2016年4月28日木曜日

思い出の中だけで生きる場所

これまで一度も訪れたことのない場所を訪れた。

手続きのために向かって、帰りは思い出のある場所をひたすら歩き、当時仕事で使っていたバス

停からバスに乗った。

思い出のある場所の1つは大きな公園だった。

仕事の途中、ちょっとさぼって公園の中で休憩した。

平日の午前中に、中学生か高校生と思しき女の子がいて、どうしたんだろうと不思議に思っていた

あの場所だった。

今日は雨で、散歩のおばあさんと習い事に向かう小学生の小さな女の子2人とだけすれ違い、

あとは誰にも会わなかった。

ここかしこと木々が植えられていて、トトロのトンネルみたいだった。

当時の職場の近所で見慣れていたところは、ところどころ様変わりしていた。

中国人が経営していると思われる中華料理屋や大きな駐車場を備えたコンビニができていた。

中華料理屋が当時もあれば絶対に行ったのに、と残念に思いつつ、徐々に当時の職場に近付き

よく見慣れた建物が目に入った。

なんだか暗いなぁと思いながらも、まぁ元々暗い感じの建物ではあったから、そしてちょうど前の

歩道に植えられた樹木が邪魔していて見えないだけだと思っていた。

なんと前の職場は閉鎖していた。

会社自体はまだあるから会社は存続しているけれど、わたしの職場は閉鎖していた。

「テナント募集」の看板が窓に貼り付けられているのが目に入った。

まさかそんなことになってるとは思わず、直接3階建てのビルの中に入って行った。

下の駐輪場には当時の但し書きが残されたままになっていた。

2階に上がり、扉に貼ってあった事業所のシールはなくなっていた。

電気メーターも止まっていた。

そしてまたすぐに元の道を引き返した。

2階の踊り場で、ぽっかりと空いたスペースから雨空を眺めた。

いつかここでFと下弦の三日月を一緒に眺めて、それは時間にしたらほんの1~2分、ふたりで

感動した。

こんな風に夜に月を見ることもなければ、それがたまたま下を向いている三日月ですごくラッキー

と話していたFの姿は今でも目に焼き付いている。

最後の日、Iを外まで見送った。

外まで見送ってくれるなんて嬉しいと言いながら。

Yはいつも下に設置されていた自動販売機のジュースについて談義していた。

一時期撤去されて、その中のコーンスープが好きだったのに悔しいと真剣に訴えていた。

今日手続きした場所は、当時のお客さんが住んでいる町だった。

実際に歩いてみてとても遠いことがわかり、あんなに遠くからいつも通ってくれていたんだと

思ったら、ものすごく感動してしまった。

まだまだ思い出そうと思えばいくらでも思い出せる。

とにかくたくさんの思い出をたくさんの人たちと作った場所だった。

仕事の内容は全然好きではなかったけれど、そうした個人個人との関わりが大好きで、それだけ

を理由に続けられたと言っても過言ではなかった。

あの場所があったから出逢えた人たちで、作られた思い出だった。

今回4年ぶりの訪問で、この4年で色んなことが変わったんだと知った。

不思議と切なさはなくて、もう空虚となったそのテナントを見て、そこで一緒に思い出を作られた

その事実だけがなんだかものすごく特別に感じた。

当然そこに通ってきた人たちは今も9割がたはその地域に住んだままだろうと思う。

そこを見てどんな風に何かを思い出すんだろう。

時と共にどんどん色んなものを忘れるだろうし、もしかしたら一瞬たりとも思い出すこともないの

かもしれない。

別にそれでもいいなぁと思った。

多分もう自分の人生でそこには二度と訪れない。

ついでに行ける場所じゃないから。

二度と訪れることはなくても、わたしの思い出の中ではずっと永遠に残る場所、そして数々の

思い出たちも時々は人生の中で現れてくれるだろうもの。

そういうものっていいなぁと思う。

そういうものを持てたこともとても光栄だと感じてる。

当時はただただ辛かっただけの仕事が、今は素敵な思い出のワンシーンになっている。

行きつ戻りつそして今

「行きつ戻りつそして今」そんな言葉がふと出てきた。

何が行きつで何が戻りつなのかわからないけれど、今の自分の心情を表すとそんな感じ。

この3日程、日常なのに非日常のような時間を過ごした。

過ごしたと言うより、勝手にありえもしないことが山ほど起こってきてびっくりした。

例えばその一端を担った1冊の本がある。

図書館で借りた本で、さっき調べたらなんと名古屋市内で1冊しか在庫のない本だった。

なんとなく惹かれて借りてきて、そしてその本にあったある実験を行って。

実験は「まさか」を体験する実験だった。

有り得ないということが起きるかどうかを見る実験。

実験って言っても特に何をするわけでもなく、日常を送る。

そうしたら、本当に色んなことが、そう決して日常で起こらないことがいくつもやってきた。

あまりにも非日常のことがいくつも重なって、頭の理解なんか追いつくはずもなく、どうしてこんな

ことが起こり得たのだろう?なんて考えても仕方のないことをぼんやり思う。

本には臨時収入や思いもがけないヒントがきたり・・・と紹介されていた。

それが本当にやってくるなんて、誰が予測できただろう。

しかも臨時収入は、実はずっと家の中に何年も前からあったお金だった。

そして臨時収入というかその現金を手にするのに、それを引火させた人物が2人いる。

1人は10年来の友人のような関係の人で、その人からSNSにメッセージが来た。

1年に1~2回ふらりと連絡をくれる人で、そこはまぁ最初の入り口にしか過ぎなかった。

そのメッセージをネットで確認するにあたり、わたしはある衝撃の事実(2人目)を知る。

あまりにも衝撃がでかすぎて、それでわたしは急遽本格的な断捨離をしたくなり、それで断捨離を

始めたら、なんと意外な場所から現金が出てきた。

そう、だからそのお金は数年前からそこにずっとあったのに、わたしは一度でも気付くことがなく、

ずっとずっとその場所でただ息をひそめていた。

