2018年9月19日水曜日

小さな真実の声

今しか書けない、そう思ってこれから書く。

これから書くことは、勢いがないと書けない。

考え出したら、多分私は書かなくなる。

だから、書く気持ちがあるうちに書いてしまう。



小さな実験もそうだし、これまでの色んな振り返りもそうだけれど、多分勘違いじゃない本当のことに気付いた。

小さな実験はとにかく振り返りタイムがふんだんにある。

振り返りは楽しいからいくらでもやれる。

その無限に広がる振り返りの中で、気付いたこと。

うっすらと気付いてはいたけれど、これまでは怖くて全否定の方に力を注いでた。

いや、だって、今の状況だけ見たら、否定する方が普通だし、否定してる方が怖さはじめ色んな負のものに向き合わなくて済むから、そういうことにしておいた方がいい。

だけど、実は違ってたのかな…と。

海見ながらメモもした。

ある夏の日のこと、あれは気遣いではなくて、「気にかけてもらってた」んじゃないかと思った。

気遣いと気にかけてもらうことは違う。

気遣いは、気配りとか配慮とかそういう言葉のニュアンスに近い。

どちらかと言えば、意図して気を配るみたいな感じ。

それに対して「気にかける」は、自然と気が向いてしまう、自分でも気付いたら気になってた、みたいな。

これまではその時のことを「気遣い」的な行為だと思ってた。

でも、よくよく考えると、気にかけてたから出てきた行為(こうい)の方なのかもしれないと思った。

行為イコール好意なら尚のこと嬉しいけれど。

不器用呼ばわりして非常に失礼だとは思うけれど、でもどう見てもキレッキレの超気がきく男子みたいなことは基本しない人だと思う。

この話をSさんとした時、Sさんもそう言えば言ってたなぁと思い出した。

「えー⁉︎そんなことするタイプに見えない!そんな気の利く方じゃないと思うけれど」

私も今さら「不器用」を連呼してたら、その不器用な人がしたには崖から飛び降りるぐらいのすごい勇気が必要な行為だったんじゃないかと思った。

そして、気を使ってもらったと言うよりも、気にかけてもらってたんじゃないかな…と今さらだけど思った。

実はそう思う方が他のことたちにも説明がついたりする。

これもたまたまかもだし、むしろそれが個人のしっくり感ゆえのことでしかないかもしれないけれど。

ある時、その人がいなかった時、私は他の人に呼ばれて、振り返ってその呼んだ人を見た時があった。

何が驚いたって、私がいつも作業する場所からその人の席というのは、何1つ視界を遮るものがなくて丸見えだったこと。

丸見えというのは、その人の席から私の作業席が丸見えだったということ。

私はその人にいつも背中を向けて座るからその時まで全然気付かなかったけれど、もしかして普通に丸見えだった⁉︎と思ったら急に恥ずかしくなった。

っていうか、「見えてるかも」とか思ってること自体も恥ずかしかった。

その時からかその前からかは忘れたけれど、その人のパソコンのスクリーンの高さがやたらと低いのは知ってた。

多分マックスで低くしてたと思う。

スクリーンの高さは個人の自由だからそんなこと私がとやかく思うこともなかったけれど、その低さがいつも気になって気になって仕方なかった。

その人と向かい合う形でいかないと、取りにいけないものや置きにいけないものがかなりあった。

そうした用事を足す時、私はいつもどこを見て歩いていいのかわからなかった。

真っ正面を見て歩けばいいだけのことかもしれなかったけれど、間違ってうっかり目とか合ったらバレちゃうと思って、私の目はいつもあちこち違うところを見ていた。

本心は真っ直ぐ前を向いてその人のことをガッツリと見たかったけれど、それに気付かれたらやりにくくなると思って、興味なんかありませんというフリをずっとしていた。

そのスクリーンの低さのおかげで、多分その人側からはスクリーンの向こう側の景色も普通に見えたと思う。

だからそのスクリーンの向こう側を私が歩いていれば、そのままスクリーン越しに私が見えててもおかしくないと思う。

あと、単純に恥ずかしかったのもある。

近寄りたいくせして、恥ずかしくて、いつも重なりそうな時もわざとタイミングをずらして近くにならないようにしていた。

結局のところ、何にもなってないのが今の現実だけれど、もしかして気にかけてもらえてた方が実は真実だったのかもしれないなぁ…と最近ちょいちょい思うようになった。

その視点から物事を眺めた方が、色々辻褄が合うこともある。

「たまたま」とするには、あまりにも出来過ぎたことが色々あった。

色々の9割9分は人知を超えたところで勝手に起こる感じだった。

そして、それとは別に、その人のとてもわかりにくい表現も実は違う意味だったんじゃないのかな…と思うようになった。

気を使ったんじゃなくて、気にかけてたのかもしれない…というような感じで。

もちろんそんなのは私の想像の域でしかないけれども、そうやって考える方が自然というか、無理な感じや抵抗して事実が捻じ曲がった感じがなくなる。

本当の意図は知らない。

けれど、私の苗字とその人の趣味とが重なった偶然があるからと言って、仕事中に個人のラインをするなんて、本当にそれだけのことだったの?と思ってしまう。

何の関係もない人のことなら、もう私の世界からその人と重なる何かを日々目の当たりにするなんて、あり得ないと思う。

目の前からいなくなった後も、1年間絶え間なく色んなことを目にしてきた。

ここ最近また増えてる。

ふと、もしかしたら、私側も何かしらその人にまつわるものを見かけたり耳にしたりするように、その人側にも似たような現象が起きてるんじゃないかと思うようにもなった。

だいたいそもそも、ほぼ毎日たまたまその人の名前とかその人の何かと関係しているものを見る、それが1年間ほぼほぼ毎日起こるというのは、たまたまとは言えない気がする。

私が意図したり見つけようとしてそうなってるわけじゃない。

自然とそういうものが勝手に運ばれてくる。

さすがにここまでくると「気のせい」と思う方がかなり無理がある。

想像もしていないことが水面下で動いてる、と考える方が自然に感じたりもする。

そしてそれが私側の方だけに起こってるのではなく、相手側にも何かしら反応が出ているのかもしれない。

そんなの確かめようがないけれども、いつか本当に確認できる日が来るのなら、それは確認したい。

色々書いたけれども、私はあの特別な行為は「気遣い」ではなく「気にかけてもらってた」かもしれないと思った時、嬉しくなった。

それを書こうと思ったのに、多分今文章が半分寝ている。

元々勢いで書こうとしてたものだから、このままアップしてしまおう。

明日の朝起きた後、変な表現があったらその時に直せばいい。

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