2015年5月31日日曜日

マツコ・デラックスNIGHT

昨日の夜は、どうしても何か動画的なものを見たくてマツコ・デラックス(以下マツコ)の番組を

youtubeで見た。

実家に帰るとテレビにかじりついていることが多いけど、その時もマツコの番組を見れるとラッキー

と思う位に好きだ。

辛口と言われるけど、マツコの言葉には優しさみたいなのを感じる。

昨日見たのはインスタントラーメンや冷凍食品の専門家を招いたその業界の話を聞くみたいなの

だったけど、ところどころのマツコのフォローがとてつもなくうまい。

「これ、悪口じゃないですから!」と言っていた言葉があるけど、それが悪口じゃなくてマツコの

最大の賞賛の言葉というのは、ずっと見てると伝わってくる。

本当に本当にその商品が個人ユーザーとして好きだというのが伝わってきて、それ故の言葉だと

見ていてうなずける。

マツコの意図と言葉はいつも一致している風に感じる。

だからどんな言葉もまっすぐに伝わってくる。

そこに変な妬みとか意地悪とかがない。

別の人が言ったら、嫌味とかになり兼ねないようなものも、マツコはさらりと口から吐き出す。

そして、何にびっくりしたって、あの半端ない知性。

前からすごく聡明な人だというのは感じていたけど、昨日見た動画の中のマツコの知識量は

池上彰さんみたいだった。

毎朝、日本経済新聞をすみからすみまで愛読しているのですか?という位の知識を要所要所で

出していた。

それもすごくさらりと出すから、全然鼻にもかけていなければ自分ですごいとも思ってないだろう。

もうあっぱれあっぱれのトークにひたすら惹きこまれて夜更かししてまで最後まで見た。

ちょっと話は変わるけど、以前マツコと中村うさぎが互いに往復書簡でやりとりするエッセイを

読んだことがある。

そこに文字となって表れたマツコの心情に何度も涙が出た。

テレビの画面には出てこないマツコの姿がそこにはあるけど、そのマツコも本人が100%書いた

とわかる位にブレがない。

自分のコンプレックスやネガティブな気持ちや母親への懺悔みたいなのや、とにかくそのままの

嘘偽りのない言葉が並ぶ。

本の中でもテレビの中でも、マツコ・デラックスはマツコ・デラックスのままだ。

大人になるにつれ、そういうのがすごくいいなぁと思うようになった。

どこにいてもそのままの自分というのに憧れてやまない。


(後記)マツコを「彼女」と呼んだらいいのか「彼」と呼んだらいいのか、何て言葉に置き換えて

いいかわからなくて、とにかく「マツコ」を連発した。

2015年5月30日土曜日

書店との相性

東海地区最大級の売場面積、蔵書120万冊と謳っている某書店に初めて行った。

まだオープンして1ヶ月ぐらいの店舗。

土曜日だから混んでいるかと思ったけど、予想外に空いてる。

地下1階地上7階の建物丸っとが書店になってる。

すべての階に行ってみたけど、空いてる。

激混みなんていうことは全くなく、ゆっくり本を見ようと思えば見れる空きようだった。

だけど、なんだか知らないけど落ち着かない。

内装もきれいだし、本もきれいに並べられてる。

店員さんもきびきびしているし、質問しているお客さんに丁寧に対応しているところも見た。

だけど、ゆっくりと本を手に取って見ようという気に一切ならない。

結局すべての階をざっと見て、途中気になる本を2冊ほどチェックし、いつもの気に入ってる方の

書店に行った。

ちなみに、どういう経営戦略なのかわからないけど、同系列の大型書店が100mおきに3軒ある。

3軒ともそれぞれ雰囲気は違っていて、わたしは名古屋で一番愛用しているそのうちの1つの

書店が一番好きだ。

そこは、本の並べ方がまず好きだ。

わかりやすいのと、そして書店の担当者の方たちのセンスがいいのだろうけど、ぱっと目につく

本の選び方がうまい。

売れているとか新刊の本ももちろん置いているけれど、これ読むと面白いよ!という本をさりげなく

目立つように置いている。

なので、その書店に行くと毎回何かしらのメッセージを受け取って帰ってくる。

あとそこの書店は、「ゆっくり本を吟味してください」という意味なのかはわからないけど、至る所に

ベンチがあるし、さらには売場のある一角にはテーブルと椅子が置いてるスペースがある。

知る人ぞ知る穴場スポットで、わたしは大体いつも数冊本を持ってそこに行く。

平気で2時間3時間そこで過ごしたりする。

そこも殺風景にならないように、書店独自の本の見せ方をしている。

一応宣伝してるけど、それが全く押しつけがましくなく、さらに多分そこの担当者はその見せ方を

楽しみながら毎回企画してると思う。

そういうのが伝わってくる。

すごく居心地が良い。

そこに自分しかいないなんてことは一度もないけど、そこが空いていても混んでいてもいつも

どっぷりと自分の世界に浸かれる。

おひとり様が多いけど、2人組の友達同士でいても、それぞれが自分の世界に入っている、

そんなスペースがいつ行っても保たれてる。

書店との相性なんてこれまで考えたこともなかったけど、今日2つの同系列書店をはしごして、

自分が「好き」と感じるものってこういうところにもあるんだと気付いた。

2015年5月28日木曜日

手相が教えてくれたこと

今朝突然気になって、手相について調べた。

これまでも自分の手相を見るのは好きだったし、雑誌や本、ネットなんかで調べたりもした。

手相鑑定も受けたことがある。

ただ、これまで一度も突っ込んで調べたことのないことを調べた。

わたしの手相は、左手と右手で大きく異なる。

まるで別人の手相のごとく、生命線以外はひとつも似ていない。

手相で左右が大きく異なることって何か意味があるのかな?と思って、それを調べた。

ちなみに、左右きれいに対称というのもほとんどないらしい。

大なり小なり違う方が多くて、ただ明らかに全然違うのは少ないとあった。

諸説色々とあったけど、自分の中で一番ぴんときたのは、左右大きく違う人というのは、30代半ば

あたりを境にして全く別の人生を生きる可能性が非常に高いということだった。

わたしはこの説に出会えて本当に良かったと朝から思った。

今年の3月の下旬辺りから、言葉では表しようがない、何かが変わろうとしているのかなぁと

いうのはちょいちょい感じている。

どちらかと言えば、「怖い」方が感情としては大きい。

未知の世界に飛び込む怖さもそうだけど、本当によくわからないのが今だ。

言うなれば、水泳の飛び込み台のぎりぎりのふちに立って、ぽんと前に出たら今いる所とは全然

違うところに行く、そんな直前の状態なのかなと思ったりもする。

ただ、わたしも自分を見てそう思うし、第三者から見たらさらに理解不能だと思うけど、何もせずに

何をしているのかと思う。

この数ヶ月の時間は、これまでの人生で体験したことのない状態で、自分でもよくわからない。

日々、なんだこれ??と思っている。

当然自分で決めていかなければいけないというのもわかっている。

だけど、そういうこととは別に何かが水面下で進行している、そんな風にも感じる時がある。

もしかしたら何もなくまたこれまでのような生き方に戻るかもしれないし、

この数ヶ月は何だったのかわからないまま年を重ねていくかもしれない。

ただ、どういう道を進んだとしても、今朝たまたま気になって調べた手相の話は、今のこの時に

出会えて本当に本当に良かったと思っている。

2015年5月27日水曜日

大人の味覚

今、北海道発祥のスープカレーを仕込みながら書いている。

わたしが初めてスープカレーを食べたのは、24か25歳の時だった。

大学の友達の結婚式に参加するため、初めて北海道に行った。

結婚式も楽しみだったけど、それとは別に北海道の食材をあれこれ味わうことも楽しみだった。

北海道では色々食べたけど、そのひとつにスープカレーがあった。

事前にお店もいくつか調べて、泊まったホテルから徒歩圏内で行ける店に実際に足を運んだ。

日本のカレーも、タイカレーも、インドカレーも大好きだった当時、スープカレーも「カレー」と名が

つく位だから美味いだろうと勝手に決めつけていた。

ところが、スープカレーは予想に反して全然美味しさを感じられなかった。

言うなれば「薬膳スープ」という感じだった。

決してそのお店の味がいまいちとかではなかったと思う。

ただ、もう二度と食べなくてもいいかな、という位に全く響かなかった。

そしてあれから干支が一周する位に年を重ねた今。

今年の冬のある日、名古屋市内にある北海道に本店を持つスープカレーの店に行ってきた。

今年はポトフの旨さに目覚め、そしてここ数年で野菜や肉なんかでコトコト煮込むスープの独特の

美味しさを感知できるようになった。

スープカレーもいけるんじゃないか?と急に思い立って行ってきたのだ。

そこで食べたスープカレーのおいしさにびっくりした。

たった一度食べたっきりのスープカレーで自分は苦手と思い込み、もう何年も食していなかった。

だけど、今食べるととても美味しい。

複雑なスパイスや野菜、肉のスープの混然一体となった味の虜になった。

ただ、一つ残念なのは何がそんなに高いのかわからないけど、値段が高いことだった。

確実に1000円は超える、何もオプションを付けていなくても。

(オプションを1つ2つ足すだけで、あっという間に2000円近くになる)

