2018年8月31日金曜日

だしと夏のカレー

下書きの途中になっている記事がいくつか溜まっている。

そのどれかをアップしようと考えていたけれど、どれもいまいち続きを書きたいと思えず、そのまま放置した。

今日は夏の最後の日だから、それにちなんだ話を書きたいと朝なんかは考えていたけれど、それもいまいち気乗りせず。

で、思いついたまま書いたのがこれ↓

スープカレーのブームは、この間の東京でのスープカレーで終わりそうだった。

2回連続で行ったら、1回目はすごく感動したけれど、2回目の今回はスープを替えたこともあって大した感動がなかった。

それよりも道に迷いながら見つけた小籠包のお店の方が気になって、来月はそこに行こう!と決めた。

今年の夏、最高にハマったのは「だし」だった。

山形の郷土料理で「だし」というのがある。

夏野菜を粗めのみじん切りにして、あとは納豆昆布と呼ばれる糸くずみたいな形の昆布と適当な味付けで混ぜて、1日以上置いてから食べる。

保存は冷蔵庫で。

前はしょうゆ、砂糖、和風だしとかで味付けをしていたけれど、今年は麺つゆ1本で味付け。

麺つゆの方が楽だと気付いた。

私が使った野菜は、きゅうり、オクラ、ナス、みょうが。

オクラは茹でたけれど、ナスは生のまま使った。

野菜は基本何でもいいらしい。

納豆昆布なるもの、なかなかなくて、名古屋にいた頃は手に入らなかった。

当然、その昆布がないと作れないから、私はその昆布を探しに何軒もの食材店を回った。

今は知らないけれど、富澤商店もDean & Delucaもカルディも北野エースも当時は置いていなかった。

北野エースだけは、既製品のだしは置いてあってそれは買った。

明治屋もなかったし、紀伊国屋もなかった。

一般のスーパーも相当回ったけれど、なかった。

ネットで取り寄せることもできたけれど、送料の方が確実に高くて、そこまでして買うのはバカらしくて諦めた。

そんなだったから、「だし」への憧れはかなり強まってた。

だから、去年の夏なんかは、銀座?有楽町?にあった山形県のアンテナショップと、そして納豆昆布ではなく「やまいも昆布」という名の似た形の昆布を山口県の下関市の市場で見つけたから、そこでも昆布を買った。

材料を手にしたにも関わらず、去年は作った記憶がない。

仮住まいと他のことで多忙を極めていたから、だしどころではなかったのかもしれない。

その去年の使わなかったやまいも昆布を見つけた時期と今年初のオクラとがほぼ同時期に重なって、それでだしを思い出して作った。

作ったら、めちゃくちゃおいしくて、連日食べまくってる。

そしてつい最近、新潟県内数ヶ所で「納豆昆布」を発見!

三重県の会社が作ってた。

伊勢志摩の方の住所だった気がする。

ということで明日から9月だけれど、またしばらくはだしを楽しむ予定。

ごはんにかけても美味しいし、冷奴のお供にも。

納豆と混ぜても美味しい。

私の好きな食べ方は、熱々の炊きたてご飯+だし+生卵。

子どもの頃から卵かけご飯がすごく好きで、このだしとのコラボレーションはさらに卵かけご飯をパワーアップさせることがわかった。

余談だけれど、既製品のだしは新潟に帰ってきてからも時々見かけて買ってはいたけれど、手作りのだしとは味が全く違っている。

私は添加物とか基本気にならないタイプだけれど、だしだけは添加物の味が気になる。

食べると、明らかに食材以外の味がしてあまり美味しくない。

だしはやっぱり手作りなんだ!と納得。

クックパッドにどハマりしてた時期に山形県の方々の「だし」談義を真剣に読んでいたことがあった。

県民の方いわく、だしは基本家庭料理で各家庭によって入れる調味料も野菜も違うとのこと。

味噌汁や卵焼きみたいな立ち位置なんだと思う。

「だし」は夏の家庭料理だから、夏の終わりに夏の話ができて満足。

ちなみに冒頭のスープカレー。

夏にカレーっていいなぁというのは思った。

何で「夏にカレー⁉︎」といつも思っていたけれど、私も年を重ねて舌や食の感性に深みが増したのか(?)、「夏にカレー」の良さがわかるようになった。

ドライカレーを作ったら良かった。

ドライカレーこそ「夏のカレー」という感じがする。

ついでに余談だけれど。

私は1人暮らしの頃、あいがけカレーにハマった時があって、わざと2種類のカレーを作って食べてた。

普通の日本的なカレーとタイカレーを作って、器には真ん中にご飯を、両脇にそれぞれのカレーを盛った。

それぞれの味を楽しみつつ、途中からは混ぜて食べたりもした。

その時に欠かせなかったのが玉ねぎの甘酢漬け。

参考にしたレシピにはオレンジ酢なるものを使っていたけれど、そんなのなかった私は、普通の酢で作ってた。

作り方は簡単で、玉ねぎを薄くスライスして、酢と塩と砂糖で漬けるだけ。

私はカレーを作るよりも先にまずはその玉ねぎの甘酢漬けをいつも作ってた。

分量は超適当だから、個人で好きなように味付けして大丈夫。

ご飯は、時々、油と塩を入れて炊いてた。

米2〜3合に対して、オリーブオイル大さじ1〜2、塩は大さじ1程度だったかな?、カレーの時だけはそういう炊き方をすることもあった。

その炊き方のご飯の方がカレーには合ってる。

余ったら、チャーハンとか作ればいい。

話があちこちに飛んだけれど、だしの話もカレーの話も書いてて楽しかった。

一応「夏の終わり」に「夏の食べ物」の話ができたというのもある。

カレーは書く予定にはなかったけれど、だしは書く予定がずっと頭の中にあった。

ようやく書けて、しかも夏のうちに書けて大満足!

明日から秋。

今年の秋の食べ物は何が登場するのか楽しみ♪

2018年8月30日木曜日

Love for you,Love for us!

Love for you,Love for us!
セリーヌディオンが挨拶として言った言葉。
直訳すると恥ずかしいから「あなたに乾杯、私たちに乾杯」と訳したくなる。
もちろん「あなたに愛を!私たちに愛を!」が正しい。


あと5分でバス停に到着するというアナウンスと共に車内の電気が灯された。
通路挟んで隣りの女の人の裸足の足の裏が見えた。
それ見て泣きそうになった。
この人の足の裏が「私生きてますよ」と言ってるみたいで、そのどこの誰かも知らない人の命が突然愛おしくなる。
立った若い男の子の青いTシャツに大きく「OK」と描かれていた。


高速道路から地上に降りるための階段を降り終わる頃、会ったこともないどこかの誰かがもう成人していることに気付いた。
血の味がしたあの日、赤ちゃん用の生活道具を見た。
あれから23年。
あの頃その道具の使い手は、今生きていたら23歳以上になってる。
もう血の味の主も会ったことのないその赤ん坊もすべて時効成立で、自分の中で消化されてることに気付いた。


気付いた直後空を見上げたら、オリオン座が出ていた。
8月のオリオン座。
季節は冬に向かって動いてる。
そしてオリオン座は見るたびに太平洋の海の上で見た飛行機の窓と同じ高さの位置にあったオリオン座を思い出す。
その時のオリオン座を見てばばちゃんに呼びかけた。
ばばちゃん、今私のすぐ近くにいますか、と。


帰りもトンネル工事をしていた。
夜間だけに限定してする工事らしい。
私1人を通すためだけにトンネル前に誘導の人、そしてトンネルの反対側から誘導車を運転する人が配置されていた。
日本全国のたった1つの小さな小さなスポット、そこを通るためだけに色んな人が真夜中に働いていることにとても感動した。
トンネルの中で車の走行距離の下3桁が「888」に変わった。
それを見た瞬間、ドレミの歌、あの「ドはドーナツのド」みたいに、「8(はち)はハッピーのは」と出てきた。
私が目にしたもの、思い出したものは、すべてハッピーだった。
苦い思い出さえもそのハッピーに華を添えてるように感じたほどだった。
やけに命がリアルだった。
心がブレないうちに書いたことと888のハッピーが重なったことを重ねながら、やっぱり8はハッピーのはだと思った。
命あっての瞬間、命に巡り逢えた奇跡なくしては、言葉としてさえも語られることのないものだった。
めぐり逢いは「巡り愛」だと脳内変換をした。
すべてが尊かった。
そしてすべてが愛おしいと感じた。


今回は趣向を変えて、朝池袋ではなく東京駅で降りた。
皇居の周りを少しだけ歩いたけれど、疲れてすぐに引き返した。
東京駅に戻った。
あの東京駅の象徴のレンガ調の建物の前にいた。
改修工事がなされたから雰囲気が変わっていてそことは言い切れなかったけれど、多分ここだという出口の前に立った。
16歳の時に、その時の色んなことが嫌になって私は夜の新幹線に飛び乗った。
それが血の味に繋がって、そこから逃げた。
始業式の前日で、真冬の寒い中、私はホームレスの人たちと距離を置きながらあのレンガ調の建物の外、屋根の真下で一晩過ごした。
寒いことよりも怖さや心許なさが強かったと思う。


東京駅前の大丸デパートの催事場で銀河鉄道999の作者の方の画展が開かれていた。
私はそこに行って、銀河鉄道999の絵とレンガ調の東京駅の建物がコラボした絵のクリアケースを見つけた。
それを見た時に、新しい記憶を作れると思った。
夜を背景にしたその東京駅の絵は、見てるだけで癒された。
漫画は名前だけで中身はよく知らないけれど、東京駅での真冬の空の下、一晩を過ごしたあの日とは違う風景を絵からもらえそうだった。
それを買って、急いでホロスコープの講座がある銀座へ向かった。


「付き合わせたのに、結局サイコロなくて運がなかったですね。ごめんなさいね」
そうYさんは申し訳なさそうに私に言った。
ホロスコープの宿題に使う特殊なサイコロが東急ハンズに売ってると前情報を得て、講座の後、Yさんと私は有楽町の東急ハンズに行った。
ところが丁度店舗全体でセールをしていて、店の人いわく今日までサイコロを奥の倉庫の方にしまっていてないとのこと。
そのまま私は有楽町線の有楽町駅までYさんに送ってもらった。
Yさんはクラスメートであと2年後に還暦を迎えるとのこと。
普段は大口顧客の資産運用に携わる仕事をされてて億単位のお金を動かしてるらしい。
今回講座の後、2回目以降毎回クラスメートの誰かしらから帰りの駅までエスコートしてもらっている。
そしてその時にその人だけの人生模様の話を聞く。
私はサイコロがなかったことはどうでも良かった。
それよりも色々あてが外れてYさんと思いの外長く時間を過ごせるようになったことの方に意味を感じていたし、楽しい時間だった。
講座を受けなければ絶対に知り合えなかった人たちばかりで、私は毎回少しずつその人たちから時間をもらってる。
その不思議さと人生交差点のようなすごい瞬間に居合わせて、毎回何か特別な風が自分の中に吹く。


池袋の駅前の交番の前でヒーラーのOさんと待ち合わせをした。
「Oさん、遅れてすみません」
「いえいえ」
「じゃあ約束の通り、今日はジョナサンでいいですか?」
「はい」
「あっちの店舗は私も行ったことないのでどんなか知らないですけれど、まぁ前回と同じ感じだと思うので…」
「俺ジョナサンのその店行ったことないし、前回も行ってないです」
「?」
Oさんは何を言ってるんだろうと思った。
前回私たちはジョナサンに行ったんじゃないのかと思った。
そして前回も髪型が変わったとは思ったけれど、今回も髪型がまた変わってメガネも外してイメチェンしたんだと思った。
そうしたらなんとOさんではない全くの別人に私は話しかけていて、当のOさんはそこから人1人分の距離を置いたすぐ真横に立っていた。
その人とOさんは背格好も体格も年齢もとても似ていた。
よく見たら別人とわかるけれども、しかも勘違いされた男の人も超笑顔で気さくに対応するもんだから、私も気付かずにいた。
その人にまずは勘違いしたことを平謝りし、その後Oさんにも平謝りした。
顔を忘れたわけではなくて、本気の勘違いをしてたことを説明した。
Oさんは全く気にもせずにいてくれた。


Oさんは春先ぐらいに第一子が生まれて、最近退院できたとのこと。
Oさんに名前やその由来を聞きつつ、平均してその疾患を持って生まれた子の場合、寿命が1年以下と短命であることも教えてもらった。
どのぐらいの生命力を発揮するかは知らないし全ては未知数だけれど、特殊な生き方になることは明白だった。
そんな中時間を分けてもらうのが非常に申し訳なく大丈夫なのかと聞いた時、それはそれだしこの時間はこの時間で僕には必要だと言ってもらえた時に胸をなでおろした。
Oさんはヒーラーや父親である前に1人の人間なんだとわかった。
役割は確かにある。
だけれど、役割を付ける前に普通の1人の人間で、そして色んなことを体験する。


Oさん自身の話を聞きながら、私は自分が癒されていくのがわかった。
私の目の前で何か自分の話をする男性たちはみんな何かを抱えている。
何もその人たちだけが特別だとは思わない。
みんな多かれ少なかれ、自分が言えないと感じてしまうことは持っている。
その枠からはみ出したとそれぞれの人たちが感じる、限りなく黒の闇の部分をポツリポツリと話してくれる。
冷静になると、私も私で何を聞いてるんだろうと思うけれど、ふといくつかの瞬間に感じた時の感覚を思い出した。
その時、私はすごいことに気付いた。
男の人たちから女性とのパートナーシップやそれ関連の話を聞くと、私の場合、癒しが起きる。
話はどこをどう見ても明るさは皆無だし黒歴史的なにおいが立ち込めているけれど、それでも私は確実に自分の方が癒される。
自分が「男」という人たちにいつの間にか抱いた怖さが薄らぐ。
老若男女問わず今は誰とでも大概は話せるけれど、基本的に私は男の人たちを怖いと思っているし、見えない壁を知らぬ間に作って自分の防御をしていることも知っている。
そうなる理由はもちろん色々あるし、そういう自分を認識できたのもここ数年の話。
男の人たちが自分のダークな部分を語る時、私は目の前の人が「男」から「1人の人間」に変わる瞬間を自分の中で感じる。
内容ははっきり言って何でも良くて、私にとって大事なのはその相手のダーク開示により自分の中の負の塊が溶かされていくことにある。


高速バス誘導の係の女性の顔を見た。
夜の遅い時間にとても生き生きと仕事をされてる様が印象的だった。
とりあえず、書かなきゃいけないと思った。
心がブレないうちに、自分への戒めを込めて書いてしまおうと決めた。


バスを降りる直前に、人と人とが出逢うその圧倒的な凄さを感じて涙が出た。
40歳近い私よりも死期が近いだろう小さな赤ちゃんもいれば、還暦を間近に控えた女性もいる。
馬が使う道具を作る人もいれば、大学教授の先生たちの論文を編集する人もいる。
僕はこのキッチンの道具を売ることが専門でサイコロの場所は知らないんです、と言った東急ハンズのおじさんもいた。
何で人と人とは出逢うんだろうと思う。
究極、人がいない方が孤独も感じなくて済むし、傷も互いに作り合わなくてよくなる。
血の味とか、癒されない過去の何かとか、そんなのも全部なくなる。
それでも人と人とは出逢うし、どういう因果なのか、人生のあるタイミングに来ればその時に必要な人たちと引き合わせてもらえる。
私の通路挟んで隣りの女性のことは知らない。
知ったのは彼女の足の裏とそこから感じる命だけだった。
そしてその足裏が見えた時の静かな生のアピールはすごかった。
生きている限り無傷ではいられないし、出逢いと同じように別れも訪れる。
Love for you,Love for us !
愛を感じたくて人と人とが出逢ってるとしか思えなかった。
だって、傷を唯一超えられるのは、孤独や拒否ではなく、愛だけだと思うから。
そして愛を出し合ったり感じ合ったりするのは、この命がある今だけできること、今しか体現できないことだと思うから。
人は成長したり豊かになることが目的で生きているのではないと思う。
究極は愛を感じたり愛を誰かにあげたくて生きてる姿が本当の人生のミッションなのかもしれない。
でもそれって本当に怖さや傷と表裏一体で、それらを引き受けなくて済むように先に自分から退路を作る。
本当は愛したいし愛されたいはずなのに、傷や怖さが邪魔をする。
時にそこをグッと超える瞬間がある。
超えてまで出逢う人たちがいる。
痛みや傷が生じる未来が見え隠れしていたとしても、出逢ってしまう人たちがいる。
♪Love Love 愛を叫ぼう 愛を呼ぼう♪
ドリカムの歌詞が今すごい力のある言葉だと気付く。
愛を叫ぶ…愛するで、愛を呼ぶ…愛される、ってことなのかなと思った。
セリーヌディオンが何事もないように、普通に口にした言葉。
Love for you,Love for us!
私はLove for you,Love for us!を体現できる自分になりたいと思った。
隣りの見知らぬ女性の足の裏を見てたら涙が出るぐらいに、会ったことのない赤ちゃんの今を想像して「時効成立」と思えたみたいに、色々怖くてたまらない自分の心の中は相変わらずでも、それでも生きるのはそれを体現したくて体感したくてたまらない自分が同時にいるからだと思う。

無題ー言葉にできない

・その人無口な人ですね

・霊性が高い人です

・霊性が高いからと言って、そうした見えない世界に興味があるかと言えば、多分興味がないタイプだと思います

・その人がいるとその場の空気が浄化されます

・その人自身がまとってる空気が軽いです、だからそういう人がその場にいると場が軽くなって良い風になります

・その人がいた場所はそんなふうじゃなかったですか?

・全体的に女性が苦手なタイプの人だと思います

・繊細な人です

・細かいことによく気がつきます、人が気付かないようなところまで気付くタイプだと思います

・色々感じてしまうタイプだから、自分で相手に何かを感じると自分から相手と距離を置くタイプかと思います

・武士俣さんがぐいぐいいくとそこに怖れを感じて遮断するような感じじゃないですか?


度肝を抜かれた。

ホロスコープの講座の後、ヒーラーのOさんと会って勉強会を開いた。

Oさんに言われたことが上のことだった。

「僕には顔が見えるわけでもないし、その人の性格も知りません」と前置きされた上で言われたことが上のことだった。

私は上の特徴を持った人の話は一度もOさんにしたことがない。

あまりにも個人的な話だから、勉強会には全く関係ないし、それについて話を聞いて欲しいとか癒して欲しいとかそんなこと一切思ったことがないから、それを今日話の中でOさんから突然切り出された時には度肝を抜かれた。

「武士俣さん言ってもいいですか?」と。

「実は前回7月に会った時から気付いていました」とまで言われた。

Oさんが気付いていても何もなかったかのように素知らぬ顔をしてくれてたことに最大の感謝と敬意を表した。

というか、何1つ話もせず、その気配すら1ミリも出さなかったのに、何でOさんにはわかるのか、どう見えてるのか不思議で仕方なかったけれど、もう開いた口が塞がらないとはこのことだった。

私は最後に聞いた。

私が変な念を相手に飛ばしたりしてないか、と。

Oさんに言われた。

変な念ではないけれど、相手のことを思い浮かべれば多かれ少なかれそこに質量を帯びます。

良い悪いはないですが、どうしても思いが乗ればその分その思いに質量を帯びるのは避けられません。

僕が奥さんや子どものことを考えたらそこに何かしら質量を帯びるのと一緒です。

と説明された。

これまで好き放題に書いていたけれど、その部分だけは控えようと思った。

書いてしまったことは今さらなかったことにはできないし、とりあえずそのままにしておこうと思ってる。

だけど、私が相手に負担となるものを与えるのは、私としてもやりたいことじゃない。

Oさんみたいに見えないエネルギーに精通してる人が、何の情報もなしにそれだけのことを言ってくるわけだから、相手に変な風に影響が出てもおかしくないし、もしそうならそれはいけないと思った。

ごめんなさい、なんて言葉を言うのも変かなと思ったり、じゃあありがとうと言うのもこれまた変かな…と思った。

もちろん、その人にはものすごく感謝している。

生きる喜びや生きる力を私から引き出してもらえたから。

だけどそれはそれだし、そこでその人に変なものを送っても良いとは思わない。

悪くはなくても、良いというのとも違うんだろうなぁと。

今日も目の前で目に見えないエネルギーがどんな風に影響するかの実演を見せてもらって(←見るだけ。習ったりはしてないしできない)、見えないからと言ってないわけじゃないことを立証してもらった。

自分でもどう整理していいのかよくわからないけれど、少なくとも本当に変な負担にだけはたとえ見えなくても生み出したくはないから、それだけは気をつけようと思う。

とりあえず一番手っ取り早くできるのは、綴らないこと、書かないことだから、それは守ろうと思う。

私の行き過ぎた部分は今さらどうにもできないけれど、今この瞬間からは気をつけられるから、それだけは気をつける。

私は確かにものすごい量の言葉を書く。

量としては異常過ぎるぐらいかもしれない。

ただ、すべての書く行為の中で、その人にまつわることは、他の書き物とは全く違っていた。

大切な命の時間だった。

自分の中で、他の書き物にはない何か特別な感じを常に持っていた。

そうした特別な時間を特別なものを私は得ていた、そして感じていた。

今のこの文章も同じ。

ごちゃごちゃ考え出すと、また余計なことを書きそうになるからこのままアップしよう。

ありがとうの気持ちは多分これからも消えない。

そこだけぶれないように、努めようと思う。

同じ時代に生きて逢えた喜びをもらったわけだから、それに対してありがとうの気持ちはこれから先も変わらない。

2018年8月29日水曜日

野うさぎ→リュック→月→「?」の答え

5月から急遽行くことに決めたホロスコープ講座。

毎月の交通費を浮かすために高速バスで行っている。
(4回分の往復交通費=新幹線の往復交通費1回分に相当!)

