2018年6月19日火曜日

繋がり続けるもの

地震だけを切り取って見ると良いことにはならないけれど、こういう時、人と人とを繋ぐ。

昨日(6月18日)大阪に住んでるかもしれない友達にも大丈夫?と連絡した。

かもしれないと言うのは、いつもどこにいるのかわからない友達で、でも自分のホームベースは大阪だから、それでいるのかな?と思いつつ連絡した。

確実なのはFacebookだったから、久しぶりにFacebook開いて、彼女を友達リストから探してメッセンジャー通じて連絡した。

見たら誕生日で、安否確認と誕生日おめでとうと送った。

返事は一ミリも期待していなかったけれど、なんと返事がきて今はその2回か3回遊びに行かせてもらった大阪の家にいるとのこと。

来年また海外に出ることを考えてると言ってたから、今たまたま日本にいるんだなとわかった。

この友達はシングルマザーをしてる。

ちなみにこんなにパワフルなシングルマザーは見たことがない。

子どものこともとても大切にしているけれど、彼女は常に自分の人生を見ている。

生きることに絶対に妥協しないし、自分のしたいことに対して貪欲に追い求める。

「自分の好きなことしかできない」と言い切る子で、それは昔も今も変わらない。

母親もキャリアウーマンもしてるけど、その前に自分自身であることをまずは軸にしている。

その自分の中に母の自分も、三姉妹長女の自分も、今の研究職の自分も、大阪在住の自分もいる、そんな風になってる。

関係ないけれど、今日曜の夜の9時からしているドラマ『ブラックペアン』の話、あれは架空でもあそこに描かれている世界は今も普通にあることらしい。

彼女は論文を書いたりもするけれど、自分も盗作されたし、彼女いわく論文や研究に関しての盗作について、去年初めて日本でもハーバード大学の何とか(←聞き慣れない専門用語)という基準が採用されてようやく盗作についての職業倫理みたいなのが導入されたらしい。(導入の前段階かも)

海外ではあり得ないし盗作についてとても恥ずかしいことだという価値観が浸透してるけれど、日本はそうじゃなくて、何かいいものを見つけたらそれをまるで自分の手柄のごとくアイディアを盗んだり論文を盗作したりなんてのは日常茶飯事らしい。

欧米では「自分がどう考えるか」に重きがあって、他の人のアイディアをベースにしても仕方ないという文化が根付いている。

反対に日本では、自分を押し出すために人のものを盗ってまで自分をアピールしたり、あたかも自分のアイディアのように言って平然としてたりして、中国の何でも真似する文化とそう大差ないとまで言っていた。

これにはすごく驚いた。

来年元号変わるんだよ⁉︎何その明治時代みたいな体質⁉︎と私が言ったら、ぶっしー、それが日本だよ、と返ってきた。

彼女とは色んな話をしたけれど、何が面白かったって、知らぬうちに彼女はスピリチュアルなものにも興味を示すようになってた。

だから私が今興味あることにも興味を持ってくれたし、彼女自身の体験や経験も色々話してくれた。

その中ですごく印象に残ったのは、そういうことにも興味があるけれどやっぱり生きているのは今の現実だから、それをいかに生きれるか、そこにしか私は興味がない、と彼女は言い切ってた。

私はその子がシングルになった時の経緯とか、その直後にそれこそ大阪で会ってもいたから、感慨深いものを感じた。

私は今でも覚えている。

あれがどの駅前のマクド(←関西人は本当に「マック」と言わず「マクド」と言う)か全く土地勘がないからわからないけれど、もう1人の友達と3人で別れる前に話そうということで、その時確実に遅くまで開いてたそのマクドに立ち寄った。

その子の子どもはまだ生後数ヶ月でベビーカーの中でスヤスヤと眠ってた。

その子が今の状況になるまでのことを淡々と話し始めた。

何百人の人の話を聞いても、それがどんなに悲しくて恐ろしいものでも、私の場合、話を聞いててもほとんど感情が動かない。

話は真剣に聞くし、相手の心情も想像することはできる。

でも本当に不思議と自分の気持ちはさほど動かない。

だけどその時は違った。

目をうるっとさせながら、震えそうになりながら、声を喉の奥の方から絞り出すようにしてその子に言った。

「Kちゃんが生きていて良かった」

とんでもない修羅場をくぐって、子どもと彼女は生き延びた。

本気のサバイバーだった。

その夜マクドで小さな子どもがベビーカーの中でスヤスヤと眠る横で、その子が語った全ては、もう生きてることが本気で奇跡だとしか言いようのないものだった。

スヤスヤと眠る赤ん坊を見て、この平和に満ちた時間がとてつもない奇跡の上に成り立っていることがものすごくよくわかった。

細かな言葉とかは忘れたけれど、あの時に感じたことは今でもはっきりと覚えている。

最初に知り合った日のこともよく覚えているし(とても強烈で私は絶対に仲良くなれないタイプだと思ったから)、その後も色んな時間を共有したこともところどころ覚えている。

