2019年2月25日月曜日

奇跡の果実▷ウラ話⦅12⦆色んな話




>>>2019/02/22 夜

25年来の友達へのカミングアウトは上手くいった。

私は少しでも見えるものがあった方がいいかと思って、色々グッズを持ち込んだ。

けれど、グッズはペンジュラム以外不要だった。

開始1分もしないうちに友達から言われた。

「ぶっしー、私大丈夫だよ!
あれ、言わなかったっけ?
うちお姉ちゃんがそういう系の仕事をしているから、私はそういう見えない世界には関わらないけれど、本当に抵抗がないから大丈夫だよ!」

拍子抜けしそうだった。

友達のお姉ちゃんの存在は知っていたけれど、県外にいることや離婚危機になったことぐらいしか知らなくて、それ系の仕事をする人だというのは今回初めて知った。

友達は基本的に興味はないけれど、私が話すことに関しては超真面目にそして興味を持って聞いてくれたし、そして持って行った1冊の本には超食いついて買おうかなとまで言っていたから、私としても大収穫だった。

『未来事典 3年後の私がわかるサビアン占星術』(松村潔・著)という本で、私も超重宝している。

何が収穫だったって、占星術にもスピリチュアルなことにも興味のない友達が、「これ当たっているね」と言いながら写真撮ったぐらいにそこから何かを感じていたこと。

私はどこの宣伝部長か?と言わんばかりに、熱くその本の使い方から一家全員で半永久的に使えること、本の一覧表にはない子どもたちの分に関しては出生時間を教えてくれればどこがスタートか私が教えられること、とにかく色んな使い方ができるから!とあらゆる良いことを語ってきた。

そして、友達と話しながら、占星術に関しては、私は通常の占星術は全くもってセンスがないけれど、この未来事典に使われている「サビアンシンボル」と呼ばれるものは、ホロスコープ鑑定を受ける前から知っていただけあって、自分に合っていることにも気付いた。

サビアンシンボルに関しては、私は本にも他のプロの占術家たちも書いていない独特の読み解き方・使い方ができる。

そして妹2人分のホロスコープ鑑定書を1人当たりワード25枚以上で作った時も、私は実はこのサビアンシンボルの方で妹たちの性格的傾向を把握していた。

上手く言えないけれど、占星術そのものは私は本当にセンスのかけらもないと思う。

自分でわかるけれど、知らない人よりかは読み解けるものの、シンボルたちを見てそれが何を意味しているのか言葉にできない。

こんなにブログ書けるくせして、占星術は丸っきし何も言葉が出てこない。

しかも他人のものはもっと読み解けず、情報は持ってこれるけれど、私が感覚で読むことは相当難しい。

だけど、サビアンシンボルは別で、私はその各シンボルの意味を解説した文を読むと、そこから一気に何かが自分の中で繋がり出す。

パターンも浮かび上がれば、「これがこの人のテーマなんだ!」という生涯を通じて取り組むことになるだろうテーマも見えてくる。(←ホロスコープの読み解きからは読み解けない部分)

