2018年8月20日月曜日

過去の自分からのヒント

ホロスコープの調べ物の関係で、2012年の10月〜15年9月の間、そして2016年年末〜17年にかけての出来事やその時自分がどんなことを思っていたかをを調べていた。

前半は日記もそこそこ書いていたし、色んな心理ワークの記録もあったしで、結構な収穫を得た。

ブログにも手を伸ばせば、多分もっと情報を引き出せると思うけれど、ノートや日記帳を見るだけでもかなりな量だったから止めた。

ちなみにそこは、おおよそ
・心のケア
・自分との付き合い方
・書くこと
・自己表現
のことがテーマとしてかなり色々書いてあった。

ところが16年の年末から17年の夏の途中まで、ビックリするぐらい記録がなかった。

その頃ついに手帳も手放し、家計簿もやめ、ブログは無期休止、心理ワーク実施回数はゼロ、月に1回日記を書くか書かないかという状態だった。

日記に至っては、16年の12月31日の後書いたのが17年2月27日と約2ヶ月空白の期間がある。

その後も月に1回書くこと夏までその状態が続いた。

テレビも見ない私が日々暇な時間何をしていたのかさっぱりわからないけれど、当時本当に穏やかな日々だったことは間違いない。

私がやたらと日記やノートに記録を残す時なんていうのは、大体においてそれをしないと自分がもたないからだったりする。

ここ半月は自分の内面ばかりをツラツラと書いていて、“うげー(~_~;)”って感じではあるけれど、今回調べてわかったのは、そうした記録こそ大切だから出来事や気持ちはなるべく箇条書きでもいいから残そうと思った。

私は過去ばかり調べまくっているけれど、ホロスコープは未来予測にも使える。

占星術家の方たちの中には自分のホロスコープの未来については見ない、と言った気持ちがわかる気がした。

私も少し見てみた。

見方がよくわからなくて、例えば今なんかはそもそも持って生まれた天体に空の天体たちが重なっていてその分影響が出やすいとされている。

でもそれは日々の生活のどの部分を指すのか私にはさっぱりわからない。

その他にも1年ごとのテーマやこの1ヶ月の間にあった日食と月食の影響とか、もう見ようと思えば色んな切り口がありすぎて、見ていて疲れた。

だから私は未来予測の方は興味があってホロスコープを作っても、細かくは見ない。

見たところでよくわからないし、ピンポイントで気になるところだけ調べても「?」となる。

今現在の方がなんとなくしっくりくるから、調べても今の時ぐらい。

ちなみに今は「今ある自分からの脱皮」の時らしい。

たしかに、そこで「リーダーシップを発揮する」とか「美的なものを日々の生活に取り入れる」とか「円滑なコミュニケーションを手にする」なんてなってもわからないから、その今のテーマはなるほどなぁと思った(そのうち時期が変われば想像力やイメージを湧かせる方に行く模様)。