初回の5月、行く道中で野うさぎを見た。

何百回と通って初めて見た野うさぎに心躍った。

幸先良い感じがした。

また同時に、「これって何かのメッセージかな?」と思ったのが最初だった。

その後も、

5月…野うさぎ
6月…リュックサック
7月…真っ赤な月

と続いた。

野うさぎ→リュックのところは、「私に必要な情報をリュック=自分の心に詰め込む」と解釈した、と何日か前のブログに書いた。

次の真っ赤な月は、「一期一会」と言葉は出たけれど、全体を見ないと意味が通じない。

だから8月の何かを見たら、月の意味もわかるんじゃないかと予想した。

予想的中♪

5月…野うさぎ
6月…リュックサック
7月…真っ赤な月
ときた後、
8月…トンネル工事
だった。

来たーーーーー‼︎‼︎‼︎と思った。

今回は、ちょっと発想を変える必要がある。

まずは「トンネル工事」を「トンネル」と「工事」に分ける。

そして「工事」を「こうじ」にひらがなに変える。

さらに「こうじ」に幾つかの漢字を当てはめる。

いくつかの候補の「こうじ」の中の1つに「公示」が入ってる。

字のごとく「公に示す」。

そして「こうじ」を動詞活用して「高じる」。

高まる・深まる・強まるの意。

もう1つ「講じる」。

色んな策を練って対応する。

最初の「トンネル工事」について。

工事内容はいまいちわからなかったけれど、1つだけ確実なのは、今ある状態をより良くしているということ。

より良くするための改修なり修繕だというのは確か。

5月からの一連のメッセージを繋げるとこんな感じ。

まずは自分の感性で良いものを集める(野うさぎ…5月)。

そして集めたものは、一旦リュックの中に入れる(リュック…6月)。

その中から、これだ!というものをピックアップする(月…7月)。

月というのは、360度の夜空の中でひときわ目立っている。

真っ暗な中にピカッと光っている。

しかもその日の月は真っ赤でまるでスーパームーンみたいだった。

それって出逢えること自体が奇跡みたいなもので、そしてその時に出逢う月にはその時限り、二度と会えない。

そこから一期一会というのと、唯一無二というイメージが浮かんだ。

だからリュックの中からひときわ目立つものを取り出す。

月にはもう1つ、無意識という意味もある。

リュックの内訳は、自分の目には見えない気持ちや大切な何かも含まれているかもしれない。

そして、リュックから取り出されたものは、トンネルの中で整えられ、通過して、外に出てくる(トンネル工事…8月)。

その通過する過程では、その質がより一層高められ、よりキレイなものになっていく。

そして公に姿を現したものは、外の世界で色んなものと縁を結ぶ。

それは一期一会の人かもしれないし、一期一会の場所かもしれないし、一期一会の物かもしれないし、一期一会の素敵な空気かもしれない。

どれもこれも唯一無二の存在で、そこはキラキラしている。

そう、月から出たものだから、キラキラしている。

「公示」には別の意味もある。

自分自身を公に示す。

その心の準備が整いつつある。

そしてその公示の部分の自分が「高じる」や「講じる」に繋がる。

自分が深まったり、その深まった自分を外に出すにあたって、色々やり方を考えたり整えたりする。

ちなみに「こうじ」には他にも幾つか別の漢字が当てはまる。

ここでは全てを紹介しないけれど、それも全部まとめて大きな意味がある。

そしてその他のこうじ漢字たちにも「一期一会」は共通のテーマとして流れている。

それは5月の野うさぎから始まる。

自分の感性でピンときたもの、良いと感じたものたちだから、総じて何を選んだとしても良いものに決まっている。

その良いものたちの象徴が「こうじ」たちで、そこからまた物語が生まれる。

野うさぎもリュックも真っ赤な月もトンネル工事も、すべて一期一会だった。

そしてその一期一会で出逢ったものたちが互いに手を取り合って、また新しいストーリーを作っている。

2018年8月28日火曜日

体と心が記憶するもの〜Wish〜

どうして今まで気付かなかったんだろうと思う。

物事を見る時、常に主観的になってしまうのは仕方ないにしても、今回ももれなくそうで全く気付かなかった。

今さらわかってもどうすることもできない。

気付いたからと言っても、それは単なる私側の視点が少しだけ広がったに過ぎない。

だから大きな意味はないかもしれない。

だけど、知らないより気付いて良かったと思う。

11ヶ月ほどフィルムを戻す。

場所は、私側は階下に降りるためのドアを開けてすぐのところ。

相手側は階段を登りきったところ。

そこが最後の舞台だった。

あまりにも色んな気持ちがありすぎてずっと忘れていた。

私はその時の懸念事項の1つに、全く目を合わせてもらえないんじゃないかというのもあった。

自分の平常心を保つことに全力だったからそんなことさえ忘れきってた。

一度も目を合わせてもらえずに独り言のような挨拶をするのかと思ってた。

それも本当は怖かった。

相手の出方は読めないから、とりあえず挨拶をしたら自分の中の後悔は生まれない気がして、それでありったけの勇気をかき集めて挨拶をした。

声も冷たいわ表情も厳しいわでいたたまれない感じではあったけれど、一瞬だけその人は私の方を見た。

社交辞令的なものだったかもしれないけれど、それでも最後まで目を合わせてもらえないかと思ったらそうでもなかった。

目は怖くなかったけれど、普段の穏やかな感じはなかった。

その目の表情にばかり気を取られていたから忘れていたけれど、確かにその人は私に目を向けた。

良心の呵責で見ただけかもしれないけれど、ほんのわずかな時間、目が合った。



記憶ってすごいなぁと思う。

とても強い感情は記憶にもきちんと残る。

今書きながら、私は当時と同じ感じを体で感じてる。

胸やお腹の中に広がる重たい感じや泣き出しそうな感じはあの時と同じになってる。

もうあの時は今目の前にはないし、同じ瞬間は二度と人生で巡ってこない。

それでも体や心は覚えてる。



季節が一回りしようとしている。

見果てぬ夢はその形態を一度も変えることなく、全ての季節を一巡した。

この1年、悲しみと共に走り抜けた。

生きているのに叶わない…それがもしかしたら私にとって一番苦手な感情かもしれない。

生きてる限り何でも遅くはないと思うけれど、生きていても叶わないことはある。

4度目の東京を明日に控えて、より一層心の奥深いところにある願いと絶望の両方を見る。

ここまで色んなことが起こってさすがに自分の気のせいだとは思わなくなった。

本当に縁があって出逢えたと思っている。

私側の一方的なものでも、確かに出逢えた、とは感じる。

そして人生の転機に現れた人、という意味で、本当にそれ以上のものをもたらしてくれた人だとも思っている。

それでも叶わないことは叶わないし、受け入れたくなくても受け入れる他ない現実は常に目の前にある。



2月の大寒波のいつかの日、もう今あるものしか世の中には出回らないと聞いて、その人に贈るオルゴナイトを買いに行った。

本当は再会できたのなら、その後堂々と見に行きたかった。

でももし本当に再会できたとして、その時にはもうオルゴナイトの方がないだろう…と簡単に予想がついて、それで慌てて買いに行った。

私の手を通じて旅立った30近くのオルゴナイトは、今それぞれの人のところでそれぞれの大切なお守りになっている。

一度も出逢ったことのない人たちの分もかなりな数頼まれて、この間も言われた、あんなに全ての人にそれぞれピッタリのものを選ぶなんて、ぶっしーちゃん本当に凄いことだよ、と教えてもらった。
(私は単なる媒体で、選んでいたのはペンジュラム)

その人のものは、完全に私の直感だった。

見た瞬間、その人の顔がパッと出てきて、一応ペンジュラムにも聞いたらその人の分だというから、即決だった。

そうやって選んだのは、自分の分とその人の分しかない。

それ以外は基本みんなペンジュラムにどれがいいかを聞いて選んだ。

他の人たちの分は、たとえ本人が目の前にいても全くわからなかった。

買った時、店にあった説明書きを読んでも、何でそれなのかな…と疑問に思った。

何でそのオルゴナイトだったのかは、もっと後になってから知った。

春先だったような気がする。

自分の今年の誕生日プレゼントで買ったチャクラヒーリングの本に、その答えが書いてあった。

私が選んだものは、まさにその人にピッタリの意味合いのものだった。

ほとんど話したこともないその人なのに、その少ない情報からよくぞピンポイントで当てたな!とビックリするぐらい、その人にピッタリのものだった。

本人の元へ旅立つ可能性が限りなくゼロに近いのに私はそれを家に持ち帰ってきた。

今はオルゴナイトご本人(人じゃないけれど)の希望で、いつも私の目の届くところにある。

私のオルゴナイトのすぐ隣りに一緒に置いてる(場所や置かれ方も希望があるから、その通りにしている)。

ただ、私のオルゴナイトと違って、まだ発動していない。

持ち主の元へ行ってからでないと発動しないというオルゴナイト。

今もまだ発動前の状態らしい、ペンジュラムいわく。

この間お盆の時も改めて聞いてみた。

このまま本人の元へ行かないのなら、それをとっても気に入ってる2歳の姪っ子にあげてもいいなぁと思った。

それは何度となく思っていて、今回も姪っ子が勝手に手の上にのせて「メイこれしゅき♡」と言ってたところにペンジュラムをかざして聞いた。

「この子、メイのところに行きますか?」と。

今回もスーパーNOだった。

10月以降どこかのタイミングでオルゴナイトの作者さんにまたお会いする予定になっている。

私はその時に聞いてこようと思っている。

今行き先は確定してるけれども、その人の元へ行くか行かないかわからないオルゴナイトがあること。

本当に行かない場合、そのオルゴナイトをどうしたらいいのかを聞こうと思ってる。

このまま持っていることもできないわけではないけれど、オルゴナイト側が私が持ち主じゃないと知ってるから、私のために発動はしない。

物は喋らないけれど、私はこうして物と対話するようになってから、物の方が人間よりもうんと深く道理を知っていて筋をきちんと通していることを知った。

だから本人の元へ行かないなら行かないで、最善の策を採りたいと思う。

私の勝手な暴走で持ってきてしまったものだから、そこは最後まで責任を持ちたい。

ちなみにオルゴナイト本体は、持ち主の元へ行く気満々になっている。

毎回「どうやって行くの?」と思うけれど、オルゴナイトは一貫としてその人の元へ行く気でいる。

オルゴナイトを用意したことは全く後悔していない。

でも、絶望的な現実は現実で、目を背けたくても背けるなんてできないぐらいにアピールしてくる。

もちろん願ってる。

それを無事に渡せるだけの状況が訪れますように、と。

絶望しつつもあきらめてはいない。

意図を放つ。

空に向かって、届きますように、と放つ。



冒頭の目の話。

今になって思ったことはこうだった。

本当に嫌だったのなら、目なんて見なかったと思う。

どういう意味だったかなんて本人じゃないから知らないけれど、その人はものすごくわかりやすい形で私を避けようとした。

私が目の前で用事を伝えてるにも関わらず、絶対に目を合わせないことを徹底していた。

なんなら声さえも耳から遮断してるんじゃないかというぐらいだった。

そんな風だったから、その人が最後の時私に目を向けたことに少なからず驚いた。

避けることも目を合わさないこともできただろうにそうはしなかった。

行き場のない想いややり切れなさは1年間とくと味わった。

叶わない現実を前に絶望感も半端なかった。

それでも私は望みを断ち切れず、ミクロみたいな可能性を真剣に祈ってる。

今窓の外ではバケツをひっくり返したかのような雨が降っている。

雨も雪も散る桜も一瞬で消える花火も、幾つもの消えゆくものたちを見てきた。

どれだけそうしたものを見て、同じ日が二度とない毎日を過ごして、それでも残った。

その人の存在はずっとずっと残った。

もう同じ空間にはいないのに、その人は毎日毎日変わらずに私の中にいる。

2018年8月27日月曜日

野うさぎ→リュック→月→?

連想ゲーム:野うさぎ→リュック→月食前の真っ赤な月。

5月の終わり、まだ肌寒い時間に出発した夜中の運転。

耳をピンと立てた可愛らしい野うさぎを道中で見た。

キャンセル待ちが取れて行けることになったホロスコープの初級講座だった。

真夜中の高速バスに乗るためにバス停まで向かう途中で見た。

何百回と通った道だけれど、野うさぎを見たのはその時が初めてだった。

うさぎの耳というのは、自分にとって良い情報とそうではない情報を聞き分ける機能があるとのこと。

暑くなった6月の夜中には、今度バス停で見覚えのあるリュックを見た。

ある人が使っている仕事用のリュックと同じメーカーの同じ形をしたリュックだった。

この自宅からバス停までの道のりで見かけるものたち、野うさぎ→リュックときて、面白い連なりを発見した。

私は「私に必要な情報をリュック=自分の心に詰め込む」と解釈した。

7月は、月だった。

月食の2日前?だったかなと思う。

日付は変わっているから、本来月は天空高くあるはずなのに、なぜかとても低い位置で真っ赤になっていた。

スーパームーンの時みたいな、真っ赤な月で、私はその月をひたすら見ながら運転した。

しかもこれはその後毎日月を眺めたからわかったことだったけれど、そんなにも赤くなっていたのは、なぜかその満月ではないその日だけだった。

満月の日の月が色も形もあまりに普通すぎて逆に驚いた。

「野うさぎ→リュック→月」ときて、実はこの月の読み解きはまだできていない。

今書いていて「一期一会」と出たけれど、まだ半信半疑。

これは明日というか水曜に変わったらわかる気がする。

今回、8月の夜中に見るものが、前回の月の意味を教えてくれる気がしている。



リュックの時以降今に至るまで、私はほぼほぼ人に会わなかった。

会ったのは、ホロスコープの講座メンバーやヒーリングの勉強のためのOさん、ホロスコープ鑑定のS先生、お盆で会った妹と姪っ子、そして親族になる。

その他に会ったのは友達とその娘。

他は本気で1人の世界にどっぷりと浸かってた。

この友達の娘とは、けっこう真面目に人生の話をした。

今年高校受験を控えている。

中1の秋か冬の始まりぐらいから不定期に英語を見ている。

見ているのは英語だけど、多分英語は手段でしかないと思ってる。

この間会った時に話したのは、どうやって高校を選ぶかだった。

第一子だから、上に見本がいない。

私が同じ年だった頃に比べて断然情報は多い。

それでもその年である程度の進路を定めるには情報が少ないと思う。

情報というよりも、進路を考える時の考え方の見本があまりないという感じ。

そこは25年前も今もさほど変わっていなくて、自分の学力に対してどこに行けるのか、みたいなのが今も主流になっている。

そこで私はどうしたかと言うと(本人は優秀でかなり選べる)、2つのタイプの違う学校を出して、それぞれ行った時の2年後、3年後に何をしてるのかというイメージを本人に出してもらった。

1つは安定に繋がる進路。

だけど、そこに興味がないのはわかってた。

だけどそんなの私が口を挟むことじゃないから黙っていつも聞いてた。

今回は本人が自分でイメージして気付いた!

「それしたくない」とはっきりと言った。

とりあえずもう1つの方であれば、その「したくない」道も含めてどういう道もまだ選べるから、それが何が何でもしたい!ということでなければ、選択肢がある方がいいかもね、とは伝えた。

そしてもう1つ、超絶お節介なのは知っていたし、お父さんやお母さん、塾の先生、学校の先生は誰もそんなこと言わないかもしれないけれど…と前置きした上で1つだけ伝えた。

今時代が大きく変わりつつあって、さらにもっと変化することがその子たちが大人になった時には予想できることも伝えた上で、これから何かを決める時に「私が」大事にしたら良いと思うこととして「自分の『好き』を見つけるといいよ」と伝えた。

大企業も倒産する時代、AIが人間に代わって働く時代、お金の価値観も変わる、そんな風にめまぐるしく色んなことが変わるのは、中学生でもわかる具体的な例を出したら、本人もそれはすごく納得していた。

そうした時に最後確実に残れるのは、自分がどうしたいかということ、それは好きなものなら本当にいざという時も踏ん張れると思う、と伝えた。

本人も思うことがあったのか、「好きなこと…」と呟いてた。

そして続けた。

今はわからなくてもいいこと、まだまだいつの時も変更できること、そして少なくとも「好きなことって何だろう?」と考え始めるだけでも大きな一歩でそれはこれから何年もかけて見つけていったらいいことを伝えた。

私はものすごいお節介なことも、友達夫婦の考え方も知っていたけれど、単純にその子が今ある情報だけで何かを決めていくのは「危ない」と感じたから、余計なことを口出しした。

15歳の子が何かを自分で考えて選ぶ時に、もうその基準では絶対に通用しない時代に入っていて、そして当の本人がその基準で心からの納得をしていない。

何を選ぶかはもちろん本人だけれど、その時に考え方の選択肢はある程度あった方がいいと思う。

塾で色んな受験生たちを見ていてもいつも感じてた。

進路の選択肢はどうしても学力的なものも関係するからそこは無限の選択肢とはいかなくても、自分の人生の選び方や向き合い方は1つじゃないことを知っていた方が絶対にいい。

自分の生き方を前に偉そうなことは一切言えないけれど、これは少なくとも私がもっと若い時に知っていたら良かったなぁとは思っていることだから、押しつけにならない程度には伝えたいと思ってる。



これを書いていた途中、1通のメールが来た。

メールの中で1つ質問をされた。

この人も不安な時間を過ごしてきたんだろう…というのはわかった。

長い歴史の中で初めてされた質問だった。

私は私が知る限りの答えを書こうと決めた。

それでその人が癒されたり元気になるのなら、ありったけの言葉を綴りたいと思った。

大人になればなるほど、自分の生きてる意味がわからなくなった。

そんなすごく大きな意味はいらない。

だけど、一瞬でも自分の存在価値がわかるとホッとする。

しかもそれを自分以外の誰かから与えられるとより一層気持ち的に救われる。

私はまさかその質問を自分が受けるとは思わなかった。

そしてその人のことだから、そんなこと誰にでも聞かないことも何となく想像がつく。

その人じゃなくても、9割以上の大人たちは聞けない。

怖くて聞けない。

自分を丸裸にして「自分ってあなたから見てどう?」と聞くようなものだから。

だから私はその役割を与えてもらえるだけでも、ものすっごく光栄だった。

その人がどれだけの勇気を振り絞って聞いているかがわかるから、余計とすごい大役をもらえたと思っている。

私は私でその役割を与えてもらえて嬉しい。

その役を通じて元気をもらったのは私の方だった。

だから、もらった分、それ以上にお返しをしたいと思う。



それとは別に、さくらももこが亡くなったよというグループラインが入ってきた。

携帯ニュースで確認したら53歳だった。

53歳…今の私からしたら約13年後になる。

もしあと13年の命なら、私は何を選ぶんだろう。

今日さっき与えてもらえたみたいな役割をやりたい。

自分以外の誰かが「生きてていいんだ」とわかる、それを一瞬でも感じられる、その何かを伝える役割っていいなと思う。

今回そんなすごい役割が回ってきてわかった。

その役割を与えてもらう方が元気が出るということ。

連想ゲーム:野うさぎ→リュック→月→?(29日になってすぐに見る予定のもの)。

今回の役割とさくらももこさんの死によって見えてきた残りの時間、そして29日に見るものがヒントになる気がする。

2018年8月26日日曜日

一日寝太郎な日

1日中とにかく寝てばかりいる日というのがある。

昨日・今日がまさにそうで、ごはんを作って食べる時間、シャワーを浴びる時間、このブログを書く時間、本やブログを読む時間、トータルすると多分3〜4時間以外はとにかくずっと眠っていた。

本やブログを読んでる途中で寝落ちして、気付くと1時間近く眠ってる。

起きてまた再開してもまたいつの間にか眠りこけてる。

ずっとその繰り返しだった。

少し前(数ヶ月前)までの私は、こういう日の自分がすごく嫌だった。

何もしていないみたいで、1日時間を損したみたいな気持ちになっていた。

変わったのはこの春から。

私が「癒しのレシピ」と呼んでいる、他の人に向けたメッセージのようなもの、それを作った後、もしくはそれについて何かに気付くと、一時的な体調不良か極度の眠気に襲われる。

どちらも悪いものではなくて、自分の中の要らないエネルギーを落としてるような感じ。

昨日はそういうものではなかったけれど、今少しずつ自分の中で点だったものたちが「これとこれが繋がるんだ!」みたいな感じで繋がりだしてるから、それで睡眠が必要なのかなと勝手に思っている。

寝ている時というのは、起きてる時以上に膨大な量の情報を消化・整理しているとのこと。

だから、新しい情報を自分の中に入れるに際し、今は寝ることが必要で、体が勝手にそうなるのかなと思っている。

そうした時は、昼間活動ほぼゼロで眠り続けていても、夜は夜でまた眠くなるしよく寝れる。

昨日なんかは夜の8時前には寝支度も整っていて、その後早々と寝落ちした。



全てはこれで良かったのかもしれない…、そんな風に思い始めてる。

過去の色んなことを書いて吐き出した時、まだまだ心が強く反応してしまうものもあった。

一番感謝したくない人に手紙を書く(書くだけで出さない)というやり方を、中年の危機の対応策として吉元由美さんが本の中で紹介していた。

複数名出てきたけれど、とりあえず確実に書ける1人に向けて、昔の余ったルーズリーフを出してきて書いた。

複数名は、感謝してることもたくさんあるから、逆に書けなかった。

確実に感謝する部分よりもしたくない部分が大幅に上回る人が1人しかいなくて、それで消去法でその人になった。

書いてビックリした。

もう全ては終わったことでも、私の中では出来事は完了、心は未完了になっていた。

本人にぶつけられなかった毒をとにかく書いて書いて書きまくった。

書きながら自分はずっと泣いてた。

本当は発狂しそうなぐらいの気持ちになっていたのに、数々の通過点で私は沈黙を決めた。

沈黙を選んだ理由は、その時々の私はそれが自分を守る方法だと思ったから。

言いたいことも感じていたこともたくさんあった。

だけど、言うと全く想像もしていなかった方向から刃のようなものが返ってくるから、それで私は言うことを止めた。

ある時までは言っていた。

だけど言っても伝わらないだけじゃなく、確実に自分がもっと嫌な思いをする言葉が来るとわかって、私は沈黙を選んだ。

そうして私は最後まで言わなかった。

別れる時、私が言った理由は、最後まで相手を思いやったと思う。

上から目線みたいで言い方が卑しいけれど、本当にそう思う。

ルーズリーフに書いたようなことは言わなかった。

自分が当時飲み込んだ言葉のすべてを今吐き出した。

そこで初めて未完了の自分の声を拾った。

どういうのが正しい形なのかは知らないけれど、私は感謝しなかった。

代わりに、そこから自分がどんなものを大切に余生を過ごしたいのか、それを短い文章で箇条書きにした。

それに気付いていくためのプロセスだと考えたら、その人も必要な人になる。

だからこれで良かったのかもしれない…という気持ちは、出てきた。

起こったことは「良かった」とは思わない。

だけど起きてしまったことはもう今さら仕方ないのと、起きたことでわかったことがあったのは確かだから、そこを大事にしたらいい気がした。

それに気付かせてくれた人…としてなら、そのうち感謝の気持ちも出てくるかもしれない。

究極の毒出しみたいなことばかりをしていたから、体はリセットするかのごとく休もうとしたのかなと思う。

たしかにあれだけの負のエネルギーを出せば、その出した分だけエネルギーを使う。

あの異常な眠気にも納得できる。



自分のこの異常な眠気とある種の無力感(眠る以外何もしたくなくなる)を人生で繰り返して、自分なりに見つけた法則。

100回以上1000回未満の間の回数は確実に繰り返した中で見えてきたこと。


・眠たい時は、状況が許すならとにかく眠る。

・できる限り何も気にしない。

夜眠れなくなったらどうしようとか、今日やってしまいたかったことが終わらなかったら起きた時に後悔するとか、そういうのはとりあえず重たく捉えない。
そういう気持ちは出てきたら出てきたで仕方ないけれど、とりあえず寝てみる。