こうやって私は占星術の読み解きをする方が得意なんだということにも今回初めて気付けた。



占星術の話に花が咲いてしまったけれども、本当はそこじゃなかった( ̄∀ ̄)。

友達と話していて、何で私はこの子とずっと付かず離れずの距離で友達だったのか、初めてわかった。

性格も好みもそれぞれの歩んできた道のりも全く違う。

高校の時の部活が一緒なだけで、趣味もかぶってないし、片や子育てバリバリのお母さん、片や人生迷走中のアラフォー独身、何にも共通点なんかない。

だけど、話しててわかった。

大切にしているものが一緒なこと。

先月か先々月、その子の家に行った時、下2人の子どもがニコニコしながら「どのチョコにする?」と言って、高級チョコレートの缶を持ってきてくれた。

ありがたくいただいたけれども、後から聞いて驚いた。

そのチョコレートは謝罪のチョコレートで、一歩間違えたら重度障害が残ってもおかしくない事故があって、それのお詫びの印だった。

事の顛末を聞いたら口をあんぐりとする内容で、本当にちょっとしたケガで済んで良かったね!!!という危機一髪の事態にその子の家の子どもが巻き込まれていた。

これが真面目に大事故になったら、全国ニュース級のすごい内容だった。

しかも連日報道されてもおかしくないツッコミどころ満載の話だった。

友達はとりあえず無事だったから謝罪とかはすべて丁重に断って、そうしたらチョコレート及び大人の事情的な諸々が学校経由でやってきたらしい。

で最近学校行事があって、そこで初めて相手のお母さんに会ったようだった。

その時の話を聞いて、あぁ…と思った。

友達は一言、「お金で解決しようという風にしか見えなかった」と言った。

謝罪とかを求めているのでもなく、もちろんチョコや大人の事情的なものを求めてるのでもない。

単に誠意を感じられたら友達はそれで十分だったのに、それがなかった。

一歩間違えたら、命なり残りの人生なりを左右するぐらいの事故だったにも関わらず、相手のお母さんは「もう謝ったのでいいですよね」的な雰囲気だったらしい。

ちなみに、子供同士のことだから、なんていうレベルではなく、友達の子どもはたまたまそこに居合わせただけで全く予想もしていなかったいたずらをされたことで起きてしまった事故だった。

