2018年8月30日木曜日

Love for you,Love for us!

Love for you,Love for us!
セリーヌディオンが挨拶として言った言葉。
直訳すると恥ずかしいから「あなたに乾杯、私たちに乾杯」と訳したくなる。
もちろん「あなたに愛を!私たちに愛を!」が正しい。


あと5分でバス停に到着するというアナウンスと共に車内の電気が灯された。
通路挟んで隣りの女の人の裸足の足の裏が見えた。
それ見て泣きそうになった。
この人の足の裏が「私生きてますよ」と言ってるみたいで、そのどこの誰かも知らない人の命が突然愛おしくなる。
立った若い男の子の青いTシャツに大きく「OK」と描かれていた。


高速道路から地上に降りるための階段を降り終わる頃、会ったこともないどこかの誰かがもう成人していることに気付いた。
血の味がしたあの日、赤ちゃん用の生活道具を見た。
あれから23年。
あの頃その道具の使い手は、今生きていたら23歳以上になってる。
もう血の味の主も会ったことのないその赤ん坊もすべて時効成立で、自分の中で消化されてることに気付いた。


気付いた直後空を見上げたら、オリオン座が出ていた。
8月のオリオン座。
季節は冬に向かって動いてる。
そしてオリオン座は見るたびに太平洋の海の上で見た飛行機の窓と同じ高さの位置にあったオリオン座を思い出す。
その時のオリオン座を見てばばちゃんに呼びかけた。
ばばちゃん、今私のすぐ近くにいますか、と。


帰りもトンネル工事をしていた。
夜間だけに限定してする工事らしい。
私1人を通すためだけにトンネル前に誘導の人、そしてトンネルの反対側から誘導車を運転する人が配置されていた。
日本全国のたった1つの小さな小さなスポット、そこを通るためだけに色んな人が真夜中に働いていることにとても感動した。
トンネルの中で車の走行距離の下3桁が「888」に変わった。
それを見た瞬間、ドレミの歌、あの「ドはドーナツのド」みたいに、「8(はち)はハッピーのは」と出てきた。
私が目にしたもの、思い出したものは、すべてハッピーだった。
苦い思い出さえもそのハッピーに華を添えてるように感じたほどだった。
やけに命がリアルだった。
心がブレないうちに書いたことと888のハッピーが重なったことを重ねながら、やっぱり8はハッピーのはだと思った。
命あっての瞬間、命に巡り逢えた奇跡なくしては、言葉としてさえも語られることのないものだった。
めぐり逢いは「巡り愛」だと脳内変換をした。
すべてが尊かった。
そしてすべてが愛おしいと感じた。


今回は趣向を変えて、朝池袋ではなく東京駅で降りた。
皇居の周りを少しだけ歩いたけれど、疲れてすぐに引き返した。
東京駅に戻った。
あの東京駅の象徴のレンガ調の建物の前にいた。
改修工事がなされたから雰囲気が変わっていてそことは言い切れなかったけれど、多分ここだという出口の前に立った。
16歳の時に、その時の色んなことが嫌になって私は夜の新幹線に飛び乗った。
それが血の味に繋がって、そこから逃げた。
始業式の前日で、真冬の寒い中、私はホームレスの人たちと距離を置きながらあのレンガ調の建物の外、屋根の真下で一晩過ごした。
寒いことよりも怖さや心許なさが強かったと思う。


東京駅前の大丸デパートの催事場で銀河鉄道999の作者の方の画展が開かれていた。
私はそこに行って、銀河鉄道999の絵とレンガ調の東京駅の建物がコラボした絵のクリアケースを見つけた。
それを見た時に、新しい記憶を作れると思った。
夜を背景にしたその東京駅の絵は、見てるだけで癒された。
漫画は名前だけで中身はよく知らないけれど、東京駅での真冬の空の下、一晩を過ごしたあの日とは違う風景を絵からもらえそうだった。
それを買って、急いでホロスコープの講座がある銀座へ向かった。