そして最初の本の話に戻ると、すごくいい内容の本でその人ブログやってないんだろうか?と思い

それもチェックした。

その方のブログがいいのはもちろんだったけれど、そこに過去に読んだことのある本の作者との

対談会のような案内があった。

会自体は終わっていたけれど、そのもう1人の方の情報が気になり、それを開いた。

なんと昨日名古屋にその人は来ていて、講演会をするという情報をキャッチした。

情報は先にキャッチしていたけれど、いかんせん先立つものがない。

本当に行けるなら思いがけない方法でお金がくるだろうと(どうせこないだろうと)たかをくくって

いたら、まさかの断捨離の行く末の臨時収入。

めでたく行ってくることができたのが昨日の夜。

さらにその前にも、近所の大学で公開講座があり、なんと無料で一般市民も参加できるタイプの

ものでそこにも足を運んだ。

そこでも思いがけないたくさんのヒントと、そして何よりもわたしがこれまで名古屋市内で見た一番

景色の良い場所に遭遇した。

これまで大学は外からしか建物を見たことがなく、一度も中に足を踏み入れたことがなかった。

だから全くの初めての場所に行くことになったのだけれど、もう半端じゃないきれいな景色で、

そんな素敵な土地が名古屋にあったとは、しかも普段よく通る場所がそんなにもきれいな景色に

なるとは、想定外の出来事だった。

とりあえず、何だかよくわからないけれど、何だかよくわからないことがたくさん起こっている。

そのありえないことが起こる実験を始めた24時間後ぐらいに、72歳とおっしゃった婦人に会った。

向こうから話しかけてくれ1時間弱、互いにベンチに座りながら話をしていた。

その方の飼い犬の名前は、わたしの友達の飼い犬と同じ名前だった。

さらには、なんとその息子さんが数年間勤めたという会社がわたしが派遣で行ったことのある会社

だった。

不思議なこともあるもんだなぁとその時は思って終わった。

そう、断捨離の時も不思議なことがあった。

結局は捨てるのをやめたのだけれど、今回これだけは捨てようと思った1冊の絵本があった。

そこについているわたしのストーリーを断ち切りたくて捨てようと思った。

そうしたら、他のものも見ていたらなつかしくなり、1冊の雑誌を手にした。

3~4年前の今頃、とある雑誌に文章を投稿したことがあった。

それがまさか採用されて実際に掲載されたのがその1冊の雑誌の正体だったのだけれど。

今回も久しぶりに自分の文章を読んだ。

もう何回も読んだし、その時のことはよく覚えているから、その辺りはこれまで通りだった。

これまで通りではなかったのは、自分の文章が載っているページの上の部分だった。

なんとそこに、よく雑誌なんかにある「おすすめの本」コーナーみたいなのがあって、そこに例の

捨てようと思った絵本が紹介されていた。

今まで一度も気付かなかったと思う、そのコーナーの存在に。

だけど今回はそこに初めて目が行き、まさか自分がこれから捨てようとした絵本がそこに載って

いるなんて、想像すらできなかった。

それ見たらあまりの偶然に腰を抜かし、とりあえず捨てることはやめた。

だってこんなにたくさん世の中には本が溢れているのに、何がどうしたら自分が捨てようと思った

本とそのたまたま自分の文章が掲載された雑誌の中で第三者が推薦している本が一致して

いて、さらには自分の文章とその本の紹介とが同じページにある。

もうどんな確率ですか?という話で、捨てるに捨てられなくなった(笑)。

ちなみに絵本は9~10年前に購入したもの。

という、過去も未来もはちゃめちゃなことが山ほど起こって(ここには書いてないこともまだある)、

とにかく行きつ戻りつの今になっている。

これまた余談だけど、今日とある契約に関する連絡をある会社にした。

これももう何回も契約しているから、いつもと同じ流れで契約をするのだろうと思っていた。

ところがいつまで経っても契約書がこないからどうなってるのかと思い、ようやく連絡した。

なんと、契約の方法が今回から変更になることが判明した。

これも全くの想定外のことで、もしこれを早くに知っていたとするならまた違った選択を自分はした

のかもしれないと思った。

とにかく、これまで「○○だろう」と思っていたことが次から次へとひっくり返され、もう何が当たり前

で何がそうではないのかの線引きが薄れてきている。

ありえないことだらけなわけだから、どう解釈していいのか自分でも戸惑っている。

さてこの後もいくつか、普段には有り得ないことがいくつか予定されている。

何が出てくるのかはわからない。

だけど確実に水面下で何かが進行しているような感じがある。

何が進行しているのか、当の本人のわたしでさえわからない。

2016年4月25日月曜日

心地良い音色

夜中布団の中で小説を読んでいたら、外から聞こえる音が一段と大きくなった。

いつから聞こえていたのかはわからなかったけれど、よく耳を澄ますとカエルの鳴き声に似ている。

包囲5キロは完全なるコンクリートで構成されている街に住んでいたら、カエルとは無縁だ。

もちろん田んぼも畑もない。

あったとしても、とっても人工的な家庭菜園がある位だ。

そもそも庭の面積が狭すぎて、畑などやれる程の土地持ちの人は近所にいない。

だからその何だかよく知らない音がカエルの鳴き声に、しかもおたまじゃくしがカエルになった位の

一番うるさくなるカエルの大合唱のような音に聞こえるのがたまらなく不思議で仕方なかった。

近所は住宅が密集していて、夜中はほとんど音がしない。

たまに酔っ払ったグループの人が通りかかると、会話が聞きとれそうな位に静まり返っている。

そのカエルの鳴き声のような音がどこから来ていて、そしてどうしてそんな風に音がわたしの頭の

中では書き換えられているのかわからなかったけれど、聞いていて安心する音だった。

新潟の実家のすぐ隣りには田んぼがある。

だからカエルの鳴き声は、毎年時期が来れば嫌でも耳にする。