それは周りの子どもたちがみんな見ていて、その子は100%被害者でしかないと証言するぐらいだったから間違いない。

私が聞いても、本当にそんなことってあるの??と言いたい酷い内容だった。

友達は怒ってもないし不満を言ってるのでもなかったけれど、「私だったら、自分が逆の立場ならそんなことできない」と言った。

友達ならどうしていたかと話していて、それを聞いて私はその子の芯の通った考え方が大好きだと気付いた。

そういうことを普段ベラベラと話す子じゃないから、そんな話、今回多分初めて聞いたと思う。

その芯の通ったところが普段の何気ない行為や言動にも当然表れているわけで、私が好きなのはそこだと知った。

だから、何1つ共通点がないにも関わらず、ずっとこうして付かず離れずの距離で続いて来られたんだと気付いた。

友達でいる理由なんて普段考えないけれど、私が唯一同世代の友達で子育て真っ最中にも関わらず何だかんだと会っているのはその子しかいない。

普通なら、生活スタイルがあまりに違うから疎遠になる。

だけど、彼女とは疎遠にならず今も続いている。

こんな素敵な人とお母さんになってからもずっと付き合い続けてこられた恵まれた縁に初めて気付いた。

子どもたちにも相当言い聞かせたのか、一番下の子以外は、友達と私が話している間部屋にはやって来なかった。

友達はじゃまが入ることを予想していたから、そのじゃまを阻止するために色々子どもが喰いつく喜ぶ物をあらかじめ与えていた。

来たら仕方ないにしても、極力来ないように策を講じてくれてた。

本当に私の話のためにそこまでしてくれてたのがとっても嬉しかった。

友達は受験が終わったら、年度末で余ってる有給使うからランチ行こう!と言ってくれた。

その時に今度ゆっくり話したいと。

色んな人たちに自分のオカルト体質+オカルトワールドを告白していく中で、私は周りの人たちの本気のやさしさをたくさん知ることになった。

みんなビックリするぐらいにすんなりと受け入れて、興味ある人は聞いてくれたりもするけれど、そうでない人たちでも普通にみんな話してくれたり私の話を聞いてくれる。

腫れ物に触るようにもしないし、そのままでいてくれる。

私にはもったいないぐらいの超人間的にできた人たちに囲まれている。

これは私の人徳ではとてもカバーできないレベルの人たちに出逢わせてもらっている。

遠慮してそう言ってるのではなく、本気でそういう人たちに私はめちゃくちゃ恵まれている。

人の温かさを知った時間だった。

そして、そういう人たちのおかげで、私はもっと自分のことに対して前向きに向き合える、そんな気がする。

周りから受け止めてもらえると、私自身も自分を肯定するための原動力をまた1つ多くもらえる。

とても温かいそしてやさしい気持ちにさせてもらった。



>>>2019/02/22 昼下がり

上の話とは打って変わって、昼間の出来事は色んな意味で衝撃だった。

役所に某手続きと確定申告に行った。

手続きのために最初役所の市民対応系のフロアに行くと、隣りにいたおじさんに話しかけられた。

そのおじさんは、隣りで待っていたたかが2、3分で私に下の話をしてきた。

「これから俺は戦争よ!」

「戦争ですか?」
(私の心の声「戦争って何だ何だ?」( ̄д ̄;))

「おうおう、戦争だよ!
資産税に関して、兄弟と争ってんだよ。もうあいつはぁ兄弟でも何でもねぇ!死んだって知らねえよ!どっちが先でもお互いに葬式なんざ出ねえよ。あいつがどうなったかなんて俺の知ったこっちゃねぇ!もうあいつは兄弟じゃない、兄弟の縁は切ったんだ!」

その後も二言三言話をしている合間に私は係の人に呼ばれて窓口に案内された。

窓口に行くと、役所の50代の男性と思しき方がやってきた。

前回と同じ担当者だった。

その人は至極真っ当な対応と当たり前のことを私に説明した。

何1つ間違ってはいない。

だけど、私はこの時すでにもう目の前の方が正しいことを言えば言うほど、頭が痛くなるという状態になっていった。

私はその人の話を顔を見ながら聞いて思った。

もし目の前にいるのが私じゃなくてその人の子どもだったならその人はどうやって話すんだろう?と。

こんなに正しいことだけベラベラと話して、それで相手がそれに同意するように仕向けて終わりなんだろうか?と。

その人は仕事だからその対応なのはわかるけれど、何かが大きくズレていた。

この人、心にもないことを、もしくは自分の中で正しいと信じ込もうとしていることを話してるんじゃないか、だから本当のその人とはズレているからそのズレを感じて私は自分の頭が痛いのか…!?と思った。

兄弟戦争のおじさんの方が言葉も表現も過激ではあったけれど、私は全く嫌ではなかった。

むしろ、自分の想いを真っ直ぐに話していたから、ビックリはしたけれども違和感はなかった。

そしておじさんが兄弟のことを悪く言うたびに、「本当は仲良くしたいのかもしれない」とか「本当は相手が大好きなんだろうな」なんて思ったぐらいに、おじさんの熱い想いが伝わってきた(o´艸`)。

戦争とか言ってたけれど、こうしてわざわざ役所に足を運んででも動くのは、そのおじさんなりの責任を果たそうと一生懸命なのはわかった。

本当にどうでもいいなら、このおじさん、ここにはいないだろうなぁと思った。

確定申告の会場に移動する際、おじさんと役所の人とをそれぞれ思い浮かべて、どうして過激なおじさんが私は平気で、反対に正しい役所のおじさんといると頭が痛くなったのか分析をした。



確定申告は、滞りなく終わった。

担当者は丁寧に対応してくれたし、知り合いにもバッタリ会ったけれども挨拶を交わして何ともなくいられるはずだった。

ところが、順番を待っている間からどんどん頭が痛くなって、その場を後にした30分後ぐらいに私はおなかまで下した。

本当にゲンナリとした。

自分でもよくはわからなかったけれど、多分確定申告の待合室は、怒りとか不満とかそういうエネルギーが異常に強かったと思う。

あの最初の手続きのおじさんと同じ感じの空気感だった。

私は2年前もそこで確定申告をしている。

その時は何ともなかった。

これはわからないけれど、いよいよ体の方が変な歪んだエネルギーに反応するようになってきた気がする。

それは本当にわかりにくくて、戦争発言のおじさんみたいな人は私は全く平気で、反対に奥底に追いやった負の感情を溜め込んでいるとか本音と建て前が違いすぎるような人や場所が多分ダメなのかな…なんて思った。