値段そのものが高いのではなく、材料を見てなぜその値段なのかがわからなかった。

そして同じお金を払うならもっと美味しいものがあるというのも、いまいちその店に二度三度

足を運ぼうという気にならない理由だ。

そこで、わたしはネット検索した。

自分で作れないのかなと思い、あれこれ調べていくうちにある北海道の会社が生産している

スープカレーの素というのがあった。

ただ、おいしいのかどうかもわからないし、1瓶400円ぐらいのものをわざわざ取り寄せるのも…

と思っていたら、なんと近くのKALDI(カルディ)みたいな輸入食材や国内のちょっと変わった食材

を取り扱う店にそれと同じものが売っていた。

早速買ったのが2月か3月で、そして夏直前の今頃、ようやくスープカレーを作ることになった。

間をあけた理由は特になく、強いて言えば面倒くさいだった。

そして、今回珍しく色んな野菜が手元にあって、それがスープカレーを作る決め手にもなった。

なす、れんこん、じゃがいも、かぼちゃが手元にすべてある、なんていうことはほとんどない。

他にも、玉ねぎ、人参、新じゃが、手羽元と共に今ぐつぐつと鍋で煮込んでいる。

何せ初スープカレー調理だから、それがおいしいのかどうかもわからないけど、まだ素を入れて

いない状態ですでにおいしいスープに仕上がっている。

話があちこち飛んでしまったけど、20代の頃にはわからなかった美味しさや旨みを今の自分は

感じられるようになったんだなぁと思った。

あの薬膳スープのような味、あれをおいしいと思ったのだから。

大人にならないとわからない味覚があると何人かの人から聞いたことがある。

苦みとかがその代表ではなかったかなぁと思うけど、コーヒー、ビールの旨さがわかり、ようやく今

スープカレーのような薬膳の苦みがわかるようになったのかなと思う。

2015年5月26日火曜日

オレンジ色のキラキラの正体

向かいのベージュ色のアパートがオレンジの夕焼けに染まっている。

半透明色のカーテンもオレンジに染まって、時々風を受けるとひらひらとカーテンが踊る。

それを目にしながらこの日記を書いている。

今日はオレンジ日和だ。


2時間ほど前、近所の大きな公園へおやつと日記と本とを持って行ってきた。

でっかい公園はおそらく10以上の出入り口がある。

わたしの家から一番近い入口がいつもの入場ルートだ。

だけど今日は公園内の目指すべきテーブル付ベンチがあって、そこに行くにはその入口はちょっと

だけマイナス点がある。

公園の入口から数メートルのところに1.3kmほどのランニングコースがある。

そのランニングコースは時計と反対回りにぐるぐる回ると暗黙の了解で決められていて、

それを逆走するというのはなかなか勇気のいる行為だ。

わたしが目指すテーブル付ベンチに向かうには、ランニングコースを逆走するか、又はもう50m程

先の別の入口から入るか、どちらかの選択肢だった。

時間帯的に、必ず高校や大学とおぼしき部活動の若者たち+健康維持の大人たちで溢れている

時間だから、逆走ではなくもう少し歩いた先の出入り口を利用することに決めた。

さぁ公園内に入ろうという頃、オレンジ色にキラキラしているパッと見5~10cmの物体らしきもの

と遭遇した。

最初は、木陰と太陽の光の加減でそんな物体らしきものが幻想的に見えてるのかと思った。

ただ、近付けば近付くほど、その物体は動きを持っている。

しかも、一箇所にとどまらず、近くをぐるぐると旋回している。

次に思ったのは、クモの巣だった。

クモの巣が風に当たって、くるくると回転しているのかと。

さらに近付くとクモの巣ではないとわかった。

やけにうすぼんやりしているけど、蝶々かなと思った。

オレンジのアゲハ蝶にしてはかなり色が薄いし、なんだか幻のような幻覚でも見ているのか?と

いうようなはかなさではあったけど、蝶々と思えなくもない。

ただ蝶々にしては、その羽の動き=オレンジのキラキラがやたらと細かくて、そんな風に蝶々は

飛ぶだろうか?と思った。

さらにそのオレンジ色のキラキラしたものに近付く。

そのキラキラしたものと1m程の距離になった時、ようやくその正体を突き止めた。

なんと、季節外れのトンボだった。

オレンジ色のキラキラは、トンボの4枚の無色の羽で、それがひらひらする度に絶妙な光との

コラボが生まれてキラキラとオレンジ色の光をあたりに振りまいていた。

しばらくわたしはその場に立ち尽くして、そのトンボの飛ぶ姿をひたすら見ていた。

5月のさわやかな新緑の季節に、どういうわけか今ご登場しているトンボ。

にわか信じがたい光景だったけど、何度見てもやっぱりトンボ。

トンボが木の影に隠れてどこに行ったかわからなくなってから、例のベンチを目指した。


ふと、あの時なぜか「逆走は嫌だ」と思ったことを思い出した。

実はもう1つベンチへ向かう道はあった。

要は、いつもの入口から入ってランニングコースを半周ほどしたところでベンチへ向かう別の道が

現れる。

ベンチへ向かう時は、いつもその半周コースだ。

だけど、暑かったのと、そのランニングコースをぐるぐる回る気力もないのとで、いつもなら絶対に

使わない入口を使ったのが、今日のトンボとの遭遇に結びついた。

この時期にトンボを見つけよう!と頭で考えて導き出せるようなものではない。

想像すらできなかった出来事や物事に遭遇する時、思い浮かぶ言葉がある。

「something great」

何か偉大なるもの。

何かすごいもの。

どう訳すといいのかわからないけど、あくまでsomething、何かだ。

この言葉の提唱者は「この人!」と自信を持って言えないけど、わたしがこの言葉を耳にした

最初の表現者は遺伝子の研究をされている学者の村上和雄先生だ。

講演会で話されていた言葉はすごかった。

遺伝子は分子や量子力学?とか、とにかくミクロのさらにその先の単位まで成り立ちを見ていく

らしい。

今科学で究明できる最小単位数で遺伝子を見ても未だもってその大元の成り立ちは不明らしい。

そしてそれを再生することもできない。

ということは、遺伝子含め人間・動物・植物・地球・天体、なんでもその大元は「something great」

から成り立っている。

科学すらも太刀打ちできない、何かすごいもので命が成り立っている、そんなお話だった。


今日はこのトンボのおかげで、ちょいと行き詰まりだったことのヒントも得た。

頭で考えれば考えるほど迷走しまくるという悪循環だったけど、頭では考えられないような未知の

領域(=トンボとの遭遇)にたまたま今日は行き当たり、そうだそうだ、この未知の領域に対して、

わたしは全幅の信頼を寄せていることを思い出した。

頭が無能だとは言わないけど、頭ではどうにもならないこともある。

なのに、頭で、技術や小手先の知識で何とかしようとしていた。

そりゃ、答えも出んわな・・・と思った。

持ち歩いた本もそんなのを期待してかばんに入れたわけではなかったけど、ぱっと開いたところに

まさにトンボと直結するような話が書かれてあった。


オレンジ日和のカーテンショーはもう終わった。

これから夜がやってくる。

2015年5月25日月曜日

繕(つくろ)う

久しぶりに繕(つくろ)いものをした。

「繕う」という字、良くできているなぁと思う。

正しい語源は知らないけど、そのまま読めば「糸で善くする」で「繕う」だ。

字のごとく、糸を使ってちょっとガタがきたところを修繕して元通りにする。

