2018年9月30日日曜日

鈴虫の音の世界

さっき初めて知ったこと。

鈴虫の鳴き声を録音して、その再生速度をゆっくりにすると、鈴虫の鳴き声がまるで賛美歌のようなゴスペルのような音源に変わるというもの。

https://m.youtube.com/watch?v=of90IEoE-IM
(リンクには飛ばないので、コピペして視聴してみてください。1分強程度です)

どちらも同じ鈴虫の鳴き声だけれど、条件を変えると音質が変わる。

普通に耳に届く音とは違う音が、実は内在しているという。

私がこの音源を聴いて真っ先に思い浮かんだシーンは駐車場だった。

最近の18時少し前は確実に暗い。

車なら小さいランプは点けないといけないぐらい。

あの日は17:40を確実に回ってた。

その時間を見て、探しに行って最後挨拶しようと決めたから、時間は間違えてない。

天気は良かったと記憶している。

にしても、私は最後に見納めと思って見た車の色が何色かもきちんと見えていた。

その日が晴れていたからそこまで暗くなかったのかもしれない。

もしくは、記憶違いを起こしているか、もしくは記憶によって重ねられた像を見ている気になったのか、その辺りはわからない。

だけど、見納めだと思って、いつも通る道をゆっくり進みながら体の向きを変えて振り返って車を見た。

鈴虫の鳴き声のゆっくりバージョンを聴いて、その駐車場が出てきて、そして色んなことたちが繋がり出した。

駐車場はじめ色んなシーンたちは、鈴虫の鳴き声をゆっくりした時同様、そこだけ時の流れがゆっくりになる。

スローモーションみたいな感じ。

その時その時はすごい速さで過ぎ去っていくけれど、ひとつひとつがスローモーションのように記憶に残る。

スローモーションになるぐらい、ひとつひとつのシーンが印象的で何か私に訴えるものがあったんだと思う。

心の目で見ると見える風景みたいな感じ。

反応してるのは私自身だけれど、細胞とかミクロの単位にまで行き届く何かが常にあった。

表面上で交わしてることは小さい。

それでも記憶に鮮明に残る。

あの最後の駐車場で見た車があんなにも日中に見たかのような色彩を持つように。

賛美歌と化した鈴虫の鳴き声が聞こえるのは、通常の聴力では無理だから機械的な操作を加えて速さを変えてそれで人間の耳にも聴こえるようにしている。

これは心理の勉強をした時に習ったことだけれど、人間の体は普段持っている力のほとんどを使わずに生きている。

火事場の馬鹿力というのは、危機を感じたり何か猛烈に細胞が呼び起こされる場面を前にすると出てくる。

だからあの表現は本当にその通りだと感じる。

それを証明する簡単な実験もあって、私もやったし何十回と色んな人たちに紹介して直接してもらったけれど、みんな驚く。

驚くのは、自分の持ってる力の方に。

その本来持ち合わせている力の部分で私はその人がいた色んな風景を記憶した。

スローモーションのシーンたちは、私の中の細胞ひとつひとつに呼びかけるように起こっていて、私はそれらを強烈に記憶に刻んだ。

テスト前に社会でも理科でも用語をどんなに覚えようとしても次から次へと抜け落ちる感じとは全く違っていて、それらのスローモーションたちは力なんか全く要らず、絶対に忘れないようにしよう!なんて気負いもなく、気付けばガッツリと記憶に残った。

努力ゼロでそれだけの効果があった。

ということは、それだけのインパクトを私の体や心は感じていたんだと思う。

頭で計算や計画なんかできなかったぐらいに全ては起こるようにして起こって、そして私に奇跡を見せてくれた、そう思っている。

ちなみに鈴虫の鳴き声を紹介した方によると、通常の知覚だけでその壮大かつ深遠な情報にたどり着くのは難しいけれど、私たち人間がそれを知覚できるように、「なんとなく」感じた風に感動したり、朝日や夕日を見て心打たれたり、はたまたきれいな花や景色を見て心が奪われたり、そういうことが突破口となってそうしたものに行き着けるとあった。

十分な説明だった。

当時の私は、全てに感動を覚えていた。

普段心なんてどこにあるかもわからないし、感じられるものじゃない。

だけど、その人がいた空間やその人の何かがある空間にいると、私は確実に反応していた。

見えない心がものすごくはっきりと私の中で猛烈にアピールしていた。

普段そんな感覚にならないから、だから私は最初「変」だと思った。

他には絶対に経験し得ない感覚だったから「変」としか言いようがなかった。

20代の頃、韓流ドラマの流行が始まった時(『冬のソナタ』ブームの時)、職場のおばちゃん年齢域の人たち数人が、ものすごくキャーキャー言いながらその話をしていた。

ものすごく失礼な話だけれど、トキメキがなくなるとああいうのにハマるのかと思ってた。

結婚してても旦那の話はほとんど出てこないし、出てくるとガチな不平不満だし、熟年離婚とかいう言葉が流行ったその世代に近いこともあって、女の人はトキメキがないとヨン様とかアイドルにハマるのかもしれないと思った。