自分のその反応にショックを受けつつ、痛い頭を抱えて駐車場に行った。

地下を抜けて地上に出たら道が混んでいて、誘導係の人の誘導を待った。

ようやく一般道に出られたのに、路線バスが先を行こうとした。

そこは激混み地帯だから、普段ならドライバー同士で譲り合ったりする。

「こらぁ( *`ω´)!バス!」と思ったけれど、突っ込んでも事故になるだけだから、バスが通り過ぎるのを待った。

そのバスの後ろについた。

超ビックリした。

バスの後ろには大きな宣伝が描かれていた。

「◯◯家」と店の名前がドンと真ん中に大きくあった。

◯◯は、その苗字を見るだけで私が元気になれる人の苗字だった。

赤信号なのをいいことに、すぐiPhoneを手元に手繰り寄せて、写真を撮った。

元気玉が来た。

涙が出るかと思ったぐらいに嬉しかった。

今は淡々と書いているけれども、その時の私は自分のその体調不良具合に本当に落ち込んでいた。

役所の手続きも確定申告も何1つ悪いものはなかった。

確定申告に至っては、見た目には滞りなく終わって、嫌なことを言われたとかされたとかじゃない。

静かに事務的なことが繰り広げられていただけだった。

誰か声を荒げたり、喧嘩腰にクレームを言っているとかいうのも一切なかった。

目に見えては何もなかったその状況下で具合が悪くなったことは、とても怖いものがあった。

見えないものに反応している私は、これから先普通に社会の中で生きていかれるのかな?とか、そんな悲惨なことまで想像していた。

そんな時に、その人の名前を見て元気をもらえた。

その人の名前は、いつも窮地になるとどこからともなくやってくる。

私が今弱ってるって知ってたの?と言わんばかりに、突然パッと目の前に現れる。

これを書いているのは2/24の夜だけど、驚いた。

昼間、私のノートについて思い出したことがあると言って、すごく素敵な解釈を書いたメールを別の友達がくれた。

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ぶっしー、なぜか今ふと思い出して言いたくなったのでメールします😊

前にぶっしーが3冊ノート見せてくれて、それぞれのノートから感じるイメージみたいのを話した時、1冊はセドナみたいな赤土の拓けた大地と真っ青な空(Oさん浄化ノート)、1冊は、鬱蒼とした霧の立ち込める森(NLP時代のノート?だったかな)、で、1番新しいノートだけ、なかなかはっきりしたイメージが掴めなくて、「白い布みたいな…シーツかカーテン…光が透けてまぶしい?…キラキラして…お天気雨みたいな…」 ってさ、たしかそんな感じでうまく説明できなかったんだよね。

何だろうな、知っているものだと思うんだけどな、って気になって、後からそのイメージを何回も思い出して再生していたら、ハッと、「あ、これは繭だ!」ってわかったんだよ! 「繭の中から、外界の明るい光が透けているのを見ている」という映像で、私が「お天気雨??」と表現したキラキラとライン状に光っていたのは、蚕の絹糸じゃん!とわかったの。

気づいたその時にすぐ伝えたら良かったんだろうけど、何だかできすぎた回答みたいでかえって嘘っぽいみたいな気がして、純粋にノートから受け取ったイメージじゃなくて、「後から私が脳内で作っただけじゃない?」 って思っちゃって。

でも今日いい天気で、カーテンから陽射しが透けてるのを見たらなんかふと思い出したので、今さらとは思ったけど、メールしておくね✨

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ものすごく嬉しいメールだった╰(*´︶`*)╯

だけど、常に数冊のノートを同時進行的に使っている私には、友達がどのノートについて言ってくれてるのかがわからなかった。
(ちなみにこの話は9月のあたまにしていた)