わたしはプロでもないし、素人の適当なお直しだけど、それでも繕うとすっきりする。

それこそ、昨日の勉強会(参照:『人生のお手本』)で「思いを込める」という話があった。

日常の、例えば洗濯でも料理でも掃除でも、そこに思いを込めて行うという話。

そんなの当たり前と言えばそうなんだけど、何せ心底生き方かっこいい!という人が言うと、まるで

魔法のごとくその通りにやってみよう!となるのだからすごい。

そして、そうした日常の家事に思いを込めたことで命が助かった実際の話まで聞いたら、ますます

やってみよう!とすぐに感化された。

それで今日早速、洗濯物をたたむのを丁寧にやってみたところ、これまで数ヶ月単位で放置して

いたほころびが気になった。

ホックが取れそうになっていたのを見て見ぬふり。

レギンスの裾から数cmの糸がたらりと出ていたのも見て見ぬふり。

Tシャツの裾部分が元々はぎれっぽくなっているデザインだけど、糸が出過ぎていたのも見て見ぬ

ふり。

糸と針を出してきて、それらを繕った。

時間にして数分でしかない。

その数分を割いただけで、服たちが見事によみがえる。

全然手間ではなかったし、あっという間の作業だった。

これまでそれらを放置していたことは、自分をないがしろにしているみたいで少し反省もしたけど、

とにかく今繕い作業に着手できたことが何より良かった。

「思いを込める」という話の中で、これは何も家族や自分以外の誰かに対して向ける行為だけでは

なく、自分自身に対して向ける行為でもたくさんできること、自分にもたくさんの思いを込めて

下さいというような話もあった。

しばらく自分のことがいい加減だったから、今日の繕いを通してこういう小さな行為の中に思いを

込めてみようとひっそりと誓った。

2015年5月24日日曜日

人生のお手本

半年前、どうにもこうにも首が痛くて困った時。

身体的な症状というよりも、何か自分でも気付いていない内面のことが体に出ているなぁと思い、

それをきっかけに辿り着いたブログがある。

きっかけは首の痛みだったけど、その時ばかりはその首の痛みに感謝したくなるぐらいに、

ものすごく良いブログに辿り着けたことを喜んだ。

沖縄在住の方だけど、年に1~2回愛知県でも勉強会を開催している人だというのはブログを

通して知った。

そして待ちに待ったその勉強会が今日だった。

勉強会にも興味はあったけど、わたしはむしろその方の生き方やその人そのものに興味があって

それで行ってきたようなものだ。

うちから20キロ強離れたのんびりとした町に初めて行った。

名古屋から20キロ程離れると、こんなにも雰囲気が変わるものかとびっくりした。

のんびりという言葉が合っている。

子どもたちもその辺をぐるぐる自転車で乗り回したり、公園の大きな水たまり場でばしゃばしゃ

していた。

時の流れが実にゆったりとしていて、喧騒とは無縁のような田舎と呼ぶにはちょっと都会的な町

だった。

何せブログでしかその方を知らないし、あとは申込の返事をメールでもらっただけで、何一つ

知らないまま足を運んだ。

ちなみに、申込の返事も一人一人にきちんと出されているようで、決まりきった言葉ではなく、

わたしの申込に対してきちんと返事を書かれていたことがとても印象的だった。

余談だけど、ブログでは何でも思ったことをストレートに表現されていて、非常に辛口だ。

時々、それで自分も痛いところを突かれたなぁと思うこともある。

だからどんな人なのかドキドキしながら行ったのだけど、行ってまずはびっくりした。

わたしより幾つか年上の男性だけど、あんな風にまっすぐに笑う成人男性を日本で初めて見た。

外国ならわかる。

父がわたしに笑顔を向けるのもわかる。

友達同士でならまっすぐの笑顔もありだ。

だけど、営業用のスマイルでもなく、かと言ってオーバーフレンドリーな笑顔でもなく、とにかく

見ただけで安心するようなそんな笑顔の40歳近い日本人男性を初めて見た。

そして、あの辛口ブログの筆者と同一人物とは思えないぐらいの柔らかい感じの方だった。

良い感じで独特のオーラを持っていて、そして受付の一連の流れも、これまでの受付の中で

一番良い感じで、もうそれだけでも行って良かった。

何せ一番前の席がぽっと空いていて、わたしはそこに座ったのだけど、他にも後から来た人たち

への対応を観察していて、同じように丁寧で親しみのこもった対応をされていた。

2時間~2時間半位の勉強会だった。

内容は自分が知りたかったこととこれまでに見知ったことの復習と、すべてが本当に素晴らしい

ものだった。

そしてその伝え方が実にソフトでわかりやすく、難しい言葉なんて何一つなくて、そして今日聞いた

すべては今すぐに実践できるものばかりだった。

その人は、自分の生き方にブレが一切ない。

自分の使命を常に全力でまっとうし、まっとうできるように見えない部分での努力も怠らない。

努力だけではなく、楽しむことも全力で楽しむ姿勢がよく伝わってくる。

久しぶりに、心底「この人の生き方かっこいい!」と思う人生のお手本のような方だった。

もちろん、この人のこういうところいいなぁ、こんな生き方素敵だなぁというのはその方以外にも

いるし、そして自分も取り入れたいなぁと思うことはある。

ただ、今日の方は、もうレベルが別格だった。

あまりにも届かないような森山直太朗や他の著名人みたいな風でもなく、かと言って友達ほどの

親しい位置にいる風でもなく、何がどういいのかも言葉での説明は難しいけど、とにかくお手本に

したい、そんなのを間近で感じた。

半年前の首の痛みを思い出す。

もうどんな風に痛かったのかも忘れたし、そのブログに出会ってしばらくしてから痛みも消えたから

そのまま特段何ということもなかったけど、あの首の痛み無しには出会えなかった人だ。

首の痛みが運んできた一期一会。

本当に出会えて良かった!

2015年5月23日土曜日

人生という問題集

2015.5.23 0:00開始

これをいつか絶対に公開する!と決めて、その覚悟ができたら公開します。

武士俣史子

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約9ヶ月の引きこもりを経た今。

もう何年も何年も同じ問題を抱えている。

「問題」だと私が思っていること。

私の場合は、「お金」と「男」のことが、毎回試される。

「あなたこれからどうやって生きていきたいですか?」という問題集が渡される。

それがことごとく、お金と男にまつわることだ。

例外はない。

問題と定義していいのかわからないけど、こういう風だ。

お金はとりあえず手元からほぼ現金がなくなる。

郵便局に預けた昔のお金を元本にお金を下ろすしかなくなる。

今回は、キャッシング?とでも言うのだろうか、お金を銀行から借り入れている。

それも生活費のために。

働けよ、って話だろうけど、私は働くことのデメリットの方がお金を失うより大きいらしい。

今回借りたら、25万円~30万円のマイナスになる、利子ももちろん付く。

それでも働こうとしない自分。

少しだけ言い訳をする。

私は働くことが嫌いだとは思わない。

むしろ生きがいを感じたりするタイプだ。

だけど、どうしても納得のいかないことがある。

なぜ人の命を預かる仕事より、壊れたら買い替え可能な家電やら車やらの修理や問合せ受付の

仕事の方が給料高い??

