2022年2月27日日曜日

自然と欲しているもの

2022/02/27の朝

2022/01/18の満月の夜
この夜に、ランドセルを背負った小学3年生
くらいの女の子とおばあちゃんが
月が見えるかな〜みたいな会話を交わしていた
それで私も家に帰ってから自分の部屋から
見てみて、珍しく上手く月の写真が撮れた。
これがまさかここに書いた話の1人のことに
繋がっていくなんて…。



2022/02/25


市内に住んでいる父の従兄弟が亡くなった。


一人暮らしで父が緊急連絡先の登録になっていて(いつからかそういうことになっていた、とこの1年くらいのいつかの入院の時に父も初めて知らされた)、警察から電話が来たようだった。


いつ亡くなったのかも、そして父は直接の血縁関係にないから本人と対面できてないらしい。


他県にいる姉たちが今日(2/26)こちらに来る予定で、そこから警察に行って色んな手続きを進める予定とのこと。


昨日(2/25)の急な残業のタイミングで知った。


26日の日曜日から火曜日にかけて、姪っ子が小学生になったら平日休むのは難しいから、金沢の妹家族のところにもう1人の妹と集まる予定になっている。


月火と休む関係で先送りできない仕事が浮上して、それで急遽残業することになった。


仲良しの子にどうも父方のおじさんが亡くなったようだと話したら(とっさのことすぎてそう説明したけれど、よく考えたらいとこだった)、仲良しの子も「実は誰にも言ってないんだけど」と言って、今週家の方で不幸があってバタバタしていたことを教えてくれた。


そちらは本当のおじさんが亡くなったけれど、話は複雑だった。


おじさんは、内縁の妻が長いこといて、その連れ子と3人で暮らしていたらしい。


内縁の妻は先に亡くなって、今はみんなバラバラではあったけれども、その連れ子の女の子が時々おじさんの家に様子を見に来たりも含めて泊まりに来てくれてたとのこと。


今回も泊まりに行こうと思って連絡するものの全く連絡がつかなくて家の鍵も持っているから見に行ったら、すでに亡くなっていたらしい。


彼女が第一発言者になるわけだけど、何一つ法的な関係がないから何の権利もなく、警察とのやりとりやその他のことは仲良しの子の母や他のきょうだいですることになった。


若い彼女の方はせめてお花とお線香を自分のおばさんと一緒にあげに行きたいと申し出ていて、それで今小さな葬式をあげるかどうかでバタバタしているという話だった。


実はもう1軒、いつも通るうちからほど近い道の通りで誰かが亡くなったと知って、それが私の小学校のほんの少しの間だけ一緒だった同級生の親・おばさんだというのがわかった。


この話はまさかの私の子どもの頃のいじめの記憶にまで深く根付いたものがあるだなんて全く想定していなかったけれども、さらに複雑な話をうちの親から聞いた。


その亡くなった方というのは、その家に嫁いできた方で、物心ついた頃からこの土地に住んでいる父は一度も見たことがないらしい。


私はその家が商売をしていて、時々外にその方が出ていたり、小学生の孫と月を見ていたりしていた姿を何回か見ていたから、それでなんとなく姿や雰囲気を知っていた。


私はてっきりその家の跡取り娘かと思いきやそうではなく、嫁に来たけれども、跡取り息子だっただろう夫が浮気をして夜逃げをしたらしい。


細かい事情は知らないけれど、その方はそのまま残って家の商売を引き継いで、今は私とたしか同級生だったと思う息子が家業を継いでいる。


私のいじめの件は、その息子の方ではなくて、その息子からしたらいとこにあたる女の子から受けたものだった。


だからその女の子にしてみたら、今回亡くなった方はおばさんになる。


ちなみにその女の子のお母さんが父と同級生で、それでその家庭事情を私もこの年になって初めて知った。


いじめの記憶は強烈で凄まじいものがあるけれど、その家庭事情を知ったら彼女も彼女で当時かなりいっぱいいっぱいだったんだろうと想像できた。


ちょうどいじめを受けていた頃の自分の年齢に今度は姪っ子がなるわけで、姪っ子を見て姪っ子がもうそういう年齢になるんだななんてここ最近思っていた矢先のことで、そんなタイミングで当時のいじめと当時の色んな家庭環境が明るみとなったここ2日3日だった。







そんな風に知らない人たちの死にごととそれにまつわる色んな現実の話を一気に知ることになったわけだけど、私個人が思ったことを今回も赤裸々に書きたいと思う。


人の死が今回は3人もあったわけで、本当に不謹慎、非常識な視点かもしれないけれど、これから書くことは私が本当に思ったことだからそのまま感じたこと思ったことを書きたい。


そして、「死」という一般的にはタブーというか決して声を大にしてベラベラとおしゃべりできる内容とは違うけれど、それをオブラートに包んだり違う言い方を遠回しにする方が余計と混乱を生みそうだから、どストレートに出てきたままの自分の気持ちを綴りたい。







父の従兄弟の死と職場の仲良しの子のおじさんの死とを立て続けに聞いた後、真っ先に私の目が向いたことは、一人暮らしでの死となると変死扱いに一度はなって、亡くなった本人と血縁関係のある人が身元確認をしなくてはいけない法律なのか決まりなのかがあって、そうなると生前の関係の近さや親しさは全く何の意味も成さないことだった。


