2024年4月27日土曜日

仕事に関する質問


今年の桜、夕暮れ時
2024/4/10

今年の桜 朝焼け時
2024/4/11

これも朝

朝は人も車も通りがなくて絶好のシャッターチャンス

毎年定番化している
花見の後のコメダのモーニング

2年生の姪っ子と1歳の姪っ子
2024年3月 さくらの季節の前


最近読んだ本の中にこんな風な質問が書いてあった。

「その仕事は自分を幸せにするものか?

その仕事は他人を幸せにするものか?」


たしかそんな風な質問だった。







ここ1ヶ月ほど自分の中でくすぶり続けたものが言語化できるようになってきた。


「これ、何のために誰のためにしてるんだろう?」という疑問に始まり、自分は良かれと思ってしていてもそれに対して批判非難してくる人たちがいる。


今朝もそんなことが一悶着あって、愚痴れる子にさらっと顛末を伝えたら、一言


「それって『何もしなくていい』って言ってるものだよね!」 


とすごい皮肉を込めた、素晴らしい言葉が返ってきた。


っていうか、何もせず他に何する気なの?というのも後から続けて言ってた。

(本当に色々言うのに何一つやるべきことをやろうとしないから不思議でならない。)


ちなみに私が今回当たっているのは外部向けの営業資料で、それをこの2〜3年で大幅にフォームが変更されて最近は定まってそれに沿って資料作りをしているにも関わらず、「何でそんなことまでしなきゃいけないんですか?」的な言葉が間接的にやってきて(そんなことまでというかそんなことをこれまでずっとしてきてそれで大御所たち御一行様がそれで承認しましたの印を押してるもの)、そしてやるならば詳細のマニュアルが欲しいとも言われて、板挟みな担当者が私に申し訳なさそうにマニュアルは諸々落ち着いたタイミングで作って欲しいと言いにきて、マニュアルも作るし資料もこれまで通りに作るけれど、私は余計なことでも気を利かせてプラスなことをしているのでもなく、会社として必要なこと会社から求められていることを淡々とやっているだけで、なのに「何でしなきゃいけないんですか?」などと言われて、もう絶句して怒りも湧いて呆れて、でも最後は「もうそのうち辞めるんだからやることだけやりきろう」というところに今いる。


で、このようなことが往々にして繰り返されていて、それでものらりくらりとやっていたものの限界に来ていて、そんな折に冒頭の質問に出会って、「…………」と言葉にならないような気持ちがわんさか噴出した。


この後も色々すったもんだの現在進行形だけれども、1日の終わりにとても嬉しいことがあった。


ちなみに事としては崩壊している。


しかも崩壊への序章でしかなく、これからもっともっと崩壊していく。


それは私としても予測はついていて、非難批判係の人たちから協力や理解が得られなければそんなのは遅かれ早かれ崩壊するのはわかっていた。


ただそれがまだ何にも目に見える形になっていなくて私1人がモヤモヤ悶々として時々ブツブツと愚痴って、でももう無理だし限界だなと思っていた。


それがなんとここに来て、これまでずっと私とタッグを組んでやっていた専門知識ゼロに近い人が、今日明るみになったものたちを見て絶叫発狂していた。(「専門知識ゼロに近い」というのは本人の言葉)


その担当者が自分側の業務をするために提出された仕事たちを開けてみた。(提出されたものたちを使っての作業の担当者)


専門知識ゼロと言う人から見て気付く酷いレベルで、形としては仕事をしたことになっているけれども内実は仕事をきちんとしていない分、当然そのフォローや修正という余計な仕事が増えて収集がつかなくなって(100の仕事のうちのまだ序の口の1程度のもの)、そこでコケるくらいだから当然この後は未知数な大コケになっていくわけで、それはもう私ははっきりと想定していただけじゃなく実被害的にも色々あったから本当に毎回うんざりモヤモヤ発狂オンパレードだったけれども、ここに来て本当に私以外の人に伝わったのが嬉しかった。


そして担当者は言った。


「これまでずっと積み上げてきちんと形にしてきたものたちを一気に崩されてしまう。

こんなの、『分担』『作業の分散』が目的だったのに、その結果収集がつかなくなってダメになって、もっともっと仕事が増えて、そして今まできれいに整えてきたものたち、積み上げてきたものたちが全部ダメになるだけ」