だから私は最初自分も、トキメキがない生活の中で変に盛り上がってるだけなのかと思っていた。

あのおばちゃん年齢域の女性たちが冬のソナタの話で胸を震わせてたあれと何ら変わらない気がした。

ちなみに私も当時話題についていくために、そして男性からあれはすごい純愛物語だからというご推薦もあって、見たことがあった(途中まで)。

見ていてドキドキする(笑)。

おばちゃん年齢域の女性たちがキャーキャー言うのもわかった。

それと同じかとすごいくくり方をしていた。

でも、そうじゃなかった。

何回もしたわけではないけれど、私はとりあえず同じシーンを人を入れ替えて自分がどういう気持ちになるのかの実験をしたことがある。

最初は、無視された時のシーンでやってみた。

とりあえず平等を期すために、職場内の人たちにして、同じことをされたとしたら…という設定を想像した。

その人の後輩だった場合、怒りが湧くと気付いた。

私が仕事上で一番やり取りした人なら、私は自分のタイミングの悪さをまずは詫びて出直しを図るとわかった。

その人なら、私は本気でごめんなさいと真っ先に謝ってるその感じまで容易に想像できた。

もしその人が私を無視するように対応したとしても、それならそうで自分の非を真っ先に疑うことと相手のタイミングが違ってたことを冷静に感じただろうなぁと思った。

多少は気になっても、心がズタズタになることはなかった、それは断言できる。

だから、現実に味わった感情を私から引き出せたのは、当の本人以外誰もいなかったとわかった。

あと、一人で胸キュンキュンさせた時のシーン。

あれは過去の歴史からキュンキュンしたストーリーと比べた。

ちなみに過去のキュンキュンストーリーはこうだった。

その日、仲間内で宅飲みをすることになった。

誰かの家じゃなくて共同スペースでの開催だったから、買い出しを一からしないとだった。

みんなで近くのスーパーに出かけて買物が終わる頃、Kくんが合流した。

バリバリ体育会系のKくん、女の子大好き!って公言するわ、下ネタバンバン言うわ、私に女の子超連れ込んでるでしょ?と聞かれて「バレた⁉︎」と笑いながら即答するわの、ある意味とても素直で真っ直ぐな人だった。

私よりも何歳か下で、弟みたいな感じだった。

体育会系で鍛えられたこともあって、女の人に荷物を持たせるのはご法度のようだった。

だけど、直で合流したKくんは自分の荷物をかなり持っていて、私は手ぶらで来ていた。

その状況でKくんが持つのはおかしいと私は思って、Kくんが持つよと言ってくれたけれど、大丈夫だよと言って私は適当な買物袋を持った。

そのまま並んで歩いた。

途中でKくんは何も言わず、歩きながら突然私の持ってる買物袋をさらりと自分の方に持って行った。

普通に喋っているのに何この神業みたいなスマートさ!と思った。

さすがにそこまでされて私が持つよとはならなかった。

ありがとうと言って、Kくんの行為に素直に甘えることにした。

前置きが長くなったけれど、Kくんにそんなことされても、たしかに行為そのものはトキメキみたいな感じはあっても、Kくんに気持ちがいくとかもっと仲を深めたいとか、そんな風には一切ならなかった。

その時と重ねて比較するのもおかしな話ではあるけれど、それでわかった。

その人だから私はものすごい反応したということ。

そしてもう一つ。

さっき同様、その人がしてくれたことと同じことを職場の他の人たちがしてくれたとしたなら…。

Kくんとのエピソードのように記憶に残ったとは思うけれど、感情までもが動くことは絶対になかった。

その人の場合、具体的な行動に意味があったのではなく、その人そのものに意味があったから、行動の方は私が気付くための伏線のようなものだった。

例えば、単に名前を呼ばれたとして、そんなことだけで相手の存在感に気付けるほど私の自分の心の感度は高くない。

その人を意識に上らせるぐらいのパフォーマンスがないと多分気付けない。

だからあの日の出来事があったんじゃないかと思っている。

それって元をただすと、自分自身が元々持って生まれたスイッチなんだと思う。

私自身は元々鈍いところがある。

そしてホロスコープにも出ていたけれど、異性同性問わずに友達になるタイプで、性を超えた友達というのも普通にあるという考えの持ち主なのまで出ていた。

実際に本当にそうで、私は何人かの男の人たちから誉められた?ことがある。

私は飲んだりとか一対一で会う時に変に絡むこともしなければ媚を売ることもない、差別的にものを見たりもしないから(「浮気なんて絶対に許せない!」「男の浮気は言語道断!」みたいな貞操観念とかがゼロではないけれど普通よりもかなり低い)、話しやすいし付き合いやすいと。