「付き合わせたのに、結局サイコロなくて運がなかったですね。ごめんなさいね」
そうYさんは申し訳なさそうに私に言った。
ホロスコープの宿題に使う特殊なサイコロが東急ハンズに売ってると前情報を得て、講座の後、Yさんと私は有楽町の東急ハンズに行った。
ところが丁度店舗全体でセールをしていて、店の人いわく今日までサイコロを奥の倉庫の方にしまっていてないとのこと。
そのまま私は有楽町線の有楽町駅までYさんに送ってもらった。
Yさんはクラスメートであと2年後に還暦を迎えるとのこと。
普段は大口顧客の資産運用に携わる仕事をされてて億単位のお金を動かしてるらしい。
今回講座の後、2回目以降毎回クラスメートの誰かしらから帰りの駅までエスコートしてもらっている。
そしてその時にその人だけの人生模様の話を聞く。
私はサイコロがなかったことはどうでも良かった。
それよりも色々あてが外れてYさんと思いの外長く時間を過ごせるようになったことの方に意味を感じていたし、楽しい時間だった。
講座を受けなければ絶対に知り合えなかった人たちばかりで、私は毎回少しずつその人たちから時間をもらってる。
その不思議さと人生交差点のようなすごい瞬間に居合わせて、毎回何か特別な風が自分の中に吹く。


池袋の駅前の交番の前でヒーラーのOさんと待ち合わせをした。
「Oさん、遅れてすみません」
「いえいえ」
「じゃあ約束の通り、今日はジョナサンでいいですか?」
「はい」
「あっちの店舗は私も行ったことないのでどんなか知らないですけれど、まぁ前回と同じ感じだと思うので…」
「俺ジョナサンのその店行ったことないし、前回も行ってないです」
「?」
Oさんは何を言ってるんだろうと思った。
前回私たちはジョナサンに行ったんじゃないのかと思った。
そして前回も髪型が変わったとは思ったけれど、今回も髪型がまた変わってメガネも外してイメチェンしたんだと思った。
そうしたらなんとOさんではない全くの別人に私は話しかけていて、当のOさんはそこから人1人分の距離を置いたすぐ真横に立っていた。
その人とOさんは背格好も体格も年齢もとても似ていた。
よく見たら別人とわかるけれども、しかも勘違いされた男の人も超笑顔で気さくに対応するもんだから、私も気付かずにいた。
その人にまずは勘違いしたことを平謝りし、その後Oさんにも平謝りした。
顔を忘れたわけではなくて、本気の勘違いをしてたことを説明した。
Oさんは全く気にもせずにいてくれた。


Oさんは春先ぐらいに第一子が生まれて、最近退院できたとのこと。
Oさんに名前やその由来を聞きつつ、平均してその疾患を持って生まれた子の場合、寿命が1年以下と短命であることも教えてもらった。
どのぐらいの生命力を発揮するかは知らないし全ては未知数だけれど、特殊な生き方になることは明白だった。
そんな中時間を分けてもらうのが非常に申し訳なく大丈夫なのかと聞いた時、それはそれだしこの時間はこの時間で僕には必要だと言ってもらえた時に胸をなでおろした。
Oさんはヒーラーや父親である前に1人の人間なんだとわかった。
役割は確かにある。
だけれど、役割を付ける前に普通の1人の人間で、そして色んなことを体験する。


