2021年4月29日木曜日

雨の日の再訪

雨の日の今日
わざと狙って再訪した場所

ペンジュラムとお守り

帰り道に見つけた菜の花

雨の日の菜の花も素晴らしい



2021/04/28

8連休前の昼休み

今日は昨日よりも調子が良い。

だけど今回の小さな情報にやられた自分を見て、連休前半はとことん自分を甘やかしてゆったりのんびり過ごそうと決めた。


願わくば、溜め込んだ涙も何かの拍子にズルズルと引っ張られて出てきてくれないかと思う。


喉から鼻にかけての不具合は続いていて、多分風邪じゃない。


痛みはなくて、咳も出ないし、発声も普段通り。


だけど泣きそうな時とか泣いた後みたいなツーン感が続いている。


体に予知機能があるのかは知らないけれど、魂案件はこの4年近く一度も衰えることなく色んなサインを体に送ってきていた。


だから今回の喉の違和感も何ら不思議じゃない。


っていうか喉


時々思う。


その人は多分ものすごく口下手で言葉で何かを伝えるとかいうのは多分しなくていいなら一番と言ってもいいくらいしたくないことなんだろうなぁと思う。


したくないだと言葉が違うかも、避けたいことというか。


今の仕事で100人近い「ザ・男のフロア」みたいなところにいて、半分くらいの人たちとはなんだかんだで喋ったけれど、ここも理系バリバリ系の人たちの集団だけれど、男の人でもおしゃべり好きな人とか雑談大事!みたいな人たちはいる。


そういう対応は長年の積み重ねで私も普通にやりとりするし、おしゃべり不得手タイプの人でもなんとなく話せそうな人たちとはそれとなくおしゃべりもする。


とかいうのを思い浮かべた時に、本当にその人は仕事のことはスラスラとスマートに対応していたけれど、個人的なおしゃべりは本当に気を許した人にしかしないんだろうなぁと思う。


喉の違和感を感じるたびに私はその人のそういう姿を思い出す。


当時の私は本当に仕事中一言も喋らずにいたから黙々と割り当てられた仕事をしていたけれど、今の職場ならそしてその人もいたのなら、当時よりかは普通に話せたかもしれないなぁなんて思う。


小さな会話さえはばかられる感じだったから(そういう職場ではないけれど、その人はベラベラおしゃべりする人じゃなかった)、何にも個人的な話はできなかった。


当時1人だけ、仕事の絡みでしょっちゅうやりとりする必要のある男性がいた。


人当たりの良い感じの人でとても助かっていたけれども(何せ本当に喋らない毎日だったから、どんな人か想像もつかないだろう私を相手にしても普通にやりとりしてくれるタイプの人で本当に良かった)、この業務がその担当者じゃなくてその人だったらどんなに良かっただろう、って何度も想像した。


とにかくそのくらい喋らなかったし、その人も自分からグイグイおしゃべりするタイプでもなければ、私もだんまりな物静かな置き物のようになっていたから、私的なおしゃべりはただの一度もしたことがなかった。


(この辺りからは水曜日の夜)


だから喉の調子が悪くなると、いつもその人のそういう姿を思い出す。









水曜日の夜、布団の中で。


今日の仕事は適度に忙しく適度に集中してやらないといけないものだったから、昨日のような涙じわじわみたいなことにはならずに済んだ。


変な欲も出てきて、この感覚はなりたいと思ってもそうそう簡単になれるものじゃないから、味わえるうちに味わいたいと思うところも出てきた。


仕事であれこれやり出すと、良くも悪くも日常に忙殺される。


日常とはよくできたもので、多分人間は安全への欲求を満たすために日常はとことん穏やかに過ごせるよう、イレギュラーなことや奇妙なことが起こらないように気を配る。


だから、日常生活がまたいつものリズムになってくると、この今浮上してきた気持ちや感覚は奥に追いやられる可能性が高い。


しばらく社会生活から離れられるから、思いっきりこの感覚を見て感じたい、そんな気持ちが湧いてきた。


そして、少しの間、オンタイムでなるべく言葉に起こしていこうと思った。


書くと自分の中にあったものが外に出てくる。


そして、書いている中で自分の気持ちや感覚にもどんどん近付いて気づけるようになる。


未来の自分はもうこんな風に書くことはなくなるだろうと思うから、余計と言葉にできそうな今、言葉にしていきたいと思う。







2021/04/29

雨の音、朝の布団の中


昨日、突然思い出したことがある。


人と人とが同じ時代に生きて出会って隣りに居合わせる確率というのは、自分の家の中のトイレに宇宙から隕石が落ちてくるくらいのもの、というような格言めいたたとえ話がある。


私はその言葉がとても好きなのと同時に、それをそのままその人にも書いて伝えた。


そのたとえ話は、本やテレビ、雑誌なんかに出ていたものじゃない。


それはある時、友達の家に遊びに行って、その友達ともう1人の友達とで友達の住んでるマンションの目の前にあった超ローカルみたいな小さな昔ながらのスーパーに買い出しに出て、そこでパジャマにも外に少し出る時にも使えそうな七分丈くらいの履き心地の良さそうなパンツが売られていて、それを買ったらその服のタグに付いていたものだった。


ドラッグストアなんかに小さく衣料品が売ってたりするけれど、あれよりもさらにもっと小さなサイズでそのスーパーの一角にあって、そんなの買う予定にもなかったけれども、本当にデザインも生地も申し分なく良くて、値段も700円くらいだった気がする、それで私ともう1人の友達は似たようなデザインのものを買った。