これ大真面目な話だ。

下手すると、2倍の差が開く。

すごく好きな仕事ではあったけど、給料がわりに合わなかった。

嫌いな仕事は、嫌いでも給料としては問題なかった。

その両方を、要は好きでそしてお金ももらえる、その両方が欲しくなった。

だったら起業!と思ったけど、私は自分を宣伝するのがことごとく苦手だ。

十分すぎるぐらいに価値は身に付けた。

お金と時間を投資して、技術も知識も得た。

それでも一歩が踏み出せない。

自分馬鹿かと思う。

24時間自分の中で自分は馬鹿だ能なしだと言っているみたいだ。

話は飛ぶけど、最近立て続けに3つの自分の外的評価を得ることとなった。

EQと呼ばれる心理的な豊かさ。

これ150オーバーでかなり高いと出た。

IQの知能検査。

嘘か本当か、182と出た。

面白がって、自分の名前をアルファベットで入力してググった。

大学の時の自分のことが出てきた。

一応、大学は成績優秀者と呼ばれる枠で卒業している。

そんなのけっこうな人数の人がそうなのかと思っていた。

14年後の今、それが卒業生全体の1%にも満たないんじゃないかという人数でびっくらこいた。

リスト一覧が出ていて、なんと1人2人・・・と数えられる位の人しかいなかった。

自分の気持ちがついていかないぐらいに、まこと優秀な人物に自分はなっていた。

それにも関わらず今稼げない自分。

稼ごうとしない自分。

とことん自信のない自分が露呈している。

そしてまたがんばらなきゃと思うとしんどい。

もうがんばれないから。

もう踏ん張って前を向いて進むなんてやってらんないから。

はい、生き方を変えないといけませんよ、とサインは受け取った。

わかってる。

よ~く、わかってる。

これまでと同じやり方で人生を歩んでもしんどいだけだというのはわかってる。

そしてもうそういう生き方を望んでいないこともわかってる。

だけど、そうでない生き方の方法がわからない。

好きなことだけしていればいいのかと思ったけど、そのうちお金という問題が出てくる。

引きこもっている間に、何人のおめでたいニュースを聞いただろう。

毎回、心が張り裂けそうだった。

相手のこと云々ではなく、周りの人たちが手にしているしあわせがなぜ私は手にしようとしないの

だろう、いつまでうじうじしているんだろう、どうして自分はダメなんだろう、というダメダメループに

はまり、強烈に苦しくなってそれで心が張り裂けそうになっていた。

自分ださすぎる。

でもそれが今の自分だ。


私は、いつの日かここに書いたようなことを笑い飛ばしていたい。

自分が望む形で働いていたいと思うし、

自分の好きな人と一緒になって子ども産んで一緒に育てていたいと思うし、

毎日のようにげらげら笑っていたいと思ってる。


このひとっ飛びでは行かないような人生を、私が今日からそして未来のいつかに至るまで

どんな風にかじを切ったか残そう。

出し惜しみなんてしない。

もうこんなに苦しいのは嫌だし、そして他の誰かも同じような気持ちだったらそこから抜ける

きっかけになりたいから。

嘘は書かない。

マコトのことだけ残す。


さぁこれから人生のはじまりです。

本当の新しい人生のはじまりです。


2015年5月19日火曜日

青い空の本音

夕方6時ごろ、まだ空は青かった。

うっすらと雲があるぐらいで、空は晴天に近い。

夕焼けすらまだ早い時間で、これから1時間散歩してもいいなぁという感じだった。

何の用事もなかったけど、外に出てふらふらと散歩した。

その青い空を見ていて、塾に勤めていた頃によく子どもたちからかかってきた電話を思い出した。

だいたい、今日みたいな天気の日。

その位の時間になると、電話がくる。

「あのさぁ、まだ遊んでるから、塾の時間変えちゃダメ?」

男の子も女の子も、変な言い訳なんかせず、直球ストレートで毎回勝負の電話をかけてきてた。

許容人数に問題がない時は、「お母さんに聞いてOKならいいよ」と返事してた。

「ただ、毎回毎回はやめてね」とも付け加えていた。

今考えたら不思議な会話だったと思う。

言い訳してもいちいち突っ込まれるのが嫌だと察知するのか、言い訳する子が少なかった。

「あのさ、宿題終わってないから遅れて行ってもいい?」とか、

「今警察なんだよね。塾今日休む・遅れる」とか、

ストレートに何も包み隠さず電話の向こうで子どもたちは各々の事情を話していた。

だから、今日みたいな天気のいい日でまだもう少し遊べる!とわかると、大体誰かしら電話を

かけてくる。

反対に、日の短い秋や冬になるとそういう電話は減っていたかと記憶している。

あの時は、自分がその時間帯に外にいなくて子どもの気持ちのひとつもわからずに返事をしていた

けど、今日自分が外に出てみて、あぁこの明るさならもう少し遊びたい、友達と一緒にいたい、

そういう気持ちわかるなぁと思って散歩した。

そのついでに思い出した小学生の男の子がいる。

数百人見て、そのうちの数十人は塾の退会の手続きも踏んだと思うけど、その子の退会理由は

とってもユニークだった。

退会の手続きは本人じゃなく保護者とするけど、お母さんの話がとっても印象に残っている。

退会する時は必ず理由を聞くし、そして書類にも簡単に理由を書いてもらうことになっていた。

お母さんは何度もそのままの理由を書いていいですか?と確認しながら、わたしは逆にわたしが

会社に説明するためにも本当の理由の方がいいからありのまま書いて欲しいとお願いした。

その退会理由は

「子どもが遊びたいため」

だった。

もう少し付け加えると、子どもの遊びたいという気持ちを大切にしたい、だった。

あまりに前のこと過ぎて記憶があいまいだけど、その子は1年生の頃に入ってきた。

わたしが勤めていた学習塾で1年生から入ってくるというのはとてもめずらしかった。

入会の手続きはわたしの上司がするから間接的にしか入会理由を聞かなかったけど、

たしかコミュニケーションの力を伸ばすとかだったと思う。

学力の心配はほとんどされておらず(と言っても、大抵のお母さんなら悩む位のもの)、

とにかくコミュニケーションがなかなか取れないところがお母さんの最大の心配事だった。

実際にその男の子と対面して、わたしもお母さんの言わんとするところがわかった。

おそらく学力は低くない。

むしろ感受性が豊かで、色んなことをたくさん感じている風だった。

だけど、そのたくさん感じていることをどんな風に言葉にしていいのかわからないんだろうなぁと、

そんな印象だったことはよく覚えている。

最初の頃は、あいさつをすることから始めた。

ほんと、それ位、引っ込み思案で、何か言いたそうな顔をしてるけどそれを外に出せないのか、

出そうとしないのか、そんな風だった。

会話をするなんて夢のまた夢状態で、しばらくはあいさつと簡単な確認の質問程度しか会話が

成立しなかった。

だんだんと馴れてきてからは、大きな声であいさつすることも、何かを一生懸命言葉で伝えることも

ひとつまたひとつとできることが増えていった。

表情もすごく豊かになったし、塾主催の農業体験も自らやりたい!と言ってフル参加だった。

3年生になったある日。

少しずつ友達と遊べるようになってきた、といつかお母さんから話があった。

お母さんもフルタイムで働いていられる方で、遊びの送迎と塾の送迎とのダブルが物理的に

厳しくなり、さらに本人が遊んでいるところに塾へ行こうと言うと渋るようになった、と話された。

しばらく騙しだまし連れてきたけど、そろそろ限界という頃にお母さんから退会したいと言われた。

コミュニケーションが取れなかった子が友達と遊べるようになった、というのはお母さんからして