その子が言ってくれた。

「ねぇ、ぶっしーにはみんなこういう話をするでしょう?MもCもみんな自分のことも話すでしょう?」

言われてみたら、確かに私はその3人のどの人とも「人生」について「仕事」について「自分」について「恋愛・結婚」についてあれこれ話をする。

逆に言えば、そこしか共通の話題がないから、だからいつ会う時もそんな話になる。

周りはみんなすごい雲の上の人みたく、とんでもないキャリアの持ち主だから、今なら絶対に知り合えない、住む世界が違いすぎて 笑。

私と長く友達でいてくれる人たちは、本当に素晴らしい人たちだと思う。

私がその人たちに提供できることはキャリアの面で言ったら何もない。

出逢った頃はみんなそんなすごいキャリアを積むもっと前だったから、まさかそんな大化けするとは全く予想だにしていなかった(してもおかしくないすごい能力を個々に秘めていたけれど、想像以上の大化けだった)。

しかも私の30代は「混沌」がテーマのごとく、とりあえず食べるために派遣とか、引きこもりとか、もう皆の輝かしい道からは真逆のところにいたから、そんな風でも私と変わらずに友達でいてくれた貴重な人たちだ。

それはそうと、別に今会っても、その混沌として社会から脱落してた時も、出逢った頃や近くにいた時と何ら変わらない。

人間同士の会話をするだけ。

でもKちゃんが言ってくれた。

「それ、ぶっしーだからみんな話すんだよ、自分のこと。
ぶっしーは何を言っても変わらないし、ずっと同じスタンスなんだよ。
いつも真っ直ぐで、そして変な世間の価値観に合わせて物を見てなくて、ぶっしー独自の感覚で話を聞いたりしたりするでしょ?
今だって、2、3年ぶりって感じが全くしないもん。
ぶっしーはそれができる人で、みんなそれを肌で感じてるから話すんだよ、色々と。
人に言えないようなことも話すんだよ」

Kちゃんにお礼を言った。

すごく嬉しい言葉で最高の褒め言葉だった。

「そしてぶっしーの話すことは、すごい現実的でありながら見る視点が全然違うんだよ。
スピリチュアルなことを知ってても、言うことは自分自身のこれまでの経験や会ってきた人たちを見て感じたこと聞いたことをベースにしてるから、だからすごい伝わってくる。
スピリチュアル特有のふわふわした感じはなくて、本当に自分の感じたままの経験から話を組み立てているよね」

そしてKちゃんは何回か私に言った。

「ぶっしーの魂は、ぶっしー自身は、すごくピュアなんだよ!
それって今の日本では本当にレアだよ!」

どの言葉も嬉しかった。

「ねぇところでぶっしー、最近誰か好きになった?」

Kちゃんは私に聞いてきた。

「そういう人に出逢えたよ、何もなかったけれど」
と答えた。

「どんな?どんな?」

少し私の心の内を言うと、こういう質問の時、私は少しだけ困る。

「好きな人」という言葉は、コミュニケーションを図る上で「共通言語」としてお互いにわかりやすくするために使うのは全然ありだし、それでいいと思ってる。

だけど、私はその人のことが「好きか」と問われると、正直どう答えていいかわからない。

まさか質問の時に「好きかどうかはわからなくて、正直どう答えていいかわからない人いる?」なんて聞く人、絶対にいないから。

だから「誰か好きになった?」は至極真っ当な質問だと思う。

だけど、私は素直にその人を好きと言えない。

未だに何を言ってるのかと自分でも思うけれど、わからなかった。

異性として好きと言えばその気持ちもないわけじゃなかった。

だけど、それは全部では決してなくて、色んな気持ちがある中の一部で、そしてそれ以外の部分がとんでもなく大きかったし、そのそれ以外の部分は私には言葉では説明のできない感覚だった。

