2018年9月21日金曜日

日帰り旅行のような仕事【最終日】

「町が死んでる」

それが最初に感じたことだった。

チラシ配りの仕事の最終日、自分の町を歩いて回ることにした。

大まかな地区に分けると、今回は全部で7箇所の地区を回った。

その中で唯一自分の生まれ育った町だけが昔から知っている場所だった。

よくよく考えたら、高校に入って以降、私はほとんど地元にいたことがない。

住んでいても別のところに通学なり通勤していて、買物なんかも市外ですることが多かった。

市内で用事を済ませる時も行く場所は限られていたから、この町の廃れ具合には気付かずにいた。

平日の9時過ぎ、車は通るし、道路なんかの工事は至る所で行われていた。

配った町は、かつて準商店街みたいな場所だった。

公共の建物も近くにあるから、昔ながらの食堂や市場はやっていた。

だけど、少し住宅街に入ると、完全に町が死んでいる。

曇ってはいても、空は明るい。

ところどころ個人の木工や水道ポンプなんかの業者さんが働いているのもわかる。

それでも、もうどうしようもないぐらいに町が死んでた。

多分人は生きてる。

だけど、そこに精力や生命力を感じない。

死んだように生きてる、そんな風だった。

そこを歩いているだけで、気分がものすごく重たくなった。

家々の様子がおかしかった。

空き家という風でもないのに、家が大事にされてないのがわかる。

空き家と間違えそうになるぐらいの家が幾つも並んでいて、本当に息苦しくなりそうな場所だった。

今これを子どもの頃住んでた家の近くの公園で書いてる。

極めつけは、樹齢数十年は超えてる大きくて太い柳の木が途中から折れていたことだった。

最近の台風でそうなったのかもしれない。

終わりなんだなと思った。

古くから続いている自分の何かを終わらせていいんだなと思った。
9/18  9:58


3時間ほど歩いて、今小休憩。

小学校1年生か2年生の時の遠足できた公園にいる。

歩いている時に、そもそも何でこの仕事を今回することになったんだろう?って考えてた。

ペンジュラムを持つようになった2年前の5月から、私は何か選択に迫られるとペンジュラムに聞くようになった。

ペンジュラムにいきなり聞くと言うよりも、自分の中でYESNOを決めた上で確認する、そんな風にして使うことが多い。

私の個人的な都合で言えば、今回の仕事は単純にお金を稼ぐということでしかなかった。

だけど、ペンジュラムはお金のために行くんじゃないとずっと言ってた。

もっと別の理由で行くし、そして働き方として都合の良いものが他にもあったけれども、それにはそもそもNOが出ていた。

なぜかこの仕事はYESで、さらに「行かないって選択肢はある?」と聞くとそれはスーパーNOが何回も出た。

それ見て行くは行くんだなと思った。

上の死んでる町の後、その時の嫌な感触はとりあえず無くなった。

「あっ!」となった。

そもそも今回、地元でのチラシ配りの募集ではなくて、合併して大きくなった市全体の中でのチラシ配りの募集として出ていた。

一応希望は言えたから、もし地元の分があればそこをしたいとは言った。

だけど、そもそもどこがあってどこがないのかなんて私の知ったことではないから、来たもの勝負みたいな感じだった。

合計5日間やって、そしてまた諸々の道具たちを遠く離れた事務所に戻す関係で、最終日を地元にした。

地元で配り終わったら、その足で今度は運転してその遠い事務所に行けばいい、そう予定した。

自分の家から徒歩2、3分のわりかし新しめのアパートを今日の出発にして、同じ町内の同級生の家とかそこからさらに広がった同年代の友達だった人たちの家の前を通ったりした。

