2018年9月3日月曜日

言葉を差し出す

自分が持っている言葉を相手に差し出す。

今朝も含めて最近数回そういうことがあった。

聞かれたから答えたに過ぎなくても、自分が持っている言葉は出した。

相手に喜んで欲しいと言うよりも、その言葉を差し出すことでその人が自分の生きている価値をちょっとでも自覚してくれたらいいな、という思いで書いた。

私も強烈に自己否定が強いタイプだし、何かやらかした!又はやってない!と思うと猛烈に罪悪感が湧くタイプだからわかる。

だいぶそこは自分でも向き合った分、自分比でよろしくはなったけれど、それでもまだ自己否定も罪悪感も健在で、何かあるとすぐに登場する。

本当に何ていう速さで回復するんだろう?と思う。

この速さが行動力とかやる気スイッチにも反映されないだろうかと思う。

話がそれた。

自分のしたことやしてないことは、大体において自信がない。

ましてやそこに自分以外の誰かが絡むとなると余計と自信がなくなる。

その自分のことがよくわかるから、相手が自分に対して責めてたり否定してたり卑下してたりしてるんだろうな…と今回わかったから、私は自分の持ってる言葉を差し出すことにした。

偉そうな感じで言ったけれど、正しくはこれまでさんざん私の方が元気づけられてきたから、やっと今そのお返しができるチャンスがやってきた。

今は頻繁にやりとりできていても、またいつそれがなくなるかわからない。

だから、その機会が今あるということは、林先生じゃないけれど、「今でしょ」ということなんだと思う。

一生のうちに、交わせる言葉も交わせる時間も限られてる。

日々の生活に埋もれているとそんなこと忘れちゃうけれど、本当は何もかも有限だったりする。

時間はいつもあるように見えて、それは永遠じゃない。

いつかは死ぬ。

死んでからたとえ生前親しかった人たちの近くをウロウロしたところで、死者と生きてる人間が意思疎通できるわけじゃないから、相手に伝えられない。

今だから伝えられる。

生きている今だから伝えられる。

しかも、当たり前すぎて今の今まで忘れていたけれど、「共通言語」を持っている。

英語もスペイン語もガッツリとやったからわかるけれど、こうした心の機微や自分の感覚・気持ちは、私の場合、外国語になった途端言葉を失う。

I miss you. やTe amo mucho.だけでは足りない。

例えばここに書いたようなことを書けと言われても書けないし喋れない。

同じ言葉を知っていて同じ言葉で分かり合えるというのがどれだけすごいかわかる。

そんなすごいツールを持っていて、そして今使う機会が与えられていて、そしてとても幸いなことに相手から求められている。

若干押し付けがましい私の性格を必要とされることは、そんなに人生の中でたくさんないから、そういう意味でも遠慮しなくていいからありがたい。

ありったけの言葉を並べられるし、思ったことを感じたことをそのまま表現できる。

しかも一方通行ではなく相手がキャッチャーミットを持って待っていてくれるとなれば、怖くない。

癒してる風の風を吹かすくせして、結局癒されてるの私じゃんと思う。

今回私に聞いてきた人は、自分のことが全くわかっていないようで、心はすごい重症患者みたくなっている。

私がその人に人生の早い時期に出逢わなければ、今頃すごいやさぐれた大人になっていたと思う。

そのやさぐれそうな、ただでさえ若干面倒なところがある私がひねくれずに真っ直ぐここまで来れたのは、その人の功労がかなり大きい。

だからそこをきちんと私の言葉で伝えようと思った。

今だから伝えられる言葉がある。

その人が私にしてくれたことを、そっくりそのまま言葉に置き換えて伝えるだけでいい。

嘘をつくことや言葉を盛ることをしなくていい。

変な根回しもいらないし、「こんな言い方したらどう思われるかな?」なんていう心配もいらない。

そういう意味で相手に絶大な信頼を置いてるから、普段の私ならごちゃごちゃと考えるようなことをしなくて良くなる。

真っ直ぐ伝える。

自分の言葉で話す。

当たり前だけど、「なんて楽なんだろうーーーー」と感動を覚える。

そして、そういう真っ直ぐな自分の言葉が、一番相手に伝わる気がする。

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