仲良しの子のおじさんのケースは本当にその最たる内容だった。


仲良しの子いわく、おじさんとの交流はおじさんの兄弟である彼女の母たちも含めてほぼほぼなくて、今回警察から連絡が来て初めて色々と知ったらしい。


片や内縁の妻の連れ子だった女の子は、母亡き後もおじさんと交流が続いていて、合鍵まで持つ関係で、さらには連絡がつかなくておかしいと思って見に行って、本当の意味で故人と密に繋がりがあったとわかる。


だけど法の下では、「血縁」が優先されて、内実の濃い関係は全く何の意味も力も持たない。


ものすごく短い時間の中で、そして残業中は日本語の原稿を見ながら自分の英訳が正しいかどうかのチェックをやりながら、そんな最中に色んなことが頭の中を駆け巡って、そして私が何よりも一番自然に想像したことは、イケメン上司が死んだとするならというものだった。


想像したというよりも、ものすごく自然にイケメン上司のことがスッと自分の中に浮上した。


そんな内容だから書こうか書かまいかものすごく迷ったけれど、そのことがずっと頭の中から離れないから、今回書こうと決めた。


第三者から「貴方が死んだら」などと想像されることはどう本人に映るのかわからない。


不気味に思われたり不快になることも十二分に考えられる。


この時点で無理ならここで読みやめてくれるだろうと相手の自由意志を想像しつつ、多分読んでくれるという(多大な)希望を抱きつつ、書き進めたい。


私の遠慮のなさには辟易してるかもわからないけれど、これが私だからと開き直っている


その2人の男性の死にまつわることを聞いて、もしイケメン上司が私より先に亡くなったとしても私は一生知ることさえないんだなと当たり前の事実を頭で確認しながら、寂しいんだか悲しいんだか落胆しているんだか、なんだかよくわからない感覚と共に冷静に淡々とそんなことを思った。


話が少し逸れるけれど、魂だの何だのと学ぶようになって、私の死のイメージというのがだいぶ変わった。


自分以外の第三者の死というのはそんな風に考えないけれど、自分の死というのは今とはまた別の体験をしにいく、今は地球で武士俣史子という名前と今の肉体とを持って生きているけれど、死んだらとりあえず武士俣史子の名前と人生と体とはお別れして、次なる魂の旅に旅立つ、最近ではそんな風に思っている。


そして魂だけが最後残る時、今度はこれまで会えた人たちと魂同士で再会したりするのではないかと想像している。


何でこんな話をしたのかというと、今現在のイケメン上司と私との関係はさておいて、2人ともそれぞれの今生の肉体で死を迎えた後は、必ず魂同士は再会すると思っている。


魂だけになれば、今みたいな余計な制約も苦手感も無くなって、もっと自由にお互いにやりとりや意思疎通ができるんじゃないかと想像している。


魂に性別もあるんだかないんだか、少なくとも社会的な立場や年齢や住む地域や関係性は全部死と同時にリセットされてなくなるだろうと思う。


それだけ自由度が高まると思えば、イケメン上司の魂と再会するのはとても簡単になるだろうし、変なわだかまりや抵抗も少なくコミュニケーションも取れるように思っている。


だから死後のことは私は何にも心配していない。


話を戻して、今現在から死のその時までのところに再び注目する。


本当に赤の他人の私は、絶対的な100%の確率でイケメン上司の死を知らされることはない。


それはどうやったって覆(くつがえ)らない。


その事実を頭ではものすごくよく理解しているし、仕方ないとさえ思わないくらいにそれが現実のことだというのもわかっている。


なんだけれども、気持ちというか心はもっと別の感じで、そういう未来を私は望んでいるのかというとそうじゃない。


知りたいのか知らされたいのかはたまた法的に認められた関係でありたいのか、そういうのは深く考えてはないけれど、「はい、わかりました」という気持ちにはなっていない。


そして死んだ後のことはさっき書いた風にやすやすと想像できるくせして、そのくらい気持ちが割り切れているのかと言えば、そこは全く違う。


そしてこれもおかしな想像ではあるけれど、仮に私が先に死ぬことになっても、それをイケメン上司が知ることのない現実については特別な感情は湧かない。


むしろ、生涯独り身の自分が死ぬ時は、絶対的に誰かしらに後始末的なことをしてもらわないといけないわけで、そういう準備もしておかないといけないんだなと思ったら、誰に知らせるだのというのは全く興味が湧かず、むしろどういう手段なら一番他人の手を煩わせずにいられるか、そういうことは調べないといけないなと思った。


余談だけれど、今回の父の従兄弟の件は、高齢の姉たちと父が諸々手続きやら何やらを担当しているけれど、私の中で自分が仮に姉妹の中で一番先に死んでもそして姪っ子がいても、気持ちとして頼めないし本当に余計な負担だけは避けたいと思っている。


そんな風だから、私がイケメン上司より先に死ぬことになっても、それこそ知らせる手段もないし誰かの手を煩わせることの方がうんと嫌だから、私の死に関してはもはや思考の土俵に一瞬だけ出てきてもどうしたいとか何にも思うことなく終わった。


イケメン上司の命について知りたいと思うその自分の気持ちの根底はなんだろう?って考えた。


山で行方不明になったおじいちゃんとの魂?とやりとりしたことで、どうも死んだ後は本当に自由に色んなところに行き来できると知って、それを体験しているからこそ死んだ後の方が実に自由にやりたい放題やれるようなイメージがある。


でも私は死後にイケメン上司とどうこうしたいというのはこのテーマとは違う立ち位置にある。


そうではなくて、イケメン上司が今のイケメン上司で、私が武士俣史子の名前と体と人生である状態で、その状態で知りたいことで、そこにこだわっていると言うのとも違うけれど、上手く言えないけれど知りたいは知りたい、そのように思っている。