大前進で、今は勉強よりも子どもの遊びたい気持ちを優先させたいと言われた。

わたしも本当にうれしかったから、お母さんには素直にここまでこれたことはわたしもうれしいと

伝えた。

そして、「子どもが遊びたいため」を理由に本当に塾を退会した。

上司からはその後かなり詰められたけど、わたしは引き止める気も継続してくださいと言う気も

さらさらなかった。

入ってきた頃のあいさつ1つできなかった姿を思い出したら、大大前進だ。

そして、いつかそのお母さんが

「ぶっちゃけ、本人が行きたくなければ高校も行かなくていいと思っています。

学力よりも、本人が人と関わる力を持てることの方が大事だから、それさえあればもういいです」

とも言っていたことも思い出した。

本当にその信念を曲げずに子どもの気持ちを最優先にしたお母さん。

お母さんの揺るぎなさが子どもの遊ぶ力にも繋がった気がする。

今日の空を見て、高学年になった今、まだ遊べる時間!と思って遊んでいるのかなぁと思った。

2015年5月18日月曜日

料理の生まれ変わり

2日前、家に送られてきた情報誌の中にきゅうりの冷製スープのレシピが掲載されていた。

材料を見るとすべて家にあるものばかり。

きゅうり、玉ねぎ、にんにく、オリーブオイル、塩、こしょう、牛乳、コンソメ。

ぱっと材料を見て、おいしくなるだろうことは予想できた。

レシピに従ってその通りに作り、味見しておいしいことも確認し、冷蔵庫で休ませた。

さぁ今日は豪華なサラダに冷製スープ!と張り切って器に盛り、いただきますをしてスープを一口。

何がどうしたのか、まずい。

それぞれの味が、冷やされたことでまとまるどころか独立し、不協和音をかもし出している。

あと、玉ねぎとにんにくが辛みを増して、それも苦手な味だった。

本当に一口だけで十分で、でもそれが2カップほどまだある。

捨てようかと思ったけど、もったいない気もする。

とりあえず冷蔵庫に戻し、アレンジをしようと考えた。

きゅうりを温めるというのは何ともまずそうではあったけど、スープでグラタンを作ってはどうかと

思った。

それでもまずければ、もう捨てようと決めてさっき作ってみた。

玉ねぎとマカロニを具として用意し、あとは小麦粉とスープで全体を伸ばした。

器に盛り付けてとろけるチーズを乗せてオーブンで焼いた。

焼く前に味見して、なんだかいけそうな気がした。

【焼く前】

【完成】

焼いたらますますきゅうりのみどりが濃くなった。

食べてびっくり!

すごくおいしかった。

きゅうりの味はまろやかになって少し苦みが加わった。

その苦味は、バジルに近い感じ。

冷製の時に感じた、あのにんにくと玉ねぎの辛みはすっかり消えていた。

チーズがまた良い感じで、おいしさに貢献している。

二度は作らなくていいけど、グラタンに生まれ変わった冷製スープは美味へと変化し、

そのプロセスは個人的にとっても楽しいものだった。

実験的な料理は、わたしの中の数少ない長期に渡る趣味だ。

2015年5月17日日曜日

朝から卵を3つ割った日

青い空+新緑の葉っぱ+心地良い風、なんかを体で感じながら朝からスーパーへ。

日曜日の午前中は、住宅街でほとんど占められている近所の通りも静かだ。

みんなのんびりしてるんだろうと思う。

お目当ての¥98の卵を1パックを買い物かごに入れ、他にも必要なものをちょいちょい足して買物

を終える。

家に着いて、買ってきたものを冷蔵庫に入れようとする。

冷蔵庫にはまだ4つ卵が残っていて、それを動かそうと一度取り出した。

取り出し方がまずくて、4つのうち2つが床に落ちた。

1つはパックに残ったまま。

もう1つが行方不明。

どこに行ったのかわからず冷蔵庫のドアを閉めようとしたら、なんとその隙間に入っていた。

その卵にももれなくひびが入った。

テンション駄々下がりだったけど、気を取り直して掃除を始めた。

卵は幸いにして、殻に入ったまま落下したりドアに挟まれたから、白身の一部だけのみもれた。

中身は8割ほど無事で、そのまま容器に移してオムレツを作った。

卵3つ使ったオムレツ…朝からなかなかヘビーな食事となった。

その後、布団干して洗濯も始めたけど、卵3つを割ったのは自分の不注意だとばかり信じていた。

たしかに不注意は不注意なんだけど、今、夜を迎えて体の方がサインを出していたんだと思う。

洗濯機を回しながら、その後掃除をする気でいたりもしたけど、なんだか体がだるかった。

結局、掃除は先ほど日も暮れそうな頃に始めたけど、それまで床に転がって寝落ちしたり起きたり

を繰り返していた。

しかも、今日は暑い日になったかと思うけど、途中で寒くて窓を閉め毛布にくるまっていた。

卵を割ってしまう不注意は、実は体がだるくて注意散漫だったんだと思う。

あの時はそれほどのだるさもなかったからわからずにいたけど、今思えばそう感じる。

2015年5月16日土曜日

NIVEAクリームを試す

NIVEAことニベア、子どもの頃からあったあの青い缶のニベアクリーム。

先月位に、あのクリームを顔に塗るととても良いという記事をネットで読んだ。

嘘でしょ??と、また記事を書いた人が20代かなという感じを受けて、これは若いから、

とあっさり流し読みをして終わった。

その少し後。

半年ほどほぼ毎日読む料理ブログがある。

その方のレシピもいくつか試したし、おいしいと紹介された商品と同じもの買って食べたりもした。

どれもこれも大当たり。

その方がニベアを紹介していた。

50代前半のその方、ニベアを使った翌朝は肌がつるんぷるんだそうだ。

そして、コメントに元美容部員だった方が付け足しをされていて、

ニベアと某高級化粧品は成分がほぼ一緒で、その割合が違うだけと説明されていた。

何せ、これまでその人お薦めのレシピや食品ははずれがないどころかすごく良い。

流し読みしたニベアも、そこにきて俄然「もしかしたらすごく良いのかも!」と期待が膨らむ。

すっかり感化されたわたしは、かなり試したくなった。

最悪合わなければ、体の乾燥を防ぐクリームとして使えばいいと思えばなんてことなかった。

ようやくそれまで使っていた顔用クリームを使い切り、昨日ニベアを薬局に買いに走った。

まず値段を見て驚いた。

これまでニベアの存在は知っていたけど、一度も買ったことがなかったから、

1000円出しておつりがくる位かな~なんて予想していた。

予想をはるか大きく裏切り、50g約250円で購入してきた。

逆に、250円のクリーム、しかも本来は手足に使うようなクリームを顔に使ってもいいものかと

かなり不安になったのも本当。

いきなり湿疹とか困るから・・・と思い、左ほおの一部に少し塗って様子を見た。

とりあえず半日問題発生はしなかったから、今日ニベア本格デビューをした。

塗ってから数時間経過した今。

すっごい悔しいけど、とてもしっとりすべすべな肌、しかも普段よりいいんじゃないか?という状態。

少なくともその10倍以上の値段のクリームをそれまでは使っていたわけで、それと変わらない

どころかもしかしたら良いかもしれないなんて・・・。

さらに、クリーム自体が全体的に濃いから、本当に少量でよく伸ばして使えば良い感じで、

この50gの容器を使い切るのにどの位かかるんだろう??と思う。

まだ初日、これから使い続けてどんな風になるのかわからないけど、また追ってレポートの予定。

2015年5月15日金曜日

洗脳の現場を目撃する

2年ぶり3年ぶりぐらいに足を運んだセミナーの話。

『真実を見る目』で、行く前に感じていたことを書いたその続き。)

