2018年9月20日木曜日

1年分のサイン

昨日の夜に書いた文章を今朝とその後午後ぐらいにもう1回読み返した。

まずは、書いといて良かったなと思った。

今日の私だったら、絶対に書かないことがわかった。

気が乗らないから。

しかも、あれは思考的になると書けない。

思考はいちいち「そんなの勘違いじゃない?」「それおかしくない?」とか、鋭くて正しいツッコミばっかりするから、そうなると書けなくなる。

だから、半分目が閉じそうになりながらも書いて正解だった。

多少言葉が足りないとは感じたけれど、私は直そうとは思わなかった。

あれはあれで完成形だし、頭を正しい状態に設定したまま書いても、逆に伝わらない気がしたから。

1つだけ付け足すとするなら、ようやく私も「それ普通じゃない」と疑わなくなってきたこと。

1年前、やたらと名前を見たり聞いたりすることが始まった時、それは偶然だと最初は思った。

偶然度合いが重なりすぎな気はしていたけれど、それさえも「たまたま」と片付けていた。

っていうか、そんなことをいちいち分析できる心の余裕もなかった。

その人の異動により完全に接点がなくなって、さらに私自身も仕事を辞めたことで接点がもっともっとなくなった今年の春。

今度はもっと意外な形でサインがやってくるようになってきた。

その会社の制服を着たおじさんが我が家に通行止のお知らせをしに来た時は、本気で度肝を抜かれた。

つい数日前、うちから30〜40キロ離れた町に用事があって行って来た。

同じタイプの工事が為されていた。

でも、担当会社も看板も聞いたことのない会社で、あの春先の出来事はたまたまかもしれなかったけれど、あれを私は見ることになってたんだなと知った。

つい最近は、全く関係のないところで、その名前から一を引いた、最後の文字以外は同じ漢字の同じ名前を見かけた。

思わず写真まで撮ってしまった。

こんなことが延々と1年も続いたわけで、さすがにそれはたまたまとは言えなくなった。

じゃあそれらが何を意味してるかなんてわからないけれど、あまりにも出没するから、私は自分の解釈したいように解釈している。

もう1つ思い出した。

その一だけ引いた名前を見た日かその次の日、車のナンバーでその人の出身と言われるナンバーを見た。

それもこの辺ではあまり見ないから珍しくはあるけれど、なんとその車のナンバーは、私の暗証番号と同じ数字だった。

何この意味不明なコラボレーション⁉︎と思った。

そして、その翌日だったか翌々日、今度は数百メートルおきに、その人が乗っている車と同じ車種の車と何だかんだ10台近くすれ違った(私は歩いていたから、わざわざ車の後ろに回って車名を確認した)。

その車、そんなに人気?えっ⁉︎、となりながらその変な偶然に1人で狐につままれた気分になっていた。

百歩譲って私が注目してるからだとしよう。

いくら注意を向けてたって、そんなにも名前やら車やら他の何かやらを用意して、そんなにたくさん目にすることはさすがにできないと思う。

これは実験してわかったことだけれど、例えば名前を探そう!と思って新聞とか広げてもその名前はまず出てこない(←これは何回か試したし、つい最近も試した)。

そういう時は、うぶこえおくやみコーナーもくまなく見るけれど、無い。

とにかく無い。

そんなことはせずに、自然に任せるというか意識にさえ上っていないところに、いつも不意打ちでやってくる。

仮に1日1つ何かその人に関係するものを見るとしても、そんなに365個も上手い具合に用意なんてできない。

しかも実際は1日1つどころかいくつもやってくる日もあって、しかもそれが友達の結婚式みたいに一生に1回しか訪ねることのない場所とかでもそういうことが起こる。

ちなみにその時は、その県のニュースが電車か電光掲示板のテロップで流れていて、そこにいきなり名前が出てきた。

その県では知らない人がいないだろう有名人の名前だった。

でもニュースなんてたくさんあるわけで、その時そのタイミングでそのニュースが流れていて私もそれをたまたま目にするなんて、どんだけあり得ない確率なの⁉︎と思った。

一事が万事そんな風で、それを毎日のようにそして1年以上も続くとなると、さすがに「あれ?」となった。

好ましい繋がり方とは違うけれど、相当縁の強い人なんだろうなぁと思う。

1年前、まさかこんな時間を自分がその後1年も続けて体験するだなんて全く思ってもいないことだった。

これだけ体験すると、さすがに疑うことは減った。

変な形ではあるけれど、何かしら繋がっているんだろうし、その繋がりは自分が望んでるような形ではなくても、繋がりそのものはあるはあると思っている。

1つだけ確実に言えることは、そのサインたちと遭遇するのは毎回毎回楽しみや安心感、不安な時は包容力、落ちている時は希望、そういうものを与えてくれるから、私はサインが来るたびに良い気分にさせてもらっている。

例えば今思い出したこと。

今年の冬の大寒波のある日のこと。

車が一ミリも動かないぐらいの大渋滞にモーグルのコースですか?と言わんばかりのボコボコ道でのこと。

ペンジュラムに任せて道を選んだ。

どこをどう行っても、当時は2キロの道に1時間半かかっていたから、10数通りはあるだろうどの道から行っても大きく差はないと思っていた。

そんな時に、ペンジュラムが指し示す方向に行ったら、私の中でのラッキーアイテムと言わんばかりの洋菓子屋さんの車とすれ違った。

店名にその人と同じ名字が入っている車。

世界に1台しかないその車。

渋滞も寒波もボコボコ道も全てテンションダダ下がりだったけれども、その時にその車とすれ違って、「よし!大丈夫!」と思った。

その日はどうだったか忘れたけれど、その人の携帯の着信音をその人と仲良くしてる人から教えてもらったことがあって、それかけながらボコボコの雪道をギャーギャー騒ぎながら運転してた。

