと火花が散って、とてもじゃないけれど落ち着いてその瞬間を楽しむことなんか絶対にできない。

それもなしだなと思った。

双方から「ワコって元気にしている?」「里香ってどうなった?」とか聞かれることもまずないと思うけれども、もしいつかの未来に2人が柔らかくなってそういうことを聞いてきた時には、私は知っている限りのことを話そうと思った。




夜明け前にワコが私に長いメッセージをくれた。

事務的なものはさておき、今の自分が見ている世界がどんなものかを教えてくれた。

やっぱりワコは思った通り、事務的なことは喧々轟々としていたけれど(←里香に向かって)、それを取っ払ってしまえば、本当に志を持って自分のフィールドに専念していた。

日本全国どこを探してもワコがやっていることと同じ目線で同じようにできる人は誰もいない。

ワコのテーマは、命のある今をどう生きるか、というようなことをある特定の対象者に絞って見ていくこと。

そんなワコがこんな風に私に書いてくれた。

「今、哲学とか宗教とかちょっと見てるとね、人間が理不尽な出来事に出会ってしまった時、(法律なんて、よほど国が成熟しないと効力ないものだから)、霊性を見出し生きる術を模索したんだろうなぁ…と。

理不尽すぎる世の中ではスピリチュアルな世界観が求められる。経済の低迷や、災害が起きると宗教と哲学が台頭するらしいし。(もはや、ムハンマドやらキリストやらシャーマンも、私にとっては精神疾患患者なのだけど笑)でも、それで救われる人がいて、未来を見ようとすることができるなら、それは素晴らしい事だと思う。

だから、ぶっしーのように考える人が人の心の荒みを浄化するだろう…と思ってるよ。」

私も今自分の身の振り方をどうしていいものかわからず、右往左往している。

だけど、今回の一連のことを見ていても、里香も似たようなことを言ってくれたけれども、ぶっしーの役割は今ここでやったようなことで、それは他の人ではできないと言ってくれた。

どちらに偏るわけでもなく、全体を見て必要なところにテコ入れをする。

そして、自分から見てこれが大事と思うところはブレない。

とにかく、今回も、ワコと里香が最終的に解決するまでは、必要な時にまたのこのこと首を突っ込んでいこうと思っているし、要らない時はさっと身を引こうと思っている。

3人でのカフェタイムは無理でも、またいつかのタイミングでワコと飲み語りを、里香と飲み語りお泊まり会をそれぞれやろうと思う。



追記:タイトルは大いに悩んで、「狂想曲」にすることにした。
漢字を見ると、協奏曲と狂想曲がある。
Google先生によると、
協奏曲→独奏楽器と管弦楽とが合奏する形式の器楽曲
狂想曲→変化に富んだ自由な手法で作曲した器楽曲。
これが転じて、【特定の出来事に対して人々が大騒ぎする様子を比喩する際に用いられる言葉】
あらやだ、狂想曲、ピッタリじゃん( ̄∀ ̄;)…

2019年11月16日土曜日

2019/11/15 撃沈付きつれづれ

気持ち良く帰った時の夕焼け空
2019/11/15


久しぶりに超主体的に他人様(ひとさま)の問題に首を突っ込んだことの記録簿。

感想。

「超めんどくさ\(ΦдΦlll)/」

電話の最中、3人も電話がきて、さらには非通知での電話も!

カオス・カオス・カーオースー!

そして、学んだこと。

周りが首を突っ込んできてまで何かを伝えてくれている時は、自分や自分の状況を一度冷静に見る必要があるな、と。

想像以上に内容は大混戦、もはや素人が太刀打ちできる状況などとうに越えていた。

不謹慎すぎるけれど、思わず今回の騒動と星とを絡めて考えた。

双方の言い分もあるし、それぞれが細かいところでやらかしてることもあるから、そこはもうお互い様だと思う。

ただ、星と絡めて思ったことは、どういういきさつにしても、「今現在問題が勃発している」ということをどう捉えるか、それにどう向き合うかが大事だし、そここそ今回の騒動の結果がそうした個人の姿勢でどう変わるかの鍵を握る部分だと思った。