そのパンツはその後数年、穴が開いて、開いた後裂けるその時まで私は履き倒した。


それくらい気に入っていた。


でそのパンツを買った西の地こそ、今その人が転勤で行った場所なんだと気付いた。


ちなみにパンツは2009年の夏に買ったもの。


その人が転勤したのは「去年」とあったから、2020年なんだと思うけれども、まさかパンツタグのメッセージ手紙相手の転勤先と繋がっていくなんて思ってもいなかった。


ざっくりとした地名だから、実際には広いしその中のどこにいるかなんて想像もつかないけれど、とにかくまさかの色んなことが重なりまくっていることに驚いた。


さらに、これを書いているまさに今、その地名を自分のブログの中で見ることになるなんて、これまた驚いた。


朝の6時過ぎに読まれた記事があって、相変わらずタイトルを見ただけではわからなくて、ポチッと開いて読んでみた。


自分で書いたくせして、まるで今初めて読むかのような内容で結局最初から最後まで読んだ。


最初に誰かの愚痴を書いていたけれども、それが誰のことを指しているのか自分でもわからなかったΣ(; )))) 


誰を指したかは覚えてなくても怒りの内容は今も基本同じスタンスだなぁと思った。


その後、カラスの鳴き声には種類があるとか、そんなこんなを書いていて、最後にプロレスの宣伝が自分の携帯のGoogle内に出てくることを書いていた。


その最後の最後に、当時の宣伝文句をそのまま載せていた。


【[新日本プロレス・速報]

2. ◯◯ Road to ニュー・ビギニング 試合結果:棚橋&オカダ軍団 vs. バレットクラブ


◯◯の中には地名が入る。


その地名はまさに私がパンツを買って、その人が今いる土地になる。


そんなこと書いたなんてとっくに忘れていて、まさかのシンクロ具合にとても嬉しくなった。


誰が読んでいるのかは知らないけれど、どこかの誰かが開いてくれたそのブログにはそういう嬉しい偶然があった。







外では雨が降り続いている。


カーテンを閉め切っているから外の様子は見えないけれど、音はちゃんと耳に届くし、その音を聞いて雨だとわかる。


転勤を知らされた日の昼休み、よく通った大きな川が見えるところに行った。


その日が雨だったと思う。


朝から降っていたのかどうかは覚えていないけれども、とにかく昼は雨だった。


雨が車のフロントガラスに当たる中、私はそこで賭け事をした。


当時2つ持っていたペンジュラムを巾着から取り出して、それを両方の手でそれぞれ1個ずつ持ってじっと待った。


私のペンジュラムは縦に動くかクルクル回転するしか動きのパターンとしてはなかった。


ちなみに縦に動くのも回転するのも私が決めてそうなってるのではなくて、ペンジュラムの意思というかペンジュラム自身が動きを自ら決めている。


だから私がどうこうできるのとは違う。


当時、ペンジュラムを持って1年以上経った頃で、私はそれ以外のペンジュラムの動きを見たことがなかった。


そしてさっき言ったように、私がどうこう決めれるものではないから、ペンジュラムが縦と回転以外の動きをすることがないのは100%どころか1億%確信していた事実だった。


だから私はペンジュラムが新しい動きを見せてくれるわけがないのは知っていて、それを利用しての賭け事をした。


万が一ペンジュラムが見たこともない動きを見せてくれたのなら、私は自分の心に従ってもう一度その人に時間が欲しいと言ってみようと。


本当に嫌そうにされていたし、仕事の伝言なのに絶対に目を合わせないどころか無視みたいな感じでその人は私に拒否拒絶の意思をとことん示していたから、そんな人を相手に何かを言うなんて狂気の沙汰だった。


だから1億%起こらないと知っての賭けに出た。


どうせ起こらないし、何も変わらない。


それを自分が納得するために賭けをやったようなものだった。


ところが、予想を大きく翻(ひるがえ)して、なんとペンジュラムは横揺れの動きを始めて、そして横に揺れる2つのペンジュラムはとうとうお互いにカツンと音を立ててぶつかり合った。


それは言うなれば太陽が西から昇るくらいのありえないことで、色んな意味で驚愕と言葉にできない想いが溢れて、涙がぼろぼろ出てきた。


それが転機だった。


さすがに私もはがねの心臓なんて持ち合わせていないから、そんなにも嫌がられてる風な人に向かって何かアクションを起こしてさらなる地雷を自ら踏んでさらなる痛手を負うのは嫌だった。


いくら近々いなくなる相手でも、そんなことをしたいのとは違った。


いなくなるならいなくなるで、最後くらい穏やかに、とにかくこれ以上不穏な空気を自ら生み出すなんて嫌すぎたし絶対に避けたかった。


だけどあの時、ペンジュラムは違う動きを私に見せて、全ての舵切りをくつがえした。


それによって、私は次の行動に移って、そして今のこのようなブログに至っている。


その時の天気が雨で、今の外の雨音を聞きながらそうだったなぁと思い出している。


書きながら思い出した。


私のペンジュラムというのは、霊視ができて死者でも見えない何かでも視れるヒーラーさんいわく、地球外生命的なものと交信しているらしい。


だからあの時もだけれど、私なんかが考えられるような次元ではない何かが確実に介入したんだと思う。


さらには、その転機となったきっかけがペンジュラムというのも、今思うとなるほど納得するものがある。


「ペンジュラム」というのは、その人と私とを繋ぐ超重要且つマストアイテムなんだと思う。


「思う」と書いたのは、正直今でも私の中に確信もなければそうなんだくらいな感じは相変わらずで、色んな人たちから私の元にもたらされた情報を統合するとそういうことになるからそう「思う」だけ。