道がわかるっていいなぁと思った。

進みやすい。

知らない道の上を歩くより、ある程度見知ったところの方が安心して歩ける…人生にも同じことが言えるかもしれない、と思ってた。

その辺りまでは良かった。

ところが、上に書いた町に着いた時、ガラッと何かが変わった。

居心地が悪いだけじゃなく、息が詰まりそうなぐらいに嫌な感覚が体の中に広がってた。

そこを抜けた後、また良くはなるんだけど、そこで気付いた。

あの嫌な感覚、体中で覚えたあの感覚を癒して解き放つために通ったのかな…と思った。

その場所に嫌な思い出があるわけじゃない。

でも、その町の空気に触れると、確実に自分の中の何かの記憶とリンクして、自分の体の感覚が気持ち悪くなる。

何とリンクしてるのかは知らなくても、それは常に私の中にあるものだったことには変わりない。

その気持ち悪い感覚は普段は意識にのぼらない。

だけど、意識にのぼらないだけであって「無い」のとは違う。

この気持ち悪い感覚を常に持っていれば、自分の中のエネルギーもどこか重たいものになる。

その重たいものを自分の中から取り出して解放してしまう絶好の機会が与えられたんだと思った。

嫌な感じはしばらく続いたけれど、また風景の変化と共に変わった。

それはもう要らないものだと気付いた。

そしてそれを手放すにあたって、今回こうして地元でグルグルと回る仕事をしたんだと思った。

普段は気付かない。

自分のその感覚もそれにまつわる忌まわしいものたちも。

でも今回出てきて、そして多分このことだろうなぁという記憶もいくつか出てきた。

その嫌な感覚の時、本当は私は怖かった。

おそらくだけれど、その感覚の原体験の時は、「“怖い”って思っちゃいけない」と思ったんだと思う。

ただでさえ怖い状況になっているのに、それをそのまま感じちゃうともっと怖くなってしまう、そう思って感情を殺したんじゃないかと思う。

それを今回思い出すことになって、そして否が応でも体に感覚が広がるからそれを体感することになった。

その後私は面白い体験をした。

当初予定していた場所は、遠いのと登りがきついのとで、後で車で行くことに変更した。

だから、残るは平地の隣りの町内だけになって、それならまた元来た道を戻れば良かったから、またあの「町が死んでる」と感じた町内をわざわざ引き返した。

本当に感情が癒されたら見える景色が変わると思った。

それを確かめるためにもう一度同じ道同じ場所を通った。

予想は的中した。

相変わらず町は死んでる風ではあったけれども、体から変な感覚が抜けてくれたおかげで楽に息をすることができた。

嫌な感じが抜けただけではなく、さっきは見えなかった、人がきちんと生きて生活している風景も見えた。

同じ道の同じ家たちでも、見え方が変わった。

癒されたな…と思った。

さらに歩いていると、昼休みに家に戻る母親の車が赤信号で止まっているところを見た。

声をかけて、家の近くまで乗せてもらい、そこからまた隣りの町内まで歩いた。

母親の通る道も知らないし、その通る時間だって読めない。

だけど、ピッタリとタイミングが重なった。

それを見て「癒されました!」のサインだと悟った。

そう、この癒しの体験をするためには、今回のこの仕事が必要だったんだと理解した。

ペンジュラムの言った通りだった。

お金も大事なんだけれど、お金よりもこの仕事をすることで得る体験の方が大事だったとわかった。

だからペンジュラムは「行かない選択肢はない」と言い続けたんだと合点した。
9/18 12:59


帰りの車の中で、色んなことを思い出しながら帰ってきた。

うちから数十キロ離れた事務所から数キロのところに母の妹であるおばさんの家がある。

最終日、地元での配り物を終えた後、事務所に諸々の道具を返しに行って、その帰りにおばさんのところに寄った。

正直、行く前はあまり気乗りしなかった。

私の今の状況をあれこれ聞かれても、そのままを説明する言葉はあっても、これからどうするとか何をするとか、そういうことを説明する言葉はない。

だからそういう好ましくない会話を予想した時に、はっきり言って行く方が面倒くさかった。

私は適当な言い訳をして行かないにしようかと思っていたら、母が前日に早々と電話して、史子がもしかしたら寄るかもしれないとちゃっちゃと言ってた。