終わった。

怒涛の丸1日おしゃべりかLINE・メール業。

米の仕事ヨシダさんと占星術講座のクラスメイト・ノムとのやりとりは癒されたし面白かった。

ヨシダさんからは本物の「自然・生態系の循環」を教えてもらって、ノムからは共同執筆した書く仕事の担当者の人と町でばったり会って、今度いつかぶっしーと3人で会いたいと話してたんだよと教えてもらった。

その2人以外に今日1日だけで4人とやりとりして、そちらは内容がヘビーすぎて、これを書いている今グッタリ。

今はとても笑えないけれど、4人と同じテーマでやりとりして、それぞれのスタンスや考え方が見えて、これ「捉え方の違い」とかいうテーマでネタになりそうと思った。

おかしな感想だけど、同じものを見ていても、同じ出来事を体験していても、感じ方や捉え方は千差万別なんだなぁとわかった。

Aさんが共感するポイントはBさんにとって怒りのポイントで、Cさんにとってどうでもいいことで、Dさんにとって最重要課題で…みたいなことが4人とやりとりするとすごくよく伝わってきた。

感動したこともあった。

そのうちの1人に、私に知恵を貸して欲しいとお願いした。

ものによっては一般常識が大きく欠けている私に、その今回のやりとりの最大の争点にまつわる一般常識を知る必要が出てきた。

それを教えて欲しいとお願いした。

私はLINEにお願いは書いて、あとは電話で教えてねと言っていた。

そうしたらなんと、その貸して欲しい知恵に関して、この上なく超丁寧に文章での説明を電話の前に書いて送ってくれた。

私1人が必要としたものではなく、他の人も必要としたからこそ丁寧に言葉に起こしてくれたのかもしれないけれど、本当の本当にすっごくわかりやすい説明だった。

そして色々忙しいだろうにその合間にさっと時間を作って、即文章を書いて対応してくれた。

神ってる、本当にそんな風だった。

本気でありがたいことだった。

助けてもらえることの凄さも感じた。

私のこの辺りの腹黒さもどうかと思うけれども、私は謝ることに基本的には抵抗がない。

謝ることで丸く収まったり、状況が和らいだり、はたまた自分の得となることが先にあったら、抵抗を覚えるどころか超意欲的に謝る。

とにかく、ごめんなさいとありがとうは魔法の言葉で、その2つは言うだけで場が和んだり助けてもらえたりする。

私のは完全に安売り状態でも、何せ抵抗がないしおいしい思いもよくするから、ある種やめられない。

私にとっては「おはよう」レベルだから、もうじゃんじゃん言う。

今回の騒動も、ありがとうとごめんなさいが言えていたのなら、今はもっと違う結果なんだろうなぁと思う。




最後の電話の前に、長くなると悪いからと思って、布団を敷いた。

布団を敷きながら、カバンからペンジュラムの入った袋を出して中身を取り出したら、なんと青いラリマールのペンジュラムがない。

最初どこかに紛れているのかと思って、布団を戻して見たり、毛布をヒラヒラしたり、他にも物をどかして見たり、車の中を確認したり…というようなことを二度三度したけれど見当たらなかった。