真実は知らないし、私の勘違いである可能性も相当に高い。


でも今となればどっちでもいいかなぁと思っている。


むしろ、自分が信じたいものを選んで信じてる方が私自身はしあわせな気持ちになれるから、それが正解とさえ思うようになった。


色んな人たちから伝えられた情報をまとめるとこうなる。


ペンジュラムというのは私が過去世で自分の相棒、体の一部のように大切に持っていたものだったらしい。


今世の私のペンジュラムの使いこなしよう(「使い熟す」と書くらしい)は、本当に熟練された人みたく、最初からいきなり使えた。


私はペンジュラムはみんながみんなそうやって使えるのかと思ったけれども、そうではないらしい。


私は過去世で使っていたからこそ、今の人生でも何も練習も訓練もせずに、さらには誰からも教えてもらわなくてもじゃんじゃん使えているのは、そういうことなんだろうと思う。


私が過去世で使っていたということを伝えてくれた人が2人いる。


で、そのうちの1人の人が、その人と私とが過去世で繋がっていただろう、その方にしか視えていないものを私に教えてくれた。


そしてその時のキーワードも「ペンジュラム」だった。


その過去世の中では、その人と私とは一緒の家に住む子ども同士だったようで、その住む家の中には普通にペンジュラムがあった。


その時に言われた、今回色々やってきている情報は私ではなく相手側の魂の意志で伝えられているだろうことを。


不思議な話だったけれども、それだけにとどまらず、その後も私はその人の存在について知らせてもいないのに、その人について全く知らない人たちからその人の情報をもたらされた。


先述のヒーラーさんは、2回目か3回目の会合の時に、突然その人について私に単刀直入に視えているもの全てを言ってきた。


私はたしかにそうした見えない世界や霊的なものの話に慣れてはいるけれども、いくらなんでも自分が口に出したこともない、その人の存在さえ明かしていない、ましてやヒーラーさんとその人とは全くの接点もないのにも関わらず、その人の特徴を次から次へと伝えられるなんて尋常じゃなさすぎた。


テレビとかで霊視する霊能者があれこれ言い当てたりする、あれ級のことが目の前で繰り広げられていた。


そしてどれもこれも当たりすぎて、鳥肌ものだった。


さらには私の知らないその人の情報までもをヒーラーさんは知っていて、何がどうなったらそんな凄いことになるのか、ただただ目を丸くするばかりだった。


どんな仕組みなのか私にはさっぱりわからないけれど、少なくともヒーラーさんにはその人の存在が視えていてその特徴を掴めるほどだったのは間違いない。


挙げ句の果て、死者(山で行方不明になったおじいちゃん)からもその人について「その人のことを聞かなくていいのか?」とそのヒーラーさんを介しておじいちゃんと家族とを繋げるための超真面目な話をしていた時に言われて、本気で度肝を抜かれた。


さらに一番直近だと、今年の冬、占星術の先生の個人鑑定を受けた時にもその人と私とが過去世で繋がっていただろうことと今世でも縁のある人だということを教えてもらったんだった。


そうした不思議な経過を辿っている人なわけで、だからペンジュラムが4年前の秋の日にありえない動きを見せてくれたことで色んなことが変わったのはなるほど納得した。





ーーーー場面変更ーーーー


私は上の文を書いている時、そうだ、その賭け事をした川に行こうと決めた。


のらりくらりと支度をして、今実際にその場所にいる。


雨の日で同じようなシチュエーションでこの川に来れることは、もしかしたら今日が最初で最後かもしれないからと思って、それで引きこもり予定を変更してやってきた。


今回は写真を付けようと思って、写真を撮った。


当時見ていた景色とほぼほぼ同じ感じだと思う。


行く途中当時の職場の近くも通過したけれど、近くには行かずそっと大通りからそちらを見るだけにとどめた。


あの後色々心境の変化があって、最後に手紙を書くことに決めた私は、手紙を実際に書いて押し付けた。


その時の手紙の下書きも今日は持ってきて久しぶりに最初から最後まで読んだ。


読んでて顔から火が出そうなことも平気で書いていたけれども、不思議だなぁと思った。


4年前の秋の日に、もしペンジュラムを使って賭け事をしようなんて考えなければ、私は何かを書いて伝えようなんて絶対に考えなかったと思う。


ペンジュラムはそんなことを示唆したのとは全く違うけれども、あの時の自分の中の勢いたるや本当に凄かった。


その時の週末は、朝から夜遅くまでひたすら書いて書いて書き通した。


元々何も考えずにスラスラと書けるタイプではあるけれども、だからと言ってそういう手紙には全く不慣れだし、はっきり言って人生で初めて書いたタイプの手紙だった。


今日布団の中や支度をする時に思った。


この4年余りで、本当に色んなことが目まぐるしく変わったし、特に人間関係は私の場合一新されたと言っても過言じゃないくらいに変わった。


その人について色々教えてくれた人たちとはまさに一期一会状態で、今は占星術の先生以外とは繋がっていない。


先生とも講座を今また受けているだけで、個人的な話をするのとは全く違う。


色んな人たちが人生から出たり入ったりする中で、その人と出逢ってから今に至るまでずっとなんだかんだと繋がっている、繋がっていると言うととても語弊だらけだけど、私側から見て繋がっているのはその人だけになる。


あとから新しく出会えた素敵な人たちももちろんいるし、その中でも特に親しくさせてもらってる心友的な存在の人もいるけれども、そうではなくてこの4年ないし5年で色んなことが変わった中でずっとずっと変わらずに私の中にいたのがその人だということ。


そしてその人の真意とか意図とかはさっぱりわからないけれども、それでも大きな引越しを2回もして大きく環境が変わった今も、なんだかんだとこのブログは見てくれてるというすごさ。


物理的、関係的に間違いなく私は一番遠いところにいる。


なんだけれども、私が自分の心の内や考えをつらつらと書いているのはこのブログであって、それをいつのどのタイミングで初めて見つけてくれてチェックしてくれるようになったのかは全くもって知らないけれども、それでもそういう括り(くくり)の中だとその人が一番近くで変わらずに確認してくれていた人になる。