きちんと怒りを普段から表現する人だけれども、今日は怒りを通り越して悲しいとかやるせないというような気持ちが伝わってきた。


嬉しいというのは、共感もだけれど、少なくとも私は必要だと信じてというか言われてやり続けて面倒でもその手間も引き受けて毎回ちまちまとやって、自分でもここまでする必要あるかしらね?くらいな気持ちになることだってあったし誰も見ていないというのも思ったけれども、その積み重ねや一緒にやってきたことたちはしっかりと一緒にやってきた人たちにはきちんと伝わっていて見てもらえていたことと、それを共有できたこと、きちんと回り回って自分のところに何かしらが返ってきていること、本当にやり続けてきて良かったと思えた。


もうこの後は崩壊するしかないし、1人1人の仕事への姿勢や在り方がもろに出ることだからそんなのは私みたいに整理整頓が苦手すぎる人に整理収納アドバイザー的なキッチリさを求めるようなもので、無理だなと思う。


私は自分の関わることたちには手を伸ばすしやれるだけのことは全てやろうと思っているけれども、自分の手が出ないものはもうやれないしやらない。


引き継げるようにそれは1つ1つ作り上げたし誰でもアクセスしたり利用できるようにその土台も整えた。


だけれど、それは場所を知っていて単にアクセスしたら良いものの、それをしようとしない。


忙しいとか他にやることがあるとか、それは色々あると思う。


でも少しでも手間をかけたらそれで終わる。


それさえもしない。


そんなのもうこれまで積み重ねたものも一瞬で吹き飛ぶ。


専門知識がないと言う人さえも気付くレベル。


この歪み(ひずみ)はいつか取り返しがつかないものに変わるだろうし、それはいつか自分たちの首を絞めることにもなる。


この2、3年、プンスカプンスカ怒ったりしながらもやることをやり続けてやり抜いて良かったなと思っている。


一緒にやっていた4人でそれぞれの持ち場をしっかりやって、抜けたらフォローして、とにかく口頭で報連相しながら何とか回して形にしてきた。


1人は異動でいなくなってしまったけれど、補充されてさらに他にも人数も増えた。


能力的にできる人たちが増えた。


増えたには増えたけれども、そういう人たちが非難批判をして足を止めて「やらない」選択を続けて、これはもうどうにもならない。


能力は高いのに「やらない」を貫こうとする。


もう少し言うと、私はいつか辞める人で非協力的な方々は残る人たち。


もう遅かれ早かれそういう不具合がいつか大爆発する時がやってくる。


やってくると言うより自ら招いている。


その時は100の仕事のうち1つだけやらなかったとしても、それが100個目の時、100の不具合が出るということ。


1なら今のうちに直せるし手間暇も1つ分で済むけれど、100になった日には100の直しなんてとんでもないしもう手さえ付けることができなくなると思う。


それがわかっているからこそ、準備もして資料もわかるように用意して伝えてさて始めましょうだったものが、もうどうにもならなくなるところにあっという間に到達してしまった。


だから、自分のやることだけに集中して、色々な不具合はもう観客状態で、テコ入れ可能な部分はテコ入れするけれども、何だかなぁな気持ちとやるせなさと諦めと傍観者的な境地と色んな気持ちが混ぜこぜになっている。







そんなこんなの折に見た質問で

「誰も幸せにならない仕事」

だということを否が応でも感じた。


自分はもちろん、関わって一緒に取り組む人たちもみんな疲れている。


もちろんきちんとしようとする人たちもいるし、そういう人たちにたくさん救われているけれども、もうそういうことだけでやれる状態を遥かに超えるところまで来てしまっている。


これって誰か幸せになるのかなと思う。


仕事の仕上げ方とか取り組み方なんかは、同じ方向性を向いている人たちと組むと本当にやりやすいし、その時は終わると「やりきった」と感じるし何とか形にできて良かったなと思う。


