2018年12月13日木曜日

お風呂読書からのネガループ

そのお母さんも亡くなられたことを聞いて、ほとんど会ったこともない人なのに、深い悲しみを感じた。
あのお母さんが創った風景が私たち母子の散歩道にとって、かけがえのない輝きだったことを思い出したのだ。
私はこうしてその気持ちを、書きとめておくことができる。
エッセイの形でもそうだし、別の形に変えて小説に閉じ込めておくことができる。
あの日確かにそこにいた人たちの面影をほんの少しだけでも残すことができるのは、私にとって、この仕事をしている大きな喜びのひとつなのだ。

引用:『下北沢について』吉本ばなな



午前中、コーヒーを持って、お風呂の中でコーヒー読書タイムをした。

父宛に超高級和牛のすきやき肉のお歳暮が届いて、それで今夜父と母の長年の友達を呼んですきやきパーティーをすることになった。

昨日夜遅くて、出かける前にシャワー浴びたからいいかと思ったけれど、夜に来客があるとなれば、色々微妙すぎる。

今入ってしまえ!と午前中元気なうちに、コーヒーと本を持ってお風呂に入った。

食欲はあるけれど、体が風邪を引く前のようなだるさと喉の痛みを発した。

だから、夜のすきやきに向けて、今もう一度布団を敷き直して、安静にしている。



お風呂の中で上の文章を読んだ。

読んですぐに、自分が色々と書き残しておいたことに心から満足した。

夏の日と初秋の思い出を色んな形で記録に残した。

その人がいた風景を書こうとノートまで用意して書いた。

一万年永久保存ができると謳われたノート。

ノートに書こうと思って、メモしたものもたくさんある。

その人がいた風景を忘れないうちに、残りのメモの部分の物語もノートに書いてしまいたい、そう思った。

「かけがえのない輝き」は、私とて同じだった。

その人がいる風景はかけがえのないもので、どこまでもキラキラしていた。

私には書くという素晴らしい能力がある。

人に読んでもらうとかそういう意味ではなくて、言葉にしてその瞬間瞬間を残す、そのための能力を持っているという意味で。

当時の気持ちもその人の面影も文字にして残せる。

本当に素晴らしいものを私は自分の財産として持っているんだな…と思った。

午後からはそのことに取り組もう!

そう思っていた。



体の具合がイマイチだから、今体を布団に横にしながら書いている。

気が弱っている時というのは、ろくなことを考えない。

生産性のないことならまだしも、ネガティブな風到来的な心に良くないことまで考え出す。

最近どハマり中の婚活ブログたちを読んでいたことを初めて悔やんだ。

今の婚活ブログのトレンドキーワードは「クリスマス」。

最近このブログでも書いたけれど、基本的に1人でもクリスマスディナーを用意して1人クリスマスをして盛り上がれるおめでたいところがあるから、クリスマスは1人でも全く気にならず楽しめる。

だけど、よくよく考えたら、そんな体質の人、日本の中でどのぐらいいるかと言えば、どう考えてもマイノリティだと思う。

マイノリティなのは別にどうでもいい。

風邪っぽくてだるい体で考えたのは、もっと別のことだった。

その人をごはんに誘いたい女の人たち他にもいるんじゃないかなとか、その人だって誰かクリスマスデートに誘いたい人がいてもおかしくないなとか、もしかして誘ってもしくは誘われて予定を立てているのかもしれないなとか。

具合悪いところにさらに心まで具合が悪くなってきた。

イケメンに興味がない!とはっきり言う私の方が多分珍しくて、その人は黙っていてもイケメンだし、口開いてもさりげない感じがイケメンだし、普通に挨拶してもいけてるし、歩き方とか立ち居振る舞いも見ていて良い感じだし、声や話し方もいいし、まとってる空気や雰囲気も他の人たちにはない良いものを持っているし、ちょっとした気遣いなんかした日にはすごく絵になるし、仕事もできるし、一般女子ウケするスペックだってイケてる。