実際に行く前に渡して欲しいと言われた荷物たちを見て母側の用事の多さを知り、そのために私を行かせたかったんだとわかった。

私は行く前に電話を入れるつもりだったけれど、てっきり携帯の電話帳に入ってるかと思いきや番号が入っていなかった。

母から代わりに電話を入れてもらおうとしたら、母の携帯は繋がらなかった。

だから私はこれから行くと言わずに直接おばさんの家に行った。

3時半には仕事が終わって帰ってくるみたいなことを言っていたから、5時過ぎのその時はもう確実にいるだろうと踏んだ。

ここでは「おばさん」などと言っているけれど、母のきょうだいたちのことは、2歳の姪っ子が私のことを「ふみこ」と呼び捨てするように、下の名前で呼んでいる。

おばさんの家の電話番号を登録していなかったことも、母の携帯が繋がらなかったことも、それで正解と知ったのは着いてからだった。

おばさんの家の前の駐車場に車を止めると、ガラガラっと玄関の戸を開けておばさんが「史子来たね〜」と言いながら、出迎えてくれた。

初めてのことだった。

20代の頃、自分の用事がその近くである度に年に1〜2回はおばさんの家に泊まらせてもらってた。

その時はいつも事前に電話を入れてから行ってたから、出迎えてもらうことはなかった。

それが今回出迎えてもらえることになった。

それだけでも嬉しかった。

おばさんはお湯をわざわざやかんで沸かしてくれて、コーヒーをいただいた。

かもめの玉子(どこかの地方のお菓子)をコーヒーと共にいただきながら、「今日ね、お父さんとご飯何にする?って言ってたんよ。史子が野菜を持ってきてくれたから、ピーマンとさつまいもと、そして今年やっと採れたなすがあるから天ぷらにしようか!」と話してくれた。

おじさんとおばさんの中で、今日私が来るかもしれないということで、ご飯何にする?と相談したところに愛を感じた。

めちゃくちゃ愛を感じた。

夜は大量の天ぷらとひじきの煮物、みょうがをのせた冷奴、たらこ、そして白いごはんだった。

1年前の秋に亡くなったおじさん(母の兄)が作ったお米だとおばさんは説明してくれた。

もう今は亡き故人の最後の遺作なんだとわかった。

おばさんの旦那さんも帰って来た。

私たちみんなそのおじさんのことを「とよちゃん」と呼ぶ。

愛称でずっとずっと呼んできた。

とよちゃんに「今ならまだ正社員、史子いけるぞ!」と言われた。

私は長い時間かけて自分を見たことで、その言葉を本当にありがたく受け取れるようになった。

その言葉に想いを感じられるようになったのは、この夏からだと思う。

正社員じゃないことが不幸になるなんて思ってはいないと思う。

だけど、とよちゃんの考える幸せの中に「正社員で安定すること」が多分入ってる。

押しつけとかではなく、純粋に私のことを想っての言葉だとわかるから、とよちゃんの言葉は嬉しかった。

しかもそのことは一瞬で話は終わって、つい数日前仕事中に左手の人差し指を10センチ弱切って、その縫ったところの消毒とリハビリの話で盛り上がり、ケガして絶叫して泣くぐらい痛いのに、それをゲラゲラ笑いながら話すとよちゃんが良かった。

帰る頃には、変に抵抗して行かないんじゃなくて、行って良かったなぁと思った。

帰る時、とよちゃんもおばさんも言った。

「史子、またいつでも遊びにおいで!」

社交辞令じゃなくて、本気でそう言ってくれてる。

40歳を前にしたいい年した大人だけれど、とよちゃんとおばさんの前ではいつまでも子どもの自分でいられる。

それがすごくすごく嬉しい。

車に乗り込むと、おばさんもとよちゃんも運転席のすぐ横に並んで立って見送ってくれた。

本当に素敵な人たちだなぁと感じる。

これまで気付かなかったけれど、よくよく考えたら毎回いつも車の真横に来て見送ってくれる。

この一族のならわしのようで、気付けばみんなそうしてる。

10年以上前に亡くなったばばちゃん(母方祖母)も、腰が90度以上曲がっていて普段動くのも面倒くさそうに動いていたけれど、私が帰る時はいつも外まで出て私を見送ってくれてた。

母方の実家は今もそこは同じで、このお盆の時もその場にいた全員が外まで見送ってくれた。

温かい伝統だなぁとしみじみと感じた。

とよちゃんとおばさんに見送られながら、交通量の少なくなった国道を通って家に戻った。

【9月18日 バイト最終日】

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