これまでの人生でも、知らずにねずみ講のセミナーに連れて行かれたり、

いんちきなセミナーとは知らずに行ったりしたことはあったけど、昨日のは史上最悪なものだった。

ざっくり言うと、コーチング系(Aさん)×マーケティング系(Bさん)の組合せのセミナーだった。

Aさんの実践は筋が通っているし、個人的に真似したいと思うところがたくさんある。

昨日もAさんの話は、すごく良かった。

自分の実践や知恵に役立つ話ばかりで、それは聞けてとても良かった。

対するBさんは、これまで一度も出会ったことのない異様な雰囲気をまとっている人だった。

前半はAさんが話し、後半はBさんが話した。

Bさんが話している間中、わたしはずっと頭痛と気持ち悪さが続いた。

こんな体の反応はそうそう起こらない。

全身で拒絶反応が起こるなんて、相当変なもの持ってる人だと思う。

わたしは何か見えたり透視や霊視なんか全くできないけど、そんな力のない人でも感じる位の、

ほんと、見たことないこんな人!という感じだった。

最終的にBさんの話は、最初から最後まで高額サービスの説明ばかりだったけど、

まずこれまで何かしらの契約を結んだことのある人なら絶対におかしいとすぐに気付く。

何かしらの契約というのは、家や車なんていう大型のものではなく、携帯電話を契約する程度の

ものでいい。

そして、コーチングを学ぶようなパッケージも含まれていたけど、それらを学んだことが一度でも

ある人ならそのパッケージが手抜きと言うかずさんと言うか、それにも気付けるかと思う。

百歩譲って、携帯電話の契約はしたことあると想定しよう。

自分も以前の仕事で、お客さんと契約を交わす業務も時々していた。

申し込もうとしているお客さんには必ず利用規約や各種契約時の諸々のことを全部口頭で説明

していた。

当然、書類を見せて、その一文一文を私が読みながら一緒に目を通して、お客さんの方で不明な

点や引っ掛かる点がないかをこれでもかという位に確認していた。

当たり前だと思う。

会社側のリスクを避けるためでもあったけれど、結局はお客さん目線で考えたら当然の行いだと

誰でも思うことだろう。

それらをすっ飛ばして、メリットだけを延々と語り続け、というかもうわたしには洗脳にしか

見えなかったけれど、それで最後に今日申し込む人はこの後申し込んでください、

という言葉で締めくくられて終わった。

こんなんで申し込む人がいるんだろうか?と思って、申込ブースの会場後ろ側を見たら、

ざっと見ただけでも10名以上いらっしゃる!

しかも、価格はこれは何なの?というぐらいに高い。

昨日申し込んだ人は多少の割引が効くようになっていたけど、それは個人の年収でも

おかしくないものだ。

それに申し込む人たち・・・。

ちなみに、家に着いて渡された申込書についていた規約を読んだら、「返金不可」とあった。

ひょえーーーーーーというとんでもサービスだった。

いくら自分にお金があったとしても、絶対に申し込まないタイプのサービスだ。

というか、それ以前におかしいと感じるところがたくさんあるのに、それに気付かないんだろうか?

しかも、あそこに並んでいた人たちは規約すら読まずに申し込んでいた(そんな時間なかった)。

そもそもそんなところに足を運んだわたしもわたしだけど、さらに上のサービスを申し込む人って

一体どうしたらそんなものに申し込もうという気になるんだろう。

もちろんメリットがゼロではない。

でも確実に、投資額に応じたスキルや手法が身に付かないのは、一目瞭然だった。

それだったら、同じ金額払って別の何かを買った方ががよほど良いとわたしは思ったけど、

もう洗脳された人たちにはそんな発想すら浮かばない位、列を成して自分の申し込む順番を

ひたすら待っていた。

他人の人生だからわたしがとやかく言う必要も資格もなくても、いやはや初めて見たよ、

本物の洗脳!という、すごい体験をした1日となったのは間違いない。

2015年5月14日木曜日

わたしのご縁の法則

「わたしのご縁の法則」と題して、すごい確率で起こる話をしたいと思う。

2日前に、人生で初めて出会ったアメリカ人の女の子から15年ぶり位にfacebookを通じて連絡

がきた。

それだけでもびっくりしたけど、わたしをさらに驚かせたのは彼女の誕生日だった。

今彼女は旦那さんの仕事の関係で東京に住んでいて、いつの間にか二人のママになっていた。

それだけでも驚きだったけど、facebookの彼女のページにあった誕生日にさらに度肝を抜かれた。

彼女の誕生日は、父母の結婚(式)記念日で、ひとりのいとこの誕生日で、さらに母方の祖父の

命日と重なっている。

365日もある中で、こんなにもいくつもの日が重なるのもめずらしい。

彼女が初めてじゃない。

こういうケースが実は他にもある。

わたしには2人妹がいるけれど、そのうちの1人の誕生日にもすごい共通点がある。

わたしは妹含めて3人同じ誕生日の人に出会っている。

しかもかなり濃密な人間関係の人ばかりだ。

そして、なんとその3人(+1人)と、妹の名前の漢字の一文字が共通している。

3人目の人は、まさかと思って聞いたら、その人ではなくその人の妻が妹と全く同じ漢字の同じ

名前であることが判明した。

妹をはさんで、10歳以上ずつそれぞれの人は離れてるから、世代が全然違うのに同じ漢字という

のが本当にびっくりな事実だった。

去年は、派遣ですごくお世話になった方が母と同じ誕生日だった。

今やりとりはないけれど、もう1人、過去にとてもお世話になった人も母と同じ誕生日だった。

父ともう一人の妹の誕生日と同じ人にはまだ出会ってないけど、もういつ出会ってもおかしくないと

思う。

あとは、親しくする間柄の人同士が、同じ誕生日とか1日違いなんていうのも、

それはもう数え切れないぐらいたくさんある。

予め、○月○日生まれの人と仲良くなりますよ~、と決められたかのごとく、

とにかくかなり踏み込んだ関係の人たちは何らかの誕生日の法則めいたものが働く。

追記:冒頭に登場したアメリカ人の彼女。これまでの15年を一緒にざっくりと振り返ったら、

なんと3つの同じ地点で同時期に住むなり訪ねるなりしていたことが判明!