イケメン上司側にそんな義務も義理もないのは百も承知だし、こんなこと書いててもだからと言って何とかしてくださいっていうのとも違う。


だけど、自分の中でこんなに気になってしまう人の最期を知ることも知らされることもないって、どうにもできないと知っていてもとても寂しいことだなというのは素直に感じている。


職場の仲良しの子のおじさんのケースを聞いて、本当に法の下では生前の親密度や関係性なんて全部ぶっ飛ぶんだなとわかる。


件の女の子は本人の意向でなんとかお花とお線香をあげるところまで行き着けるかと思うけれど、そこにいくまでも相当な難所がたくさんあるだろうことは想像にかたくない。


そこまでの関係があってもそんな風なのに、イケメン上司と私とじゃ、イケメン上司に何があっても絶対に私が知らされることなんかないわけで、引越しさえ知らされない関係の人がさらにその遙か上をいく死を知らせてもらえるわけがない。


だけど私の中に「わかったよ」とならないものが確実にある。


「イケメン上司の命について知りたいと思うその自分の気持ちの根底はなんだろう?」のところに戻って考えても、正直なところよくわからない。


非常に勝手な話だけれど、可能であるなら私はイケメン上司にもう一度会って本当に色んなことを話してみたいとそれだけは真剣に思っている。


イケメン上司側はそんなことしたくないだろうとか考え出すと話がややこしくなるから、自分の気持ちや希望にだけ焦点を当てて言うと、本当に色々話をしてみたい。


私のことはここにたくさん書いているからそんなに目新しい情報などないけれども、イケメン上司側のことは私は何にも知らないわけで、イケメン上司側には私とのそもそもの出会いがどんな風に映っていて、どんな感じだったのかを聞いてみたい。


私にとってペンジュラムだのタロットだの亡くなった方の霊とコミュニケーションを取るだの、色々とオカルト的な要素が人生の中にガンガンと入ってくるのは仕方ないにしてもそれでもやっぱり色々驚きもあるわけで、私でさえそんな風なのに、イケメン上司からして、私から見ると超きちんとお勤めされて理系の白黒はっきりした又は数字とか世界共通言語で判断するようなものを主たる取扱いの世界の中にいる人から見て、私が関わる色んなことはSF映画ですか?みたいな、わかんないけれども、これが私の普通の日常でも他の人からしたら絶対に「普通枠」には見えないだろうから、そんな私がなぜか人生のある時にイケメン上司の前に登場してくるわけで、何でもいいからどんな風に私がいたあの時間や空間を感じたり見えていたりしたのかをイケメン上司の口から直接聞いてみたい。


ガンガン近付かれて恐怖だったでも、色々ウザかったでも、もはや内容は何でもいい。


本当にどんな風に感じていたのかを知りたい。


色々たくさん望むのは違うだろう関係というか関係って言葉さえもさらに違うと思うけれど、とにかく死をきちんと知らせてもらえるようなものを望もうなんて思わないけれど、せめて生きているうちに、この武士俣史子人生を生きているうちに、イケメン上司から何でもいいから直接言葉を聞きたい。


だから「死」というものがどちらかの人生で起きた時、それは生涯叶えることのできないものになる。


2人ともが死んだ後の世界では、答え合わせ的なやりとりはおそらく可能だろうけれど、そんなのは私が欲しいものとは違う。


私がこだわっているのは、生きている今の人生の中で知る機会が欲しいということ。


色んなことを体験したおかげで色んな人生があるのもわかるし、色々ぶっ飛んだことがありすぎな人生で、多少のことでは動じないくらいの強さみたいなのもある。


そういう意味で、私というのはイケメン上司の周りにはあまりいないタイプの人間なんじゃないかと思う。


目の前にいた時は単なる派遣社員でしかなかったけれど、蓋を開けてみたらこんな風で、想像以上にやばい人だったと思われてるかもわからない。


イケメン上司と私とが恋仲的なものとか男女の関係とかそういう類いのわかりやすい関係になる相手では全くないと思う。


私側はいいけれど、イケメン上司側は何が間違ってボランティアみたいなまたは罰ゲームみたいな、そんなことに巻き込まれなきゃいけないのかとさえ感じるから、そういうものを求めようなどとは思っていない。


色々気まずすぎて私にはあんまり近寄りたくないかもしれない、とずっとずっと念仏のごとくいつの時も思っている。


そういう恋仲相手は私じゃなくて他に適任者がいるだろうから、そういうことを求めるつもりはない。


だけれど、せめてこの色々意味不明すぎたことたちを、私以外の唯一の当事者であるイケメン上司から直接どんな風に感じていたのかを聞けないかなと思っている。


それだけはイケメン上司本人からしか聞けない。


だから生きているうちに真面目にその機会を叶えてもらえないだろうか、とこだわっているのはそこなのかなと思う。


死を知らされないことは仕方ないけれども、今書いたことは仕方ないって割り切れない。


死んだ後に聞いたらいいじゃん、という風になんて絶対に割り切れない。


だから、自分の死であれイケメン上司の死であれどちらが先かはわからないけれど、どちらが先であってもそうなった時にはもう二度と今の人生でイケメン上司と人生の答え合わせができなくなる。


私にとって一生に一度しか体験し得ないことをイケメン上司の存在のおかげで体験できたわけで、そして目の前で言葉を交わせた時は絶対的な拒否と言わんばかりの状態で、どうやっても色々聞くことはできなかった。