そしてそういう人たちと組んで仕事ができるのは「しあわせ」に数えられるものだとも感じている。


だけどそうではない足を引っ張りまくるというか足止めを食らう相手だと本当に「これどこに向かっているんだろう?」という気持ちになる。


もちろん誰も幸せじゃない。


やらないことを貫く人たちだってそれはそれでその場しのぎにはなってもその代償はいつかとんでもなく大きな問題として自分のところに戻ってくる。


結局のところ、辛い苦しい未来が先送りされただけで「この仕事をやれて良かった」とは誰もならない。







同一の資料なのに、時をまたいで3回別々に作られて、そこに今度は4回目の別便が近々来て、さらには人も複数人まちまちに関わっているものがある。


同一のものだから、1人が中心となって全体を把握できていたらいいけれど、都度都度の中心となる人物が変わって、さらに関わる人も複数で、1つに仕上げるにはその前の整理作業が出てきた。


整理作業は私ははっきりと認識しているけれど、なんならこれをサボりまくると最後私が英訳をする段階でとんでもないことになってもう一度1から全て作り直しになってしまうからそれを避けるべく整理できるものを先に整理することにした。


これは本来なら社員の中でも上の人がやる筋のことだし、派遣の私がやるのはとてつもなく変なのはわかっているけれど、後からやってくるツケは甚大で、それこそ一番忙しいピークの時に言うなれば「あとはできた資料を印刷するだけ!」「資料を印刷しないと」「あれ?エラー?印刷用紙が補充されていない」「印刷用紙を取りに行ったら在庫がない」「印刷用紙を注文しないと」「っていうか紙が明日までないから印刷できない」「今日お客さんがくるのに」とかいうようなことがドミノ倒し的に起こるのは目に見えているから、だから先にやっておけばとりあえずのドミノ倒しは防げる、ということをやった。


印刷はあくまでも比喩で、実際の内容は役員級の強烈なものだから、被害が末広がりに広がってしまう。


そんなこんなで関係書類とデータを全て集めて、誰が見てもわかるように整理して連絡した。


私はこの手の作業に慣れていることもあって、ということは回数を相当こなしているから、もはや1つ1つの重要度がいまいちわからない。


ところが今回は本当に重要度が高かったらしく(いつもいつも高い高い詐欺に遭いまくりだから、また今回も勝手で無茶な計画を立てたなくらいにしか思っていなかった)、私のメールはあっという間に上層部に共有されてさらには追加であれこれと依頼を受けた。


っていうかそんな一大事なものをなぜ派遣の私がかなり詳細に把握しているのに、本当に必要としている上層部や社員の人たちが把握できていないのか不思議すぎる。


もちろん私だって知らないことだらけだから、そこはさっさと関係者に状況を直接聞いて情報集めに奔走してそれで全容に近付いていく。


私は自分がしているこうした作業で骨折り損になったことなど一度もなく、むしろ自分が本当に正式に依頼される英訳の時にこうした先回り的な対応に何度救われたかわからないし、反対にそれがないまま進んでただでさえ英訳がカツカツの納期なのにそこに大元の日本語の資料からの仕切り直しなんかもダブルで言い渡されて憤慨したりはちゃめちゃな日程で連日残業しまくりなんてことも数えられないくらいにある。


私は今自分が困るのが嫌だから色々根回しやら状況の整理やら情報集めに動くけれども、これ絶対に誰かがやらないと回らないしさらなるクレームや大問題を引き起こすものだから「やる」以外に選択肢がない。


自分が辞めた後はもう間違いなくすごい迷走をすることがわかるから、みなさんの「やらない」選択肢がいつかとんでもないツケとなって回ってくるのがわかるから、もう色々とダメになったら良いと大真面目に思ってる。


そういうことの重要性がきちんとわかる人たちとは向かう方向も見ているものも同じだからとてもスムーズに事が運ぶしやりやすい。


自分が正しいとか必要だと信じているものをひたすらに形にしていくだけで、あとのしょうもない社内事情や人間模様はイライラしたり悶々とするけれど、とにかく無視を貫こうと思う。







これ1ヶ月くらい何回かに分けて書いたもの。


すぐ上の部分は昨日一昨日の話だけれど、それ以外は桜が咲いていた頃の4月の初めくらいの話。


全然変わらない体質にさらには不愉快な言葉もあれこれ飛んできたけれど、もうなるようにしかならないから自分ができることをひたすらやっている。


全然変わらないんだなと物事の停滞具合が痛々しい。


で、今現在はこれを金沢行きのバスの中で書いていて、これから5月4日まで3年生になった姪っ子と1歳4ヶ月の姪っ子のところにお世話係として行ってくる。


下の姪っ子はとうとう壁つたいに階段を降りられるようになったらしく、店舗・工房・自宅と三階建ての建物内の土足で行き来する階段を裸足で降りて大人が毎回大変な羽目になるらしいΣ(; )))) 