2015年5月13日水曜日

卵サンドと塩分

今朝ゆで卵を作って、卵サンドをこしらえた。

味付けはシンプルにマヨネーズと塩だけ。

基本、こってりな味付けが好きだから、けっこうな量のマヨネーズを使った。

マヨネーズは申し分なかったけど、食べてみて少し塩が足りないことに気付いた。

今日はそのまま食べたけど、ふと市販の卵サンドの塩分はいかほどなものかと考えた。

わたしは健康にきちんと気を使うタイプでもないし、○○主義みたいな健康志向も目指してはない。

だけど、あの市販されてる卵サンドは、一体どれだけの塩を足すとあれだけの濃さを

出せるのだろう・・・と思ったら怖ろしくなった。

相当な量を使わないと、少なくともわたしが今日使用した量の倍近い量は使わないと再現

できない気がする。

昨日の夜も似たようなことがあった。

ごはんを食べたのにやたらとおなかが空いて、罪悪感を感じずに空腹を満たせるもの・・・と思い、

こんにゃくを甘辛く煮た。

たまには新しいレシピでも試そうかと思い、クックパッドで大人気のレシピを参考に作ってみた。

いつだったか、料理が得意な人が「クックパッドの人気レシピは、人気でもあたりはずれがある」

と言っていたことを思い出した。

要は、昨日のレシピははずれだった。

めずらしく、調味料の分量を計った(←こんなこと滅多にない)。

本当は大さじ2ずつの指示が出ていたけど、大さじ1の時点で多いと思って大さじ1強にした。

こんにゃくの厚さや枚数も守った。

むしろ、レシピより厚いし、幅の広いこんにゃくだったから同じ枚数でも量は多かったと思う。

そして調味料は減らした。

にも関わらず、間違えたかと思うほどの濃い味付けだった。

本当に驚きの濃さだった。

「しょっぱい」という言葉がぴったりな、味だった。

こんにゃくを甘辛く煮るのにしょっぱいとは、実に初めての体験だった。

わたしが薄味好みということではないと思う。

でも、レシピ発案者が分量を書き違えたとしか思えない濃さで、とにかく驚いた。

わたしはジャンクフードも好きだし、相当味が濃くない限り気にならないたちだったけど、

昨日のこんにゃくと言い、今日思い起こした市販の卵サンドと言い、とにかくあの濃さを出す

調味料の量を思い浮かべるとぞぞぞっとする(苦笑)。

こういう時、普段ごはんを作る習慣があって良かったと思う。

作るからこそ調味料をどれだけ使っているのか、自分でわかる。

その基準があるから、市販のものの味付けに関して「どれ位使ってるんだろう・・・」と想像できる。

2015年5月12日火曜日

真実を見る目

今週、久しぶりにセミナーに足を運ぶ。

講演会ではなく、セミナーに行くのは2年3年ぶりになるかと思う。

セミナーの告知自体は1ヶ月程前からあり、すぐに満席。

その頃は、もっと純粋にセミナーで語られるだろう内容に興味を持って申し込んだ。

具体的な手法の名前はわからないけど、最近はセミナーの案内を出す前に何本か無料動画配信

をして、視聴者(=セミナーの参加者候補)にある一定の利益を主催者側が先に渡す、

それを数回繰り返してから最終的に本セミナーの案内を出す方法が取られている。

勿論、本セミナーの参加・不参加は各自の選択に委ねられている。

紛(まが)い物も沢山出回っているから、かなり気をつけて見る必要はあるけれど、

無料動画の部分も通常であれば有料でも構わない内容のものを提示する個人・団体もいて、

開いてみないことにはわからない。

そんな経緯で申し込んだ今回のセミナーだった。

今回はかなりな本数が配信されたけど、途中から違和感満載過ぎて今では申し込まなければ

良かったとすら思っている。

ちなみに、内容はコーチング系統×マーケティング系統を掛け合わせたようなものだ。

今回は2人の人が共同開催という形を取っている。

元々、コーチング系の人の考え方や実践方法が好きで、ずっとメルマガを取っていた。

わたしはその人のしていること、実践の軸になっているものに興味があって申し込んだ。

ところが、マーケティング部門の人というのが、全く真逆の発想で動いている。

この人は、お金を儲けることや自分にお金を払ってくれそうな人脈にしか興味がなさそうだ。

わたしの主観だから実際はわからないけど、でも「お金ください」にしか見えない。

そして、どうしてそんな人と今回組むのか、不思議でならない。

動画では前者が実践的な内容を話す時間が圧倒的に多いから、

申込の時点では気付けなかった。

後半に差し掛かり、後者も前に出てくるようになってから、これは違う風が吹いてると認識した。

セミナーはこれからだけど、良い部分だけをもらってきて、不要なものは受け取らないでいいなぁと

思って、とりあえずお金もったいなさに行ってくる(前払い制)。
(※変な誤解を招くと嫌なので言うと、参加費は飲み会1回分くらいです)