いつか本当に私の願いが叶えられるとするなら、それが生涯で最初で最後になるだろう覚悟が自分の中にあるから、その時は本当にありのままの言葉をイケメン上司から聞いてみたい。


そしてその知れたことを冥土のお土産じゃないけれど、そういうものを残りの人生と死後の世界とで目一杯愛でたいと思う。


だから私は死を知らされる云々よりも、その機会を一生の中で手にできるかどうか、そこにこそ本当にこだわっているんじゃないのかなと思う。







「死んだら」仮定の話に、実名こそ出してないけれども固有名詞を出して、それがすなわち自分の死について触れられてるわけで、それが不快感や不愉快な感じを与えていないといいなと心から願っている。


もし願いとは反対の不快な方に行っていたとするなら、本当にごめんなさい。


2022/02/27

金沢行きのバスの中より







【追記】


今ブログをアップしようとして、タイトルをどうしていいのかわからなくなってしまった。


『死ぬまでに叶えたいこと』と最初入れてみた。


だけど、「死ぬまでに叶えたいこと」というのはたしかに合っているけれども、なんだかこの内容と若干ズレてる気もする。


ここに書いたことはとても無為自然な形で湧いて出てきて、私はそこに何とタイトルを付けるがいいのかわからない。


書いたらこんな風だったわけで、しかも金曜の残業の時間からその感覚はずっとずっとあったわけで、その感覚は今も強烈に自分の中にある。


『無為自然なる気持ち』にしようかな


一層のこと、『勢いに任せて書いたもの』とかの方が一番しっくりな感じもする。


今決まった。


それでいこう!と決まったのが実際のタイトル。(決めるまでにかかった時間は20分。けっこうガッツリと悩んだ)

2022年2月23日水曜日

英語のタロット本と17歳の自分からの贈り物【オカルト日記7】

左がファーストタロットの英語本
右が2冊目

ベルギー経由でやってきた

高校3年生の頃の教科書の長文読解のノート
自分で考え抜いて作っていた。
左のページには、自分が訳せるように
文章を細かく分けていた
当時の自分のやり方が残っている。

悪魔のカード
見慣れたけれど、タロットカードには
やたらと裸体の絵が出てくる

恋人のカード
右側のカードはDruid Craft Tarot 

吊るされた男
この右側のカード、
もし人前で出てきたとするなら
もはやどんな真面目な話をしていても
絵柄の方がインパクトありすぎて
何にも話が入ってこなさそう
と個人的に思っている( ̄∀ ̄;)
カードの中の絵柄と言えども、
どういう状況下でこんな状態が作られるのか
想像力をフルに働かせても
なかなか難しいものがある(笑)



色々書きたいことはあるけれど、とりあえず久しぶりのオカルト日記。

ちなみに書きたいことは、

・今年のバレンタインの記録(これは少しだけ書き始めたから、書き切れたらアップする予定)

・健全な怒り(かれこれ多分3週間くらい同じことで怒っていて、それの記録など)

・占星術講座からの卒業(これも途中までは書いた)

・セレブな方の生活をテレビで見て、自分は全く違うテーマを持って生きていることを痛感(実感より痛感が近い)

・宮家のご長男の高校進学を見て感じたこと&自分のことで思い出したこと(これについては色々思うことがある)

(・去年から年をまたいで引き継いでいる2つの私の中の超重要記事は上の記事たちを書くよりもさらに先になりそう


そんな中で、とりあえずオカルト日記を今回は選んで書こうと思う。







2月の半ばに2冊英語のタロットガイド本が届いた。


ベルギー経由でイギリスから来たものらしい。


タロットカードの話はどこまでこのブログに書いたのか覚えてないけれど、ある時から英語のガイドブック探しを始めた。


英語圏ではどのような解釈をされているのか、それが日本とは違うことも多々あると知って、それで興味を抱いて探し始めた。


探してわりとすぐの頃に気付いたのは、英語圏ではタロットカードを占いや未来予測として使うよりも、自分の内面を見つめたりセルフヒーリング的な自分のための癒しのツールとして使ったり、はたまた自分の人生の設計、スピチュアル的な成長のためとか、そういう人生全般に関わるテーマや自己内省的な要素が強いことを知った。


だから物事の見方も、それに伴うカード解釈も、日本で出ている書籍とは比べ物にならないくらいに深いものが多くて驚いた。


そんな中で2冊選んで、私の元にやってきた。


予定としてはもう数冊買い足す予定でいる。


タロットの本に関しては占星術の時と違って、日本語の本はもう買わないか買ってもあと1冊2冊がせいぜいだと思う。


代わりに、吟味に吟味を重ねて、あと数冊英語のタロット本は買いたいと思っているし、実際に4冊から5冊程度次に買う予定の本も大方決まっている( ̄∀ ̄;)


そんなに買ってどうしたいの!?とはたから見たら不思議に見えるだろうけれど、1冊目も2冊目も全く毛色の違う本だし、扱う内容も同じタロットを扱っているとは思えないくらいに違う。


今後買う予定のものも同じくそれらとは異なっていて、それぞれが全く別の役割を果たすために私の元にやってくることになるだろうと思っている。


で、早速週末に高校生の15歳の頃から愛用している英和辞典片手にそれぞれの本を読んだ。


普段辞書は職場に持って行っていて、毎週末に持ち帰っている。


未だに電子辞書を一度も持ったことがなくて、オール紙辞書で基本的な単語調べはして、反対に和英辞典は手持ちの辞書は役立たないからそちらはネットのいくつかのサイトを使ってしのいでいる。