それでノートを特定すべく、どこかにメモがあるはず!と過去のノートを探し回って、それでやっと今見つけたら…。

そのメモ書きの隣りのページに書いてあった。

「ぶっしーの能力・感情を解放するきっかけを与える役割の人?ーーYES」

その友達からペンジュラムで聞いてもらった時の質問と答えだった。

上のバスの広告の話に出てくるまさにその人物についての話が、それとは全く関係ない上の友達のメールの内容を確定するために探したノートの隣りのページに、メモ書きとしてあった。

涙が出るかと思った。

この人は感情を解放しただけじゃない。

いなくなった後もずっとずっと1年半以上も私に何かしら癒しを届けている。

本人にはそんな気がなくても、現実として、こんな絶妙なタイミングでその人は癒しを私にもたらす。

その人なくしては、私は自分の能力も感覚も感情も開かなかったことをわかっている。

その人から見て私がどんな風だったのかは知らないけれど(恐ろしすぎて想像もしたくない)、少なくとも私からして、その人は本当に特別な存在で、その人のいない世界に今も私は生きていたとするなら、今の私も今この『奇跡の果実』シリーズも生まれていなかった。

すごいタイミングで上のメモを見つけて、ノートのメモが必要だったのか、その人に関してのメモが必要だったのか、今となってはどちらかわからない。

とにかく、その人物は、私に生きる上で大切なものをたくさんもたらした人には違いない。

あの役所で突然の体調不良に見舞われた時も、その人を表す何かはスーパーマンみたいに突然現れて私に元気玉をくれた。



>>>2019/02/24 朝

外は雲ひとつない、さくらが咲きそうな小春日和になっている。

ギフテッドの彼は明日明後日の入試に向けて家を出発した。

そのギフテッドの彼のことを今日はひとつひとつ丁寧に書こうと予定していたけれど、途中から気力が抜けて止めることにした。

とりあえず延期にした。

無理して書きたくなかった。

きちんと気持ちを込めて書きたい。

それが筋だと思うし、相手の人生のストーリーをこの中で使わせてもらうわけだから、私がいい加減に書くのは良くない、そう判断して延ばした。



これをどのタイミングで書くかずっと迷っていたことが1つある。

何人かの方たちから「ブログ読んでるよ」と嬉しい言葉をもらったのと、公表した方がいいんじゃないかというのとがあって、ここで公表することにした。

だからこれから書くことが目に留まった人は、それを目にする必要がある人なんだろうと思う。

これを読んでくれてる人たちがどういう人生の背景を持っていて、どんな生活をしていて、どんなことにしあわせを感じたり反対に怒ったりする人なのかはわからない。

だけど、総じて私が思っているのは、この私のまるで脈絡のない話をずっとでも時々でも読み続けてくれてる人は、これから先の時代の先駆者となっていく人たちだと思っている。