・起きた後、自分が何でもいいから動けたことに注目する。


上に書いた3つのことができるようになってから、かなり良くなった。

私の中の変な凝り固まった価値観で自分が苦しくなることがわかったのは30歳過ぎてから。

いきなり変われ!と言っても無理だから、とりあえず小さなことから始めた。

それが上の3つ。

ちなみに私がこんなにも眠り過ぎることに恐れおののく理由の1つに、私は体は丈夫だし体力や持久力もあるけれど、唯一眠りだけは心の影響が出やすくて乱れやすい。

ひどい時は、何時間も眠れないとか、夜中に目覚めると朝までそのまま起きてしまうとか、それが平気で1ヶ月とか続く。

そういう体質だから余計と「眠り」に関してだけはちょっと自分でも気をつけてあげないと…と思ってる。

これだけの症状を呈しても、私は睡眠薬を使うことは考えたことないし使ったことない。

大人になってから、意外にも睡眠薬を使う人が多いことに驚いた。

だから私も一度ぐらい医者にかかってもいいと思ったことはあったけれど、それ以上に薬がないと眠れない体質になる方が怖すぎて行ったことがない。

私がわかったのは、眠り過ぎても死なないから大丈夫ということ。

反対に眠れなくても、体はしんどいけれど、死なないということはわかった。

そして私の場合、異常な眠気の時は、本気の体からのSOSだから、寝た方がいい。

眠り過ぎることに対する罪悪感には色々理由があるけれど、私なりに「結局大丈夫だった!」というところを起きた時にきちんと認識することがその罪悪感を減らしてくれるお助けマンになった。

だから、そういう気持ちが眠る前に出てきたら「大丈夫だから」と自分に言い聞かせたりもする。

思い切って何もかも忘れて眠った方が、心にとってもいいし気持ちよく眠れるとわかってからは余計と気にせずに眠ることを心掛けるようになった。

そして最後、起き上がって動けた時、それも大切にする。

歯磨きとか顔を洗うレベルでいい。

無気力に近い状態で眠ってしまうから、起きた時にできたことを自分の中で「できた!」と認める。

「認める」は「見止める」とどこかで習ってきた。

「認める」というのはなかなか難しい。

自己否定強めな人ほど認めない(←私)。

だから、認めるだとハードル高いから「(その状況を)見て止める」、そこから始めようというものだった。

それは、自分のしたことを切り取って見るだけだから、そんなに難しくない。

具体的には、「(少し前まで)寝ていた自分」から「(今は)顔を洗っている自分」という風に、自分のしていることを客観的に見る。

そこにはどんなに否定したくても既に変わっている自分がいるから否定できない。

だから、起きた後の自分が何をしているかを見るのは、私の場合すごく大事になる。

もう1つ付け加えるなら「そんなことしかできないのか、自分は!」という考えも捨てる。

それするとますますキツくなるから、とにかく淡々とやったことを見ていく。

その見止める行為をすると、また動けるようになった自分がわかるし、自分にやさしくなれる。

そして、「このままだったらどうしよう…」と心配になる私も、何かしらの変化を見て「ずっと同じということはないな」と客観的にわかるようになる。

私的にはとても使える方法だと思ってる。

自分の心を緩めたり、自分に優しくする方法として、私は色んな場面で上のようなことをよくやる。



話があちこちに飛びまくったけれど、書きたいこと書いたからおしまい。

そう言えば。

今朝まどろんでいる中、一言言われた。

言われたと言っても夢の中なのか、私の寝起き前のぼーっとした頭が見せるたわ言なのか、それとも本当に誰かからのメッセージなのか、それはわからない。

言われたのはこうだった。

「武士俣さん、もう少し時間をください」

声は男性だった。

そして私の中で私を「武士俣さん」と呼ぶ男性は1人しかいない。

「武士俣さん」とは当然どこででも呼ばれるけれど、そう呼ぶ人として私が認識しているのは1人ということ。

昨日のブログに書いた予知夢のカンナちゃんみたいに、これが何かの予知夢的なものならいいのになぁなんて思いながら徐々に目が覚めていった。

2018年8月25日土曜日

8年越しの答え合わせ

>>>2018年8月23日
いつぶりか知らないけれど、mixiの日記を夜寝る前に開いた。

塾に勤めてた当時の日記がいくつか続いた。

「ねぇ、この空気感は先生(=私)とだから作れるんだよ」

この言葉を読んで、これを言ってた子が誰だったのか気になった。

布団に入っていたから朝起きたら過去の日記帳を見てみようと思った。



>>>2018年8月24日
朝起きてから当時の日記帳を開いた。

日記帳にはほとんど何もなかった。

でもどこかに書いた記憶がある。

クローゼットの中からノートを保管しているダンボールを出した。

すぐに出てきた。

当時の私にありがとうと言いたい。

当時、毎週毎週、1人振り返り会みたいなのを開いてた。

好きなおやつとコーヒーとを木のテーブルに広げて、1週間印象に残ったことを箇条書きにして書いていた。

これは楽しくて2年ほど続けた。

そこにきちんと残されていた。

言葉の主はカンナちゃん(仮名)だった。

そうかなと思ってはいたけれど、やっぱりそうだった。

カンナちゃんの言葉「空気感」を見た時に、一気に色んな場面があれもこれもと言わんばかりに出てきた。

私が注目したのは、好きな空気感と苦手な空気感だった。

それを思い出すままに思い出してたら、ハッとなった。

「空気感」…これが私のこれから先のテーマの大きな軸だと感知した。

動き出すタイミングの前に来ている。

心の毒出しを7月の終わりから始めて、色々と強烈な時間はある程度過ぎ去ってくれた。

私の当初の予想としては、そこが抜けたら多少は動き出すかな…と思っていた。

ところが動き出さない。

相当焦ったけれど、動きそうにもない自分を何とかするのは、正攻法では無理だと堪忍した。

そこで私は何を始めたかと言うと、思いつくままに出てきたものをノートに書き出した。

「思いつくままに出てきたもの」と書くとプラスなイメージだけど、私が書いたのはひたすら暗くてネガティブなことばかりだった。

でもそれを書いて出さない限りはその奥では自分が本当は何を考えているのかわかりそうにもなかったから、とにかくジャッジせずにひたすら書いた。

そうこうしてるうちに、ある本に行き着いた。

その本は、その書き続ける少し前に、ものすごく遠いTSUTAYAで見つけた。

60キロ以上家から離れている。

そのTSUTAYAには全く用事がなかったけれど、そのTSUTAYAの姿が何度も頭に浮かんでいた。

洗顔ソープを買うために出かけただけの日だったから、ついでに寄るのは問題なかった。

3回目か4回目に訪れたそのTSUTAYA。

自分の気になりそうな場所はチェックしたものの何もなかった。

何でここ来た?なんて思いながら私は車に戻ろうとしてた。

あの通路も意図的に通ろうと思ったのかは覚えていない。

私はその時、女性向けエッセイ本のコーナーの前の通路を歩いていた。

近所のTSUTAYAなら絶対に行かないコーナー。

だけどその時は普段使いしないし店の配置も知らないTSUTAYAだったゆえ、その前を通ることになった。

数冊積まれていた本の著者の人の名前が目に入った。

吉元由美さんと言って、平原綾香の『Jupiter』の作詞家の方。

私が20代の頃、だからJupiterがヒットするうんと前から、その方の本を何冊も読んで生き方や考え方を参考にした方だった。

自分の中の懐かしさも手伝って、山積みされてた一番上の本を手に取ってパラパラっとめくってその場で少し読んだ。

その方の本でなければ絶対に手に取ることもなかった。

ちょっとしか見てないのに、すぐにこれが大事な内容だとわかった。

その方はその本の中で「ミッドライフ・クライシス」、要は中年の危機の乗り越え方をとても丁寧に説明してくれてた。

私はそれを見て、初めて自分が「中年の危機」にあると認識できた。

30歳から始まったこのどこにも落ち着かない感じの迷いまくりの生き方は、危機にしてはやたらと長いから、単に自分の生き方のセンスや生き癖かと思ってた。

だけど読めば読むほど、「もしかしてこれは『中年の危機』というやつなんじゃ⁉︎」と感じた。

吉元由美さんは自分の実体験とその時に得た色んな方法をとても丁寧に説明してくれてた。

その時はパラパラ読みだったけれど、また数日後、今度は近所のTSUTAYAでもう一度同じ本を見た。

今度はもっとじっくりと読んだ。

中年クライシスの抜け方の1つとして「自分史を書く」とあった。

23日から自分史を書き始めた。

1日で20ページぐらい書いた。

書いてるうちにちょっとずつ気になるポイントが浮かび上がった。

それとmixiとは全く関係のない話だったけれど、「mixi」という言葉が出てきて、懐かしくなって開いて、その先にカンナちゃんの言葉が出てきた。

mixiの日記を開いたことで、色んなことが1つ、また1つと繋がった。

そして、「空気感」というキーワードが出てきたわけだけれど、その時にもっとすごいことに気付いた。

カンナちゃん、だから私の夢に出てきたんだとわかった。

多分8年越しの話。

その全てが繋がった時に私は号泣した。



>>>2011年冬休み前
学期末恒例の成績調査を私はしていた。

終業式の日以降、子どもたちには最短で来る日に通知表を持参してもらう。

それを子どもと一緒に見ながら、成績が上がった部分や次の課題なんかを話す。

教務机みたいな机の上で子どもと向かい合ってするけれど、その通知表を私は転記しながら話もするからとにかくせわしない。

その時は目の前に小学生の男の子がいた。

その子とやりとりしている最中、ついたて代わりの大きなキャビネットの向こう側からカンナちゃんが私を呼ぶ声が聞こえた。

私は成績調査もカンナちゃんの声も一気に飛んだ。

驚いたなんてもんじゃなかった。

その瞬間と同じ瞬間を私は知っていた。

デジャブじゃない。

なんとそれと同じシーンを私はそのもっともっと前に夢の中で見ていた。

それはカンナちゃんが入会してくるうんと前だった。

夢の中で私は小学生の男の子の成績調査をしていて、目の前の男の子はたしかにその時すでにいた子ではあった。

候補は2人いるけれど、今となってはどちらの男の子かは忘れた。

でも確実に2人のどちらかではあった。

その時にキャビネットの向こう側から中学生女子の私を呼ぶ声がした。

呼ばれてるのはわかったけれど、その女の子は知らない子だった。

夢にしてはやたらとリアルだったから、私は起きた時、現実の仕事の延長みたいでグッタリとした。

夢の中ですでにガッツリ仕事をしたにも関わらず、起きたのが朝で現実的には何も仕事をしてないのがものすごく残念だった。

疲れきったけれど、気を取り直した。

やたらとリアルだったから記憶にも鮮明に残った。

その夢は記憶の片隅にずっとあった。

けれど、そんなの思い出すメリットもないから思い出したこともなければ、カンナちゃんが塾に入ってきた時もその夢自体忘れていた。

しかも、夢の中に出てきた声だけの女の子がカンナちゃんだなんて、その成績調査の日まで全く気付くこともなかった。

それが本当に現実に、夢と全く同じ瞬間として現れた時は、言葉にならないぐらいの衝撃を受けた。

今のところ、後にも先にもこうした予知夢はそれ1つしか見たことがない。

しかも本当に夢の通り過ぎて驚いた。

似てるなぁなんていうレベルではなく、そのまんまだった。

まぁこういうこともあるんだ!ぐらいに思って、私は現実の仕事に戻った。



>>>2018年8月24日再び
「空気感」という軸と、カンナちゃんが登場してきた予知夢とを頭の中で反芻した。

「ねぇ、この空気感は先生(=私)とだから作れるんだよ」
そう言ってくれたカンナちゃん。

ちなみにカンナちゃんは、私の中でとても特別な子だった。

ひいきとかではなく、本当に何か特別な気持ちを自然と感じる子だった。

カンナちゃんはそこにいるだけでいつも私に元気をくれる子だった。

底抜けの明るさと人懐っこさ、カンナちゃんのまとってる空気が私にはすごく心地が良かった。

カンナちゃんは生徒だったけれど、私からしたらその前に1人の人間だった。

今振り返ると、人生で出逢うことを約束していた子、そんな風に感じている。

カンナちゃんは普段から楽しい子でたくさん思い出をもらったけれど、その中で1つとても強く印象に残ったエピソードがある。

カンナちゃんは、中2のある日、「手を使わずに計算できるようになりたい」と言った。

数学が全くできないというわけでもなかったけれど、とにかくたし算とひき算は手を使わないとできない子だった。

本人が突然気になったのかそんなことを言った。

だからやり方を教えて(私も小学校1年生のさんすうの教科書を見て確認した)、それでしばらく毎回10問、たし算とひき算を私が適当にノートに書いて宿題として出した。

余談だけれど、私も小学校3年生でそろばんを習うまでたし算とひき算は壊滅に近いぐらいできなかったから、未だに普通のたし算とひき算のやり方を知らない。

今でも私は、たとえ一桁のたし算やひき算でも頭の中でそろばんをはじく。

そうしないと答えを出せない。

だからカンナちゃんに説明する時に1年生の教科書を見たのは、私もやり方がわからなかったから。

読めばわかるし、説明もできたけれど、私も普段そんな風に計算してないから、このやり方やりにくいなぁとは感じた。

それでしばらくやっていた後、カンナちゃんから言われた。

「ねぇ先生、カンナもうたし算とひき算の練習やめて、またこれまで通り手でする!」

「どうしたの?」

「だってさ、手を使わないやり方はやりにくいし、すごい間違うんだよ!
手でやる方が絶対に間違わないし速いから、また元のやり方に戻すことにした!」

私はその考え方に大賛成した。

そしてそこにカンナちゃんのすごさがあった。

カンナちゃんだって指を使って計算することは、自分でも多少変わってるという認識はあったと思う。

だけど、カンナちゃんはそれを恥じてはなかった。

むしろそれを「自分のやり方」として受け入れていて、自分にとって一番やりやすくて正確にできる方法だからという「自分中心」の理由を堂々と説明できる姿はあっぱれだった。

周りや世間ではなく、自分に合わせることができるカンナちゃんは、本当に芯の強い子だと感じた。

しかもそれを普通に誰の前でもそうできる。

何せ本人があっけらかんとしていたから、誰もからかう人もいなかったし、学校でもそのキャラのようで、指計算を理由にいじめられるというような要素はゼロだった。

普段はめちゃくちゃ明るいけれど、大切なところは絶対に筋を通す子で、その時は表情が一瞬だけ変わる。

そういうところも私はすごく好きだった。

そんなこんなを思い出した時に、カンナちゃんが2010年頃のいつかの夜、私の夢に出てきた理由が突然わかった。

カンナちゃん夢に登場(2010年)
 ↓
カンナちゃんと現実に出逢う(2011年)
 ↓
成績調査の日、あれが予知夢だったと知る(2011年)
 ↓
私が辞めると知ると、「ねぇ、この空気感は先生(=私)とだから作れるんだよ」 と伝えてくれる(2012年)
 ↓
2018年の夏、カンナちゃんの言葉から私の生きるヒントをもらう

あのいつかの成績調査の日、夢が現実と同じになって、その時には単に「あれは予知夢だったんだ」で終わってた。

でも本当にカンナちゃんが夢に現れたのは別の理由だったと今は思う。

カンナちゃんは、私にとってとても大切なメッセンジャーだった。

カンナちゃんは、私の人生の中でとても大切なものを私に気付かせるために現れたんじゃないかとさえ思ってる。

しかも、私は言われた当時、6年前の時は単に喜んで終わりだった。

「ねぇ、この空気感は先生(=私)とだから作れるんだよ」
なんて、私の仕事の中で一番の褒め言葉だった。

私は売上も営業成績も全く興味がなかった。

それで表彰されても喜べなかった。

だけど、カンナちゃんが言ってくれた言葉は、生涯を通じて何度見ても嬉しい気持ちにさせてもらえる。

その時はすごく喜んだことは覚えているけれど、長いことこのカンナちゃんの言葉は忘れていた。

この2日ほどで取り組んだ「自分史を書く」ことは、ある程度までは良かったけれど、途中で息切れを起こした。

大学ノート20ページも書けば疲れるし、集中力ももたない(20ページ書いただけでも相当な集中力だとは思うけれど)。

書けば書くほど、自分の中の細かいことは色々出てきても、結局一番知りたいことからはますます遠ざかる感じがしていた。

そんな折にカンナちゃんの言葉がやってきた。

そして、カンナちゃんの言葉を通じて、自分が人生で本当に大切にしたいと感じてこれまで大切にしてきた軸の部分が見えた。

言葉にすれば「空気感」だけれど、これにはもっと色んな意味と気持ちが入っている。

そして私はこの「空気感」こそ、自分がこれまでの人生で色んな形で体験して、その良いものもそうでなかったものもたくさんたくさん経験をしたものだと知った。

例えばあの時カンナちゃんがとっさに言った言葉が「悲しくなる」とか「寂しくなる」とかであれば、今見ても響かなかった。

だけど、カンナちゃんは私としか作れない空気感だと言った。

それは私とだから作れると。

場所は塾で、本来の目的は「勉強」で、普通に考えて空気も何もあったもんじゃない。

だけど、カンナちゃんは、勉強でも塾という場所でもなく、私とカンナちゃんで作る雰囲気を大事に思ってくれていた。

そしてそれをカンナちゃんは、私に言葉を使ってきちんと伝えてくれた。

真っ直ぐに思ったままにカンナちゃんはその言葉を私に向けてくれた。

最高のプレゼントだった。

色々思い出していく中で、それはカンナちゃんとの間だけで起こったことではないと気付かされた。

私は色んな職業に色んな人間関係に身を置いて、それこそ仕事もプライベートも関係なくひたすらしていたのは、その空気感にまつわる物語を紡ぐことことだった。

それは空気を誰かと一緒に作ることもある。

黙って空気を読むことだけに徹することもある。

居心地の良い空気なら、「今最高だね」と直接口に出すこともある。

悲しみの空気を一緒に吸う時は悲しみを分け合う。

喜びの空気の時はもっともっと空気を拡大させる。

沈黙を共有する静かな空気もある。

空気を感じ、空気を作り、空気を味わい、空気を分ける。

実はずっとずっとそういうことをしていたことに初めて気付いた。

だからカンナちゃんが言ってくれた「ねぇ、この空気感は先生(=私)とだから作れるんだよ」 は、本当に特別な言葉だった。

それは私が生きていく中で絶対に離れることのない自分の本筋みたいなものだし、これだけカオスな私の人生たちに一言で説明できる言葉は、この「空気感」の他に今のところ思い付かない

そして、その言葉にようやく辿り着いたのは今で、それを持ってきてくれたのはカンナちゃんだった。

おそらく8年前と思われるいつかの夜、私の夢の中に登場してきた女の子は、単に私に元気をくれるだけの女の子ではなかった。

それは会えなくなった今も、どこかで繋がり続けていて、そして私の準備が整った今、ようやくメッセージをキャッチできるようになった。

そのノートはずっとずっと手元にあった。

だけど、これは自分の中がある程度クリアにならないと見えないものだった。

夢に出てきた女の子は、8年越しにもう一度今度はメッセージを持って私の元へやってきた。

だからあの日の予知夢は、単なる「その瞬間が現実のものとして現れますよ」という前振りだけではなく、もっと大切な何かを伝えに来る役割を持ってるからね、というタイプのものだったと思う。

私が辞めた紫陽花の季節の頃、カンナちゃんも部活を引退して受験生になった。

その年度の終わる桜の季節の頃、私は後任の方に連絡をした。

受験生だった子たちの進路がどうなったのかと、その子たちの住所を聞いた。

さくらの模様が描かれた絵葉書を買って、合格祝いのはがきを書いて出した。

その時にカンナちゃんが、途中で退会したことを知った。

それもとても変な時期に辞めたとのこと。

受験で多分一番心細くなる時期になる前に辞めていて、カンナちゃんと仲良くしてた子からの情報で、どうやら○○高校に受かったらしい、と又聞きの又聞き状態で教えてもらった。

だから、本当にあの1年とちょっとの時間は、特別に用意された時間だと知った。

いつでも出逢えたわけじゃない。

あの時でなければ出逢えなかった子で、そして予知夢のように事前に自分の存在も知らせてくれてて、さらには何年も経過して私側の準備が整ったら再度またメッセージを届けてくれる、そういう子であったことが初めてわかった。

私が号泣したのは、そのすべてを知りすべての繋がりが見えた時、感極まるものがあったから。

ちなみに私は辞めた後も1年に1回ないし2回はカンナちゃんや他の子どもたちが頭に浮かぶことがある。

今さらだけど、突然思い浮かぶ時、実は「メッセージ持って待ってるからね」のサインだったんじゃないかと思った。

2018年8月24日金曜日

答えは「空気感」

探偵史子になりつつある。

探偵と言っても、自分の心の中をひたすら見ている。

「空気感」が大事とわかって、今一生懸命、過去の「好きだった空間」「苦手だった空間」「ピンとこなかったサービス」「やたらと惹かれた時間」をピックアップしてしている。

この作業は面白い。

私はずっとずっと自分の好きなものの共通点がわからなかった。

空間を例にするとよくわかる。

整体系のマッサージを受けに行ったとする。

これは実体験に基づいた実話だけれど、2つの異なったサービスを受けた。

1つは、はっきり言って中がごちゃごちゃしていて汚い。

雑多だし、全てが脈絡もなく置かれていて統一性がない。

お手洗いを借りたこともあって、さらに裏側を見てもっとごちゃごちゃしてることが判明。

もう1つは、入った瞬間空気がピンと整えられていて、実は男性の整体師さんがオーナーとは知らず女性のオーナーさんの部屋なのかと思ったぐらいに、細かな気配りがされてあった。

観葉植物はエネルギーに満ちていて、照明や中で焚いてるアロマとかもすごく気を配られていた。

場所は後者の方が断トツ好きではあった。

だけど、私が本当に好きだったのは前者の方だった。

もう1つ別の例。

某高級ホテルのラウンジ。

1つのラウンジは、本当のVIPしか通さないような場所で、私も初めてそんなところに足を踏み入れた。

全く落ち着かなくて、私は自分が場違いで落ち着かないのかと思ってた。

そこはただの一度しか行かなかったけれど(多分私のような庶民は普通には入れない)、もし行けるようになっても行きたいとは思わない。

違う系列の高級ホテルがすぐ近くにもう一軒あって、そちらでもラウンジに行ったことがある。

なんならそこは好きで、私は1人でも時々1人ティータイムしに行くぐらいに気に入っていた。

そこでミーティング的なものも記憶にある限り3回はあった気がするけれど、そのどれも良かった。

ちなみにどちらのホテルでも、世間一般では「ねずみ講」と呼ばれるビジネスの説明を受けた。

名古屋時代は、ねずみ講の話とは知らずに声をかけられて出向いたらそれだった!みたいなことが度々あった(興味もないからやってはない)。

そのうちの1回は幹部みたいな人がいきなり最初にご登場されて、それでそんな超VIPみたいな部屋に通された。

だから1軒目のホテルのVIPルーム的な奥のラウンジは、本当に会員とかでないと入れない気がする。

庶民には関係ない場所過ぎて、ある意味とても貴重な経験にはなった!