1年前は床に転がしておけば良かったけれど、もはやそんなことは無理で大人のモニターが常に必要な様子(꒪ꇴ꒪)


ということで、ゴールデンウィークは10連休にしておば業に家政婦業に励む予定。キリッ(^)

2024年4月21日日曜日

車の買い替え計画と心模様

チューリップは新潟県の花
2024/04/20



とうとう次の車を探してください、と車検をお願いしている車屋さんにお願いしてきた。

今年の6月は点検、来年の6月が車検だけど、来年はもう車検は取らずに遅かれ早かれ車を買い替えないといけない頃合いに差し掛かった。


実は私は車を自分で探して買ったことが人生で一度もない。


20代の頃、免許を取ってさぁ車がいるとなった時も、父の幼馴染一族がしている車販売兼車検工場のところに父がお願いして適当な中古車を見繕ってもらって、手続きなども全てしてもらって、さらにはお金も両親が先に払って私が後から両親に返す方式にしたからとにかく何もしなかった。


いつかの冬に車をスリップで横転させてしまってダメにして買い替えになった時もそこに父がお願いして、また同じように手続きは代行、お金は両親先払いの私が両親に払うということで、その後しばらくしてドミニカに行って私のカーライフは一旦終了した。


名古屋にいた時も不要だったから車は持たず、無一文で両親を頼って帰ってきた2016年の今頃、私は新潟にい続けるかどうかもわからず引きこもっていて、だから車を買う気もさらさらなかった。


両親の方が業を煮やして、また件の車屋にお願いして今の車がやってきた。


その車が来た時、「本当にこのまま新潟に住み続けるのかな」と、その気持ちも固まらないし車は来ても仕事も探すフリだけしていた当時の私には車イコール余計な借金にしか見えず、それもとても暗澹たる気持ちになったものだった。


仕事に行き出して両親にもお金を返して、とりあえず先のことはわからないから本当に必要な時にまた考えようと先延ばしにすること数年。


最近の車は10万キロを超えても何ともないとわかったし、なんなら最近は14万キロを超えてきたけれど、とりあえず問題なく使えている。


オイル漏れとかあったけれど、とりあえず直して使っている。


そして私はもう1つキロ数が増えるごとに疑問も抱き続けた。


「私、このまま新潟に居続けるつもり?」と。


車を買い替えるとなればまた住み続けることになる。


うーん、どうだろう?と自分の中で色々しっくりいかないことが満載だった。


仕事とか生き方とかそういうことにこだわっての質問じゃない。


私の優先順位はそこではなく、もっと別のところにあった。


ここから先のもしは、本当にどこまでもありえないもしだし、そんなことが起こるのならば私の人生完成にさえ思うから、本当の本当にありえなさ過ぎることを私は何度も何度も逡巡した。


もし結婚とか一緒に住むとかそんな未来があるのなら車は要らないだろうから、私はそちらの「まさか」を最優先事項にしていた。


そんな要らぬところにお金をかける必要はないから、まさかの巡り合わせが自分のところにやってきたのなら、私は迷わずそちらに自分を動かす気満々でいた。


ツッコミどころ満載過ぎるしそんなこと誰も聞いてないって話だけれど、私の中ではそうだった。


何ヶ月か前に職場の女性2人が新車で車を買い替えた話をそれぞれの人から直接聞いた。


どちらの話を聞いても私が真っ先に思ったことは「今の場所に住む」ことがきちんと決まっているのだなということだった。


1人は結婚されていてもう1人は独身だけれど、とにかく2人ともが今の地に住み続けることを大前提にしている、多分本人たちはそんなこと考えもしないだろう決定事項として持っているんだなというものだった。


私は自分の中で「これだけはやり抜こう」みたいなのが30歳を最後にパタリと無くなったから、それ以降気付けばかれこれ15年、本当に何も決めずにここまで来た感じ。


もちろん何かしらの選択はしないといけなくてするのだけれど、「これやりたい!」みたいな気持ちで選んだことが1つもないまま15年も月日が過ぎたことにただただ驚く。


そんな中、たった1つ、「まさか」を真面目に夢見てというか「本気で叶ったら嬉しいな」などと思い続けて気付いたら数年単位で時間が過ぎて、今度はまさかの車の方が先に買い替えが必要になる時期に近付くだなんて、色々想定外だった。