たしかに出かけたけれども、今日は車の運転中以外にペンジュラムの入った袋をカバンの外に出していない。

あまりにも盛りだくさんすぎてグッタリしたところに、追い討ちでペンジュラム失踪事件でさらに撃沈。

翌朝も車の中もカバンの中も袋や思い当たるところもどこもない…(涙)。

どうか見つかりますように…。

お尋ねモノ:真ん中の青いラリマール
2007年より共生中

2019年11月14日木曜日

カオスな日常ー2019年霜月

父の体調のことを妹たちに伝えた。

私はその瞬間、冷静に話すつもりが泣き出してしまった。

姪っ子のズボンに飾りをつけようと手を動かしながら話したけれど、言おうとした瞬間、気持ちがいっぱいいっぱいになって普通には最初話せなかった。

私はそんな風だったけれど、妹たちには事の深刻さが伝わっていなくて、なんなら真ん中の妹は私の気のせいではないかというようなことまで次の日かその次の日言い出した。

大きなため息をつきたくなるような気持ちをはじめ色んな気持ちが噴出しまくりだった。

私1人だけが父の死を意識してる人なのかと思うくらい。

言うなら私は死を意識して、妹たちは一過性の体調不良ぐらいにしか思っていなくて、私の目が節穴で私の感じ方が大袈裟過ぎるのかと思ったくらい、ものすごい温度差だった。

感じ方の程度の問題だから、感じ方を私が変えることはできない。

私の心の中では何とも不思議な空気が流れていた。




妹たちがいる間に、父はいつもかかっている内科の先生から紹介状を書いてもらうためにクリニックに通院した。

2年前なのか3年前なのか、父は何かの精密検査のために今回同様、紹介状を書いてもらってそれを持って検査を受けたことがあった。

父いわく、大きな総合病院に紹介状を持ってかかっても、初日は内診を中心とした初診で、その時に精密検査の検査予約をして、後日改めて検査をするとのことだった。

だから
1、かかりつけの内科にかかって紹介状をもらう
2、紹介状を持って大きな病院へかかる
3、2とは別日に大きな病院で精密検査を受ける
の三段階があると知った。

そんな風だと時間がかかるから、とにかく早く紹介状を書いてもらって、早々と大きな病院を受診するのが先決だと思った。

ところが今回は、総合病院のシステムの変更なのか、それとも父の健康診断の数値が悪すぎるのか、理由は知らないけれど、なんと直で精密検査の予約も取ってもらっての紹介状となった。

かかりつけ医がそのようにした。

そんな話を父は帰って一番に顔を見た私にそれを言ってきた。

そして「最初言われた今週の金曜は仏滅だから縁起が悪いと思って、大安の来週の金曜にしてもらった」と言った。

うちの父ほどそうしたことに無頓着な人もいなくて、唯一葬式の友引だけを気にするのみで、あとは基本仏滅だろうが大安だろうが何も思わないようだし、そんなことに何かの願をかけるなんてことはまずしない人だとばかり思っていた。

何でそんなことを言うんだろう…と私は普段とは違う父のあり方を知って、またひとつ、胸がキュッとなった。

そんなこと気にしない人が気にするって…。

本人も相当自覚してるとしか私には思えなかった。

そして、さらに驚いたのは、どうもそのことを父が言ったのは、私にだけらしい。

母にその話をしたら、「そんなこと言ってたの?」と返ってきた。

妹にも聞いたら、医師側の都合で日にちが変更になったことは言っても、大安だの仏滅だのに父がこだわって日にちを希望したことは言わなかったようだった。

父は何十回と同じ話を繰り返す、典型的なおじさんあるあるだから、こんなこと普段なら何十回だって話してくる。

なのに今回は、そんなネタとしては面白そうな内容を父は私にだけ言って、他の3人(母と妹たち)には言わなかった。

いつもと違うことを今このタイミングでされるのは、変に疑ってしまう。

いつもと同じであることをこんなにも強く願ったことはない。

ちなみにかかりつけ医経由で検査予約をしたら、大病院の先生の都合で大安の日は学会なのか何なのかで不在、前の日の予約に変わった。

結局、父の検査の日は仏滅となった。




その病院に長いこと勤務していた友達(今は同系列の別病院に勤務)がいて、その子に紹介状付の初診でいきなり検査予約までできるのかを聞こうと思えば聞けた。

過去10年以上に渡り、何かしら体の不具合や家族の不具合があると、それについて専門的知識で答えてくれる看護師の友達がいる。

その子にも連絡を取ろうと思えばいつでも取れる。

だけど、私は今回どちらにも連絡を取らないことにした。

もうなるようにしかならない、そう思った。

そして、もし今回の流れが通常とは異なると知ったら、それの方が今の私には受け止められるキャパがないから、どっちみち近くに検査をするから、色々知るのはその時でいいことにした。