今私がいる川の前でペンジュラムが奇跡の瞬間を私にこれ以上ないくらいわかりやすい形で見せてくれたあの時から確実に何かが変わった。


生きる世界も日常を過ごす町も何もかも交わらないだらけの中で、何か全く別のところで不思議な繋がり方をする、そういう風になった。


余談だけれど、今いる場所の名前の中に、その人の苗字の頭文字と私の苗字の頭文字(ぶ)が両方入っている。


「東京スカイツリー」なら「と」から始まる言葉と「す」から始まる言葉とが組み合わさってできているけれども、ちょうどそんな風になっている。


そういう名前を持った場所でペンジュラムが奇跡を見せてくれたんだなと思ったら、実はものすごく裏側では色んなことが整ってその瞬間を迎えられたのかもしれないなと思った。


その時には気付けなくても後々気付けるように、そんな風になっていたのかもしれない。


2021/04/29

お昼12:20


ーーーー場面変更終了ーーーー





夕方寝落ちしそうな布団の中で。


雨は川が見えるその場所に行く時も川の前に車を止めていた間も、ずっと激しめに降っていた。


本当に4年前の感じととっても似ていた。


ところが、帰り道の途中から雨は小康状態になって、途中からは雨は止んだ。


あの時間だけとにかくしっかりと降ってくれていて、こんなにも雨にテンションが上がるなんてのもそうそうないなぁと思った。


毎回毎回同じようなことを書いているなぁと思うけれど、これは別に私のブログなんだから同じ話をしたっていいかと開き直って書いている。


何せネタという意味では極端に少ないから、どうしても繰り返しの話をしてしまう。


今回は何かもう一度再現してみたり、蓋をしていたものたちの蓋がかぱっと開いたりしてそれらにもう一度対峙するチャンスを得たり、そういう時間を今日で3日目を迎えているけれど、飽きることなくむしろテレビ視聴やなんやらよりもそこにすっと向き合いたい、今はそう思っている。


あまり読み返したりせず、気が向いたら向いた時にこまめにせっせと書き綴ろうと思う。


それが何にもならなくても、少なくとも私の予想が外れなければ届くは届くはず。


届いてノーリアクションであっても、「届いた」という未来は作れる気がする。


私の書くモロモロは何の面白みもないし、読み方によっては頭の狂った人の話みたいに思われたって仕方ないとさえ思うけれど、そんなことはどうでもいい。


ただ1人、届いて欲しい人に届けばそれでいい。


そのためだけに私は書いている。

2021年4月28日水曜日

>衝撃。の翌日〜翌々日

 2021/04/27

火曜日のお昼休み


今日はとことん自分がどんな風になるかを観察しようと意気込んで仕事に向かった。


まったくもってアホすぎることをしてしまったなぁというのは後の祭り。


まず朝からネットワーク接続の不具合が出て、私は当初予定していたExcel英語入力ができなくなった。


メールチェックももちろん、プリンター接続もアウトだった。


とりあえずデスクトップに保存していた資料のデータを開いて少しだけやれることをやったけれども、全く神経を使わなくて良いその仕事は今日のタイミングにはスーパーバッドタイミングなものだった。


使わない神経は大人しく休んでくれるわけもなく、思考は昨日の夜の衝撃な転勤話に飛んだ。


ネットワーク不備とか仕事上の制約があって半分暇なようなもので、もはやその中で思考を停止するなんて無理だった。


無意識に考えてたら涙が目に溜まって、自分でも自分に驚いた。


Σ( )))) ゲッ!


今泣く時間ではないし、ましてや何に涙が出ているのかもはやホラー級におかしなことになっていた。


気を抜くと相変わらず涙が出そうだから、仕事に集中しようと思った。


喉や鼻のツーンとなる感じから体が鉛のように重たい感覚、この感覚が最後いつのことだったのか思い出した。


頭で思い出したんじゃない、体が細胞ごと記憶していて体の方が先に思い出した。


その人が転勤するって知らされた、残暑が残る暑い秋の始まりとも呼べない9月の頃だった。


今から4年前の9月のとある日の朝掃除した日の朝、掃除が終わってから私の教育係さんから真面目な顔と真面目な声と真面目な口調で知らされた。


あの時に何かが自分の中で大きく崩れて、世界は歪んで自分の足元さえもよくわからない不安定な感じになった。


何かがジ・エンドで、この世の終わりみたいな状態にあっという間になった。


あの時の感覚に近いもの、あれの強度がわずかばかり和らいだもの、でも和らいでも普段体験し得ない数百倍の強い力で体に訴えてくる。


自分でもどうしていいのかよくわからない気持ちや哀しみなんかを気づかぬうちに大きくさせてしまっていて、それが満を持して今外に出ようとしているのかもしれない。


そういうのって普段の日常をさりげなくそつなく送っていたとしても、無くなるものじゃない。


気付かないように見ないようにしているだけで、実際はきちんと溜め込まれている。


これがお金ならどんなにいいかと思うくらい、それなら今ごろ私は億万長者と言わんばかりのエネルギーを溜め込んでいる。


それが今、針で穴が開けられたみたいになって、そこから色んなものが溢れてくる。


だから仕事中なのに泣きそうになって、やたらとセンチメンタルという、そんな空気感を私はまとってないけれどもセンチメンタルまっしぐらみたくなって、泣かないように一生懸命堪えている。