そのよく見知った音をただただ聞くだけで、気持ちがおだやかにそして何とも言えない安心感の

ようなものを感じて感動した。

ただ小説があまりに面白すぎてベランダに出て音を確認するほどの余裕はなかった。

キリのいいところで確認しようと思いそのまま読書を続けていたら、「さぁちょっと出てみようか」と

思った時には丁度その音が消えてしまった。

そしてその後には一切そのカエルの鳴き声らしい音は、外から聞こえなくなった。

何だったのだろう?と思う。


今朝は今朝でまた面白い音を耳がキャッチした。

今近所では3つの大きな工事が同時進行している。

1つは水道管の入れ替えのための道路工事。

これが音としては一番家から近いもの。

2つ目は、距離で言えばコンビニ1軒分位先のところのアパートの外壁補修工事。

多分だけど、そのアパートの外壁補修工事は予定になかったものだと思う。

数日前、暗くなってからそのアパートの脇を通ったら何人もの作業員が応急処置的な機材を持ち

込んで、とりあえず最低限の安全を確保するためにライトアップさせて作業していた。

昼前までは普通だったのに。

そんなこんなでその夜以降、毎日外壁工事が行われている。

3つ目は、50m程先にある某会社の本社建替工事。

「本社社屋」と看板にあったけれど、多分東海地区ではそこそこ大きい会社だと思われる中、

名古屋の繁華街やオフィス街からは離れたこの地にそんな本社を建設するのが不思議。

その3つが稼働しているから、とにかく方々から色んな音が耳に届く。

今朝の音は、何か重機を使っている音には間違いなかった。

だけどその重機が醸し出す音というのが、夏祭りなんかで演奏される日本古来のたて笛の音色に

そっくりで、そしてたまたまなんだろうけれど旋律までも生み出し、聞いていて心地良かった。

当たり前だけど、工事であっても祭りではないわけで、だけど音だけを切り取ったら完全に祭りの

笛の音色で、そのあべこべな感じも寝ぼけた頭には面白おかしく映っていた。

しゃきっと目覚めると、もうそのたて笛のような音色はなくなっていて、多分使用する重機が

変わったのだろう、単なるうるさい工事の音だけが残った。

2016年4月22日金曜日

250円弁当

手抜き料理の話を書いていたら、昔時々買っていた250円弁当の存在を思い出した。

当時はブラック企業での勤務をしていて、1日最低1食は外食という日々だった。

あんなにも外食が耐えられないと思ったことは、人生の中で他になかった時期だ。

毎日食べるものが変わっても、とにかく毎日毎日外で食べるということにほとほと疲れていた。

しかも、同僚や上司と食べることが多く、それもストレスの1つだった。

そんな中、ある日わたしは会社の本社の近くに250円弁当を出す弁当屋を見つけた。

揚げ物を中心に数種類の弁当があって、わたしは2~3回を除いて毎回唐揚げ弁当だった。

弁当を買ったら、近くのお気に入りの神社に行き、そこで1人でゆっくりと食べていた。

残念ながらこのお店はもう今はなく、今でももう一度食べたいなぁと思うお弁当だ。

この250円弁当の唐揚げのレベルが、ものすごく高いレベルだった。

昭和のような古い建物の1階部分がその弁当屋で、いつも2人の店員さんがいた。

1人は奥でひたすら唐揚げを揚げている人、もう1人は店頭で接客というか金の受け渡しをする人

という、実によくできたシステムだった。

唐揚げをきちんと揚げているのは見ればわかる。

しかも1つ1つ大きさが不揃いゆえ、産地不明の鶏肉でもきちんと手作りの唐揚げになっている。

味付けもシンプルだけど美味しいし飽きない。

大きな唐揚げが4~5個入っていたと思う。

ごはんも炊き立てを入れてくれてるらしく、いつもごはんはほんのり温かかった。

ピンクの漬物と小梅1つ、あとは業務用と思しきポテトサラダが少し。

野菜ゼロで不健康な感じの弁当ではあったけれど、中身は美味しかった。

当時のお昼ごはんの中で一番印象に残っているのは、その250円弁当だった。

あとは食べた店も覚えているけれど、この250円弁当ほど印象に残るものは1つもない。

手抜き料理バンザイ

料理熱がどんなに冷めようと、何もかも面倒くさくご飯の用意をしたくなかろうと、お腹は減る。

放置しておけばそのうち収まるなんていう欲に食欲はならないから、最終的に台所に立つ。

最初に少しだけ余談をはさむと、「1人暮らしなら買って食べた方が安い」と世間でよく言われる

あの言葉、わたしは丸っきしの嘘だと思っている。

嘘と言うより、わたしの経済感覚だったら嘘と断定している。

ウニだの大トロだの牛のステーキだのと言うのであれば、外で食べた方が値段はさておき良い質

のものを食べれると思う。

だけど名もつかないような家庭料理を外で食べるのと家で作って食べるのとでは、たとえ1人

暮らしでも絶対に作って食べる方が安い。

唯一頻繁に外で買うものは、揚げ物くらい。

これは経費の問題ではなく、揚げ物専用鍋がないのと油の後始末の問題があるから。

家にある深鍋のフライパンは26cmもあるから揚げ物したら500mlは油を使うことになり、最終的

に油の始末に困るのは目に見えている。

しかも揚げ物は、回数を重ねてないだけあって下手くそだ。

準備と揚げ物の完成具合を頭に入れたら、絶対に買う方がお得でおいしい。

そんなこんなで、基本は自炊でごはんをまかなう。

ただ、ここ数日の料理熱のなさにはほとほと困っているし、かと言って外で食べたいとも思わない。

それで昨日今日とで試した簡単手抜き料理。

料理とも呼べない代物かもしれないけれど、ざっくりとレシピなぞ紹介。

昨日は、「鮭と梅の炊き込みごはん」。

あら、言葉にするとえらい美味しそうな、そして手の込んだ料理のような名前。

そんなわけなく。

1.5合の白米に同量の水を入れた後、鮭の切り身1人分としょっぱい系の梅干し2つ。

それを入れてあとは普通に炊くだけ。

わたしがしたことは、米を研いだのと、それぞれの具材をそのまま(切り身なら切り身のまま)