ふと、昔参加したことのあるセミナーの先生のホームページをさっき開いて見た。

一生こんなすごい人にはお目にかかれない、という位の実践者で実力者だった。

ホームページを見て驚いた。

紙の名刺、あれがデジタル版になっただけのものだった。

書いてあるのは、名前や住所、電話番号、職業のみ。

あとは、サービスについては「紹介制」とあった。

それだけがぺろ~んと1枚のページに書かれていて、それ以上メニューも何もなかった。

前はメニューとあと挨拶程度のものはあったけど、それすらもなくなっていた。

この方は言葉なんてなくても、百のものを伝える力のある人だ。

それを見た時に、今回のセミナーで何を見てくるのか楽しみになった。

良いとわたしが思っているものと、別の意図が働いたもの、その2つが融合しているものには

そうそうお目にかかれない。

そこで自分が見て感じることが、もっと明確になるだろう。

どうしてか気になって目にした名刺のような別の方のホームページも、ヒントになっている。

すべてはわたしの主観だし、わたしの価値観が軸になっている。

色々見誤ることはあるけれど、「何か違う」と感じるものに関しては、100%と言ってもいい位に、

はずれがない。

「何か違う」は最初はあまりに小さくて、たいがいわたしは見過ごす。

感じたくせに、一瞬すぎて忘れてしまう。

そして、事が動き始めて「何か違う」がもう少しわかりやすく出ると、百発百中変なものを見る。

それで「あぁ、そういえば最初こんな風に思っていた」という小さなサインを思い出す。

今回は会場で何を見てくるのか、ある程度は想像できるけど、

おそらくそれ以上だろうと思っている。

2015年5月11日月曜日

メールの断捨離

さっきe-mailの方のメールを100通削除した。

この数ヶ月で色んなメルマガを取ったまでは良かったけど、もう自分で処理しきれなくなっていた。

5月に入ってから2つメルマガを解除して、かなりすっきりとした。

そのうちの1つは、なんと朝晩と1日2通もメルマガが来る仕組みで、心底うんざりしていた。

申し込んだ時は、まさかそんな頻度でくるとは思ってなかったからびっくりした。

そして気付くと、発行者の言葉使いも好きではないと気付き、余計と嫌になっていた。

なかなか配信停止の手続きを踏まなかったのは、今のわたしに必要な情報だと思ったから。

今も必要なのは同じだけど、あの手に負えない数のメール数や言葉使いの不快度の方が、

いつの間にか上回っていたからだから配信停止の手続きをささっと踏んだ。

不快な感じは、必要性よりもわたしに訴える力が強い。

ストレス削減のためにも、情報はあきらめた。

さらに気付いたのは、情報がなくても何ら困っていない自分だった。

情報に関して言えば、わたしの場合は、「受け取る」方式よりも従来の「自ら探す」方式の方が

合ってる感じがする。

受け取るのは、受け取ってから取捨選択すればいいけれど、但し「受け取る」手間がある。

自ら探す方式は本当に自分に必要な情報しか受け取らない流れになってるから、

そちらの方がなんとなく性に合ってるし、気持ちが楽ちんだ。


今回何年振りかにメールの断捨離をしてみて、このバーチャルな世界にしか存在しない

メールというものが、実際に削除してみると「すっきりする」ことに心底驚いた。

家の中にある「物」は、目に見えてすっきり感が伝わるけど、メールは違うだろうと思っていた。

普段からe-mailに関して言えば、不要なメールはその場ですぐ削除するからあまり溜まらない。

断捨離の本で、メールなんかも処理することを勧められるけど、削除するものがなかった。

だから、本当に今回久しぶりの大型削除になった。

目に見えるものでもないし、バーチャルのポストを開けない限り存在しないメール。

されど、気付かぬうちに結構な負担になっていたんだと今回わかった。

2015年5月10日日曜日

反面教師

ショックなニュースが飛び込んできた。

過去にとてもお世話になった方がいる。

この方を、ある人で「Rさん」とここでは呼ぶ。

Rさんの活躍を伝えるニュースで、ニュースそのものはめでたい。

そしてニュースを自分の目で読んだ時に、めでたいものから一気にショックへと変わった。

Rさんのニュースは、知らない人が読んだら本当に素晴らしい。

わたしは内実を色々知っている。

Rさんが今のRさんの位置にまで昇るのに、Rさんをものすごい助けた人がいる。

影の功労者のような人だ。

この影の功労者の人ともわたしは親しくしているし、その人のこともとってもよく知っている。

その人が踏み台となってRさんの功績は記事になっていた。

しかも、その功労者は存在すら語られないだけではなく、

なんとRさんの功績を誉めたたえる文章の中で、影の功労者のことが叩かれていた。

内実を知らない人が読んだら、何も引っ掛からずに読める内容になっている。

でも、内実を知る人が読んだら、もう言葉がない。

3年前、Rさんに違和感を感じて以来、Rさんには会っていない。

小さな違和感だったけど、それまでお世話になったことよりもその違和感をわたしは優先させた。

まさかその違和感が、3年越しにこんな風に形を変えて、ニュースとして耳に飛び込んでくるとは。

Rさんにしてもらった数々のことは、今でもものすごく感謝している。

Rさんなくしては、今の自分の状態になれなかったから。

Rさんから教えてもらったことは、わたしが一生使えるものばかりだった。

そして、これを他の人にも伝えると、感謝されるような本当に良いものだ。

Rさんから習ったことを他の人たちに伝えて、その人たちの人生が良い方向に行ったケースも

いくつもある。

それぐらいすごい影響力の強いものだ。

Rさんからいただいたもの、それはこれからも自分の中では大切なものとして残っていくだろう。

だけど、今のRさんの姿は、姿勢は、一人の人間としてわたしには受け入れられない。

残念だけど、反面教師のようにしか見えない。

こんな方法でやってくるとは思わなかったけど、おかげで自分はどうやって自己表現したいのか、

自分の中で絶対に守り抜きたいもの、そんなものがとてもはっきりとした。

2015年5月9日土曜日

最近感動した店員さんの対応

先日、高速道路のサービスエリアで木製のフォークを買った。

ここ1年位木製のフォークを探してはいたけど、なかなかぴったりくる形のものがなかった。

刺す部分が写真のように、細くてまっすぐなタイプの木製フォークは今回初めて出会った。


10本以上売場には置かれていたけど、ここまで細くてまっすぐなものは他になく、

とりあえず1本だけ購入することにした(他のは、もう少し丸みを帯びていた)。

それをレジに持って行く。

当然サービスエリアのレジなので、売場の8割はおみやげや飲み物なんかの食料品。

民芸品売場にあったこのフォークなんか、売場の1%程度の面積でしかなかった。

レジの女性の方が会計と品物を袋に入れる作業をしながら、

「お客様、こちらのフォークですが、普通に洗われるのは大丈夫ですが食洗機でのご使用は

傷む可能性がありますので、お気をつけください」

と笑顔で目を見ながら伝えてくれた。

もしかしたらそのサービスエリアでは、木製品を購入する人にはそのように伝えるよう、

事前に指導されているのかもしれない。

真相は不明だけど、わたしはこれまで木製品の食器やスプーンを購入してもこんな風に

説明されたのは初めてだったし、ちょっとした一声でしかなくてもその気遣いがとても嬉しかった。

しかも、その店員さんというのが、マニュアルで話すと言うよりも、本当にユーザー目線に合わせて

話をしてくれる感じがさらに良かった。

商品も気に入っているけど、その店員さんが対応してくれたことの方がもっと気に入っている。


これと似たような体験を1ヶ月程前の美容院でも体験している。

縮毛矯正という髪の毛をまっすぐにするパーマのようなものをあてた。

施術を始める前に、担当の美容師さんが今回のパーマの特徴をあますことなく説明してくれた。

わたしがどの程度のストレートを求めるかで、これから施すタイプのものがマッチするかどうか、

きちんとわたしに確認しながら話を進めていた。

美容師さんの方から、強いタイプのものではないので、すごいまっすぐであるとか、

長持ちすることを求めてもその期待には応えられないタイプであるという説明も真摯にしてくれた。

その上で、かけますか?と再確認してくれた。

裏を読めば、クレーム防止なのかもしれないけど、わたしはメリットと同じようにデメリットも

きちんと説明してくれたことが逆に安心で、最悪予後の経過が良くなくても縛ればいいと、

あっさりとそのデメリットの可能性を受け止めることができた。

実際に今、多分このことを言っているのだろうなぁという髪の毛の状態にはなったけど、

別段困っていもいないし、そしてあの時予め色んな可能性を伝えてもらったおかげで

気にもならない。

もし、あの時美容師さんがデメリットを説明してくれなかったら、今の状態は逆に気になったと思う。

対応1つで、こんなにも気分良く過ごさせてもらえることにただただ感謝の念が湧くばかりだ。

2015年5月7日木曜日

営業45年一筋の教え

父の主たる仕事は「営業」。

営業と言えども、小さな会社の一社員だから、営業以外の企画やカスタマーサポート、現場管理、

営業事務等々、多岐に渡って仕事をしている。

とりあえず表向きの仕事は「営業」。

たしか3年前、父の勤めている会社は新入社員を20年?ぶり位に採用した。

中途ではなく、本物の新卒新入社員だ。

そのうちの1人O君を父はこと懸命に育てている。

いつまで働くのかわからない父。

働いたとしても、それはもう指で数えられるぐらいの年数だろう。

その45年近く現場一筋でやってきた父が、自分の持ってるすべてをO君にできるだけ伝えたい、

といつか話していた。

O君は父から見て筋が良いとのことで、何が良いかってとにかく言われたことは試す姿勢。

父の職場は、日常茶飯事のレベルで無茶苦茶な仕事が入って、しょっちゅう予定が狂うらしい。

元々抱えていた仕事にプラスアルファがくる。

それらを受けるなり断るなりして、裁き采配し形にする、一朝一夕にはできないことだと思う。

O君は父によく聞くらしいけど、とにかく聞いたことは自分で試して、後日実際の結果を報告し、

改善点が必要であればさらに質問してくるのだと言う。

そんなこんなのバイタリティ溢れる青年に関し、父は嬉しそうにわたしに話をしてくる。


紹介が長くなったけど、その父がO君入社時に伝えたことが3つある。

酒が入ると何回も同じ話をする父なので、わたしは暗誦できる位になってしまった。

O君も営業職での採用だったけど、その3つの教えってどんな仕事にも通じることだと思う。


1:わからないことはすぐに質問する。

2:家庭のことは仕事に持ち込まない。仕事のことは家庭に持ち込まない。

3:何かあったらすぐに報告する。悪いことは絶対に隠すな。


この3つだけを守って仕事していけばいい、とそれだけを言ったらしい。

ちなみに、父は仕事でどんなに大変なことがあっても絶対にそれを家では出さない人だ。

面白おかしい話や、職場の人の幸不幸の話はするけど、それ以外は一切持ち込まない。

職人気質のような父だけど、それらを守ってくれたからこそ家庭内の平和もあったのかなと思う。

わからないことはすぐに質問することも、何かやらかしたり起こったりした時の報告も、

組織で働いている以上は絶対に必要不可欠だ。

必要不可欠だけど、どうしてもそれを積極的に人はやりたがらない。

まして父の働いている会社なんかは昭和と言わず、明治時代のような古い体質の会社で、

余計とそれらを難しくしている風だ。

だからこそ、その質問と報告を絶対にやれ、と言ったらしい。

O君は、その2つをしっかり守ってやっているようで、それがさらに父の教育熱を加速させている。


関係ないけど、普段こんなことをブログに残そうなんて思わない。

ただ、今回は何度も何度も聞くこの話、書き残しておかないといつか忘れると思ったから。

そしてなんとなく残したかったから。

酒が入って饒舌になる父は時に面倒でもあるけれど、自分が年を重ね当然父も年を重ねていく

うちに、この瞬間をあと何回迎えられるんだろうと思う。

わたしの想像や期待以上に回数は多いかもしれないけれど、そのラッキーを期待するのではなく、

今思いついたら今のこの時に残しておこう、そんな風に今回思った。