おまえ何様だよ?ぐらいな話で言うのもかなりためらいが私の中にあるけれど、大切だから続けます。

自分でも書いていてわかるけれど、私が書く話の中には色んなヒントが入っている。

私が意図的に入れたものもあるし、私は無意識に書いていても他の人から見たらヒントになっているというのもあると思う。

ここでは詳しくは書かないけれども、山で行方不明になったおじいちゃんの霊魂が年明けに登場して以降、私自身の体内とか私が日々生きる世界の空気感が変わった。

それはこの『奇跡の果実』シリーズを書いている間だけの話なのか、これから先もずっとそうなのかはわからない。

だけど、とにかく変わったと肌で感じる機会が増えた。

そして、その変わったことの1つに、私はどこかからヒントをもらっていることが挙げられる。

どこかというのは正直私もわからない。

だけど、何か大切なヒントだというのはわかる。

ノートに忘れないように書いて残しているけれども、ふとやってきたメッセージを書いておいて、そしてそれをこのブログの中に織り交ぜている。

そのヒントは、私1人が持っていていいものではなく、みんなで共有するものだと思っているから。

だから、この中にちょいちょい書いている。

予定としては、この『奇跡の果実』シリーズの最後の方に、やってきたメッセージは一覧にして公表しようと計画している。

『奇跡の果実*Lesson』と題したものもそうで、あれも基本は来たまま書いている。

私の学びの話になっているけれど、あれは私の話であって、本当はそうではない、それぞれの人が自分に置き換えて何かを感じるためのものかな…と勝手に思っている。

だから、この『奇跡の果実』シリーズを読んでくれてる人たちは、何かしらの必要なメッセージを、読むことを通じて自分のところにもたらす人たちなんだと思う。

そしてその人たち自身がキャッチしたその人オリジナルのメッセージや心の中の体験なんかが、また次の誰かにバトンを渡すように伝播していく、そんな風に私は勝手に思っている。



これから先は個人の感性の時代になるとあちらこちらで言われている。

じゃあ感性って何だ?となった時、それを説明しているものは実はすごく少ない、私はそんな風に感じている。

最近は本をあまり読んでないからわからないけれど、私が年間100冊越えで本を読んでいた2011年ぐらいから15年ぐらいは、まだまだスピリチュアルなものも自己啓発やビジネス書なんかもハウツー本が多かったし、具体例がかなり少なかったと記憶している。

私はそれだけじゃ全くわからなくて、そこでたまたま目をつけたのが、日記風のエッセイで、数十冊は読んだかと思う。

学びのために読んだんじゃなくて、単に話が面白くて最初は読んでいたけれども、途中からはエッセイの中に私が欲しい答えがたくさん入っていることに気付いて、それ以降かなり注意深く読むようになった。

その全くジャンルの違う2つを組み合わせて読んだことはものすごく良かった。

例えば「怒っている自分を認める」とスピリチュアルの本でも自己啓発でもあったとする。

ちなみに自己啓発のヤバい奴は「怒りは天敵。さっさと忘れろ」ぐらいな超危ない思想をあたかも正しいかのように言い出しているから、あれは気をつけて読まないといけないと思う。

