2018年6月24日日曜日

池袋の朝

池袋駅前の朝6時は猛烈に楽しい場所だった。

老若男女問わず、色んな人たちが行き交っていた。

私は朝早くから開いているカフェでモーニングをしてた。

予定では、そこで日記を書いたりホロスコープの動画を見たりするつもりだったけれど、それらの手は止まって気付くと人間観察にいそしんでた。

学者のような雰囲気を携えていた紳士のグループ。

朝からパソコンで資料を作っているスーツのサラリーマン。

とても綺麗で高価そうな宝石や衣服を身にまとっている上品なマダム。

英語圏の白人ボーイと日本人の男女の若者の3人組。

2つのテーブルをくっつけて競馬新聞を広げて鉛筆持ってるおじさん。

日本に旅行に来たと思われる大きなスーツケースをゴロゴロ動かしてやって来たアジア人女性2人組。

窓の外を見れば、これまた池袋はカオスだった。

学生か社会人になりたてのカップルが駅前で別れる。

大きなリュックを背負った欧米系の背が高くて恰幅の良い外国人数人の団体が通り過ぎる。

子どもを自転車の後ろに乗せて出勤前に保育園に預けに行くだろうサラリーマンのパパ。

スーツ姿のベビーカーをものすごい速さで押しているママ。

蛍光の派手な制服を着た町の美化のごみ拾いをしているおじさん。

ぱっと見何が入っているのかわからない大きな荷物を抱えた学生風の子。

仕事が終わってこれから帰路に向かう風のホスト。

私は飽きることなく駅前を行き交う人たちを見ていた。

ふと、その人たちの生まれたての姿を想像した。

今でこそみんな十人十色で外見も身にまとっている服も髪型も化粧もカバンも全く違っている。

でも生まれた時は、だいたい身長は50㎝ほどで体重は3000gほど。

そして裸んぼで何も手にせずにこの世に誕生する。

本当に身1つでこの世界にやってくる。

そしてどんな外見や背格好になるのか、それは努力とかせずとも決まった形になる。

体重は色々変動しても、背の高さや目の色、肌の色、髪の毛なんかはそれぞれが生まれ持ったDNAの通りになる。
(体重差、下から上まで25㎏の幅を体験した私は、体重というのは安定しないものだと思ってる。私は自分の適正体重がよくわからないけれど、多分今からあと10㎏ほど少ないとベストに程近いのかなと思う。ちなみに今はMAXの頃より5〜6㎏少ないぐらいでまだまだ太ってる)

本当にそれぞれの人がそれぞれの人生を生きるのに相応しい外見に生まれついているのだろうなと思った。

ホロスコープ鑑定を初めて受けた時、私と同じ配置の星の位置で生まれるには26000年の時を経ないと同じにならない、ということを教えてもらった。

それはすなわに私たち1人1人が唯一無二であることを示している。

双子でさえ、時間差で生まれるから、たとえ一卵性双生児でもそれぞれ違うものを持って生まれてくる。

塾の仕事の時、一卵性双生児の男の子2人を見た。

最初はどっちがどっちかわからなかったけれど、やっぱり長く付き合うとそれぞれが違うとわかる。

性格も似てるところもあるけれど、違うところもある。

同じ話をしても、2人のリアクションは異なる。

すごい当たり前のことだけれど、それぞれが別の人格を持った人間だとわかる。

ホロスコープの講座が終わった後、念願の銀座三越に行ってきた。

池袋のカオスっぷりを知ったがゆえ、銀座三越の画一的な雰囲気は全く面白みがなかった。

店員や客の表情や立ち居振る舞いを見ていたけれど、みんな仮面をかぶってるみたいだった。

先に個性という枠を作って、そこに自分を当てはめてるみたいな、そんな感じを感じてしまった。

銀座三越のブランドに相応しい自分を作る、そんな不一致感みたいなのが見え隠れしていた。

朝の池袋は、時間が早いこともあって、みんな日常の一部の中にいた。

旅行者もいたけれど、それは非日常に身を置いてるその人自身みたいな感じで、無理して自分を作ってる風ではなかった。

その日の朝、ホロスコープの動画を見ていた時、1つとして一瞬として同じものがないことに気付いた。

私はずっと同じ場所に3時間半ほどいたけれど、お客さんは常に入れ替わっていたし、道行く人はいつも一瞬のうちにどこかに消えていった。

1分として同じものはなかった。

私だってそこにずっといても、朝バーガーなるものを食べてた時もあれば、店内の人間観察をしてた時もあれば、ホロスコープの動画を見てた時もあった。

ふと、こんな風に自分が普段の生活域を離れて違う土地にいる時、人と人とが出逢うってすごいことだなと思った。

池袋駅前の人の数と言ったらなかったけれども、そんなにもたくさんの人が行き交っていても誰も知ってる人がいない。

たとえ単に職場で挨拶する程度の仲でさえ、こんなにもたくさんの人たちがいる世の中で互いに知り合える貴重な機会なんだと知る。

さらに本当に友達とか恋人とか配偶者とか、そうした特別な仲になれる人となるともっと限られてくる。

ご縁の世界の話になる。

私が人生で知り合った人たちは、あの日何千人と行き来のあった人の中にはいない。

みんなそれぞれの土地にそれぞれ住んでいる。

不思議な気分だった。

出逢う人たちと「じゃあ○年○月○日に、△△という場所で待ち合わせてお互いに会いましょう」としてるわけでは一切ないのに、きちんと出逢うべくして出逢う。

約束してなくても、その日その時その場にお互いにどういう因果か居合わせて知り合う。

だから出逢いってすごいと思う。

これからますますロボットが身近に参入して、技術が発展して、もっと色んなことを数値化できたとしても、出逢いについての計算は絶対にできない。

その中でさらに縁を紡ぐ人となったら、それどんな奇跡ですか?と思う。

だって縁は自分1人では紡げない。

相手も私と紡ぎたいと意志を持ってくれないと、縁を結べない。

私は20代の頃、周りの大人たちが「ご縁があったんだね」と言う言葉がいちいち大袈裟に聞こえていて、何でみんなそうやって言うのか不思議でならなかった。

今はその言葉の意味がものすごくよくわかる。

本当に縁がないと、繋がれないから。

どんなに自分が望んでどんなに努力してもそんなの関係なくて、繋がれないものは繋がれない、以上。

多分私が人生で一番自分でもどうにもできないと感じるのはこのことだと思う。

繋がりたくても繋がれない。

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