一事が万事こんな風だから、私は私の好みがずっとわからなかった。

統一性がないだけではなく、汚くても基本平気だし、反対にきれいで整えられていても苦手なところは苦手でしかない。

ホテルのラウンジみたいに、同じジャンルでも好きと苦手に分かれる。

探偵になった気分で、その差が何から来るのかをひたすら見ていた。


答えは「空気感」だった。


ちなみに探偵史子は若干ネジが抜け気味だから、1人でこんな答えには辿り着けず。

昨日のブログにmixiとか書いたから、久しぶりに自分のmixiの日記を読んだ。

読んだらそこから答えがきた。

正しくは、ある女の子がその答えを教えてくれた。

それをヒントに、今色々と紐解いてる。

ちなみに、日記内にある「最後の一番したくない仕事」は、保護者懇談だった。

だけど、私はそれが最後は一番大切な仕事の1つになっていた。

日記の中に書いた通り、子どもたちの親に直接「ありがとう」と言えるのはその時が大概最後だったから。

はっきり言って、私の元に子どもを預けても成績上がらない子もたくさんいたし、他にもっと有能な塾もたくさんあった。

それでも通わせてもらえて本当にありがたかった。

私のところに通ってた子どもたちの親の何人に言われたかわからない。

「うちの子がここがいいと言っているので」と。

やんわりと「他のところに行かせたいんですけどね…」みたいな(笑)。

実際にそう言ってきた親もいた。

そういう時はひたすら「力がなく期待に添えずすみません。○○くん・○○ちゃんと一緒にがんばるのでもう少し様子を見てもらってもいいですか?」と言って切り抜けてきた。

ポイントは、超申し訳ないというところをアピールするのと、子どもの小さな変化をかなりよいしょすることだった。

そんな中でも通ってきてくれた子どもたちがいて、その子どもとの時間を与えてくれた親には感謝しかなかった。

だから、その気持ちを伝えるための機会が、その最後の保護者懇談の時で、その時だけは懇談をきちんとやりたいと思った。

まさかその時のことが今の私のヒントになるとは思わず。

この話はまだ色々あるけれど、それはまた違う時に書きたいな…とは思う。

↓ヒントになったmixiの日記。



『逆転満塁ホームランの予告』
2012年4月25日


月曜日。
「○○教室の担当、交代します」
と塾の子どもたちにようやく発表した。

話が終わらないうちに
「困る!!」
と言ってくれた子がいた。

今日火曜日。

新たにくる子どもたちに同じように告げた。

「ねぇ、この空気感は先生(=私)とだから作れるんだよ」

「さびしくなるじゃん」

色んな言葉
色んな気持ち
言葉の代わりの顔

全身全霊で子どもたちが伝えてくれていた。

仕事は誰でもできる。
私の代わりはいくらでもいる。

でも。
私の存在そのものや、間に流れる空気は、そこにしかない。
って、子どもたちが色んな形で伝えてくれた。

誰か一人くらい憎まれ口をたたくこどもがいるかと予想していた。

いつも憎まれ口だらけの子どもたちは、
口を紡ぐか
本当に代わるの?と言葉少なだった。

私はもうその空気が耐えられなくて、
私が先に流れを変えた。

いつもと同じように話をして、
いつもと同じ空気を流すのに目一杯だった。

ある人の人生の中に自分がいられること。
それが家族のように恋人のように全部の時間ではなくても
そこに関われること。
どれだけのしあわせだろう。

私の怒鳴り声も
私の切れ具合も
それすらも全部が全部いい
それがいいと言う人たちが
どれくらい自分の人生の中に現れてくれるだろう。

今になってようやくわかる。

毎日が奇跡の瞬間だったこと。

最後一番気の進まない仕事をするように上司に言われたのが2週間前。

5月に最後のその気の進まない仕事をする。

でも今はその仕事が一番したい仕事だったりする。

仕事の内容じゃなくて、
私はそれを口実に
もう少しだけ子どもとの時間をもらうんだと思ってる。

そして、その子どもを産んだお母さんたちに直接ありがとうと伝えるのが
私に与えられている本当の本当に最後の仕事だと思っている。

365日毎日やめたいと思っていたこの仕事2010年。

2年後の2012年、逆転満塁ホームランを思いっきり打てそうな予感がしている。

2018年8月23日木曜日

ブログ開設日のホロスコープ

今日もホロスコープネタ。

ただ、今日はちょっと違うテーストで(いつも以上にマニアック)。

私のホロスコープの講座のU先生のブログを読み漁っていたら、U先生がブログを始めたり鑑定を始めた日の空模様(ホロスコープ)と自分の生まれた時のホロスコープを重ね合わせて見た話をしていた。

またもや興味本意で自分のブログを始めた日と時間を調べ上げて自分も見てみた。

その細かな分析は後で書くことにして、今わかったことをひとまず先に。


【生活から離れる。
旅において起こることは、これにつきます。
自分の慣れ親しんだ、自分の一部とも言える「環境」から自分を切り離す行為が、「旅」です。
そうやって自分を、自分を包み込むモノから離脱させたとき自分を包んでいる環境が、逆に、よく見えてきます。
中にいる状態ではわからなかったことがよくわかってきます。】
『星読み+(プラス)』(著)石井ゆかり より


私が読む場所を勘違いしたことで上の文に行き着くけれど、すごく納得した。

私にとって文章を書くことは、旅に出るのと似ている。

書いている時、自分はそこにいるけれども、心や気持ちは確かに違う場所へ飛び立っている。

体ここにいて心ここにあらず、みたいな感じにいつもなっている。

2013年誕生日以降〜2014年誕生日前までの1年の間に、私はこのブログ含めて3本のブログを立ち上げた。

これは続いているけれど、残りの2本は休止中。

1本はまた気が向いたら再開予定。

もう1本は完全にリニューアルして新しく変える予定(←現在放置中)。

同じ年に全て開設したから、もしかしてその1年のホロスコープに何か特徴がないかなと思って調べたら、知識を探求したり高度な学びを深めたり発信活動をする場所(9ハウス)に、主要10天体中6天体もインしていて、さらに「癒し」がテーマのキロンと呼ばれるものまで入って、なんと7天体が360度の円の中の30度ぐらいの幅のところにぎゅっと凝縮されていた。

しかも、よく見たらコミュニケーションや言語を司るとされる水星が生まれた時の火星とぴったり同じ位置(360度の円の中のある1度)に重なっている。

火星が重なると、その元の天体(この場合水星)の活動が活発になると言われている。

たしかにそれで書く活動は活発になった。

しかも癒しの天体のポイントを調べると、「バラバラな自分をまとめるシステムを探す」(『未来事典』より引用)とあって、たしかにブログを立ち上げたことで、しかも3つタイプの違うものを始めたことで、バラバラだった自分の中のことが整理された。

他にもポイントとして(引用:『未来事典』)、
「表向きの自分を磨きあげる努力」
「潜在能力を信じ流れに身を任せる」
「これまで解決できなかったことも、この時期に打破」
「こだわりが消え力をぬける時期」
「広い世界にメッセージを発信していく」
「どきどきを求め、未知への旅に出る」
「肩の力を抜いて、企画やアイディアを考える」
「全身で新しい世界へ飛び込む」
(↑ちなみに最後のこれは36〜45歳の私の火星テーマの1つと同じ)
とある。

元々mixiで7年ほどお世話になったから、日記を半分公の場で書いてはいた。

ただ、mixiは当時会員でなければ見れないシステムだったし、閉ざされ守られた空間だったから、私も気楽に書けた。

しかも招待制で招待なくしては会員にさえなれなかったし、会員になってからもネット上で繋がる際は必ずメッセージのやりとりや日記のコメントでのやりとりがあったから、会ったことなくてもその人たちがどんな価値観や思想を持ってるかは多少知った上で繋がっていたから安心できた。

招待は基本的に友人知人恋人経由とかだと思う、要はリアルに会ったことがあって知っている仲&ある程度気心が知れた仲の人。

私も私の周りもみんな友達経由なんかで入会する人が多かったから、今のSNSとはずい分と違っていた。

不特定多数ではなく、ある程度制限のかかった世界の中の発信ツールだったから、変な危険とかは感じなかった。

しかも、ハンドルネームで本名を隠していたから安全度も高かった。
(本名は隠したけれど、あだ名と名前の一部を組み合わせていたから、友達からはぶっしーってすぐにわかると言われた)

そんな中で書いていた日記から、誰でも見れる形のブログにする時はものすごく抵抗があった。

怖さもあったし、全然予測がつかなかった。

思いつくまま発信をして、迷いや抵抗もありながら、とりあえず始めたのが最初だった。

しかも当初私は3つも開設する予定は全くなかったけれど、あまりにテイストの違う3つを1つのブログにするのは難しすぎた。

そのうちの1つは、名古屋時代に仲良くなった超できる多才な同い年の男性がシステムの構築をしてくれて、それで開設できた。

この人は、マルチ過ぎて凄すぎた。

しかもその凄い人が私の書こうとしていることに対して、ものすごく共感してくれて、それは絶対に良いものだと言ってくれた。

これは違うブログ(再開予定の方)の話だったけれど、本当にその励ましは私の書く気持ちを高めてくれた。

おかげで私のブログはものすごく整理されて、自分でもそれぞれのブログに合わせて内容もスタイルも変えている。

ちなみに一番素の自分はこのブログ。



このブログを開設した日のホロスコープを出してみた。

これがまた凄い日だったことが判明した。

ホロスコープでは大幸運とされる六芒星という、ダビデの星が形成されている。

2つの正三角形を上と下で重ね合わせたような、六角形のあの星の形。

それはまずほとんど出ないらしい。

私も見たことがない。

だけどそんな凄い日とは知らずに私はピンポイントでその日その時間に初めてアップしてた。

しかも私の生まれた時のホロスコープと色んな共通点があって、それも1人で超感動した。

ホロスコープ用語のオンパレードになるけれど、具体的には、

・AscとMcが一緒(牡牛座×山羊座)
・その日の太陽と私の土星、1度未満の誤差にてピッタリ重なる
・その日の水星と私のドラゴンヘッド(魂の目的)が同じようにピッタリ重なる
・その日の金星と私の冥王星も同じようにピッタリ重なる

こんなに誤差なく3地点でそれぞれの天体がピッタリ重なるなんてそうそうない。

牡牛座×山羊座の組み合わせは、コツコツと真面目にする意味合いがある。

太陽に土星が乗ると、土星はその太陽の活動を地味にでも確実にずっとやり続けるという意味が出てくる。

水星はさっきも書いた通り、言葉やコミュニケーションを司る天体。

そこに魂の辿る道、魂の課題を表すドラゴンヘッドが重なる。

私の場合、書くことと魂も含めた人生の目的とが重なり合っていると思う。

金星は好きなものや美的感覚なんかを表す。

そこに徹底する力や並外れたエネルギー、死と再生を表す冥王星が乗っている。

これだけで、言葉を使って自分の中の感覚を徹底的に表現する、限界までやり続けるみたいなイメージが湧く。

さらにそれは自分の人生や魂として設定している道とも繋がっている。

ここから下は、開設した日の具体的なサビアンシンボルの内容と自分で感じたことのあれこれ(【】は『未来事典』の引用で、360個あるサビアンシンボルの中のどのテーマを持っているかの説明)。

サビアンシンボルというのは、12星座の各星座をさらに30個に分けて、それぞれに抽象的な意味を与えたもの。

例えば同じ牡羊座でも「新しいスタート、とにかく行動を」なんていう意味のものもあれば、「肩の力を抜いてゆとりのある生活を」なんてのもある。

「度数」と呼ばれるものによって、たとえ同じ星座でも全く意味合いの異なったテーマを持っている。

以下がこのブログを開設した日の各天体の星座と度数からは導いたテーマたち。


・太陽(乙女座)
【夢や願望を確実に形にしていくこと】

この太陽は私の生まれた時の土星と重なっていて、しかもどちらも自己表現の場所に位置している(5ハウス)。

しかも太陽も土星も細かさが売りの乙女座。

ごちゃごちゃと全て詰め込んで書くところはなんとなく乙女座な感じがする。


・水星(乙女座)
【自分の限界に、果てしなく挑戦してみる】

この水星も自己表現のところにあって、しかも乙女座。

きっちりとやることを好む。

それが私の生まれた時のドラゴンヘッドと呼ばれる魂の目的や今世のテーマとピッタリ重なっている。

私のドラゴンヘッドには、意識の深いところからのメッセージを読み取ってそれを人生に活かしていくことが含まれている。

それを言葉を使ってやろう!という水星的な性質と重なる。


・金星(天秤座)
【心細くてもつづけると、だんだんと力強く変貌する】

私の始めた時の心情を表してる。

やり方も良いのかわからないまま始めていて、しばらく心許ない感じはあったけれど、それでも今はなんともない。

さらに徹底的にやる冥王星も重なっているから、徹底というか自由気ままにではあるけれど、ずっと続けられてるのはこの冥王星のおかげもある気がしている。


・土星(蠍座)
「自分の中に浮かび上がるメッセージをキャッチしていく」という意味合いのサビアンシンボルになっている。

それを徹底して行うのが土星。

たしかに、ブログを書き綴ることは、自分の中に浮かんだことを言葉にしていく作業になっている。

メッセージをキャッチして終わりではなく、書いて形にして完成させる、というところが土星の性質みたいだなぁと思う。


・海王星(魚座)
【広い世界にメッセージを発信していく】

海王星そのものが無意識を司る。

無意識=心の深いところから出てくる言葉をひたすら紡ぐのがこのブログになっている。


・冥王星(山羊座)
この時のサビアンシンボルは、こんな解説になっている。

【未知の存在に対して興味をもち、実際に触れてみようと行動することをしめしています。
自分の世界を広げることに真剣にとり組みます。】

この冥王星は、知識を探求する場所にある。

その中で自分なりに試行錯誤を繰り返しながら何か手応えを得ようと徹底してやるということなのかなと。


・キロン(魚座)
【己のすべてをさらけ出す】

キロンは魂の傷として心の奥深くに刻まれているもの、という意味合いがある。

そしてキロンは、一度傷付いたことと同じテーマから逃げずに向き合い続けることで癒されるものとされている。

それを超えた時に、癒しが起こるだけではなく、経験が自信になって叡智を手にするとも言われている。

文字を通じて自分を出す。

確かに書いていると、何がとは具体的に言えないけれど、癒される感じはある。

楽になるというか。


ちなみに余談だけれど、ホロスコープで何よりも大切だと言われているのは、生まれた瞬間のホロスコープ。

生まれた瞬間のホロスコープには、その個人がこの人生で挑むテーマや課題、強み、弱み、人間関係、恋愛・結婚、健康、家族、仕事等々の特徴が細かく刻まれている。

それは生涯を通じて持つテーマでもあるから、だから私の生まれた時の土星とか他の天体に重なるというのは、そのテーマを活かすチャンスがさらに広がると解釈できる。

ちなみに広がるのは何もチャンスだけじゃなく、強烈な体験も広がりやすい…。



やたらとマニアックな分析になったけれど、このブログを始めた時に上に書いたような意味があるというのはとても嬉しい。

そして、大吉的な六芒星とやらが出ていて、そして土星や冥王星というやたらときっちり極限までやり切るみたいな意味合いのものも絡んでいて、継続しやすい条件が揃っていたんだなとわかる。

このブログに関しては、続けようというのもなければ、時々意図的に発信しようというのはあっても、基本発信したい‼︎という気持ちがない。

他の2つのブログが休止してる理由は、そうした負荷みたいなのを自分で勝手に作っているからというのもある。

発信する気もないのに、何でブログとして書くのか?と突っ込まれそうだけれど、そこはちょっと違う。

ブログを書く時は、最初に書いたように少し旅する気分と似ている。

言葉も多少は整えるし、意識はブログを書く時特有のものがあって、それは日記帳やノートと違う。

ブログは、やたらと主観的になりやすい私が、少しだけ自分を色んなことから離せる手段だから、とても大切な場所になっている。

ある意味、心の休む場所みたくもなっている。

ということで、カオス感満載のこのブログはこれからも好き放題にやりながら、天体のバックアップを受けながら続くような気がしている。

2018年8月22日水曜日

夏の太陽と夏の月

夏の空は青い。

抜けるような青さをしている。

そこに色んな形の入道雲があって、夏だなぁと感じる。

入道雲だけかと思いきやいわし雲も空の違う場所に出現。

夏と秋が空の上で共演している。

車のサイドミラーに夕日が映る。

さっきまで37度の暑さをもたらしてた太陽が、少しずつ沈む。

夏が終わろうとしている。



今いる駐車場(車内)からふと目を上げると
「こころ、届けます。」
という大きな文字が見えた。

バックミラーには母校の高校が見える。

周りには田んぼしかなかったのに、ここ数年で一気に開発が進んでいくつもの大型店舗が出現した。

道も新しくなった。

あの頃の自分からは想像もできない今になっている。

いつか全てが変わって、それでも残るもの・変わらないものがある。

私の今が、自分が望んだ生き方なのかはまだまだわからない。

2015年9月に引いた1枚のカード「すべてうまくいきます」の後日談を書いた文章をつい昨日読んだ。

その直後「すべてうまくいく」どころか真逆の出来事が満載すぎて、何がうまくいくだ⁉︎と本気であのカードの意味を恨めしく思った。

後日談は去年の夏に書いてたと思うけれど、もしくは去年の夏を軸にして振り返っていたけれど、そこまできて初めて「すべてうまくいきます」の意味を知った。

本当にすべてがうまくいっていた。

2年前にはわからなかった答えを去年の夏に見つけた。

たしかに、「すべてうまくいきます」の言葉の通りだった。



太陽が遠くの山の裾野に沈んで、空は茜色になった。

刻一刻と空の色が変化している。

入道雲がピンク色に染まっている。

もう少しで満月になりそうな月が東の空に出ている。

「こころ、届けます。」は変わらずにまだある。

夏の日2018。

1年も経てば忘れるのかと思ってた。

「こころ、届けます。」は現在形だ。

1年経っても現在形なんだと知る。

うまくいってなくても、現在形のものはどこまでも現在形なんだと知る。

白い月に二羽の黒いカラス。

二羽ずつのペアでさっきから通り過ぎていく。

カラスのつがいは生涯ずっと同じパートナーだと聞いたことがあるけれど、本当にそうなのかもしれない。

太陽が沈んで月が昇っての繰り返しの毎日と同じように、こころの中でも同じものが繰り返されてる。

多分9割9分9厘の確率で、明日も同じものがこころにある。

「こころ、届けます。」にライトが灯った。

心の中で祈る、「こころが届きますように」。

何度でも何度でも祈る。

お届け先は決まっている。

今日でもいいし、明日でもいい、届いて欲しい。

2018年8月21日火曜日

ピアス・リバイバル

10年ぶりにピアスを買った。

18歳になってすぐの頃、耳鼻科に行ってピアスの穴を開けた。

私は誕生日が3月だから、高校を卒業してから開けた。

高校はピアス禁止で、してる友達もいたけれど、いちいちそれで先生たちに怒られているのを見て絶対に卒業してからにしようと決めてた。

友達に教えてもらったところだった気がするけれど、私は未だにその医者に頼まなきゃ良かったと後悔している。

一生に一度の体験だったにも関わらず、その先生は診療時間終わり間際に予約されて、さらにはピアスの穴あけ希望が嫌だったのか、とても雑に扱われた。

だから私のピアスの穴は左右の耳で位置が違う。

それだけはすごく後悔に似た気持ちがある。

もっと丁寧にやってくれる先生を探せば良かったというのは後の祭りで、それでもそうしてようやく念願のピアスの穴を手に入れた。

当たり前だけれど、体に穴を開けるから痛かったし、しばらく穴が完全に開くまでは膿んだりもした。

今のこの時代ならイヤリングでも可愛いデザインのものが多数出ているけれど、今から20年前はそうではなかった。

その頃の私は年相応におしゃれに興味を持ち、自分でジーパンをリメイクするほどおしゃれに熱心だった。

そんな時にピアスができるようになってすごく嬉しかった。

いくつのピアスを買ったかわからない。

耳元のおしゃれはその後も続いて、私は一生耳元のおしゃれを楽しむ気でいた。

ところがそれは10年後の2007年の夏、呆気なく終わりを迎えた。

今から11年前になるその夏の日、ネックレスを付けたまま寝落ちした私は、朝起きた時に異常なほどの首のかゆみを覚えた。

鏡で見てみると、本当に首回りがネックレスに沿うように真っ赤にミミズ腫れを起こしていた。

ネックレスはすぐに外した。

たまたまかと思った。

だけど、その日を境に私は金属アレルギーを起こした。

ピアスもすぐに受け付けなくなった。

30分もしないうちにかゆくなるだけじゃなく、化膿するようになった。

腕時計のベルトの金属部分でさえもダメで時計を捨てた気がする。

そう思うと、妹夫婦から結婚式のお返しで贈られた腕時計は、時計とベルトの留め具が金属だけれど、それは大丈夫でとても重宝している。

最近でもないけれど、2、3年前にはなんとブラジャーの金属部分、肌に触れるところほんの数ミリでもアレルギーを出した。

その時はショックだった。

よりにもよって、一番好きな色とデザインのもので金属アレルギーを起こした。

すごい気に入っていたから絆創膏を貼って当たらないようにするとか工夫したりもしたけれど、何ともアホらしくなってすぐに処分した。

まさかそんなので金属アレルギーを出すとはゆめゆめ思っていなかった。

素材の問題だったらしく、今手持ちのものたちを見て、それらも金属部分があるのに平気で、そのブラだけ出たことがわかった。

そんな風だったから、ピアスもネックレスもあきらめていた。

今は色んなタイプのアクセサリーが出回っているけれど、もう最初から素材を限定して探してまで欲しいとは思わず、つい今年の誕生日まではネックレスもピアスも長いこと買っていなかった。