炊飯器にちゃぽんと入れただけ。

あとはスイッチオン。

炊き上がったら、しゃもじで鮭と梅を刻むようにごはんと混ぜ込むだけ。

味が足りなければ、炊きあがってから塩でもゴマ油でも適当に足せばいい。

ちなみに食べ飽きたわたしは、最後天かすを入れたら思いの外おいしかった。

今日は、「カレースパゲティ」。

今日はもっと手抜き。

これはいつかの弁当に使おうと思っていたレトルトのカレーを使用。

少し前まで、週5回の弁当生活を送っていた。

月~金の週5勤務もさることながら、この毎日弁当持参というのも非常に荷が重かった。

いかに手抜き弁当を作るかが勝負で、それである時レトルトのカレーを持参してはどうかと思い

ついたのだった。

カレーも自分で作る方が安くおいしくできるから、あの高級系のレトルトは極力避けたい。

ある時イオンに行ったら、イオンブランドのレトルトカレーが50円?60円?70円?その辺りの

値段で売られていて物は試しと思って買い置きしておいた。

だけどいつまでも使うことなく、弁当生活は終わった。

このカレーの存在すら忘れていたけれど、つい1~2週間前、他の乾物を出した時に目に入り、

そうだそうだこれもいつか使おうと思っていたのだった。

スパゲティを茹でて、同じ鍋でレトルトカレーも温めた。

そういうことを一緒の鍋ですることに抵抗のある人には勧められないけれど、平気な人はそれで

洗い物少なく済んでいいと思う。

味は可も不可もなく。

とりあえずまずくなくて良かったと思った。

鮭と梅干しの炊き込みご飯もカレースパゲティも材料費だけなら100円を切る。

買って食べるとしても、100円で一食が賄えるものなんて今どきそうそうない。

カップラーメン位じゃないかと思う。

おにぎり1つ、パン1つでは、お腹が満たされない。

鮭と梅干しごはんなんかは、大きめのおにぎり5個分に相当するのに。

いずれにしても、調理時間10分以下で簡単にできるこの手抜き料理のすごさよ。

洗い物というおまけはついても、洗い物だってたくさんはない。

3分もあれば終わるような洗い物の量だ。

個人的に、この究極の手抜き料理をもっと究めたいと思っている。

もちろんそれは、今回のような料理熱が著しく低下し、台所に立つのも面倒な位の時のために。

2016年4月20日水曜日

自己分析とシェアする理由

いつからか忘れたけれど、「あれ?どうしてこんな風に考える?」「どうしてこういう風に感じる?」と

自分に問い掛けることがとても多い。

ほぼ毎日と言っていい位にそういう思考が勝手に働く。

今日は保育園時代の自分の記憶があれこれ出てきて、そこからもっと色んなものが複雑に絡まり

あって今に至っていることに目をつけた。

何をどうやって言葉に起こしていいのかわからなかったけれど、保育園時代の記憶から出てきた

言葉は、出てくる度に携帯をオンにして携帯のメモに綴った。

そうした言葉は、5分とか時間を置いて他のことをすると絶対と言っていい程忘れる。

だからなるべくすぐにメモする癖までついてる。

何でそんなことするかって、それが自分を知るヒントになるから。

自分を知る作業が楽しいからしていると言うよりも、それが自分を少しでも生きやすく楽しくする

ための手掛かりになるだろうと思っているからしている(と思う)。

去年くらいからそうした分析やプロセスをアメブロにアップするようになった。

みんなわたしの話を聞いて!という体では書いていない。

多分多かれ少なかれ「生きづらいなぁ」とか「苦しいなぁ」とかいう部分の根幹に迫るもの、そして

それがわたし1人だけが世の中で体験していることではなく他にもいるだろう人たちにも、こんな

ことしたら楽になれた、わかるようになった、というのを伝えたいという感じで書いてる。

このブログは完全に日々の徒然記で好き放題書いているけれど、アメブロは違う。

せっかく良いことを知り得たから他の人にも言ったらどうなるか?みたいな半ば実験的な感じで

書いてる。

実は今日、このブログもアメブロも書く前に発泡酒350mlと共に夕飯を食べた。

夕飯を食べたら、しかもアルコールを体内に入れたら、基本的にはもう何もしたくなくなる。

ただただゆっくりしたい、という感じ。

今日もそのつもり満々でいた。

だけど、今日の午前中に気付いたことは、どうも今のうちに言葉にしておかないと明日にはまた

言葉に紡げないのではないか?と不安みたいな気持ちと、今だからこそ書けるというわけの

わからない自負とがあって、パソコンを開いた。

うまく言葉にできなくても、とりあえず出てきた通りにキーボードを叩いた。

今も頭の中がごちゃごちゃしているけれど、何も吐き出さずにいた頃よりは幾分かすっきりして

いる。

何だろうこの感覚って思う。

答えは見つからなくてもいいから、この今の感覚を言葉に乗せれるのは今しかないからとりあえず

書いたという感じ。

2016年4月19日火曜日

すごくラッキーだなぁと思うこと

ここ何年かの読書は、基本的に図書館に頼っている。

特に小説は、よほど欲しいとならない限りは図書館から借りて読む。

そもそも、あまり本を繰り返し読む習慣がない。

95%以上の本は、人生で一度きりの読書でそれっきりになることが多い。

だから余程これはまた読むだろう!とひどく惹かれるものでないと、まずは買わない。

だけど、書店に行けば「これ読んでみたい!」と思わせる小説がある。

手に取ってほんの少し読んだだけで、または帯を見ただけで、これは何か面白そうと感じるもの。

そんなにたくさんはないけれど、たまにそういう手の小説に出くわす。

話題の新刊ともなると、図書館も揃って手に入れるのが名古屋市の場合はならわしのようだけど、

まぁとにかくすごい予約数だ。

ちなみに今一番気になっている小説は、全館合わせて予約数300を超えている。

当たり前だけど、そんなの予約することもない。

わたしが予約するのは、少なくとも誰も借りない手のものすごーく存在感が薄いもので、下手すると

書庫とかにしまわれているタイプで、だけど徒歩圏内の3つの図書館には在庫がないというもの。

そういうものは予約する。

わざわざ借りに行くのも面倒だし、ましてやその手のタイプは大型書店にも在庫がない。

むしろ図書館の方が確実に在庫を持っている。

そういうタイプの本は予約する。

だけど、予約数が0や1ではなく、何十・何百の単位になるような話題本は予約したことすら忘れ

そうだから手を出さない。

で、今日ふらふらと3つの図書館のうちの1つに行ってきた。

今日行った図書館は多少遠いため、そんなに頻繁には行かない。

せいぜい年間で片手で数える程度。

何が借りたいとかあったわけではなかったけれど、とりあえずふらふらと館内を探索。

今さらだけど最近覚えたことの1つに、例えば「赤川次郎」「あさのあつこ」のように著者単体で

看板が完成するタイプの人たちではなく、「その他 あ」に分類されるようなところこそ穴場だと

いうこと。

「その他」に入る小説家・著述家は、1冊又は数冊程度の出版実績の方たちが多い。

個人的には、そういうところからよくも知らずに借りてきた本の方が、うんとヒットが多い。

去年の暮れか今年の頭ぐらいにこの妙技を覚えて以来、ひそかにはまっている。

そして今日もそれでいくつかの「その他」を見て回った。

お目当てのものたちは残念ながらなかった。

だけど、まさか2冊もいつかは読んでみたいと過去に思っていた本に出逢うとは思ってもなかった。

それぞれ3年前、3年半前にどの書店でも山積みになっていた話題の小説だった。