友達とそうではない人との線引きを私はものすごくはっきりと引くから、そして絶対に自分から男の人をタッチしたり女を出して何か甘えるとかもしないしできないから、そういう意味で付き合いやすいんだと思う。

だからそういう私が「この人だよ」とわかるには、その普段の感覚と違わなければ気付きようがないし、じゃあそれって何なの?ってなった時に風を感じて穏やかになったり、花を見てきれいと見惚れる感覚とか、そうした自然に沸いて出てくる気持ち×100倍のインパクトがないと気付けない。

自然に沸いて出るものは、「この花はきれいだと思うことにしよう!」と計画してそうなるわけじゃない。

何もしてないところに心が勝手に奪われる。

そしてその感覚は、どんなに技術が発展しても私に勝手に付け足すことはできない。

生まれた時にいつかそういう人が目の前に現れたらわかるように元々持っていたもの、そう思う方がしっくりとくる。

スイッチは持っていたんだと思う。

人生の計画そのものに含まれていたとするなら、そのスイッチを持って生まれたとさえ私は思っている。

そのスイッチは本当に有能で、その人以外には反応しないようになっていた。

だって間違って誤作動したなら、今頃私は全く違う人生を歩んでいたことになるから。

なんならその人と人生で交わることもなかったと思う。

そのスイッチはその時まできちんと水面下では準備されていて、そして全部の条件が整ったその時に発動した、そう考える方が何もかも自然な気がしている。

私は自分の過去の経験値と世の中に出回ってる情報とを重ねて、その感覚を「変」としたけれども、そうではなかった、とこの1年ぐらいをかけて知るようになった。

鈴虫の鳴き声と同じ原理が働いていて、それをスローモーション再生をするとその全容を知れるようになっていた。

今思えば、当時はスピリチュアルな情報の全てから遠ざかっていた。

唯一の見えない世界との繋がりはペンジュラムだけだった。

しかも今ほどの精密さになんて達してなかったから、例えば今の精度が100なら当時は40ぐらいでしかなかった。

ある意味余計な情報も知識もなく、日々の生活に目一杯だった。

だからこそ、スイッチが自然に入るための環境が整っていた。

不慣れな仕事のおかげで、意識という意識はそちらに向かっていたし、時々疲れて仕事終わりに1人でボーッとする時間を過ごすことはあってもその程度でしかなかった。

加えて、私の当時の鈍感さは普段以上に上がっていた。

ある意味余計な混ざり物がなく、私の中の純度はものすごく高かった。

純度というのは、私が私であることの純度や、私が感じる私自身の気持ちに対しての純度。

それがものすごく高かった。

だから、自分の気持ちに素直に反応できる状態は静かに調えられていた。

反応してもその後思考とかがガンガン働いてなかなか認められずにいたけれど、それでも反応は素直に起こっていた。

スイッチが入ったことで、ようやく私も存在に気付いた。

これを言うと周りの人からあまり理解されないけれど、私は自分のことに忙しいと大真面目に周りが見えなくなる。

人でさえも景色と化す。

下手すると、呼ばれても気付いてないらしい(私は「今呼ばれた」と思っているけれど、相手から何回も呼んでたのに聞こえなかったの?と言われたことが時々ある)。

だけど、スイッチが入ったことで、きちんと見えるようになった。

私の世界の中にその人が現れて、その人は私にとって特別な意味のある人ですよ、ということを意識の上で初めて知った瞬間でもあった。

記憶力の曖昧な私がこれほどまでに細かく覚えているのは、鈴虫の鳴き声の原理と一緒だと思っている。

鈴虫は普通にあの単調な鳴き声だけのようにしか聞こえないけれど、実は同じ時に賛美歌のような荘厳な声も響かせている。

そこに人間の意識が合っていないだけで、実在はしている。

ありの足音が人間の耳に届かないのと一緒だと思う。

でもありは歩いているし、人間同様足音を持っている。

その人との出逢いもそうで、最初は鈴虫の単調な鳴き声でしかなかった。

無意識のところではもっときちんとキャッチできていたけれど、意識に上がってきたのはもっと表面的なことだけ。

だけど、ある瞬間を境に私は単調な鳴き声だけではなく奥の深いところの響きに気付けるようになった。

だから、鈴虫の鳴き声の音源を聴いて、駐車場のシーンから他の様々なシーンまで一気に繋がったんだと思う。

そういうものを回帰させるものがその音源には含まれていたと思うから。

この続きとは違うけれど、振り返りノートはまたおいおい綴っていこうと心のスケジュール帳の中で計画している。

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