火曜日の夜ー布団の中


午後は至急の英訳が入ってきてくれたおかげで、そちらに忙殺されてようやく落ち着いた。


落ち着いたっていうのも変だけど、考える暇もないくらいに目の前のことをこなさないといけなくて、忙しさが思考を止めてくれた。


だから落ち着いた。


でも午前中は本当に自分でもどうにかなったみたいに今にも泣き出しそうな自分との戦いだった。


ここまで書いて寝落ちした。


ここからは水曜の朝、布団の中。


一晩寝て起きても、昨日の泣きそうな自分の感覚はよく覚えている。


天井や周りの風景を見て今いる自分の場所は当時の場所とは違うことを頭の中で何回も反芻しながら、でも体の方にはあの転勤を告げられた4年前の秋みたいな感覚がもう一度やってきていた。


交わらない、永遠に交わらない、その宣告の瞬間、私の中の何かが壊れた。


もう同じ時に同じ場所に居合わせられなくなる、そのことが私をこれ以上ないくらい打ちのめした。


当時の私は無視され続けてもいいから(もちろんそれも嫌だったけれど)、当時の毎日のように毎日会えることを本気で祈った。


そんな奇跡はもう起こらないと知っていても、そうであって欲しいと本気で願い続けた。


到底受け入れられない現実が目の前に広がって、あの時も泣きそうにというか実際に仕事中涙が出てしまったし、体は重たくなった。


まさかあの時の感覚を、今本人は目の前にいないにも関わらずもう一度味わうなんて、昨日以前の私には想像さえできなかった。


その人のいない日常とその人のいない残りの人生に時間をかけて慣れていくんだと思っていたし、私はそれこそ4年近くの時間をかけて自分を慣らしてきた。


ゲラゲラ笑ったり、おいしくごはんを食べたり、真剣に何かに打ち込んだり、当たり前の日常を当たり前に過ごせる自分の中の力を見て、自分はまだまだいけると思った。


それがたった一言、西へと転勤した話を聞いて全てが止まって、これまでがまるでリセットされたかのように私は無意識に反応していた。


昨日仕事中泣きそうだった私は、普通に仕事をするふりをしながら、心の中と体の無意識の反応に忙しかった。


心の中は全然違うところにあったし、もう全部が違うし全部が交わらないと知っていても、それを受け入れられていない自分が出てきて愕然としていた。


いつもいつも「あぁ魂のスイッチが入ってしまったんだなぁ」と思って見ていたけれども、本当に変な話で、その人が私の人生に登場してからというものその人が私の中にいない日どころかいない瞬間というのはいっ時たりとも無い。


こういうのを世間では片想いと呼ぶのかもしれないけれども、そういうのともまた少し違っていて、ひとつ前のブログに自分で書いて上手いこと言うなぁと思ったけれど、信仰とかに近い感じだと思う。


信仰とも違う気もする。


呼吸や心臓の動きが一番近い。


生まれてからこの方、一度たりとも呼吸の仕方だの心臓の動かし方だの習ったことも訓練したこともないけれど、生まれた瞬間から勝手にできて今に至っている。


その人に対してのものはそれにものすごく近くて、自分で育もうとか大切にしようとかそういう気持ちで意図的に何かしているのとは違って、勝手に自動的に今みたいな感覚になっているし、育んでるわけでも培養してるわけでもないのにそうなっていて、それは24時間365日そんな風で、そんなエンドレスな状態はさすがの私も究極におかしなことだと思っていて、だから私はそれを魂スイッチが入ったと解釈して、色々おかしいと思いながらもそのおかしさに自分を慣らしていくみたいな、そうやって4年近くをやり過ごした。


いなくなったら何か変わるかもと期待もしたけれども、それもいなくなった以外には何も変わってなくて、今なんかは色々想定外すぎる感じに仕上がっている。


でもそうは言っても、慣れたのも本当で、日常を送る中でなんとかなるものだと思っていたし、なんとかなってきたとずっと思っていた。


なのに、たった一言、LINEの中でのやりとりでその人の転勤を知って、私は自分でも信じられないくらいに反応した。


私が知ったところで何にもならないし、毎日は何一つ変わらないし、本当に何があるわけでもない。


じゃあその人がもう一度新潟に転勤になってうちから普通に車で30分もあれば会えるところに来たとしても、私は久しぶりだから会おうよとか前みたいに毎日会えるようになるわけじゃない。


だからさらに遠くにいようが近くにいようがそんなのはその人と私との間を何一つ変えるものにはならないし、距離の話は何かを変えるものでは決してない。


そういうことがわかっていても、私はとにかく色んなことがショックで哀しくて言いようのない気持ちがムクムクと湧き上がった。


挙げ句の果てに、仕事中なのに涙が出そうになるという特大のオマケまでついてきた。


そんなオマケお願いすらしたことなかったのに


静かに「時間が解決してくれる」と祈るような気持ちで思った。


もう1つ、誰かをものすごく好きになれたらこんなことにはもうならないんじゃないかというのも思ったけれど、時間薬よりも確率が低すぎて、それはあわよくばくらいに思っていようと思った。


ここまでになってしまう色々は、本気で魂の領域なんだと思う。


自分で気をつけてどうこうなるものでもないし、理性とか理論で片付けられるようなものじゃない。


こんなに色々書いているけれども、向こうには彼女とかいつか結婚したい人とかいても全く不思議じゃないし、その存在の有無だって今この瞬間もゼロじゃない。


なんかそういうことじゃないんだと思う。


魂案件ということにしておけば、三次元の資本主義社会や人間社会の価値観と全くマッチしてなくても「魂絡みなら仕方ないね」と私はなれる。


魂コードなるものがあったとして、その人というのは魂コードで繋がっている人なんだと思う。


相手からして迷惑千万でも、魂コードは迷惑とか三次元的不都合とかには全く配慮のないものだから、なんなら容姿も生き方も関係なく、ただコードがお互いに繋がるかどうかでしかないものだと思う。