今普通に生きている父だけを見ていたら良い気がした。




姪っ子や妹たちがいた時に、私は普段なら絶対にしないことをした。

基本的に姪っ子たちがいる時、私は最低限の連絡を誰かと取ることはしても、長電話をすることはまずしない。

そもそも電話もしない。

しても、メールやLINEのみ。

目の前の姪っ子たちとの時間が大事だからそちらを優先する。

今回は、待ったなしの事情が急遽浮上してきた。

長いメールを書いたり、長電話を2人とした。

1人は全く電話どころか連絡を取る予定もなかった。

だけど連絡が来て、当初はLINEだけであっさり済ませる予定が、共通の友達2人の危機的状況をその人はその人でやっぱり心配していて、それがわかって私から電話を持ちかけた。

なんか電話した方がいい気がすると思ったから。

電話して大正解で、社会的立場で今回の事の次第を見ると、本当の本当にとってもやばいことがわかった。

私は事の重大さをかなり甘く見ていたけれど、今回電話で話した友達Aは、それがいかに危ない橋で今後どのような危険をはらんだものなのか、私にとてもわかりやすく説明してくれた。

今私たち共通の友達2人の人生そのものがかかった大きな局面にある。

プライベートな仲間内でやりとりをする範疇なんか、本来ならとうに越えている。

本当は正式な社会に通用するやり方で事を解決するのが筋だと思う。

それを私が「お願いだからもう少しそれを待って欲しい」と渦中の1人にお願いして、当事者のもう1人側にも話をさせて欲しいと言って、正式な解決方法ではない別の友好的な方法で解決できないものかと、今超ギリギリのラインに立っている。

それを私は自分1人でやるつもりでいたし、そんな細かなことは周りの他の友達は誰も知らなくていいと思っていた。

だけど、別の友達Aから連絡が来て、Aも2人の先を案じていると短い文面からすぐにわかった。

Aもわかっている。

今回のことが、本当に一歩間違えたら、2人の選手生命を絶つぐらいのレベルなことを。

だから私がそこに首を突っ込んでいることを知って、連絡をくれた。

Aが野次馬的な感じではなく、本当の本当に2人の先々を案じていることが短い文章の中で即伝わってきたから、私も連絡しようと思った。

電話して正解で、Aは専門知識と経験をたくさん積んでる人ゆえ、今回の問題点と解決方法をズバリと言ってくれた。

それは社会的な立場でずっと色んなことに携わってきたAでなければ助言できない内容だった。

渦中の2人のうちの1人に近々連絡をするけれども、今回電話をしたAにお願いをした。

もし話がそこそこきちんとできて、そしていざ実務レベルでの対応の話にまで事が上手く運んだ時、私は実務に関してはパーチクリン、本気の無知無能だから、その時にAのことを引き合いに出して、Aが知っている実務レベルでの専門的助言をその電話する予定の渦中の1人に提案してもいいかと。

そこはスーパー上手く言う予定で、私がお願いしたということ、本当にお節介もいいところだけど、私が自分の勝手な考えで足りない知識を補うために電話して確認したこと、確認したらAがこの上なく専門知識を持ってそれを知識のない私みたいな人にもきちんとわかりやすく説明できる人とわかって頼んだことを説明するから、本当にお願いできるならお願いしたいとAには言った。

Aは二つ返事でやりますよと言ってくれた。

自分ができることなら、それは2人の人生をも左右することだから、やれることはやりますよ、と快諾を得た。

私の中で希望的観測を立てた。

渦中の2人は、今まともに2人で話ができる状態にない。

友達Xと友達Yの間のことで、X側からは一通り話を聞いた。

Xがあとは対応するだろうと思ったのと板挟みは単に面倒で、私はYには一切連絡を取らなかった。

そうしたらYから連絡が何日か前に来た。

Yの短い文面を見たら、放っておいて事の成り行きを見守ればいいレベルにないことを察知した。

Xではもはや大事な部分が伝わらないのは確実で、だからそこが少しでも伝わるように、まずは大きな心的ダメージの部分を話を聞くことで緩和できないものかと思った。

そこが緩和しなければ、心が抵抗しまくって本当に大事なことが伝わらない。

私は専門知識はないけれど、感情を動かして物事を動かすことしか今は多分無理だとXには説明して、それでそうした切り口からYとやりとりしようと思うから、それが終わるまでは他の社会的手段に出るのを待って欲しいとお願いした。