一言だけ言うと、怒りは「自己防衛」のために絶対に必要な感情だから、悪いものにしてはもったいなさすぎる。

取り扱いには相当注意を要するけれども、それを打ち消したりなかったことにするなんて、せっかく自分を守ってくれる機能を自ら放置または放棄してるようなものだと思う。

話を戻す。

「怒っている自分を認める」と言われて、それが具体的に何を指すのかわかる人なんて、どのぐらいいるんだろう?と思う。

少なくとも私はさっぱりわからなかった。

スピ系の本はどれを読んでも似たり寄ったりで、教えは書いてあっても現実生活に照らし合わせたことは書いていない。

だから、普段の生活で怒った自分が出てきた時にどうしていいのかわからない。

そんな読書全盛期に、私は並行して色んな人たちの日記を読んでいた。

ちなみに読んだのは、吉本ばななさん、高山なおみさん、銀色夏生さん、田口ランディさんだった。

それぞれかなりな冊数で日記風のエッセイを出されている。

その方たちの日々の話はめちゃくちゃ参考になった。

例えば怒った時。

怒りが治まるまで何日もかかったり、治ったと思いきや1週間くらいするとぶり返したり、小さな違和感を無視していたと後から気付いて後から怒ったり。

田口ランディさんは、お兄さんを餓死か孤独死みたいな感じで亡くされている。

そのお兄さんとのあるエピソードをこんな風にして紹介している。

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あるとき、兄が、郵便局に使いに行って、その帰りに鯛焼きを買って帰ってきた。兄は、私から貰うなけなしのお金で鯛焼きを買ったのだ。もちろん私の分もあった。それからお茶をいれてくれて、二人で鯛焼きを食べたのだ。
兄は「鯛焼きなんか食べたの、何年ぶりだろう」と言いながら、子供時代の話をした。商店街にあった「甘太郎」というドラ焼きの店の話だった。めずらしく嬉しそうだった。私は鯛焼きを食べながら、なんだか急に哀しくなってしまった。
兄は私と心から鯛焼きを分かち合っていた。その様子でわかるのだ。でも、私はどうだろうか。心から他者と何かを分かち合ったことがいままであったろうか。思えば、自分が会社を辞めたのも、自分のことばかり考えていて、分かち合うという気持ちが足りない傲慢さのためだったのではないかと思った。
(中略)
あのときの兄は、鯛焼きを買って、私と食べることを心から楽しんでいた。
あの様子を思い出すとき、私は自分の傲慢さに息苦しくなるのだった。

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引用:『神様はいますか?』p. 232〜233
田口ランディ


色んなことに怒りすぎて、相手のことも大事にできなくて、そのうちに相手は死んでしまって、永遠にその時のことが自分の中に残ったままという話もどこかにあった気がする。

吉本ばななさんは、お母さんが昔、ばななさんが大事にしていたものを勝手に捨てて、それだけは亡くなった今も思い出すと許せないとか書いてた気がする。

そうしたことたちこそが「怒る自分を認める」ことなんだと私は解釈した。

うやむやにするわけではなく、思い出すたびに色んな感情が噴出してやるせなさが残ったりするけれど、それこそがそういう自分と向き合う唯一の方法のように見えた。

4人のエッセイにはそうした内容がものすごくたくさん描かれている。

そして、読んでいて共感したり、私もこうしたらいいんだ!というヒントを得たりした。

こういう感覚こそ「感性」だと思う。

どういう付き合い方でも向き合い方でもいいけれど、そこに真摯に受け止める姿勢が必要なんだと思う。

そしてその感性こそが自分を大切にする力になってくれる。

怒りのことでもう1つ言うと、本当の怒りはそんなにすぐには消えないし、事あるごとに再び出てきたりもする。

もちろんその怒りをいつまでも放置するのは良くないけれども、そうやって何回も出てくることも決して悪くない。

それはそれで何か大切なことを伝えようとしてくれてる。

又は、怒ってもいいか!と自分にOKを出せると、怒っている自分も前に比べてそこまで気にならなくなったり、悪者扱いしなくて済むようになった。

そうした諸々のヒントも、作家さんたちが書いていた日常の話から得ることが私はとても多かった。



私はすごい好き放題に『奇跡の果実』を書いている。

相手がどう思うかなんて基本的に何も考えず、ひたすら自分の体験したこと、知り得たことを書き続けている。

1つだけそうだといいなぁと思うことがある。

これを読んでくれているどこかの誰かが、これを読んだ時にその人の心の中に何か浮かび上がるものがあったら本当に嬉しいなぁと思っている。

それは、風景や人物、過去の何かや未来の心配事、何でもいい。

過去の切ない恋物語かもしれないし、過去に怒りまくったことかもしれないし、最近あった嬉しい出来事かもしれない。

何でもいいから、そうしたものが1つでも相手の中に浮かび上がったら私はとても嬉しいし、それこそがその人オリジナルの感性だと私は思っているから、それが出てくる1キッカケになってくれたとするなら、それ以上に嬉しいことはない。