ちなみに超どうでもいい情報だけど、和英辞典的に使うサイトは、

Google翻訳

Deep L翻訳

上の2つの翻訳を組み合わせて普段使っている

Weblio 

・英単語がある程度確定したら、その単語を入力して画像検索(これは相当マニアックな使い方だけれど、私の前任の完全なるバイリンガルの子から教えてもらって、スーパー役に立っている。特にマニアックな物の名前とかの時に超役立つ。コツとして、日本語でまず入れて画像見て確認。その後英語でも入れて同じタイプの画像が出てくるかを確認。出てこない時はまたここに書いてる方法を色々使って調べて、この画像確認に戻ってくる。)

・英英辞典

・英英辞典の類義語辞典

ここに書いたもの全部を適宜組み合わせて和から英に翻訳している。


タロットの話に戻って。


1冊目はまだいまいち使い方がつかめていないけれど、基本的には各カードの意味をその筆者特有のやり方で解説している。


この本を買う1番の決め手となったのは、「自分の中のどういう面を発見したり拡大したりするために、この本は私の元へやってきてくれたのだろう?」

とカードに聞くことについて言及していたからだった。


この質問はどの本にも使えるし聞くことができるから、そして他にも読んでてしっくりきたものがあったから買った。


ペンジュラムも激推しな1冊ではあったけれども、到着して気付いたのは、英単語がかなりマニアック過ぎて簡単には読めないことだった。


注文した後だったと思うけれど、唯一見つけた日本語の某サイトで英語のタロット本が何冊か紹介されていて、その中の1冊に私が買った本が含まれていて心底驚いた。


これ普通にはなかなかヒットしない本だと思うけれど、なぜかそのサイトの人は知っていて、さらにきちんと読んだんだと思うけれど、ある程度の英語の読解力は要ると言っていても相当難しい英語だとは書いてなかった。


けれど、実際に手元にやってきて、私の中ではかなりてこずっている1冊になりつつある。


けっこう暗号読解に近いくらいの感触で、単語は調べたらわかってもそれだけじゃ文は読めなくて、文もGoogle翻訳にかけたりしておおよその文脈を見て、さらに前後の文章を見てようやく「なんとなく」理解できるというところがかなりな頻度である。


さらには読んで終わりじゃなくて、自分の頭でも考えるタイプの本で(そういえば、レビューで、それぞれの読者が考える余地を筆者は残してくれているみたいなことを何人か言ってた気がする)、そこに至るまでにまた別のステップがあったりもして、けっこう困ってはいる。


注文を間違えたかもとかなり思ったけれど、ペンジュラムは何回聞いてもこれで合ってるしこれがファーストブックで正解と言う。


とりあえず根気よく読むしかないから、もう少し読み方のコツをつかめるようになるといいなと思っている。


ちなみにこちらの本は、私のオカルト体質強化のためにやってきてくれたとのこと( ̄∀ ̄;)







2冊目は、Amazonの試し読みでスルスルと読めたから、英語の心配はなかった。


実際に到着した今も1冊目とは全く違って、英語は難なくわりとスムーズに読めている。


2冊目はタイトル通り、タロットカードのためのアクティビティー、タロットと戯れるための本。


この本はとにかくタロットでするワークを満載に盛り込んでいて、それに惹かれて買った。


しかも心理セラピストとしても長いこと仕事をされてる方のようで、そういう側面からもタロットカードを使っている。


全部は読めてないけれど、たしか筆者は心理セラピーの現場でもタロットカードを使っているらしい。


それだけ書くとかなりぶっ飛んだみたいな感じかもしれないけれど、彼の理論は専門的知識と現場の実践とを全部組み合わせての話で、さらにはいかなる人の中にも創造性や想像力があることを絶対のものとして、とにかくその考えをとても大事にしている人だから、その根本的な人への信頼感とタロットへの信頼感とをもって、現場でも実践的に使っている風だった。


そうした素敵な価値観や考え方を知った上でその本が成り立っているとわかるから、本当に素晴らしい本に仕上がっている。


1冊目も2冊目も共通して、私が最優先したのは私の直観力を引き出すことだった。


当初1冊目は、カードの中に描かれているシンボルたちの解釈本にしようと思っていたけれど(これもいつか買う予定)、手元の2冊を見つけた後ノートにそれぞれの特徴を書き出した時に、まずは知識よりも感覚を強化する方が大事な気がして、それで切り替えた。


ペンジュラムもそうだともちろん後押ししてくれた。


ちなみにそのシンボル解説本も素晴らしくて、例えばタロットカードの中には支柱が描かれているものがけっこうあるけれど、その(2本の)支柱というのは新しい情報が入ってくることを意味しているというような解釈を紹介しつつ、さらにはそういう情報を知ることですなわちカードの中だけではなくあなたの毎日の生活の中に当たり前にある色んなものたちもそのような意味を知って見渡すようになるともっと日々の生活の色彩が変わって見えると言っていて、それが本当に良くて買おうと思った。