社会的手段では、形は解決するかもしれないけれど、事の重大さや真意が伝わらなくて、最悪な結果を未来に招く可能性がある。

なんなら、X・Y共に、2人それぞれの超マニアックなキャリアの道が閉じる可能性だってある。

2人のそれぞれのキャリアは何千人、何万人の人たちをも救うすごいことで、それを今の小さな事でこんがらがって社会的損失を生み出す方が痛いのは火を見ずともわかる。

現にXは私と超寸前のところでやりとりしたことで、周りの専門家からのアドバイスではなく、私が大事だと言い続けた方のやり方を採用した。

XにはYにも同じように心理的な対応をまずは試みたいと伝えた。

そして今回Aから連絡がきてAと話したことで事の重大さをようやく理解した私は、AならYも実務レベルのやりとりを話せるだろうと思った。

そして、YはAの話なら聞くだろうことや、Aになら素直に甘えて実務レベルでの色々ぶっちゃけた質問もできるだろうと踏んだ。

そんなこんながあって、当事者の友達Xにも連絡をその後入れて、事の次第を伝えた。

もうやれるだけのことはやろうと思った。

謎のお節介おばさんになっているけれど、とにかくやるだけやってダメなら仕方ないけれど、今ならまだとてもやさしい方法での解決への道の可能性が残されている。

それに賭けるしかない。

私がやらかす可能性も多大にあるけれど、とにかく誠心誠意を持ってやれることをやるしかない。

私は心理的な部分のほつれを担当して、Aには実務レベルの部分を担当してもらうことで今のところ話がまとまった。

そんなことを、3歳児主催のパーティーごっこなんかと時々テンションを入れ替えながらやっていた。




自分の名前を冠した書籍が、担当者の方より月曜日に届いた。

本当は家族全員がいる前で披露しようかと思ったけれども、色々ありすぎて心が落ち着かず、まだ封筒を開けたのみで中身は開いていない。

近いうちにそれはドヤ顔でブログにアップする予定だけど、そのことを家族に何かしら理解されず、思わぬ方向で言葉が飛んできても嫌だと思って、それでみんなに見せるのはやめた。

家族こそ、こういう時に一番喜んでくれる可能性と一番辛辣なコメントを言い出す可能性の両方を持っているから、私は後者におののいて、今回はとりあえず自分1人が先に見て落ち着いたら家族にも見せることに決めた。

そうでなくても、上の友達の件や父の体調の件であれこれ心が重苦しくなっているから、そこは慎重にいこうと思った。




今日水曜日(11/13)、派遣会社から電話がきた。

先週の金曜日に英訳の仕事のエントリーをしたいと申し出て、それに対する調整が終わって連絡が来たのかと思った。

電話は全く想像もしていなかった展開となった。

まずは事務方の担当者の方が事の次第を伝えて、「相手企業さんと調整中でもう少しお待ち下さい」と言われた後に、武士俣さん久しぶりですから営業担当のWに代わりますと言われた。

私はこの派遣会社から2つの仕事を過去に繋いでもらって行かせてもらったけれど、一度として内勤と外勤(営業)の2人と同時に電話口で話したことなんかない。

すでにおかしいと思った。

外勤の人は、2年前の春先まで勤めたところの担当者の人で、私が基本的に何でもずけずけと聞くのも、派遣先の企業と派遣元の会社のやりとりなんて本来私が聞くような立場に全くないのに、そういうことも聞いちゃう人だというのを知っている。

だからWさんは今回ももれなく、聞いてもないのに現在どのような事態に転じているのかを教えてくれた。

社会人をしている中で、初めて聞いた話だった。

今回エントリーしている会社は、地元では超がつく優良企業、大手企業。

これを書くにあたり、私は従業員数とか設立年月日とか調べてきたけれども、雇用形態は不明だけど従業員数は余裕の1万越え、設立もその業界ではおそらくものすごく古い歴史のある部類に属すると思う。