1冊については、また最近人気が出てきたようで、2つか3つの書店で最近見かけた。

絶対に予約が入っていてもおかしくない(事実、20弱予約が入っていたことをさっき確認した)、

そんな本なのに普通に棚にぽんと並んでいた。

そう、予約もせずなぜかいとも簡単に借りることができた。

こういう時、すごくラッキーだなぁと思う。

そして、過去に「いつか読みたいなぁ」と書店に行く度に思っていた本たちとこうして図書館で再会

できる時も、これまたものすごくラッキーだなぁと思う。

2016年4月18日月曜日

高級紙と苦い思い出

どうしてこんなことを突然思い出したのか知らないけれど、ふと30歳の時に買った高級コピー用紙

の存在を思い出した。

あまりにももったいなくて、実家から今の名古屋まで自分で持ってきたけれど、さっき確認したら

残り4枚になっていた。

50枚入りだったのか100枚入りだったのか、はたまたもっと少ない枚数入りだったのかは忘れた

けれど、通常の1パック500枚のパソコン専用のコピー用紙より遥かに高い値段だった気がする。

なぜそんなものを購入したのか、その経緯を突然思い出したのだった。

30歳のわたしは、人生で初めての就職活動をしていた。

大学卒業後もしたけれど、それはとても特殊な活動すぎて、世間一般で言うところの就職活動

ではなかった。

だから全くの未経験者として、世間一般で言う就職活動を当時はしていた。

その途中で権威ある方なのか単なる天下りのOBなのかはわからないけれど、某就職相談室なる

ところに足を運んだことがあった。

予約して履歴書や職務経歴書も持参して挑んだ相談だった。

そこで60歳は超えているだろう大御所の男性よりまず注意されたことのひとつは、書類の用紙の

質だった。

それまでわたしは一度も500枚入り以外のコピー用紙は買ったこともなければ、その存在すらも

知らずにいた。

大御所いわく、就職・転職活動の際に企業に提出する用紙はすべて高級紙を用意するように、

まずはそこから面接が始まっていると言っても過言ではない、位のことを言っていた。

わたしは、「ぽかーん」だった。

誰もが知っている名だたる企業に応募するならともかく、わたしが応募した40社以上の会社は

そんな名だたる企業はひとつもなかった。

ましてや、紙質で採用不採用が決まるのであれば、不採用にしてもらう方がありがたい。

紙専門店に就職するならともかく、紙とは全く関係のない企業でさらにはそういう重箱の隅をつつく

ような体質の会社であれば、採用されてからの方が大変だろうことは十二分にわかった。

まぁでも就職活動のいろはのいも知らないわたしは、とりあえず高級紙を購入した。

そして残りは別の使い方となり、今手元に4枚だけ残っている状態になったんだと知った。

ちなみにその大御所は言葉の使い方も、丁寧にというよりわたしの気力を蹴落としたいとしか

思えない言い方で指摘をしてくれた。

未だに正しい言葉の使い方は知らないままだけど、大御所が指摘したのは「『経験を培う』とは

言わない、間違った言葉の使い方」ということだった。

経験は培われるが正しいのか、経験を積むが正しいのか、それとももっと別の言い方が正しい

のか、未だもって知らないままだ。

その場で質問したような気もするけれど、さっぱり要点がわからず、結局「どうやら使い方が違う

らしい」という程度の知識で今に至る。

本当に今となっては貴重な経験となったけれど、高級紙がどうだとか言葉の使い方がどうだとか、

「生きる」ことを考えたらどれだけ重要なのかなぁと毒を持った物の見方しか今もできない。

最低限、相手に差し出すにあたりきれいなもの、言葉も不自由なく読めるもの、それでいいのでは

ないかと今でも思う。

逆に自分が1000人近い人たちを面接する立場になったとしても、紙の質具合にどれだけ目を

向けるかと言えば、気付かないんじゃないかなと思ってしまう。

経歴詐称する心理

少し前、テレビのコメンテーターなのか何なのか、誰かの経歴詐称がニュースになった。

テレビを見ないからその人物がどんな人なのかはわからないけれど、本人もさぞかし心苦しいまま

その時を迎えたのではないかと想像している。

実はわたしも二度ほど経歴詐称をしたことがある。

自分の名誉のために言うと、自ら詐称したのではない。

最初は、第三者によって詐称され、そこで面倒がなくその方がスムーズとわかって二度目は担当

の人に最初の時のようにしてもらえるとありがたいと自らお願いしたのだった。

ちなみに詐称したのはどの部分かと言うと、期間を詐称した。

どうしてこんなことになったのかと言えば、こうだった。

派遣の企業見学という名の面接に出向いた時、その直前に派遣会社の人と打ち合わせをする。

その打ち合わせの時に、相手企業に見せるわたしの職務経歴書も渡される。

そこでその期間詐称が発覚したのだった。

ちなみに、その職務経歴書は派遣会社側が作成する。

当たり前だけど、わたしは自分の経歴についてはそのまま申告する。

それを偽っても仕方ないし、偽るなんていう発想自体がない。

期間詐称になったのは、おそらく派遣会社側の判断で、経歴の見た目を良くするためにと思って、

そのようになったのだと思う。

正直に、「実際と期間が違っていて、わたしとしてはありがたい限りですがいいんですか?」と、

担当者に聞いた。

担当者の女性は大丈夫よ位な感じで応えていた。

期間について補足すると、もうどこに行っても大体わたしの経歴書は期間の部分を指摘される。

そういう公の場でなければ個人的に大真面目に質問したいといつも思うけれど、そういうことを

指摘してくる人たちに

「人生の中で、ぽかんと空白の時間があるのはおかしなことですか?」

と聞いてみたい。

本当に細かい人だと、少しでも空白があるとそこを容赦なく突っ込んでくる。

やましいことなどないので、当たり障りないことを応える。

当然当たり障りないことしか言わないから、それを聞いて相手もほっとする。

なんじゃそりゃ!?と思う。

とまぁそんな具合だから、その空白の期間がなかったことにしてくれた派遣会社の配慮は、ある

意味ものすごくありがたかった。

嘘は嘘になる。

だけど、そんな細かなことを気にする頭のとんちんかんな人たちを相手にするには、その位の策が

必要なのかもしれない。

だからその後もう1社行くことになった時、わたしは前回のようにしてもらえたらありがたいと自ら

言ったのだった。

嘘つくことよりもあの余計な詮索とそれに応えて辟易する自分よりましかと思った。

もちろん面談中の違和感は拭い去れなかった。

変なのと思った。

それでも詐称しなければわからない感覚でもあった。


ちなみに。

わたしはその程度で済んでるけれど、これが本当に公の場に出るものとなれば本人が一番辛い

だろうなぁと思う。

かばう気持ちはないけれど、いつかはばれてしまう。

そんなの抱えて生き続けることの方がずっと負担が大きくないだろうか。

なのでわたしはまた聞かれることがあれば、そこはいつもと同じようにあるがままを申告する。

そんなよくわからない理由で体裁だけ整えてもどうするの?と思っている。

その期間詐称の部分だけでも詐称する側になってみて、嘘をつき通すとか要はでたらめなことを

自分の口から言うというのは、非常に大変なことがわかった。

事実と違うわけだから、わたしなんかはひたすら細かく突っ込まれませんようにと祈りながら説明

していた。

わたしの場合は、実際の勤務期間より長く設定されたわけで、その長さゆえのとんでも質問は

どうにかして避けたいと思っていた(→聞かれずに済んだ)。

