2018年6月16日土曜日

ブログ休止の裏側で

今回ブログを一旦リセットして良かった。

アップしてないだけで実際にはこうして書いてはいたけれど、それでもアップするのをあえて止めて良かった。

毎日アップするのは全く負担でも何でもなかったけれど、心の中のものすごーい奥の方が違和感を訴え出した。

ブログアップ云々ではなく、心の在り方に、表現することと自分の心の中とに不一致な部分がいつの間にか生まれてた。

書いてることに嘘はなくても、書いていない隠してる部分があった。

その隠してる部分をこのまま隠し続けることに、結局は違和感を覚えた。

私は当初その隠してる部分はずっと隠すつもりでいた。

そんなのいちいち公にする必要はないと判断したのと、私が隠してる色んなことは賛否両論あるしにわか信じがたい話でもある。

そんなのは自分の中だけに留めるのが正解に見えたし、私もそれを隠したままでも全く問題なかった。

結局ひょんな形でこのままだと自分が苦しくなるとわかって、このリセット期間にあれこれ書くことになったけれど、結果そういう自分も出していくと決断できて良かったと思う。

別記事に書くけれど、私の体質的なものは元々あった。

記憶にある限り、30代でスタートしたことだった。

最初は少しずつだったし、その少しも全く気にならなかった。

しかも隠しながら生活するのは何てことなかったし、ごく一部の人だけが知ってるので問題なかった。

去年の12月に自分の本音で表現したいと思った時も、今みたいな気持ちとは違ってた。

単に表現の部分だけ、自分の本音で表現したい、そんな風だった。

ここに来て大きく変化したことは、その自分の体質的なものも大きく変化して、それを隠すのがちょっと大変になってきたというのが大きい。

体質的なものは別に大変じゃない。

私の場合、徐々に出てきたことと、そしてその若干特殊なものに関しては「他の人に使うために与えられてるもの」という認識が強いから、それを大変なこととして受け止めては全くいない。

むしろそれ私でいいの?とさえ思ってる。

他にもっと適任者いるんじゃない?って。

まぁそれはそうと別に不思議はない。

だけど、そういう状態が日常化してるし、普通に起きてる間の意識の一部でもある。

それを隠し続けるのは、すごく苦しくなってきた。

賛否両論を呼ぶとか、信じてもらえないとかいうのは二の次の話で、まずは自分をそのまま外に出す、そのことの方が大事だった。

だから隠すのを止めよう、と思った。

最初は、もうブログをしばらく止めたいぐらいに全部が嫌になった。

色々もどかしかった。

私は最初それはある人からのリアクションがないのが嫌だ、とそう思ってた。

でもそれが本当の気持ちではなかった。

それもそうだったけれど、それ以上に自分を隠し続けるのに限界があった。

自分を偽ってはいない。

けれど、半分自分で、残りの半分は隠遁生活を送るかごとく表には出さない。

そこがもう違和感になるぐらいまで膨れ上がってた。

そしてそれが一気に弾けて、今回のかなり短くはあったけれど、ブログの休止に繋がった。

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