世界的に有名な某メーカーに某部品を9割以上提供している会社で、そんな凄い技術の会社がなぜこんな片田舎にあるのかは知らないけれど、とにかくある。

何が言いたいかと言うと、派遣先企業には潤沢な資金がある。

そして、世界的メーカーがこれから先も100年以上存続するような部門のものだから、余程のことがなければ倒産しない。

そういう企業への今回は応募になった。
(派遣会社に問い合わせた時は、会社名が伏せられていて仕事内容しか書かれてないから、電話するまでどの会社の仕事かは知らなかった。)

さてWさんの話。

Wさんいわく、先方の企業が、年度の途中、実際残すところあと4ヶ月ほどなわけで、そこに私1人を派遣で雇う資金源について、話し合われているとのこと。

同じ金額を捻出するなら、事務方よりもエンジニアを雇いたい(派遣会社の情報にはエンジニアの募集はない)、今現在、部門の部長レベルで英訳事務を雇うか見送るかの話し合いが行われている、だからそれ次第でそもそも私の雇用に向けての面談をするしないも変わってくるとのこと。

現実に、そのポジションに入っていた前任者がなかなかやらかしてくれて、本人ももたなかったのと派遣先の会社側も希望しただろう雇用打ち切りみたいな感じで終わったことは金曜日に聞いていた(内勤の人から)。

だから私は、前任者が実際にやらかした事態になった時どう対応するかを内勤の担当者から金曜日の時点で聞かれた(←こんなことも初めて)。

その部分はクリアできそうだったけれども、英語力の面でどの程度何を求められているのかわからなくて、企業さんの希望に合わない可能性もあります、というのは私の方から言った。

そうした前例もあって、そして私の履歴書的なものもさぞかしやばそうな感じで紹介されているだろうことも想像がつくから、色々難航しているのだろう…とは思った。

ヤバイというのは、転職しまくりな私の履歴書は一般社会からは見栄えが悪い。

今は就業期間や年齢を書かないことになっているらしいけれど、そうであっても私に積極的に会いたいとは、優良企業であればあるほど抵抗を覚えると思う。

そして、本当に何が真実なのかは知らないけれど、もしその資金云々の話し合いが本当であれば、それさえも私からすると「変」と感じた。

そんな派遣先の企業が雇う気があるのかないのかわからない仕事だと派遣会社は知らずに募集をかけてるわけがない。

少なくとも、派遣先の企業からこういう人材が欲しいと打診があって、正式な契約も交わして、派遣会社は募集をかけているわけで、何この訳の分からない実際は!?と思った。

派遣先企業が雇いたくて派遣会社に求人を出してるはずなのに、何で今さらになって雇用するためのお金があるとかないとかいう、そんなレベルの話なのか、はっきり言って支離滅裂な事態になっている。

もはや神ってる異常事態で、私にはとにかく「不思議」としか映らなかった。

そこまで来た時に、ピンときた。

行ってはいけなければ、今回は確実に落ちる。

反対に、絶対的に行く必要があれば、予算だの他の懸念事項だの全てクリアしてでも私は行くことになる。

そんなの神々の審議会レベルのことだから、私はもうどっちに転んでもいいと思っている。

ただ落ちるなら落ちるで、私の生活や親との諸々の(面倒な)やりとりがあるから、さっさと落としてねと思った。

落ちたら落ちたで私はすぐ次を探す必要がある。

もし採用の方向で話が動いたら、それは行って大丈夫だから何もごちゃごちゃ考えずに引き受けようと思った。

ということで、先々のことは今もなお宙ぶらりん街道をひた走っている。

そういう状況だけあって、そりゃ派遣会社も2人揃って状況説明を懇切丁寧にするよねーと思った。←こういうネタだけは、私の場合事欠かない。




姪っ子と妹たちを駅まで送った後、家で久しぶりにのんびりして、ドクターXの再放送を見て、少し昼寝しようかと畳の上にひっくり返っていた時だった。

米の仕事でお世話になったヨシダさんから電話がきた。

今は枝豆に関する期間雇用で同じ敷地内の別施設にヨシダさんは行っているけれど、それが明日で終わるとのこと。

飲み会があるから来ないか、代行代は俺が出すと言われたけれど、20キロ近い距離の代行なんて金額の想像もつかないから、それはお礼を言って、行くなら私は飲まずに顔を出すし、他の人たちにも声をかけて行けそうなら行くと伝えた。