そして、私が勘違いしたように、その人が気遣いした行動をとった日には、多分ほとんどの女の人が胸キュンキュンする。

っていうか、なんでその人独身なの?っていうぐらい(今は独身かどうかも知らない)。

その人とデートしたいと思う女の人たちがいても全然おかしくない。

その人だって周りには綺麗な人でも可愛い人でもいると思う。

この間、丸の内のオフィス街を昼休み時間に歩いて「うわぁ〜みんな綺麗♡」と女の私が見ても感動するぐらいに、そういう人たちが日常の風景にいてもおかしくないところにいるんじゃないかと勝手に思ってる。

そしてそういう環境かどうかはさておいても、その人だって誰かいい人がいればその誰かに向かって何かしらのアクションを起こしても普通のこと。

突然、色々悲しくなってきた。

私はそもそも何をよくわからない、「ない」と言い切れる可能性に小さく、でも真剣に賭けているんだろう?

この1年以上、私は携帯を毎回ちょっとした可能性に賭ける気持ちと「そんなことあるわけない」という気持ちの両方で、ずっとチェックしていた。

あるわけない可能性を365日以上追いかけていたのかと思って、なんだか自分がさみしくなった。

携帯が9月に壊れた時も、そもそも無職で機種変なんてできるの?という心配もあったけれど、それ以上に私が気にかけたことは、そもそも携帯のメールアドレスとか電話番号とかLINEがきちんと引き継がれるかどうかだった。

全部のデータを失うのは怖くなかった。

幸いにして携帯のデータは何の痛手も負ってなかったから、データが飛んだとしても自分で入れ直せばいいだけだから。

でも、それらのアドレスとか番号やIDが使えなくなって新規に別のものを取得しなきゃいけないとかなったら、その人と連絡取れる可能性は永遠になくなるんだ…、そう思ったらそれが一番怖かった。

だから、私にはその個人情報がきちんと引き継がれるかどうかがとても大切だった。

何よりも大切だった。

でも、気が弱ってきたら、なんだかそういうことが突然色を失ったみたいになった。

どう考えても私の考え方に無理がある。

その人のことが忘れられなくても、時間は誰にも等しく流れる。

その時間の中で、その人にはその人の人生が流れてる。

私の人生にその人がいないように、その人の人生にも私がいない。

99.9%ない可能性はやっぱりない。

どんなに望んでも人生は交わってくれない。

私が毎日携帯眺めてもどうにもならないのと一緒。

その事実が突然目の前に現れて、いやずっとあったけれども見ないふりしてきただけ。



あのホロスコープの検証。

まだきっちりとはしていないけれども、見ただけのものでも相当すごい影響力のある配置なのはわかる。

その人との思い出の瞬間、ある程度時間が1、2分の誤差しかないものも、多少1時間前後は左右しそうなものも、何かしら天体の上でも重なったり、特殊な配置のものがあったりする。

なんなら、77777や88888キロを車のメーターが打ち出した日さえも私には意味ある配置を為していた。

その人と関わる何かの時はもれなく空模様も何かしら意味のある配置に勝手になっている。

私だけのことなら、例えば2月や7月のホロスコープ鑑定の時のものの方がよほど影響あるホロスコープになっていてもおかしくない。

なのに、それらの時、あまりにもほぼ何もないような感じで、逆に拍子抜けした。

その人が人生に関わっている瞬間たちは、なぜか空の星たちのエネルギーもものすごく強い。

元々星のエネルギーを受けやすい私だからそういう配置になったのかもしれない。

ホロスコープ鑑定のような、自分自身のタイミングの時はさほど何もないのが逆に気にはなるけれど。

意味を求めても仕方ないし、意味があれば現状が変わるわけでもないし。

でも、そんなにも色々あったのに何もない今がとてもさみしくて悲しい。

その人が近くにいないのがさみしい。

そしてその人のいる人生の中に自分がいられないのがさみしい。

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