だったら物理的距離も気にならなきゃいいのに、気にしたって何も変わらないのに、この私の反応たるや何なんだろう?と思う。


昨日仕事から帰ってきてから、その人の名刺をペンジュラムやオルゴナイトと一緒に持ち歩く巾着袋に入れ忘れて家に置いて行ったことに気付いた。


普段名刺の細かいところなんて見ないけれども、名前の上の部署名はもちろん、名前の下の住所も今は全然違うんだろうなぁと思った。


名刺さえも今目の前に形としてあるのが不思議なくらいだった。


下書きした手紙も久しぶりに出した。


手紙ってどうなったんだろうと思った。


すでに2回大きな引越しをしているわけだから、もう手元にはない可能性も高いんだなぁと思った。


中身は読まずに最初と最後のところだけチラッと見たけれど、見なくても何を書いたか覚えている。


形あるものはいつか全てなくなる。


まだ私の手元にはいくつかの形あるものがある。


それがどのタイミングで形がなくなるかどうかでしかないんだなぁなんて思いつつ、もし相手のところにも残っていたとするならそれはすごくうれしいことだし、反対に捨てたと言われても(そんなこと知れることもないけれど)、なんかそれは別に「そっか」と割り切れそうな自分がいる。


手紙は最初から捨てられることを覚悟して書いたから、それが今現在どうなっていようとも実は本当に気になっていない。


なのに転勤話を聞いてこれまで蓋してきたことが同じように蓋することはできなくなって、うろたえている。


物体もない、ただの文字からやってきた情報に私はやられている。


今日1日仕事に行けば8連休だから、あと1日心を保ったらいい。


今日こそExcel英訳入力の前の、なんと日本語入力が待ち構えているから、なんとなくやり過ごせると思う。(日本語入力してくれた人が、誰と仕事を組んでもやらかしまくりで噂の絶えない人だったけれども、それに私もとうとう洗礼を受けたことが昨日発覚。おかげで仕事は1から入力し直し状態になっている。)


静かに資料とExcelとに神経を注いでいたらいいわけで、なるべくおかしな方向に気持ちが向かないように今日は気をつけよう。


昨日1日で相当懲りたから(自分の心の動きを観察しようなんてのんきに思っていた自分がアホすぎた)、今日は連休中の家での過ごし方(引きこもり予定)やそのための買物リストなんかに目を向けよう。

2021年4月27日火曜日

衝撃。心の徒然。

衝撃。


今の気持ちを言い表そうと言葉を探ると「衝撃」だった。


衝撃、が近いと思う。







日曜日の昼前、私は近くのスーパーに行った。


その後、ここ1年の中で一番と言ってもいい頭痛に見舞われるその直前、とりあえず必要なものだけを買いにスーパーに行った。


うちを出てすぐの小さな交差点で私は1台の車とすれ違った。


最初、近所の小川さんの車かと思った。


だけど普通に考えて、小川さんは大通りとは反対方向に向かってるわ、さらに小路に入る道へと右折しようとしてるわで、明らかに変だった。


で、とっさに私はなぜかナンバープレートを見た。


見慣れたゾロ目だった。


えっ、まさか!?と思った。


でも、私の知ってる人なら、大通りとは反対方向に走るのも、そこで右折してさらなるマニアックな方に行くのもわかる。


4年前の職場で一緒だった男性の車だと思う。


買物から戻って、うちから徒歩30秒みたいなカフェの駐車場を見たらその車が止まっているのが見えた。


間違いない。


それで私は月曜の朝に当時仲良くさせてもらっていた、そして今も時々不定期に連絡を取るSさんに連絡をした。


多分Wさんだと思うんだけどまだ新潟勤務なのか、そうじゃなくて私の見間違いなのかを知りたくて、そのあまりにもしょうもない内容で連絡をした。


Sさんとは超どうでもいいことから真面目な話までなんだかんだと話した仲ゆえに、そういうLINEも許されるだろうと思って連絡できる。


Sさんは変わらずにおだやかな返信をくれた。


その中でまず1つ目にハッとしたのは、私たちが行っていたその職場は今年の8月くらいまでだということだった。


建物はなくならないけれど、事務所は閉鎖になる。


色んな意味で寂しかったけれども、まぁそれはいつかそんな日が来るというのは多分1年くらい前から聞いていたから、あぁ本当にそうなるんだと静かに自分の中でそのことに対して色々思い巡らせた。


Sさんと来月会う約束をして、そのことをやりとりした次のLINEだった。


1年前コロナが始まった当初、Sさんと会う約束を一度したけれども、Sさんの職場の不要不急の外出の徹底ぶりが半端なくて、それでSさんの方から落ち着くまで会えそうにないと泣く泣く言われた。


それは仕方のないことだから、また会える時になったら会いましょうと話していた。


だけどコロナは落ち着かないし、職場の体制的に不要不急の外出自粛を徹底しているのなら私の方からは声をかけづらくて、それはSさんだけじゃないけれども、とにかく私も気付けば誰にも会ってない日々になっている。


そんなこんなで、今回Sさんから声をかけてもらえたのはとっても嬉しくて、しかも先週金沢の妹家族の元に行ってきたことを伝えた上でも会いましょ!と具体的に日にちをSさんから出してくれて、私は本当に会えるのが嬉しくてルンルンした。