そうした普段の景色の中からもさらに色んなメッセージをキャッチできるようになったら面白いだろうなと思っている。


余談がかなり過ぎたけれど、2冊目の中にあるカードのワークを早速やってみた。


ペンジュラムにどれをするのか聞いたら、一発目がいきなり「自分にとっての良い人生とは?」というすごい命題的なものからのスタートだった。


最初に書いた通り、英語圏ではタロットカードは占いではなくて自己内省的・自己発見的な色が強いと言ったのはそういうところにある。


中身は端折るけれど、そんな風にして色んな側面の質問がこの2冊目の本の中には用意されている。


その質問を最初にやったのはたしか平日の夜で、週末にそうだ!と思い出して、「自分の中のどういう面を発見したり拡大したりするために、この本は私の元へやってきてくれたのだろう?」と聞いた。


これがもう私には絶句級のすごいカートが出てきた。


私は未だに78枚全てのカードとのご対面を果たしてない関係で、シャッフルしてカードを引くというやり方をやっていない。


どうしているかと言うと、カードについてきた英語の小さなガイドブックの何ページにその答えのカードがあるのかをペンジュラムとペンジュラム用のボード「サーフィンボード」に聞いて、そこで出てきた数字のページを見てどのカードなのかを特定している。


ページをペラペラとめくって、示されたページ数のところに行き着いた。


そうやって出てきたカードが

Devil ー悪魔」

だったΣ( ))))(꒪ꇴ꒪) Σ( ))))(꒪ꇴ꒪)


嘘でしょ!?と思って、ペンジュラムとボードに、本当にこのページで合ってる!?と聞いた。


間違えたんだと思ったし思いたかった( ̄∀ ̄;)


けれど無情にもペンジュラムはボードの上のそのページの数字の上でYESを出した。


えっ!本当に!?


としつこく私は何回も聞き直したけれど、ペンジュラムは頑としてここだと言う。


Σ( ))))(꒪ꇴ꒪) Σ( ))))(꒪ꇴ꒪) Σ( ))))(꒪ꇴ꒪)


しばらくはテンション駄々下がりだった。


そもそもかれこれ3週間なのか4週間の長期的な怒りと日々対峙していて、他にもいくつか懸念事項が諸々あって、そんな折に出てきた悪魔のカード。


間違いとしか思えなかった。


何度聞いても悪魔だったからあきらめて、悪魔について手持ちの本たちで意味を調べることにした。


詳細の内容は長くなるから割愛するけれど(「割愛」って言葉は使うだけで賢い気分になれる(o´`)←発想がおバカ)、悪魔は手持ちの本いわく、世間一般で想像されるような悪魔とは違っていた。


人間の欲望とか隠れたダークサイドとか、そういうことももちろん表す。


その一方で、それというのは自分の中に確実に存在している生命エネルギーで、それらに適切に触れて適切に表に出せるようになるとさらに自己理解が進んだり、自分自身をありのままに出せるというような説明があった。


読みながらさらに感じたのは、そのダークサイドな自分とご対面するには、それ相応の自分側の準備ができていないと無理だから、もう私はそういう自分とご対面するのも大丈夫なんだなと思った。


ダークな自分だろうが人前に絶対に晒したくないだけではなく自分自身さえも拒絶したくなるような自分だろうが、それが自分なら仕方ないかというくらいに数々の修羅場をくぐり抜けてきた自負があるから、たしかにそういう自分でも大丈夫と思った。


とにかく、色んな側面の自分を見ることを助けてくれる本なんだということがわかった。


さらには、これはルノルマンカードと呼ばれるカードの時にも起こったからわかるけれど、自分が試されてるというかきちんと深い意味に到達できるように仕向けられていると思った。


仕向けているのは、神々の審議会的な、えんま大魔王的な語彙力よ。


タロットカードは全部で78枚あるけれど、その中でも最も出て欲しくないカードトップ3とかあれば、絶対に名指しされるカード。


多くの本で、どのカードも良い悪いはなくて中立だという説明が為されてるけれど、そうした時に「例えば〇〇というカードも」みたいな〇〇のところに「悪魔」はよく例の1つに挙げられている。


実に不名誉で人気のないカードが、私のところにその英語の本がやってきて私のある側面開発と謳っていて、Σ( ))))(꒪ꇴ꒪)(°°)!!ってな具合ではあったけれど、それくらいのインパクトを持って提示されないと、私なんかはそこまで深く読み解くなんてことはしなかっただろうなと思う。


この悪魔のカードは、仕事のことでかなりモヤるものがあった時に出てきて妙に納得したけれど(しかも、自分の中で軽蔑に近い気持ちを抱いていた相手ゆえに、悪魔が出てきてほくそ笑むまでいかなかったはずだけど、心の中でひそかにガッツポーズみたいなことはあった)、これがいざ自分の何かに深く関わるとか自分を表す何かだと思ったら悠長にカードを眺めてる場合ではなくて、冷や汗が出そうになりながらも必死で新しい視点を求めた。


その新規開拓精神がいきなり試されたような形で出てきて、まぁさもありなんというか、いかにも私らしいカードの采配だなと思った( ̄∀ ̄;)


笑い話にはなっても決して声を高らかに自慢したいことではない( ̄∀ ̄;)


とまぁそんな風にして、2冊目の本は私のダークサイドを引き出して、それを自分の真の力に変えてくれるお手伝いをしてくれる模様。







話は変わるけれど、英語の本を実際に手に持って読んでる時も、はたまたAmazonの試し読みでインターネット上で読む時も、気付いたことが1つある。


私は英文読解に対して、ほぼほぼアレルギーがない。


しかも、学生時代と違って、自分の興味関心のあることを自ら選んで読めるから、さらに意欲・関心を持って読める。


学生時代は本当に半泣き状態で読んでいたから、興味もなければ意欲なんて全くなく、単に卒業のためだけに必死にやっていたという、強制力ありきの英文読解だった。


今でもはっきりと覚えているけれど、大学3年の時に「国際政治」なるクラスを取って(興味などあるわけもなく、必修科目の中の選択肢の1つにあって、他の科目よりもまだ何とかなりそうな気がしたから選んだとかだったと思う)、それが史上最強に難しいテキストだった。