Oさん自身の話を聞きながら、私は自分が癒されていくのがわかった。
私の目の前で何か自分の話をする男性たちはみんな何かを抱えている。
何もその人たちだけが特別だとは思わない。
みんな多かれ少なかれ、自分が言えないと感じてしまうことは持っている。
その枠からはみ出したとそれぞれの人たちが感じる、限りなく黒の闇の部分をポツリポツリと話してくれる。
冷静になると、私も私で何を聞いてるんだろうと思うけれど、ふといくつかの瞬間に感じた時の感覚を思い出した。
その時、私はすごいことに気付いた。
男の人たちから女性とのパートナーシップやそれ関連の話を聞くと、私の場合、癒しが起きる。
話はどこをどう見ても明るさは皆無だし黒歴史的なにおいが立ち込めているけれど、それでも私は確実に自分の方が癒される。
自分が「男」という人たちにいつの間にか抱いた怖さが薄らぐ。
老若男女問わず今は誰とでも大概は話せるけれど、基本的に私は男の人たちを怖いと思っているし、見えない壁を知らぬ間に作って自分の防御をしていることも知っている。
そうなる理由はもちろん色々あるし、そういう自分を認識できたのもここ数年の話。
男の人たちが自分のダークな部分を語る時、私は目の前の人が「男」から「1人の人間」に変わる瞬間を自分の中で感じる。
内容ははっきり言って何でも良くて、私にとって大事なのはその相手のダーク開示により自分の中の負の塊が溶かされていくことにある。


高速バス誘導の係の女性の顔を見た。
夜の遅い時間にとても生き生きと仕事をされてる様が印象的だった。
とりあえず、書かなきゃいけないと思った。
心がブレないうちに、自分への戒めを込めて書いてしまおうと決めた。


バスを降りる直前に、人と人とが出逢うその圧倒的な凄さを感じて涙が出た。
40歳近い私よりも死期が近いだろう小さな赤ちゃんもいれば、還暦を間近に控えた女性もいる。
馬が使う道具を作る人もいれば、大学教授の先生たちの論文を編集する人もいる。
僕はこのキッチンの道具を売ることが専門でサイコロの場所は知らないんです、と言った東急ハンズのおじさんもいた。
何で人と人とは出逢うんだろうと思う。
究極、人がいない方が孤独も感じなくて済むし、傷も互いに作り合わなくてよくなる。
血の味とか、癒されない過去の何かとか、そんなのも全部なくなる。
それでも人と人とは出逢うし、どういう因果なのか、人生のあるタイミングに来ればその時に必要な人たちと引き合わせてもらえる。
私の通路挟んで隣りの女性のことは知らない。
知ったのは彼女の足の裏とそこから感じる命だけだった。
そしてその足裏が見えた時の静かな生のアピールはすごかった。
生きている限り無傷ではいられないし、出逢いと同じように別れも訪れる。
Love for you,Love for us !
愛を感じたくて人と人とが出逢ってるとしか思えなかった。
だって、傷を唯一超えられるのは、孤独や拒否ではなく、愛だけだと思うから。
そして愛を出し合ったり感じ合ったりするのは、この命がある今だけできること、今しか体現できないことだと思うから。
人は成長したり豊かになることが目的で生きているのではないと思う。
究極は愛を感じたり愛を誰かにあげたくて生きてる姿が本当の人生のミッションなのかもしれない。
でもそれって本当に怖さや傷と表裏一体で、それらを引き受けなくて済むように先に自分から退路を作る。
本当は愛したいし愛されたいはずなのに、傷や怖さが邪魔をする。
時にそこをグッと超える瞬間がある。
超えてまで出逢う人たちがいる。
痛みや傷が生じる未来が見え隠れしていたとしても、出逢ってしまう人たちがいる。
♪Love Love 愛を叫ぼう 愛を呼ぼう♪
ドリカムの歌詞が今すごい力のある言葉だと気付く。
愛を叫ぶ…愛するで、愛を呼ぶ…愛される、ってことなのかなと思った。
セリーヌディオンが何事もないように、普通に口にした言葉。
Love for you,Love for us!
私はLove for you,Love for us!を体現できる自分になりたいと思った。
隣りの見知らぬ女性の足の裏を見てたら涙が出るぐらいに、会ったことのない赤ちゃんの今を想像して「時効成立」と思えたみたいに、色々怖くてたまらない自分の心の中は相変わらずでも、それでも生きるのはそれを体現したくて体感したくてたまらない自分が同時にいるからだと思う。

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