そのテンションが上がった先に、衝撃な情報がまさかその後爆弾のようにやってくるなんて知らなくて、Sさんの返信を読んで私は固まった。


半分は自分が蒔いた種だから自爆テロみたいなものではあったけれども、遥かに想像を超えるというか、想定範囲外の答えが返ってきて私は言葉を失った。


幸い返信しなくても大丈夫な感じで最後終わっているから、次回連絡する時はお互いに会う前日くらいでいいわけで、そこだけが救いだった。


Sさんがその前の内容で、Sさんの今の職場の上司にあたる人の役職名が当時私たちが行っていた会社の上司の役職名と一緒だということを書いてきた。


私はそこで考えた。


この話をスルーするのはなんとなくおかしい。


他のやりとりをお互いに返し合っているのに、そこだけスルーはおかしい。


そう思ったのと、こんな機会でもなければ名指しで「◯◯さん元気ですか」なんてつっこめないから、その役職名+Sさんの職場の今の上司と当時の上司との空気感の違いをさらりと書いて、その最後に私は◯◯さんは元気ですかと思いきって書いてみた。


私の中のSさんの返しは、「元気そうです」か「元気だと思います」ぐらいの選択肢しかなかった。


それ以外何にも考えてもなければ、それ以上何かあったとしてもSさんは余計なことは言わない人だから相手のプライバシーをそっとしておくだろうと思った。


それがまさかの◯◯さんの転勤先情報がもれなく付いてきて返されてきた。


そこはさらりと書かれていて、最後にまた会ってたくさん話しましょうみたいな終わり方だったから、だから私も夜も遅いからそのままにして今に至ることができている。


関係ないけれど、今日の仕事のことで思い出したらどんどん腹が立つことが出てきて、今週はあと明日火曜と明後日水曜仕事に行けばその後は有休含めての8連休で、だから腹の立つことはもう水に流そうと思ったりしていたところだった。


Sさんからの情報によって、一瞬で仕事の怒りは水に流れた。


というか、そんなことはどうでも良くなって、それよりも転勤の話が、いや転勤の話というよりもそのことがトリガーとなっていっぱい色んなことがモクモクと出てきて、それでいてもたってもいられずに、こうしてブログを書き始めた。







頭が痛い件は、もしかしてこの予兆だったんだろうか?なんて考えた。


色々不調になる条件は揃っている。


だけれど、頭が割れるくらいに痛くなって(脳梗塞とかの心配するあたりが自分もそこそこの年齢になったんだなぁなんて思った)、明らかに何かがおかしくて、これはどうしたことだろうと思っていた。


寝ても痛いし、薬飲んでなんとか治まるみたいな感じで、そこまで頭が痛いなんてもしやコロナ?えっ?何?ってなってた。


体調不良の時にこんなこと考える人も他にいるのか知らないけれど、それと合わせてこの間から喉から鼻の奥のつながりラインが変な感じになっていて、私はその変な感じを感じる度に「もしかして私泣きたいのかも?泣くの我慢してる?」なんて考えていた。


喉が痛いのとも違って、鼻が出るのともこれまた違って、いっぱい泣いた後おでこのあたりから鼻、そして喉にかけてシューっとする感じ、あの感じがある。


これは私の風邪の引き方にはないタイプの感触で(コロナならまずい、けれどもコロナの症状とは明らかに異なる、なんなら熱もない、そして今ホルモンバランス調整期間だからそちらの不調は普通にある)、いつか珍しく鼻風邪のとても酷いバージョンになった時あれこれ調べ物をしていたら、鼻風邪というのは泣けない代わりに身体が泣いた時と同じ身体の状態を作ろうとするとどこかにあって、妙に納得したことがあった。


まさにその感じがその時の鼻風邪の私の身体の中で起こっていたことだった。


その時以降そんな風に自分の体を見るようになったけれども、今回のはまさにそんな風に近い。


鼻水もくしゃみも咳も出ないけれども、喉のあたりがツーとして、それが泣きまくった後みたく鼻の奥の方までその感覚が続いている。


だから何か泣きたいようなことは特段思い当たらないけれど、自分では感知できない何か泣きたい理由や衝動が心の奥底にあるのかもしれない、なんてのんきに考えたりもしていた。


泣きたいかはわからない。


だけど、涙がポロポロ出てきてもおかしくないくらいの衝撃はあった。


衝撃はあったけれども、衝撃が凄すぎたのか誤魔化してるだけなのか、涙は一滴も出ていない。


出てくる気配もない。


代わりに喉のスースー感がずっと「ここにあるよ」と言わんばかりにドンと存在している。







衝撃が凄すぎたけれども、思い出せる限りその時にパッと出てきたことを書き連ねてみよう。


・知らない。この先も何が人生で起こっていようと知らされることもなければ、今回はたまたま知り得たけれども今後はこういうことはない。


・どこかでバッタリは絶対にない。


・交わらない。人生がかつてのように交わったようにもう交わることはない。


・喪失感。自分の足元がグラグラする感じ。


・切れてしまう。繋がっていたと思っていたものが切れてしまう。


・明日仕事に行く。来月もその次も。またある時は仕事なり生きるシーンが変わる時がくる。あと生きているうちにいくつ変わるかわからない。わからないけれど、そのシーンがどんなに変わろうともその人はいない。


・遠い。本当に遠い。







不思議な繋がり方の人だった、と改めて感じた。


色んな人たちが自分の人生に登場してくる。


本当に私にはもったいないくらい素敵な人たちにたくさん出会わせてもらった。


分不相応と思うことはたくさんあっても、とにかく私と知り合って仲良くしてくれた数々の人たちはそんなこと全く意に介さず、仲良くしてくれてる。


その人はそういう繋がり方をしない人だった。


私は何かしら仲良くなれたらいいなぁとは思ったけれども、そういうことは私の人生には不要と判断されたのか、相手から不要とされたのか、その両方かは知らないけれども、とにかく仲良くなる間柄には残念過ぎながらなれなかった。