ネックレスではないけれど、本物の木の実でできた首飾りを今年の誕生日前にあるブログの中で見つけて、私は一目惚れして買った。

それは私の手持ちの服たちによく似合っていて、そして季節を問わない。

手元に届いて以降、出かける時は常に付けている。

長さを変えて付けれるタイプのものだから、先月?先々月?に短くして付けてみた。

そうしたら金属の葉っぱのモチーフが皮膚に触れて、またもやもれなく金属アレルギーを引き起こし、すぐに長いいつもの付け方に変えた。

そんな風だったから、私はもう長いことピアスは買っていなかった。

皮膚科でアレルギーテストをして付けれる金属があるかどうかを調べてもらおうかとも考えたけれど、それは自費診療になるし、そこまでお金と時間をかけてまでアクセサリーを身に付けたいかと言うとそうではないから、受けずに今に至る。

ちなみにアレルギーテストは、私が調べた当時だと、無数の種類の物質の一覧表から調べて欲しい物質を選んで、それで血液検査をするものだった。

時代は変わって、今は金属アレルギー対応のピアスやネックレスもだいぶ出てきた。

だけど、必ずしも出ないという保証はないらしくて(相当注意書きを読み込んだ)、しかもそうしたものは素材が特殊なのか私が見たものは少なくとも数千円してた。

絶対にアレルギーが出ないという保証もないのであれば、私は買いたくなかった。

万が一出たら、たったの10分20分でお金をドブに捨てたも同然になる。

あと金(きん)は出にくいらしいけれど、金こそ本当に高額だから、買ってアレルギー出たら元も子もないと思って試したことがない。

そんな風だったから、長いことアクセサリーを付けない生活を送っていた。

昨日、ずっとリピートしている洗顔ソープを買いに行ってきた、我が家から60キロ以上も離れている店へ。

近隣で買えるのが一番いいから、そのタイプを置いてそうな店はあちこちチェックしてるけれど、未だに私の使ってる種類のものだけがない。

ちなみに名前は「マジックソープ」。

液体の方で、私はユーカリを使っている。

何人かに薦めたら、みんな気に入ってた!

肌がスベスベになる。

だからどんなに離れていても物が自分に合っているから、それを買いに行っている。

それはそうとそんな遠くに行ったから、ついでにすぐ近くの大きなショッピングモールにも行った。

普段は見る店が決まっているから違う店に入ったことなかったけれど、たまたまアクセサリーショップの店頭に今使える髪飾りがあったからそれに釣られて店の中に入った。

知らない間にアクセサリーも進化していて、私のような不器用な人でも使える髪飾りが出ていた。

誰が発明したのかはわからないけれど、拍手を送りたいぐらいに誰でも使えておしゃれなものがたくさんあった。

ついでだからピアスコーナーも見た。

年に一度はその手の店に入ると数えて、金属アレルギーを起こしてからも10軒以上は立ち寄ったと思う。

昨日のお店は、これまでに見たことないほど樹脂のピアスがたくさん置いてあってビックリした。

なんとピアスコーナーの半分は樹脂のピアスだった。

これまでも樹脂のピアスは見たことあったけれど、全然可愛くなくて、しかもほとんど置いてなくて、あってもほんの一角にちょびっとだけだった。

それがその店には豊富に種類があった。

置いていない店もある。

店のラインナップなのか時代の流れなのかわからないけれど、とにかく充実の樹脂ピアスだった。

樹脂のピアスは試したことないけれど、いけるかもしれないと思った。

しかも全部の四季とどの服でも合いそうなシンプルなものを選んだら、それが300円という破格の値段で、即決だった。

それで失敗しても実験代として出すのは全く惜しくなかった。

全館割引デーで、消費税分が割り引かれた形となった!

早速付けた。

時計を見た。

これでもし3時間なんともなければいける。

これからは樹脂ピアスを使える。

祈るような気持ちで装着し、1時間過ぎた頃何ともなかった時に、9割は「いける」と確信した。

実際に3時間ほど付けて、何ともなかった。

もうピアスは一生縁がないとあきらめていたけれど、また楽しむことができるとわかってすごくすごく嬉しかった。

しかも時代の流れなのか、樹脂のピアスも過去とは比べ物にならないぐらいに充実してた。

これからは樹脂のピアスでお気に入りを見つけたらいい。

また耳元のおしゃれを楽しめるのは嬉しい。

2018年8月20日月曜日

過去の自分からのヒント

ホロスコープの調べ物の関係で、2012年の10月〜15年9月の間、そして2016年年末〜17年にかけての出来事やその時自分がどんなことを思っていたかをを調べていた。

前半は日記もそこそこ書いていたし、色んな心理ワークの記録もあったしで、結構な収穫を得た。

ブログにも手を伸ばせば、多分もっと情報を引き出せると思うけれど、ノートや日記帳を見るだけでもかなりな量だったから止めた。

ちなみにそこは、おおよそ
・心のケア
・自分との付き合い方
・書くこと
・自己表現
のことがテーマとしてかなり色々書いてあった。

ところが16年の年末から17年の夏の途中まで、ビックリするぐらい記録がなかった。

その頃ついに手帳も手放し、家計簿もやめ、ブログは無期休止、心理ワーク実施回数はゼロ、月に1回日記を書くか書かないかという状態だった。

日記に至っては、16年の12月31日の後書いたのが17年2月27日と約2ヶ月空白の期間がある。

その後も月に1回書くこと夏までその状態が続いた。

テレビも見ない私が日々暇な時間何をしていたのかさっぱりわからないけれど、当時本当に穏やかな日々だったことは間違いない。

私がやたらと日記やノートに記録を残す時なんていうのは、大体においてそれをしないと自分がもたないからだったりする。

ここ半月は自分の内面ばかりをツラツラと書いていて、“うげー(~_~;)”って感じではあるけれど、今回調べてわかったのは、そうした記録こそ大切だから出来事や気持ちはなるべく箇条書きでもいいから残そうと思った。

私は過去ばかり調べまくっているけれど、ホロスコープは未来予測にも使える。

占星術家の方たちの中には自分のホロスコープの未来については見ない、と言った気持ちがわかる気がした。

私も少し見てみた。

見方がよくわからなくて、例えば今なんかはそもそも持って生まれた天体に空の天体たちが重なっていてその分影響が出やすいとされている。

でもそれは日々の生活のどの部分を指すのか私にはさっぱりわからない。

その他にも1年ごとのテーマやこの1ヶ月の間にあった日食と月食の影響とか、もう見ようと思えば色んな切り口がありすぎて、見ていて疲れた。

だから私は未来予測の方は興味があってホロスコープを作っても、細かくは見ない。

見たところでよくわからないし、ピンポイントで気になるところだけ調べても「?」となる。

今現在の方がなんとなくしっくりくるから、調べても今の時ぐらい。

ちなみに今は「今ある自分からの脱皮」の時らしい。

たしかに、そこで「リーダーシップを発揮する」とか「美的なものを日々の生活に取り入れる」とか「円滑なコミュニケーションを手にする」なんてなってもわからないから、その今のテーマはなるほどなぁと思った(そのうち時期が変われば想像力やイメージを湧かせる方に行く模様)。

他人様のホロスコープとその人自身の人生がどうなのかは知らないけれど、私のは視点をいくつか持つと常に何かしらの星の影響が強く出ていることになっている。

そんなの調べてもキリがないのと、知らない方が気楽なこともあると知った。

反対に過去を日記帳やノートを使ってまで振り返る理由は、その時の自分しか知り得ない自分がいるから。

そして私はその時の天体の動きと自分の人生が連動しているとわかると安心する。

人生自体は不安定要素満載でも、ホロスコープ通りと言わんばかりの時を過ごしてたとわかるとホッとする。

これで良かったんだなと思える。

今回は、その当時植えた種が何だったのかを知りたかった。

今ざっくりと振り返ると「混沌としていた」という風にしか思い出せない。

だけど、毎日毎日混沌としてたわけじゃないし、色んなことを見失いそうになりながらも何かしら願ったりはしただろうと思った。

日記の中の私は面白かった。

今とそんなに変わらないけれど、本当によく頑張ってたなと感じた。

当時は今ほどにまだ自分を客観的に見るためのツールを持っていなかった。

だから全て体当たりで、さらには合わないやり方をも試していた。

まだまだ自分への不信感も強く、 自分を緩めることも今ほどにはできなかった。

だけれど、その過去の私は本当に本当に大奮闘していて、読みながら良い意味で自分に笑ったり、又は過去の自分から今の自分に向けてエールをもらった。

残しておいて良かった。

でなければ、私の中では「混沌とした時間だったなぁ」の一言で終わってしまう。

ちょっとだけ紹介するとこんな風。

『100%ではない、でも0%でもない。
そんな人生のポジションもあってもいいんだと思う。』

→これは生活のためだけに働き始めた私が書いた言葉だった。

やりたい要素なんて1ミリもなく、それでもやらなきゃ生活できなかったから全く興味もない分野での仕事に就いた。

自分への納得度は限りなくゼロみたいな時に、私は上の言葉を書いていた。

だから今読むとすごく優しく感じる。

『どんな時も日々生きて、
日々泣いたり笑ったりして、
人間をしていた。
十分すぎるほど人間をしていた。』

→33歳最後の日に書いている。

その1年は生き方が大きく変わった年だった。

安定を手放した。

当初の思惑とは大きく違う方に物事は動いた。

今のような流れの原型となるような入り口の年で、相当悩み抜いた。

しかも当時はまだ物事の光の面こそ受け取れても闇の面に向き合えるほどの器がなかった。

だからそこから逃げたくて相当もがいたと思う。

「思う」と言ったのは、今ではどうだったのか思い出せないから。

そんな時に日々生きて日々人間している自分に感動して出てきた言葉だった。

『まとまりなくても、下手っぴでも、書き続けよう。』

‘14年の1月に書いた。

まだまだブログに慣れなくて、外に向けて発信するのが怖かった時。

その時にそんな決断を自分がしてくれてたと思ったら感動した。

書くことだけは本当に続けてきて良かった。

それは私にとって呼吸をするのと一緒ぐらいの位置にある。

ホロスコープではっきりとわかったことだけれど、私は「自己表現」そのものが人生のテーマに含まれている。

ホロスコープでは「自己表現」としかわからなくて、細かな手段までは示されていない。

その手段として私が書くことを選び続けたのは、私にとって一番無理がなくて良い。

そして書くことを省いてしまうと、私にはそこまで表現したい手段がない。

表現したいも何も、今こうして文章を打ち込むように、何も考えず勝手に手が動く、「やろう」なんて思わなくてもやってしまうこと、やれてしまうことは他にない。

その後面白いことを言ってた。

ロボット工学の人から話を聞いた漫画家のおばあちゃんみたいな人が、手に取った雑誌のインタビューで、人間の手の指1本をロボットで作ろうとしたら「数億円かかる」と聞いてきた話をしていた。

それを10本も持っているなら、すごい資産を持ってるわけで、それと自分の表現を組み合わせる話をしていた。

その話がとても印象に残っていて、私は「指1本ン億円、10本分でウン十億円、この指が紡ぎ出す物語はどんなだろう」と新しいブログに対しての想いとして書いていた。

『「違う」ということを私は知っているんだと思った。』

→これは派遣先で仲良くなった人生の大先輩みたいな人から、ある仕事が私に合ってるんじゃないかと言われた時の私の心情だった。

その方の気持ちはとっても嬉しかったし、少なくともその方から見て適性があると思ってもらえたことも光栄だった。

でも私はその仕事には就かなかった。

興味がないから。

「違う」ということを知ってる、なんて普段考えもしないけれど、それを知ってることが私にはとっても嬉しいことだった。

やりたいことがはっきりしなくても、「これ違う」ということだけでもわかるのは大きかった。

こんな風にして、過去の私は色んなことを自由に書いていた。

どれもこれも小さなことばかりだし、色々日々悩みながら書いていたものが多かったけれど、それでも読んでいて面白かった。

すっごく変な言い方に聞こえるかもしれないけれど、私は自分の人生とホロスコープの特徴が合致してるとかなり安心できる。

ここでは長くなるから詳細は書かないけれど、自分の意志や願い、意図とは全く違う方向に流れる自分の人生が私にはどうにも受け入れ難かった。

しかも私は最初、自己啓発やスピリチュアルなものでも願望実現のような類いから入っていったから、余計とそれらと違う方に行く自分の人生がわからなかった。

意図したことは叶わないし、意図もしたことないようなことが現実に現れるしで、何なのかと思っていた。

それは自分をさらに責めることや否定することの材料にはなっても、ちっとも私を楽にはしてくれなかった。

大きな枠にはめてわかった風の人たちが、やり方が悪いとか、何か間違えてるとか、まぁ色々情報はきても、どれもしっくりこない。

そんな中でホロスコープが初めて私に自分の人生の特徴を教えてくれた。

それも、それは私の型を客観的に見ての情報で、そのオリジナルな見方がすごく私に合っていた。

世間で迎合されるような見方はせず、ホロスコープは1人1人全く別のものとして考えるところがすごく好きだった。

そして似たようなパターンに関してはこういう特徴が出やすいよという範囲では伝えてきても、他の要素との組み合わせで各自の人生の特徴は無限大にそして唯一無二の変化をするから、それを大切にしている点も良かった。

私の場合は、その自分の意思とは関係ないところに流れる傾向のある人生だということがわかった。

もちろんこれだって意味があってそうなってると予測できるし、死ぬ時には少なくとも、今「どうして?」と思ってることに対しておおよその答えは手にできると思ってる。

点と点の時はさっぱりわからないものでも、時間と体験を通じてわかる時がくる。

それだけはこの検証癖のおかげでわかってきた。

だから、過去の自分の振り返りというのは私にとってとても大切で、それは今の私に色んなことを教えてくれるプレゼントのようなものだったりする。

これはまだ検証途中だからはっきりとは言えないけれど、多分、真の意味での願望実現や引き寄せという意味では、多分その通りになっている。

はたから見ると「それのどこが⁉︎」となるけれど、私もそう感じることはたくさんあるけれど、多分間違った道には立っていないと思う。

ある1つの目的に向かうという設定があるなら、その設定の条件を満たすためのアイテムを獲得することや、どこかのレベルをクリアしないと次には行けないみたいなゲームをしてるとするなら、おおよそその通りに人生は進んでる気がするようになった。

過去の自分からは適度にヒントをもらって、今は今と、今に近い少しだけ先のことに目を向けたい、そういう気持ちがようやく出てきた。

またその気持ちがいつ引っ込むかも知らないけれど、出ている時にできることは今のうちにしておこう、そう思ってる。

2018年8月19日日曜日

本当の願い

本当の願いはとてつもなくシンプルだった。

さっき途中まで書いた下書きがある。

それを先にそのままアップしようと思う。

その途中の状態で、長年お世話になってる方と電話をした。

その方と話しているうちに、自分が本当に望んでいることがとてもはっきりした。

私は、去年の夏に出逢った人と一緒にいたい。

ただそれだけだった。

それが叶わなくて、そしてその人がいなくなった後(実際はいなくなる少し前から)、山ほどの摩訶不思議な体験をして、否が応でも自分と向き合うことになった。

向き合って良かったけれど、何をどうしたってその人の穴は埋められなかったし、そして私はその穴を前に途方に暮れるしかなかった。

交わりがないのも嫌だったけれど、もっともっと嫌だったのはその人から自分が忘れ去られてしまうことだった。

忘れ去られてしまう条件はいくらでも挙げられる。

むしろ覚え続けてもらえる条件を探す方が難しい。

私は自分の執着の度合いが異常なことも気付いているし、自分がおかしいともう飽きるぐらいに思った。

だけど、それぐらいの存在の人だった。

見渡せば世の中には男の人はたくさんいるわけで、何もその人にこだわらなくてもいいと思う。

むしろそんな可能性のない人にいつまでもこだわり続けても仕方ない。

交わらないものはどうしたって交わらないし、どうにもできないものはどうにもできないままだ。

それでも私の気持ちがずっとずっと変わらずにいたのは、その人だったから。

これだけ自分の感情やら感覚やらを見てきたからわかる。

その人に感じるような気持ちとか感覚は、他に類を見ない。

これは体験しなきゃわからない。

少なくとも、私は自分が生きてきた中で同じ気持ちには一度もなったことがない。

自分が知っている好きとか愛してるとかいうものとは違ってた。

そうしたものも含まれているとは思う。

だけど、それ以上の何かで、それはこれまで体験したことがないからどう説明していいのかわからない。

言葉をどんなに並べても言い表せない。

それはその人にしか感じないから、わからない。

だからどんなにたくさんの男の人が世の中に溢れていても、こう言っては失礼だけれど、その人よりもっと素敵な人はいくらでもいると思うけれど、多分その人なんだと思う。

その人にしかそういう気持ちを抱かない、そんな気がする。

そして私はただただその人といたいだけ。

私が心から願っているのはそれだけだった。

本当の願いはそれだけだった。

叶わない現実を前にあれこれ迷ったし難しく考えていたけれど、本当の本当に叶えたいのはそれだった。

本当の願いが叶わない時、あまりの痛みにその代用品を用意するのが人間のような気がした。

なんとなく良さそうなものをいくつか用意した。

だけど心の奥の方では知ってたはず。

その人の穴はその人でしか埋められないことを。

以心伝心するなら伝わって欲しい、その人に。

その人と一緒にいたいという気持ちがその人にも通じて欲しい。

心の模様【2018夏】

人生ですべてが予め計画されてることだったら…。

この話を読んだ時の正直な気持ちを綴りたい。

去年の夏1人の男性に出逢った。

これは1年経った今だから見えてる心の風景として綴る。

去年の夏について書く前に30歳の2009年の夏からの話を書きたい。

30歳だった私は、本当の本当に自分がこれからどう生きたいのかさっぱりわからなかった。

その方向性もわからないままの就職活動はしんどいだけの何物でもなかった。

ちなみに当時、就活と連動して私は大学以降に知り合った友達や友達と呼ぶにはそこまで親しかったわけではないけれど個人的に会うことはできるみたいな人たちに会いまくっていた。

目的は、自分の生き方がわからなくなった私に、色んな人の人生を見せてもらったり話を聞かせてもらえば、自分の生きるヒントになるんじゃないかと思ったから。

数えただけでも20人以上いた。

みんなそれぞれ別の土地にいたり違う人生を歩んでいて、誰から話を聞くのも楽しくて仕方なかった。

みんなそれぞれ悩みつつ目の前の何かに向かいつつ生きていて、肩の力が少しだけ抜けた。

それぞれの人がそれぞれの人生を歩むように、私は私の人生を歩いていくようになる、そう思えたことが一番大きかった。

当時を皮切りに、私は自分がどう生きていたいのかをずっとずっと模索し続けた。

途中途中、色々ずっこけまくるけれど、とにかくそこだけはずっとアホみたいに模索した。

1年また1年と過ごすうちに、本気で1人で生きていく覚悟が必要になって、さらには働き方も考えないといけなかった。

色んなすったもんだの末、2016年37歳の初夏、すべてリセットした。

リセットしたくてしたと言うより、強制終了に近かった。

死にたいとはもう思わなくなったけれど、生きること、生き続けること、何かを選び続けることに若干疲れてはいた。

とりあえずの派遣をして、それが翌年2017年の春で終了。

まだこれをやろう!なんていうものがなかった私は、とりあえずもう少し考える時間が欲しいと思って次の派遣の仕事に行った。

そして去年の夏に九州で友達の結婚式があったから、とりあえず働かないといけなかった。

それぐらいの目先の目的と答えが出そうにもない未来の先延ばしとで行った仕事で、私はとりあえず働ければいいぐらいな気持ちでいた。

出逢いも期待していなければ、我が身のこれからがあまりにも不確定すぎて、不安は山ほどあれど期待や希望なんていう明るいものは一切持っていなかった。

だからそんなところで誰かに出逢うなんていうのは想定外過ぎた。

そこは6ヶ所目の派遣先だった。

私がそれまでに行ったところの派遣先は、どこも名前を出せば知らない人がいないような大企業ばかりだった。

さらに30歳の時に採用された学習塾の仕事(男性9割)、名古屋にいた頃ハマっていた朝活で知り合ったバリバリのキャリアのサラリーマンの男性陣たち、その全てで知り合った男性陣たちを見て、私ははっきりと「生きてる世界が違う」というのはわかった。