そして、それが浮かんでくるタイミングは絶対のタイミングだと私は心から信じているから、それがきっかけとなってもっと別の何かにこの先繋がるならもっともっと嬉しい。



私が信じているもの。

それを最後に書いて今回の記事は終わりにしたい。

色々思いついたままに書いたら、内容がいつも以上にあちこちに飛び過ぎてしまったけれど、仕方ない( ̄∀ ̄)。

来月3月6日に、天王星という公転周期84年、1つの星座に大体7年ほど滞在する天体が、牡羊座から牡牛座に移動する。

天王星は、「改革の星」だの「変革の星」だのと呼ばれている。

ちなみに私は「過去の束縛からの解放・覚醒」を促す天体だと習った。

で、その天王星が約7年ぶりに正式に牡羊座から牡牛座に移る。

あまり好きな表現ではないけれど、まことしなやかに囁かれている、ホロスコープ界の話の1つ。

前回天王星が魚座から牡牛座に移動したのは、東日本大震災の翌日だった。

もちろん科学的に証明はできない。

だけど、それだけの出来事が起こる時というのは、けっこうな確率で天体上も大きな動きがある時が多い。

そうした関連性はわからないから私は何も言えないけれど、天王星牡牛座時代で大事になってくる価値観というのがある。

牡牛座というのは、主に五感を通じて価値観を定めていく傾向が強い。

その五感を軸にこれからの時代が3月6日以降7年近く展開するとするなら…。

これまでは、得かどうか、効果があるか、儲かるかetc、みたいな価値観で物事は判断されていた。

今もまだまだ、世の中全体でその傾向は強い。

だけど、牡牛座に天王星が入ると、その価値観は確実に変わる。

「快か不快か」

これからの価値基準は、一言で言うならそうなる。

各個人によって、快か不快か、それを元に価値観をそれぞれの人たちが決めていく時代に入っていく。

今までみたいな、周りもそうだから自分もそうする…みたいな、周りもみんな良いって言うからそうする…みたいな、自分の価値観を差し置いて周りや社会の価値観に合わせて生きる時代は徐々に終焉を迎えるかと思う。

代わりに、1人1人の感覚、快感・不快感が問われる時代の流れになるだろうと思う。

そこに山羊座の冥王星も関わっているから、もっとシビアな感じで出てくる。

社会的にアウトなものは今後ますます衰退して、社会にとって個人にとって本当に良いものしか残れない時代に変わっていく。

で、あまりスケールのでかい話をしてもわかりにくいから、冒頭の家庭教師をしている女の子が見せてくれたわかりやすい喩えを1つ紹介して終わりにしたい。

3ヶ月ぐらい前のやりとりのこと。

その子は、その時すでに理系の某学校に出願する手続きの申込を中学校に提出していた。

本人が理科を本当は苦手としていることに私は薄々気付いていたけれども、もうその進路の方向で話が進み出していた。

友達であるお母さんとも相談して、私の方でその子とその進路で本当に良いのか話をすることになった。

取り消すならその時しかなかった。

ちなみに結果から言うと、その子はその時出願を取り消して、そして来月3月に通常の公立高校入試に挑む。

その子が取り消したのは、私が説得したのでも親が説得したのでもない。

本人が自分の感覚で決めた。

何をしたのかと言うと、私はその子を連れ立ってTSUTAYAに行った。

TSUTAYAの高校参考書のコーナーに行って、その中の物理と化学の参考書や問題集を10冊以上見た。

TSUTAYAを出る直前に本人が振り返って私の方を真っ直ぐ見て言った。

「◯◯理系校を受けるのやめる!」

そう、参考書を見て、本人が自分の感覚で「これは無理」とわかった。

興味を持てそうにもなければ、すでに苦手意識が働いている中学の理科の一分野の内容がてんこ盛りで、本人も見ながら「わかる気が全くしない」とずっと言っていた。

頭ではなく自分の感覚で「無理」というのを判断していた。

家に帰ってすぐに親にも報告していて、そして翌日には学校にも取り消しを申し出た。

翌日友達がLINEをくれた。

「実は理科が分からないっていう気持ちをブッシーが分かってくれてうれしかったらしい。
なんか朝は吹っ切れてたよ」

ブッシー良い人になってる(o´艸`)←えっ?

私はさておいても、その子が感覚でどうするかを決めたその姿勢は、まさにこれからの天王星牡牛座時代の基準、「快か不快か」のわかりやすい例だと思う。

ちなみに詳しく知りたい方は「天王星牡牛座」と検索したらあれこれヒットするので、どうぞ調べてみて下さい!

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