「残念ながら」だと弱すぎて、わざと「残念過ぎながら」と書いた。


相手が私に残した印象のインパクトはこの世のものとは思えない強烈なものだったけれども、字のごとく、強くて烈(はげ)しかったけれども、それは魂の成せる技だというのも自分なりに解釈してきたけれども、とにかく色んなことが異次元すぎた。


相変わらず、その人は私の中心にあって、私は信仰や宗教なんていうものの感覚は全くわからないけれども、言うなればそういう信仰に近い、何か自分の中で何の理由も理屈もなく信じられて自分の中で勝手に慕うもの、慕ってしまう相手という感じが続いている。


その部分に大きく斬り込みが入った感じがした。


単なる物理的な距離がさらに拡大しただけのことで、じゃあ物理的な距離が縮まれば関係性も近くなるのか?といえばそんなことは絶対にないわけで、だから物理的な距離が拡大したからと言って私の毎日も相手の毎日も何一つ変わらない。


そもそも繋がらない相手でしょ、と言われたら元も子もない。


私の勘違いかもしれない。


むしろ勘違いの方がいいかもしれない。


でも、私の勘違いでなければ、今ごろ私なんかは同じ地球上に存在さえしていないかのような立ち位置の超他人になる。


物理的な関係性は上に書いたことがまさにピッタリだからそれは否定しない。


むしろ、異論なし賛成に手を挙げてもいい。


でも、私が見ている世界では違う。


私はブログを書かない日でも1日に何回となくブログのチェックをする。


それはもうどんなに具合の悪い昨日みたいな日でもする。


私がブログをチェックするただ1つの理由は、その人の生存確認とその人が何を確認するかを見ている。


ブログの管理者である私でさえもたどり着けないようなマニアックな記事が読まれる。(冗談抜きで、Google側のブログの基本設定が変わってからは私も自分の過去のブログにはたどり着けない。) 


そうしたマニアックなものが読まれたと知る時に、嬉しい気持ちももちろんあるけれども、こんなこと言ったらはたかれそうだけれど、もしくは全否定されそうだけれど、なんとなくその人の中にあるさみしさや心の誰にも見せない何かみたいなものの存在をなんとなく感じる自分がいる。


実際にはどこまで何を読んだり見たりしているのかはわからない。


だけど、自分の心の中に何か響くものがなければ同じ文章を何回も何回もチェックするなんてしない。


だから物理的には一番遠くて関係ないみたいな位置に私はいるけれども、見えないところでは物理的なものとは別の何かがあるように私は感じている。


物理的な距離云々よりもそういうことさえも何も知らない知らされない自分というのが、なんだか立っていられなくなるようなそういう気持ちだった。


衝撃と共に呆然となった。


自分の中で何かギリギリで保っていたつもりのものが、一瞬で崩れたみたいな、上手く言えないけれども本当に変な不安定感が広がった。


そうだ。


これからどうやって自分と折り合いをつけようかというのも思った。


そういうのは時間がかかるから今すぐどうこうしようとは思わないけれども、なんかもう自分の中でちょうど加減の良い距離感やら自分との付き合い方を見つけないとなぁなんて思った。


相手からした自分の存在というか立ち位置に対して、普通にショックはショックだった。


年内どこかのタイミングで、私は東京に行く素晴らしい用事ができた。


そして上手くいけばその用事を理由に年に何回かは東京やその近郊に行くことになりそうと思ったりもしていた。


多分そっちは本当に具体的に動くタイミングが来ると思う。


ちなみに何をするかと言えば、人に会って話聞いて聞いた話を言葉に起こす。


それが何になるかなんてわからないけれども、何か面白い試みになるなぁなんて思っていた。


と同時にその人とほんの少しの時間とほんの少しの距離がその時だけ縮まるんだなぁなんて、ほんのりと思っていた。


だから?


と聞かれたら「いや、何にもないけれど」ってなってしまっても、それでもそんな風に感じる自分が確実にいた。


そういうことも含めて、なんだかすべてが遠いことですべてがいつか確実に消えて無くなるもの、その強い勢力がどんどん増してしまいそうで哀しい。







真夜中の力ってすごい。


そして書くことの力もすごい。


真夜中にこうして淡々と書き続けていると、いくらでも言葉がポロポロと出てくる。


木曜日からの連休でこんなことできるか知らないけれども、部屋を暗くして布団にくるまってこうして書いて、そうしたらそのうち泣けるようになるかもしれない。


書いていて、自分はなんとなく泣きたいんだろうというのはわかった。


だけどあと4時間もしたら起きて仕事行かないとだし、下手したら残業だし、そういうことをするには自分の中で緊張感と理性がいる。


それをあと2日したらしばらく緊張感と理性は要らないし、そしてその時に今くらいに気持ちが奥の方に潜れそうなら潜るだけ潜ってそこで泣きスイッチが入るのを待てばいい。


今おかしなことを思った。


コロナによって人と簡単に会えなくなって、ますます心の繋がりや目に見えない部分の繋がりが大事だと注目されるようになった。


これってある種モデルケースで時代の最先端を行ってるのかもしれない。


な〜んて、おかしなことを考えた。


私明日はどういうテンションで仕事してるんだろう


少しだけ救いなのが、明日はこんなの今の仕事をして初めての仕事だけれど、基本的に既存の英訳をひたすらエクセルに入力するというもので、入力しながらおかしな英訳があつたら直す、というのを延々とやる。


集中力もいるし、時間もかかるから、今ここに書いたことは忘れていられそう。


じっくりと味わいたいものとは違うから、でも放っておくと後が大変になるだろうから、それを避けるためにとりあえず無視せずに自分と向き合ってみようかというところ。


ごちゃごちゃ書かず、ここでやめてアップしよう。


読み返してないし誤字脱字もチェックしてないから、なかなかの文章仕上がりじゃないかと思う。