何せそんな風だから、車屋さんから希望を聞かれた時も本当に希望などなく、予算内で軽、四駆(じゃないと冬場は本気で家に帰れない)、あとはキロ数が極力少なければ何でもいいです、色も車種も何でもいいと、走ればいいですと伝えてきた。


そしてこれまで自分で探して買ったり手続きしたこともないことも伝えて、それら諸々一式お願いしたい旨も伝えてきた。


今の車屋さんも中古販売もしているところだから、お願いしていたら間違いない。


私は今の車屋さんにお世話になる時、最初支店の方に行ってきて、その時にちょうど小さな子が2人3人いるファミリーの納車の日だったらしく、そのファミリーの横で私は出してもらったコーヒーを啜っていたことがあった。


今は家から近い本店の方に行っているけれど、最初はそちらで、そしてそのファミリーがてっきり近場の人かと思えばわざわざ長野から家族で公共交通機関を使ってやってきたと知って度肝を抜かれた。


支店というのが隣りの市の外れにあるところで、周りは民家、田んぼ、畑が同じ数ずつあるような場所で、そんなド級の田舎の中でも田舎な場所でそんなやりとりがあって、とにかくびっくらポンな展開過ぎた。


なんなら冬用タイヤは乗って帰る車に乗せられないから、郵送で後日送る相談までしていた。


何の車を買っているのかまではわからなかったけれども、相当マニアックな何かをわざわざ新潟のど田舎まで、しかも長野から新潟は公共交通の便が非常に悪いから、さらにはその支店の場所は新幹線の駅からさらに50分ほどローカルバスに揺られてこないとたどり着けない場所ゆえに本当に不便極まりなく、でもその手間暇をかけてでも来る価値がある車を取り扱っている車屋さんなんだなと思った。


その時は私ももし次必要になるならここにお願いしたらいいんだなと薄ぼんやりと思った。


ちなみに父の幼馴染一族が経営しているところは、この数年ですっかり様変わりして、とりあえずずっとお世話になっていた車検工場は畳むことになって、隣りの市まで車検の場合は車が運ばれないといけなくなって、そうなると私なんかは色々不便なことや何かあった時にさっと頼れないのもネックで、それで今のところに替えた。


今のところは、父の高校時代の後輩が代表を務めている車屋さんで、そしてその店と子ども時代に世話になった自転車屋さんが親戚同士というのも知っていて、それなら大丈夫だろうというのも色々見越せて、それで実際に行ってみたらとても良かったから今に至っている。


余計な話をしていて、何の話をしたかったのか忘れてしまったえっ?。


そうそう、車をずっと替えずにここまできた理由。


私の中の最優先事項は、自分が思っている以上にとてつもなくはっきりとしていて、その最優先事項がまさかのまさかで叶う展開が人生で始まってくれるのだとしたら、私は自分の身ひとつでさっと動くくらいの覚悟がある。


でもそちらは叶いそうにもなく、叶って欲しいが強すぎるのか、というよりも叶わないことこそが人生の正解と言わんばかりに叶う気配は全くない。


貴女、いい加減現実を見て生きていきなさいよ状態ではあるけれど、私はこういう時も本当に生き方が下手というか不器用というか頑固というか


今日明日の話ではないけれども、車を買い替えようという流れと自分の気持ちとが全くマッチしてないこの現実よとトホホな気持ちでどこか他人事のようにして見ている。







読み返してみた。


このままアップはするけれど、これ逆の立場で見たら私の発言、怖すぎるなと思う。


気持ちがあって呼び寄せたい意志もあるなら私の発言はウェルカムになるけれど、気持ちもなく来られたら困るなら、発言の現実化を加速させるようなことは絶対に避けたいだろうし、私の発言は害以外の何ものでもない。


(;;)(;;)(;;)(;;)


気分はこうなるの図


もはや凶器且つ狂気の領域だなと思う。


無視する権利があるのと同じ?で、私も発言する権利がある、言論の自由と思ってないと内容強すぎと思う。


色々言い訳しても結局はアップしてしまう自分…( ̄∀ ̄;)