湾岸戦争とか米露の冷たい戦争とか、はっきり言って日本語でも読解不能な内容を英語で専門用語満載のさらにはそれだけじゃ絶対に読めなくて、ベースとなる基礎知識もない私が読むわけだから、10回読んでも毎回ちんぷんかんぷんだった。


ちなみに何でそんなにも回数だけアホみたいにたくさん読んだかと言えば、そのクラスは毎週月曜日に各テーマにまつわる章を10〜10数ページだったと思うけれど読んで、まずは要約文を書いて、さらには章末にある3つくらいある設問に対しての自分の意見を述べるというレポートというかプチ論文みたいなのを提出しないとで、それで絶対的に最初から最後まで読まないと要約は書けないわ、質問にも答えられないわで、何書いたかなんて何にも覚えてないけれども、それを毎週日曜日に半泣きになりながらやり抜いたことだけは覚えている。


しかも今みたいにGoogle翻訳みたいな翻訳サイトもなければ、日本語のインターネット記事も読めないわで、ひたすら自力で何とかするしかなくて、よくぞあんなクラスを取っていたなと思う。


今思うと、教授はとても国際政治の専門家とは思えない貴婦人みたいな雰囲気の女の先生だったけれども、先生は先生で学生たちがどんな視点を持っているのかに興味があったんだと思う。


じゃなければ、先生も先生でそんな論文調のレポートを30人〜40人分くらいを毎週毎週読んでなんかいられない。


このクラスばかりじゃなくて基本的にどのクラスも教科書読むのは当たり前だったから(読まないと授業がわからないし、テストも解けないし、論述系筆記テストならさらに何も書けない)、まぁとにかく一生分のお勉強をやりきった大学4年間だった。


さらにさかのぼると、その英語の読解力を付けた1番の基礎は、高校3年生の17歳の頃の自分がとことん英語に向き合って付き合ってきたから。


私は英語が得意どころか赤点に近いところをさまよっていて、さらにはisdoesの区別もつかないようなかなり「できない」側の英語力しかなかった。


文法はもちろん、長文読解は教科書1ページでさえ超厳しくて、毎年春に教科書を買う時は、英語だけは教科書の翻訳が付いたとらの巻的な本も一緒に買っていた。


それがないと全く歯が立たないくらいに不出来な自分だった。


冒頭に紹介したノートは、当時の自分が作っていたノート。


とにかく細かく文章を分けて、自分で訳せるくらいの長さにまずはカットして、そしてそれぞれのまとまりを日本語にして、その後それを1つの意味が通じそうな日本語にするということをひたすらやっていた。


今思うと本当に良い勉強法を自分で編み出したなと思うけれど、こうやってぶつぶつと区切って読むことこそが、英語の長文読解には必要不可欠で、英語で読む時はひたすらそうやって前から順にぶつぶつと区切って頭の中で理解してそれで読み進めることが一番読みやすいってことも後から知った。


私の英語力をよく知る超インテリな友達いわく、私は感覚的に英語をキャッチして理解しているらしい。


たしかに文法の名称はほとんどわからないし、SVOCとかSVOOとかそんなの全然わからない。


その超インテリな友達に何回か英語を聞かれた時に、最初彼女はそういう難しい文法の名前で私に聞いてきたから、私の方から「えー、そんな風に聞かれてもわかんないし答えられないから、私の理解で説明してもいい?」と言って、それで自分の中学生みたいなつたない言葉で説明して、それを逆に絶賛してもらった。


何と言っても私の強みは、

【わからないことがたくさんありすぎて、『わからない』がわかること】

と言ってもいいくらいで、わからないからこそ調べたり自分なりに理解できるように努めたことが今となってはものすごく役に立っている。


そうした長年の積み重ねによって、英語を読むのは基本苦にならなくなった。


だからタロットの本も何てことないし、むしろ興味深いから、嬉々として読める。


占星術の英語本の時にもなかった感覚で、これはとても嬉しい。(占星術の英語の本はほとんど読まずに積まれているナウ)


そして英語がずっと苦学でしかなかった私にとって、英語で趣味の何かを読んで楽しめるなんて過去に一度も想像したこともなかった。


だからタロットの本を読みながらそれは、その時の自分からの贈り物だと思った。


苦学を投げ出さずにコツコツとやってきた自分のおかげで今の自分がこうして英語での読み物を楽しめている。


こんなご褒美みたいな未来が待っていたなんて、当時の私には全く想像できなかった。


私は今でも全くと言っていいほど英語が好きではないけれど、英語のおかげで見える世界が広がってるから、そういう意味でやって良かったなと思っている。


17歳の自分よ、ありがとうー!な気分。







この間の週末、占星術講座の時の縁で仲良くなった友人ノムと電話した。


どうでもいい話だけれど、ノムについて多くの時何かしらの説明を加える理由は、この手の日記風なブログや書籍を読む時、個人の固有名詞が度々出てくることがよくあるけれど、私が個人的に毎回不満だったのは、その固有名詞の人物が筆者にとって誰なのかとかどういう関係なのかわからないことが多いことだった。