ありがたい策ではあったけれど、なんだかどっと疲れたのも本当だった。

それをニュースになった人は365日×何年も貫いたということなら、相当なダメージがどこかに

あってもおかしくないだろう。

人の信用云々よりも、自分で自分を追い詰めるという意味でのダメージ。

そういう意味で、清廉潔白であること、見た目の良し悪しはさておいても、ありのままの自分をその

まま表現できるというのは、すんごく自由な感じがしてならない。

2016年4月15日金曜日

消えるものと続くもの

思い立って、家から1時間ほどかかるところにある図書館に向けて出発した。

いつも同じルートでは飽きて、ちょっと違うルートで行ってみたくなった。

思い出した。

本当は別のところに行こうとしていたけれどそれを取り止め、代替案での図書館だった。

でももう頭の中ではその最初の目的地のルートが描かれている。

それでその近くを通る感じで行けるルートはないのかと、iphoneのマップ機能を使って検索したん

だった。

それで別のルートでもそう距離数変わらずに行けるとわかり、そちらを採用した。

歩いている途中で気付いたのは、そこは以前の仕事の関係で何回か歩いたことある通りだった。

何年も前だし、そんなに何回も何回も通い詰めたわけではなかったから、記憶もおぼろげだった。

おぼろげではありつつも、大体この辺りのはず…というのは思い出せた。

思い出せたけど、当時の建物がない。

建物らしきものの前を通った時に、どうももうその事業所は閉めただろうことが判明した。

今は整体かマッサージの店舗に代わっていた。

いつ閉まったのかは知らない。

だけどあっという間(4年前?)に新設したと思ったら、あっという間になくなったようだ。

そのままさらに歩き続けたら、なんとまたなつかしい場所の近くだということがわかった。

そちらもついでに立ち寄ってみた。

場所は2階だったから絶対にばったり会うこともないし、すでに勤務時間で当時の関係者と顔を

合わせることもないだろうとわかり、その建物の前まで行った。

結果、そこも多分そこだったと思うとしか言えなかった。

窓に貼られていたものは当然撤去され、何もなくなっていた。

記憶があいまいで、たしかこのすぐ隣りがお菓子屋さんで…という具合にしか確認できなかった。

何の目印もない建物の空白状態を見ても、そういう状態で記憶にとどめているわけではないから、

本当にそれで合っているのかどうかは、周りの残っている建物を見て判断する他なかった。

とりあえず、おいしいと評判のラーメン屋さんとわたしが1人暮らしのわりかし初期の頃に購入した

白い湯呑みを売っているせともの屋さんは健在とわかりホッとした。

両方、小さな商店街、すたれたと言ってもいい商店街の中にあるにも関わらず、やっぱりきちんと

したことを積み重ねているから残るのだろうと思った。

まさかこの4年程の間で2つもの事業所が撤退したなどとは思わず唖然としたけれど、本来の

目的地へとさらに足を進めた。

まさかそこで5年前に出逢った個展と同じ作家さんの個展に今日偶然にも遭遇するとは。

しかも5年前とほぼほぼ同じような状況で再会した。

5年前も今日も、たった1枚の小さな官製はがき大の広告を見て知った個展だった。

畳1畳分を横長にした位の大きな掲示板のところにその広告は貼ってある。

掲示板の位置は5年前と今日とでは違っていたけれど、ハガキ大の大きさの広告は同じだった。

ただ最初まさか同じ作家さんの個展とは思わずに見ていて、そうしたらよく目をこらしたら同じ作家

さんで、しかも今週いっぱい開催していると知った。

閉館20分前に急いで中に入り、ざざっと駆け足ですべての展示を見て読んだ。

一番最初を飾っていた作家さんの直筆のメッセージですでに泣きそうになった。

わたしが今欲しいヒントがそこにぽんと描かれていた。

そしてその後の作品にもたくさんたくさんヒントが描かれていた。

どうしてもすべての作品をもう一度見たくてたまらなかった。

なんだったらすべての作品を手元に置きたい程。

そうしたらそれらすべてが一体となった絵本が販売されていた。

何の迷いもなく即決でその本を購入した。

こんなにも数秒で買い物をしたのは久しぶりだった。

個展をあとにし、本来の目的地の図書館へ行ったらなんと閉館日だった。

あぁ今日は図書館ではなく、本当の目的はこの個展だったんだ、個展に呼ばれたんだと悟った。


わたしが今日最初に目にした2つの消えた事業所。

あれはやはり消えるべき運命にあったと思う。

当時から無理に無理を重ねたものだというのは、中にいたからよく知っていた。

がんばってもがんばっても追いつかなくて、でも会社はもっともっとと求めてくる。

中で働いている人たちは、わたし含め大半の人が疲弊していた。

当然その疲弊は営業成績にも表れる。

嘘みたいな本当の話だけど、わたしは途中から会社から許可を得て営業スタイルを変えて、

そして変えて楽をするようになったら営業成績が伸びて安定した。

多分これは本当に体験した人にしか通じない話だと思うけど、がんばったらがんばった分成績に

表れるのではないとはっきりとわかった。

成績を上げたければ、がんばらないことの方が大事だった。

がんばらず、気負わず、嫌なことを全て省いたら、ちなみに嫌なことの中には営業行為そのものも

含まれていたけれど、それすらもしなくなったら売上も契約率も上がった。

しかも表彰される位に上がった。

だけどわたしはがんばらないことが大事だと気付かされたけど、そんなのたまたまという程度に

しか会社や周りからは見られていなかったと思う。

わたしみたいなのははっきり言って特例で、他はすべて無理を強いられていたままだった。

変な話だけど、当時はわたしのところに何人かの人が、どうしたらそのわたしが手にした働き方を

手にできるか、要はどうやって会社と交渉するのかを聞いてきたりした。

それ位、一部の人たちも喉から手が出る程に欲しいものだったんだと思う。

ちなみにわたしは交渉したのではなく、ある日上の人からその働き方を提案された。

そりゃそうだろう、10回近くも退職届を出されては(苦笑)。

でもそんな現場の裏の声など聞き入れてもらえるような体制ではなく、気付けば現状は当時よりも

性質悪く、閉鎖となっていた。

しかも1か所じゃない、2か所も。

無理は続かないということの証拠を目の前で教えられているような気分だった。


そしてまさかの5年ぶりの再会の作家さんの個展。

基本のスタイルは変わらないにしても、メッセージはますます引き立っていた。

作家さんの魂から発せられるメッセージなんだと思う。

だから惹きつけられる。

そのメッセージ、絵にも詩にも嘘は一切含まれない。

その方の中から生まれたものをそのまま表現しているだけ。

ただただ表現しているだけだけど、それが生きることすべての真実に繋がるようなものだから、

心の奥深くで自分も納得し、その絵や詩が染み渡る。

今回の個展の絵本の後ろに、作家さんの略歴が載っていた。

初めてその方がどういう方なのか、薄ぼんやりと知った。

素敵だなぁと思ったのは、世間的な賞賛部分を省いていたこと。

唯一知っている賞賛部分というのが、その作家さんの活動がNHKでドキュメンタリーとして取り

上げられたこと。

でもそこには一言も触れていなかった。

自分のしている活動のみを淡々と箇条書きにしていた。

しかも絵本も通常の絵本というよりかは、冊子のような形式に近い。

でもでも立派な絵本だ。

そしてわたしはどんな時も死ぬまで持ち歩く1冊になることはすぐにわかった。

