2018年8月15日水曜日

看板の文字〜夜の高速道路〜

数ヶ月ぶりに高速道路を運転した。

しかも私は今日その予定はなかった。

終わってみると全て必要があって見てきた風景だと気付く。

今度改めてアップしたいと思うけれど、私が今日一番感動した言葉はこうだった。

「史子と純(仮名)だけは俺に懐かなかった」

これは母の妹の旦那さん、私にしたら義理のおじさんの1人にあたる、還暦前のおじさんに言われた。

純ちゃんはいとこのお兄ちゃん。

私たちいとこはみんなでそのおじさんをあだ名で呼ぶ。

小学校1年生か2年生の時からの付き合いのおじさん。

私からすると、数少ない心は多少開いた大人。

甘え下手な自分が少しだけ甘えられて、少しだけワガママや思ったことを言えた大人。

私の中では相当がんばって甘えて相当がんばって自分を出してたつもりだった。

それでもおじさんは私を「なつかない子ども」として見ていた。

そう、ありのままの私を見てくれていて、さぞかし扱いづらい子どもだったことは想像できるけれど、それでもおじさんは他の義理の姪っ子や甥っ子と変わらずに私と接してた。

ありがたかった。

そんなこと今の今まで知らずにいた。

無理しまくり、自分を押し殺してた子ども時代、そんな風にそのままの私を見てくれてた大人がいたとは、想像さえしていなかった。

単純にとっても嬉しかった。

なついてない私もなついてる妹たちやいとこたちも全く同じようにしてくれてたと知って、ものすごく嬉しかった。

私は自分の子どもの頃からの癖も特技も人間模様も、全部一気に見てきた。

毒出し後半戦(と勝手に思っている)に相応しい時間だった。



120キロ近い帰路を私が運転した。

高速道路に通行止めの案内が出ていた。

地名を見てもどこからどこなのかさっぱりわからなかった。

だけど、そんなことはどうでも良かった。

そのどこの県なのかもわからない地名には、私がこの1年何度も何度も目にした名前が含まれていた。

心の中の毒出しと、1年という時間の重みとで、しばらく私は色んなことがそれどころではなくなった。

幻のような姿と時間を前に、私はもうこのまま何も交わらずその人の全くいない世界をこれからは生きていくんだと思っていた。

今も思っている。

あきらめに悲しみにやるせなさに、もうこれ以上苦しくならないならこのまま終わりが正解だと感じ始めてた。

毒出しも強烈過ぎて、自分の中の混沌とした世界にその人がいることの方が無理だと感じた。

むしろ今の状況の方が無理がなくて自然なんだと、悲しくなりながらも受け入れることをひっそりと始めた。

無理がないと言うのは、私の日々の生活の中にその人がいないこと。

見える形での繋がりがないということを、それが一番自然でなるべくしてなった結果だと思うことが増えた。

そんなこんなの色んなことが重なった矢先に見た名前だった。

驚きつつ、このタイミングだったおかげで、喜んでいる自分がいた。

名前が存在が私にとって幻的なものに変わったとしても、とにかくこの瞬間を切り取った時に紛れ込んでたとするなら、それでいいと思えた。

何のアピールなのか、3回も同じ案内を多分20キロおきぐらいに見た。

何1つ関係なんかなくて、もしかしたら間違いで起こった予定外の出逢いだったのかもしれない。

それでも今のこのタイミングで現れてくれたことはありがたかった。

予定にもなかった母方の実家への帰省は当初全く気が進まなかった。

今も行ったことが気持ちを明るくしたかと言われたら、そうだったとは言い切れない自分がいる。

今さら何ももう自分を説明する言葉を持っていなかった私は、裸みたいなものだった。

そうした時に、私は初めて自分の立ち位置が見えた。

世代を超えて脈々と受け継がれているもの、そして自分がどうしてこの親族のところに生まれて、さらには何を役割みたいな形で持ってきているのかも肌で感じた。

自分のことはまだまだダメだけれど、こと他人となると私は突然違う視点から物事を眺める癖がある。

その視点には、善悪や世の中の常識、正しさは存在しない。

代わりに、否定したくなるようなことの裏側にあるメッセージみたいなものに気付く。

世代を超えてでも引き継がれてきた家系的なテーマが見えた。

見えたというのは、見る必要気付く必要があったということも徐々に受け入れ始めてる。

嫌だけれど、仕方ない。

今は嫌でも、いずれとても意味の深いものに変わることもなんとなく想像できる。

手段や方法なんて知らなくても、多分そう。

まだまだ受け入れていない自分が9割以上を占めている。

気のせいであって欲しいとさえ思っている。

そんな色んな気持ちを混ぜこぜにしながら運転した高速道路だった。

毒出しも疲れたし、自分が今色々気付いていることも明るいことではない。

むしろ手放せるのなら手放したいぐらい。

そんなナイーブな気持ちをいくつも抱えていた時に、突如と現れたどこぞの地名で、そして特別な意味を持っている名前だった。

会えるから・目に見える形があるから意味があって、その反対に何もないから意味もないとするのは何だか違う気がした。

そこにすがる気もない。

期待もかなり捨てた。

全部捨てたと言うと嘘みたいだから、そう思い込まないように気をつけてる。

幻のような感覚は多分誰に対してもうまく説明できない。

だけど、夜高速道路で見た電光掲示板にその人の名前を見つけた時、それに反応した自分がいて、そして少なからず喜んでいる自分がいる。

もうそれでいいのかもしれない、そう思った。

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