他人様のホロスコープとその人自身の人生がどうなのかは知らないけれど、私のは視点をいくつか持つと常に何かしらの星の影響が強く出ていることになっている。

そんなの調べてもキリがないのと、知らない方が気楽なこともあると知った。

反対に過去を日記帳やノートを使ってまで振り返る理由は、その時の自分しか知り得ない自分がいるから。

そして私はその時の天体の動きと自分の人生が連動しているとわかると安心する。

人生自体は不安定要素満載でも、ホロスコープ通りと言わんばかりの時を過ごしてたとわかるとホッとする。

これで良かったんだなと思える。

今回は、その当時植えた種が何だったのかを知りたかった。

今ざっくりと振り返ると「混沌としていた」という風にしか思い出せない。

だけど、毎日毎日混沌としてたわけじゃないし、色んなことを見失いそうになりながらも何かしら願ったりはしただろうと思った。

日記の中の私は面白かった。

今とそんなに変わらないけれど、本当によく頑張ってたなと感じた。

当時は今ほどにまだ自分を客観的に見るためのツールを持っていなかった。

だから全て体当たりで、さらには合わないやり方をも試していた。

まだまだ自分への不信感も強く、 自分を緩めることも今ほどにはできなかった。

だけれど、その過去の私は本当に本当に大奮闘していて、読みながら良い意味で自分に笑ったり、又は過去の自分から今の自分に向けてエールをもらった。

残しておいて良かった。

でなければ、私の中では「混沌とした時間だったなぁ」の一言で終わってしまう。

ちょっとだけ紹介するとこんな風。

『100%ではない、でも0%でもない。
そんな人生のポジションもあってもいいんだと思う。』

→これは生活のためだけに働き始めた私が書いた言葉だった。

やりたい要素なんて1ミリもなく、それでもやらなきゃ生活できなかったから全く興味もない分野での仕事に就いた。

自分への納得度は限りなくゼロみたいな時に、私は上の言葉を書いていた。

だから今読むとすごく優しく感じる。

『どんな時も日々生きて、
日々泣いたり笑ったりして、
人間をしていた。
十分すぎるほど人間をしていた。』

→33歳最後の日に書いている。

その1年は生き方が大きく変わった年だった。

安定を手放した。

当初の思惑とは大きく違う方に物事は動いた。

今のような流れの原型となるような入り口の年で、相当悩み抜いた。

しかも当時はまだ物事の光の面こそ受け取れても闇の面に向き合えるほどの器がなかった。

だからそこから逃げたくて相当もがいたと思う。

「思う」と言ったのは、今ではどうだったのか思い出せないから。

そんな時に日々生きて日々人間している自分に感動して出てきた言葉だった。

『まとまりなくても、下手っぴでも、書き続けよう。』

‘14年の1月に書いた。

まだまだブログに慣れなくて、外に向けて発信するのが怖かった時。

その時にそんな決断を自分がしてくれてたと思ったら感動した。

書くことだけは本当に続けてきて良かった。

それは私にとって呼吸をするのと一緒ぐらいの位置にある。

ホロスコープではっきりとわかったことだけれど、私は「自己表現」そのものが人生のテーマに含まれている。

ホロスコープでは「自己表現」としかわからなくて、細かな手段までは示されていない。

その手段として私が書くことを選び続けたのは、私にとって一番無理がなくて良い。

そして書くことを省いてしまうと、私にはそこまで表現したい手段がない。

表現したいも何も、今こうして文章を打ち込むように、何も考えず勝手に手が動く、「やろう」なんて思わなくてもやってしまうこと、やれてしまうことは他にない。

その後面白いことを言ってた。

ロボット工学の人から話を聞いた漫画家のおばあちゃんみたいな人が、手に取った雑誌のインタビューで、人間の手の指1本をロボットで作ろうとしたら「数億円かかる」と聞いてきた話をしていた。

それを10本も持っているなら、すごい資産を持ってるわけで、それと自分の表現を組み合わせる話をしていた。

その話がとても印象に残っていて、私は「指1本ン億円、10本分でウン十億円、この指が紡ぎ出す物語はどんなだろう」と新しいブログに対しての想いとして書いていた。

『「違う」ということを私は知っているんだと思った。』

→これは派遣先で仲良くなった人生の大先輩みたいな人から、ある仕事が私に合ってるんじゃないかと言われた時の私の心情だった。

その方の気持ちはとっても嬉しかったし、少なくともその方から見て適性があると思ってもらえたことも光栄だった。

でも私はその仕事には就かなかった。

興味がないから。

「違う」ということを知ってる、なんて普段考えもしないけれど、それを知ってることが私にはとっても嬉しいことだった。

やりたいことがはっきりしなくても、「これ違う」ということだけでもわかるのは大きかった。

こんな風にして、過去の私は色んなことを自由に書いていた。

どれもこれも小さなことばかりだし、色々日々悩みながら書いていたものが多かったけれど、それでも読んでいて面白かった。

すっごく変な言い方に聞こえるかもしれないけれど、私は自分の人生とホロスコープの特徴が合致してるとかなり安心できる。

ここでは長くなるから詳細は書かないけれど、自分の意志や願い、意図とは全く違う方向に流れる自分の人生が私にはどうにも受け入れ難かった。

しかも私は最初、自己啓発やスピリチュアルなものでも願望実現のような類いから入っていったから、余計とそれらと違う方に行く自分の人生がわからなかった。

意図したことは叶わないし、意図もしたことないようなことが現実に現れるしで、何なのかと思っていた。

それは自分をさらに責めることや否定することの材料にはなっても、ちっとも私を楽にはしてくれなかった。

大きな枠にはめてわかった風の人たちが、やり方が悪いとか、何か間違えてるとか、まぁ色々情報はきても、どれもしっくりこない。

そんな中でホロスコープが初めて私に自分の人生の特徴を教えてくれた。

それも、それは私の型を客観的に見ての情報で、そのオリジナルな見方がすごく私に合っていた。

世間で迎合されるような見方はせず、ホロスコープは1人1人全く別のものとして考えるところがすごく好きだった。

そして似たようなパターンに関してはこういう特徴が出やすいよという範囲では伝えてきても、他の要素との組み合わせで各自の人生の特徴は無限大にそして唯一無二の変化をするから、それを大切にしている点も良かった。

私の場合は、その自分の意思とは関係ないところに流れる傾向のある人生だということがわかった。

もちろんこれだって意味があってそうなってると予測できるし、死ぬ時には少なくとも、今「どうして?」と思ってることに対しておおよその答えは手にできると思ってる。

点と点の時はさっぱりわからないものでも、時間と体験を通じてわかる時がくる。

それだけはこの検証癖のおかげでわかってきた。

だから、過去の自分の振り返りというのは私にとってとても大切で、それは今の私に色んなことを教えてくれるプレゼントのようなものだったりする。

これはまだ検証途中だからはっきりとは言えないけれど、多分、真の意味での願望実現や引き寄せという意味では、多分その通りになっている。

はたから見ると「それのどこが⁉︎」となるけれど、私もそう感じることはたくさんあるけれど、多分間違った道には立っていないと思う。

ある1つの目的に向かうという設定があるなら、その設定の条件を満たすためのアイテムを獲得することや、どこかのレベルをクリアしないと次には行けないみたいなゲームをしてるとするなら、おおよそその通りに人生は進んでる気がするようになった。

過去の自分からは適度にヒントをもらって、今は今と、今に近い少しだけ先のことに目を向けたい、そういう気持ちがようやく出てきた。

またその気持ちがいつ引っ込むかも知らないけれど、出ている時にできることは今のうちにしておこう、そう思ってる。

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