やたらと男性が多く通うコーチングスクールに通って、そこで男の人たちとも個人的に仲良くなった人が何人かいたけれど、明らかに自分が一緒にいて居心地の良い男性たちと、職場や朝活で知り合う男性たちとは大きく異なっていた。

きちんとした人たちが悪いわけでは決してなかったし話が面白い人たちもたくさんいたけれど、何かが根本的に合わなかった。

これはその人たち個人の性格的なものにもよるけれど、きちんとした企業にお勤めの男性たちを私は何人か怒らせたり不快にさせたことがある。

相手の怒りスイッチとか不愉快スイッチが何かなんてわからないまま、私は地雷を踏んでる。

ちなみに一番怒らせたのは、朝活で知り合った方で、
「お仕事何されてるんですか?」
「デンソーです」
「デンソーってどんなお仕事ですか?」
だった。

私みたいにわからない人のために、「デンソー=DENSO」という企業。

DENSOという企業を知らなかった私が悪いとは思わないけれど、相手は明らかにムッとしてた。

塾の時の男性陣たちは、良い人や尊敬できる人もたくさんいたけれど、変わってる人や苦手な人も同じぐらいにたくさんいた。

そしてどこを見ても男性という環境下にいたにも関わらず、私はそこで一度もときめくことがなかった。

良い人や尊敬できる人は、異性ではなく「人」だった。

大学時代の男友達や協力隊の時の男友達の大半はサラリーマンだけれど、その人たちはその人たちで、日本社会に適応してることが本気ですごい!と思うぐらいに個人で会うとかなりぶっ飛んでる。

だけどその手のタイプの人には派遣先で会うことがなかった。

だから私は派遣の仕事は「仕事」以外の何物でもなくて、そこで出会いなんて全く期待すらしたことがなかった。

さらに言えば、当時勤めた会社に最初「企業見学」という名の面接のようなものに行った時、私は建物に入ってすぐに「男臭っ!」と思った。

これまでどの職場でも当たったことのないにおいで、それだけで男性が圧倒的に多い職場だということだけは簡単に予想できた。

ミーティングルームに入った時なんか、さっきまで誰もいなかったはずなのに、その男臭いにおいは部屋の中に充満していて、こんなところで働くんだ…と思ったらややテンションは下がった。
(慣れとはすごくて、入ったら入ったで気にならなくなった…)

何の話をしようとしてたのか忘れそうなぐらいに話がそれたけれど、そのぐらい期待していないどころか、自分のことにいっぱいいっぱいな状態で行った仕事だったから、そこで誰かに会うなんて考えてもいなかった。

不慣れな仕事すぎて、入ってしばらくは仕事に手一杯で周りを見る余裕なんて全くなかった。

さらに1日中何も喋らない仕事自体が初めてで、それも苦手だった。

そんな風だったから、まさかそんなところで自分の人生が大きく変化するきっかけとなる人に出逢えるなんて思ってもいなかった。

ちなみにその人に出逢った後、この1年で私は飛躍的に変化をした。

・ペンジュラムの性能がぐっと上がる
・自分の名前と「書くこと」が繋がる
・カタカムナ文字を知る(これは本だけ買って、学びはストップしている)
・オルゴナイトとの出合い
・ホロスコープの学びスタート
・ペンジュラムによる遠隔読み取り開始
・物との対話を始める
・人の潜在意識や魂からその人のヒントをもらってそれを本人にフィードバック
・ヒーリングについての学びがちょこちょこスローペースにてスタート

ホロスコープやヒーリングは第三者から学んではいるけれど、他は1人でも勝手にできるようになって(しかも練習もせず)、かなり戸惑った。

ホロスコープにしても、独学で始めたにしてはいきなり最初からかなり深いところまで見たから、知識ゼロの素人が到達するポイントとは違う気がする。

後天的に身に付けるものの中で、いきなり結構なハイレベルのことができる時、それは今の人生で必要があってそうなってる気がする。

という経過を経て思うこと。

その人は私の色んな可能性を、それもずっと眠っていて私自身もあることさえ知らなかったものを呼び起こすために私の中の蓋を開ける、そういう役割も兼ねてたんだと思う。

ここまでは自分なりに見つめてきたこと。

ここからは自分の心情。

抵抗がある人もいるかもしれないけれど、私はそうやって考えないと自分の中でかなり無理があるから、ここから先は2つの自分を出して話したい。

「人間の自分」と「魂の自分」。

私が分けるのは意味がある。

上に色々書いたけれど、私ははっきり言ってその手に入れたどれもが求めたものなのかと言われると、どれも求めていなかった。

もしそれら全部がなくなる代わりにその人と一緒に生きる道があるなら、私は喜んで手放すし、喜んでその人の元へ飛んでいく。

これは人間の私が本気で望んでる。

だけど現実は、色んなものがもたらされ開花したのはいいけれど、肝心の人がいない。

しかももたらされたものは、私もどうしていいのか、いやどう使うのかはわかっているけれど、それを本気でやろう!という覚悟は全く決まらない。

今の私には「やっても苦、やらなくても苦」という風にしか映っていない。

だけどこれだけのものが来たということは、もうそうした道の方向なのかな…と思う。

そして、それはたとえ「人間の自分」が望んでいなくても「魂の自分」が望んだことなら、なんとなくわかる気がする。

一般的にスピの世界で言われることは、魂の感覚は人間としての感覚とずい分違うこと。

例えば、人間の私は好きな人と一緒にいて日々の小さな生活を守ることに並々ならぬ憧れがある。

だけどどれだけ強く望んでも、やっとそういう人に出逢えた!となっても、とにかくそこは叶わない。

反対に、この1年でやってきたものたちは、確かに興味深いし面白いものではあるけれど、本気で望んだものかと言われると「いや、違うよ」としか言えない。

むしろ「何でこれ来た⁉︎」とさえ思う。

しかも好きが高じて来たと言うより、自分の中のものを明らかにしようと詰めていったら行き着いた、という感じ。

自分の中のモヤモヤ感は、大体奥の方からくる。

それは魂の自分の訴えのように感じる。

だから、どうしていいのかもわからない自分の中にあるものがわかっても、満たされた感はあまりない。

人間の自分が欲してるものとはズレてるから、仕方ない。

こんなことが書きたいんじゃなかった。

本当に書きたかったこと。

私にこれだけの影響が出たわけだから、もしかして相手にとっても私の登場は何かビックリするものがあったんじゃないのかな…と。

エネルギーの法則ではないけれど、片方にだけ影響が出る、しかもここまでの影響が出るというのは、一般的に考えにくい。

相手にとってのビックリや影響は負のものに満ちてる可能性も高いけれど、私の心の蓋が開いたようにその人にも何かあったのかもしれない…、生まれる前に人生を計画してくるという話を読んだ時にそう思った。

私がひたすらひたすら願ったのは、その人と繋がることだけだった。

決して能力的なものをもたらして下さい、なんて一言も願っていない。

でも結果的にきたのはそちらだった。

しかもヘビーな感じで心が躍ることはない。

去年のように「お盆休み早く終わらないかな♪」みたいな楽しみはない。

この1年は、常に心の中に大きく空いてしまった穴を埋めようと必死だった。

満たされない穴は満たされないままで、そして私は怖さもあった。

私は24時間ずっとその人が頭から消えない感じなのに、その人はその人で新しい生活に入ってさらにはもうそれが日常と今は化してるだろうから、その人の中で何でもない私というのもすごく嫌だった。

関係がない…これが私にはすごく悲しくて未だ受け入れられない自分がいる。

だから膜を張って遠くにしたのかもしれない。

2018年8月18日土曜日

去年の夏と今年の夏と

1年前の夏と今年の夏は180度違っている。

異次元と呼んでもいいぐらい。

同じ体で同じ自分でそれぞれの夏を体験したとは思えない。

それぐらいに全く違う風景の中にいる。

突然、去年の夏がものすごく遠いものになった。

プツッと張り詰めていた糸が切れたのか緩んだのか、これまでの位置と同じような場所にありながらも何だか遠くなってしまった。

あの時だけがすごく特別で、夢の中や想像の中の出来事だったんじゃないかと疑ったほどだった。

あまりにも色々あるから、私は毎年今ぐらいの時期に何をしていたのか、夜寝る前にノートに書き出してみた。

2009年の就活に始まり、とにかく毎年毎年違う言葉が揃った。

去年だけ異色だった。

ずっとずっと近くにあった。

いつでもどこでもずっと自分の中に内臓されていて、それが近さの理由だった。

近いも何も常にあるから、それに目を向けるかどうかだけの差でしかなかった。

それがどういうわけかこの数日で質が変わった。

膜が張ったような、とにかく遠くの存在に代わった。

「これが最後じゃない」

その人を最後に見た時に私が感じたことだった。

その思いは本当にいつまでも残った。

そう思いたくなかった私の気持ちだけなのか、そうではなく本当に予感のような感じでそう思ったのか、そこはよくわからない。

よくわからないけれど、その思いはこれまで大なり小なりあった。

花火を見た日、過去の日記を書き続けた日、それらを経た後、今みたいな膜が張ったような、遠くに行ってしまったような感覚が生まれた。

色褪せたのとも違うし、否定してるのとも違う。

確かにあったことなのに、突然遠くに行ってしまった。

関係ないけれど、花火の日、なんと車を止めた場所と同じ駐車場の同じ階に見覚えのある車が止まっていて、見間違いかと思って近くに寄って見たら多分そうで、それは3月まで働いてたところに勤めてる人の車だった。

週に2、3回はすぐ隣りに止めてたし、まぁ週5並みに毎日同じ場所に止めてたからそうだと思う。

県外ナンバーで数字も特徴ある数字で車種も色も同じ。

多分間違いない。

ひたすらすれ違いませんように…と祈った。

会ったら挨拶はできるけれど、決してばったり会いたいとは言えない。

すれ違わずに済んだけれど、こういうシンクロも多いなぁと思った。

だって全国的に有名なその花火大会の日、駐車場は通常よりも数が増える。

あちらこちらに無数の駐車場があって、しかもそこは立体駐車場で何百台と止められるはず。

なのに何でそんなピンポイントで同じ駐車場の同じ階に止めるんだろう?と思う。

余談だけれど、私はまず誰か職場の人にプライベートでどこかでバッタリ出くわすことはない。

花火の日は車だけだったけれど、私はあんなに少ししかいなかった職場なのに、勤めてまだ3ヶ月目に入った頃、某スーパーでその当時の職場の人にバッタリと出くわした。

向こうが「武士俣さん!」と声をかけてきて、それがその人も私もどちらも生活圏内では全くないところで出くわしたから度肝を抜かれた。

「武士俣さんこんなところまで買物に来るんですか?」と聞かれたほどだった。

私も同じ質問を返した記憶がある。

その人だけは唯一普通に話せる人だったから、後日奥さんきれいですね、ということまで言えたぐらい(奥さんではなく奥さんの妹だったらしい)。

確実に普段起こらないようなことがバンバンと起こり始めた時期だった。

それは今も変わらないし、年初めから春先にかけてはもっともっと色んなことが重なりまくった。

話がそれた。

お盆に入る直前ぐらいから、あんなに近くに感じられたものが突然様相を変えた。

膜がかかったみたいな感じとしか言えない。

そのことと関係あるのかはわからないけれど、この間ある記事を読んだ時に、そうだったのかな…と思ったことがあった。

それは人生が生まれてくる前に計画されたものか、それとも自分の自由意思で選んで生きていくものなのか、という話だった。

その方の解釈はとても面白くて、それは両方だと思うという説を唱えていた。

どこから人生を眺めているのかで見え方が変わるという話で、天国じゃないけれど天空から地上を眺めた時には人生は決められた通りに展開していて、でも地上で見ると本人が選んだ先にその日常が展開しているように見える、みたいな言い方をされてた。

人と人とが出会うことは決まっていて、生きている自分たちからしたら今出会えたみたいに感じるけれど、上空から見るともう予めこのタイミングのこの場所で出会うと決まっていて、計画通りだね、となる。

歩いて角を曲がったらその人に偶然出くわした!みたいに生きている私たちは感じるけれど、人生の計画からしたら上空からAさんとBさんがそれぞれの道を歩いていて、その角のところで会うようになっていることが丸見えで予定通りだねとなっている。

そんな風に書かれていた。

あくまで書いた人の考え方ではあったけれど、私には妙にしっくりきた。

私はそれを読んだ時に去年の夏のことを中心に色んなことが心の中を駆け巡った。

30代のこの10年ぐらいのカオスな人生を見ていてわかる。

生きている私からすると、多くのことが計画外で何で自分の人生はこんな風なんだろう?と思うことはかなりある。

ただ、人との出会いに関して言えば、かなり綿密に計画されたものだと感じるようになった。

しかも出会う順番も狂うことがない。

本当に計画にのっとって登場してくれてるとしか思えないぐらいに。

色々ある中で、私の場合は、何かしらの理由で疎遠になっていくタイミングがある。

それは物理的な引越しの場合もあれば、役目を終えると徐々に疎遠になるのか今は全く会うことがないという人もいる。

好き嫌いとかではなく、本当に感情ではない理由で人間関係が推移していく。

もちろんそれでも繋がり続ける人たちもいる。

前置きが長くなったけれど…。

去年の夏のことは、もう最初からあの短い時間だけ登場する予定の人だったんじゃないかと思った。

私からしたら突然現れた人だったけれど、それこそ生まれる前に「38歳の夏、地元にて働いていて、そこで○○という男性に出逢う」と計画がされていたのかもしれない。

時間にしたら短いけれど、影響はすごく大きかった。

何年もかけて私は自分の心のケアをしたり内面を見つめることをした。

ガッツリとやっていた時期は足がけ4〜5年になると思う。

その4〜5年で積み重ねたものは今の私の状態になるための基礎的な部分で、おかげで心の土台は相当しっかりとしたものになった(自分比)。

そうした積み重ねで起きた変化よりも、もっと大きな影響を与えてくれたのが、去年の夏だけいた人だった。

「磁場が動いた」と言ってもいい。

私の中で想像もしていなかった形で自分の中も外もたくさんの変化が起こった。

起こそうと思って起こせる変化ではなかった。

気付いたらそうなっていたし、私が今生必要とする力のスイッチがその人の登場によってオンになった感じだった。

そもそも最初は1通の手紙から始まる。

手紙がブログになり、ブログと書くことがリンクし、それが自分の名前に繋がり、自分の中に刻まれているものに興味が出てホロスコープに行き着き、さらには言葉で説明しても怪しいだけの目には見えない力に気付き、ヒーリングに本格的に興味の方向が流れた。

手紙を必死で書いてた時にそんな展開なんて想像さえしていなかった。

大きいものだけ挙げたけれど、他にも細かいことはたくさんあった。

私の場合、発芽した感じだった。

その人の登場により硬く閉じられた蓋がカパッと勝手に開いて、そしてどんどん広がるようになった。

もちろんそれら全てを体験しているのは私だし、じゃあその人が何をしたかと言えば何かをしたんじゃない。

その人はただいるだけだった。

ただそこに存在するだけでそれだけの影響を引き出すなんて、普通に考えてありえない。

だけど疑いの余地もないぐらいにそうなっていて、その人が登場しない人生だったら今は全く別の人生になってたんじゃないかと思うぐらいに。

だからすごい影響力なのは間違いなかった。

間違いなく、私の人生計画に含まれていた人物だったと思う。

色んな種類のセラピーだのコーチングだのを受けて、本物の力を持ってる人に当たるとありえないほどの変化が起こることも知っている。

自分が体感したからわかる。

ところがその人は何もしなかった。

指一本私に触れてないし、何なら無視みたいなことまでされたこともあって受け入れ難いものもあった。

なのに、その実力者たちの知恵や技術を借りて変化したことよりも遥かにたくさんの変化がその人がいるだけで起こったわけで、今冷静に考えるとありえないことがわかる。

もし、その人がそういう役目の人であるなら、今は人生が交わらない理由もなんとなくわかる。

こんなこと認めたくないけれど、人生の中で自分ではどうにもならないことがある。

他の人は知らないけれど、私の場合、それが相当顕著に出る。

それは自分が望む望まないは関係ない。

望まなくても、人生においての役割が終わると絶対的な別れが訪れる。

それは止められない。

その人とは付き合ったわけでもなんでもないから「別れる」という表現自体もおかしいけれど、もう人生の中に登場しないということはそういうことなんだろう。

スイッチをオンにしてくれるところと私の頑なに閉じていた気持ちを開くこと、そこの部分は十二分に満たしてもらったから、終わりなのかな…と思った。

だからということではないと思うけれど、本当に突然膜がかかったみたいな感じになって、しばらくは去年の夏のことが幻のように感じた。

いきなり遠くになってしまった。

もしかしたら防衛反応なのかもしれないし、単に認めたくなくてあがいてるだけなのかもしれない。

でもこれまでと距離感というか質みたいなのが異なってる。

その人の名前は相変わらずあちらこちらで見聞きするし、完全に存在がなくなったのとも違う。

だけど、何かが少しずつ変わってきた。

私はこの文章を本当にアップするのかどうかを迷った。

もっと言うと、最初は数行しか書いてないまましばらく放置してた。

9月に入ると今度はいよいよ色んな記録たちが残されているから、何かしら開けば当時のことが鮮明に思い出せる仕組みになっている。

もちろん開かない可能性もある。

開いても開かなくても9月には9月の風が吹く。

その時に今の気持ちはもう書けない。

もしかしたら今の膜がもっと強固になってしまうことだってあるし、そんなことはなかったかのようになってる可能性もある。

または何かがガラリと変わることももちろんゼロじゃない。

だから残そうと思った。

2018年8月17日金曜日

ホロスコープで自分調べをする理由

ホロスコープで自分調べをする理由を考えてみた。

このお盆はメンタル的にかなり重たいものになった。

その前に2週間ほど心の毒出しをしていたことも関係している。

家族や親戚間で思わぬ事態がいくつか出てきた。

どれ1つを取っても、本当に何てことないことばかりだった。

誰かが大きな問題を抱えるわけでも、お互いに傷付け合うようなことをしたわけでもない。

ごくごく普通の生活の中のちょっとした場面の連続でしかなかった。

だけど、私はちょっとした場面に身を置いて、自分のメンタルはもう限界だった。

泣けるものならその場で泣きたかったぐらいに。

だけど泣かなかった。

そしてその繰り返しをした中でやっと繋がった。

私がどうして家の中で居場所がないように感じたり、周りの人たちの無意識の部分を読み込んでしまうクセがあったりする、その大元のところ。

塾に勤めていた時に、私はある時1つとても褒められたことがある。

褒めてくれたのは外部の人だったけれど、その人も教育に携わっている人だったから、そう言ってもらって嬉しかった。

褒められたことはこうだった。

私は子どもの電話越しの声や、教室に入ってくる時の声や空気で、何となくその子の状態がわかるところがあった。

それは本人の顔が見えない状態で、それ以外からの情報で私は感じていた。

「今日何か変」っていうのは、本人が隠そうとしてもわかってしまうところがあった。

ストレートに突っ込める子にはストレートに聞いていたし、そのタイプではない子には様子を見てどうするかはその都度考えてた。

しれっと関係のなさそうなことを話しかけてみたり、もしくは後日直接聞いたり、又は具合悪い?と聞いたり、まぁ色々だった。

その察知する力や判別できる力について褒められた。

この能力、どこから身に付けたのかずい分とわかっていなかったけれど、この度家族や親戚一同の中に身を置いてわかった。

子どもの頃からの癖で、黙っていればいるほど物事はよく見えていて、その自分なりの理解の上で変に先回りして動いたり反対に気付かなかったフリして普通にしてたり、そんなことばっかりしてたんだなと気付いた。

でもそれと自分の気持ちとは別物で、私は自分の気持ちを奥に追いやってでもその場の平和を維持するために行動を選択するクセがある。

だから自分の気持ちは殺されたような状態になる。

当然本当は苦しかったり悲しかったり寂しかったりする。

それを私は毎回奥に追いやっていた。

そして気付くと、人に気を使ったり、自分だけは大丈夫と毅然に振る舞ったり、まぁ自分を無視するという意味では私はかなりなやり方を自分自身に強いていた。

自分で気付くようになっただけでも私にとって大進歩だった。



ホロスコープで自分調べをする理由。

それは自分を客観的に知ること、そしてその自分に合った生き方や価値観に繋がるヒントが欲しいからだと思う。

例えば、
・自分を好きになる
・自信を持つ
・どんな自分も受け入れる
・自分のしあわせを見つける
・自分軸で生きる
とかいうことをよく自己啓発でもスピリチュアルでも謳われている。

悪いことじゃない。

そしてそういう本や講座が人気なのもわかる。

だけど、私はそういうことを求めてるわけじゃないとわかってきた。

>自分を好きになる、なんて相当ハードル高い。

むしろ、自分のこと嫌いでもいいから嫌いなまま生きる術を知りたいと思ってる。

>自信を持つ。

これもまた難しい。

私という人は、自分が取り組む分野においてはどこまでも自信のないタイプの人。

これはホロスコープにも出ている。

自分に厳しいし、アホみたいに高いレベルのものを自分に要求する。

今は気をつけているけれども、それでも本来のクセはそちらだから、いくらやれてももしくは結果を出しても自信はなかなか持てない。

でもそのぐらいがちょうどいいのかもしれない。

>どんな自分も受け入れたいと切に願っている。

これは拒否したい自分が少なければ少ないほど生きやすくなると思っているから。

だけど、これ難しいとわかる。

特に私は人間関係が発生すると、変な気遣いをしてどっと疲れるか、もしくは近しいとある日突然怒りに火がついてしまって相手は関係ないのに不機嫌になってしまったり。

そういう自分は仕方ないと思うけれども、受け入れ難い気持ちはそんなに変わらない。

>自分のしあわせを見つける。

これはハードルの低いものと高いものがある。

子どもの頃からの不遇な時代のおかげで、私のしあわせバロメーターはかなり低いし、一般的な人たちよりもしあわせを感じる力は相当強いと思う。

だけど、そのしあわせを感じる力や強さがすべてを良くしてくれるわけではないと最近わかってきた。

そして人生で本当に叶えたかったことが叶わなかった時、それでも私は自分がしあわせに生きているなんて言えなかったし全く思えなかった。

今時間薬が効いて、そして自分を色んな形で癒して、ようやくその現実を10年近くかけて受け入れ出した。

しあわせ?と聞かれたら私は「心から笑える瞬間が出てきた」としか答えられない。

そして「今ここがすべてで、しあわせは感じるもの」だとよく言われるけれど、私はそんな綺麗事だけを言い並べるよりも自分の気持ちの通りに気持ちを感じる方が自分は楽になれることがわかってきた。