それとは別に、本当の用事の、農作に関する資料作りのために金曜に集まりたいと打診があった。

ヨシダさんの方も資料の整理が終わったとのこと。

それはヨシダさんが何十年という農業技術に関して色んな角度から携わって、そこから導き出したこれからいつでもどこでも誰でも活用できる虎の巻みたいなもので、ヨシダさんはそれを自分が関わった何百軒という農家を回って配り歩きたいとのこと。

そのために見える化した資料が必要で、パソコンを使えないヨシダさんはずっとそのままにしていたけれど、私はそれをヨシダさんに代わって作るところだけ担当すると1ヶ月ほど前に会った時に申し出た。

それのための第1回目のミーティングを金曜にしたいとヨシダさんは言った。

私も、何せその英語の派遣の仕事が宙ぶらりんだから金曜などまだ余裕で空いていて、二つ返事で空いてると伝えた。

ということで、金曜日にヨシダさんと会うことになった。




現実的なお金を稼ぐ仕事の話は全くまとまらず先行き不透明だけど、そうではない超プライベートだけど人の人生がかかっている方の話はどんどん進む。

ものすごいカオスだけど、そして相変わらずはたから見たら引きこもりニートなわけで、それに対して弁明などする気もないけれど、とりあえず来たものから着手することにした。

プライベート側は、今のうちに積める徳は積んでおこうと思うv( ̄∀ ̄)v←色々考え方が腹黒い。

結婚とか、パートナーとか、そういうことに邁進したいのに、相変わらず逆走してるとしか思えないことになっている…(  ̄Д ̄;)|||

自分のことにも足踏みしている。

それでも今来たものは、個人的な何かや人でも、それはやっぱり今生縁があってこのようになっていると思うから、それだけは後悔のないように自分の最善は尽くしたいと思う。




今日の夜、大根をすって大根おろしにした。

焼肉に大根おろしをつけて食べたらおいしいだろうというのと、大根おろしは父の好物だからそれなら父は確実に食べてくれるだろうと思ったから。

大根をおろしながら、私はこの3年近い自分のやってきたこと、正しくはやってこなかったことをものすごい後悔いっぱいの気持ちで振り返った。

父は偏食大魔王で、そして好き嫌いも激しい。

大根おろしが大好きなのは子どもの時分から知っているけれど、私は大根おろしをするのが基本的に面倒だと感じる。

これまでなら面倒がって大根おろしなんか用意しなかった。

だけど今は違う。

父の好きな肉でも、今の父が食べるか食べないかはわからない。

何でもいいから、食べれるものを食べて欲しい、そう思うようになった。

もういつかは、どんなに食べさせたくても食べれない時、食卓を共に囲えなくなる時がくるから、だからもう今は何でもいい、食べれるものを1つでも2つでも増やしたい、その一心で作っている。

本当に私はそこだけは大変幻した。

私の変なこだわりはどうでも良くなった。

私のこだわりよりも優先させるものが出てきたから。

命があとどのくらいあるのかは知らないけれど、それに対して私は自分が「あの時こうしていたら…」というものだけは極力避けたい。

大根おろしを用意してもお父さんは食べなかったねー、の方がいい。

大根おろし面倒だから用意しなくて、当然用意されてないものはお父さんも食べないよね、なんてのは私が嫌なんだとわかる。

だから、用意できる今、食べても食べなくてもいいから、大根おろしを準備した。

大根を雑におろしながらそんなことを思った。

さすが牛肉も大根おろしも好物な父は、今日の夜両方をきれいに平らげた。

そんなに好きなら、父の牛肉だけさらに枚数を増やせば良かったと思った。

私のごはん作りのスタイルは変わった。

今は確実に父が食べるものを必ず1つは献立に含めるようにしている。

食べないかも知らないけれど、「確実に食べる可能性」のあるものを用意するようになった。

食べることは生きること。

大病をして何年間か食べられない経験をした私の好きな料理ブロガーさんの言葉が、今ならよくわかる。

父の食べる行為は、そのまま父が生きる今日や明日に繋がる。

そう思って今はごはんを作っている。