それ位、どんなに年を重ねて経験を重ねたとしても、ずっとずっと残る、何か大切なことを伝えて

くれるものだと直観でわかったから。

結局のところ、続くものってそういうものなんだと思う。

がんばり続けることは決して悪くはない。

だけど、自分に無理があるがんばりは絶対に続かない。

反対に、無理が一切なく自然に湧き上がるものは、放っておいても勝手に動く。

勝手に動くから、意図的に止めない限り止まらない=続く。


消えるものと続くものをこうも間近にしかもたかが1時間位の時間の中で次々に見るとは思わず、

何とも言えない気持ちの今に至る。

ちなみにその個展会場をあとにした直後、目に飛び込んできたドラゴンズの大きなポスター。

「前進、あるのみ。」

人生はいくら立ち止まってみても前進するしか手立てはなく、なんだったら立ち止まっている間も

時は進み続ける。

今自分に問われている。

どうやって進みたいのか。

もうがんばり続けること、要は自分に負荷をかけて無理ながんばりを続けることは無理だと、

認めたくないけれどそれが本当の現実になってしまった以上受け入れる他ない。

意図的に止まらない限り止まれない位、何か自分の中にあるもの、それを少しずつ汲み上げて

要は自分の心の奥からひっそりと聞こえる声に傾けて前に進む時期に来ているのだろう。

色んな意味で混沌としているけれど、ヒントはこうやってもたらされる。

色々怖すぎて決断できずズルズルしているけれど、いつかは決断することになるし、動くことに

なる。

今はその直前で、はっきり言って「怖い」の一言に尽きる。

2016年4月8日金曜日

植物のペース

久しぶりに、今住んでいるアパート入居後すぐに手に入れた植物を観察した。

ダイソーで買ってきた観葉植物で、少しでも長持ちしたらいいかなぁとごく軽い気持ちで買った。

それがまさか幾つもの冬を越えて、今年もまたさらに葉の数を増やすだなんて当時は全く予想

だにしていなかった。

久しぶりに見たら、ものすごい数の葉っぱが増殖していて驚いた。

植物好きの友人が、うちに遊びに来るたびにその植物の近くにぴったりと寄って、しばらく無言で

じっと観察したくなるその気持ちが、今日初めてわかった気がする。

しかもこの植物、びっくりする位に強い。

いつだったかは友達が泊まりに来て、朝一番に謝られた。

「ぶっしーごめん、本当にごめん」

「どうしたの?」

「朝起きたらなぜか植物が手にあって、どうも寝ている最中に引っこ抜いたらしい!」

と手に植物を持ったまま言われたことがあった。

もうそうなってしまったのは仕方ない。

ダメ元で植物を土の中に植え返し、様子を見ることにした。

まさか普通に復活するとは思わなかった。

そしてつい先日も、わたしが誤って植物をなぎ倒した。

近くの何かを取ろうとした時、足に植物が当たった気がした。

気がしたのではなく、本当に当たっていた。

そして植物はものすごく変な角度で倒れかかっていた。

ぎょっとしてとりあえず元の位置に戻し、また祈るように数日間は様子を見ていた。

ということをさっき植物を見て思い出し、気付いたらまたこうして復活を遂げていた。

たしか土の中には割れてしまったパワーストーンも入れたと思う、何年か前に。

でもそれだけでこんなに大きくなるとは思えない。

わたしには想像もつかないスピードで植物は成長している。

いつだったか、福祉団体が発行する機関誌のようなものにあった記事を今でもよく覚えている。

とある大学教授か何かが、植物を育てる実験をした。

最良の土、最良の種、最良の日光の当たり方、最良の水、最良の肥料・・・という具合に100%の

条件を揃えての栽培。

片や、それらの条件の一部を悪くしたというか、100%ではなく80%位にした状態での栽培。

それぞれ同じ種類の植物を栽培してわかったことというのが、その記事の中で紹介されていた。

普通に考えたら、100%整った環境の植物の方がさぞかし育ちも良かろうというもの。

でも実際には、ちょっと条件を悪くした方が植物が良く育ったという研究結果になったとのこと。

ちなみに機関誌には、それは人間とて同じで、至れり尽くせり万全の体制の下よりも、多少は

あちらこちらにデコボコがあってその方が人間として大きく成長できるのではないか、というような

感じで締めくくられていた。

ふと家にある植物を見て、このよくわからない人間による数々の試練が一方的に与えられたから

こそ、決して最良とは言えないこの状況下で生き続けてくれたのではないかと思っている。

そしていつも突然やってくる人災に備えて植物は土の中で力強く根を張っているのかもしれない。

ちなみに、おととしの春くらいに一度きちんと植え替えした時に植物の根っこも初めて見たけれど、

これが何とも細々としていて、よくこんな細さでここまで成長できたなぁと感心する位だった。

2016年4月7日木曜日

下書きを消さない理由

このブログにアップしようとして途中まで書いたもの、下書きが13個保存されている。

一番古いものは2013年10月となっていた。

今間違えて3013年と打ったけれど、1000年後の3013年なんてどんな風だろう、地球。

13個保存された記事たちは、これからもアップする気がしない。

だけど消去することもおそらくしないだろう。

例えばそのうちの1つは、『朝から卵を3つ割った日』なんて書かれていた。

ちなみにもったいなくて、そのまま朝から卵3つ使ったオムレツを食べた模様。

自分が実際に取った行動は憶えていなくても、そうするだろう自分のことは想像できる。

そしてその日のことも、その日あった出来事も感情も今となってはきれいさっぱり忘れている。

今読み返しても、ぴんとこない。

天気やそれに伴った外の様子(5月の新緑の時期)まで詳細に書いていたけれど、それさえももう

想像すらできず現実にあったこと見たことは忘れている。

だから消しづらい。

もう過去の過ぎ去ったある日のある場面、そしてそれを文章に起こそうとしたわたしは、もう今

どんな手を尽くしても取り戻せないと知っているから、そこに妙な希少価値が生まれて消しづらい。

1000年後の3013年になったらそういうことも可能だったりするんだろうか。

過去のことって、よほどインパクトがない限り強烈に鮮明には記憶に残らない。

朝から卵3つ割った日なんて、ある意味強烈でも鮮明でもないからさらりと忘れている。

今ぱっと強烈に思い返せるものとして、ある時当時の恋人からすごい宣告をされた日を思い出す。

それはそれはもう、世の中のありとあらゆる色彩が一気に失われて、茫然自失となったことが

今でもくっきりと当時のことを思い出せる。

だけど歳月とはすごいもので、今も決して思い出して気持ちの良い感情は浮かび上がらないし、

極力記憶にのぼらせたくないシーンであることには間違いないけれど、それでも当時のような衝撃

はもうわたしの中にはない。

あの衝撃以上の衝撃は、人生でそうそう経験しないような気がしている。

それを思えば、例えば今ああでもないこうでもないと悩んでいることも、朝から卵3つを割った日

程度の衝撃で、気付けば全然違うところにいるのかもしれない。

そして今からある程度の歳月が経過した時には、朝から卵を3つ割った日程度の記憶にしか

ならないのかもしれない。

今日の生きていた時間も、ある日の生きていた時間も、時が過ぎるとすべて一緒になる。

一緒になるというのは、記憶に残らないという意味で一緒になる。

だからこそ、13個途中まで書いてそのままになっている下書きを消せないんだと思う。

消したって痛くないし、何かが失われるわけではない。