だからしつこいくらいにノムについてはノムが誰なのかを書いている。


今回は2時間にも満たないような短い時間での電話だったはずだけれど、その時に2人でカードリーディングをし合ったことと、その前にノムがその前日に半分酔っ払いながらやった友人へのカードリーディングの読み解きを私はどう読むかということもした。


占星術にまつわるカードを私がある時メルカリで見つけて、ノムにも同じものを買ってプレゼントしたことがあった。


私の方は買って満足してほとんど使ってないけれど、ノムは色んな場面で自分にも他人にも使っている。


で、ノムが前の日に友達にやって出てきたカードが何かを教えてくれて、私も同じものを自分の方でも出して、お気に入りの木製のカードホルダーに立てて眺めた。


出てきたものを見て感じたままベラベラとしゃべると、ノムも全くもって同じような解釈だったことと、他にも2人であれこれ話を広げてカードの内容を深めた。


その後にお互いのカードリーディングをした時は、最初はテーマを何も聞かず、出てきたままのカードを見て感じたことをノムに伝えた。


一通り説明した後、ノムがまさにピッタリな内容だったと教えてくれた。


ノムが何を聞きたかったのかを聞いた後、自分の伝えたことを反芻しながら、自分も納得した。


ここからは非常におこがましい話だけれど、私にとって大切なことだから書き残しておきたい。


自分でも本当によくわかったけれど、私はカードのガイドブックがなくても絵柄とそこに示された占星術の記号、そして一言添えられた英単語だけを見て、自分独自の解釈ができる。(元々ガイドブックは付いてなくて、ネットで検索すると出てくるタイプのものだった。だからガイドブックがない)


しかも、ノム側の背景など何も聞かなくてもそれができる。


さらに全く普段触ってもなければ引いてもないカードでそれができる。


真面目にお金と時間をかけて講座に通ってまでカードを読めるようになりたい人からしたら、とっても嫌味な話だと思う。


ましてや日々練習などもせずノータッチなくせに、久しぶりに触ってただただ見たまま感じたままをベラベラとしゃべるなんて、反感や怒りを買いかねない事態だと思う。


そう、別にタロットカードなど1から学ばなくても、英語のガイド本を取り寄せなくても、すでに他の道具たちでどういう風にもできる力がある。


それがわかっても、なお私にはタロットカードへの学びは止められないし、まだまだ続ける気満々でいる。


タロットカードもやりたいのではなくて、「タロットカードでなければならない」理由があると感じている。


ノムがこんな風に言ってくれた。


「ぶっしーにとってのタロットは、宇宙の仕組み(への理解)を深めるもので、なくてはならないものなんだろうね」


ノムの言葉がよくわかる。


手元の他のカードたちも色々お助けグッズになってくれてるし、本たちもたくさん手助けしてくれてる。


でも私には、それだけではどこか物足りなくて、何か根源的なものを知りたいことの欲求みたいなのは言われてみると常にある。


元々フワフワしたタイプのスピリチュアル的なものが苦手な私は、何かときちんと説明されたものを好む傾向がある。


それは目には見えないものだからこそ、本当により一層理論だとかその裏側を支える真理みたいなものを知りたいと思っている。


他のカードたちでももちろん何かメッセージを引き出す分には事足りてるけれども、どこか物足りなさを感じていたのはそういうことなのかもしれない。


タロットだってそういう意味では目に見えない領域を扱うことに変わりはないけれど、それでも100年以上色んな時代の色んな国々の中で脈々と受け継がれて人々の間に広まっていった背景には、タロットが人間の人生そのものや「なぜ生きるのか?」というような命題を明らかにしてくれるツールの1つとしてあったからじゃないのかなと思う。


生活様式は昔と今とじゃ全く違うけれども、自分の内面を知りたいとか自分が生きる意味を知りたいなんていうのは、古今東西変わらずにあるものだと私は思っている。


タロットカードはおそらくこの後も何百年も廃れることなく延々と広がり続けていくと思う。


そして何百年先の人たちも今の私と同じように、人生や自分自身を知るためにタロットを手にするのではないかと予想している。


占星術によって自分の人生設定のおおよそのことがわかった。


けれども、それとすなわち今日の小さな悩みや数週間に渡って悩むようなわりかし大きなことの解決策はそこから導き出すのは難しい。


自分を内観したり物事を俯瞰的に見たりする、はたまた感情を癒すことも、数々の心理ケアを通してけっこうな力が身に付いた。


だけどもう少しパシっとくっきりとしたヒントだとか、そこから抜け出すまたは今日より明日より良く生きられるヒントが欲しい時に内観や心理ケアだけだと物足りない。


そこでやってきたのがタロットだった。


他の人はわからないけれど、私の場合は占星術と心理ケアとそのどちらにも属さないものをタロットから引き出そうとしている。


そしてそれらを組み合わせることで自分が色々楽になるのもわかる。


反対にタロットでスパッと答えをもらっても、心がしんどいのは変わらないこともあるって知ってるから、そういう時は心のケアに戻る。


そうやって上手く使い分けたり組み合わせたりしている。


ちなみにペンジュラムは?と聞かれるとするなら、ペンジュラムはそれのどれにも属さず、私にとっては体の一部とか相棒的なバディーという感じがする。


一番オカルト色が強い感じもするけれど、ペンジュラムはある種全くの別格の立ち位置にいるように思う。


とにかく、そんな風にして私のタロット熱はまだまだ続いているし、しばらくは飽きずにのらりくらりとタロットトレーニングやタロット遊びに高じるだろうと予想している。