「去年の今頃出逢った人だったよ。近くにいられたのは本当に少しの間で、何もなく終わってしまった。
『何も話したことがない』と言ってもいいぐらいに個人的な話なんかしたことない人だったけれど、それでもどうしようもなく惹かれた人だった」
と説明した。
(他にも説明したけれど、もう何を言ったかは忘れた)

Kちゃんはどの部分がツボだったのかわからないけれど、電話の向こうで「ぶっしー面白すぎる‼︎」と言って大笑いしてた。

「この話が最高の誕生日プレゼントだよ!ぶっしーありがとう!」
とまで言われた。

「私も変だと思ってる。ちょっと変じゃなくて、すごく変だと思ってる。だって話したこともない人を、それもじゃあ外見とか仕事とかその人の持ってるものとか、そんなのも全く興味がなくて、なのに気になって気になって仕方ないって何なの?と思ってた。今でも思ってる」

「今でもその人のこと好きなの?」

「これもおかしな話だけど、その人のことを気になってから今日に至るまで、本人が近くにいるいないに関係なく、ずっといる、そういう感じ」

「それってすごいことだよね」

「私は今でも自分の気持ちや思ってることをどう表現していいのかわからない。
だけど、その人がいなくなるとわかった時、私は死ぬんじゃないかと思うぐらいのすごい気持ちが動いたし、そんなのこれまで誰にも感じたことはなかったし、そして話したことないのに『伝えなきゃ!この人に伝えなきゃ!』って思って、何を伝えなきゃなのかもわからないのに私は10数枚もの長い手紙を書いたんだよ。
もう常軌を逸してるでしょ?」

「ぶっしーわかるよ。それぐらい気持ちが動いたってことでしょ?
ちょっと違うけれど、私が○○くんに出逢った時、『この人の子どもが欲しい』ってそれはすぐに思った。
それって本能的なもので、もう頭とかで考えて出せる答えじゃないんだよ。
本当にそうしたい、ただそれだけだった」

「それに近いと思う。
私の場合、子どもが欲しいとかではなくて、なんかもうどうにもならないぐらい惹きつけられて、自分じゃそういう気持ちになる予定もなければ、そんなのコントロールもできなかった。
もう気付いたらそうで、自分でも本気でどうしていいかわからんかった。
唯一わかったことは、自分の気持ちだけだった。
自分でそうしようと思ってそうなってるんじゃなくて、そういう人が目の前に現れた、そしてそれは自分でもコントロールできないものが外から勝手にもたらされた、そして気付いたら私の中でそういうものが勝手に湧いてた、そんな風だった」

Kちゃんには電話の最初の方でペンジュラムの話をしてたから、2月にホロスコープを受けたら、その人は魂的なご縁の人でペンジュラムを使ってた時の過去世の時に近くにいた人じゃないかと言われた話もした。

その上で付け加えた。

「でも、ぶっちゃっけそんなのわからないし、もしそうじゃなかったとしても、私の中ではとにかくすごく惹かれてとてつもなく気になった人には変わりない。
そして、私をそんな気持ちにさせる人に出逢えるのって、どれぐらいの確率なのかなと思う。
だってそういう人、探したら出逢えるわけじゃないし、出逢おうと思って出逢えるわけじゃない。
Kちゃんがその人の子どもが欲しいと感じたように、誰でも良かったわけじゃないのと一緒だと思う。
だって、誰でも良ければ、『男』の人を見たらそれでいいわけじゃん」

「そうだよね〜。
そもそもそんな人ってなかなか出逢えないんだよ!
この人いいな〜なんて感じる人もあんまりいないけれど、それに加えて『この人の子どもを産みたい』なんて本当にないからね!
あんなの本当に本能だよ。
もう言葉じゃ絶対に言い表せない!」

他にも私たちは、自分の居場所だとか、孤独だとか、内にこもって自分の内面を見つめるとか、まぁ色々延々と話してた。

そう言えば今何時なんだろう?と気になって時計を見たら1時を指そうとしてた。

「ねぇ、1時になるって知ってた?」

「寝よう寝よう!私さっき布団の中に入ったから。
じゃあまた今度ね!
今年は同窓会しようよ!
しなきゃね!」

お互いにありがとうとおやすみを言って、そしてKちゃんにはもう一度おめでとうを言って電話を切った。

昨日の大阪を中心とした地震は、私と人とを繋いでくれた。

そしてKちゃんから、大切な時間をプレゼントしてもらった。

0 件のコメント:

コメントを投稿