だけど、今となっては、過去のある特定の日の1日の出来事または考えたことは、その文章の中

にしか存在していない。

当の本人ですらつるりと忘れているんだから。

だからなんとなく取っておきたい。

何の役にも立たないし、持っていてお得感もないけれど、なんとなく「消去」より「保存」の方がより

ぴんときている。

2016年4月5日火曜日

百発百中図書館

迷った時のお助けマンスポット、図書館。

相当迷い込んだ時は、自己啓発やスピリチュアルや心理なんかの難しい本は手に取らず、あえて

小説をその時の感覚で選ぶ。

基本的に、本は買うものではなく借りるものと思っている。

膨大な数の本を手放してからは、買う時は「一生かけて何十回も読み返しそうなもの」のイメージ

ができたら買うことにしている。

1回きりの読み切りなら、買っても手放す手間が出てくるから、それが面倒で買わない。

ということで、最近また数ヶ月ぶりに読書熱復活に伴い図書館通いも再開した。

昨日までに6冊の小説を読んだけど、もう今の自分に必要なメッセージがじゃんじゃか小説の中に

溢れている。

6冊ともどこかで泣き、どこかで一旦本を脇に置いて考え込み、そして登場人物たちの様々な思い

と自分の今の姿を重ね合わせて、何かしらを心で感じ取っている。

作者も全然違う人たちだし、出てくる登場人物の生き様も様々だけど、それでもそれぞれの物語の

中で訴えてくる何かは絶対にある。

今のところ6冊全部の唯一の共通点と言えば、みんなどこにでもいそうな普通に生きてる日常が

物語に詰まっているところだろうか。

だからこそ他人事ではなく自分のこととしてもそれらの物語がすっと入ってくる。


大型書店ほどではないにしても、図書館の蔵書数もかなりある。

そして書店と違うところは、最新作やベストセラーよりも昔からずっとあるような本たちが並んで

置かれているところじゃないかと思う。

無名の作家さんの本も読んでいる。

手に取る時は、最初のページを少し読むか、表紙の帯とかに書かれているものを読むかの程度

で、あとは自分の勘を頼りに選んでいる。

今回もそんな勘頼りなのに、ものすごく良書が当たっている。

あんなにたくさんある本の中で、数冊をその時の感覚で選び取っているだけなのに、百発百中。

1冊としてハズレがない。

今のわたしの状況への偉大なるヒントとして選ばれた本たちは、元々読むことに出逢うことに

なっていたんじゃないかと勘違いするほど。

あともう2冊ある。

残りもどんなヒントやメッセージが潜んでいるのか楽しみでならない。

ここ最近の感覚

この1年、ものすごく激動の1年だった。

周りから見たら静止している風でも、わたしの中では怒涛の日々と表現しても決して言い過ぎた感

はない位に色んなことがあった。

1年前に発見した桜のトンネルを、今年もその下を何回も往来した。

あともう1回できたら2回はそのトンネルの下の散歩を楽しみたいと思っている。

1年前と今とを比べて、色んな気持ちが錯綜する。


2016年4月3日日曜日

情報操作と真実と自由

今回のタイトル硬いなぁと思いながらも、とってもはっとさせられたから、思うままに書いてみようと

思う。

昨日の夜、いつものように携帯のドコモのサイトからニュースをななめ読みした。

わたしの世の中のニュースの情報源は、この携帯のニュースサイトだけと言ってもいいぐらいで、

それゆえに毎日ほぼ欠かさずチェックしている。

さすがに、テレビも持ってないわ、ラジオも聞く習慣がないわ、新聞も取ってないわで、ないない

尽しの生活は普段問題ないけれど、世間に出た時に不具合が多少はあるから、最低限の情報と

しての携帯ニュースチェックをしている。

話はタイトルに戻って、「情報操作」の話。

昨日もさらさらっとタイトルだけななめ読みして、そこから気になったニュースだけはさらにページを

追加で開いて読んだ。

その追加で読んだニュースのひとつを読んで、度肝を抜かれた。

本当にたまたまのたまたまとしか言いようがないけれど、わたしはそのニュースの裏側というか

一部というかに過去に携わったことがある。

直接ではなく間接的に。

そしてその間接的に携わったことは、当たり前だけど自分の目で見て聞いている。

現場を知っている。

そのニュースの何に驚いたかと言えば、事実が伏せられているだけではなく、なんと事実がねじ

曲げられ別の作り上げられたストーリーが展開されていたことだった。

ニュースなのに、「物語」に仕上がっていた。

報道した側に問題があったのではなく、そのニュースの大元の出先が発表した内容に事実とは

違うものが含まれていた。

本当に、あのわたしが見ていた聞いていたものは一体何だったのだろう?と思う。

何だったらそこで同じように見聞きしていた人たちが他にもいたわけで、その人たちにしてみても

そのニュースがどんな風に映っているのだろうかと思う。

大元は大元で、真実を告知できない事情があるのだろうと思われる。

でなければ、事実があんなにもねじ曲げられているというのはいかがなものか。

いわゆる「情報操作」がされているモロの現場を、何百字という小さな活字の世界で見てしまった。

ちなみに、これ絶対に問い合わせる人が出てくるだろうから、そのうちとんでもないニュースに発展

するのではないかなぁと個人的には予想している。

ニュースの行方はどちらでも良いけれど、それよりもわたしがもっと注目したのは「情報操作」と

いう非常に現代的でありつつも、そこからわたしが感じた内容の方だった。

これまで活字になったニュースは、何の疑問も抱かずに普通に読んでいた。

あぁ今世の中ではこんなことが起こっているんだ・・・という最低限の認識しかなかった。

それ以上深追いすることもなければ、ニュースは毎日毎日あるわけだから、いちいち細かく読み

砕くなどということはしていない。

週刊誌になると、尾ひれがついているのだろうと思うけれど、単純にニュースとなると事実だけが

そのまま公開されているもの、という認識だった。

ところが昨日読んだニュースは、すでに事実とは違う物語が「ニュース」として記されていた。

それは逆に言うと、日々自分が目にしているもの・耳にしているものが全て真実ではないかも

しれないという可能性を示唆するものでもあった。

自分が見ている世界が、いかにまやかしや道化に溢れているかもわからなければ、自分自身の

認知自体もわたし独特の癖によって本来の姿とは違う風に解釈していることだっていくらでも

あると思われる。

何もそれはニュースに限ったことじゃなく、自分の日々の生活や見ている世界にも言えることだと

思う。

「これが絶対だ!」なんて言えるものはとんと少なく、色んな事が色んなプロセスを経て認識される

間にどんどん事実から遠ざかっている可能性もものすごく高い。

うわさ話と一緒だと思う。

事実は人の数だけ存在すると言ってもいいのかもしれない。

そうなった時に、改めて自分の好きなように物事を解釈してもいいんじゃないかと思った。

だって事実じゃないことが「事実」として報道されてしまうような世の中。

その倫理を問うとわたしは「最低だな」と思う。

だけど逆手にとれば、自分の人生の中の混沌としたことだって好きに解釈してもいいのかなぁ

なんて思った。

それは決して自分に嘘をつくとかそういうことではなく、自分が生きていくのに自分にとって都合の

良い解釈をしてみるのもありなんじゃないかと。

ふとそんな風に思った。

たかが数百字の活字ニュース。

情報操作されていることはさておいても、そこに何とも言えない自由な部分を感じた昨日だった。