>自分軸で生きる。

というのはあるところでは大切だし、だけどそうできない時、できてないと自分で自分を思う時、そんな時の自分との向き合い方の方が大事だと今は思っている。

だから、自分が色々ひねくれているのもわかるけれど、もうこういう自分でいるから仕方ないところもある。

私が自分調べをするのは、そういうひねくれていると思う自分でも、ダメだと感じる自分でも、人と交わり出すと自分が二の次になりやすい自分でも、今ここでしあわせなんて感じられないと反発する自分でも、もうその自分で生きていく覚悟のようなものが欲しくて調べてる、そんな気が今回した。

ホロスコープは調べれば調べるほど、私という人がどんな特性を持っているのかを教えてくれる(正しくは、突き付けてくれる(汗))。

例えば「自信を持つ」こと。

一般的には自信を持つことは良いことだとされる。

私もそれに反論するつもりはない。

だけど、そもそも自信を持ちにくい、自分で自分に完璧主義を求める傾向がある、となったら、「自信を持つ」ことを求めること自体、余計な負担を自分に強いることになりかねない。

それは「アレルギー体質を完治させて健康になろう!」と言ってるようなものだと思う。

例えば卵アレルギーだったとして、卵を食べないことでそれを防ぐことはできても、アレルギー体質から非アレルギー体質になるというのは、相当難しいと思う。

卵アレルギーを持ったまま、その人はその人のやり方で自分の健康を作っていく、というのが本来のやり方だと思う。

で、これが体のことだとそういう対応になるにも関わらず、心や性格的なことになると、日本という国の中ではまだまだ「自分を好きになろう!」「自分を受け入れよう!」「自分に自信を持とう!」みたいな凶暴なやり方がまかり通るところがある。

そんなわけない、と思う。

みんながみんな、良いとされるものを受け入れて生きていけるわけじゃない。

ものすごい卑しい例を出す。

私は世界共通の英語のテストTOEICで世界で上位3パーセントの中に入る成績を残した。(←今は無理)

私は何の前情報もなく受けたから、その成績が世間一般ではどう凄いのか、後から知った。

私はわかってないから「世界共通の英語のテストを受けた」に過ぎなくても、周りの人たちからやたらと評価されるという変な感じになっていた。

そうなった時、私がどこを見るかと言えば、自分より下の人ではなく、自分よりできる人たちを見て「自分はまだまだ」だと思う。

これは本気でそう思ってる。

そして、小難しい英語の何かを人から頼まれると、例えば東大受験の子の英作文の添削とか、医療系大学院の論文の添削とか、そういうものをする時に私は大丈夫かな…と相当心配になる。

引き受ける前には当たり前だけれど、「私が間違う可能性もたくさんあるから、それを承知の上じゃないと引き受けられない」と言う。

誰もそんな完璧なものを求めていないのもわかるし、私も自分を見て自分がバカじゃないかと思うこともある。

ましてや完全なるボランティアでしてたから、それでお金をもらうわけでもなかった。

なのに変な責任感を感じたり、やるならやるできちんとやらなきゃいけないと思っている。

基本、相手のあることだと適当にできない(自分のことは適当にできるのに)。

私の場合、そうしたものを特性として持っている。

ある程度極めても、私にとって極めた分と自信を持つこととはイコールにならない。

すんごい嫌味みたいに周りから映ったとしても、私は自信がないことや完璧主義は生涯付き合っていく自分の性格だと思ってる。

私の場合で言えば、「自信を持つ」ことは難しくても「完璧主義なところを緩める」ことはまだ手が届きそうな気がする。

だからそのやたらときっちりとしなきゃという自分に気付く努力はするようにしている。

自分に変なプレッシャーを与えていないかも見るようにはしている。

だけど、そういうのをさっと自然に引き受けてサラサラっとやる人たちのようには多分私はならない。

そうするには私は相当な自己改革が必要で、そんなことしてまで自分を何とかしたいと思っていない。

なら自分はそういう自分です、とさらけ出せる方が楽だなぁとここ最近は特に感じる。

今はそうやって自分を見れるようになってきた。

そしてそもそも持ってない資質を持とうと努力するのはアホらしいと気付いた。

持ってない資質を無理に作ろうとするよりも、持っている資質を活かすなりもう少し自分の扱いやすいように付き合い方を考える方が自分のためになる。

それは教科書通りの考え方では何とかならない。

たくさんの素晴らしい教えに触れるよりも、自分のホロスコープを見てそこから知り得たことを自分に活かす方が有意義にさえ感じる。

そうしたクセを見るにもホロスコープはものすごく役立つ。

冒頭の居場所のなさだの人の非言語の部分のコミュニケーションの読み取り能力なんていうのは、もうそういうものとして付き合う術を見つけることが私の場合は生きやすくなる。

自分は自分でしかないから、と言うよりもそういう不完全な自分で完全体だとも思っているから、そういう自分といかに上手くやっていけるかだと思う。

それを教えてくれるツールがホロスコープになっている。

ちなみに占星術家いわく、ホロスコープで自分の苦手分野を知ったからと言って、そしてそれを良くしていくヒントを知って実行に移したからと言って、得意になるのとは違うと言ってた。

人によって違うけれど、その良くしていくヒントは、ものによってあったりなかったりする。

ないというのは手段としてないという意味ではなくて、基本的にはこういう分野においては相当キツイ体験をしますというのが誰にでもあって、それに対して緩和してくれる役割の星があるかないかの差。

私の中では、傘を持っているかどうかの差だと思う。

雨が降れば誰でも濡れるわけで、傘があれば雨を止められなくても雨に濡れない手立てを立てられる。

雨にあまり濡れずに対応できるというか。

反対に、緩和してくれる星がないというのは、土砂降りの中、傘なしで進むような感じ。

濡れ方も半端ないし、防御のしようがない。

私の場合も、星たちがフォローする配置になってる部分もあれば、フォローなしで傷が剥き出し、傷口に塩を塗るみたいなところもある。

どの人が言っていたか忘れたけれど、それいいなと思ったことは覚えている。

例にあったのは、自己表現が苦手な星の配置を持ってる人だった。

その自己表現が苦手で、例えば実際の仕事の場面でもプレゼンテーションとかがとにかく苦手という人がいたとする。

ホロスコープの配置にもその苦手だということが出ていて、そしてそれをカバーすべくヒントを手にしたとする。

その人がそういう自分を何とかしようと努力したとして、超一流の話し手みたいになるわけではない。

そうじゃなくて、苦手は苦手でも本人の中で「前は人前で話すことが苦手だった」ものが、今は工夫をすることで苦手でもできる部分が増えた、みたいな感じらしい。

苦手を克服するというよりも、自分の人生の中にそうしたテーマがあると気付くことや、テーマが苦手でも苦手のままそれとどう向き合うのか、それを教えてくれるのがホロスコープとあった。

私の場合も、色々と勝手に起こりやすい人生の流れや心の拠り所のなさ、人間関係の中で生まれる痛みなんかもきれいにホロスコープに出ている。

それは巷に溢れている作られた価値観よりも、ずっとずっと自分の気持ちに寄り添えるヒントになってくれる。

だから迷った時、ホロスコープを使って自分を調べる。

調べていくうちに、自分に響く言葉と出合う。

そして自分の向かうところや今ある場所のヒント、過去の癒されなかった傷への薬がわかったりする。

2018年8月16日木曜日

ホロスコープで自分調べ

迷った時はホロスコープ調べ。

今の今、色々と調べていた時に、なんと自分のブログがヒットした。

まさかホロスコープの調べ物で自分のブログがヒットするなんて夢にも思わなくて、度肝を抜かれた。

どのサイトを見てもとにかく暗い内容が必ず書かれてしまう特殊なアスペクト(角度)を私は持っている。

ちなみに、専門用語は「ヨッド(ヨード、YODとも書く)」「ブーメラン」。

私のは、ヨッドとブーメランの複合型2つ、ヨッド単体が1つ、計ヨッド3つ、そして3つのヨッドのうち2つでアルプス型を形成。

心優しい占星術家の方たちが、扱いづらいものを持って生まれている=葛藤はあるもののそれが自分のためになっていく、自分との付き合い方や生き方がわかってくる、みたいなことを書いてくれてる。

そういう視点でもないと、どうもその型を持ってるホロスコープの人たちにはプラスとなる視点で説明するのは難しいらしい。

ヨッドの記事だけはコメントも積極的に読むけれど、確かに総じて暗さとか生きづらさを短い行数で書いている方たちが多い。

ホロスコープのブログで、ヨッドの記事ほどコメントのつく内容も他にない。

当事者としてわかるけれども、何でもいいからそれを持って生きるヒントが欲しい。

コメントを残してる人たちも基本的にその欲求が強いように感じる。

要は自分の中の意味不明なパターンや人生そのものの流れにおいてやたらと強制力のある出来事がやってくるから、感じ方は人それぞれにしても生きづらさはある。

強制力のある出来事というのは、自分が望んだり計画したりもしてないところから、突如訳のわからないことが浮上する。

これがヨッドと関係あるのかどうかは知らないけれど、そういうコメントが目立つということは、傾向として全くないとは言えないと思う。

いつになるかもわからないけれど、このよくわからないホロスコープをガンガン使えています!みたいな生き方になってきたら、私はそれを客観的な分析と共に文章で紹介したいとさえ思っている。

調べていてわかるけれど、ヨッド持ち本人の人が発信している情報というのが極端に少ない。

・ヨッド(ブーメラン)特有の特徴
・葛藤の場面や内容
・その克服の仕方、又は自分との付き合い方
・活かし方

それら全てを網羅してるサイトなどなく、それぞれたまたまヒットする話をちょっとずつ拾って自己理解のためのヒントにしている。

だから反対にそれらが自分の中である程度まとまったら、全てをまとめて文章にしたい。

ちなみに、調べてる途中、IPS細胞でノーベル賞を受賞した山中教授のホロスコープの話もあって、それがわかりやすかった。

そんなすごい功労者と自分を並べて考えること自体かなり無理があるけれど、私が参考にしたのはそこではなかった。

その記事によると、山中教授自身は本当は外科医?手術専門の医師を目指そうとしてたらしい。

だけどとにかく手術が下手くそだったようで、その道での開花は望めないようだった。

そこで研究の分野に行くことになる流れになったのか選んだのかは知らないけれど、そうすることで本当に山中教授にしかできない研究ができた模様。

もう少し掘り下げると、医学というくくりの中でまずは路線変更。

そして研究という分野でも「これだ!」となる特定のものに行き着くまでも多分紆余曲折はあったと思う。

そして今IPS細胞に行き着いてからは、今度それをもっともっと深めていくところにいるのでは…と思う。

この流れがわかりやすかった。

要は、本当の本当にピンポイントで自分にしっくりくるものに当たるまではひたすら試行錯誤、トライ&エラーということなんだと思う。

関係ないけれど、「試行錯誤」よりも「トライ&エラー」の方が言葉としてしっくりくる。

だから例えば私なら、心や感情についてとことん色んな手段で調べたり色んな手法で癒したりするけれど、そのしっくりといく形になるまではもうひたすら数打つみたいな感じ。

しかも本当にするのかどうかは知らないけれど、そうしたことを本当に仕事として確立するにしても多分相当マニアックなものに行き着くと思う。

そして行き着いて終わりではなく、ある程度鍛錬を重ねる場所がわかったら、今度はそこをさらに深める流れに入っていくと思われる、ヨッドの場合。

このすぐ下にサビアンシンボルについて書いたけれど、その使い方も相当マニアックだと感じる。

少なくとも、そういう使い方をしている人をネット上で見たことがない。

個人的には、そうしたことも自分のそのヨッドと呼ばれるホロスコープの特質の1つだと思っている。

理由は何であれ、何かと何かを組み合わせて極めていく、というのが傾向としてある。

ちなみに私の理由は、世の中に貢献したいというような気持ちは一切なくて、とにかく自分の内面や人生を紐解きたくてやっている。

そして、極めていくということは、言葉を変えると、そこに相応しくないとか道がズレてると感じるととことん排除する。

いいとこ取りだけして、不要になったらバッサリと切り捨てる。

それも多分ヨッドの特徴だろうし、そう思って自分の過去を眺めると本当にそのように人生を進めてきている。

私の場合、これを職業的なことでやたらと起こるから?やってしまうから?、周りからはほとんど理解されない。

自分でも理解に苦しむことは多々あるから、表面的なことしか見えない周りの人たちから理解されようとする方が難しいと今は思う(←あきらめた)。

そんなこんなのことを調べていたら、自分のこのブログがヒットしてビックリしたという話。



話はまたガラッと変わるけれど、去年の12月、東京は吉祥寺にあるスープカレー屋さんで手にした『未来事典』という本。

副題は『3年後の私がわかるサビアン占星術』。

私があまりにもガッついて見ていたら、お店の方に「もし良ければコンビニでコピーしてきてもいいですよ!」と言われた本だった。

言葉に甘えてコピーしたし、そしてそこまで言わしめた本だけあって、想像以上に使える本で、今も大活躍してくれてる。

頓挫したままの占星術の方法論がある。

それをさっき久しぶりに見て、相変わらず読み方がわからないけれど、サビアンシンボルというものだけは使い方を覚えたから(←自分で使っていくうちに覚えただけで正しい使い方は知らない)、そのサビアンシンボルを未来事典の本から読み解いていた。

その時に、この39歳という1年のテーマがわかって、5ヶ月過ぎて6ヶ月目に入ったけれど、まさにそのテーマの通りの39歳の流れになっていてビックリした。

ちなみにサビアンシンボルは全部で360種類ある。

だから、その360個のうちの1つが今の自分の姿に重なる。

ちなみにそれは「座ってすべての手足を振っている大きな熊(水瓶座23度)」というシンボルで、意味としては自分の内側(心の中)に目を向けつつ外側の行動に繋げていく、心身の一体化を目指すみたいな感じ。

心の声と実際に体を使っての行動の一致を図ろうとする、そんな風に感じた。

さらにもう1つ別のテーマと繋げると、自分に響く音楽の存在に気付く、みたいなものがある(何法と呼ぶのか知らないけれど、生まれた時の太陽星座の位置から毎年1度ずつ角度をプラスしてその年のテーマを見ていく手法)。

その2つを重ね合わせると、とにかく自分の心の声をひたすら聴く、ということだと私は解釈している。

自分が気に入る音楽に気付くには、まずそれを聞き取る耳を持たないといけない。

耳を持つと言うよりも、耳を傾けると言う方が近いかも。

意識的に耳を傾けると、どこからともなく耳に音楽が入って来る。

音楽とあるけれども、それって違う言い方をすると、自分の好みだったり自分が大切にしたい価値観を指すと思っている。

その自分の好みだったり価値観は、それこそ体を使いながら探ったり、体の動きを通じて快不快を見極めたり、又は心にあるものを実際に体を通して行動することで知っていく、そんな風に思う。

だから熊が座りながら手足をブラブラしてるのは、自分の中のバランス感覚や自分にとってしっくりくる体の動かし方を探る、そんな風にも解釈できる。

抽象的な話だけれど、それがわかると自分の今の流れとも重ね合わせて見れるから、「これでいいんだな」と思える瞬間がある。

この読み解き方はこの文章の最後に【追記】として書いたから、ホロスコープに興味のある方はどうぞチェックしてみて下さい。

ちなみに私は過去3年分ほどピックアップして調べたら、確かに2つのテーマが連動していることがわかった。



相変わらず話があちこちに飛んでいる。

私のリサーチのやり方もあちこちに飛びがち。

おかげで色んな情報に触れられて面白いけれど。

調べていくうちに、この1年を見ていく別のやり方もわかったから、明日はそれを丸っと1日やろうと思っている。

ちなみにそれは「ソーラーリターン」とか「太陽回帰」というらしい。

どうでもいいことだけれど、調べてる途中で私と同じサビアンシンボルの度数の説明を見つけた。

絶句しそうだった。

その度数の人の特徴の1つとして、「乙女座なのに整理整頓が得意ではない」というようなことが書かれていた。

整理整頓が得意ではないことは全く目指してもないけれど、むしろそれは得意分野でありたいと常々思っていることだけれど、反論の余地もないぐらいにその通り。

妹たちの帰省に合わせて部屋を片付けた際、ごちゃごちゃしたものたちは全て大きな紙袋又は段ボールに突っ込んだ。

明日以降、あれがないこれがないと言いながら探し物をしてる自分の姿が思い浮かんで仕方ない…。

どうかホロスコープの調べ物に熱中できる環境にありますように…と願わずにはいられない。



【追記】
ホロスコープで調べた方法。

1、今の年齢のサビアンシンボル(太陽星座の度数)を出す
2、ハーモニクス占星術で同じ年齢の太陽の度数を調べる(※)。そしてその度数のサビアンシンボルを出す
3、上記2つのサビアンシンボルを重ねて自分なりに解釈する

(※)…ハーモニクス占星術での現年齢でのホロスコープの出し方。
私は、astro.comというサイト(無料)で自分のホロスコープをいつも調べていて、その中の

1、「チャートタイプ」を【調波図(日中→調波番号)】に設定
2、その少し下の「表したいチャートの日付」の日の部分に現年齢の数字を入力

そうするとハーモニクスのホロスコープが出てきて、それで現年齢の太陽の星座と度数がわかる。

例えば私なら39歳で、本来日付に39日なんてないけれど、そこは気にせず入力。

個人的に感じたのは、現年齢の太陽星座のサビアンシンボルがその年齢の1年を通じての象徴的なテーマで、ハーモニクスで出した方の太陽のサビアンシンボルがその象徴的なテーマに対して実際にどう行動したらいいかのヒントになってる気がする。