音楽も士気を高めるタイプのものだったから、非常に心強いアイテムをありがとう、と思いながら乗り切っていた。

音楽も私が教えて!とお願いしたんじゃない。

その教えてくれた人からある日突然、ちょっと来て来て!と呼ばれて行った時に教えてもらって、それで知ることになった。

その人を連想させるサインやアイテムたちは、どんなに自分の気持ちが落ちてても、または状況的にどんなにきつくても、それがひょっと現れるだけで気持ちを落ち着かせてもらったり、オールネガティブみたいなところに一抹の光が差し込むみたいなすごい効果がある。

それをこの1年以上、日常的に得ていたわけだから、私は相当な幸運体質だと思う。

今もこれを書きながら、色んなサインたちを思い出して、テンションが上がってきた(笑)。

完全なる自家発電。

今まで色んな心の癒しや自分の状態を良くするワークみたいなのを試したけれど、このサインたちほど強力で絶大なパワーを常にもたらしてくれるものは他になかった。

しかもサインたちは心の資産のようなもので、増えれば増えるほどバリエーションが豊かになって、それに伴い心の中も豊かになっていく。

最初は本当に半信半疑だったし、とうとう頭の中がいかれポンチになったかとも思ったけれど、1年も続くとこのサインたちの方が普通になった。

あって当たり前とは一度も思ったことはないけれど、偶然とか勘違いではなくて、本当に私を元気づけるかのごとく存在してくれてることはわかるようになった。

もしこのことが私の勘違いだったとしても、今の私なら「勘違い万歳\(^o^)/」と喜べる。

勘違いでもいい。

だって、勘違いでも私の気持ちを元気にさせてくれてたこの1年のことは事実だったから。

むしろ勘違いで元気になってたとするなら、それほどおめでたいことはない。

だって、人生の中で、そのことに触れるだけで毎回気分が上がる、それも百発百中、絶対に100%の確率で上がる、そんなものに出逢えるなんて本当にすごいこと。

生きていたら、嫌なことも逃げたいことも当然あるわけで、その中で毎回出くわすたびに元気をもらうなんて、ものすごいラッキー。

虹を見たらテンションが上がる、その感じに似ている。

しかも虹が出るタイミングは自分たちでは読めない。

そうした読めないタイミングの見るだけで耳にするだけで気持ちを引き上げてもらうものに私はほぼほぼ毎日この1年出くわし続けてたわけで、もうそれだけでどんだけすごいのー!って話。

だから勘違いでも構わない。

だって、そのサインに行き着く度に、私は必ず気持ちが上向きになる。

そういうものってなかなかない。

悲しいことも受け入れ難いことももちろんあった。

本気でその場で泣き出すかと思うぐらいにショックを受けてみたり、しばらくいなくなったことが受け入れられなくてその人がいた場所を視覚に入れないようにしたり、全て勘違いで私が勝手に1人で気持ちを上げてたんだと言い聞かせたり…。

本当に色々だった。

でもいつのどんな時も、私はそれらのサインに触れると、その人が私の人生の中に在ることの奇跡を思った。

その人なくしては、そのサインたちは当然何の意味もないわけで、そうしたらこの1年の日々の幸運の積み重ねもなかったことになる。

全てその人がいたからこそ、そのサインたちに意味があって、そして私はサインたちにいつもいつも気持ちを救ってもらってた。

今少しずつ自分の中で決めていることがある。

私の側から見ているストーリーがある。

それを隠さずに思いついたところから話していこうと思っている。

信じられない気持ちや疑う気持ち、おかしいと思う気持ちや否定する気持ち、そうしたものがずっとあったのも本当だった。

でもいくらそういう気持ちたちが湧いて出ていても、それでもこうしてやってくるサインだとか、ファンタジーのような不思議なことが色々あった。

今1年ぐらい経ってみて、自分が見てきたもの、感じてきたもの、そしてその中で自分が選びたいことが何なのかがわかり始めてきた。

そして、それをそのまま言葉にしていく準備が整った。

ずっとずっと書き続けたからこそ、誤魔化して書くよりもありのまま書く方が自分が書きやすいこともわかった。

受け取る受け取らないはまた別の話になるけれど、少なくとも届いてるようには感じている。

だから今度は、私側から見ていたストーリーを不定期に書いていこうと決めた。

反応は欲しい。

これは本当に正直な気持ちで、それは否定しない。

だけど、反応が何1つ返ってこなくても私は書く。

書きたいから、伝えたいから、書く。

そしてもう1つスーパーお節介魂を出すと。

その人に知って欲しい。

その人がどんな風でも、そのままで、ただただいてくれるだけで、ものすっごい価値があるということ。

それは良いところだけを見て言ってるんじゃない。

私にとって非常に受け入れ難いところも含めてその人だから、その全部ひっくるめて、その人がその人だからいいんだよということを伝えたい。

相手が受け取る受け取らないに関係なく書く。

これが全て私の勘違いでもいいから書く。

とにかく書く、伝える。

そうしたいから。

そうしたい!って、やっと心の底からそう思えるようになったから。

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