ついでにハーモニクスでヒットする他の天体のサビアンシンボルも読むと、色々重なりが見えて面白いしヒントになる。

参考にされる方、これは私の超主観的な見方だということを頭に入れた上でご活用いただけると幸いです。

2018年8月15日水曜日

看板の文字〜夜の高速道路〜

数ヶ月ぶりに高速道路を運転した。

しかも私は今日その予定はなかった。

終わってみると全て必要があって見てきた風景だと気付く。

今度改めてアップしたいと思うけれど、私が今日一番感動した言葉はこうだった。

「史子と純(仮名)だけは俺に懐かなかった」

これは母の妹の旦那さん、私にしたら義理のおじさんの1人にあたる、還暦前のおじさんに言われた。

純ちゃんはいとこのお兄ちゃん。

私たちいとこはみんなでそのおじさんをあだ名で呼ぶ。

小学校1年生か2年生の時からの付き合いのおじさん。

私からすると、数少ない心は多少開いた大人。

甘え下手な自分が少しだけ甘えられて、少しだけワガママや思ったことを言えた大人。

私の中では相当がんばって甘えて相当がんばって自分を出してたつもりだった。

それでもおじさんは私を「なつかない子ども」として見ていた。

そう、ありのままの私を見てくれていて、さぞかし扱いづらい子どもだったことは想像できるけれど、それでもおじさんは他の義理の姪っ子や甥っ子と変わらずに私と接してた。

ありがたかった。

そんなこと今の今まで知らずにいた。

無理しまくり、自分を押し殺してた子ども時代、そんな風にそのままの私を見てくれてた大人がいたとは、想像さえしていなかった。

単純にとっても嬉しかった。

なついてない私もなついてる妹たちやいとこたちも全く同じようにしてくれてたと知って、ものすごく嬉しかった。

私は自分の子どもの頃からの癖も特技も人間模様も、全部一気に見てきた。

毒出し後半戦(と勝手に思っている)に相応しい時間だった。



120キロ近い帰路を私が運転した。

高速道路に通行止めの案内が出ていた。

地名を見てもどこからどこなのかさっぱりわからなかった。

だけど、そんなことはどうでも良かった。

そのどこの県なのかもわからない地名には、私がこの1年何度も何度も目にした名前が含まれていた。

心の中の毒出しと、1年という時間の重みとで、しばらく私は色んなことがそれどころではなくなった。

幻のような姿と時間を前に、私はもうこのまま何も交わらずその人の全くいない世界をこれからは生きていくんだと思っていた。

今も思っている。

あきらめに悲しみにやるせなさに、もうこれ以上苦しくならないならこのまま終わりが正解だと感じ始めてた。

毒出しも強烈過ぎて、自分の中の混沌とした世界にその人がいることの方が無理だと感じた。

むしろ今の状況の方が無理がなくて自然なんだと、悲しくなりながらも受け入れることをひっそりと始めた。

無理がないと言うのは、私の日々の生活の中にその人がいないこと。

見える形での繋がりがないということを、それが一番自然でなるべくしてなった結果だと思うことが増えた。

そんなこんなの色んなことが重なった矢先に見た名前だった。

驚きつつ、このタイミングだったおかげで、喜んでいる自分がいた。

名前が存在が私にとって幻的なものに変わったとしても、とにかくこの瞬間を切り取った時に紛れ込んでたとするなら、それでいいと思えた。

何のアピールなのか、3回も同じ案内を多分20キロおきぐらいに見た。

何1つ関係なんかなくて、もしかしたら間違いで起こった予定外の出逢いだったのかもしれない。

それでも今のこのタイミングで現れてくれたことはありがたかった。

予定にもなかった母方の実家への帰省は当初全く気が進まなかった。

今も行ったことが気持ちを明るくしたかと言われたら、そうだったとは言い切れない自分がいる。

今さら何ももう自分を説明する言葉を持っていなかった私は、裸みたいなものだった。

そうした時に、私は初めて自分の立ち位置が見えた。

世代を超えて脈々と受け継がれているもの、そして自分がどうしてこの親族のところに生まれて、さらには何を役割みたいな形で持ってきているのかも肌で感じた。

自分のことはまだまだダメだけれど、こと他人となると私は突然違う視点から物事を眺める癖がある。

その視点には、善悪や世の中の常識、正しさは存在しない。

代わりに、否定したくなるようなことの裏側にあるメッセージみたいなものに気付く。

世代を超えてでも引き継がれてきた家系的なテーマが見えた。

見えたというのは、見る必要気付く必要があったということも徐々に受け入れ始めてる。

嫌だけれど、仕方ない。

今は嫌でも、いずれとても意味の深いものに変わることもなんとなく想像できる。

手段や方法なんて知らなくても、多分そう。

まだまだ受け入れていない自分が9割以上を占めている。

気のせいであって欲しいとさえ思っている。

そんな色んな気持ちを混ぜこぜにしながら運転した高速道路だった。

毒出しも疲れたし、自分が今色々気付いていることも明るいことではない。

むしろ手放せるのなら手放したいぐらい。

そんなナイーブな気持ちをいくつも抱えていた時に、突如と現れたどこぞの地名で、そして特別な意味を持っている名前だった。

会えるから・目に見える形があるから意味があって、その反対に何もないから意味もないとするのは何だか違う気がした。

そこにすがる気もない。

期待もかなり捨てた。

全部捨てたと言うと嘘みたいだから、そう思い込まないように気をつけてる。

幻のような感覚は多分誰に対してもうまく説明できない。

だけど、夜高速道路で見た電光掲示板にその人の名前を見つけた時、それに反応した自分がいて、そして少なからず喜んでいる自分がいる。

もうそれでいいのかもしれない、そう思った。

ごっこ遊び(苦行)そして時々癒し

今回は、
・お店屋さんごっこ(おもちゃ屋かパン屋)
・お弁当屋さんごっこ
・自動改札機ごっこ
この3つを2歳の姪っ子メイとしている。

私はとうとう時間を計り出した。

1回あたり5分未満。

それを仮に1時間すると、最低12回。

甲子園の1回分の表ないし裏の攻撃の長さにも満たないごっこ遊び、異常に長く感じて仕方ない 苦笑。

お店屋さんごっことお弁当屋さんごっこは違う。

1畳程度の広さの端と端にそれぞれメイと私がいる。

私(客係)がアンパンマンの電話を使ってメイに電話をかける。

テレビのリモコンを電話に見立てて、メイが適当なボタンをポチッと押してリモコンを耳に当てる。

「もしもしメイです」と電話越しに言う、ガッツリ私の顔を見ながら。

「おもちゃ屋さんですか?」

「はい」

「ミッキーとアンパンマンと魔法の杖をください。
袋に入れてください」

「はい。ミッキのふくろですか?」

「はい、ミッキーの袋でお願いします」

ここで一旦電話終了。

メイが私が指定したおもちゃを先月行ってきたディズニーの袋に入れて持ってくる。

「ピンポーン」

呼び鈴を鳴らすマネをしながら、メイが袋を携えて、私の目の前にくる。

移動距離1メートル以下。

「はい」と言って袋を渡す。

「いくらですか?」

「にせんごひゃくえんです」

メイはちなみに全てが何故か2500円。

「ポイントカードください」

メイは私が年長か小学校1年生の時のお年玉で買ったキッチンセットのような昭和のおもちゃを愛用している。

メイはそこに戻って、うちの母親から渡された壊れた電卓を前にカードを置いて、「ピポパポピポパポピッ」とか言いながらポイントを入れるマネをして、そして私の元へ戻ってくる。

お金はアメリカの本物のコインが何枚かあるから、それをおもちゃのお金にしている。

そのやり取りが終わるとメイはキッチンセット=店に戻って、また私が最初のアンパンマンの電話で電話をかけるところに戻る。

パン屋さんも基本同じで、違うのはキッチンセットのオーブン的なところにキーホルダーサイズの小さなぬいぐるみやマスコットを入れて、それをパンに見立てて焼いて入れ物に入れる、そして配達する。

お弁当屋さんごっこも同じ流れだけれど、お弁当屋さんはもう一工夫あって、私の隣りにメイのお昼寝用の小さな折りたたみ式の布団みたいなクッションがある。

そこにいくつかぬいぐるみを並べて寝かせておく。

弁当屋のメイがスーパーの惣菜とかが入ってる大きなプラスチックのトレイにおもちゃを入れて持ってくる。

ピンポーンと呼び鈴を鳴らすマネまでは一緒で、今度私はその寝かせてあるぬいぐるみのどれかを手にして、起き上がらせて、「ねむいのにだーれ?」とかブツクサ文句を言いながら弁当を入り口に取りに行くというもの。

ぬいぐるみが受け取って、ぬいぐるみがいただきますをして(本当に手を合わせるマネもする)、食べるマネをして、時には「メイちゃんも一緒に食べましょう」とか言いながら食べるマネをする。

ということをエンドレス繰り返す。

時々役割を交代するけれど、交代したところでやることは何ら変わらないから、私なんかはすぐに飽きる。

ちなみに自動改札機ごっこはもっと単純で、1回あたり1分以下にしかならない。

私が自動改札機役で手を出していて、メイは半径1メートル位のところをグルッと一周する。

私のところにきたら、ポイントカードに使っていたカードケースを私の手にタッチする。

私は「ピッ」と言うか「ブッブー。お金が足りません」のどちらかを言う。

お金が足りないと言われると、メイはアメリカのコインを持ってきて、それを私の手にタッチする。

そして私はまた「ピッ」と言って腕を上げてメイを通す。

という本当に何の苦行ですか?という遊びをエンドレスでする。

このごっこ遊びはどうでもいいけれど、それを通してメイは私の役割を生み出す。

とても欲しい役割かと言えばそんなことはない。

むしろ大人たちはお互いにこのメイの相手役を押し付け合ってる。

2歳児は自家発電で起きてから13時間昼寝なしで動けても、大人たちの方が先にダウンするから、大人はみんなどこかで昼寝をする。

宇宙→地球→日本→新潟→小さな町→小さな家→茶の間→畳1畳の極小宇宙、その中にメイと私がいて、2人にしかわからない謎のルールでごっこ遊びが展開する。

こんなにたくさんの人や場所があっても、今目の前で広がる小宇宙はここにしかない。

メイのおば役もごっこ遊びの役もどこかに売り出しに出されてたわけじゃない。

気付くとあって、やりたいやりたくない以前に勝手にスタートしている。

世の中の大人たちが大切にしている生産性なんてゼロでも立派に堂々と存在している。

メイが求めてくるのはとてもシンプルで、そしてそれこそ自分の存在感を引き出してくれる。

色々高度で難解なことをごっこ遊びのルールに含ませたりもしているけれど、それでもメイは私が私であることしか望んでいない。

しかもそれさえも望んでいなくて、単に一緒に笑ったり遊んでくれたらいいという感じ。

2歳児ルールはなかなか厳しいけれど、でもその厳しさを私や他の大人たちに「こういう人になってね!」みたいなことは1ミリも求めていない。

メイと違って、大人はそれぞれがそれぞれの悩みや毎日の中で生きることの中の戦いのようなものを抱えている。

それさえもメイは凌駕する。

ただ一緒にいて楽しく過ごそうね、それだけを求めてくる。

触れ合うことが欲しくなれば、自ら「ギュー」と言って時も場所も構わずに求めてくる。

自分の思い通りでないことは、思い通りではないことや嫌だということをそのままストレートに表す。

とにかくすべてがシンプルで、わかりやすい。



このごっこ遊びはしんどいけれど、メイに最高に癒される瞬間が毎朝ある。

メイは私のすぐ隣りで寝てる。

毎朝目覚めて目が合うと、満面の笑みを見せてくれる。

「今日も会えたね!うれしいね!」という感じ。

言葉は何もない。

声を出したとしても、最初は笑顔に笑い声をのせる程度。

自分の好きな人たちに朝目覚めて会えることの喜びを全身で表す。

ちなみに妹いわく、保育園に行く日の朝の8割は機嫌悪く起きるらしい。

だからメイにとって、この数日は本人も自然な気持ちで笑みをこぼしてる。

そういう気持ちって、大人になればなるほどすごく貴重だとわかる。

メイでもいない限り、朝起きてすぐの瞬間に笑顔になることはない。

人生80年として、とりあえず成人20歳以降60年として、60×365=21900回の朝を迎えるとしたら…。

こんな風に朝起きてすぐ誰かの笑顔を見て癒されるなんてそうそうない。

メイが生まれてから何回共に朝を迎えたのかわからないけれど、今のところずっと継続してメイの朝イチの笑顔を見ている。

メイが生後数ヶ月の時も、2歳8ヶ月の今も変わらずに見せてくれる。

その笑顔を見る瞬間、自分が生きてることを喜んでもらえてる、そんな気持ちにさせてもらってる。

生きる毎日に絶望しか感じなかった時間があったから、余計と染みる。

生きてるただそれだけでいいんだなって。

2018年8月13日月曜日

大雪とツナおにぎり

2017年1月14日

『大雪とツナおにぎり』

年に数回奇行と呼ばれるような行動を取りたくなる。

誰にも迷惑をかけない代わりに生産性も利益もない。

突然思いついて、何が何でもしたくなって、そして最後やり終わって「奇行ってこういうこと言うんだろうなあ」と薄ぼんやりと考える。


今回の思いつきは、最終バスの最寄りバス停に降りたら、すぐ近くのコンビニに寄っておにぎり買って大雪が降りしきる中食べながら帰る、というものだった。

別に大したことないし、大きな冒険でもない。

でも、雪が降りしきる中コンビニおにぎりを頬張るのはなんとも滑稽でありつつ粋な感じもした。


実際にコンビニに寄った。

バスの中では、ゆかりおにぎりの中に梅干しのかけらがところどころ混じってるものを思い浮かべていた。

少し前のバス停付近でコンビニのトラックとすれ違っただけあって、おにぎりコーナーは充実してた。

全種類があった。

でもなぜかお目あてのおにぎりはなかった。

作戦変更。

梅おにぎりと大好物のツナマヨおにぎりの間で迷った。

お酒の後としては、梅の方がさっぱりしていていい。

だけど口とは別になぜかツナマヨが気になった。

どこか違和感を感じながらも手にとってレジに運んだのはツナマヨだった。


コンビニ出てすぐのひさしでおにぎりの海苔をつけておにぎりをセットした。

セット完了すると一口また一口と食べながら雪道を歩いた。

この冬3、4回目に登場した長靴を履いていた。


食べながらツナマヨである理由がわかった。

ツナマヨは口の中を楽しく陽気にしてくれた。

口の中が楽しく陽気だなんて可笑しな言い方だけど、食べた時に一番しっくりくる感じは「楽しく陽気」だった。

これが梅ならそうはいかなかった。

寂しさが増すだけだったと思う。

寒い外に梅干しだったら、しんみりするだけで楽しく陽気とはいかなかっただろう。


途中、某店舗跡の空き地に寄り道した。

いつかの夏の夜みたいに、駐車場に寝転んだ。

今回の場合は正しくは雪の上だった。

冷たさもわからず不思議な感じだった。

懐かしさでも哀愁でもない不思議な感触だった。

ふと我に返って、風邪引いても嫌だからと体を起こした。

通りに目をやると、雪の中をゆっくり走るパトカーが見えた。

何もこのタイミングでパトカーが通らなくてもいいのに、と思いつつ、職務質問などされませんように…と祈りつつ、何事もなかったかのように家に向かう道へと戻った。


唯一無二のものに憧れる。

今しかないと思うと体が動く。



2018年8月13日

先日、携帯のメモを過去にさかのぼって見た時に、出てきたメモだった。

多分ブログにはアップしてないと思う。

当時はブログがいつの間にか無期休止中になっていたから。

上の文章は、その日の夜のうちに書いたはず。

その時のことを文章にしたことも関係してると思うけれど、その日のことはよく覚えてる。

飲み会が誰と何の飲み会かは覚えてないけれど、近所のコンビニでツナマヨを買ったことや、雪の中それを頬張りながら歩いたこと、そして何よりも梅のおにぎりがものすごく鮮明に記憶にある。

梅のおにぎりは、実は場所は新潟ではなく池袋だった。

私は20代半ばで、通信の大学のスクーリングの最終日だった。

どうして具合が悪くなったのか覚えていないけれど、気持ち悪かったことは覚えてる。

薬を飲むにしても何かをお腹に入れないとまずい。

元々薬を飲む習慣がないから、年に何回も飲まない薬を飲む時は、お腹を空っぽにして飲むのは怖い。

それで2軒ないし3軒の異なるコンビニに寄って、おにぎりを探した。

具合が悪くて薬を飲むためにおにぎりを買うなんてその時が初めてだったからよく覚えてる。

ズラーッと色んな種類のおにぎりが並んだ棚を前に、この具合に合う味を気分で探した。

大好きなツナマヨは即却下だった。

さっぱりしたものが食べたくて仕方なかった。

そこで目に入ったのが、カリカリ梅の入った混ぜご飯風のおにぎりだった。

地元産の新潟産コシヒカリで育ったのと、梅干しは母が漬けたものに慣れ親しんできたから、カリカリ梅は好きだけれど、その時のおにぎりほど不味いものはなかった。

ごはんもカリカリ梅もそこにプラスで味付けされてる化学調味料の味も、具合が悪いのにマックス不味さをものすごくアピールしてた。

普段コンビニやスーパーのおにぎりも、ジャンクフードも何てことない。

だけど、具合悪かったその時はダメだった。

それでも薬を飲むためだけに無理矢理口の中に入れた。

その時のことが鮮明にあって、なぜか飲み会の帰りに食べたいと思ったのはそのカリカリ梅のおにぎりだった。

不味かったと記憶しているのに、体はあのカリカリ梅のおにぎりを欲した。

でも結局ツナマヨにした。

ツナマヨで口の中が楽しくて陽気になったことも覚えている。

あの時の気分にピッタリと寄り添っていた。

ちなみに雪の上に寝転んだエピソードも、外気が寒くない頃その店舗を壊してコンクリートかアスファルトで埋め立てた上にゴロンと仰向けになったエピソードも覚えてる。

奇行みたいではあるけれど、私はあの感触が実は好きでたまらない。

日中は車の通りや人の通りがずっとあるから無理で、夜は夜でも車も人も通らないようなその遅い時間にならないとできない。

もっと自然が多くて人通りゼロの場所も田舎には山ほどあるけれど、今度そうしたところは夜行性の動物がウロウロしてるから落ち着いて寝転べない。

街中のそこなら、そういう意味で車・人・動物のいずれもいない。

しかも通りから数メートル離れているから、目立たないし、多分見えない。

真上に星空があって、それは立ちながら見る空とは全く違って見える。

自分の体全体が地面に触れることなんてそうそうないから、その感触もまた楽しい。

確かにイレギュラーで変かもしれないけれど、私は一生のうちで地面に寝転がって星空を眺めたり、地面の感触を体で味わうことの方がそういう経験がないよりも得した気分になれる。

決して他人様に大きな声で薦められるものではないけれど、やってみたらその楽しさがわかる人はわかると思う。

2018年8月12日日曜日

雨の日とアイスコーヒー

雨の日とアイスコーヒー。

ちびっ子ギャング襲来の日に限って雨。

しかも本降りの雨。

テンションの上がらない天気を前に、車の中でアイスコーヒーを飲みながら行こうと決めた。

朝支度をしながらある冬の日の光景を思い出していた。

多分去年の年末ではないかと思う。

1年の垢落としのために日帰り温泉に行った。

1年の終わりに天然温泉に行くのはいいと聞いて、それで近隣ではなくちょっとだけ遠くの温泉に行った。

最後化粧水やクリームを付けるために鏡の前に座った。

その時の光景が今朝出てきた。

その女性は、多分年の頃40代半ばかな…と感じた。

実際の年齢は知らない。

若くて私と同じ、私より年下ということは絶対になさそうだった。

じっと見るわけにいかないからじっとは見なかったけれど、鏡越しや横目で見てる限り、すごい化粧品関係のラインナップを取り揃えていた。

例えば肩から手の爪のところまで。

せいぜい、ボディーローションとハンドクリームぐらいならわかる。

だけどその人は数種類のものを駆使していて、手だけでも爪周り、指先、手の甲と手全体と数種類、肘も別、上腕と下腕も別のもの…という感じで、まぁ見方によっては女子力高い風になる。

当然それは手をはじめ顔を含む全身に及んでいて、次から次へと新しいクリーム類がポーチから取り出されていた。

足の爪にもペディキュアを施していて、冬だから靴下を履く時間の方が圧倒的に多そうだけれど、すごいなぁと思って見ていた。

でも、私はその女の人が発してる雰囲気からは一切のキラキラ感を感じられなかった。

老いに対してのアンチエイジングという風でもなかった。

当たってるか外れてるかはわからないけれど、多分旦那さんか彼氏がいて、この人はめちゃくちゃ頑張っているけれど、そのパートナーからそういう風に見てもらえてない・扱ってもらえてない、そんな感じを感じてしまった。

20代の頃の自分が見ていた目線と妙に重なって、見ていると胸が苦しくなる感じだった。

そこまで徹底しているから、本人のこだわりなんだとは思う。

だけど、明らかにオーラが変だった。

それこそ日帰り温泉なんて色んな人たちが入れ替わり立ち替わりやってくる。

みんなそれぞれのやり方で自分を手入れする。

その手入れの仕方は、少なくとも私が見た中では一番頑張っていて一番丁寧ではあったけれど、その割に本人から発せられる空気の中に明るいものは一切なかった。

むしろ変な切実感や丁寧なのに心はめちゃくちゃ痛んでるみたいなのをひしひしと感じてしまった。

私が20代の頃、色々上手くいかなかった関係の最後の時を彷彿させた。

あの光景はまざまざと残っている。

私は当時の人と一緒にある大きなショッピングモールにいた。

ここはアメリカか?と思うような大きな場所だった。

店内には色んな人たちが溢れ返っていた。

異常なほど広い通路と高い天井のおかげで、混んではいたけれど人混みという感じはしなかった。

周りの人たちを眺めていても、適度に距離があるし、みんな思い思いに楽しんでいる風で、私の視線なんて全く届いてない風だった。

だから私は目に入ってくる人たちを次々に見ていた。

私が見ていたのは、自分と同世代のカップルや、小さな赤ちゃんと呼べる子ども1人しかいないような若夫婦ばかりだった。

当時のカウントダウン的な最後を心の奥で感じながらも、それを素直に受け入れられる状況ではまだなかった。

カップルや夫婦の会話なんて聞こえてこないし、今目にしている姿が全てとは絶対に言えないことも知っていた。

だけど、私はそのカップルや夫婦の中で、1組として私が今自分に置かれてるような状態の人たちはいないように見えた。

当時、手が繋げないほどの目には見えない亀裂が入っていた。

だから私はその人たちの身体的距離感とか、手や腕をどんな風に繋いでいるかとか、そんなことばかり見ていた。

それは無意識の距離感だから、ある意味嘘がないように見えた。

あんなにたくさんのカップルがいて、自分たち以外にそんな亀裂が入りまくってるカップルはその中に1組として見つけられなかった。

私が見たものすごい丁寧にお手入れしていた女性に、その当時の自分の心の中にあったものと重なった。

完全に私の勘違いかもしれない。

だけど、その女の人から出ている空気にそうした時の複雑な入り組んだ気持ちみたいなのが見え隠れしているようだった。

少なくとも私はそんな女子力高いことはしなかったけれど、その女の人の必死の手入れの感じは、自分さえも今の自分を受け入れられないぐらいに拒絶しているみたいな、当時の私を見ているようだった。

言い方がおかしいけれど、目に入る丁寧さからその人が自分自身を同じくらい大切に扱ってる風には見えなかった。

その辺のもっと適当に手入れをしている、なんなら施設に置かれている付属の化粧水やクリームをパッと手に取って使っている、とりあえず塗っておけばいいか、みたいな人たちからの方がなぜか明るい印象を受けた。

それぐらいにその徹底したお手入れの女性は、自分の隙を見せれる余裕がなかった。

隙を作れなくて、自分をそのままさらけ出せなくて、見ていて痛々しささえ私は感じていた。

そんな光景がなぜかちびっ子ギャング襲来の前に自分の中に突如浮かんだ。



ちびっ子ギャングを駅の改札前で待った。

初めて自らの足で歩いてやってきた。

小さな体は自分の背より高い改札をくぐり抜け、その後ちびっ子ギャングと目線を合わせるためにしゃがんでいた私の胸に飛び込んできた。

「ギュー」って言いながら抱きついてきて、「歩く?抱っこする?」と聞いたら「だっこ」と返ってきた。

もう「だっこっこ」と言わなくなった。

代わりにもっと色んな言葉をベラベラと喋り、保育園で習ってる歌をたくさん聞かせてくれた。



朝方の5時過ぎ、ギャングは夢の中でうなされたのかエンエンと泣き始めた。

私のすぐ隣りにいたから、私がとりあえず抱っこしてトントンしてそして隣りで添い寝した。

あまりに泣き止まなくて、途中で妹も交代して抱っこしていたけれど、しばらく泣きは続いていた。

私と妹の間をゴロゴロ転がりながら泣いて、近くに来ればトントンした。

そのうち泣き声は寝息に変わった。

ちびっ子ギャングはたとえ寝ぼけていても肌の感触や声で自分が安心安全だと確認しているみたいだった。

自分のいる世界は、自分のままで愛されてることに何の疑問も抱かず真っ直ぐにその世界に自分を立たせている。

昨日の夜寝る前なんかは、お父さん(義弟)に電話して、1分もしないうちに「おとうしゃんとでんわしたくない」「おとうしゃんとでんわ、やだやど」と言い出して、本当に話すのをやめてしまった。

そんな風に大人に言葉の刃を向けてもそれでも尚自分は自分のままで大丈夫なことを知っている。

ちびっ子ギャングは相変わらず生きていく上で一番大切な教えを体現して見せてくれる先生みたいになっている。

日帰り温泉の女子力高い人もちびっ子ギャングも、どちらも大切なものを教えてくれてる。

そしてその2つを見た私は今、自分が何を選びたいのかの答えをちびっ子ギャングからもらっている。